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 第四章

作者: 当前章节:15365 字 更新时间:2026-6-23 00:40

  1

 本当に心配すると、そのことを口に出すのさえためらわれるものだ。トラックの上で光子の腹に裁縫箱が落ちた時、私はすぐに流産するのではないかと思った。

 それは光子も同じだったらしい。走るトラックの上で空を眺めて涙を流したのも、おなかの子のことを思ったからに違いなかった。

 しかし、二人ともそれを口に出して言えなかった。

 阿佐ケ谷につくと、私たちはアパートへ荷物を運び込んだ。そのアパートは細い道が曲がりくねった場所にあり、トラックはアパートの前まで入って来れなかった。

 注意が足りなかったと言えばそれまでだが、光子にして見れば初対面の私の母の前で、少しでも甲斐甲斐《かいがい》しいところを見せたかったのかも知れない。七、八十メートルの距離を、トラックからアパートまで私の相棒《あいぼう》になって、鏡台や火鉢を運んだ。

 が、トラックが帰って、アパートの中で段ボール箱につめた食器類をとりだしはじめた時、光子は急に蒼《あお》い顔でトイレに駆け込み、長い間出てこなかった。そしてやっと出て来て手を洗っていると思ったら、そのまま洗面所の前へうずくまって呻《うめ》きはじめた。

 しきりに疼痛《とうつう》を訴え、下腹部が引きつるようだと言った。

 母は私と光子の騒ぎを黙って聞いていたが、突然やって来て光子の体をうしろから抱きかかえ、腰の辺《あた》りを強く押した。

「ここが引っ張られるみたいなのね」

 光子はもう遠慮も何もなく、

「そうなの」

 と子供のように言った。

「哲郎。流産だよ」

 母は冷たい目で私を睨《にら》んだ。

「お医者さんがどこにあるか聞いておいで」

 私は外へとび出し、となりの部屋のドアをノックした。

「産婦人科の病院はどこでしょうか」

 となりの奥さんはいきなりそう言われてびっくりしたようだったが、すらすらと場所を教えてくれた。

「おぶってお行き」

 帰ると母はもう光子を入口まで連れて来ていて、有無《うむ》を言わさず私の背中へ押しつけた。

「弘志。ついてってやりな」

 光子をおぶった私は、弟と一緒に病院へ急いだ。その歩くたびトントンと弾むリズムの中で、光子は私の耳に口を寄せ、泣きながら言い続けていた。

「赤ちゃん、できた。赤ちゃん、できた」

 なんと言う短い命なのだ。光子の声を頭の中へ浸み込ませながら、私は自分のはじめての子の運命を思った。

 病院へかつぎ込むと、すぐ光子は処置室へ運ばれた。ひどい苦しみようで、叫び声が廊下の外まで聞こえて来た。

 その声が静まった時、私と光子の子供は、もうどこにもいなかった。

 二階の殺風景な病室へ移された光子は、薬を注射されて深い眠りにおちていた。顔は蝋色《ろういろ》で生気がまったくなかったし、手を握って見たが、カサカサに乾いたような感じだった。

 握り返して来ない力の抜けた手の薬指に、安物の指輪があった。それをみつめていたら、不意に涙が溢《あふ》れた。次から次へと自分の幼い日の記憶が脈絡もなく泛《うか》んでは消えるのだ。私はその子が女の子であった場合を想像することができなかった。自分の幼い日々の回想が、生まれ出る筈《はず》だった一人の男の子をしのぶよすがになっているのであった。

