1
私の前に井田さんと中島さんが坐《すわ》っていて、中島さんはまた酔っぱらっていた。
「おい、月岡」
中島さんはハイボールのグラスを、カウンターごしに私のほうへ突き出し、目を据《す》えて言った。
「何でしょう」
そんな中島さんの扱い方を、私はもう心得きっていて、意味ありげにニヤリとしながら答えた。へたにまともな受け答えをすると激昂《げつこう》しかねないが、冗談で受け流してさえいれば、機嫌がいいのだ。
「お前、安保に反対か」
「アンポ、ハンタイ」
私はデモ隊がやっているように節をつけて言い、素早《すばや》く中島さんのグラスをとりあげてウイスキーをついだ。
「濃いですよ」
ソーダ水をほんの少し入れて返しながら言う。
「安保に反対か」
グラスを受け取りながら中島さんはきつい声でまた言った。
「ええ、湯たんぽ、三十円……」
私は以前赤線街の夜を流して歩いた湯たんぽ屋の呼び声を真似た。
「お、こいつ変なこと知ってやがる」
中島さんは井田さんのほうを向いて笑った。
「そんなのがいたなあ。本当に三十円だったかな」
井田さんはそう言って首を傾《かし》げる。私は素知《そし》らぬ顔で井田さん達の前を離れ、ほかの客の前を拭《ふ》きはじめたが、内心ほっとしていた。
中島さんはきのうのデモのことで興奮しているのだった。安保反対を叫ぶ全学連のデモ隊が国会へ突入し、死傷者が出ていたのだ。空模様はゆうべと同じように今にも降り出しそうで、町の空気もまた殺気立っているようだった。
政治などとは余り関係のない私だが、今度の安保騒ぎにはすっかり巻き込まれていた。国労や動労のストの日は客足が完全にとまってお茶ひき寸前だったし、そうかと思うとデモの流れの客で突然満員になったりするのだ。
「怕《こわ》くて集金にも行けやしない」
店の女の子はデモを口実にして集金を怠ける者もいた。
が、いずれにせよ、しがないバーのマネージャーである私にとって、安保改定問題などどうでもよく、それに反対するデモやストの影響だけが気になっていた。
経営者はいざ知らず、酒場ぐらしの男たちは、良いほうにも悪いほうにも、余り急激な変化が起るのを好まない。それは、毎日仕込むつまみやオードブルの量の問題からはじまってホステスの動かしかたまで、一定の枠《わく》の中で暮らしているからなのだ。立て込みすぎればサービスが低下するし、自分たちの接客技術をふるう余地もなくなる。また閑《ひま》すぎれば女の子だけにまかせて置くわけには行かなくなって、それこそ客の前で踊って見せるほどの座持ちをあいつとめなければならない。
扱いなれた常連が、いつもの時間に集まって来て、適当なにぎやかさで騒いで帰ってくれるのが、一番たのしいし体も楽なのだ。また、客の動きがそのように平均している時が、店の経営状態も一番いい。
たとえて言えば私たちは船の鼠《ねずみ》だった。それもごく小さな危なっかしい船に乗っている鼠だから、風や波の具合には敏感にならざるを得ない。昔から水商売の世界に棲《す》む者がよく縁起をかつぐのは、そういうことのあらわれらしい。
とにかく私は、世間に吹き荒れる安保反対の風を、わが身にとって良いものだとは感じていなかった。
今に嫌《いや》なことが起るに違いない。
体のどこからともなく、そんな不吉な予感が湧《わ》き出して、酔客の荒れようやツケの回収の具合にまで、なんとなく神経をとがらせていた。
「アンポ、ハンタイ。アンポ、ハンタイ」
ドアがいきなり勢いよくあいて、若い三人連れがそう叫びながら入って来た。
「いらっしゃいませ」
私はそう言ってカウンターの中を奥のほうへ横歩きに移動しはじめながら、心の中ではまたはじまりやがった、と舌打ちしていた。
「アンポ、ハンターイ」
中島さんがその三人に刺激されてまた大声で言った。
