電車はどんどん駅を過ぎて行く。須藤はまだだいぶ先らしいのに安心し、ドアの上にある路線案内図を眺めて、江川が降りるはずの駅名を捜していた。
電車はまた駅にとまった。須藤が何気なく見ると、江川のつかまっていた吊革が無人になっている。びっくりして見まわすと、江川が降りようとしていた。
「あ、降ります、降ります」
須藤は乗りはじめようとしていた人々を突きのけるようにしてプラットホームへ出た。最後のほうの乗客が振り返って不快そうに須藤を見た。
だが、詫《わ》びるゆとりもなく、須藤は江川のあとを追った。その駅にはエスカレーターがついていて、上へ行く人々が静かにそれで運びあげられていたが、江川はその横の階段を軽い足どりでトントンと登って行く。
結局似たようなタイミングで上へ着くのだが、須藤はつりこまれて階段のほうを使ってしまった。すぐ脚が重くなり、また息を切らせた。……エスカレーターに乗ってくれればいいのに、と須藤はうらめしそうに江川の背中をみつめていた。
江川はスタスタと、巧みに人々の間を縫って改札口から出る。須藤はそのあとから、人に突き当たり突き当たり、やっとの思いでついて行く。江川はすぐ地上へ出た。
「なんで途中で降りたのだろう」
須藤は舌打ちするような顔でつぶやいた。品行方正な好青年なら道草など食わないはずなのに、と思っているのだ。
にぎやかな表通りを歩く江川の足どりがふと鈍った。飾窓の中に目をやり、何かに気をとられている様子である。須藤はさりげなくその横をゆっくり通りすぎた。
それは大きな靴屋《くつや》だった。江川はバックスキンの小粋《こいき》な革コートを眺めていた。女物である。
「いかん。これはいかん」
須藤はまたつぶやいた。そのつぶやきを聞きとりそうな感じで、江川がさっと追い抜いて行った。
「デートに違いない」
須藤はやけくそ気味に江川のすぐうしろにくっついて進んで行った。
江川は次の角を曲り、比較的人通りの少ない裏通りへ入って行く。さすがに須藤は間隔を余分にとった。
道に面した側がガラスばりで、内部がよく見えるようにした清潔な感じの喫茶店があり、江川はためらわずにその店へ入って行った。須藤は仕方なくゆっくりと歩いてその前へさしかかった。
江川が赤っぽいワンピースの娘のいる席へ、向き合って座ろうとしているのが見えていた。須藤はそれを横目で見て通りすぎ、しばらく行ってから忘れ物でもしたようにくるりと踵《きびす》をかえすと、江川が入った店へ向かった。
江川たちがいる斜めうしろのテーブルがあいていて、須藤はそこへ腰をおろした。江川の顔は見えないが、相手の娘の顔はよく見える位置であった。
華やかな顔だちの、綺麗な娘であった。何か言ってしきりに笑っている。笑うと口の両端が内側へ少しえぐれるような感じで、それがちょっと官能的に見えた。
「あれはお父さんがいけないのよ」
そういう声が聞こえた。
須藤は眉《まゆ》を寄せた。父親のことが話題になるとすると、二人は恋人同士なのかも知れない。それとももう親たちが許す関係になっているのか……。とにかく江川の父親は二年前に死んでいる。須藤は人事部長のメモをとりだして眺めた。
コーヒーを注文した須藤は、長いあいだそこに坐って二人を観察していた。若い男女のとりとめもない話は、いつ果てるともなかった。
「やれやれ……」
須藤は腕時計を眺めてつぶやいた。その二人が恋人同士であったことは、もう疑問の余地がなかった。たしかにその娘も美しいことは美しかったが、その美しさは大して珍しいほどのものではなかった。華麗ではあるが爽《さわ》やかさが足りなかった。
それは須藤が考えているカップルではなかった。江川は合格だが、相手の娘は紅本恵子でなければならなかった。
須藤は江川たちが早く席を立ってくれるように願いながら、手持ぶさたな様子で伝票をひっくり返してボヤいた。
「こういう店のコーヒーもすっかり高くなってしまった」
江川はそれから十分ほどして店を出ると、ぶらぶらとあたりを歩きまわって、七時ごろその娘と地下鉄の駅で別れて家へ戻った。
4
それからまた半月。
