一晩だけ、その二人に屋根裏部屋を貸してやった。そのことは当然ママも承知している。屋根裏部屋にはこのところ谷口が寝泊りしていて、二人の男は明け方帰って行ったそうだ。
密告《サ》したわけでもないし、積極的に協力したわけでもない。しかし、店の構造が法規に触れているし、毎晩のように時間外営業になってしまうし、刑事の言うことをきかないわけには行かなかった。
その仕返し……。
ママにも私にも、そうして志村にも、そのことが頭にあるのだった。
「そんなわけはない。大げさすぎるよ」
私は首を振って言った。
「いくら何でも銃で射つなんて大げさすぎる。夕方まだ客が来ないくらいの時間に暴れ込んで来て、棚の酒瓶《さかびん》を根こそぎぶち割るくらいが相場だよ」
「そうだろうなあ」
志村はつぶやいた。
「それよりな」
私は不吉な考えを追い払うために話題を変えた。
「困ってるんだ」
「何をですか」
「金だよ」
「ああ」
志村は頷《うなず》いた。
「ママにしたって、全面的に谷口の面倒を見てやれるものじゃない。何しろ入ったばかりだからな。それも俺が強引に入れてしまった人間だ。被害者と言っても、交通事故じゃないからどこからも補償金なんか出やしないし」
「谷やんの家族は……」
「いねえんだよ」
「いない……」
「うん。幼馴染《おさななじみ》だからよく知ってる。あいつは孤児だったんだ」
「参ったな、それは。いい人なのに」
「うん、あいつはいい奴《やつ》だ。でも運の悪い男だよ。お袋さんと二人きりだったんだが、お袋さんは空襲でやられて……ややこしい育ちかたをしてるのさ」
おばさんが私の前へ海苔茶漬の器《うつわ》を運んで来た。
7
三条を出た私は、志村と一緒に店へ戻り、早じまいをした店内を点検してまわってから、鍵《かぎ》をかけて店の前で別れた。時間は十一時を少し過ぎていた。
何はともあれ、谷口の病院の費用を算段しなければ気分が落着かなかった。
また質屋か。……毎度のことで慣れ切っている筈《はず》なのに、やはり気が重かった。それに、質屋では大した金額になるわけもない。だが、私の頭には光子の部屋にある新品のテレビが泛《うか》んで消えなかった。新しいものが好きな光子が無理算段をしてついこの間手に入れた、八インチのカラーテレビだった。
角筈《つのはず》の通りへ出た私は、都電の営業所の入口のところにある公衆電話で、まだ店にいる筈の光子を呼び出した。
「はい、ローズでございます」
張りのある男の声が出た。
「光子さんをお願いします」
客のように思わせるため、幾分ぞんざいな言い方をした。
「はい、少々お待ちください」
声が遠のき、音楽と話し声の入りまじった中で、
「光っちゃんだって」
と言うのが聞こえた。それから三、四十秒で受話器を取りあげる音がした。
「はい光子です」
屈託のない声だったが、少し酔っているようだった。
「俺だよ」
そのとたんに先方の物音が消えた。送話口に掌《て》をあてたらしい。私にはカウンターのかげにしゃがみ込んだ光子の姿が見えるようだった。
「どう……」
光子が訊《き》く。
「何がだい」
「愛してる……」
「酔ってるな」
「そうよ。何着てるか判《わか》る……」
「こないだの黒い奴《やつ》か」
「あ、た、り」
光子は愉《たの》しそうに笑っていた。
「こっちはもう閉《し》めたんだ」
「あら、早いのね」
「ちょっとした事件があってな」
「事件……」
「うん。会えるか」
「何よ、あらたまって。でも、今日はこの分だとちょっと遅くなりそうよ」
「先に行ってるぞ」
「やだ。来るとき窓のとこに洗濯物をとりこんだままよ」
「じゃあな」
「ねえ、何があったのよ。嫌《いや》なこと……」
「あとで言うよ」
私は電話を切った。逃げ場を見つけてほっとしたような、それでいてまたやましい行ないを重ねるような、どちらにしてもカラッとはしない気分だった。