2
フランス式のデモというのもはじめて見た。降りはしなかったが相変らず危なっかしい空模様で、道いっぱいに手をつないでひろがって歩いていたのが、しまいには子供の頃よくやった〈いも虫〉の遊びのように、前の者につながってジグザグに動きはじめた。
「これじゃ喧嘩《けんか》になるにきまってらあ」
百合という店の子について集金に行った帰り、日比谷あたりでそれを見た時、私は思わずそう言った。まわりにいる警官たちの目が、そのジグザグ運動で殺気立ってしまっていたからである。主義主張もここまで来れば体と体のぶつかり合いで、警官だって安保よりは自分の身をかばう為に学生を撲《なぐ》りつけるのだな、などと実感した。
「あれは右翼の車でしょう……」
百合がそう言って指さしたのは、NHKの前あたりだった。見るとトラックが四台ほどゆっくりと新橋のほうから曲がって来るところで、昔の陸軍の戦闘服のようなのを着た連中が、荷台にぎっしり乗り込んでいた。
「百合、早く行こう」
私は危険を感じて百合を急がせ、とりあえず表通りからのがれて横道へ行った。
「どこへ行くのよ」
百合は踵《かかと》のとがったハイヒールを鳴らして不服そうに言った。新橋から地下鉄に乗って帰る筈《はず》なのだが、私の向かっているのは虎の門方面だった。
「あっちへ行っちゃ危《ヤバ》いよ」
私は百合にそう言った。デモ隊の列は田村町の交差点をまだ切れぎれに渡っていて、へたをすると信号待ちの間に巻き込まれかねなかった。
「マネージャーについて来てもらってよかったわ」
足早くデモ隊から遠ざかる私に追いすがるように、小走りになりながら百合が言った。
「岸を、倒せ。岸を、倒せ」
デモ隊の合唱が私たちのうしろから追いかけて来るように聞こえた。
「虎の門から乗ろう。そう変りはしないさ」
私は百合になぐさめるように言ったが、南佐久間町の交差点へ出るとまたデモ隊にさえぎられた。
「岸を、倒せ。岸を、倒せ」
田村町で聞いたのと全く同じ合唱で、私は気味が悪くなった。まるで日本中の人間が同じ顔で同じ行列を作っているような気がした。
「さ、急いで」
警官が笛を鳴らし、交差点を渡るデモ隊の列が跡切《とぎ》れた中を、私と百合は手をつないで向こう側へ走って渡った。
「岸を、倒せ」
行手の虎の門の交差点からもその声が聞こえていた。
「やだわ、どうなっちゃったんだろう」
百合は怯《おび》えて泣声を出した。
「とにかく電車に乗ってしまおう。そうすれば大丈夫だ」
私も緊張し切っていた。とほうもないエネルギーの塊《かたま》りが、国会のほうへ向かって幾筋もの川のように流れているのだ。
そしてやっと安全な地下へもぐり込んだ時、私はなぜか悲しくなっていた。
「ああ助かった」
百合は地下鉄のプラットホームに立って、やっと私に笑いかけた。
「うん」
轟《ごう》、と電車が入って来た。電車はいやにすいていた。
次の赤坂見附で乗りかえて、四谷をすぎる頃まで、私は窓ガラスにうつる自分の顔を見てばかりいた。
「これが疎外感という奴《やつ》なんだな」
私は溜息《ためいき》まじりに百合に言った。
「ソガイカン……」
百合には通じないようだった。
「東京中の人間がデモに加わっているみたいじゃないか」
「そうね。うちのお客さんたちもやってるわよ、きっと。怪我《けが》をしなければいいけど」
百合は心優しい女だった。
「俺もやりたくなったよ」
そう言うと百合は声をあげて笑った。ただ笑うだけで何も言わなかった。
その日のデモは夜中まで続いた。翌日新聞を見たら、三十三万人のデモ隊が国会をとり巻いていたそうだった。その数は私が思っていたよりずっと少ない感じだった。