 母はその次の日の午前中に光子を引取り、阿佐ケ谷のアパートに置いて面倒を見てくれた。

 私は次の日から代々木へ戻り、毎晩店へ出ていた。

「いらっしゃいませ」

 ドアがあくたびにそう言い、

「有難《ありがと》うございました」

 と帰る客に言う。

 すべてが今まで通りだった。しかし、私の心の中で、何かが少しずつ変りはじめたようだった。

「よう、元気でやってるかい」

 ある晩、榊さんが来てカウンターの向こうに坐《すわ》るなり私に声をかけた。

「元気でしようがないんです。何とかしてください」

 私は掌《てのひら》を突き出して言った。

「トルコ風呂というのはいいもんだそうだな」

 榊さんは私の掌を軽く叩《たた》いて笑いながら言い、連れの若い紳士に、

「これがここのマネージャーの月岡君ですよ」

 と、叮嚀《ていねい》な言い方をした。

「はじめまして」

 私はその若い紳士に頭をさげた。身だしなみのいい人だった。

「榊さん、今度は医学の本をお出しになるんですか」

 私がそう言うと、榊さんは怪訝《けげん》な顔で、

「なぜだい」

 と首を傾《かし》げた。

「判《わか》るかい、やっぱり」

 連れの若い人が私に微笑を泛《うか》べて言った。

「ええ」

 私は頷《うなず》いた。病院の匂いがその人から漂い出していたのだ。消毒液の匂いだ。

「どちらの先生ですか」

 榊さんに尋ねると、榊さんもやっと匂いで判ったらしいと気付いて、

「そうか、君らは敏感なんだな」

 と感心して見せてから、

「親戚の子が交通事故を起した時ご厄介になった先生なんだ」

 と言った。

「ほう……」

「滝川外科と言ってね」

「ああ、知ってます」

 私は頷《うなず》いた。

「谷口君が入院していたね」

 若い先生が言った。

「その節は大変お世話になりました」

 私はまた頭をさげた。

「何か君に尋ねたいことがおありだそうなので、ご案内して来たのさ。あそこの院長さんは先生のお父さんなんだよ」

「あ、そうでしたか」

 私は榊さんと滝川外科の若先生を交互に見ながら言った。

「で、お尋ねって、いったい何でしょう」

 すると滝川先生は真剣な目で私をみつめた。

「谷口|怜悧男《れりお》というのは君の何に当たる男かね」

「友達です。小学校からの」

「今どこにいるか知っているかね」

「さあ……あいつは孤児でして、実を言いますとここへ来るまで宿なしだったらしいんですよ」

「連絡はつかないかい」

 私は首を横に振った。

「何かあいつがご迷惑をおかけしたんでしょうか」

「いや、そうじゃない。そうじゃないが、あまりふしぎな患者なのでね」

 滝川先生はあいまいに言った。

「ふしぎな患者ですか、あいつが……」

「そう。医学的にね」

 滝川先生は真面目な顔で言った。

  2

 榊さんは滝川先生に遠慮したのかも知れない。

「先生、向こうに知り合いの顔が見えるのでちょっと失礼させて頂きます」

 と言ってスツールをおりた。

「どうぞどうぞ。わざわざご案内くださって有難《ありがと》うございました」

 滝川先生はまだ三十前くらいの年恰好《としかつこう》で、年上の榊さんに叮嚀《ていねい》に礼を言っていた。それ程深い付合いではなかったようだ。

 私は志村に中央のポジションを預けて、カウンターの隅のほうの滝川先生の前に居据った。さいわいそう立て込んではおらず、奥のほうの客を志村が適当に捌《さば》いてくれている。

「ヘネシーをもらおうか」

 滝川先生が言ったので、私は棚からスリー・スターをおろした。

「いや、V・S・O・Pにしてくれ」

 多分、父親の跡を継いで遠からずあの病院の院長になる人なのだろう。高い酒を注文しても気障《きざ》な感じはなく、私はその先生に好感を持った。

「よかったら君も飲んでくれよ」

 私はハイと答え、六オンスのタンブラーに自分のを注《つ》いだ。

「なぜブランデー・グラスを使わないんだ」

 先生はブランデー・グラスをゆすりながら尋ねた。

「こっち側でそのグラスを持ってたんじゃ、どっちがお客さまだか判《わか》らなくなりますよ」

 私は笑って見せた。

「そういうもんかね」

 先生は鷹揚《おうよう》に頷《うなず》いた。

「谷口|怜悧男《れりお》というのは変った名だね」

「ええ、ちょっと変ってます」

「本名かい」

「そうです。学校で先生がそう呼んでいましたからね。小学生の時から偽名を使う奴《やつ》なんていないでしょう」

 先生は笑った。しかし私は内心逆のことを考えていた。谷口自身も言っていたが、怜悧男という名はとにかく、谷口という姓については疑問の余地がありそうだった。

 怜悧男という変った名前を谷口が嫌っていたことは知っていた。そして嫌った理由もこの間谷口に聞いて判った。何者かから隠れて暮らす必要が谷口母子にはあったらしいのだ。怜悧男という変った名が目立って困ったそうなのだから、多分それは生まれてすぐにつけられた本当の名に違いない。

