「へえ……」
冷たい風が啓介の手をかじかませ、頬《ほお》を堅くさせていた。
どのくらい二人はそうやって空を見ていただろうか。啓介は何も考えず、ただぼんやりとその時間を過した。
「ほら、来たでしょう」
久子が啓介の胸にもたれて低い声でささやいた。曇った、いかにも寒そうな白い空に何かが動いていた。
「あれかい」
啓介は夢の中にいるような気分で言った。彼の目にも、妙な銀色の点が見えていた。それは銀色だが光ってはいず、円よりは少し扁平《へんぺい》な感じであった。
「そうよ。あれがあたしの円盤ちゃん」
円盤といっても、マッチ棒の頭くらいの大きさであった。しかし啓介がよく見ようとまばたきをした短い間に、それは思いがけない近さになってしまっていた。
となりもアパートで、その間に四、五メートルほどの隙間があった。向かいは屋根の高さまでずっと羽目板だけで、左の通り寄りに小さな窓があるだけであった。
その空間へ、円盤が音もなく舞いおりて来ていたのだ。大きさは……そう、さしわたし四十センチほどの幅で、厚みは二十センチもあっただろうか。中央上部に円筒状の出っぱりがあり、下の面はふっくらとほどよい感じでふくらんでいた。
「円盤ちゃん、あけましておめでとう」
久子がそう言った、小さな円盤はふわりとした感じにひと揺れすると、二人がいる窓辺へ、手を伸ばせば触れそうなところまで近寄って静止した。
「久しぶりね。あたし、この人の奥さんになっちゃった」
久子は円盤に見せつけようとでもするように、甘えた感じで体を反らせ、啓介にもたれかかった。
「いい人よ、とっても。あたし好きなの。彼を愛してるの」
円盤はじっと動かなかった。
「そしてね……いいこと教えてあげる。あたし、赤ちゃんができたの」
久子の声を、啓介はばかに遠いものに感じていた。なんだか知らないが、子供の頃によくそんな感じになったことがあるようだった。物がすうっと小さく、遠くなるようで、時間がとまったような気分である。何もかもが自分にかかわりのないことのようで、それでいてあらゆる物がはっきりとよく見えていた。
「でも、お正月って退屈よ。二人ともちょっと淋しくなっちゃってるの」
その声もひどく遠くから聞こえているようだった。
「うちはテレビもないんだもの。貧乏って、やあね」
久子は笑ったようだった。
すると円盤が急に動いた。左の端をさげ、右側をひくりとあげて何かを煽《あお》るようにして元に戻った。
「聞こえた……」
久子が言う。
「いや」
「外へ出ておいでってさ」
円盤がまた同じ動きをした。啓介はそれを見ると無意識に立ちあがっていた。なんだか朦朧《もうろう》としていて、自分がこれから何をするのかもはっきりとはしないまま廊下へ出ると、階段をおりた。
アパートはしいんと静まり返っていた。通りへ出ると通りも静かだった。人も車も、何ひとつ動いてはいなかった。ただ、彼のすぐ前方にあの円盤が浮かんでいて、それがゆっくり表通りのほうへ進んで行った。
啓介はそれからのことをよく憶《おぼ》えていない。ただ、表通りを歩いて、どこかの商店の前へ行くと、休業の札を貼《は》った戸の前に中年の男がどてらを着て立っていて、その男が待ちかまえたように四角い段ボールの箱を啓介に手渡し、その上へ細長い箱をもうひとつのせてくれた。
啓介はそれを両手でかかえて、自分のアパートへ戻って来たらしい。らしいと言うのは、自分のアパートの前で、
「あらやだわ、はだしで出て行っちゃったのね」
と久子に声をかけられ、はっと我にかえったからである。
啓介は何がなんだか判らなかったが、久子は万事呑《の》み込んでいる様子で、
「冷たかったでしょう。早くあがりなさいよ」
と先に立って階段を昇って行った。
部屋へ着いて荷物を畳の上へおろすと、久子が靴下《くつした》を脱がせてくれて、お湯につけてしぼった雑巾《ぞうきん》で足を拭《ふ》いてくれたが、その先はひどく睡《ねむ》くなったことだけ憶えていて、気がついた時には蒲団《ふとん》の中で横になっていた。