それにしても、三十三万もの人間が強く感じていたことを、自分がさっぱり掴《つか》めなかったというのはショックだった。みんながいっせいに同じ方向へ歩き出したというのに、私には何のことかさっぱり判《わか》らず、ただうろたえていただけだったのだ。
とにかくその晩、新安保条約は自然承認されてしまった。
3
次の日は日曜で、私は成子坂《なるこざか》下の光子のアパートへ行った。いつとはなし、日曜は光子と一緒に過すことにきまってしまっていた。
「そろそろ一か月になるわね」
光子が言った。朝から降ったりやんだりの天気で、もう完全に梅雨《つゆ》の感じだった。
「ん……」
私は畳の上に寝そべって朝刊を読んでおり、顔をあげると流しに向かって食事の仕度をしている光子の、膝《ひざ》小僧のうしろの窪《くぼ》みがまん前に見えていた。
「谷口さんのことよ」
「ああ……そうだな」
光子は味噌《みそ》汁の鍋《なべ》をガス・コンロにかけて点火すると、黄色い格子縞《こうしじま》に大きなポケットのついたエプロンで濡《ぬ》れた手を軽く拭《ぬぐ》いながら、
「あなたにもいいものあげようか」
と言って押入れの襖《ふすま》を細くあけ、何か取り出してテーブルの上へ置いた。
「何だい」
私は起きあがった。
「煙草か」
テーブルの上に、見なれぬ包装の大きな煙草の袋がひとつ置いてあった。
「ハイライトよ」
「へえ……」
私は手にとって見た。
「ロングサイズよ。あしたから発売になる奴《やつ》よ。お客さんからとりあげちゃった」
光子は流しへ戻り、コトン、コトンと庖丁《ほうちよう》の音をさせはじめた。
「もう一個あるから封を切って吸って見ていいわよ。もう一個はあとで病院へ持ってくの」
「谷口にやるのかい。あいつは煙草を吸わないぜ」
「看護婦さんにあげるの。一日だけでも発売前なら珍しいでしょう。あの看護婦さん、よくしてくれるんだもの」
光子は毎日欠かさず滝川外科へ通っていたが、私はこのところ一日おきくらいになっていた。それも光子が毎日行くからで、それでなかったら谷口を見舞うのも三日に一度か四日に一度くらいになっていたかも知れない。
「もともとは俺の友達なのに、お前のほうがずっと熱心に見舞ってくれている」
私は封を切って、そのハイライトという煙草を咥《くわ》えながら言った。マッチを擦《す》る音が聞こえたのだろう。光子は小さな皿に沢庵《たくあん》を十切れほど並べたのを持って私のそばに坐《すわ》り、それをテーブルの上に置くと、
「どう、おいしい……」
と訊《き》いた。
私はハイライトの最初の煙を吐き出しながら、
「軽いよ、やっぱり」
と言った。
「どれ、吸わして見て」
光子が言うので私がそれを渡そうとすると、光子は首を横に振って唇を突き出した。手が濡《ぬ》れているからだろう。私はハイライトを咥《くわ》えさせ、一息吸い込むと唇から取ってやった。
光子は深々と吸い込んで、ゆっくりと吐きだした。
「いけるわね。でも、もう煙草よさなくちゃ」
そう言うと私の腿《もも》の辺りに手をかけてさっと立ちあがってまた流しへ向かった。
「なぜ……別にやめることないさ」
「体に悪いから」
光子は口早に言って水の音をさせはじめた。息をつめたようなその言い方で、私にはピンと来た。
私は煙の立つハイライトをじっとみつめていた。これだったのか……と思いながらみつめていた。
この間から何か予感がしてならなかったが、厄介《やつかい》ごとと言うのはこれだったのである。
光子の妊娠。
やがて光子はいつもの表情でテーブルに食器類を並べはじめ、私もいつも通りの態度で遅い朝食をした。
その食事の跡片付けがおわって谷口を見舞いに出る時、
「レインコートも着たらどうだ。濡《ぬ》れると体に悪いぞ」
私は光子にそう言った。すると光子は私をキラキラと光る目でみつめた。
「うん」
