私はその怜ちゃんに上野を案内された。久しぶりに友達に会えて、谷口もうれしかったのだろう。二人ともあの時代に全く順応し切っていて、疎開地でのことや、自分がどうやって空襲の時期を過したかなどを語り合うことはなかったようである。
いきなりその時点での付合いがはじまっていたのだ。私は上野の山や地下道を遊び場にしている谷口のような友達を発見して、うれしくて仕方なかった。
科学博物館に近いところに変な小屋が並んでいて、谷口はそこへ私を連れて行くと、この辺《あた》りで子供をつかまえて自分の名を言えば、いつでもまた会えると教えた。
谷口は学校へは行っていないようだった。
それから一年半ほど、私はちょいちょい上野へ行った。一度谷口に会おうとして浮浪児たちに取り囲まれ、危険な空気になった時も、谷口の名を言ったらあっさり脱出することができた。
あの時代、谷口はいったいどんな生き方をしていたのだろうか。
私は見舞いの金を持って来たあの二人のルンペンと当時の谷口が、たしかにどこかでつながっていると確信していた。
「何を考えてるの……」
光子が言った。
「谷口のことさ」
私は追憶を振り切ってスツールをおりた。
「とにかくもらって置こう」
病院の費用のことは、それで半分以上解決したようだった。
7
梅雨に入ったらしく、朝晩雨の降る日が多くなっていた。
それでも私は、毎日まめに滝川外科へ通っていた。谷口の傷の回復ぶりは順調で、行くたびに礼を言ったが、ルンペンの見舞金については、ただ微笑するだけではっきりしたことは言ってくれなかった。
回復が順調だとは言っても、何せ傷が傷だから私も遠慮して、いずれもっと元気になったら、徹底的に問いつめてやることにきめ、当分はそっとして置くことにした。
光子も私と同じように毎日谷口を見舞いに行くが、代々木のアパートへ戻った私とは時間がかけ違って、うまく会えないことが多かった。
六月に入ったある雨の日、私はアパートを出るとトロリー・バスに乗って伊勢丹のところで降り、去年の春にできたメトロ・プロムナードへ入って二幸の食品売場へ向かっていた。私たちは時々そこで店の仕入れをすませるのだった。
すると、地下鉄の改札口のところに、この間のルンペンがいるのを見つけた。呂律《ろれつ》の怪しいほうの奴《やつ》だった。
何だ、ここに住みついてる奴だったのか。そう思いながら、へたに視線を合わせて声でもかけられては大変だと、そっぽを向いて通りすぎてしばらくすると、私はまた谷口の顔を思い泛《うか》べた。
ひょっとすると谷口は、この地下道にルンペンとして住みつく寸前だったのではあるまいか……。
そんな考えがひらめき、すぐにそれが確かなことに思えて来た。
映画館が並んだ道を、谷口はふらふらと力なく歩いていたのだった。
「やあ、谷口じゃないか」
上野の時から十何年か過ぎていて、今度は私のほうから声をかけた。怜ちゃんという呼び方も、当たり前のように谷口と変っている。
「月岡君か。久し振りだね」
谷口は例の邪気のない微笑を見せて言った。
「縁があるんだな。いつもこんな会い方をする」
私は笑い、何かほっとしたように感じていた。一度も損得の関係が生じたことのない、懐かしいだけの相手だったからだろう。
「そうだね」
「どうだい、コーヒーでも付合わないか」
そう言うと、
「有難う。でも俺、金を持ってないよ」
と答えた。
「何だコーヒーぐらい」
私は笑いとばし、喫茶店へ連れ込んだのだった。
子供の頃と違って、ひさしぶりに会えば、世間並みにまず一別《いちべつ》以来のことを語り合う年齢になっている。私は高校を卒業してから、銀座のボーイをふり出しに、こうして新宿のバーのマネージャーになるまでの道筋を、こと細かに喋《しやべ》りはじめた。
谷口の澄んだ目と綺麗《きれい》な笑顔は相変らずであったが、なぜかひどく元気がない様子で、調子に乗って喋り続けていた私も中途で話をやめ、
「どこか具合が悪いのかい」
と訊《き》いたほどだった。
「いや……」
谷口はあいまいに答えたが、
「ちょっとトイレへ」