 しかし谷口という姓は怪しかった。ガラス工場の主人が何か細工《さいく》をして小学校へも通えるようにしてくれたのなら、姓はその時変えてしまったのかも知れない。

 しかしその辺のことは私が軽々しく他人に喋《しやべ》っていいことではなかった。

「小学生の頃からの友達だと言うが、それ以来ずっと付合っているのかね」

「いいえ。間に戦争がありましたからね。ですから一度別れ別れになって、戦後すぐ中学二年の時に再会したんです。でも、その時は住んでいる場所が離れてしまっていたものですから」

「その頃はどこに……」

「僕は葛飾《かつしか》の柴又で、谷口は上野のほうです」

「上野か」

「ええ」

 私はさり気ない態度を示している滝川先生が、その実かなり緊張して私の話を聞いているのに気付いた。何か迂闊《うかつ》には喋れないぞという気がした。

「上野のどこ……」

「さあ」

 私は首を傾《かし》げて見せた。

「僕らの中学二年と言うと、昭和二十二年ですからね。戦後のドサクサの真っ最中ですよ。上野も今とはだいぶ様子が違っていますし、何と言ってもまだ子供でしたから、現在のどの辺に当たるか、ここですぐには……」

 嘘《うそ》をついているわけではなかった。たしかに谷口のいた浮浪者たちの小屋が、上野の山のどこにあったか、正確にさし示すことはできなかったのだ。

「当時彼は何を……」

 滝川先生はそう言いかけて苦笑した。

「そうか、中学二年だったな」

 私は谷口が浮浪児の一人だったことを言わずにすんでほっとした。

「それで……」

 滝川先生は話の先をうながした。

「そうですね、一年半ほどの間、時々会いましたでしょうか」

「君のほうから訪ねて行ったの……」

「ええ。僕もあっちこっち歩いて見たいさかりですし、柴又にいましたから京成電車で上野に出ることが多かったんです」

「なるほど、そうか」

 滝川先生は飲《い》ける口らしく、最初のブランデーをあっさり空《あ》けてしまった。

「お注ぎしますか」

「うん。それにチェイサーを……もっと冷たくして」

 私はブランデーを注ぎ、シェイカーに氷と水をいれてよく振ってからタンブラーに冷たい水を注いで先生の前へ置くと、レモンの皮をその水の上で曲げて香りをつけた。その頃はそんなやり方がはやっていた。