子供がするように力をこめて頷《うなず》き、一度はいた靴を脱いで部屋へ行き、レインコートを着て戻ってきた。その間に私はしとしとと細かい雨の降る道へ出ていた。
心の中は暗かった。光子が妊娠することは当然覚悟していた。しかしそれはただの覚悟だけで、それから先のことは何も考えていなかった。
来るべきものが来て、ただ侘《わび》しかった。まだ時間は少し残っているが、二か月かそこらの残り時間が終ったら、私はひとでなしになるか甲斐性《かいしよう》なしになるか、そのどちらかになることはもうきまっているようなものだ。
妊娠した光子の体が抜きさしならないものになるその短い時間を、せめて精一杯優しく過そうと考えはじめていた。妻子を養えるほどの収入もない自分にとって、その残された短い時間だけが、さも夫らしく父らしく振舞うことを許されている時間なのだ。
レインコートを着て出て来た光子は、自分の傘《かさ》をすぼめて手に持ったまま、私の傘の下にとび込むと腕をしっかりと組んだ。
私たちは体を寄せ合って雨の中を歩きはじめた。光子は私に頼り切っているように思えた。そして私は、その光子をどうしようもない泥沼のほうへ、素知《そし》らぬ顔で連れて行くような感じで歩いていた。
「何か買物をしたい気分」
大ガードをくぐった時、光子が不意に明るい声で言った。私はベビー服か何かのことを言ったのかと思った。
「何を買いたいんだ」
空とぼけて訊《き》くと、光子ははしゃいだ様子で、
「ほんとは指輪」
と答え、笑いながら私の腕をいっそう強くかかえた。
「この薬指にはめてみたいの。安物でいいのよ。でもさ、うまく言えちゃったんだもの。薬指にご褒美《ほうび》をあげたいの」
「帰りに伊勢丹へ寄ろう」
暗い思いを吹き消すように、私は弾《はず》みをつけて言った。
「金ならまだ少し残ってる。給料日まであと五日だって言うのに、俺にしちゃ上出来さ」
光子はそれが冗談ででもあるかのように笑った。
「赤ちゃん、できた。赤ちゃん、できた」
光子はまだ人通りの多くない角筈《つのはず》の歩道を、デモ隊の合唱と同じ節をつけてそう言いながら、私の体を押したり引いたりしてジグザグに歩きはじめた。
私も、
「赤ちゃん、できた」
と低く言いながら歩いた。そう言っていると、何も喋《しやべ》る必要がなかった。そしてしまいには、二人がこの上もなく深く結ばれた男女であるかのように感じてしまっていた。
〈四番地〉の前を通って区役所通りのはずれの坂の中途あたりまで、私と光子のその低い合唱は続いた。
そして光子は突然沈黙した。二十歩ほど、そのまま黙って歩いただろうか。
「生んじゃってもいいのかよ」
光子が男のような乱暴な言い方をした。私には、光子が複雑な感情の只中《ただなか》にいることが判《わか》った。
「判んねえ」
私も他人事《ひとごと》のように答えた。
「いいのよ、無理しなくても」
次に聞こえた光子の声は、ひどく優しかった。今度は私が光子の腕を強く引きつけた。
「よく考えるよ」
「子供、好き……」
「どうなんだろうなあ」
正直私にははっきり答えかねる問いだった。
「あたしも判《わか》んないの」
光子は笑って見せたが、少し淋《さび》しそうだった。
「でも、指輪は買うぜ」
「うん」
光子の声が少し明るくなった。
「谷口さん、何て言うかな」
どうやら光子は谷口に妊娠のことを告げる気らしかった。
4
「へえ、こんな煙草が出るのか」
谷口はすっかり元気になり、ベッドに腰かけて光子が渡したハイライトの袋を見ていた。
「あした山本さんが来たら、君からだと言って渡すよ」
谷口がそう言うと、光子は甘えた声を出した。
「いやだわ、あしたじゃもう発売になってるもの。珍しくなくなっちゃうじゃないの」
あの中年の看護婦は山本と言う名前らしく、今日は休みだそうだった。