私は道を横切って駅のほうへ向かい、いつもはもっと遅くに行く、二十四時間営業のラーメン専門の店へ寄った。酔ったサラリーマンらしいのが、立食いのカウンターにずらりと並んでラーメンを食べていた。そして、食券を買ってその隙間《すきま》に割り込むと、丸いプラスチックのカードと引換えのように、素早く私の前へ湯気の立つ丼《どんぶり》が突き出された。
箸《はし》を割って何度か麺《めん》をすすり込んでから、一息ついて顔をあげると、突き当たりの壁にトランジスタ・テレビのポスターが貼《は》ってあるのに気付いた。光子の部屋にあるのと同じ、最新型のテレビが大きく印刷されている。
とたんに私はうんざりとした。光子に会うことがひどく億劫《おつくう》になり、立食いのラーメンをすすっている自分が、何か侘《わび》しくて仕方なくなってしまった。
三条で海苔茶漬を食べたばかりなのに、光子の部屋へ行くときまったとたん、またラーメンを腹に入れねば納まらぬ自分を、けだものめいていると自嘲《じちよう》しはじめたのだった。
私は箸を置き、食べ残した丼のそばにあったコップの水を一気に飲みほして、逃げ出すように通りへ出た。それでも足は光子の住むアパートの方向へ向かっている。人々は私の進む方向と直角に、歌舞伎町から駅のほうへ流れている。
大ガードの下に入ったとき、頭の上を轟《ごう》と電車が通りすぎた。埃《ほこり》まみれの四角い柱やコンクリートの壁に、安保反対のビラがベタベタと貼《は》ってあり、その中にストリップ・ショーのポスターや、ホステス募集の貼り紙がまじっていた。
私は少しでも新宿の夜の光から遠ざかろうとするように、無意識に足を早めていた。自分の生活の場である新宿をそんな風に思ったことは今まで一度もなかったが、その時の私には、背後にある世界が汚れて、腐って、毒をたたえているように思えてならなかった。
なぜそんな風に感じたかは、淀橋署の前まで来たら判《わか》った。その警察の建物と今夜の事件が嫌《いや》でも結びつき、射たれた時の谷口の顔が私の頭の中に鮮明に泛《うか》びあがったからである。
笑顔で射たれたのだ。谷口は射たれる時、たしかに相手に笑顔を向けていたのだ。人には感じないように見えたとしても、そのことは私の心の奥深くに、大きな冷たい塊《かたま》りをドスンと投げ込んだようなものだった。
酒場の男は、客にどんな無理を言われても、笑って受け流すのが役目だった。勿論《もちろん》それを自分の仕事とした以上、それほど嫌なわけでもなかったが、毎晩少しずつ魂がどこかへめり込んで行くような気はしていた。
自分に拳銃《けんじゆう》を向けている相手に対してさえ、愛想よくほほえみかけていた谷口が憐《あわ》れだった。いや、谷口のことではない。私だってあの場合ほほえみかけていただろう。
谷口は銀盆《トレー》を両手で持って胸の辺《あた》りへあげた。危険は察知していたのだ。しかしやはり笑顔は消さなかった。そしてトレーに穴があいた。
「嫌だ」
私はあの瞬間を思い出し、つい声に出して言った。自分がみじめで仕方なかった。立場がかわっていたら同じように笑顔で傷つけられた筈《はず》の自分に対して、どうしようもない自己|嫌悪《けんお》を感じてしまうのだった。成子坂《なるこざか》下への道を、私は小走りに急いだ。
本当はその時、引き返したかったのだ。代々木の自分のアパートへ帰るべきだと思っていた。女の部屋へ逃げ込みたがっている自分を、自分で軽蔑《けいべつ》していた。しかしそこへ戻っても、谷口の入院費はとうてい作り出せないのだった。
8
光子の部屋は、成子坂下の木造アパートの二階だった。家具店の横の細い道を、十二社《じゆうにそう》のほうへ少し入った所だった。私はその部屋のドアの鍵《かぎ》を、キーホルダーにつけた三つの鍵から指先で簡単に選《よ》りわけて鍵穴へさし込んだ。
暗い部屋の中へ入ると、私は慣れた匂《にお》いに包まれた。その化粧品の匂いを、私は光子の生まれつきの体臭のように感じてしまっていたのだ。窓の薄いカーテンを通して、外の淡い光が入って来ている。私は用心深く部屋のまん中へ進み、天井からぶらさがっている電灯のシェードの下の紐《ひも》を引っぱった。
