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文章简介

作者: 当前章节:15358 字 更新时间:2026-6-23 00:32

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半村 良

魔女街

目 次

 魔女街

 魔王街

 幻《まぼろし》 町《ちよう》の女

 最初の夢

 窓辺の円盤

 中年天使

[#改ページ]

魔女街

 一日中あたりの空気を激しく震わせていた帯鋸《おびのこ》の甲高い音が急にやんだ。

「だから……」

 工場を背にして帯鋸の音に負けまいと大声を出していた貧相な四十男が、そう言いかけて喋《しやべ》るのをやめ、うしろを振り返ってから普通の声になって言った。

「だから組合なんてくだらねえって言うんだよ」

 紬《つむぎ》康平は頷《うなず》いて見せ、

「俺《おれ》はどうでもいいんだ。本当は組合なんか関係ないよ。でも、みんな今度のことで熱くなってるし、俺だけ知らん顔をしているわけには行かないもの。それに、給料があがるのは悪いことじゃないし」

 と言って歩きだした。あちこちに木材が積んであって、地面は長年の間に積もった大鋸屑《おがくず》でふかふかしている。おまけにこのあたりは低地だから湿気が抜けることがなく、歩くたび濡《ぬ》れ雑巾《ぞうきん》を踏みつけたような音がするのだ。

「よせよ。俺はお前の為《ため》を思って言っているんだぞ。班長や係長まではまあいいや。でも、課長から上はみんなあっち側だぜ」

 男は康平と並んで歩きながら、工場の先にある二階建ての建物を顎《あご》の先で示した。この木工場は柄《がら》にもなくだだっぴろい敷地を持っている。その気になって木材の山を二つか三つ別な場所へ移せば、工場のすぐ横に野球のグラウンドぐらい簡単に作れてしまう。もっとも、それは草野球には充分な広さの、という意味だし、大鋸屑でふかふかになった地面の上ではボールも思うようには弾《はず》まないだろう。

「睨《にら》まれちゃ損だぞ。組合なんか適当につき合いでやってればいいんだ。何たって金を持ってるのはあっちだからな」

 男はまた二階建てのほうを顎でしゃくった。そこが事務所なのだ。

「でも、みんながおこるのも無理はないよ」

 康平は木のサンダルで大鋸屑を蹴《け》った。この工場ではみんな言い合わせたように木のサンダルを履《は》いていた。作業台のあたりに積もった大鋸屑の中に、よく刃物がかくれていることがあるのだ。だから木のサンダルがいちばん安全なのだ。それに、靴《くつ》など履いていたら、すぐ大鋸屑が入って始末が悪い。木の香に混ってどこからか強いフォルマリンの匂《にお》いが漂《ただよ》って来る。

「夏のボーナスのとき、一ヵ月なんてとても出せないって突っぱねたくせに、あんな凄《すご》い家を建てるんだものな」

 高須木工所の社長、高須久市の家はこの工場のすぐそばに建っている。北側の低い塀《へい》の外がすぐに社長の家の庭になっているのだ。地続きである。かなり古めかしい家だったが、最近急にそれを改築しはじめた。今度の家は以前の倍くらいの建坪があり、盛大な上棟式《じようとうしき》がおわると、艶々《つやつや》と黒光りした、いかにも高価そうな瓦が乗りはじめた。

 工員たちの中には、満足な家に住んでいる者は一人もいなかった。公団アパートに住んでいる者はみんなから羨《うらや》ましがられていた。十何年勤続している男が、いまだに工場の近くの、二間《ふたま》の木造アパートなのである。

 この夏のボーナスをいつもの半分くらいにおさえられたあとだけに、日ごとに完成に近づいて行く社長の家を見て、忿懣《ふんまん》のないわけがなかった。

「舐《な》めてやがるんだ」

 みんなそう言って腹を立てていた。それまで組合もなかったが、金町《かなまち》の駅の近くに毎年一年の半分くらい赤旗を立て放しにして経営者と揉《も》めている組合があるので、気のきいた奴《やつ》がそこへ相談に出かけたのだ。そうしたらなんと、社会党だか共産党だかが力こぶをいれて、組合結成に至れり尽せりのお膳立《ぜんだ》てをしてくれたというわけなのだ。