「大丈夫だよ。あの人は朝早くに出勤するから、煙草屋だってまだあいていないさ」
谷口はそう言うと、ハイライトをベッドのそばの小さな戸棚《とだな》へしまった。
「デモで大変だったらしいね」
谷口が私に言った。
「そうさ、凄《すご》かったぜ」
「見たの……」
「うん、百合と集金に行って、もうちょっとで巻き込まれるところだった」
「東大の学長が言ったことを文部大臣が非難してるね。教育者の義務を放棄したって。どう思う」
「よく判《わか》んねえけど、商店なんかはみんな学生に味方したようだ」
「何せ戦争につながるんだからなあ」
谷口は溜息《ためいき》をついた。空襲で母親をなくした谷口ほどではないにしても、世の中が戦争のあるほうへ向きを変えるのは、私にとってもぞっとしないことであった。親類の男たちが何人も兵隊に行って死んでいたし、親しく行き来していた家はほとんど戦災で焼け出されたのだ。
「そんなことよりねえ、あたし今日これから指輪買うのよ」
光子が勢いよく言って話題をそらせた。
「指輪……」
谷口は光子がみつめる左の薬指を眺め、すぐに視線を私に移した。
「そういうことさ」
私は苦笑して見せた。
「結婚するんだね」
谷口の顔がパッと明るくなった。そういう時の谷口は、まるで善意そのもので、こちらが何か気恥かしくなるほどであった。
光子は私の肩に左腕をかけ、体を左右にゆすりながら、
「赤ちゃん、できた。赤ちゃん、できた」
と言った。
「まだどうするかきめてないんだ」
私は光子の声の中で谷口に言った。
「おめでとう。よかったねえ」
谷口の目が潤《うる》んだ。
「俺と同じ年の奴《やつ》に、もう子供が生まれるんだなあ」
私は少しうろたえ、
「まだどうするかきめてないんだ」
同じことをまた言った。
「そんなこときまってるだろう。早く籍を入れないとおかしいよ。日が合わなくなっちゃう」
谷口はたのしそうに笑った。
「もうすぐ退院できそうだから、結婚式には間に合うな」
「結婚式なんて、そんな金のかかることできないよ」
私は、なあ、と言って光子を見た。光子は微笑を泛《うか》べて谷口を見ていた。
「大丈夫だよ。金のかからない結婚式のやり方なら、俺はよく知ってるんだ。随分やったからね」
「やった、って……」
「仲人《なこうど》をやらされたのさ」
谷口はクスクスと笑う。
「お前が仲人を……」
「うん」
私はあらためて谷口をみつめた。病院お仕着せの青い格子縞の浴衣《ゆかた》を着た谷口の体の奥のほうに、まっ黒に汚れたルンペンの集団が見えるような気がした。
「まさか……」
すると谷口は、私の気持を察したらしく、
「ルンペンの結婚式もやったよ」
と言った。とたんに光子がケタケタと笑いはじめた。
「ルンペンの結婚式……花嫁さんもルンペンなのね」
「そうだよ」
谷口はいやに厳粛な顔で答えた。
「貧しい人たちだって結婚するさ」
私はギクリとした。谷口の考えていることは恐ろしく底が深いように感じたのだ。
ルンペンのことを、貧しい人たち、と言っているのだ。貧しさの程度がまるで違うのだ。私は自分を貧しい者ときめてかかっているが、谷口から見ると私は豊かで恵まれた人間のほうへ入るのかも知れないと思った。
「君らは健康だし、立派な職業もある」
谷口は私の恐れていたことを言い出した。
「そんな君らが二人で力を合わせれば、ちゃんとやって行けるにきまっている。頑張って早くいいお店を持ってくれよ。君らが店を出せば、きっと毎晩満員になるぜ」
「それよりお前、体はどうなんだ」
私は谷口の言葉に押しかぶせるように言った。
「横になっていなくてもいいのかい」
谷口はいつもの気弱そうな微笑を泛《うか》べ、
「もういいんだよ。おかげで元気になれた。君らにはすっかりお世話になってしまったなあ」
と頭を掻《か》いた。