光子が電話で言っていた通り、カーテンを引いた窓のそばの畳の上に、洗濯をしたスリップやストッキングやパンティが、無造作にほうり出してあった。私は突っ立ったまま、掌《てのひら》の中の鍵を見た。
去年の夏、光子が少しはしゃぎながら私に渡した鍵だった。角筈《つのはず》の金物《かなもの》屋で作らせてすぐ、近くの喫茶店で待っていた私に、ひょいと抛《ほう》って寄越したのだった。はしゃいでいたのは照れかくしだったのかも知れない。あれから何度この部屋へ来たことだろう。だが光子は代々木の私の部屋へ、二、三度しか泊っていない。こういう関係になるごくはじめの頃のことだった。
そんなことまでが、私の自己|嫌悪《けんお》を掻《か》きたてるようだった。自分の部屋の鍵《かぎ》を光子に渡すことなど、一度も考えたことがなかった。いったい俺《おれ》はどういうつもりなんだ……。その自問をうんざりした気分で頭から追い払い、電灯の真下に置いてある赤いテーブルの上に鍵を置くと、ポケットからいこいの袋を出しながら坐《すわ》った。
光子は綺麗《きれい》好きだった。小まめな性分《しようぶん》で、部屋の中はいつもきちんとしていた。洗濯物が窓の竿《さお》から取り込んだままにしてあるのは、出がけによほど急いだ証拠だった。多分遅刻しかけたのだろう。ローズと言う店は、ホステスの遅刻に十分単位で罰金を取るそうなのだ。光子はホステスにしてはひどく勤勉なほうで、ローズに移ってから今日まで、まだ無遅刻無欠勤の筈《はず》だった。
私はいこいに火をつけて吸いはじめたが、また射たれる時の谷口の顔が泛《うか》びかけたので、赤いテーブルのまん中に置いてあるガラスの灰皿へ煙草を押しつけて消すと、我ながら妙にまめまめしく窓際へにじり寄って洗濯物を畳みはじめた。そうしていると、帰って来た光子の礼を言う顔が想像できて、何となく気が休まるのだった。
が、畳んで部屋の隅へ積んで置くと、今度は滝川外科の暗い受付のあたりを思い出してしまった。カサカサに乾いたような看護婦の顔が目の前に迫った。
「そんなこと言われたって困りますよ」
突然あの看護婦が私に食ってかかるところを想像した。
「誰もお金を払ってくれる人はいないんですか」
私はごろりと横になり、天井を向いて頭の下で手を組んだ。
「俺が払えばいいんだろ」
不貞腐《ふてくさ》れたようにそうつぶやいて見た。
「月岡君、遊ぼうよ」
狭い路地に面した窓の外で、節をつけてそう言っている谷口を私は思い出していた。東京の子供たちが遊び仲間を誘う時にする、あの唄《うた》うような言い方だった。次から次へ直角に曲がっては際限もなく続く細い路地を、私はいつも谷口と一緒に駆けまわっていたのだった。半ズボンにセーター。谷口は寒いさなかも、いいかげん暖かくなってからも、鼠《ねずみ》色の毛糸のセーターを着ていた。半ズボンに菱形《ひしがた》のつぎが当ててあったのを私ははっきりと憶《おぼ》えていた。それがいかにも悪戯《いたずら》小僧という感じで羨《うらや》ましく思っていたからだ。谷口は私の家の近くのガラス工場の敷地内の寮のような所に母親と二人で住んでいて、私たちはその寮のことをたしか工員アパートと呼んでいたはずである。三年生のおわりの頃に転校して来て、それから疎開するまで、ずっと机が隣り同士だった。頭でっかちで痩《や》せていて、よく学校を休んだりしたが、私には気の合う友達だった。
子供の頃の思い出はとりとめもなく、そして少し物哀《ものがな》しかったが、私は甘えるようにそれを手繰《たぐ》っていた。住んでいたあたりの家並や学校への道順などを思い泛《うか》べているうちに、少し眠りかけたようだった。
