三日目は日曜日で、私は早ばやと起きて電車に乗った。浮浪児の谷口と再会した想い出のある上野から京成電車に乗り、青砥《あおと》で乗り換えて柴又で降りた。
柴又はまだあまり変っていなかった。
高校を出るまで、私はそこに住んでいた。早くに父をなくし、家族は私と母と弟の三人だけであった。生花の古流の免許を持つ母が、お花の先生をして細々と一家を支えていたのだが、私を大学へ送る力は到底《とうてい》なく、高校を卒業するとすぐに私は家を出て住込みで働きはじめたのだ。
沈みかけた舟から荷を三分の一だけ減らしたようなもので、私の家はそれでなんとか一息ついた。すぐに弟が高校へ進み、今は大学へ行っている。母も二人の息子のうち、一人だけは何とかして大学を出したかったらしい。
私は久しぶりの道をゆっくりと歩いて家へ着いた。それだけが唯一の財産で、古い庭つきの家であった。
「只今《ただいま》……」
裏木戸から入って庭へまわり、私はひっそりとした家の中へそう声をかけた。台所のほうからすぐに母が現われて縁側へ立った。
「久しぶりだね」
母は無表情で言った。
「うん」
私はしばらく庭を眺め、それからのんびりした態度で縁側に腰をおろした。真鍮《しんちゆう》のレールも雨戸の溝も昔のままであった。
「また降るかも知れないよ。傘《かさ》、持って来たかい」
「降らないさ」
九か月、いや、十か月ぶりに見る母の顔であった。
「弘志は……」
私は弟のことを尋ねた。
「日本橋の喫茶店でアルバイトをしてるよ」
「へえ……」
「どういうんだろうねえ。うちの血筋には水商売の気《け》なんかない筈《はず》なのに」
母は座敷へ入って長火鉢の前に坐《すわ》りながら舌打ちをするように言った。息子は堅《かた》い勤め人になってもらいたいのだ。
「あと一年だね」
私は庭へ顔を向けたまま言った。弘志はその春大学の三年生になっていた。
「どうなるんだかね」
母の声は元気がなかった。しばらくそのまま沈黙が続いたが、
「すぐ帰るの……」
と母のほうから訊《き》いた。私は靴を脱いであがった。
「派手なシャツを着ちゃって」
母は前に坐る私に、眉《まゆ》を寄せて言う。
「どうだい……」
「何がさ」
「お花のことだよ」
「駄目《だめ》ね」
母はお茶をいれはじめていた。疎開させてうまく戦災にもあわなかった古い茶箪笥《ちやだんす》の戸をあけると、私の使っていた湯呑《ゆの》みが昔のままの場所に置いてあって、母はそれを長火鉢の猫板の上へ置いた。
「あたしのお花はもう古いみたい。派手に盛りあげたのがいいんだってさ。それに近頃の娘さんは、こういう家《うち》で習うより、町なかの学校みたいな所で習いたがるらしいし」
たしかに、各種学校としての生花教室が増えているようだった。
「とうとうお前を待ってるうちに弘志は三年生になっちゃったじゃないか」
母の愚痴だった。
高校を出てすぐ、私は母に啖呵《たんか》を切ったのだった。小資本で開業できる水商売の世界へ入って、一応商売を憶《おぼ》えたら家のことはすべて俺《おれ》が背負う、と言ったのだ。
母にはそれが頼りになる言葉だったらしい。それまでなんとかこの家を維持して時が来たら売り払い、私の商売のもとでにしよう。そう思い込み、ひたすらその日を待っていたようだ。
だが私は、その世界を知れば知るほど自信を失って行った。むずかしさが判《わか》って来たのだ。
「弘志も何か考えているらしいよ」
茶をついでくれてから母は言った。
「考えてる……何をだい」
「このままじゃいいとこへの就職はむずかしそうだってさ」
私は久しぶりの母の茶を味わいながら考え込んだ。
「何かあったのかい。陰気な顔して」
母が尋ねた。
「いや、俺のことじゃない。弘志のことを考えてたのさ。……そうか、あいつもそうかなあ」
「何がそうかなのさ」
「卒業が近づくにつれて、むずかしさが判《わか》って来たんだろう」
「二人ともだらしがないだけだよ」
母は突き放すように言った。
「で、どうするって……」
「学校を変えたいなんて言うんだよ」
今度は訴えるような言い方であった。
「今更学校を変えてどうなるんだ」