「組合って、こんなに簡単に作れちゃうのかい」

 工員たちはその手軽さにびっくりしたが、社長のほうはうすら笑いをして、

「木を切ったり削ったりしなくてもうちはちゃんとやって行けるんだ」

 とうそぶいたと言う。つまり、木工部門を切り捨ててしまってもかまわないのだぞというわけである。木材は高騰しているし、社長は昔から原木の売買をやって来ていた。多分社長にして見れば、木工部門は足手まといというわけなのだろう。その証拠に、以前から工場を勤めあげて事務所へ移った連中は、例外なく営業部員にされている。木工の現場を監督する役につくのは、どれもこれもうだつのあがらない、もうこれで行きどまりときまったような男ばかりであった。

 康平に組合活動に加わらないよういさめていた四十男は、その現場の監督の役に、もう少しで手の届く位置にいた。彼にしてみればそれでも栄光の椅子《いす》というところなのだろう。だからこの際若手に派手な暴れ方をされては、元も子もないと思っているらしい。

「俺はどうでもいいんだ」

 事務所の横にある汚い小屋のような建物に入るとき、康平は結論を出すようにそう言った。

 食堂兼休憩室兼更衣室である。誰《だれ》かが怪我《けが》をすれば医務室にもなる。壁の中側に正方形の桝《ます》が作ってあった。銭湯にある脱衣棚《だついだな》そっくりである。ただし鍵《かぎ》のついた扉《とびら》はなく、むき出しだった。工員たちは朝そこへ着て来た衣服をいれて作業服に着がえ、夕方はその棚から自分の服を出して着て帰るのである。

 紺屋《こうや》の白袴《しろばかま》で、塗りもはげガタガタになった木の長いテーブルが板の間に置いてある。テーブルの上には昼飯のとき使った大きなアルマイトの薬罐《やかん》がふたつ出しっ放しになっていて、ブリキの平べったい灰皿《はいざら》が散らばっていた。

 隅《すみ》のほうに競馬好きがひとかたまり、作業服のままで週末の馬券作戦に余念がない。と言っても、大した金をつぎこめるわけもなく、楽しみは馬券そのものより、あれこれ予想をたて合う次の週末までの時間なのだ。そして、その飯場《はんば》然とした建物の窓の下では、月賦で買った250CCの単車をピカピカに磨《みが》きあげている青年がいたりする。

「おい康平。奢《おご》ってやろうか」

 三十くらいのごつい男が、折り畳み式の椅子を引き寄せて煙草《たばこ》を吸いはじめた康平に言った。康平は黙ってハイライトの袋をさしだす。男は人の好さそうな笑顔で一本抜きとって咥《くわ》えた。

「今晩上野で友達に会うんだ。餓鬼《がき》の頃《ころ》からの友達でよ、お前さえよかったら一緒に来ないか。いい奴だぜ。気にすることはないんだ。ただそいつ、遊び人でよ。金廻《かねまわ》りもいい奴なんだ。東日本橋のほうで鞄屋《かばんや》をやってるのさ。不景気なつらばかりしてないでたまには付き合え。そいつがよ、キャバレーに行こうって言うんだ。なに、そんな高くはないさ。俺だって金がねえもんな。だから誘われたときちゃんと訊《き》いといたんだ。五千円もあればお前、お釣《つ》りが来るってさ」

「俺、いいよ」

 康平は煙草の火を貸してやりながら言った。

「なんでえ、行かねえのか」

「うん」

「うちへ帰ってまた本でも読もうって言うんだろう。しようがねえなあ、お前はちっとじじむさいよ」

「悪いけど……」

「そうか、じゃあまた今度な。でも、お前って変ってるなあ。全然遊ばねえみてえじゃねえか。いったいお前は何が一番好きなんだ」

 すると、入口の水道で手足を洗って来た男が、濡れたタオルで顔を拭《ぬぐ》いながら、

「まさか仕事が趣味ってわけじゃねえだろうな」

 と大声で言った。十五人ほどの仲間が声をたてて笑う。

「そんなことはねえよなあ、紬《つむぎ》。帰るのはいつも一番先だもの」

「彼女がいるんだよ、彼女が。判《わか》ってやれよ、若いんだからさ」

 いつも同じ調子だった。みんなといる時彼らが表面に泛《うか》ばせているのは、気が好くて、陽気で、冗談好きな顔である。適当に豊かでさえあれば、その顔はどこまで掘りさげても同じ顔であるのかも知れない。だが、バスや電車の中で人に押し揉まれている時の一人きりの顔は、悲しげで依怙地《いこじ》で、どこか怯《おび》えているようでさえあるのだ。