「俺のせいで結婚式の予算が狂っちゃったんじゃないかな」
「そんなことないわよ」
光子はムキになって言った。
5
指輪を買った日曜日以来、光子は毎晩九時か十時頃になると電話をかけて来て、今夜も自分のアパートへ泊れと言うようになった。
店でその電話を受けていると、ドアがあいて今谷先生が勢いよくとび込んで来た。
「いらっしゃいませ」
志村が声をかけ、女の子たちが入口のほうへ二、三人小走りに出て行った。
「判《わか》った、行くよ。今谷先生が見えたから切るぞ」
私がそう言うと、光子は機嫌よく、
「チャオ」
と、自分から電話を切った。
「いらっしゃいませ」
受話器を置いてカウンターの中央の自分のポジションに戻り、私は今谷先生に笑顔を向けた。
「新宿へ着いたとたんに降られたよ」
今谷先生はそう言って私のまん前のスツールに腰をおろした。
「お一人ですか」
「うん。いつものをくれ」
今谷先生のは角瓶のウイスキーを使ったハイボールだった。私はいつものように少しウイスキーを強めにして今谷先生の前へグラスを置いた。
「きのう、ムーンライトで帰って来たんだぞ」
今谷先生はひと口飲むとそう言った。
「あら、ムーンライトってなあに」
絹代という女の子が訊《き》いた。
「飛行機だよ」
店はすいていて、手もちぶさたの志村が横から口をだした。
「深夜便だそうですね」
私が言うと今谷先生は頷《うなず》いた。
「割引料金なんだ」
そのときまたドアが勢いよくあいて客がとび込んで来た。
「うへえ、降られたよ」
首をすくめるようにしてその客はハンカチを出すと、ドアの前で服を拭《ふ》きはじめた。おしぼりを志村が手の空《あ》いた子に渡している。
「今谷先生がお見えです」
店の子が肩の辺《あた》りを拭《ふ》いてやりながら言うと、その客は顔をあげ、
「やあ、来てたんですか」
と今谷先生に言った。
「ここへ来て一緒にやりませんか」
今谷先生が言う。
「本降りですよ」
その客は今谷先生のとなりのスツールに腰をのせながら言った。
「一人……」
今谷先生が訊《き》く。
「知り合いの者が交通事故に遭《あ》いましてね」
「どこで……」
「明治通りですよ。まだ二十二なんですが」
「乱暴な運転をする盛りだな」
「普段はおとなしい奴《やつ》なんですが、やってしまいましてね。近くの病院へ運ばれたんで、ちょっと見舞いに行ってその帰りなんです」
「榊《さかき》さんが一人で飲みに来るなんて珍しいと思った」
私は黙ってその榊さんの前へグラスを置いた。榊さんも今谷先生と同じ飲物だった。
榊さんは今谷先生にグラスをあげて見せ、ちょっと唇をつけた程度でそれをカウンターの上へ置いた。
「ママがいないね」
「閑《ひま》なもので、近くの仲間のところへ義理を果しに行ったんですが、降りこめられているんでしょう」
私は榊さんにそう答えた。
「どうです」
榊さんは今谷先生のほうを向いて言う。
「何のことですか」
「この間の件ですよ。推理小説ばかりじゃ惜しいじゃないですか。何か書いて見てくださいよ」
榊さんは雑誌の編集長だった。
「まあそういじめないで」
今谷さんは笑って誤魔化《ごまか》したようだった。
またドアがあいたが、今度は客の姿が現われるまでに少し間があった。
「やあ、今晩は」
今度の客は傘《かさ》を持っていた。二人連れだから、ひとつ傘に入ってやって来たのだろう。
カウンターが少しにぎやかになった。やはり編集の人で光陽社の伊藤さんと、連れの画家の大内さんが今谷先生の右へ顔を並べた。
「俺はブランデー。但し国産のだぞ。ヘネシーなんか飲ましても金払わんからな」
大内さんは志村にそう言った。
「よく傘を持ってたね」
榊さんが伊藤さんに言う。
「メルヘンでバーテンのを一本借りて来たんですよ」
