1
あんな事件があったから、物騒な感じがして当分客足が遠のくのではないかと思っていたが、案に相違して次の晩は宵の口から満席の盛況になった。
「どこで射たれたんだ」
客が一様にそう尋ねるところを見ると、みんな新聞記事を読んだ上で来ているらしい。
「客なんて、こんなものなんですね」
カウンターの中でてんてこまいをさせられながら、志村がそんなことをささやいたりした。
射たれた時の模様は、もっぱらピアニストの鈴木八郎が説明していた。もし弾丸が谷口の体をそれたりしたら、そのうしろでピアノに向かっていた鈴木に当たったかも知れないのだから、説明係りとしては適任と言えた。それに、ピアノの側面にあの時の弾丸がめり込んだままになっている。その弾痕《だんこん》は当分この店の売り物になりそうだった。
「お前な、いっそのこと入口のところを、アメリカの禁酒法時代の店のようにしちまえばいいんだよ。覗《のぞ》き窓をつけて、知ってる顔じゃなきゃ入れないんだ。スピーク・イージーって奴さ。受けるぜ、きっと」
常連の推理作家が、出版社の若手と私の前に陣取って、ハイボールを飲みながら景気よく笑った。
谷口も死なずにすみ、ママも上機嫌だった。
「やあ、今谷《いまたに》さん」
井田さんが入って来るなり、その推理作家を目敏《めざと》くみつけて声をかけた。学芸部の記者だから、作家の今谷先生とも当然親しい仲だった。
「やあ」
先生が手をあげて答えた。
「当然来てると思った」
井田さんは先生のうしろに立ってそう言い、私に向かって、
「ゆうべはどうも」
と挨拶《あいさつ》した。
「どうも大変お世話になりました。おかげさまで谷口も助かったようです」
「そうか、助かったか。そりゃよかった。あいつはよく気のつく、いい男だったからな」
すると今谷先生が目を丸くして、
「あの事件のとき、君はここに居合わせたのか」
と尋ねた。
「先生のとなりに坐《すわ》っていらしたんです」
私が指をさして教えた。
「犯人が射ったのは俺《おれ》のうしろだろ」
「ええ。井田さんがすぐ拳銃《けんじゆう》をとりあげて」
「何だそうだったのか」
先生は感心したように言い、
「おい、ひとつ向こうへ詰められないか」
と、一緒に来た出版社の人に言った。
「こういうのがとなりにいてくれれば、また暴れ込んで来ても安心だからな」
先生はそう言って笑い、私はレジの前の客から、順にひとつずつ席を移ってもらった。ひとしきり、スツールやグラス類を動かす音が騒がしくなった。
「警察は安保騒ぎで手一杯なんじゃないですかね」
井田さんは先生のとなりに坐ると、そう言って煙草に火をつけた。
「そうかね」
「だって、ゆうべの事件にしたってですよ、いまだに犯人の名前さえはっきりしないらしいんです」
「黙秘か」
「ええ。でも、あれはどう見たって暴力団の人間だ。身元を割るくらいお茶の子の筈《はず》じゃないですか」
「そうか、警察もいそがしいか」
「とにかくちょっとスローモーすぎますね。僕は一目であいつが暴力団だと判《わか》った。そしたらついカーッとしてしまいましてね。普通だったらあんな向こう見ずな真似はしませんよ」
「何だ、四月の事件の仕返しのつもりでやったのか」
先生たちはそう言って笑った。この四月、暴力団の男たちが新聞社に暴れ込んで、輪転機に砂をかける騒ぎがあったのだ。
「で、この店で拳銃《けんじゆう》をぶっ放したのはどういう理由だったんだい。新聞には何も書いてなかったぞ」
「どうも、それも少し変ですよね。僕はあいつが薬でラリってたんだと思ったんですがね」
「違うのか」
「はっきりしないんです。薬で錯乱してたんなら、捕まえたあと医者が見ればすぐ判るでしょう。当然そういう発表もあるわけですよね。いくら何でもそこまで手がまわりかねているとは思えませんがね」
「でも、こんな店が暴力団に睨《にら》まれるわけもないだろう。土地のことで立ち退《の》けとか何とかごたついているなら別だがな。そんなことあるのか……」