 この辺りは葛飾《かつしか》区の北端に近い。昔の利根川《とねがわ》の名残りだという小合溜《こあいだめ》はすぐそこで、その向こう岸は埼玉《さいたま》県になる。最寄りの駅である国電金町駅のあたりには大きな団地ができてすっかり昔とは様子が変ってしまったが、水元《みずもと》と呼ばれるその界隈《かいわい》でも、特に高須木工所のある辺りは、二十年ほど前と余り変ってはいなかった。

 康平はジーパンをはき、薄い化繊のジャンパーを着ると事務所のわきに突き出した、青い塩《えん》ビの庇《ひさし》の下にあるタイムレコーダーに自分のカードを突っ込んでガシャンと鳴らし、カードをケースに戻《もど》すと門を出た。すぐに茶色いサングラスをかける。もう日が暮れかけていたが、康平は夜でも外を歩くときはサングラスをかけるのだった。

 人に目を見られるのが億劫《おつくう》だった。ことに着飾った若い女と目が合い、それが自分のタイプだと思ったりすると、余計億劫な気がするのだった。

 古い靴は歩くたびポコポコと音をたてた。ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、家まで歩いて帰るのである。バスの停留所が四つほどの距離であった。

 康平は滅多にバスに乗らない。会社がバスの定期はくれるのだが、持ち歩くことさえしなかった。うつむいて、そう急いでいるようには見えない歩きかただが、その実かなり大股《おおまた》で早く、彼を追い抜いて行く者はそう多くなかった。彼はバス通りをさけて近道へ入る。

「ええ、安いよっ」

 狭い道の両脇《りようわき》に、八百屋や魚屋が並んでいて、威勢よくというよりはやけくそのような声が響いていた。キャベツの葉が泥《どろ》にまみれて人に踏まれており、饐《す》えたような漬物《つけもの》の匂いがした。うしろのほうをパトカーのサイレンが右から左のほうへ移動して遠のいて行った。乳母《うば》車と乳母車の間をすり抜け、康平はむっつりとその商店街を通りすぎて行った。はやばやとライトをつけた自転車にのった子供が、よたよたしたこぎかたで康平を追い抜いて行く。そんな狭い道にも、赤く塗ったコカコーラの車が乗り入れて来ていて、道を塞《ふさ》いでいた。ガシャンと、瓶《びん》の鳴る音がする。康平はその先にある煙草の自動販売機の前で立ちどまると、百円玉をいれてハイライトのボタンを押した。いま彼が持っている金は、その百円玉一枚だけであった。それがお釣りの十円玉にかわり、康平は煙草と十円玉をジャンパーのポケットへ落とし込むと、またむっつりと歩きはじめた。

 彼の家は細い路地の中程にあった。上下合わせて四部屋の家で、両どなりの家とは壁でつながっていた。つまり長屋である。それもひどく古い。それでも両親が苦労して自分のものにした家なのだ。

「……ま」

 ただいま、の「ま」だけしか聞きとれない声で玄関のガラス格子《ごうし》をあけてボロ靴をぬぐと、下駄箱《げたばこ》の横に置いてある雑巾で足を拭《ふ》いた。靴下を履いていないのだ。

 一階には人の気配がなかった。康平は茶の間を通り抜けて台所へ出ると、便所のドアの前にある階段を登って暗い二階の北側の四畳半の襖《ふすま》をあけた。敷きっぱなしの蒲団《ふとん》を踏んで電灯《でんとう》をつける。四角い部屋の三方の鴨居《かもい》の上に棚《たな》が作ってあり、本や雑誌がぎっしりと積み重ねてあった。

「康平、帰ったのかい」

 裏の戸があく音がして、母親の声が聞こえた。

「ああ」

 康平は蒲団の上に仰向《あおむ》けにひっくり返って答えた。ジャンパーのポケットを探ってハイライトをとり出し、枕《まくら》もとへ抛《ほう》り出す。

「お父さんは清子のうちへ行ったよ」

 母親の声に康平は眉《まゆ》をひそめる。彼は二十七で、妹の清子はことし二十五。この春|嫁《とつ》いで花畑町に住んでいる。そこは足立区で、乗り物を使うとひどく遠まわりになるが、直線距離にすればさほど遠くない。