「そうだろうな。用意がよすぎると思った」
仕事の上では競争相手でも、結局は同じ出版界の仲間だから、伊藤さんや榊さんに限らず、こういう店で顔を合わせると、まるで仲のいい同僚のような感じになるのだった。
「何です、今日は……」
今谷先生がカウンターの上へ上体を倒すようにして、一番端にいる大内さんに言った。
「飲むだけ。ほかに用なんかありますか」
大内さんは笑顔で答える。
「肝臓のほうはどうです」
「あんなもの、気にしちゃいけません」
大内さんは他人事のように言った。本当はつい二か月ほど前まで、肝臓を患《わずら》って入院していたのだ。
「大丈夫かなあ、飲んで」
「大丈夫でしょう」
大内さんは平然としてブランデーを飲んだ。
「飲んでるよ、本当に」
今谷先生が伊藤さんに言う。
「僕も散々とめてるんですが、言うことを聞かないんです」
「悪くなったら切り取ればいい。タレをつけて焼いて食っちゃう」
「冗談じゃないですぞ」
今谷先生は本当に心配そうな顔で言った。
「肝臓はどうか知らないけれど、内臓が悪くて切除する時は、どの医者にかかるのかな」
榊さんがのん気そうに言った。
「そりゃ外科でしょう」
「やっぱり。内科から外科へまわされるわけ……」
「だと思いますよ」
「何だ、心細いな。案外そういうことはよく判《わか》っていないものなんだな」
榊さんは感心したように頷《うなず》いていた。
6
新聞の紙面などでは、まだ安保改定問題は尾を引いていたが、町からは急速に影をうすれさせていた。
私には店を閉めてから光子の部屋へ行く日が続いていた。光子はそれをごく当然のように思っているらしく、
「お帰りなさい」
と私を迎えてくれる。店の跡始末をして帰る私とは二時間ほど帰宅時間に差があり、光子のほうが必ず先に帰っていた。そして翌《あく》る日は必ず滝川外科へ谷口を見舞いに行くのだ。光子の部屋に泊る以上、それが私には義務のように思え、一日でも欠かすのは何か不道徳なことのように感じられた。
だが、内心では夜ごと光子の部屋に入り浸《びた》っている自分をさげすみはじめていた。
「代々木のお部屋、勿体《もつたい》無いわね」
或《あ》る晩とうとう光子がそう言った。いずれそのことが二人の間の話に出るだろうと予想していたのだ。
「今のところはな」
私は素知《そし》らぬ顔で答えた。
「そんなこと言ってないで、向こうを引き払ったらどうかしら」
「引き払ってどうするんだ」
「こっちへ来れば……」
言いかけた光子は私の顔色を窺《うか》がったようであった。多分私は気むずかしい表情をしていた筈《はず》である。
「嫌《いや》だよ、女のところへころがり込むなんて」
「そんな」
光子は悲しそうに言った。
「もうそんなことどうだっていいじゃないの。子供だって出来るんだし」
「待てよ」
私は煙草に火をつけた。すでに赤い柄の蒲団《ふとん》がのべられていて、二人とも寝巻姿だった。
「深く話合わないから仕方ないが、谷口の考えは谷口の考えだぜ」
私は煙草を深く吸い込んで気を落着けてから言った。
「あいつは俺たちが子供を作るものときめてかかっている。でも俺たちはまだどうするかきめてはいないんだ」
光子は黙って私をみつめていた。
「本当に生んで大丈夫かな」
私は自問するように言った。
「ルンペンでさえ……」
光子が言いかけるのを、私は押しかぶせるように言ってやめさせた。
「ルンペンはルンペンだ。ルンペンの世界のことは谷口にまかせとけよ」
光子はうらめしそうな表情でうつむいた。
「欲しくないのね」
細い声で言う。
「欲しくないことはない。でもな、今の状態で子供が生まれて、俺たちはちゃんとやって行けるだろうか」
「大丈夫かも知れないわよ、あたしだって働くし」
「女給を続けるのか」
私はその頃まだ生命のあった女給という言葉をわざと使った。