何か音がするので首を持ちあげると、もう外は暗くなっていて、テレビで森進一が歌を唄っていた。
カラーだった。
「あ、目がさめたの」
久子はいつもと同じ調子で言った。
「そのテレビ……」
「あなたがもらって来てくれた奴じゃない。ねえ、アンテナ線のつなぎかたはこれでいいのよねえ」
久子は中腰になり、テレビの横へまわって裏をのぞいて見せた。
「俺がもらって来た……」
たしかに、どてらを着た男から受取った記憶があったが、どこでいつそんなことをしたのか、よく判らなかった。
「ねえ、見てよ」
啓介は立ちあがり、フィーダーの接点を見た。テレビの上にのせた室内アンテナと、ちゃんとつなげてあった。
「これでいいんだ」
「そうでしょ。あたしがつなげたのよ」
久子はうれしそうだった。
「円盤ちゃんにもらっちゃった。すてきなお年玉ね」
「参ったな」
啓介は首を振った。円盤を見たことや、それがおいでおいでをするように動いたことも、次々に思い出していた。
「久子はあの円盤を前から知ってたのか」
「うん。ときどき淋しくなるとお話ししてたの」
「でも、俺ははじめて見た」
「ここんとこ、あたしずっとしあわせだったでしょ。……ううん、いまふしあわせって言うんじゃないけどさ。ごめんね」
久子はあやすように啓介の顔を両手ではさみ、キスをした。
「たのむと何かくれるのかい」
「そんな……」
久子はいやしいと言われたように、むきになって否定した。
「たのみなんかしないわ。やあねえ。あんたも聞いてたじゃ……テレビもないし、貧乏はいやねえって言っただけよ。そしたらくれたのよ」
たしかにそれはそのとおりだった。
「円盤て、ほんとにいるんだな」
「だから先《せん》から言ってたじゃ……」
「でも、小さかったなあ。あんなに小さいもんだったのか」
「本なんかには、もっと大きいのや、いろいろあるんだって書いてあるけど、あたしの知ってるのはあのちっちゃい円盤ちゃんだけ」
「あ……」
啓介は驚いたように言うと、久子の肩を掴《つか》んで立ちあがらせた。じろじろと体を眺《なが》めまわす。
「やあねえ、何よ」
「久子、赤ん坊ができた、って言ったな」
久子は急に深刻な表情になった。
「うん。失敗しちゃったの、ごめんね」
「ほんとにできたのか」
すると久子はあとずさりして壁に背中をつけた。
「いやよ、あたし。絶対いやよ」
そのさし迫った表情に気を呑まれ、啓介はテレビの横に突っ立っていた。
「生むんだからね。……赤ちゃん生む」
啓介はまだ何も言っていないのに、久子は敵意をむき出しにして言った。
「おろさないわ。生みたいの。あなたの赤ちゃんを生む……」
啓介はしらけた気分で畳にあぐらをかいた。
「煙草《たばこ》が吸いたいな」
「ないわよ」
久子は挑《いど》むように言った。久子と一緒になってしばらくしてから、啓介は節約のため禁煙していたのだ。
「久子、俺はまだなんにも言ってないんだぞ」
啓介はうつむいて、いやに沈んだ声で言った。
「だいいち、赤ん坊のことだっていまはじめて聞いたんだ」
「でも顔に書いてある」
久子はまだ壁を背にして立っていた。
「ばか、勝手にきめるな」
「なら訊くけどさ、ちゃんと話したとして、生めって言ってくれた……」
「言いもしないで何言ってんだよ」
「嘘《うそ》、生めって言うはずないわ」
「俺がいつ嘘ついた」
「だって……」
冷たい沈黙が流れた。
久子がそんな態度に出るのは当然かも知れなかった。恐らく、いや百パーセント、啓介は生むなと言ったに違いない。運も才能もコネもない二十四とはたちの男女が一緒になって、まだ籍をいれる心の構えさえないのに、子供を作って育てる自信などありはしないのだ。
だが、久子は余りにも先まわりしすぎていた。赤ん坊のことについては、余りにも信頼がなさすぎた。母性愛|一途《いちず》で、啓介をまるで敵のように見たのだ。それが啓介を傷つけ、失望させた。