「そうちょいちょい新婚のところへ行ってどうする気だい」

 低い声でつぶやいている。父親はこのところめっきり老いが目立ち、やたらと人恋しがるようになっている。

 長男の純一は水産会社に勤めていて、一年のうち数ヵ月しか日本にいない。遠洋漁業の母船要員なのである。収入は比較的よく、一家の生計のほとんどは純一の仕送りでまかなわれている。

 と言っても、康平は親がかりをきめこんでいるわけでもない。給料袋は毎月手つかずで母親に渡している。単車もステレオも身のまわりのおしゃれにも、まるで関心がないようだった。

「そのうちお前の貯金もはじめなければねえ」

 母親がいつかしみじみとそう言った。結婚資金のことを言ったのだろう。

「金なんか要らないよ。みんな使っちゃいな」

 その時康平はそう答えた。母親はギョッとしたように彼を見たが、康平は別になげやりな様子でもなかった。

「おたくの子供はみんなよくできてるもの」

 近所の主婦が茶飲みばなしによくそう言って母親を羨ましがっている。

「康ちゃんだって真面目《まじめ》一方だしさ。それに、こう言っちゃ悪いけど、両親に似ずいい男だよ。それなのに、彼女だってまだいないんだろう。ねえあんた、ほんとにあのご亭主《ていしゆ》の子供なんだろうね」

 そんなあけすけな冗談が出るほど、康平は父にも母にも似ていなかった。きちんとした恰好《かつこう》をさせれば、相当の美男子なのである。いや、優《や》さ男と言うべきだろう。逞《たくま》しさはないが、繊細な感じで、身のこなしもどうかするとひどく優雅に見えることがあった。

「まだ欲がないのよ、あの子は」

 康平の話が出るたびに、母親はそう言っている。たしかに、その年頃の男ならあれこれ欲しいものだらけで、給料を家に入れるどころか、もらったとたんにパッと使い果してしまっても不思議はないのである。

 襖《ふすま》があいて母親が顔をのぞかせた。

「康平、今度のお休みにちょっとたのまれてくれないかい」

「何を」

 康平は天井を向いたまま問い返した。

「お兄ちゃんの会社へ持って行って欲しい物があるんだよ」

「またか」

「嫌《いや》ならいいんだけどさ」

「いいよ、行ってやるよ。何を持って行くんだい」

「手紙だよ」

 その水産会社では、遠洋漁業に出ている社員に対する家族からの手紙や小荷物は、本社ですべて処理してくれる仕組になっていた。地方にいる家族は本社の係りあて郵送すればよかったし、近い者は直接届けてもよかった。しかも、日、祭日にしか外出できない者の便宜《べんぎ》も考えて、本社が休みの日でも守衛室で受付けてくれることになっている。