私は先生に尋ねられ、強く否定した。
「全然ありませんよ」
「そうだろうな。それに、いきなり拳銃《けんじゆう》をぶっ放すというのはどうもな」
「ここの連中もあの犯人とは誰も面識がないそうですし」
「どうも妙な具合だな」
「でも、ここは新宿ですからね。面白いことも危険なことも、いつどこからどういう形でとび出して来るか判《わか》らない。そこがまた新宿のいい所ですよね。銀座みたいに出来あがっていてはもうどうしようもないですよ。現に作家や芸能人などが安心して来れる店と言ったら、この辺《あた》りじゃこの四番地くらいなものでしょう。前の通りを見てくださいよ。危《ヤバ》そうな女で林ができている」
「女の林か」
先生はそう言って愉快そうに笑った。
そんな騒ぎが少し納まった頃、井田さんはふと思い出したようにカウンターの上へ体を乗り出して来て、
「おい、これ」
と茶色い封筒を私に寄越した。私は何気なくそれを受取り、
「何ですか」
と訊《き》いた。
「あの新米のボーイにそれで何か見舞ってやってくれ」
「あ、いいんです」
私が慌てて封筒を返そうとした。
「ちょうど俺がここに坐《すわ》ってたのも何かの縁だ。あいつが気の毒だからさ……恥を掻《か》かせないで早く、しまってくれ」
井田さんは明らかに照れていて、憤《おこ》ったようにそう言った。
「お、そうか。気が付かなかったよ。それじゃ俺も」
今谷先生も上着の内ポケットへ手をいれた。
「今谷さんはいいんですよ」
井田さんがそれをとめた。
「いいじゃないか、ここの連中にはいつも世話になってるんだから」
今谷先生はそう言うと、となりの男がかぶっていたベレー帽をとりあげ、その中へ紙幣を何枚か入れて、
「この帽子を廻したらいい」
と言った。みんな少し酔っていて、そういうことになるとおかしいくらい気が揃《そろ》った。今谷先生の一行だけでなく、関係のないほかの客までが、気前よくその帽子に金を入れてくれた。
ママがとんで来て、そういうカウンターの客たちに礼を言って廻った。
2
閉店間際になって、私に電話がかかって来た。ローズのチーフ・バーテンダーの相沢という男だった。
「終ってからちょっと会えないかい」
相沢はそう言った。実は光子をローズに紹介したのは、相沢がいるからだった。口の堅《かた》い男だし、私のいる店へころがり込んで来た光子はそれがはじめてのバー勤めで、私としても誰も味方のいない店へ放り込むのは心配だったのだ。
「久しぶりだからな。いいよ、どこにする」
「コクテールさ」
相沢は、きまっている、というような調子で落合う店の名を告げ、
「彼女も連れて行く」
と言って電話を切った。
宵の口からいそがしい晩は、えてして時間通り綺麗《きれい》に切りあがることが多く、その日も十一時すぎるとバタバタと客が帰った。ママは最後に残った客と約束したらしく、
「じゃ、頼むわね」
と言い残して、お気に入りのホステスを三人ほど引き連れて出て行った。
「志村、急ぐぞ」
私はドアの鍵《かぎ》をしめるとそう言った。
「月さんもですか」
客と遊びに行く約束をしたのかと言う意味だった。
「違う。ローズの相さんだよ」
「ああ」
志村は納得したらしく、
「いいですよ、あとは俺がやっときますから」
と言った。
「そうは行くか。一人減っているんだ」
私はそう言って店の中を見て廻った。
客を送り出したあと、一応はホステスたちがテーブルの上のものをさげてくれるが、案外それが当てにならない。まったく客というのは何をするか判《わか》らないもので、空《から》のビール瓶《びん》が何本もソファーの下に押し込んであったり、煙草の吸い殻がクッションの間に入っていたりして、ひやりとさせられたりする。時にはマッチ箱の中に紙幣が畳んで入れてあったりもする。ホステスの誰かにやろうとしたのだろうが、もらう方の勘が鈍くてはお話にならない。そういうわけで、あとかたづけをする者が全員酔ってしまうのは危険なのだ。志村はその点よく心得ていて、私が飲んでいる晩は決して酒を飲まない。別に申し合わせをしているわけではないが、それがチームワークというものなのだった。