「わたしにはよく判らない。会って訊《き》いとくれよ」
「うん」
私は生返事をしてまた茶を啜《すす》った。
「そろそろ俺にまかせる気はないかい」
「今頃になって何言ってるのさ」
母は笑った。
「いい手があるんだ。みんな寄り集まって暮らせるぜ」
それが母の泣きどころだった。弟もアルバイトの連続だったが、アルバイトでも短期間の住込みでやれる口があることに気付いてからは、家へ戻らない日が多くなっていた。
そうなってからの母の口癖は、みんな寄り集まって暮らしたい、という言葉になっていたのだ。
「へえ……」
母は擽《くすぐ》ったそうな顔になった。
「喫茶店、嫌いかい」
「うちがやるの……」
「うん」
「綺麗《きれい》ごとだね」
けなしているようでもあり、乗り気のようでもあり、どちらにも取れる返事だった。
8
「お金はどうするのさ」
母はまず判《わか》り切ったことを私に訊《き》いた。
「この家《うち》、売るんだよ」
「喫茶店なんて原っぱじゃできないよ。人のたくさんいる所じゃなければ」
「判ってる。そりゃ、銀座や新宿で店を出そうと言ったって無理さ。でも、電車の駅のそばならいいだろう」
「駅前……」
「そう」
「どこの駅よ」
「それを探すのさ。弘志だって喫茶店のバイトをやってるじゃないか。俺だってやれるし、レジくらいならお袋が坐《すわ》っててもいい」
「ばかだね、こんな婆さんを」
「郊外の駅だよ。美人喫茶をやろうというんじゃないぜ。バーの女の子たちの中にも、本当は酔っ払いの相手なんか性《しよう》に合わないと思っている連中が多いんだ。俺にも手伝ってくれる仲間くらいいるよ」
「どんな人……」
私は光子のことを切り出すチャンスだと思ったが、自重して言わなかった。
「たくさんいるさ」
「でも、そんな都合のいいお店があるかしら」
「母さんがいいって言えば、探しはじめるぜ」
母は大きな溜息《ためいき》をついて見せた。
「どうとも勝手にしておくれ。お前たちはもう一人前なんだし、あたしはくたびれたよ」
「探して見る」
私はそう言って話を打切った。
それから一時間半ほど、私は母ととりとめのない会話を続けた。喋《しやべ》るのはもっぱら母のほうで、私は聞き役であった。近所のこと親戚のこと、お弟子さんたちのこと。一人きりで過す日々に積った憂さを一気に晴らそうとするように、母は喋りまくった。
そして私が帰ろうとすると、
「お線香くらいあげて行くもんだよ」
と言った。私は座敷へ引き返して仏壇の前に坐《すわ》り、線香に火をつけてから、死んで二十年もたっている父の位牌《いはい》に手を合わせた。
帰りの電車の中で私はそのことを思い返し、母がやる気になってくれたのを悟った。一家の新しい局面へのスタートを、父に報告させたかったのだ。
すると私の気持は急に明るくなった。アイデアを喋っただけなのだが、それが実現可能なことであるように思えて来たのだ。現金なものでそうなると無性に光子に会いたくなり、乗り換えのたびに駅の階段を走ってあがりおりして新宿へ急いだ。
成子坂下へ着いて光子の部屋のドアをあけると、光子は窓を背にちんまりと体を丸めて坐《すわ》っていた。
「どうしたんだ」
入口に立ったままそう言うと、光子は目に涙をいっぱい溜《た》めて、
「ばかぁ」
と私を見た。
「何泣いてるんだよ」
私はテーブルに向き合って坐《すわ》った。
「代々木へ行ったらいないんだもん。行き違いになったかと思って、タクシーで帰って来ちゃったのよ。どこへ行ってたのさあ」
光子はポロポロと涙を流した。
「ばかだな、お袋のとこへ行ってたんだよ」
「お母さんのとこ……」
「そうさ。柴又へ行って来たんだ」
光子は拇指《おやゆび》の関節の辺《あた》りで鼻の下を押え、はなをすすった。
「何しに……」
声が震えていて、すぐしゃくりあげる。
「ちょっと指輪を見せろよ」
私はそう言って光子の左手をテーブルのまん中に置かせた。
「こいつ、本物になりそうだ」
薬指の指輪をいじりながら私は言った。
「本物って……」
「子供、生めそうだ」
「どうしてなの」
「柴又の家を売って喫茶店をやるのさ」
「ほんと……」
光子は呆《あき》れたような顔で私をみつめた。