「手紙か」

「そう。あのね、お兄ちゃんにどうかと思う人がいるんだよ」

「嫁さんかい」

 康平はむっくりと体を起した。

「そう」

「見合写真か」

「そうなんだよ。帰って来てからでもいいんだけどさ、向こうでゆっくり眺《なが》めててくれたほうが、考えもよくまとまると思うしね」

「見せてよ」

「お兄ちゃんのお嫁さんだよ」

「いいじゃないか、ねえ、見せて」

 康平は立ちあがって襖をいっぱいにあけた。

「下にあるよ」

 母親は階段をおり、康平があとに続いた。

「どうだろう」

 茶箪笥《ちやだんす》の抽斗《ひきだし》から、母親は二ツ折の台紙にはさんだ写真を出して康平に渡した。

「ふうん」

 康平がひろげて眺めた。

「よさそうな人だろ」

「うん」

「お兄ちゃんにはそういう人がいいと思うんだよ」

「うん」

「いいだろう」

「うん」

「気に入らないかい」

「…………」

「ねえ、どっちなのさ。はっきり返事しなよ」

「ばかだな、俺の嫁さんじゃないだろ」

「でもさ、兄弟なんだから、お兄ちゃんがどう思うか、だいたい判るだろう」

 康平はあっさり台紙を閉じて写真を母親に返した。

「兄貴《あにき》がいいって言えばいいさ。俺が賛成したり反対したりしてみたってはじまらない」

「やだ、この子。おまえ、この写真の人を気に入らないんだね」

「そんなことはないよ」

「だって気のない言い方じゃないか」

「またはじまった。母さんは下らないことでおこり出すんだから」

「おこってやしないよ。でもやっぱり、お兄ちゃんのお嫁さんになる人はお前にも気に入ってもらわなくちゃ」

「兄貴の嫁さんなら、俺はどんな人だって好きになれるよ」

「ほんとかい。そう言ってくれるとあたしもうれしいんだけど」

「でも、ああいう仕事だからな。嫁さんになる人も可哀そうだな」

「どうして」

「だって家にいつかないじゃないか。しょっ中留守ばかりでさ」

「それはお前、仕方ないよ。好きで一緒になったんだもの」

 康平はふき出した。

「変なおふくろ」

「だってそうだろ。いくら見合だって、気に入った相手でなけりゃ誰が一緒になるもんかね。好きだから結婚するんじゃないの」

「それに、兄貴のほうだって心配だろうな」

「なぜ」

「留守の間に、もっといい男ができやしないかなんて、思わないかね」

「そんなことあたしがさせないよ。あたしがそばについてるのにそんなことをするような女なら、はじめから奨《すす》めやしないさ」

「あれ……あ、そうか。ここに住むんだね」

 すると母親は急におどおどして、

「そんな、今日あすという話じゃないんだから。それに、おまえだっていずれは結婚して所帯を持つんだし」

「そうか、兄貴が結婚するとここに住むんだなあ」

 康平は天井を睨んで言った。

「まだきまったわけじゃないよ。晩はメンチカツだよ。いいだろ。ビールでも抜いてやろうか。お父さんのを一ダース買ったばかりなのよ」

 母親はそう言いながら台所へ去った。

 康平はしばらく茶箪笥の前に坐《すわ》って考え込んでいた。……そうなればこの家から出て行かなければならない。多分両親は近くに四畳半くらいのアパートを探して、そこに住めと言うだろう。放っておけばそうなるにきまっている。

 康平はそう思った。

 次の土曜日、康平は見合写真をいれた厚い封筒を持って家を出た。

 高須木工所も近頃では土曜日を休むようになっている。ただし隔週である。今週は休みの番に当たっていた。

 康平も今日はさすがにいくらかましな靴を履いていた。だいぶ以前に兄の純一からもらった靴で、純一はそれを買ってしばらく履いたが小さめだったらしく、靴ずれがしてかなわないと言って康平にくれたのだ。康平にもややきつめだったが、痛くて仕方がないというほどではなかった。

 黒いスラックスに茶色のブレザーを着ている。スラックスにはきちんと筋が通っていた。ブレザーはやはり純一のお古で、純一よりずっと胸の厚みがない康平には、肩幅や袖丈《そでたけ》はとにかく、胸のあたりがだいぶだぶついているようであった。

 茶のブレザーの下に黒いハイネックのシャツを着ていつものサングラスをかけている。康平は内心その恰好が気に入っていた。少なくともスラックスはぴったりと体に合っていた。脚の長さに自信があるのだ。事実よく見るとなかなかいいスタイルであった。

 だぶつき気味のブレザー・コートも、敢《あ》えてお洒落《しやれ》はしていないぞと主張しているようで悪くないと思っている。全体として、身なりにかまわない印象があり、しかもそう武骨ではなく、特にいくらかでも高価そうなものはいっさい身につけていないところが気に入っていた。腕時計さえ持っていなかった。

 康平は金町の駅前へ出ると、国電の駅を素通りして京成《けいせい》電車に乗った。その水産会社は大手町に本社があり、地下鉄の方が手っとり早い感じだった。

 朝からいい天気だった。風も穏《おだ》やかに乾いていて、快《こころよ》かった。秋のなんとなく透明感をともなった日射しが街をいつもよりきれいに見せているようだった。ビルの裏手にある通用門を通って守衛室に行くと、何度か来て見覚えのある守衛が心得顔で見合写真の入った封筒を受取ってくれた。用件はそれだけで、あっけなくすんでしまった。

 ひさしぶりの都心であった。康平は、お濠端《ほりばた》の道に出ると、ぶらぶらと日比谷《ひびや》の方へ向けて歩き出した。日比谷に向かう道路の、日の当たる右側の歩道ではなく、左側のビルがつらなる道だった。