「そのあとは……」

 先生が訊《き》く。

「ええ、高校になると自然に遠ざかりました。お互いに新しい付合いが増えますからね」

「そうだな」

「先生はお幾つですか」

「君と同じらしいよ」

「へえ、そうですか」

 私は少し驚いていた。私より年上のような感じがしていたのだ。もっとも、バーテンなどしていると、たいてい自分より年上に思ってしまうものだ。

  3

「谷口怜悧男について、何か変ったことはなかったかね」

「変ったこと……」

 私はまた首を傾《かし》げた。

「たとえば学校の成績はどうだったね。勉強がずば抜けてよく出来るとか、暗算が得意だとか……」

「いいえ」

 私は笑った。

「ごく並の生徒でしたね」

 谷口は中の下くらいの成績だった筈《はず》である。

「絵が上手じゃなかったかい」

「どっちかと言うとへたですね」

「手先は器用じゃなかった……」

「いいえ」

「運動は……」

「大したことありませんよ」

 谷口は私より走るのがずっと遅かった。

「おかしいなあ」

 今度は先生が首を傾《かし》げて言った。

「いったい谷口の何をお知りになりたいんですか」

「すべてだよ」

 先生は謎《なぞ》めいた表情を泛《うか》べた。

「今度会ったのは、それじゃ久しぶりだったんだね」

「ええ。あいつ失業してましてね。職探しでもしてたんでしょう。新宿をぶらぶらしている時、バッタリ僕と会ったんです」

「それでこの店へ入れたわけか」

「ええ」

「入れてどうだった」

「何せ素人《しろうと》ですからね。でもみんなに好かれてはいました。悪気《わるぎ》のない奴《やつ》ですから」

「二週間ほどしかいなかったわけだね」

「ええ」

「それじゃ大したことは判《わか》らないな」

 先生は小さく舌打ちをした。

「ねえ先生、教えてくださいよ」

 私は滝川先生の酔い具合をたしかめながら尋ねた。目のふちに少し赤味がさして来ていた。

「何をだね」

「谷口のことです」

 すると先生は大声で笑った。

「訊《き》きに来たのはこっちだよ」

 酒は強くても気分を開放するのが早い人がいる。先生はどうやらそのタイプらしく、最初から見ると言葉がずっと軽くなっていた。

「でも、僕もあいつの幼馴染《おさななじみ》として知りたいんです。射たれたのはあいつのせいなんですか」

「俺《おれ》は刑事じゃないよ」

 先生は肩をすくめて見せた。

「ただの医者さ。やたらに人の体を切りたがる医者さ」

「あいつの体はどこかおかしいんですか」

「おかしいよ」

「どこがです」

「それを知りたいんだよ。だからこうして君に協力してもらっているのさ」

「何がおかしいんです。おかしいことははっきりしているんでしょう」

「君は気が付いていないのかい」

「谷口の体がおかしいってことですか」

「そうさ」

「いいえ、気が付きませんでしたね」

 すると先生はグラスを置き、それを横へどかしてカウンターの上へ両肱《ひじ》をついた。

「谷口怜悧男はこの店で仕事中に射たれた」

「ええ」

「誰がなぜ射ったかを知ることは俺の領域じゃない。だが、どこを何で傷つけられたかは俺の領分さ」

「そうですね」

 滝川先生はカウンターの上に置いたプラスチック製らしい洒落《しやれ》たシガレット・ケースをあけてフィルターつきの煙草を一本指にはさんだ。私はマッチに火をつけようとしたが、吸うのではなくて、その煙草を自分の胸に当てて見せた。

「ここをやられたんだ。右の胸をな。弾丸は肺を突き抜けて背中からとび出して行った」

「ええ。あのピアノにまだ痕《あと》が残っています」

 先生はピアノのほうを見て頷《うなず》いた。

「ちょっとやそっとの傷ではない。命にかかわる傷だ。重傷だよ。あれだけの傷を受けたら、死んでもふしぎはない。癒《なお》るとしても時間がかかるよ」

「そうでしょうね」

「谷口はうちの病院にどれくらい入院していた」

「一か月とちょっとです」

「そう、四十日足らずだ」

 滝川先生はそう言って私をみつめ、煙草を咥《くわ》えた。私はすでに指にはさんでいたマッチですぐに火をつけた。

「判《わか》らないかなあ……」

 先生は煙を吐き出して嘆くように言った。

「判らないんですよねえ」

 私も同じ調子でおどけた。

「普通で二か月以上、もともと体力のない者なら三か月はたっぷりかかるだろうな」

「え……」

 私は目を剥《む》いて見せた。

「そんなにかかるんですか」

「そうさ。それを谷口はたったの四十日そこそこで出て行ってしまった」

「大丈夫でしょうか」

「大丈夫なんだよ、それが。谷口はうちから出る時、完全な健康体だった」

「丈夫な奴《やつ》だ」

 私は笑った。

「笑いごとじゃないんだ」

 先生は厳しい表情で言った。

「これは異常な出来事なんだ。例がないと言っていいんじゃないかな」

「そうなんですか……」

「そうだ。右肺貫通銃創《みぎはいかんつうじゆうそう》で全治一か月。まあ玉の当たり所にもよるから一概に言うことはできないだろうが、あの傷の状態では全く異常な回復力さ。君らに言ってもよく理解してもらえないだろうが、谷口怜悧男は何千万人、何億人に一人というような特異な体質を持っていると俺は考える」