と断わって席を立ったとき、ふらりとよろけてテーブルに手をつき、コップの水が私の膝《ひざ》にこぼれたりした。谷口はそのままへなへなと私のほうへ寄りかかって来たので、私は席を入れ替って谷口をそのまま坐《すわ》らせた。
「いったいどうしたんだよ」
答えしぶる谷口に私がしつっこくそう尋ねると、谷口はほんとうに恥かしそうな顔になって、
「実は腹が減っているんだ」
と言った。
「そんな……」
いまどき立ってもいられないほど、腹を空《す》かしている奴《やつ》がいようとは思わなかったから、
「なぜそんなになるまで食わないんだよ」
とばかなことを訊《き》いてしまった。
「失業したうえに金を使い果しちゃってね」
「家は……」
「ないんだ。追い出されてしまって」
要するに、何もかも失って行くあてもなく、空《す》きっ腹をかかえて街をさまよい歩いていたらしいのだ。
とにかく私はその場ですぐにサンドイッチを注文して、谷口がそれを食べ終るまでに対策を考え出していた。
「仕事は何でもいいかい」
「うん」
「バーのウエイターだぜ。ボーイさんだよ。それでもよかったらいますぐにでも世話をしてやれるんだがな」
「何でもするよ」
そう言ったときの谷口の顔は、私にとってちょっと不可解なものだった。卑屈なかげは微塵《みじん》もなかった。あきらめた感じでもなく、新しく野球のチームに参加して来た子供のように、楽し気ですらあった。
その晩谷口は私の部屋に泊った。私が店へ出ている間に、教えたとおり近くの銭湯へも行って、さっぱりした顔で私の帰りを待っていたのだ。
その晩のうちに私はママと話をつけていた。少しは経験があるようにも言い、凄《すご》くよく気のつく奴《やつ》だから絶対に使って損はない、と売り込んでおいた。
「ずいぶん遅いんだね」
アパートへ帰ると、谷口はそう言って私を迎えた。
「これから毎晩こんな具合になるんだぞ」
私はそう言い、いろいろとボーイとしてのコツや、酒場で生活する要領のようなことなどを講義してやった。トレーの持ち方や、グラス類ののせ方、器を客の前に置くときのやり方などまで実演してみせたりしたのだ。
その翌《あく》る日、谷口は私といっしょに四番地へ出勤し、その晩から店の屋根裏部屋へ住み込むことになったのである。
そういうなりゆきで谷口との新しいつき合いがはじまったから、あの映画館の前になぜ谷口がいたかということは、深く考えてもみなかった。
しかし、呂律《ろれつ》の怪しいルンペンがメトロ・プロムナードを棲《す》み家《か》にしているのを知った以上、それと谷口をつなげて考えないわけには行かなくなってしまった。
「あいつはルンペンになるところだったんだ」
私はそうつぶやいていた。
8
二幸で仕入れた野菜やつまみ類を、店へ寄って冷蔵庫へしまった私は、今日こそ詳しいことを訊《き》き出してやろうと意気込みながら滝川外科へ向かった。
「よう、どうだい」
「どんどん良くなっている。もうそろそろ退院してもいいんじゃないのかな」
「ばか言え。いくら良くたってまだ当分退院は無理だよ」
「でも、君や光子さんに頼り切ってしまっているから、心苦しくて」
それが谷口の本音だとは承知していたが私は意地悪く、
「ふうん、そうかい」
と冷たく言った。
「だったら隠さずに何もかも教えてくれたっていいじゃないか」
「隠す……」
「ああ。お前は隠してるよ。自分のことは何も俺たちに教えないじゃないか。俺も光子も不思議がっているんだ、不思議でしようがないんだよ。いったいお前は何者なんだい。どうして人に狙われたりするんだよ。どうでもいい人間なら誰も命なんか狙いはしない。命を狙われる奴《やつ》は大物に決っているさ、だからお前は大物なんだ。でもその大物がなぜぶっ倒れそうになるまで腹を空《す》かして、あの口のよく廻らないルンペンなんかといっしょにメトロ・プロムナードへ棲みつこうとしていたんだ」
谷口は答えず、静かに目を閉じた。私は言葉の調子を変え、なだめるような言い方になった。
「光子の奴なんか、お前のことを乞食《こじき》の世界の王子さまかなんかと思っているらしいぜ」