 康平はその道が好きだった。実を言えば、母親に手紙や小荷物をあの守衛室へとどけさせられるたびにいつもその道を歩いていたのだ。左につらなるビルは、どのビルもぜいたくな匂いを発散させているようだった。少なくとも康平にはそう感じられるのだった。彼はそこを歩くたびそそり立つ壁のひとつひとつにこめられた途方もない金額を感じずにはいられなかった。それは、大鋸屑にまみれた、彼の日常には存在し得ない富がその壁の表面からにじみ出しているような気がするのだ。

 厚い壁、巨大な板ガラス……。人間をおさめる容器としてそれ以上ぜいたくな、そして、高度なものを康平はおもいつくことができない。何もそのビル群が大企業のものであるからというわけではなかった。康平は、ビルそのものにあこがれているようである。彼の望みは、いや夢は、鉄筋コンクリートで固められた近代的な高層建築である、いわゆるマンションに住むことであった。もっと詳しく康平の夢をいえば、そのマンションはこの東京に存在する数多いマンションのなかでも、最高級のものでなければならないのだ。そこに最高級の家具を並べ、最高級の服を着て、最高級の食事をすることであった。

「あの子はまだ欲がないのよ」

 実の母親でさえ、康平をそんなように見ていた。事実康平は、あまりものを欲しがらない若者だった。ステレオも、単車も、小粋《こいき》なライターも、背広も、靴も、ワイシャツも、ネクタイも彼は決して欲しがらなかった。タバコはハイライト。食べものはラーメン。休みの日はごろ寝。趣味と言えば読書ぐらいなものである。

 ところが、一見無欲なそうした日常の裏側でもうずいぶん以前から康平は途方もない欲を育て続け、夢を見続けていた。彼の好む小説はその物語のなかに必ずぜいたくな生活を描写した部分があった。彼は書店の書棚《しよだな》から独特の嗅覚《きゆうかく》を働かせてそうした本を選び出してくるのだった。むさぼり読み、そして学んだ。ぜいたくについて学んだ。どんなものが高級なのか、時計なら、服なら、家具なら、靴なら、酒なら……。

 この世のぜいたくは知れば知るほど奥深いようだった。いまここに康平が心を開いて語り合える友人がひとりいたとしたら、たとえばライターの話ひとつで彼は二時間以上も喋り続けることであろう。時計や服や家具についても同じことである。だが彼にはそういう友達がひとりもいなかった。彼は品物について学ぶだけではなく、いつのまにかぜいたくな人間についても学んでしまっていた。

 明察と高度なウイット、博識、自尊心、そして何よりも踏めばジクジクと音のする、湿った大鋸屑の堆積《たいせき》などとはまったく無縁であること……。そういう人間が彼の周辺に存在し得ないことは、当然のようである。康平自身もだからそういう人物を友として欲しがりはしなかった。手に入らぬものを欲しがってもしかたないことなのだ。また、最高のものが手に入らぬからといってそれに準ずるもの、あるいは二段、三段と格の下がったもので間にあわせることは、自分自身に対して許せなかった。

 つまり、彼の無欲さとはそういう種類のものであった。いくらさそわれても、上野の安キャバレーで楽しむわけにはいかないのだ。それなら家に帰って四畳半の万年床で寝ていた方がまだ救われる。もしさそいに乗って、安キャバレーへ行き、そこで本当に自分が楽しんでしまったとしたら、きっと康平は死ぬほどくやしがり、はずかしがるにちがいなかった。

 すくなくとも、製品番号入りのデュポンのライターが持てるなら話は別だが、そうでなければタバコはマッチでつけるに限る。近ごろはデュポンやダンヒルそっくりのデザインの国産品がはばをきかせているが、そういうライターを得意気に持っている男を見ると、康平はもっとも無能で無気力な人間に会ったとき以上にその男を軽蔑《けいべつ》し、自分自身もうんざりした気分にさせられてしまうのであった。

 兄に送る見合写真を覗《のぞ》いて、康平がしらけたような顔になったのはやはりそれと同じことであった。不美人だからがっかりしたのではない。その写真にうつっていたのは、十人並みよりはいくらか上の感じがする女の姿だった。兄の妻になるかもしれぬということで康平は充分な好意と興味を抱いて写真を見せてもらった。ところが、見たとたん彼はすべてを悟ったような気になってしまったのだ。いくら高望みをしたところで、紬《つむぎ》家の息子のところへくる嫁は、そんなところがせいいっぱい……。そう思ったとたん康平は激しい自己嫌悪《じこけんお》にとらわれたのであった。