その晩は志村のほうが少し酔っていて、だから私は先に店を出なかった。それでも志村はテキパキと跡始末を進めていた。
「そうそう、夕方|乞食《こじき》が来ましたよ。あんなの、近頃珍しいな」
志村がカウンターの上を拭きながら言った。私は蝶《ちよう》タイを外し、ワイシャツをオープン・シャツに着がえようとしていた。
「乞食……」
「ええ、汚い二人連れの奴《やつ》です。ドアをあけやがってね」
「危《ヤバ》いな」
「ええ、気をつけないとね」
そうか、と言って私はそのことを記憶に叩《たた》き込んだ。随分いかがわしい人間が出没する通りだが、乞食だけはほとんどやって来ない場所なのだ。何か町の気配が変りはじめているのかな……私はそう思い、警戒することにしたのだ。
通りに立っているキャッチ・ガールにしても、このところどうも変動が激しいようだし、暴力団の連中も、関西弁や名古屋弁で喋《しやべ》るのが増えている。各地の暴力団狩りが活溌《かつぱつ》になり、そういった本来なら土地につく筈《はず》の連中が流動しはじめているようだった。
私たちはそういう動きには敏感にならざるを得ない。暴力団の動きや売春のやりかたの変化が、案外廻り廻って自分たちの商売の変化につながるからだった。いずれにせよ、何か世の中が大きく変りそうな感じがする時代ではあった。
「さて、いいか」
私はそう言って奥の灯《あか》りを消した。志村が先に外へ出て、そのあと私がドアの鍵《かぎ》をかけた。
コクテールは歌舞伎町の西寄りの通りにあり、実はバーテンダー養成所の実習店なのであった。かなり大きな店で、三方の壁と平行に作られたコの字型の長いカウンターの中にいる蝶《ちよう》タイの男たちは、みな養成所の実習生であった。生徒に酒を売らせるのだから人件費がかからず、うまい商法と言えたが、私たちにとってはいい穴場だった。
養成所を出た連中は、結局バーテンとしてどこかへ就職しなければならない。そこへバリバリの現役が客で現われるのだ。就職運動にもなるし、顔を売るいいチャンスだから、それぞれの持味をフルに発揮してサービスにつとめることになる。勿論《もちろん》伝票をごまかして何割かは安くしてくれる。中にはそこでベロベロになったくせに、ハイボール一杯分の勘定で出て来た奴もいるくらいだ。
そのバーテンの卵たちに大もてでコクテールへ足を踏み入れると、相沢たちがコの字型の角のところに陣取って、その前には客の数の三倍くらいの卵たちがむらがっていた。
それもその筈《はず》で、相沢は新宿で一流クラスのローズのチーフだし、三島、植村、近藤などと言う新宿の古参連中が顔を揃《そろ》えているのだった。
「よう」
みんなが笑顔で私を迎えてくれた。女は光子だけだった。
3
「大変だったな」
まずゆうべの騒ぎのことになった。たった一日でもう喋《しやべ》り飽きるほど喋らされたあの事件のことを仲間にもう一度繰り返して聞かせると、今はエックスというバーのマネージャーをしている三島が、声をひそめて私に言った。
「ちょっと変だとは思わないか」
「何がだよ」
「実はな、四番地でその事件が起った頃、花園神社の前の辺りに、パトカーが一台、ずっととまっていたんだ」
「本当かよ」
「ああ、本当さ。俺、タクシーをつかまえに通りへ出て、この目で見たんだぜ」
「志村がすぐに一一〇番したから、無線の指令で一分もしない内に来れた筈《はず》じゃないか」
「それがよ、サイレン鳴らした奴《やつ》が一台、区役所通りへ突っ込んで行ったあとで、やっとのそのそ動き出したんだ」
「故障してたんじゃねえのか……」
植村が口をはさんだ。