「でもお母さんはどうするの」
「みんなで一緒に暮らすのさ。お前も手伝うんだぞ」
「ウエイトレスをやるの……」
「バーテンだろうがウエイトレスだろうが、何でもやらなければ。わが家の店なんだからな。弟も手伝わせる。お袋だってレジぐらいやれるだろう」
「あなたはどうするの」
「俺もやるさ」
光子は微笑した。その微笑はすぐ大きくひろがって行った。
「一緒に暮らせば赤ん坊ができてもお袋が面倒見れる」
「あたしとかわりばんこね」
光子は手で頬《ほお》の涙をぬぐいながら言った。
「谷口と俺とは違うんだ。あいつの言ってることは夢みたいなもんさ。俺はもっと現実的だよ。妊娠したら生む。そうには違いないが、ちゃんと育てられるめどがつかないのに生んじゃうのは無責任じゃないか」
「ちゃんと考えててくれたのね」
「当たり前だろう」
すると光子は坐《すわ》り直し、膝《ひざ》に両手をついて、ペコリと頭をさげた。
「ごめんなさい」
そのとたん、私の心にまた不安のかげが舞い戻ったようだった。
光子は私が堕《おろ》せというかも知れないと覚悟していたのだ。その可能性がなくなったと思ったので私に謝ったのであろう。だがそうなると、私は自分が今口にしたことを是が非でも実現させなければならなくなる。その自信はまだとても持ちかねるのだった。
「外へ出ようか。今日は降りそうもないし」
六月ももう終りで、このところ毎日雨が降っていた。
「うん」
光子は鏡台の前へ行って顔をなおしはじめた。私はそれを眺めながら、なんとかしてさっきまでの明るい気分に戻ろうとしていた。
「テレビの下を見てよ」
光子はパフを使いながら言った。
「何だい」
「まだ買ってないんでしょう……」
テレビをのせた小さな棚に、この二月に創刊したSF雑誌の最新号が置いてあった。
「お、そうか。忘れてたよ」
「ちょっと読んで見たけど、むずかしいのね」
「そんなことないさ」
私はその雑誌のページをめくりながら答えた。
9
はずみがついたのか、そうなる時期へさしかかっていたのか、次の週の火曜日、私が店へ出て準備をはじめていると、ママがいつもよりだいぶ早めに姿を見せて、
「誰か喫茶店をやる人いないかしらね」
と言った。私は野菜をきざむ手をとめ、カウンターでちょっと疲れたような顔をしているママをみつめた。
そのママがハンドバッグから煙草をとり出したので、私は無意識に庖丁《ほうちよう》を置き、素早《すばや》く手を拭《ぬぐ》ってマッチを擦《す》った。ママは黙って私が差し出した火で煙草をつけた。
「どこかに店があいてるんですか」
「そうなのよ。誰かいない……」
「どこ……」
「阿佐ケ谷よ」
「大きい店……」
「二階があるから広さで言えばちょっとしたもんだけど、古いお店で床も板張り」
「売るんですか」
私は生唾《なまつば》を嚥《の》み込んで言った。
「貸すの。売ってもいいそうだけど」
「図面なんか、ママが持ってるの……」
「押しつけられちゃったのよ」
ママは大きなハンドバッグを右手で軽く叩《たた》いて見せた。私はカウンターの外へ出ると、ママのとなりへ坐《すわ》った。
「見せてくれますか」
「いいけど」
ママは咥《くわ》え煙草でバッグをあけ、古びた図面を出して私に寄越《よこ》した。
「心当たりでもあるの……」
私は胸を躍《おど》らせて図面をひらいた。決して小さい店ではない。テーブル数にして三十近くは置けるだろう。図面についているメモには、権利金や家賃が書いてあり、私が心づもりしていたより、少し低めの数字であった。
「借り手、いるようだな」
私がつぶやくと、
「誰よ。あたしの知ってる人……」
と、ママは乗り気だった。
「俺」
「あんたが……」
「そう」
「嫌《いや》ねえ」
ママはがっかりしたように言う。
「本気ですよ」
「まさか」
「そろそろ何かはじめなければ、お袋もくたびれたって言ってるし」
「本気なの」
「ええ」
「志村君」
ママは奥の掃除をしていた志村を呼んだ。志村はすぐに来た。
「マネージャーはちょっと留守になるけど、ちゃんとやっといてよ」
志村は、ハイ、と言って私を見た。
「これから行くの……」