「SF的だな」

 私がつぶやいたのを滝川先生は聞きのがさなかった。

「おや、君もSFファンかね」

「そうなんです」

 SFという呼び方さえろくに知られていなかった頃である。私と滝川先生はたちまち意気投合した。

  4

「おやじは古くてね」

 滝川先生はぼやいた。もうだいぶ酔っていて、連れて来た榊さんも先に帰ってしまっていた。

「谷口のことだって、俺が異常だと騒ぐと怒る始末さ。体質よりは傷の程度のせいにしてしまうんだ。おやじ達が異常だと言うのは、実際には異常でも何でもなくて、一般的ではないという程度のことなんだ。何億人に一人とか、何千年に一度とかいうような異常は、冷静な科学者のとりあげるべきことではないと考えてやがる。U・F・Oの話なんか本気でしてみろ、勘当《かんどう》されちゃうよ」

「で、谷口はどうしてそんな異常な体質を持ったんでしょう」

「そこさ。俺は家系を調べたいんだ。谷口怜悧男をとっつかまえて来て、徹底的に研究して見たい。だいたい俺は外科に向いてなかったんだ。それをむりやり外科にさせられてしまった」

 贅沢《ぜいたく》を言う人もいるものだと私は感心した。あれだけの病院を持ちながら、まだ不服そうにしている……私にはよく理解できないことであった。

「たのむよ。谷口のことで何か判《わか》ったら俺に知らせてくれないか」

「ええ」

「きっとだぞ」

「約束します」

 口の堅《かた》いのがバーテンの基本だと言っても、数少ないSFファンにめぐり会えたのだから別だった。それに、私も少しブランデーを飲みすぎていたようだ。

「たとえば、超男性というのがあるのを知っているかい」

 先生はもう医者というよりSFファンになり切って私に言った。

「いいえ。超男性ですか」

「SFはスーパーマンのようなものをよく出して来るし、ミュータントもよく使う」

「そうですね」

「ところが、どういうミュータントなのかという点になると、医学的に、いや生物学的に少しもはっきりさせていない」

「お医者さんから見たら物足りないでしょうね」

「そうなんだ。超男性と言うのは性染色体がX・Y・Y……性染色体というのは、判り易《やす》く言えばセックスを決定する要素さ」

「遺伝子……」

「そう。女はX・X。男はX・Yだ。正確にくわしく言えば少し違うが、まあ大ざっぱにそう憶《おぼ》えて置いてもらおう」

「それじゃ、X・Y・YというとYがひとつ多いじゃないですか」

「うん。だから超男性なんだよ」

「Yは男性なんですね」

「そう。男は猥褻《わいせつ》なもんさ」

 先生もSFファンらしく冗談好きのようであった。

「現在では、ヒトの性染色体を大きさの順に並べそれを七群に分ける」

 先生はカウンターの上にマッチ棒を並べて私に説明していた。

「A・B・C・D・E・F・Gさ。XはこのC群。Yは最後のG群に入る」

「Yの染色体はいちばん小さいんですね」

「うん」

 先生はマッチ棒を足して、ずらずらと横にたくさん並べた。

「A群」

 先生の指が三本のマッチを別にした。

「B群」

 今度は二本。

「C群はこれが七本に性染色体のXが一本で合計八本」

 八本並べる。

「Dは三本。E群も三本。F群が二本でと」

 言う通りに並べて行き、

「G群は三本でそのうち性染色体のYが一本ある」

 と並べおわった。

「実はこれがみな対《つい》をなしているから……」

 先生は並べおえたマッチ棒の一本ごとに、一本ずつ添えて行った。

「性染色体は全部で二十二の倍、つまり四十四になる。そして性染色体のXとYを加えると、四十六だ」

「XとYは対じゃないんですね」

「そうだ。ヒトの染色体の基本数は、あらゆる人種を通じて四十六なんだ」

「聖なる数ですね」

「そういうことになるな。

 ところがこの染色体が、一つ多かったり少なかったり、また対になっている一方が正常なものより長かったり短かったりすると、異常があらわれる」

「突然変異ですか」

「いや、そうとは言えない。染色体異常と言う奴《やつ》さ。たとえばこのG群といういちばん小さな染色体の、全体で言うと二十一番目の奴が一つ余分にあると、目尻がつりあがって目頭に特殊な襞《ひだ》ができて、体も知恵も発育が遅れて、いわゆる低能者と呼ばれるヒトが生まれて来る」