「だったらボンネットぐらいあけてそうなもんじゃないか。ライトを消してひっそりしてやがった」
「じゃ、救急車と一緒に来た奴かな」
私が言うと、三島は大きく頷《うなず》いて見せた。
「ああそうだ。二丁目のほうからとんで来た救急車のケツに、Uターンしてついて行ったよ」
「どういうわけだろう」
私たちは顔を見合わせた。
「先に来たパトカーの警官は、客が犯人から拳銃《けんじゆう》を取りあげて持っているのを見てあわを食ったりしてたが、あとから来た二人はばかに物判《ものわか》りがよかったな。前の二人ほど威張らなかったよ」
「月さん、気を付けたほうがいいぜ。何か裏にあるのかも知れないぞ」
「おどかすなよ」|
私は笑った。三島の言う通りに考えれば、ゆうべの事件には警察が一枚|噛《か》んでいることになる。
「四番地にそれほどのことがあるもんか」
「でもな、四番地は客種《きやくだね》がいい。最近の新宿じゃピカ一だぜ。文化人って奴《やつ》が集まるじゃないか。作家とか評論家とかよ」
三島の言うことは、私にとって恐ろしい指摘だった。
「世の中は安保で大騒ぎだ。文化人の中には、相当きついことを言ったり書いたりしてるのがいるんじゃないのか。俺は本なんてあんまり読まねえけどさ。月さんだって、犯人は組の人間だと考えてるんだろう」
「うん」
「そいつは右翼が動かした殺し屋じゃないのかな」
まさか、とは言い切れないものがあった。
「だとしたら、サツだって……」
三島はごく低い声でそう言った。
「じゃ、あのチンピラは誰かほかの人間を射ちに来たことになる」
「そうだよ。その線じゃねえのかい」
「それならなぜ谷口なんかを射っちゃったんだ。どう見たってボーイの恰好《かつこう》だ。右翼に狙われるようなお偉い文化人と見間違える筈《はず》がないじゃないか」
「ブルッてたんだよ、そのチンピラは」
三島は自分が抱いた黒いものを私に押しつけてしまおうとしているようだった。
「そんなことがあり得るかな。だってゆうべはそんな偉い人は来てなかったぜ」
私は事件の時の客の顔ぶれを思い起しながら言った。
「警官に言われて居合わせた客の名前をメモしたからよく憶《おぼ》えてるよ」
「警官に言われた……」
三島は私の隙につけ入るように鋭く言った。
「あとの奴《やつ》らにだろう」
「うん」
「ほらみろ、臭いよ。狙った奴がいたかどうかチェックしたんだ」
「まさか」
今度は私もはっきりまさかと言えた。そういう疑いをひろげて行けば際限もないことになるのだ。
「ま、とにかく今は怪しげなことがいろいろ起ってるようだな」
相沢が光子の肩を叩《たた》きながら、明るい声でそう言って話を打切らせた。みんな急にニヤニヤしはじめた。相沢は私と光子のことをひっかけて言ったのだった。
「でもな、月さんが目をつけただけあって、光ちゃんは使えるぜ」
「そうかい……」
私は思わずうれしそうな顔をしたようだ。
「ちぇっ、手ばなしでやがる」
すかさず植村がからかった。
「本当だ。彼女ならいずれでかい店をまかせられるようになる」
相沢が太鼓判を押した。
私は光子がなぜ新宿のホステスになろうとしたか、詳しくは知らない。ただ、四番地へ来るまでは、どこかの洋品店の店員をしていたと言うことだけは聞いていた。
光子は慣れぬ世界で心細かったのだろう。何かと私を頼りにし、私もまたいい顔で付合っているうちに、あっさり体の関係が出来てしまった。そうなってから、私は慌てて光子をローズに移したのだ。マネージャーの女が同じ店にいては何かと具合が悪い。光子はよくても私が困るのだ。ホステスたちをうまく動かせなくなってしまうのだ。そしてだんだんによく知り合うと、相沢が言ってくれたように、私も光子が水商売に適していると思うようになった。一人前の商売人に育ててやりたいと、自分の若さも忘れて弟子のように思っている面もあるのだった。
4