私はママに言った。
「こういうことは急いだほうがいいのよ」
ママが行動的な性格なのではなくて、それは長年の経験から来ていることだった。店探しは嫁探しと同じで、縁次第のようなところがある。素早《すばや》く物件にじかに当たっておかないと、その気になってもタッチの差で逃げられて後悔することになるのだ。
私とママはその足で阿佐ケ谷へ行った。
木造の二階だてで、床油のこってり浸《し》み込んだ板張りの古い店だったが、長い間に少しずつ手入れをして、使い勝手もよくなっていたし、何よりも駅のすぐそばだった。
営業しているその店へ入ってコーヒーを注文すると、ママが店の人に断わってくれて、私は念入りに検分してまわった。
椅子もテーブルもそのまま使えた。二階は客をあげて最初のオーダーを聞き、それを届けるとあとは放ったらかしになるが、席ごとに呼鈴《よびりん》のボタンがついていて、旅館の帖場《ちようば》のようにカウンターで呼ばれたテーブル番号が判《わか》る仕掛になっていた。アベック専用と言った具合だ。
「どう……」
ママが訊《き》いた。
「借りたい」
間に不動産業者は入っていず、今の持主とじかに取引きできるそうだった。
「あたしが先方に言っておさえててあげるけど、早くきめてよ」
阿佐ケ谷へ来るまでの間にあらましのことは話してあった。
「善は急げだから、明日一番で柴又へ行ってきます」
ママは応援するように私の肩を叩《たた》き、伝票を持ってカウンターのほうへ行った。
その帰り、ママは電車の中で別な話を持ち出した。
「でも、あんたあの店へかかり切っちゃうのはどうかしらね」
「と言うと……」
「新宿のバーが切りまわせるのに、勿体《もつたい》なくないかしら。あそこは弟さんやお母さんにまかせて、あんたは今までどおりやったほうがいいんじゃないの……」
私はその時まで、まだ光子のことは打明けていなかった。
「実は俺、結婚しようと思ってるんです」
「やだこの人。彼女いたのね」
ママが高い声で言ったので、まわりの学生がニヤニヤと私を見た。
「これなの」
私は腹に手を当てて見せた。
「ばかねえ。どんな人……」
「うちの店にちょっといた光子」
「光子ちゃんと……」
ママは私を睨《にら》んだ。
「判《わか》った。それでローズへ移したんでしょう」
「ええ」
ママは黙り込み、しばらくすると私の肩に手を置いて言った。
「やめないでよ。あたしにも計画があるんだから」
「計画って何です」
「もう一軒やりたいの。あんたは和食もやれるんだし、当てにしてたのよ」
悪くない話であった。阿佐ケ谷の店にさえ心配がなければ、私は外で稼《かせ》いだほうがいいにきまっていた。
翌日から私はいそがしくなり、夢中でとび歩いた。
谷口が退院したのは、そんな騒ぎの最中であった。入院してから一か月と十日あまり。特に深く尋ねはしなかったが、例のルンペンの金や今谷先生のカンパの分のほかに、谷口は自分で工面《くめん》したらしく、治療代の跡始末は私たちがしなくてもすんだようだった。
10
「谷口さんの全快祝いをしなくては」
光子がしきりにそう言ったが、私はそれどころではなかった。店の件が急ピッチで進行していたのだ。柴又の家を売るのは母にまかせ、阿佐ケ谷の店のほうはママが骨を折ってくれたが、私は両方へ要所要所で顔を出さねばならなかった。
それでも、退院して来た日に谷口に会った。谷口は夕方四番地へ現われ、ママや女の子たちが顔を揃《そろ》えたところで、
「いろいろご迷惑をおかけしましたが、おかげさまで元気になりました」
と挨拶《あいさつ》をした。
「これからどうするんだ」
私が二人きりになってから尋ねると、谷口はいつもの邪気のない笑顔を見せ、
「だいたい俺にはこういう世界は向いていないよ。融通《ゆうずう》がきかないからね。病院に入っている内に目当てもついたし、何とかやって行けそうなんだ」
と答えた。
私はうわの空でそれを聞き流した。自分のことで頭が一杯になっていたのだ。
「光子と結婚する。大したことをするわけもないが、もし式みたいなことをやることになったら来てくれよ。光子が谷口さん谷口さんと言ってうるさいんだ」