「赤ん坊は誰が見るんだ。お前が酔っ払いの相手をしている間さ」
「そんなひどい言い方をしなくたっていいじゃないのよ」
光子は憤《おこ》ったようだった。
「現実を言ってるんだ。少し谷口に影響されすぎてるんじゃないのか」
「谷口さんはいい人だわ」
「そりゃいい奴《やつ》さ。善人だよ。でもルンペンとくらべて俺たちは恵まれた生活をしているときめつけてもらいたくないな」
「どうして」
「あいつの言うことは綺麗《きれい》ごと過ぎる」
私は断定して見せた。
「たしかに、ルンペンにくらべれば俺たちも少しはましだろうさ。しかし、それでは俺たち以下のルンペンになぜなってしまうのだ。そうだろう。ルンペンははじめからルンペンなのか」
光子は寝巻の紐《ひも》をいじって何も言わなかった。
「世の中には数え切れないくらいの階層がある。目に見えない階段があるんだよ。その階段で今の俺なんかはどちらかと言えばルンペンのほうに近い所で生活しているんだ。子供を生んだためにやり損《そこ》なったらどうする。親子のルンペンができるぞ。お前はルンペンになっても子供を育てたいか。子供だってそれじゃ可哀そうだ」
「ルンペンになるってきまったわけじゃないでしょうに」
光子はそういう議論めいたことになると、まるで喋《しやべ》れなくなるが、それでも必死に言葉を探して言った。
「子供ができたらもっと一生懸命やるかもしれないわ」
「そりゃそうさ」
私は苦笑して光子をなだめにかかった。光子の言いたいことくらい、私にもよく判《わか》っていた。
「何も生んじゃいけないって言ってるんじゃないのさ。俺だって将来の設計くらいしてるよ。でも、今すぐそれができるかどうか、よく考えて見たいんだ。俺もお前もまだ若い。子供にしたって、もう一度やり直すだけの余裕はたっぷりあるからな」
「やり直すって……」
「子供を作ることさ」
「やだあ」
光子は笑い出した。
「何よ真面目な顔して」
私ははぐらかされたように光子の顔を見ていた。
「変な人」
「お前何か勘違いしてるんじゃないのか」
「勘違いって、子供を作り直すこと……」
光子は真顔に戻った。
「最悪の場合は、今度は見送るってことだよ」
「見送る……」
光子は自分の下腹の辺《あた》りを手で押えた。
「堕《おろ》すの……」
私は頷《うなず》いた。
「怕《こわ》い」
光子は私ににじり寄り、ゆっくりと体をもたれかけて来た。
「怕いわ、あたし」
「心配するな。それもまだきめてはいない」
「神様に叱《しか》られちゃう」
光子はいつの間にか泣き出していて、涙が私のはだけた胸を濡《ぬ》らした。
「大丈夫だよ」
私は自分が呆気《あつけ》なく後退したのを感じていた。
7
私はその日から二日ほど、光子の部屋へは行かず、代々木の自分のアパートへ帰った。光子はなぜ急に代々木へ帰るようになったのだと私をなじったが、
「もう一週間も帰っていないから、掃除ぐらいしなければな」
と軽く言い、決して子供の件で光子から逃げ出したくなったわけではないのだと言い聞かせた。
事実、私は光子から逃げる気は毛頭なかった。しかし、尻に火がついた感じで落着けなくなったし、光子のそばにいると何も考えず、ずるずるべったりに日を送って、抜きさしならない所まで行ってしまいそうな気がしていたのだ。
その意味では、光子が煩《わずら》わしくないとは言えなかった。光子のそばにいると、つい甘いことを言ってよろこばせ、それに自分が逆に引きずられてしまうか、さもなくば突き放した言い方をして、二人の関係を破局に近い所までこじらせてしまっただろう。
その二日間、私は滝川外科へも行かず、ごく神妙にしていた。いざとなると自分から何も手出しをせず、気合のようなものがたかまるのをじっと待つのが私の癖であった。