私はその晩も代々木のアパートへは帰らず、光子のアパートに泊った。相沢たちと二時すぎまでコクテールで飲んでいたし、翌朝はまた滝川外科へ行かねばならなかったから、光子の部屋へ泊ったほうが都合がよかったのだ。
光子は新宿で名の通ったバーテンたちに囲まれて少し興奮したようで、部屋へ帰ってからも、将来自分がやって見たい店の内装とか大きさについて、勝手な夢を並べたてていた。
それでもいつの間にか眠った私は、雨の音でふと目をさました。もう部屋の中はしらじらとしていたが、雨の具合は起きて窓の外を見なくても、かなり激しいらしいのが音で判《わか》った。
滝川外科までこの雨の中を歩いて行くのかとうんざりしたように考えていると、また眠ってしまい、その次は光子に揺さぶられて目がさめた。
「起きてよ、遅くなっちゃうじゃないの。あたしたちは身元引受人なのよ。お見舞いに行かなくちゃ」
光子の声は張り切っていた。目をあけるといい天気になっているらしかった。
明るい朝の陽ざしの中を、光子と二人で歩くのは案外いい気分のものだった。ゆうべも今朝も東京の空気の汚れ具合にそう変りがあろうとは思えなかったが、何となく爽《さわ》やかですがすがしいような気がした。
光子は途中の花屋の前で、
「お花を買って行かない……」
と足をとめたが、
「花はもっと元気になってからでもいいだろう」
そう私が言うと、
「それもそうね」
と素直にまた歩きはじめた。光子の金の使い方は私にとってちょっとした驚異だった。しまるべき所では恐ろしくけちになる。いつか風邪を引いた時も、十円だか二十円だか普通より安い薬局があると言って、かなり遠くまで歩いて行ったりした。だからそういう光子がトランジスタのテレビをいきなり買って来た時には、ほとほと感心してしまった。私にとっては、まるで魔術を見ているようだった。駆け出しのホステスが、六万九千八百円もするテレビをどうしてポンと買ってしまうのか、まるで見当もつかなかった。
滝川外科へ入った私たちは、もう受付へ断わることもせず、さっさと二階へあがって谷口の病室へ行った。ノックもせずにそっとドアをあけると、ちょうど看護婦が検温に来ていて、咎《とが》めるように睨《にら》んだが、目をあけている谷口を見て私たちが歓声をあげると、表情を柔らげて、
「よかったですね」
と言ってくれた。谷口はかすかに唇を動かしたが、まだ声を出して喋《しやべ》るだけの力はないようで、何も言わなかった。
「興奮させるようなことは言わないでください」
看護婦はそう言い、
「せいぜい二、三分ですよ」
と念を押して出て行った。
「酷《ひど》い目に会ったなあ。でも、もう大丈夫だ」
私はそう言って谷口をみつめた。喋れなくても谷口の瞳《め》は雄弁だった。明らかに感謝の色をあらわしていた。それにしても、その瞳は私をうろたえさせるほど、深々と澄んでいた。
谷口の目は昔からそうだった。クラスでも一番貧乏な子だったが、それでも谷口はいつも微笑を絶やさなかったし、邪気のない澄んだ目をした子供だった。
「俺たちが身元引受人になったんだぞ。頼りねえだろう」
私がそう言うと、かすかに笑ったようだった。
「きのうも来たんだ。これから毎日来るからな。早く元気になってくれ」
私がそう言うと、光子は部屋の中を見廻し、
「あした、お花を持って来るわ。花瓶がないわね。いれ物も用意して来なくちゃ。まだ寝たままだから、そこから見える所に置かなくてはね。どこにしようかしら」
と言った。
「まだあまり長く話しちゃいけないって言われてるから、俺たちはもう帰るよ。退屈だろうけどしばらく我慢してくれよな。そのうち本でも持って来るよ。今谷先生の新刊が俺のところにある。この間先生にサインしてもらった奴《やつ》だ。あれを持って来よう」