外の道に足音が聞こえた。ハイヒールの音だと判《わか》ると、私は目をあけて耳をすました。靴《くつ》音は急いでおり、それがアパートの入口で乱れた。光子が帰って来たのだ。すぐに玄関のところで、パタンという軽い音がした。作りつけの下駄《げた》箱へ靴をしまう時の、木の蓋《ふた》の音だった。私は起きあがり、灰皿の中の吸いさしの煙草に手を伸ばした。スリッパの音が階段をあがって来て、トントンと軽く二度ノックしてから光子がドアをあけた。
「今晩は。お邪魔します」
光子はふざけて小声で言い、ドアをしめて錠をかけた。
「ごめんなさい」
左手に持ったハンドバッグを大きく揺らせ、それを追いかけるように小走りで私に抱きついて来た。
「あなたに畳ませちゃったのね、やっぱり」
酒臭い息で言い、光子は私から体を離して洗濯物のほうを見た。
「でも、するだろうと思った」
光子は笑顔で言い、私の手にある吸いさしのいこいを見ると、
「やあねえ、シケモクなんか吸おうとして」
と取りあげてしまった。
「思ったより早かったんだな」
「うん、一斉《いつせい》があるらしかったわ。マネージャーがあわてて追い出したのよ」
光子は吸いさしを二つに折って灰皿へ入れると、いこいの袋から新しいのを一本抜いて自分で火をつけた。営業時間の制限を徹底させるため、このところ警察はのべつ時間外営業の一斉取締をやっているのだ。しかし、どう抜きうちにやったところで、仲間同士の連絡が緊密だから、すぐ新宿中に情報がとび交って、やられるのは運の悪い二、三軒だけでおわってしまうのだ。
光子は一服吸うとその煙草を私に渡して立ちあがった。六畳の部屋に畳一枚分の台所がついていて、光子はそこへ行くとガスのコンロに火をつけた。コンロはひとつだけで、薬缶《やかん》ははじめからのせてあった。
「事件てなあに」
光子はスーツの上着を脱ぎながら尋ねた。
9
谷口が射たれたことを言うと、光子は素早く私のそばへ来てぺたんと坐《すわ》り、
「どうしてすぐに教えてくれなかったのよ」
と、顔を紅くして怒った。
「それどころじゃなかったんだ」
「だって、ちゃんと電話して来たじゃないの。あの時言ってくれれば」
「お前に言ったからって、どうにかなるわけじゃないだろう」
突っかかられて私の言い方もきつくなっていた。
「谷口さんはいい人だわ」
光子は言い負かされたようにそう言って口をつぐんだ。
「病院へ運ばれて、今はまだ意識不明らしい。俺だって会わしてもらえなかったんだ。それに、お前に教えるどころじゃなかったんだよ」
私はちらりとカラーテレビのほうを見ながら言った。
「どうして……」
光子は拗《す》ねたような顔をしていた。私はテレビから目をそらし、
「金のことだよ」
と言った。
「お金……」
「そうさ。谷口も災難だ。通り魔にやられたようなもんだ。弾《たま》が右の肺を貫通してるんだからな。うまく行って助かったとしたって、とにかく大手術じゃないか」
光子は、
「そうね」
と頷《うなず》いた。
「あいつが一人ぼっちだってことは、お前だって知ってるだろ。病院の金をどうするんだい。腹をすかせてフラフラになってるところを俺がみつけて、何とかうちの店へはめ込んでやったくらいだ。金なんかあるわけがないじゃないか」
「困ったわねえ。助かるかしら」
「あした病院へ行って見なくてはどうとも判《わか》らないよ」
「あたしたちが何とかしてあげるよりほかに方法がないわけね」
「そうだよ。と言って、俺にだって急にそんな金のできる当てがあるわけじゃないしな」
「いくらくらい要るのかしら」
「判らないが、だいぶかかるだろうよ。とにかく、取りあえずいくらかでも用意しとかなければな。でも、俺のところにもろくな質草はない」
「また質屋へ行く気……」
「それよりいい手があるかい。もし谷口が死んでしまったりしたら話は別だが」
「ばか」
光子はきつい目で私を睨《にら》み、すぐ笑いながら私の肩にもたれた。
「やあねえ、あんたって」
私は光子の頬《ほお》に軽く顔を押しつけ、
「別に死ねばいいと思ってるわけじゃないさ」
と言った。
「当たり前じゃないの」
光子はそう答えると私の肩に手をかけて立ちあがり、押入れの襖《ふすま》をあけて、その前でうしろ向きにタイトスカートをめくりあげて、ストッキングをガーターから外した。