すると谷口は急に目を開き、私をみつめて人なつっこい笑い方をした。
「乞食王子か」
「笑いごとじゃないよ」
私は叱《しか》るように言った。
「別に隠しているんじゃないよ。そんなことを君らに隠す必要なんかないんだ。でも俺にもよく判《わか》らないんだ。君は俺が命を狙われたと言うけれど本当にそうなのだろうか」
谷口は逆に私に質問して来た。
「そんなこと知るけえ」
私はわざと荒っぽく言った。
「なぜ俺は射たれたのだろうか。あのときの男は正気じゃなかったんじゃないのかい」
「俺も最初は麻薬の中毒患者かと思ったよ。でもどうもそうじゃないらしい。お前、本当に心あたりがないのか……」
「俺も知りたいんだ」
谷口の顔に珍しく悲しそうな表情が泛《うか》びあがった。見ている私までが悲しくなるような深い表情だった。
「俺はどこかで人に憎まれるようなことをしたのだろうか。俺の命は人に狙われるほど値打ちがあるのだろうか。俺はただ、みんなと同じように生きていたいだけだ。特にそれ以上の望みなんか持っていやしない。貧しくたってかまわない。貧乏は生まれつきのようなものさ。子供のときから贅沢《ぜいたく》なことなどしたこともないが、別にそれを不満だと思ってもいない。ただ俺が望むのは、こそこそと逃げ歩くような生活ではなく、一か所に落着いて平和に毎日を過したいだけなんだ」
私は谷口の言葉尻をとらえた。
「こそこそと逃げ歩くって、いままでお前はそんな暮らし方をしてきたのか」
「たとえだよ。貧乏人はなかなか一か所には落着いて暮らせないものさ。いつも何かに追いたてられるように暮らしていかなければならないんだ。終戦後のどさくさに紛《まぎ》れて、とうとう俺はろくに学校へも行かずに過してしまった」
私は頷《うなず》いた。上野の山の小屋に住んで中学へも通っていなかったのは私もよく知っている。
「学校どころか、本当を言うと俺にはもう戸籍もなくなっているらしい」
「どうして……」
「だってあんな暮らしをしていただろう。それに俺は自分の生まれた場所も知らないんだ。谷口という名前がはたして母の方のものか父の方のものかもはっきりとは知らないんだ」
「だってお前はお母さんといっしょにいたじゃないか。お母さんといっしょにガラス工場の工員寮のようなところに住んでいただろう」
すると谷口は悲し気ななかにもなつかしそうな微笑を泛《うか》べた。灰色の毛布の下から左手を出して、
「三年生、四年生……君たちが疎開に行ったのは五年の二学期だったかな」
と指を折って数えた。
「毎日君と遊んでいたあの頃が、俺たち母子にとっては一番平和で安定した時期だったんだよ」
「お前が転校して来たのは三年の二学期さ。そして俺たちが疎開させられたのが、五年の二学期の始めだ。行きも帰りも貨車に乗せられたよ。俺たちは疎開じゃ遅い方だったが、そのかわり長くいないですんだから良かったと思っている」
「俺がなぜみんなといっしょに疎開しなかったか、それがもうよく判《わか》らないのだ。とにかくあの頃お袋の身にまた何か起っていたらしくて、俺は君たちが疎開して行ったすぐあと、埼玉のほうの知らない家へあずけられてしまった。小さな農家ですごく貧乏な家だったから、俺は行ったその日からずっと腹を空《す》かせっぱなしだった」
「また何か、と言ったな。君のお母さんにはそんなにしょっちゅう何か起っていたのかい」
「そうらしい。俺は子供でよく判《わか》らなかったが、物心《ものごころ》ついた頃から俺とお袋はそれこそ何かから逃げ廻っているような生活ばかりだったのだ。いったいどことどこを歩いたんだか見当もつかないが、汽車に乗ったり歩いたり、駅の待合室で寝ることも珍しくなかった。木賃宿のようなところにもよく泊ったよ。二、三か月一か所にいられればいいほうだった。どこへ行っても他所者《よそもの》だから、土地の子供たちにはよくいじめられた。しまいにはどんな態度でどんな顔をしていればいじめられないか、要領を嚥《の》みこんでしまった」