 自己嫌悪。いいものを決して持つことがない手。外交官やフランスの富豪たちが舌つづみを打ってほめたたえるような料理を決して味わうことのない舌。目のある人を驚かすような靴を決してはくことのない足。

 どうしようもないことなのだ。そういうものを手に入れようと奮起して立ち向かっていく人生があることもよく知っている。挑《いど》んで努力して目的のものを手にする人生があることも知っている。だがそれ以上に康平は自分にはとうていそういうことができないのだということを知っていた。手に入るわけがなかった。だから逆に康平は多くを望まない男になろうとしているのだ。

 だが誰《だれ》ひとり知った顔のない都心の街路では自己のそういう無力さを一時たな上げにしておくことが可能だった。彼は急に左へ曲がりビルとビルの谷間へ入り込んで行った。彼の夢見ているものの匂いがそのあたりからただよってくるようだった。彼は歩き続け、いつのまにか銀座へ来てしまっていた。

 銀座の表通りは土曜の午後なのでごった返していた。若者たちの姿がめだった。二人づれが多かった。みなそれなりに装い、女たちの中には、つい康平が目を向けてしまうような美人も多かった。康平はまずデパートへ入った。彼はまっすぐエスカレーターで貴金属売り場へ向かった。彼はそこで自分が久しぶりにくつろぎはじめるのを感じていた。楽しいのだ。顔なじみの宝石類や高級腕時計がずらりと並んで彼をむかえてくれた。所有できなくても見ることはできるのだ。考えてみれば康平の夢はやっかいなものだった。夢の半分はいつでも実現しているのだ。高級なマンションも家具も服飾品も、いつでも彼を待ってくれていた。ただ手に入れられないだけなのである。しかもただ手に入れたのではまったく意味がないのだ。いくらそういう品々を欲しいと思っても盗んでまで手に入れようという気はまったくなかった。彼が夢見ているのは、そういうものを自分の金で自由に買うことであった。そのためにはそれ相応の生活力を身につけねばならない。要するに品物が欲しいのではなく、そういう暮しが欲しいのだ。だが、そういう暮しを成立させる力を手に入れることについて、康平ははじめから絶望していた。

 康平がややすねたような性格に見えるのは実はその夢と絶望のせいだった。その点では高須木工所の他の工員たち同様ひとりでいるときの彼の顔は、哀《かな》しげで、依怙地《いこじ》で、何かにおびえているような感じでもあった。

 デパートを出た康平は、銀座の表通りを歩きはじめていた。彼は商店の飾り窓のガラスにうつる自分の姿をチラチラとながめながら、彼の好みに合った服装をしている男を見かけるたび心の中でそれと自分を見比べたりしていた。

 このところ久しく都心へ出てこなかったが、出てくればいつもそうやってそぞろ歩きをするのが常であった。人混みの中で気ままにそうやって歩いていると快感を伴なった孤独感が彼の心にあふれるようであった。

 しかしその日はなんとなくいつもと違っていた。デパートを出るとすぐ誰か知っているような人物に会いそうな予感がしてならなかった。表通りを歩き出してしばらくするとそれがますますつよくなって、康平は飾り窓から目をそらせ通行人の顔を見まわしたり、名を呼ばれたような気がして急に振り向いたりしていた。

 そのとき彼は輸入食料品の専門店の前にいた。最高級のブランデーや、ぜいたくなチョコレートの箱が飾ってあるのをながめていた。するとまた、誰かが呼んだような気がした。彼は急に振り返った。

「お……」

 振り向いたとたん、彼の目の前に茶色い背広の生地がいっぱいに広がっていた。

「あ、失礼しました」

 すぐうしろをやけに背の高い中年の男が歩いていたのだ。康平は振り返ったはずみに、その男の胸に顔をぶつけてしまったのであった。二人はちょっともつれあうようになり、康平が詫《わ》びを言って、飾り窓の方へ身を引いたとたん相手の胸に当たって外れてしまったサングラスが舗道へ落ちてあっけなく割れた。