「病院の支払いだって、あしたすぐというわけじゃないんでしょう……」
「そりゃそうだけど」
「何とかなるわよ。銀行に少しあるし、お店も貸してくれるわ」
私はまじまじと光子のうしろ姿をみつめた。光子はストッキングを脱ぐと、振り向いて私と目を合わせた。
「心配しないで。谷口さんはきっと助かるわ。だっていい人だもの」
私は舌打ちをすると、畳の上へ引っくり返って見せた。
「嫌《いや》になって来た」
光子はブラウスを脱ぎながら訊《き》く。
「どうして……」
「女は強いからさ」
「お金のこと……」
「そうだよ。お前、本当に店から金が借りられるのか」
「うん。マスターが去年の暮れにそう言ったもの」
「俺なんか、まるで金の役には立たねえや。お前、幾つだっけな」
「二十二」
「女はいいなあ。俺より五つも年下だぜ。それに、俺は十九の年からバーテンをやってて、お前はまだ一年にもなっていないじゃないか。それなのに、お前はちゃんとやって行ける。俺なんかまるでだめだ。食って寝るのがかつかつで、今度みたいなことが起ったって、質屋へ持って行けるものもろくにありはしない。本当を言うとな、質草をお前に借りようと思ったんだ」
「あたしに……何を入れるつもりだったのよ」
光子はスリップだけになると、手早く脱いだものを片付けながら言った。
「お前の宝物さ。このテレビだよ」
「嫌《いや》よ」
光子は悲鳴をあげるように言い、あおむけに寝ている私の腰の辺《あた》りを爪先で軽く蹴《け》った。
「そんなことしたら承知しないから。これは世界で最初のトランジスタ・テレビなのよ」
「判《わか》ってるよ。流す気なんかないさ」
「質屋になんか入れられてたまるもんですか。そんなことしたら、世界で一番最初にトランジスタ・テレビを質屋に入れた人間になっちゃうわ。歴史に残っちゃうから」
私は笑った。たしかにそうかも知れなかった。
「お金はなんとかなるし、谷口さんも助かるわ。だから変なこと考えないで、お蒲団《ふとん》をしいてよ」
「よし来た」
私は弾みをつけてはね起き、赤いテーブルの上の灰皿をどけると、テーブルの脚を折っていつもの場所へ置き、押入れの蒲団《ふとん》を引っぱり出した。三幅《みの》の蒲団だが枕はちゃんと二つあった。
廊下の突き当たりにあるトイレへ交代で行ったりして、十分後には二人とも蒲団の中にいた。
「あなたがやられてたら、あたしは今ごろ大変ね」
光子は私の胸に顔を伏せて言い、
「この辺を射たれたのね」
と心臓の上に唇《くちびる》を当てた。
「ばか、そこじゃ即死だよ」
そう言うと、光子の唇はすぐ右の胸へ移って行った。
10
「新宿のクラブで発砲。ボーイが重傷」
翌朝、下の郵便受けから朝刊を取って来た光子が、部屋へ戻りながら見出しをそう読みあげた。
社会面の左端のほうに、思ったよりずっと小さくゆうべの事件が扱われていた。安保《あんぽ》にからんだ事件が続発していて、ことにその日は北海道や三陸海岸を襲った津波のニュースが重なったから、酒場の事件など片隅へ押しやられてしまったのだろう。
それはまずまずよいことであったが、自分のいる店の名が新聞の活字になっているのは、何か擽《くすぐ》ったい気分だった。
「クラブ・四番地、カッコ、経営者山本良子さん、だって」
光子も私と同じように擽ったそうな顔で言った。はじめは四番地に勤めていて、そういう関係になってから私がローズという店へ移させたのだった。
「クラブじゃないじゃないの、ねえ」
光子は記事の誤りを指摘した。看板にもマッチにも、ただ四番地という店の名があるだけで、バーともクラブとも書いていないから、新聞記者が適当にクラブとしてしまったのだろう。だいたい、バーとクラブの違いなど、はっきりとした定義があるわけではないのだが、私たちはなぜかその店が、クラブではなくてバーであると確信していた。
「さあ、病院へ行こう」