私の顔を冷たいものが覆ったような気がした。谷口の澄んだ瞳《ひとみ》や邪気のない笑顔は、結局そういう自己防衛のためのものだったのだろうか。谷口はそんな私の気持を察したように、かすかに首を左右に振るようにして喋《しやべ》り続けた。
「俺はね、お袋の正確な年齢さえ知らないんだよ。考えてみてくれ、母親の年齢なんて、父親がいたり周囲に親戚がいたりして始めて子供の耳にも入ってくるものだろう。根なし草同然にいろいろな土地を流れ歩いた俺たち母子《おやこ》には、そんな話をする機会などありはしなかった」
「でもお前は俺たちの学校へ来たじゃないか。入学するにはいろいろな手続が必要だった筈《はず》だ。本当は戸籍だってちゃんとあった筈だぞ」
「それがどうも違うらしい。あそこで落着けたのは、俺たち母子を特別にかばってくれる人がいたかららしい。俺はその人があのガラス工場の主人だったように思っているんだよ」
「よぼよぼのおじいさんだった筈《はず》だ」
「うんそうだ。だからあそこに長くいられたのさ。実は俺が怜悧男という名前で呼ばれるのを嫌ったのは、お袋が嘆いているのを聞いたからなのさ。珍しい名前だからすぐに判《わか》ってしまう、とね」
谷口の目が潤《うる》んでいた。
9
「君のお母さんには何か大きな秘密があったらしいな」
私は谷口の目に涙が湧きあがって来そうなのを予感しながら出来るだけ静かな声で言った。谷口は即座に頷《うなず》いて見せる。
「その秘密はいまだに続いているらしい」
「それがお前を追い駆けているのか……」
谷口はまた頷いた。
「もし本当に俺が命を狙われたのだとしたら、それしか考えようがないじゃないか。俺だっていままであきるほどそれについては考えてきたさ。でも何ひとつ判らない。手掛りがまるでないんだ。俺は子供だったからな。それでも三年生ぐらいからのことはなんとかまとまった形で想い出すことが出来る。その想い出すことが出来る部分は、証拠の方が消えてしまっているんだ。かんじんのあのガラス工場は空襲で根こそぎ焼けてしまい、俺たちをかばってくれたらしいあのお爺《じい》さんも焼け死んでしまった。寮に住んでいた人たちもちりぢりになってしまってもうどこにいるのか見当もつかないし、顔を見たってお互いに判《わか》らなくなっているだろう」
「どうして上野にいたんだ」
私は当面一番知りたいことをずばりと尋ねた。谷口の母親のことまではさかのぼれないまでも、上野から新宿のメトロ・プロムナードまでの筋道なら谷口自身がはっきりと説明出来る筈《はず》だった。
「戦争が終るとすぐ埼玉から上野へ出て、そのまま駅のあたりに住みついただけさ」
谷口の返事は私の期待に反して簡単明瞭すぎた。
「それじゃなにか、お前は戦災孤児としてひとりっきりであそこで暮らしていたわけか」
「お袋もガラス工場が空襲でやられたとき死んでしまったから、たしかに俺は戦災孤児というわけだ。でもひとりじゃなかった。女の人といっしょだったんだよ」
「女……」
「若い女の人だ。俺はその人を上野時代ずっとお姉さんと呼んでいた。本当の名前は杉代恵子《すぎしろけいこ》と言うんだ。終戦の時の年が二十三だった。俺があずけられた埼玉の農家の娘さんだよ」
「その娘さんがどうして上野に……」
「そいつがまた新しい謎《なぞ》なんだ。その杉代恵子という人は、あきらかに俺のお袋をよく知っていた。俺が埼玉の杉代家へあずけられたのはそのせいだろう。だがその人は決して俺のお袋のことを口にしなかった。親たちにもだ。戦争が激しくなるまでその人はどこか他所《よそ》で働いていたらしい。それが実家へ戻ってきてまもなく強引にこの俺を呼び入れてしまったらしい。だから埼玉の杉代家で、俺は始めから終りまで邪魔者扱いだった。その人が両親や兄弟と俺のことで争っているのを何回聞いたことか。そのあげくにとうとう居づらくなってまた家をとびだしたわけさ。ちょうど戦争も終ったしね」
「つまりその杉代恵子さんはお前のために家をとびだしたって言うわけだな。なぜだろう。あの時代はそんななまやさしい時代じゃなかったぜ。いまならとにかく日本中が餓《う》えていた時代だ。二十三の若い女が小学校六年の子供を連れてその荒波の中へとびだして行くなんて」