その時私は、なんとかして自分たちの都合で早く帰ってしまうのでないことを、谷口に判《わか》らせようとしていたようだ。体に障《さわ》るといけないから、とくどいほど言いながら、光子と二人であとずさるように病室を出た。傷つき、行動の自由を失って、力なくベッドに仰臥《ぎようが》しているだけの谷口が、私にはひどく力強い存在のように思えて仕方がなかったのだ。病床の谷口はまるで無力な筈《はず》なのに、堂々として見えた。
病院からの帰り路、私はその印象を光子に言った。
「あいつは病院が似合う奴だな」
すると光子も、
「そうね」
と答えた。
「お前もそう思うか」
「うん。何だか威張ってたみたい」
私たちは顔を見合わせて笑った。
「あたし、ああいう人好きよ」
光子はしみじみとした声で言った。
「なぜだい」
「判《わか》んない。でも、谷口さんてとても正直な人だと思うわ」
「まあ、正直は正直だな」
「ああいう人はきっとみんなに好かれるんでしょうね」
「さあどうかな。あいつが女にモテたって話は聞いたことがない」
「そんな好かれかたじゃないのよ」
光子は少しむきになって言った。
「でも変な奴《やつ》だぜ。幼馴染《おさななじみ》だけど、あいつのことは俺もあまりよく知っちゃいないんだ。今度あいつが元気になったらよく訊いて見よう」
道筋はきのうと同じだった。区役所通りへ抜けて行くのが一番近道だったのだ。
同じ町の同じ通りでも、朝と夜中とではまるで違った町になる。できるだけ光子との仲をかくしている私も、朝の町では安心して腕を組んで歩いた。
「あら、何よあれは」
四番地の看板が見えはじめたとき、光子が指をさして言った。四番地の入口のあたりに、薄汚いのが二人うろついていた。
「あ、畜生」
私は光子の腕をふりほどくと走り出した。汚れ切った乞食《こじき》が……いやルンペンと言うべきだろうか、とにかく着ている物を脱がしてはたいたら確実に虱《しらみ》の山ができそうな奴が二人、四番地のドアの辺《あた》りを離れないのだ。
私はポケットから鍵《かぎ》を取り出しながらその二人に近づき、
「どいてくれよ」
とうしろから声をかけた。店の者が来たことを判《わか》らせれば、あきらめて立去ると思ったのだ。
ルンペンたちは左右にさっと分れた。私は鍵をあけると、店の中へ半分体を入れてから振り返り、そのルンペンたちを睨《にら》みつけてやった。
ところがルンペンたちは両脇から寄って来るではないか。私はびっくりしてドアを閉めようとした。
「ちょっと待って」
一人がしまりのない声で言った。
「え……」
私はそいつの顔を見た。
「ちょっと待って」
「何だよ」
「谷口さん、どうした」
「谷口……」
「そう、谷口さん」
そう言った奴《やつ》は少し言語障害があるようだったが、もう一人は意外にしゃっきりした喋《しやべ》り方で、しかも叮嚀《ていねい》に言った。
「すいません。射たれた谷口さんのことを聞きたいんです」
「谷口を知ってるのか」
「ええ」
「谷口ならどうやら命はとりとめたよ」
ルンペンでも新聞を読むのだろうか、と思いながら私はそう答えた。
5
ルンペンたちは、
「よかった、よかった」
と頷《うなず》き合っている。
「君たち谷口とどういう関係なんだい」
片一方のルンペンの喋《しやべ》りかたが叮嚀だったので、私もついルンペンに君たちと言った。
「大事な人です」
呂律《ろれつ》の怪しいほうが言う。
「大事な人……」
「そうなんです。わたしたちにとっては大切なお方です」
しっかりしたほうがそう答えた。
「谷口が大切なお方だって……いったいそれはどういうことだい」
「尊いお方です」
私は呆気《あつけ》に取られて言葉もなかった。
「あのう……」
しっかりしたほうのルンペンが、ちょっと口ごもりながら汚い服の内側へ、まっ黒に汚れた右手をもぞもぞとさし込み、何か白い物を取り出した。
よく見ると、厚手の和紙らしいのを型通りに畳んだ金包みらしかった。白い紙の上に見事な筆の字で、御見舞、と書いてあった。
「これを谷口さんに」
思わず出した手を中途半端でとめた私は、
「谷口に渡せと言うのかい」