私は新聞を読みおえると、そう言ってはね起きた。晴れていて、何か気分のいい朝だった。
手早く朝飯をすませると、私は光子と一緒に滝川外科へ向かった。成子坂下からだと、距離も位置も中途半端で、歩いて行くしかなかった。
病院へ着くと、受付の前に並べた椅子はもう満員で、窓口には人の列ができていた。普段より随分早く起きたつもりだったが、やはり世間よりはずっと朝寝坊をしていたようだった。
窓口の行列の先頭に割り込んで行って、谷口に面会させてくれと言うと、係りの女は面倒臭そうな顔で、横の入口のほうへまわってくれと言った。
廊下の角を曲がって、その事務室のもう一つの出入口へ行くと、入口のすぐそばにさいわいゆうべの看護婦がいた。
「ゆうべはどうも」
私がそう言うと、その中年の女は憶《おぼ》えてくれていて、
「よかったわね。どうやら助かったらしいわよ」
と微笑した。
「会いたいんですが」
「だめよ。面会謝絶よ。まだ当分は絶対安静」
「困ったな。だって、それじゃ誰《だれ》も見てやる者がいなくなっちゃう」
看護婦はそう言う私を怪訝《けげん》な表情でみつめた。
「だって、あいつは身寄りがないんです」
「まあ」
看護婦は呆《あき》れたように言い、
「それじゃしょうがないわ。でも、ちょっと顔を見るだけよ」
と病室を教えてくれた。
二階の廊下の端に小部屋があって、その入口の柱に、「谷口レリオ」と名を片仮名で書いた紙が貼《は》ってあり、ドアには古ぼけた面会謝絶の札がぶらさがっていた。前は学校の水飲場のように蛇口がたくさん並んだ洗面所で、となりは便所だった。
私たちは、恐る恐るそのドアをあけて部屋をのぞいた。ベッドがひとつだけで、ほかには何もない。ガランとした板張りの部屋であった。忍び込むように中へ入ると、眠っている谷口のいやに白っぽい顔が見えた。窓のほうへ頭を向けていて、私は足もとのほうからこわごわ谷口をみつめた。顔色はまるで死人のように赤味を欠いていたが、表情は安らかそうに見えた。
ただ顔を見るだけで、私たちにはそれ以上どうしようもなく、入るときと同じように足音を忍ばせて廊下へ出た。するとあの看護婦がいそがしそうにやって来て、私に住民票によく似た書類を渡した。
「これに書き込んで頂戴《ちようだい》」
本籍地、現住所、生年月日……そんな記入欄が並んでいる。私は光子が素早くハンドバッグから取り出した万年筆のキャップを外しながら窓際へ行き、その壁に紙を押しあててまず谷口怜悧男と書いた。珍しい名だからそれだけは忘れないでいたが、次の生年月日でもう困ってしまった。私と同じ年だから、昭和八年生まれには違いなかろうが、月日のほうは聞いたこともない。仕方がないから八年とだけ記入し、本籍地はとばして現住所の欄に店の所番地を書いた。するとうしろで見ていた看護婦が、
「それ、あなたたちのお店の番地でしょう」
と言った。何しろ歌舞伎町だから、すぐそう見当がついたのだろう。
「ええ」
「あの人、住込みなの」
「まあそうです」
「でも、そこで住民登録なんかしてないんでしょう」
「勤めてまだ二週間足らずなんです」
看護婦はため息をついた。
「本当に身寄りがないの……あの人」
「ええ」
「うちの病院も大変な患者を引受けたものね」
看護婦は苦笑を泛《うか》べて言った。
「でも、それならなおのこと、身もとを引きうけてくれる人が要《い》るわよ」
「俺が」
と私が言ったのと、光子が、
「私たちが」
と言ったのが同時だった。看護婦は案外人の好さそうな微笑を泛べ、
「奥さん……」
と光子に訊《き》いた。
「いえ、まだ」
光子はひどく素直な感じでそう答えた。
「そうなの」
看護婦の微笑はいっそう大きくなり、
「それじゃ、ここにあなたの名前と住所。電話番号もね」
と私に記入する欄を教えた。
住所は代々木のアパートだが、電話番号は店と光子のアパートのを並べて書いた。私のアパートには呼出してくれる電話がなかったのだ。随分いい加減な身元引受人だったが、病院を出る時、私も光子も結構晴ればれとした気分になっていた。