「そうなんだ。あの人は俺のために犠牲になってくれた。そりゃ、俺だって出来るだけ迷惑をかけまいと稼げることなら何でもしたさ。かっぱらいだってやったことがある。みんなやってたからな。あそこに住んでいれば、その程度のことでは罪の意識なんて持ちようがなかった。みんな生きて行くのに夢中だったんだ。そして気がついたときにはあの人はもう夜の女になってしまっていたんだ」
とうとう谷口の目から、つ、と涙が流れ落ちた。
夜の女。闇の女ともパンパンとも言う。ずいぶん久しぶりに聞く言葉であった。
私が高校を卒業して銀座のバーで始めて働いた頃、パンパン・ガールと言う言葉はまだ生きていた。ちょっと物知りぶった顔でパン屋と言えば、ベーカリーのことではなくて娼婦《しようふ》のいる家のことを意味した。上野は男娼で有名になったが、実際にはそれ以上に数多くのパン助たちが群がる街であった。
「その人に育てられたのか」
「そうなんだ。あの人は売春婦になってまで俺の面倒を見てくれた。いったいこの俺にどんな値打ちがあるというのだろう。死んだお袋にどんな借りがあったと言うのだろう。もっとも君と会った頃はもう世間並みに言えば中学二年生で、あれから一、二年後には俺だって少しはものの役には立つようになっていた。だから育てられたと言っても終りの頃は共同生活みたいなものだった」
「と言うと結局その人とは別れ別れになったわけなんだな」
私がそう言うと谷口は急に目を閉じた。閉じた瞼《まぶた》の下からまた涙が流れ出していた。
「違うよ。あの人は死んでしまった。殺されたんだ。美術館の裏のほうで絞め殺されてしまったんだ」
私には言う言葉がなかった。
「夜の女殺しなんて珍しくもない。新聞に出たのかどうかも俺は知らなかった。生まれてこのかた俺が頼ったのはたった二人の人間だけだった。二人とも女だった。お袋とその人だよ。そして二人とも早やばやと死んで行った。それ以来俺はひとりぼっちだ。ひとりぼっちで生きている。でも俺は俺なりに努力しているつもりなんだ。俺にどんな値打ちを感じていたのか知らないが、俺のために売春婦にまでなったあげくに殺されてしまった女性がいるんだ。俺はあの人がしてくれたことを無にしてしまうわけにはいかない。あの人が俺に感じていたほどではないにしても、少しは価値のある人間にならなくては申し訳がないからな」
谷口はそう言って濡《ぬ》れた目を開いた。
「信じてくれるかい」
「何をだ」
「この俺をさ。あの人が死んで以来、俺が一生懸命やってきたことを信じてくれるかい」
「うん、信じるよ」
私がそう言うと谷口は手を差しのべた。私がそれを握ってやると、強く握り返し、
「ありがとう」
と涙声で言った。
「あんなざまで君にめぐり会ったから、だらしのない生活をしていると思われたかと……」
谷口は声をつまらせて途中で言葉を切った。
「案外そうは思わなかったよ」
私は他人事《ひとごと》のような言い方をした。
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「お前が上にばかが付くほど正直な性分だということは昔からよく知ってるさ。それにどういうわけかひどく運の悪い男だってこともな。でも、俺ばかりでなく、みんなお前のことを良い奴《やつ》だと言ってるよ。それでなかったら井田さんや今谷先生が帽子を廻して金を集めたりしてくれるもんか」
私はそう言って谷口を励ました。
「俺も自分があまり運の強い男じゃないということは自覚している。あの人に報いるためにも何とかして価値のある人間になりたいとは思うが、富や権力を持つようになれるとは決して思っていない。俺には俺の出来ることしかやれないんだ。運も力もない俺が何かの価値を持つとしたら、それは自分を捨ててでもみんなに優しくしてやるだけだろう。いじめられるのはなれている。どん底の暮らしもよく知っている。だから俺はみんなに優しくすることだけを心がけてきたんだ。よけいなおせっかいだと嫌われることもあるし、いまだにしょっちゅう人にだまされてもいる。