その夜二人は一応仲直りした。啓介も折れ、久子も機嫌《きげん》を直した。しかし、久子はあくまで赤ん坊を生むという主張を捨てず、いつものように求められると、おなかの子に悪いからと言って、はじめて唇《くちびる》を使って啓介に満足を与えた。
久子のそれは稚拙《ちせつ》で、その上わざとらしかった。啓介に献身的な奉仕をするように見せかけて、その実、子供を生むことを強調しているのだった。
啓介にもそれがよく判《わか》ったが、やはりはじめての刺激には堪らず、久子の稚拙な唇へしたたかに果てておわった。
その日から、なんとなくちぐはぐになった。啓介が遅れて帰ると、久子はいつも窓辺にいて、どうやら円盤と話していたらしい場面が度重なった。
日一日と二人の心が離れて行く……。啓介はいら立った。子供が生まれたあとのことを考えると気が重くなった。生むとなれば籍も入れねばならない。そうなれば両方の親に話をつけなければならないし、多分面倒な騒ぎになるだろうと思った。それに、こんな若さで子持ちになったら、将来の設計がめちゃめちゃになりそうな気がした。啓介はイラストで身を立てたいと思っているのだ。まだ修業中であることはよく承知していたが、それだけに、いざという時多少の危険をおかしても、将来を賭《か》けて冒険したいのだ。……それが子供に縛られてできなくなってしまう。
啓介は後悔しはじめていた。久子が重荷になって来たのだ。そしてその後悔の中で、久子とのことを誰《だれ》かに相談しようと思った。
相談の相手は女だった。同じ会社の総務部にいて、まだ独身だが啓介にはひどく成熟した女に見えていた。そういう女なら子供を生みたがる若い女の心理もよく判っているだろうし、あきらめさせる方法も教えてくれるかも知れないと思ったのだ。
しかし、あとから考えて見ると、どうやら啓介はその女に以前から憧《あこが》れていて、久子のことで生じた心の傷を、あわよくば甘ったるく癒《いや》してもらいたいと思っていたようだ。
そういう時、事はふしぎとうまく運ぶ。
その年上の女は、こころよく話を聞くことを承知したばかりか、東銀座の裏通りにある薄暗いバーの奥の席で、ウイスキーを奢《おご》ってくれたのである。
啓介はことこまかにそれまでのいきさつを語り、女は啓介が期待するとおりの答え方でなぐさめてくれた。その夜久子について啓介が語らなかったことと言えば、円盤についてだけであった。そんなことを言えば冗談だと思われてしまいそうであった。
啓介はその女に、ちらっとだが久子の唇の奉仕のことさえ告げた。多分酔ったせいだろうが、それまで言わねば久子のきつい主張が判ってもらえないような気もしたのである。
おまけに、啓介はひとつ嘘までついた。久子には自分の前に男がいて、その男が啓介よりずっと年上であり、今でも久子がねだれば何か買い与えさえすると言う嘘である。
しかし啓介は、それを言う時半分以上真実を告げている気であった。あの久子の円盤を、人格化して考えてしまっていたのだ。
女も酔ったようだった。別れちゃいなさい。あなたの為にならないわよ。……啓介の耳にこころよい言葉が次々にその赤い唇から出された。
そしてしまいには、
「あたしが別れさせてあげようか」
と妖艶《ようえん》な目つきで言うのであった。
その夜、啓介はかなり高級なラブ・ホテルへ泊った。
啓介の外泊が度重なり、久子と彼は顔を合わすたび泣いたり喚《わめ》いたりのいさかいをした。啓介は自分が思いもしない速度で久子から遠ざかって行くのを感じていた。
「あたし、あの頃《ころ》淋しかったのよ。だから円盤ちゃんに、いい恋人をちょうだいってたのんだの。でもだめね。あんたって……」
久子は最後には醒《さ》めた顔でそんなことを言ったりした。
別れは呆気《あつけ》なかった。年上の女の体に溺《おぼ》れて何日か過し、アパートへ帰ってみたら久子がいなかった。
……弘前へ帰ります。富田のおばちゃんなら判ってくれると思うの。赤ちゃんを生みます。
そんな置手紙があって、それでおわりだった。啓介は、さっぱりしたような、淋しいような、そしてひどく悪いことをしたような気分であった。