「あ、これは……」

 茶色い服を着た中年の男が腰をかがめてあわててそれを拾い上げた。そのはずみに、割れ残っていたレンズが外れ、また舗道に落ちて、音を立てた。

「これはどうも申しわけない」

「いえ、いいんです」

 康平は相手の手から片一方のレンズが無くなったサングラスをとり戻そうとした。男はその手を引いて康平に渡さなかった。

「すまないな……。本当に失礼した。許して下さい」

 男は慇懃《いんぎん》に言った。

「安ものですから」

 康平は心配ないというように微笑して見せた。

「考えごとをしながら歩いていたものだから」

「急に振り向いたんですから、僕の方が不注意でした」

「いやそんなことはない。ぶつかって行ったのはわたしの方なんだ。弁償させて下さい」

「弁償だなんて」

「すぐそこに眼鏡屋があるから、あそこへ行ってなんとかしましょう」

 茶色い服を着た背の高い中年の男は、そう言うと片眼《かため》のないサングラスを左手につまみ、右手で康平の背中を押すようにして歩き始めた。康平はなんとなくその男に気圧《けお》されて眼鏡屋の方へついていった。

 サングラスは店の入口から中ほどにかけてびっしりと並んでいた。店の中へ入ってしまってから康平は改めて言った。

「ほんとに心配しないで下さい。それはすごい安ものなんですから」

 すると男は柔和な微笑を泛べ、

「サングラスは値段ではないでしょう。顔に合うか合わんかですよ。君はそのサングラスがとてもよくお似あいだったようだから」

 康平はなんとなくその男に好感を持った。押しつけがましくもなく、大げさでもなく、ごく自然にふるまっているようだった。男は手を伸ばして棚から茶色いレンズのひとつを取り、

「これなんかどうだろう。ちょっとかけてみて……」

 と言った。そのくったくのなさに康平はなんということなしに言われた通りサングラスをかけてしまった。

「やあ、似あうじゃないか」

 男はもの判りのいい父か兄のような言い方で笑った。

「サングラスが似あうんだね。どうかすると、ギャングのようなのもいるけどね」

 確かに康平はサングラスが似あう方であった。面長で鼻が高く、眼尻《めじり》の下がった形のサングラスをすると、白い額がきわだって見え、外国の俳優のような感じになった。

「どうだろう、これよりその方がもっと似あうんじゃないのかな」

 康平は微笑して頷《うなず》いてみせた。

「そこに鏡がある。写してみなさい」

 そう言われて康平は手近の鏡でチラリと自分の顔を見た。

「とてもよく似あっている。それに決めなさい」

 男はあっさりそう決めてしまった。

「おい君、これをくれないか」

 男は内ポケットからさいふを取り出しながら店員に言った。ちょっと一方的な感じもしないではなかったが、とっかえひっかえ品定めしたあげくに決めるより、この際、あっさりそうした方が受取る方も受取りやすかった。男は金を払い、

「さあ行こう」

 と言ってその眼鏡屋を出た。四十くらいの年かっこうに思えた。店にいる間にいつのまにか言葉つきも年下のものに対する喋《しやべ》り方に変わっていて、しかもそれがごく自然だったから、康平はいっこうに気にならなかった。

「どこかへ行くところだったのかね」

「いいえ、あてもなくただぶらぶら歩いていたんです」

「今日は休みだね」

「はい」

「わたしはパイプを探しに来たんだが、気に入ったのがみつからなくてね」

「パイプですか」

 二人はゆっくり歩きながらパイプについて語りはじめた。康平はまだ自分のパイプを一本も持ったことがなかった。パイプでタバコをすったことはあるが、それはおもしろ半分に人のを借りてすっただけで実際には自分で葉をつめたことさえなかった。だが、知識は充分にあった。男は康平の答えがいちいち的を射ているので、

「まだ若いのに、君も好きなんだな」

 と驚いてみせた。話しがひと区切りしたところで康平はふと耳をすますような表情になった。

「何かね」

 男は不思議そうに尋ねた。康平は照れくさそうに笑い、

「実はさっきからちょっと変なんです」

 と答えた。

「何が」

「気のせいだろうと思うんですけど、さっきから誰《だれ》かに呼ばれているような気がしてしかたがないんです。それで急に振り返ったらあなたにぶつかってしまって」

「ふうん、そういうわけだったのか」

 男は康平を見下ろして何か観察しているようであった。康平はその無遠慮な視線にくすぐったくなって、

「僕がどうかしましたか」

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