「うん」
店がはじまる時間だったし、何よりも私は追いたてられるような気分でいたから、谷口との別れはひどく呆気《あつけ》ないものだった。
実はそれでも一応、ママに頼んでは見たのだ。四番地はとにかく、新しい店のほうででも使ってはくれまいかと。しかしママは谷口については強く警戒していた。谷口は大きなトラブルの種をかかえていると思っているらしい。だからとうとう首を縦に振らなかったのである。
谷口はその足でローズへまわり、光子にも挨拶して行ったらしいが、去る者を追わないのが水商売の世界に生きる者のさだめのようなものだった。それは、去る者を追えない、と言ったほうが正しいのかも知れない。何せ私たちは船の鼠《ねずみ》のような存在なのだった。
ママが仲だちをしてくれたから、私としても四番地のほうの手を抜くわけには行かなかった。また、阿佐ケ谷で店をはじめると言っても、居抜きで借りたのだし、伝票やマッチやコースターなども残りがたくさんあって、開店と言ったような騒ぎにはならなかった。
ただ、店の近くに母や弟が住むアパートを探して、そこへ引越して来るだけだった。だから私は四番地を休みもせず、昼の間だけあちこち駆けまわっていた。
光子のことは、すまいの問題からごく自然にけりがついた。
「お前もこっちへ越して来なければだめじゃないか」
母にそう言われ、
「俺だけじゃないんだよ」
と私は答えた。
「女の人だね」
母はもう察していた。ひょっとすると四番地のママから聞いていたのかも知れない。私の言うことはいちいち疑ってかかるが、四番地のママには充分プロとしての敬意を払っていて、私がその店の主力にならず外で働くことも、案外あっさりと納得してくれていた。
その話が出た翌日、光子は母と会った。会ったと言うと改まった感じだが、実際には引越しの手伝いに行ったのだ。私と二人で柴又へ行き、すでに母がまとめてあった荷物をトラックに積み込む手伝いをして、その荷台のすき間に乗って阿佐ケ谷へ向かったのだ。
「勿体ないわねえ」
トラックに積んだ荷物の間で、光子はしみじみとはじめて見た柴又の家のことを言った。
「綺麗《きれい》なお庭があるのに」
「生産性がない家なんて、俺たちには荷物になるだけさ」
そう割り切ったように答えたが、さすがに私も淋《さび》しかった。何と言っても長年住みなれた家なのだ。
「あとにどんな人が住むのかしら」
「よせ」
私はトラックの上にいるのをさいわいに、日頃出したこともない大声で光子の口を封じた。
「ごめんなさい」
光子は私の気持に気付いて、私以上に悲しんだようだった。お互いに少し離れて坐《すわ》っていたが、荷物を縛ったロープにつかまって私のほうへ近寄って来ようとした。
新四ツ木橋に近付いているところだった。トラックがゆるく大きく揺れた。光子はバランスを失い、左手でロープを掴《つか》んであおむけに私の膝《ひざ》の上へ倒れかかった。
私は、危いっ、と叱《しか》り、光子はキャーッと叫んだ。
もう少しで光子は道路へ転落するところだった。しかし危ういところで私はその体をだきとめた。
光子があおむけに私の膝に体を預け、ほっとして微笑を泛《うか》べかけた時、最後にトラックへ積み込んだ、母の昔風の頑丈な裁縫箱が、光子の腹のまん中辺りへドスンところげ落ちてしまった。
あ……と思ったがもう遅かった。光子の顔が私の目のすぐ下で苦しげに歪《ゆが》んだ。
「大丈夫か」
光子はしばらく息もつけなかったようだ。
「失敗した。落ちないと思って安心していたんだ」
裁縫箱はロープで縛った荷物の間にきっちりとはさみ込んだつもりでいたのだ。
「ううん」
光子はやっと息をつくと、苦しげな顔で首を横に振った。
「あたしが悪いの。立っちゃいけないって言われてたのに」
それでも少しずつ気分が治って行くようだった。
「このままにしてていい……」
甘えるように言った。
「いいよ」
「久しぶりだわ。空を眺めるなんて」
光子は私の膝を枕にして、トラックの荷台の狭いすき間に横になっていた。
「きのう、赤ちゃんがお腹の中で動いたみたい」
光子はそう言ってから、なぜか涙を二筋ほど私の膝へ落した。