以前のように一人になったアパートで、啓介があの円盤を見たのは、それから三ヵ月ほどあとのことだった。
円盤はあのときのように、向かいの家との間の空間にとまって、手を伸ばせば届きそうなところに静止し、じっとしていた。
啓介がそれに気づいてみつめると、小さな円盤は二、三度体を揺らせ、すうっと舞いあがってそれっきり見えなくなった。
久子が弘前で死んだということを啓介に教えてくれたのは、原宿のブティックで働いている女の子であった。
その子は会社へ電話をして来て、なじるように、
「久子ちゃんは赤ちゃんを生みそこなって死んじゃったのよ」
と告げた。
それは啓介がアパートで円盤を見てから五日ほどあとのことであった。彼はとたんに体を揺らせていた小さな円盤をまざまざと思い出した。
多分、あれに乗ってどこかへ行ったんだろう……。啓介はそう思い、宇宙人と仲よくしている久子の姿を想像したが、やはり心のどこかに強い痛みを感じていた。
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中年天使
1
ひどく古めかしい部屋であった。しかも重厚で豪華なのだ。それがルイ王朝風とでも言うのか、椅子《いす》もテーブルも、家具類は曲線で満たされている。濃い飴色《あめいろ》の木部と、要所要所にはめこまれた分厚いガラス。ソファーや肱《ひじ》つきの椅子のクッションはぼってりとした生地が使われていて、バラの花の連続模様が刺繍《ししゆう》してある。それらの調度の高価そうなことと言ったら、たとえば窓ぎわにある 文《ライテイング・》 机《デスク》 ひとつにしても、デパートの家具売場にある婚礼家具セットがまるまるひとつ買えてしまうくらいのしろものだろう。
ただし、その部屋の広さはそう大したものではない。そして、その 文《ライテイング・》 机《デスク》 に向かって、一人の男が何かやっている。きちんと背広を着てネクタイをしめ、両膝《りようひざ》を揃《そろ》えて行儀のいい姿勢をしている。だが、全体に地味な感じで、人混《ひとご》みに入ったらすぐ見失ないそうな、至って特徴のない人物である。
年齢は四十五か六だろう。眼鏡をかけ、積みあげた書類を一枚一枚手にとって、しかつめらしい顔で眺《なが》めては首をかしげている。そばに手ずれのした黒っぽいケースが置いてあるところを見ると、その眼鏡はこまかな文字を読んだりするときだけのものらしい。多分老眼鏡なのだろう。
書類は一枚ごとに顔写真がはりつけてある。まるで履歴書のようだ。しかも積みあげた山はふたつにきちんと別れていて、一方には女の顔写真がはりつけてあり、もう一方のは男のばかりであった。
「これもだめ。これもだめ……か」
男は口の中でブツブツとひとりごとを言っている。
「これもだめ。これもだめ……。まるでだめだな。人間は多すぎるくらいいるのに、いざ捜すとなると、いないものだなあ」
男はそう言って首を振った。
ちょうどそのとき、やけにまるくふくらんだ感じの声がした。
「お呼びでございます」
すると男はあわてて椅子から立ちあがり、デスクのそばの壁にある、先が朝顔形にひらいた真鍮《しんちゆう》の管に口を寄せ、
「はい、ただいま参ります」
と言った。インターフォンの時代には珍しい、伝声管であった。男はそう答えると伝声管から離れ、手早く書類の山をかたづけながら、今度はさっきまでよりやや高い声で、
「美しいカップルを作るなんて、そんな縁結びの役はわたしには無理なんだ」
と、ぼやくように言った。
男はそのあと、大して乱れてもいない衣服を、上着の裾《すそ》を引っぱったりネクタイの結び目に手をやったりしてあらため、背筋をしゃんと伸ばすと、ドアをあけて出て行った。
2
黒塗りの高級車が丸の内のオフィス街へ入って行く。やけに長い、重そうな車だ。そんな高級車にふさわしい人物と言えば、このあたりでも社長級、いや、会長級の人物だろうと思われたのに、それが一方通行の道にとまってドアがあき、道に降り立ったのを見ると、意外にもしょぼくれたあの中年男であった。