でも俺の目的は人に好かれることじゃない。ただ人に優しくすることだけなのだ。汚いルンペンが突然あんな金を持ってきたからさぞ面喰《めんくら》っただろうが、あの金はたぶん俺がいままでしてきたことが無駄でなかったという証拠なのだろう。あの汚れた連中は俺を認めてくれていたんだなあ。君にあの金包みをここで渡されたとき、俺は本当にうれしかったよ。これで少しはあの人の恩に報いることが出来たかと思ったら、うれしくて涙がこぼれた。でももらいっぱなしは出来ない。早く元気になって返さなくては。いや金のことじゃないんだ。気持さ。直接金をくれた人たちにではなくても、俺はこの恩を返さなければならない。早く元気になりたい」
私は谷口の顔を長いこと見つめてから言った。
「こんなお前を、どうして射ったりするんだろう」
「いいんだよ。もうすんだことだ。俺は怒ることを捨てたんだ。人に優しくするには腹を立てちゃいけない。怒ったら俺が俺でなくなるんだ」
私は谷口を元気づけようと、わざとにやにやからかうように言った。
「お前、その杉代恵子という人のことも結構だが、大事なことを忘れているんじゃないのか」
「お袋のことか」
「そうさ。恩を受けたのはその人ばかりじゃないだろう。恩ということから言えばお母さんから受けた恩の方がよほど大きいだろう」
「考えてるよ」
谷口は静かな声で答えた。
「妙なことだが、上野時代はそんなにお袋を恋しいとは思わなかった。世の中が混乱していたせいかな。でもだんだんお袋が恋しくなって来た。母親のいる奴《やつ》がうらやましくてしかたがない。俺のお袋はとても優しい女だった。俺が他人を憎んだり怒ったりしないよう心がけるようになったのも、ずいぶんお袋の影響があると思っている。なぜだか判《わか》らないが、よく考えてみるとお袋はずいぶんひどい人生を送ったものだ。こうして俺が生きている以上、どこかに俺の父親がいるにきまっている。しかしその男は一度も俺たち母子の前には現われて来なかった。お袋はその男に捨てられたのだろう。ひょっとするとその男は金持の家の息子だったのかも知れない。俺にはそんな記憶があるんだ。うんと幼い頃……俺が幾つだったのかも判らないが、とにかく俺はきれいに手入れのいきとどいた大きな庭を憶《おぼ》えているんだ。池があって石の橋がかかっていて、その橋の上から見ると、鯉《こい》がたくさん泳いでいるんだ。大きな鯉だ。その庭にいるとき、俺のそばにはいつもお婆さんがついていたような気がする。すぐ近くに大きな山が見えていた。うんと幼い頃の記憶だから確かではなかろうが、なぜか大人はみんな白い着物を着ていた記憶がある。まっ白な着物で、触《さわ》ると冷たかった筈《はず》だから白むくの絹かもしれない。それがどこなのか俺には全然|判《わか》らない。でも確かに俺の記憶の一番奥の方にそんなものがあるんだよ。大きな踏み石からあがると長い長い廊下が続いていたから、きっと大きな家だったんだ。こわいくらい遠くまで長く続いた廊下だ。俺はいまでも風邪をひいて熱が出たりすると、よくその廊下の夢を見るんだ。どこまでも果しのないまっすぐな廊下で、俺は怯《おび》えきって泣き喚《わめ》いているんだ」
谷口はそこでふうっと大きく息を吸い込んだ。
「その記憶が実際にあったことだとすると、お袋は当然その家に関係がある。そこから追い出されたのではないだろうか。俺といっしょにね。とにかくそのことからいろいろのことが想像出来る。何かあらそいのようなことがあったに違いない。お袋は俺を連れて逃げ歩いていたのだろうか、とも思ったりしている」
「まさかそれが今度の事件にまで尾を引いているんじゃあるまいな」
私がそう言ったとき、光子がカーネーションの花束をかかえて、その病室へ入って来た。
「あら来てたの」
私を見てそう言い、いそいそと花瓶の花を取り替えにかかりながら、
「ご気分はいかが天使ちゃん」
と谷口に言った。
「天使ちゃん……」
私は光子に訊《き》いた。
「看護婦さんたちがそういう綽名《あだな》をつけちゃったのよ」
光子は屈託《くつたく》のない笑い方をした。