と念を押した。
「そうです。みんなからです」
「みんな……」
「ええ」
あまり汚れているので相手の表情はよく判《わか》らなかった。
「お願いします。谷口さんに渡してください」
私は気《け》おされたようにそれを受取った。
二人のルンペンはペコリと頭をさげ、カパカパとぼろ靴の音を立てて都電の通りのほうへ去って行った。
その金包みはそう厚くもなかったが、薄っぺらでもなかった。
「どうしたの……」
光子が顔をのぞかせて言った。私は、ドアの外へ顔を突き出して、去って行くルンペンを見送った。
「何、それ」
「あいつらが谷口に渡してくれって言うんだよ」
「へえ……」
光子も呆《あき》れていた。
「いったいどういうことなんだろう」
二人のルンペンが区役所を通り過ぎたのを見届けてから、私たちは店の中へ入り、ドアをしめて灯《あか》りをつけ、スツールに並んで腰かけた。
「何だかそれ、痒《かゆ》いみたい」
光子が言ったが、まさにそんな感じであった。ルンペンが汚れた服の内側から取り出したのを見ている私は、今にも白い虫がそこから這《は》い出して来るような気がして、カウンターの上へ置いたまま手も出せずにいた。
「あけて見ていいかしら」
光子が堪《たま》りかねたように言った。
「うん」
光子の華奢《きやしや》な指先が、慎重にその紙を開いた。
「わあ、五万円も入ってる」
たしかに五万円入っていた。しかも全部手の切れるような新しい紙幣で揃《そろ》えてあるのだ。
「どうなってるんだ、これは……」
狐に化かされたよう、と言うのはこのことを言うのだろう。
「谷口はあのルンペンたちと、どういう関係があるんだろう」
私は唸《うな》るようにそうつぶやいた。
「何がなんだかさっぱり判《わか》らない」
光子は推理することを放棄したように言い、急にはしゃぎ出した。
「でもさ、素敵じゃない。乞食《こじき》王子みたいで」
「谷口が乞食の王子さまか」
「ロマンチックだわ」
「ふしぎな奴だなあ」
ゆうべ三島が言っていたあの事件についての暗殺未遂説は、急速に私の頭から薄らいで行くようだった。
何かよく判らないが、あの事件は人違いとか手違いとかによるものではなく、やはりはじめから谷口を中心にして起っているように思えて仕方がなかった。そうでなかったら、こんなふしぎな事は起きるわけがなかろう。
「あいつら、谷口のことを大切な人とか尊いお方とか言ってたぜ」
「ほらみなさい。やっぱり乞食《こじき》王子よ」
乞食王子と言うのはどうも納得しにくかったけれど、私にも少しは思い当たることがあった。
「俺《おれ》はあいつと上野で会ったんだ」
私はカウンターに左|肱《ひじ》をつき、その手に顎《あご》をのせて言った。
「上野……いつよ」
「俺は中学二年だった」
「随分昔のことじゃないの」
「そうさ。昭和二十二年だよ」
「なあんだ」
光子は私の言っている意味が判《わか》らずに、軽く笑った。
焼跡の上野だった。
浮浪者が溢《あふ》れていた。そして谷口は、その浮浪者で溢れるような殺伐とした上野を、ちょろちょろと勝手知った様子で歩きまわっていたのだった。
谷口とそっくりの恰好《かつこう》をした戦災孤児たちがたくさんいて、彼はその仲間だったのだ。
6
たしかに、私が谷口怜悧男と再会したのは、昭和二十二年の上野だった。季節もちょうど今と同じ五月……中旬頃ではなかっただろうか。
私は薄暗い昼間の酒場の中で、棚に並んだ酒瓶を眺めながら子供の頃の記憶を蘇《よみがえ》らせていた。
中野のほうに、戦災をまぬがれた親類が一軒あって、私はそこへ使いにやらされたのだった。終戦とほとんど同時に疎開先から帰って来た私は、葛飾区の中川の近くに住んでいて、中学二年生になったばかりだった。
なぜ谷口に会った日のことを憶《おぼ》えているかと言うと、東京へ戻って来た私が、はじめて単独で中野のほうまで出歩いた日だったからである。
婦人子供専用車。