だが、中年男は案外物なれた態度でそのマンモス商社の正面玄関へ入って行く。入口のところにダークスーツを着たしゃっきりした感じの男が待ち構えていて、中年男を見るとうやうやしく一礼する。中年男のほうも腰をかがめて、エリート社員然としたその相手にくらべると、かなりじめついた卑屈な感じでお辞儀をしている。ビジネスマン対|商人《あきんど》と言った様子であった。
二人はすぐエレベーターにのり、七階へあがった。そのビルの七階の一部は特別な区画になっていて、会長室や社長室から、専務、常務の各重役室と会議室、および特別応接室などが並んでいる。
中年男は専務室へ入りこんだ。
「やあ、須藤さん。お待ちしていましたよ」
社内実力者中のナンバー・ワンである専務がにこやかに中年男を迎える。須藤という名前らしい。
「遅くなりまして」
須藤は慇懃《いんぎん》に言ってすすめられたソファーへ腰をおろす。……ちっとも遅れていはしない。約束の時間からちょうど一分してその部屋へ入ったのだ。
「あれからすぐ手配をして、宣伝担当の常務を呼んで置きました。すぐ来るでしょう」
専務はいそがしいらしい。すぐデスクに戻《もど》ると書類に何か書き込み、ハンコを捺《お》す。人の噂《うわさ》では今の会長はもう高齢で、そう長い寿命ではないらしい。もしその老会長が死ぬと、あとの人事にかなりの異動が出て、ひょっとするとその専務が社長室に納まるかも知れないということであった。老会長に目をかけられているのだ。
須藤は、そういう人物の部屋の中にいて、割合い落着いていた。アガる様子もなく、気おされた様子もなかった。専務のそばにはあのエリート社員風の男が立っていて、書類をテキパキ処理している。
やがてドアにノックの音がして、そのエリート社員風のがあけに行った。どうやら専務の秘書か補佐役らしい。
「やあ、お待たせしまして」
でっぷりと肥った男が入って来た。ちょっと見にはこのほうが専務より貫禄《かんろく》があるが、よく見るとやはり専務より鋭さの点で劣るようだ。須藤はいつの間にかソファーから立ちあがり、実直な様子でドアのほうに向いていた。
「ああ野口君。お見えになっているよ」
専務は書類の最後の一枚をとりあげ、それをちらりと眺めてデスクの端へおいた。
「席を立とうとしたら電話がかかりましてね」
野口は弁解するように言い、ソファーのところにいる須藤をちらりと見ると、専務のほうへいぶかしげな視線を送った。専務は野口の目の問いには答えず、ひどく慎重でおごそかな表情で言う。
「とにかく、さっき伝えておいたように、このかたに便宜《べんぎ》をはかって差しあげて欲しいんだ。……須藤さん、こちらが野口常務です」
「はじめまして」
須藤はあの腰をかがめ気味にするお辞儀をして、ちょっと気弱な微笑を泛《うか》べた。
「どうも……はじめまして。わたし野口です」
「どうぞよろしくお願いいたします」
「専務もおいそがしいようですし、さっそく宣伝部のほうへ参りますか」
「お願いいたします」
キビキビしたビジネスマンたちの中で、須藤はかなり異質だった。物言い物腰の角がとれすぎ、このマンモス商社の中ではつるつるすべって置きどころがないと言った感じなのである。それはたとえば、お医者さんの大会にレストランのウェイターがまぎれ込んだようなもので、いくら上品に振舞って見たところで、その上品さ自体がまるで質の違うものなのだ。
とにかく、上品ということでは、専務や常務より須藤のほうがずっと上品であった。それでいて迫力もなく鋭さもない。専務室からその須藤を引き取った野口常務が、勝手の違う感じでマゴマゴしているのも無理はなかった。
「不況でして……広告関係もぐっと引きしめているのですよ」
野口はそういう話題が須藤には通じそうもないのを承知の上で、廊下を喋《しやべ》りつづけ、エレベーターで三階の宣伝部へおりた。