「蒙古症《モンゴリズム》ですね」

「よく知ってるな。でも今はその呼び方はしない。ダウン症候群というんだ。そういうわけで、性染色体の異常は当然性の異常になってあらわれる。クラインフェルター症候群というのがあってね、性染色体がX・X・Yだと、見た目には男なんだけれど精巣がごく小さくて精子を作る力がないし、Xが三つになっている女性も不妊、Xが三つにYがひとつくっついているのも不妊の男性なんだ。それに、こうした場合はたいてい精神薄弱を伴いがちなんだ」

「で、X・Y・Yは……」

「超男性はX・Y・Yで染色体が一個多い。これもクラインフェルター症候群に入るんだが、外見は普通人と少しも変らない。だがここが違う」

 先生は胸を叩《たた》いて見せた。

「心臓ですか」

「いや、心だよ。常識では考えられないくらい冷酷無残で、生まれつきどうしようもなく狂暴なんだ。外国に最近あった例だが、十人くらいの女性を理由もなく次々に虐殺した男がつかまって裁判にかけられたのさ。ところがその弁護士が有能な奴《やつ》で、被告の染色体を調べて証拠に持ち出したんだ。精神異常だというわけさ。染色体を持ち出さなければ助ける手がない程絶望的な被告だったわけだな」

「そんなのになりたくはないですね」

 私は先生と顔を見合わせて笑った。

  5

「超男性を持ち出した理由は、男性の性染色体が一個多いと、男の特性が異常に強くあらわれて来るという点なんだよ」

「男はもともと女より粗暴なんですね」

「恐らくそれが性の根本的な問題にまでつながっているんだろうね」

 私は冗談で言ったつもりだったが、先生は真面目だった。

「君がSFファンだと知らないものだから、さっき少し正しくないことを言ってしまった」

 先生は声をひそめ、詫びるように言った。

「右肺貫通銃創で全治一か月は何千万人に一人という異常なことだって言っただろう」

「ええ」

「あれは嘘《うそ》だ」

「嘘……」

 私は眉をひそめた。

「君なら判《わか》ってくれそうだから打ち明けてしまうよ。俺はおやじを口説《くど》いて谷口を必要以上に長く入院させていたんだ」

「え……」

「すまないと思っている。悪く受取れば医者の入院費稼ぎだからな。でも、君が身もと引受人になっているくらいだから、書類を見ただけでも、治りしだい働きに出なければやって行けない人だと言うことは判《わか》っていたんだ。だから常識的な期間まで、当人には何も言わずに引き留めていたんだ。そのかわり個室に入れて料金は十日目ごろからほとんど無料《タダ》同然だった筈《はず》だ。おやじは文句ばかり言ってたよ。外科の医者はそんなことに興味を持つ必要はないんだってね。でも俺《おれ》は、遺伝学や発生学のほうに興味があった。我儘《わがまま》を承知で押し通したんだよ。だから君たちがよく見舞いに来てることも知ってたが、用心して会わないようにしていたのさ」

「本当にあいつは異常だったんですか」

「そうだ。さっきの説明を訂正する為《ため》にくわしく言うと、臓器とか筋肉とか皮膚とかが傷ついた場合は、その傷口が癒《なお》る、……つまりくっつくのは三日か四日が勝負だ」

「そんなに早いんですか」

「うん、軟組織は早いんだ。ことに、血管がたくさん通っている所ほど治りが早い。だから、肺などは傷口がすぐにくっつこうとしはじめる。しかしそれでも三日目あたりが治るヤマで、軟組織を手術した場合、今の医者はたいてい一週間で糸を抜いてしまう。早いと五日目さ。しかし、骨となると別さ。骨折が治るのは子供で一か月、大人で二か月はかかる。胸から肺に入って背中へ抜けたのが谷口の傷だが、もし弾丸が骨の間をすり抜けたとすれば、彼は非常に運のいい男と言えるだろう」