その日のことを思い出すと、自然にその言葉が泛《うか》びあがって来る。省線の中央線などに、そういう特別な車輛《しやりよう》が連結されたばかりで、小学生の頃から乗物好きだった私は、中野へ行って来いと命じられた時、雀躍《こおど》りしてうれしがったのだ。
婦人子供専用車というのが、とても優しい車輛であるように思い、どうしても一目見たかったのだ。私は今の車好きの子供が、新型のスポーツカーを見たがるように、省線電車のその車輛に憧《あこが》れたのだった。そして自分がもう中学二年にもなって、その車輛に乗れる資格がないことを、どんなに残念に思ったことだったろうか。
ホームの外れのコンクリートの上に、線路と直角に白線が引いてあるのを見た時は、ここに婦人子供専用車がやって来るのだなと、胸を高鳴らせた。
しかし、あのドサクサの時代にはいつもそれがついてまわったのだが、呆気《あつけ》なく失望がやって来た。期待と失望の間隔がせまかったのが、私にとってはあの時代の特徴であるようだ。
次の電車が来たとき私はがっかりした。ほかの車輛《しやりよう》と少しも変ってはいなかったからだ。窓に桟を打ちつけ、牢屋《ろうや》のような感じの薄汚れた車輛を見て、私はまだ走らせたばかりだから数が足りないのだろうと思い込んだ。何輛かは本物の婦人子供専用車が走っている筈《はず》だ。二等車のように青いだろうか。ひょっとするとまっ白に塗ってあるのではなかろうか……。
何回も何回も、私は電車をやり過した。しかし、私が早合点したような優しい電車はやって来ず、仕方なく電車に乗ってしまってからも、もしやと思ってすれ違う電車が来るたび目を皿のようにしていた。
小学四年生頃から、私はよく一人で中野のその親類に行っていた。しかし、焼けなかったとは言え、やはりその家にも戦争のあとがあった。
焼け出されて行き場を失った親戚の連中が、三世帯もそこを頼って住みついていたのだ。ちょっとした庭のある家だったが、そこの防空壕《ぼうくうごう》にも向島の家を焼かれた親子が住んでいた。
婦人子供専用車のロマンチックな夢が呆気《あつけ》なくやぶれたかわりのように、私はそこで、悲惨とも滑稽《こつけい》とも言いようのない言葉を聞いて来た。
「お粥《かゆ》のおにぎり、食べたいよう」
三つくらいの男の子が、防空壕のそばでそう言って泣いていたのである。
「お粥のおにぎり、食べたいよう」
食べる物のない最中に生まれたその子は、それでも一度くらいはおにぎりにありついたことがあるのだろう。しかし、生まれてからお米と言えばお粥だと思い込んでしまっていて、
「お粥のおにぎり、食べたいよう」
と駄々をこねていたのだ。
何の用でその家へ行ったかは、もうとっくに忘れてしまっている。しかし、その日谷口に会う前の、婦人子供専用車とお粥のおにぎりのことは、しっかりと私の頭に焼きついている。
そして記憶は、いきなり上野の西郷さんの下の、京成電車の入口あたりへ飛んでいる。省線から京成電車に乗り換えるのに、私は地下道を通らずに、上の道を歩いて行ったらしい。ひょっとすると、地下道へ入るのが怕《こわ》かったのではあるまいか。何しろ当時の地下道と来たら、そのずっとあとまで浮浪者や戦災孤児たちの巣だったのである。
小便臭い石垣ぞいの歩道で、向こうから走って来た子供が、
「やあ月岡君」
と、まるできのう別れた同級生のように軽く声をかけて来たのだった。
「怜ちゃんじゃないか」
子供同士、そういう出会いかたをするのが珍しくない時代で、私たちはすぐに昔の友情の中にいたようだ。
怜悧男《れりお》、という名を谷口はなぜか嫌っていた。私が疎開で東京を離れるまで、ずっと谷口を怜ちゃんと呼んでいたのだ。
谷口はその名前でいつもみんなにからかわれていた。担任の先生までが、れいりお、と言う風に呼んだりしたせいだ。どことなく外国人のような感じで、戦時中はあまりいい響きとは言えなかったのだ。