野口を見て宣伝部長がさっと椅子から立ちあがる。それに気づいて課長が席を離れ、部長の横に控え目な態度で並ぶ。さっきまでよりみんな少し緊張したようだが、中には「俺《おれ》は仕事中なのだ」と言わんばかりに、野口をまったく無視して、広告代理店の社員たちと仕事の話をしつづけている男もいる。女子社員はボールペンを手に伝票をつけながら、実は上目づかいに野口の動きを監視しており、もしどこかの椅子に腰をおろしたら、さっととんで行って灰皿《はいざら》とかお茶のサービスをしようとタイミングをうかがっている。
だが、野口は椅子にかけなかった。立ったまま部長と課長に須藤を紹介し、そのあと低い声で二人に何か説明している。若い課長はそれを聞いて途中からなぜかうれしそうにニヤニヤしはじめ、部長のほうは狐《きつね》につままれたような表情になった。
「どうも大変ご無理なお願いをいたしまして恐縮でございますが……」
須藤のそういう声だけが聞こえている。
「じゃあそういうことですので、あとはこの二人にまかせますから、どうぞごゆっくり……その、ナニしていただいて……君たち、判ったね。たのんだよ」
野口は急に高い声に戻って言うと、厄介事《やつかいごと》から逃げ出そうというのをかくす様子もなく、そそくさと宣伝部を出て行った。須藤はそのうしろ姿へゆっくりと頭をさげた。
課長はちょっと自分の席へ戻って手早くデスクの上の書類をかたづけると、
「それでは参りましょう。こちらへどうぞ」
と言った。須藤はまた丁寧にお辞儀をして、課長の案内でどこかへ去って行った。
いれ違いのように、その課長をたずねて五人ばかりの男たちがやって来た。この会社の社員でないことはすぐに判る。きちんと背広を着ている者も、ネクタイがばかに派手だし、長髪でノータイのヒッピーまがいの身なりをした者や、スポーツ刈りにサングラスをかけた男もいた。
どうやら広告代理店の連中らしい。
「あれ、課長はお留守……」
と、なれなれしく女の子に訊《き》いている。
「いま、ちょっとお客様がいらっしゃったものだから」
「やだなあ。この時間に来るように言われてたのに」
そんなやりとりを聞いて、部長が声をかけた。
「すぐに戻って来る。待っていなさい」
すると、広告マンたちはびっくりしたように急に静かになり、
「じゃあ、ここで待たせていただきます」
と、課長のデスクの横に置いてある折り畳み式の椅子を並べて坐《すわ》った。
が、彼らが坐るとすぐ、課長が戻って来た。
「よう」
課長は顎《あご》をしゃくって言った。
「どうも」
五人はいっせいに立ちあがって頭をさげる。
「第六応接をあけておいた。向こうで話そう」
「はい」
男たちは出したばかりの椅子を畳み、課長のあとからその部屋を出て行く。大きなスケッチブックをかかえた男や、多分ポスターのダミーだろうが、B全判のケント紙を木の枠《わく》に張ったのを持っている男もいた。
課長は部屋を出るとき、ちらりと部長を見た。部長はそれを待っていたように見返して、
「まかせたぞ」
と念を押すように言う。とたんに課長は意味ありげにニヤリとして、何も言わずに頷《うなず》いただけで出て行った。
「いったいどうなっているんだ」
部長は呆《あき》れたようにつぶやいて、出て行く男たちを見送っていた。
その男たちは、宣伝部を出ると廊下を少し歩いて、規格品の間仕切りユニットで作った小さな応接室が並んでいるところへ行き、第六応接室という札がついたドアをあけた。ドアは少し開閉がきついらしく、みんなが入ってしめるとき、ガタンという大きな音といっしょに、第一応接室のあたりまで間仕切りがグラグラと揺れた。
その第六応接室は、一方が壁で三方がスチールの衝立《ついたて》のような間仕切りユニットで囲まれている。廊下に面した側は腰の高さから上にすりガラスがはめこまれ、左右は青いスチール板になっている。間仕切りの高さは天井まではなく、だからちょっと大きな声をだせば幾部屋も先まで聞こえてしまう。
「それがダミーかね」