「どうだったんです」

「骨をやられていたよ。その為に肺の傷も少しひどかった。俺はおやじに手伝って、一緒に彼の手術をしたんだ。びっくりしたよ。手術しているうちに、もう傷口が強くふさがろうとしているんだ。俺は気味が悪くなった。で、おやじに言ったんだけれど、おやじは平然としていた。傷を見てこわがるのかって……冗談じゃない。俺だって外科医だよ。詳しいことを君に言っても判《わか》るまいが、谷口の体は不死身のようなもんだった。あれじゃどんなひどい傷だって治るだろう。医者の常識という奴《やつ》をとり除いて、傷の状態だけで判断すれば、実は二日目にもう糸を抜ける状態だったんだ。骨のほうは一週間目さ」

「あいつ、原始的なのかな」

「それから俺は夢中になってしまったんだ。だから、谷口の両親、祖父母がどうだったか、兄弟がどんな体だったか、そして彼の子供はどうなるか、俺はそれを知りたくてたまらないのさ」

「兄弟はないようでした。お袋さんは戦災で死んでしまったし」

「生まれはどこなんだい」

「さあ、よく判りません」

「どうだろう。谷口という男は、自分の体がそんなだと知ったら……」

「どうでしょうかね。でも、先生のなさったことを知っても、憤《おこ》るような奴じゃありません。それははっきりと言えますね」

「それだと助かるんだよ。何しろ自分の勝手な興味で、すぐに退院出来るところを長く引き留めちゃったんだからな。で、君は今度彼に会ったら、今のことを打ち明けるかい」

「そうですね……」

 私は考え込んだ。

「どっちとも言えませんね。その時の状況しだいでしょう。自分が不死身だったら、それを知って置いて損はないでしょうから、教えてやったほうがいいような気もします」

 私は確答を避けた。先生と遺伝子などの話をしている内に、流産した子のことを思い出したからであった。そういう生命の根源にかかわるようなことは他人のことにせよ、気軽に扱ってはいけないような気がしたからである。

 しかしとにかく私はその夜、滅多《めつた》にお目にかかれぬSFファンの一人にめぐり会えたのであった。

「誰……あの人」

 比較的早くから来て看板まで粘っていたので、ママは不審そうに尋ねた。

「滝川外科の息子さんです」

 そう答えるとママは、

「あら抜け目ないのね」

 と私を褒《ほ》めるように笑った。谷口をよく見舞いに行っていたことを知っていて、私がついでに客を一人つかまえて来たのだと思ったらしかった。

 だが、店を閉め仕事がおわると、そんなことも今日の客あしらいのひとつとして、簡単に私の頭から離れて行った。次の朝はいよいよわが家が阿佐ケ谷の店を引継ぐ第一日目なのであった。

 店の名はイボンヌと言った。

 店名もそのままなら内部の改装もいっさいなしだから、常連でないと代がわりしたことも気付かない筈《はず》であった。

 私も朝の十時から店に出た。私がカウンターの中へ入ってコーヒーやココアやそのほかの飲み物を作り、弟がウエイター、まだ体調の完全でない光子がレジの役をした。

 一軒おいたとなりに花屋があり、母はそこで買った花を店の中の何か所かに活《い》けてくれた。

 ちょっきり一坪ほどのカウンターの中は、なかなか仕事がし易《やす》くできていて、何代もかかって少しずつ手を加えた苦心のほどが窺《うかが》えた。

 あんなことがあった直後なのに光子は案外張り切っていて、レコードの整理をしたり古伝票の束を棚から引っぱり出して捨てたり、こまめに働いてくれた。

  6

 イボンヌは素早く軌道に乗った。

「これじゃ、手ばなした人が惜しがるなあ」

 すぐ向かいにある小さなバーのマスターがそう言うのだからたしかであった。

 私にはその理由がよく判《わか》った。前の経営者たちはいずれも年配の人たちで、それもイボンヌを副業としてやってたらしいのだ。

 私たちから見ればいかにも山の手らしく、会社の役員とか画家とか言った人達が、ごく素人《しろうと》っぽく人まかせで物静かにやっていた店なのだ。最初にはじめた人は画家で、イボンヌという店名もそんな人がつけた名らしかった。