「ええ」
課長に言われて一人がB全判のパネルを包んだ紙をあけようとする。
「いいよ。俺は見ないでも判っている。で、モデルは決まったのか、モデルは」
「はい。一応この五人に候補をしぼって来ました」
別な男が社名入りの封筒から写真を引っぱりだした。
「どれどれ」
課長がとりあげて一枚ずつ品定めをする。
「どうです」
「どうかなあ……」
課長はあいまいに言った。
「いつものことだから、まあこの辺で決まることは決まると思うが……」
「みんな一流クラスです」
すると課長は仕事の喋りかたではない声になって、
「しかし、モデルになろうというくらいの女の子は、みんな小さい頃から自分が綺麗《きれい》だということを意識しているんだろうなあ」
と言った。
「そりゃそうです。自分を美人だと思うかと尋ねれば、みなノーと答えがちですけれど、実際にはひとより美人だと思っているんですよ」
「そうだな」
別の広告マンが同意した。
「モデルに限りませんよ。俳優だって、そもそもはみんな二枚目です。悪役だ性格俳優だと言っても、それはのちの役どころが重なって自然にそうなるのでして、まだ俳優になる前の若い頃は、結構みんな美男子なんですからね」
「そういうもんだろうなあ」
課長は機嫌がいいらしく、話は仕事のほうへ向かわず、雑談になって行った。
「たしかに、この子たちもみんな美人だけれど、個人的に言うとモデルになりすぎていて、ちょっと手垢《てあか》のついた感じがするな。モデルというのは、みんなそうなんだろうね。やはり素人《しろうと》のお嬢さんのようには行かんだろうけれど……」
「ひでえのがいますからね」
そういう世界の内情にくわしい男たちは、顔ばかり綺麗で性格のよくない例や、いかがわしいくらしぶりをしているモデルの話を幾つか課長に披露《ひろう》した。
「でも、いいのもいるんだろう」
「そりゃ、中にはいます。数は少ないですけれど」
「顔が綺麗でスタイルがよくて、性格がよくてスレていないで上品で……そんなのは無理な注文かな」
課長は笑いながら言った。
「岡部和美なんかはどうだい」
広告マン同士で課長の出した条件にあてはまるモデルを選びはじめた。
「だめさ、あいつは浮気っぽい」
「じゃあ舟木レーヌは」
「あの子は色が黒すぎるし、それにもう結婚してる」
「え……いつの間に」
「なんだ知らなかったのか」
課長は黙って聞いている。
そしてそのやりとりは、となりの第七応接室にいる須藤の耳にも筒抜けであった。
「いるよ、一人だけ」
新しい声が言った。その声は低いが確信に満ちていた。
「誰のことだい」
「紅本《べにもと》恵子」
須藤はテーブルの上に手帳をひろげていて、女の名が出るたびそれをメモしていた。
「紅本……どんな子だい」
「ほら、いつか海外向けの電卓のカタログのダミーにだけ使った子がいたろう。本番には使わなかったけれど……」
「ああ、少し寂しい感じだからってスポンサーに蹴《け》られちゃった奴《やつ》か」
「海外向けだったからな」
「そうか、紅本恵子か。あの子ならたしかに課長好みだな」
「おいおい、俺の好みの子を探してるわけじゃないんだぞ」
課長の声の半分はとなりの部屋にいる須藤に向けられているようであった。
「俺も知ってる。あの紅本恵子なら絶対にいい」
「なんだ、みんな目をつけてたのか。がっかりしたなあ」
「そんなにいい子なのか」
「いいですよ。なぜモデルなんかはじめたのか判《わか》らないくらいです。ああいう子は箱にしまってそっとしておくべきなのに……」
「ほんとにそうだな。男のモデルになんか引っかかったら俺は泣いちゃうね」
「お前が泣いたってどうってことはない」
みんなが笑った。
「所属クラブはどこだい」
「ひまわりですよ。ええと……たしかにひまわりの顔帖を持って来たはずだけど。……あ、ありました。これですよ」
「どれどれ。どの子だ」
「六十七番です」
「紅本……紅本と。あ、この子か」
「ええ、それです」
「身長、百六十四。バスト八十五……」
「ね、いい子でしょう。いわゆる痩《や》せこけた清純派っていうのとも違うんです。みずみずしいんですよ。清潔でふっくらとしてて……」
「なるほど。だがちょっと地味な感じじゃないか」
「そうじゃありませんよ。こういう写真はちょっと派手でなければ引きたたないんです。この子はモデルモデルしてないから、地味な感じになっちゃうんですけれど……まあ、あの感じをこういうモノクロで出そうというのが無理なんです」
「ひまわりクラブの紅本恵子か。年はいくつだ」
「さあ、はたちかな」
「二十二だろう」
「知らないのか。彼女は二十四さ」
「へえ、もう二十四なの」
すると課長が言った。
「二十四か。これはいいですな。この子ならご推薦いたしますよ」
広告マンたちは何かの冗談だと思ったらしく、いっせいに笑った。
「ところで君たち、今日はほかにいろいろと用事がたてこんでしまっているので、ダミーだけ預かることにしよう」
課長は必要な情報を引きだして、広告マンたちを追い出しにかかった。
それでもすぐには話がおわらず、須藤が広告マンの持っていたモデルクラブの顔帖を課長から受取ったのは、それから十分ほどあとのことであった。
3
それから数日後の夕方。
須藤は中央重工本社の裏側にある通用門のわきに立っていた。そばにひどくいかつい顔だちの初老の男がいる。
もう退社時間で、まず女子社員たちがタイムレコーダーを押して通用門から出て来る。彼女たちはその初老の男に気づくと、みな丁寧に頭をさげて足早に通りすぎる。人事部長なのだ。
「さきほどのメモにも書いておきましたが、とにかく江川という男は今どき珍しいくらいの好青年なのです。そう言っては彼女たちに気の毒ですが、わが社には彼にふさわしい女の子はおりません」
「人事部長がそうおっしゃるほどでしたら……」
須藤はうれしそうに頷いている。
「今日は遅くならんはずですが」
人事部長は心配そうに門のほうを見ている。
「いえ、やっといい青年が見つかったのですから、何時間でも待たせていただきます。……いや、それではあなたさまがご迷惑でしょう。どうも失礼な言いかたをしてしまいまして」
「いや、かまわんですよ。これも仕事です」
「恐縮です」
須藤は肩をすぼめて言った。
「あ、来ました。彼が江川哲也です」
「あの青いネクタイの」
「そうです」
「なるほど立派な青年ですね。……ではわたくし、これで」
「そうですか、では……」
その前を、江川哲也が通りすぎて行く。須藤は人事部長に充分な礼を言いそびれたまま、江川のあとをつけはじめた。
たしかに好青年であった。体格がよく、すらりとした長身を清潔な感じの背広でつつみ、大またに背筋をしゃんと伸ばして歩いている。
須藤はすぐ息を切らしはじめた。若い江川の歩きかたが早すぎるのである。だが、地下鉄の駅へおりる階段が混《こ》んでいて、辛うじて見失わずにすんだ。
須藤は帰宅する人々で混み合うその階段へ着くとちょっと浅ましい感じで人々を掻《か》きわけ掻きわけ先へ急いだ。切符を買わねばならないのだ。江川はきっと定期券を持っているはずである。
やっとの思いで百円区間の切符を手にいれた須藤が改札口を通り抜けると、ちょうど電車が入って来た。須藤はキョロキョロと見まわした。江川の姿はそのプラットホームのいちばんはずれのほうにあった。須藤はまた小走りにそのほうへ近寄って行く。サラリーマンたちの、物なれた動きかたの中で、須藤はいかにも田舎者のように見えていた。
それでも電車に乗ってしまうと、さすがに落着きをとり戻した。江川は車輛《しやりよう》のドアとドアの中央あたりの吊革《つりかわ》につかまってじっとしている。須藤はそっと内ポケットへ手をいれて、人事部長が走り書きしてくれたメモを眺めた。
江川のすまいは都内にあり、どうやら百円区間の切符で足りるようである。須藤はそれだけのことにもホッとしたようであった。もし足りなければ着いた駅で精算しなければならない。そうすれば足の早い江川を見失うにきまっていた。