 どうやらはじめは当時最盛期にあった名曲喫茶だったらしい。コーヒーを味わいながらクラシック音楽に陶酔する……ひと昔前のスタイルだが、品がいいから素人の副業としては持って来いだったのだろう。

 しかしそれをずっと踏襲して来てしまったのだから、ジリ貧になるのもやむを得まい。だが私たちは若かった。私と弟は仲間や友人の間を駆けまわってレコードを掻《か》き集めた。ラテン音楽とモダンジャズが中心になって夜はトリオ・ロス・パンチョスやキング・コールなどの歌を聞きに、近くに下宿している大学生たちが集まって来た。昼間はモダンジャズをかけっぱなしで、新宿のキーヨや木馬といったモダンジャズ専門の店に似た雰囲気になったのだ。

 四番地で働いている女の子が、自分の妹をイボンヌに送り込んでくれた。これがスタイルのいい美人で、若い客の人気を集めるようになった。私は新宿にいるままだから、弟が若い客たちからマスターと呼ばれはじめ、光子はお姉さんで、母はいつの間にかママと呼ばれて返事をするようになっていた。

 四番地でも変化が起っていて、志村がマネージャーに格あげになり、その下に二人のバーテンが補充された。そして私は、四番地のママがはじめる神田の店の準備に忙殺されはじめていたのである。

 が、何もかもがうまく行っていたわけではなかった。

 光子が宙ぶらりんになってしまっていたのだ。

 流産のときが母と初対面だった。そして母のアパートで何日か養生している内に、すっかり母のお気に入りになり、開店騒ぎもあってそのままずるずるべったりに一か月ほどを阿佐ケ谷のアパートで過してしまった。

 ローズへ戻ればずっといい収入になる。一人できちんと生活して行けるのだ。しかし私の嫁になるという前提があったから、酒場の女に戻りますというのも何だか妙な具合で、ついローズを休んだままになっているのだった。

 光子が成子坂《なるこざか》下へ久しぶりに戻った晩、私はそのことについて話合った。

 すると、

「一度松江へ帰って区切りをつけるわ」

 光子はすでに考えをきめていたと見え、そう言った。

「あなただって、神田へ移れば当分は向こうに寝泊りしたほうが都合がいいんでしょう」

 それはそうだった。今度の神田の店は和風の店で、二階にちゃんとした部屋もついていた。

「どっちみち代々木のお部屋は要らなくなるんだし、早いとこ引き払ってここにいてくれないかしら。そうすれば私も安心して行けるから」

 光子の提案は筋が通っていたし、私に異存はなかった。その週の内に神田の店の引渡しがあるから、私は代々木を出て荷物を神田へ移してしまえばそれでいいのだ。

「神田で一緒にやらないか。ママに言えば承知してくれると思う。そうなれば形だけでも式もあげて、夫婦としてやって行けるよ」

「そんなこと……」

 光子は不満そうに言った。すでに自分たちは夫婦になってしまっているではないか、と言いたかったらしい。

「でも、イボンヌを二人でやるのは来年まで見合わせるぞ」

「そうね」

 光子も一か月ほど阿佐ケ谷にいて、軌道に乗ったとは言いながら、その店のあげる収益が大したものではないことが判《わか》っていたのだ。母と弟がやって行くには不足はないが、それに私たちまでが加わっては、夢も希望もなくなってしまう。

「弘志さんはホテル学校へ行くんですってね」

 光子は私と一緒に蒲団《ふとん》の中へもぐり込みながら言った。そうやって寝るのは久しぶりのことだった。

「ああそうらしい。あのまま大学を卒業するより、ホテル学校へ一年横すべりしておいたほうが、就職がし易《やす》いらしいんだ」

「航空会社に的もしぼっているんですって」

「うん」

 私は灯《あか》りを消した。

「スチュワーデスになるの……」

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