須藤は六本木の写真スタジオにいた。壁も天井もまっ白に塗った大きな部屋の隅《すみ》のほうの椅子で小さくなっている。そばにあの宣伝課長がいて、このほうは悠然《ゆうぜん》と脚を組んで煙草《たばこ》をふかしている。
「いや、滅多にこういう撮影には立ち会わんのですよ」
「まったく今回は重ねがさねご無理をお願いしてしまいまして……」
「たしかにあの子は今どきには珍しいタイプですな」
「まったくです。おかげさまで……」
須藤がそう言うと、課長は声をあげて笑った。
「ねえ須藤さん。僕にだけは打ちあけていただけませんかねえ」
「は……」
「僕はあなたがどういう方で、何のために彼女に目をつけていらっしゃるのか、まったく知らないのです。すべて上司の命令でしてね。しかし、気になりますよ。いったい彼女をどうなさるおつもりなんですか」
すると須藤はすまなそうに頭をさげた。
「申しわけございません。どうしてもそのわけを申しあげることができませんので……。どうかひとつご勘弁くださいませ」
「まあいいですけれどね」
課長はあきらめたようにまた笑った。
彼が須藤に真実を教えるよう要求したのも無理なかった。何しろあの日第六応接室の話を盗み聞きさせてから、宣伝部に対して急に新しいポスターを作るよう、上層部から命令が下ったのだ。上層部からポスターくらいのことで直接指示があるのも異例だったが、それにもましておかしなのは、要するに広告すべき商品は適当にまかせるということなのだ。須藤の指定するモデルを使えばそれでいいというのである。
課長はその指示を内々で受けたとき、すぐ紅本恵子を使うのだと判った。だから彼はポスターを印刷することは、はじめから考えなかった。撮影まではすませるが、途中で計画が変更になったことにしてしまう気であった。次に須藤が訪ねて来たときそう提案すると、須藤はよろこんで承知した。
だが、広告代理店の連中は本当にポスターを作るのだと思い込んで、熱心に仕事を進めていた。紅本恵子の登用もごく自然に話が運んだ。……要するに会社の広告予算の一部で紅本恵子のカラー写真を撮影するだけのことなのである。本来なら愚にもつかない命令なのだが、課長にはなぜかそれが、どんな仕事にも増して重要な意味を持っているらしいことが判っていた。
自分が所属する超一流会社の裏側で、何かえたいの知れぬことが起っているのだと思うと、ゾクゾクするような興奮を味わうのであった。だが、いったいそれが何なのか、見当もつかない。この須藤というしょぼくれた中年男のどこに、そんな権力がかくされているのかもまったく判らなかった。
が、とにかく須藤の要求をこころよく、全面的に満たしてやることが自分の出世につながるということだけは確信していた。これは生やさしい秘密ではないのだ。そして、そういう秘密に関与することが、どんなに出世を早めるか彼はよく知っていた。
紅本恵子が青いホリゾントの前の、光の集中した場所へ入った。課長はそれとなく須藤の様子に気を配っていた。広告代理店の連中には、田舎から出て来た自分の遠い親類の者であると言ってあった。
須藤はいかにもそれらしい態度を示していた。別に演技しなくても、そういう撮影現場ははじめてであったから、みんな課長の言葉を信じて疑わなかった。
須藤はその隅の椅子から、紅本恵子を舐《な》めるような目でみつめていた。実直な田舎のおっさんが、すてきなモデルをまぢかに見せられて、内心の助平ごころをつい顔に出してしまったというところである。
だが課長はそれを軽蔑《けいべつ》する気にはなれなかった。巨大な秘密を背負った特別な人間が、必死で職務を遂行しようとしているのだと思った。ひょっとすると、それは一企業内のことではなく、もっと高度な、国家規模の秘密かも知れなかった。
どこかの国の大物が来日するのではないだろうか……。課長はふとそう考えた。紅本恵子はそのときに人身御供《ひとみごくう》にあげられるのかも知れない。サラリーマンの海外出張でさえ、女はつきものなのである。元首級の来日などにそういうことがないとは言い切れない気がした。庶民のあずかり知らぬ国際的な慣例として、そういうことがあるのかも知れないと思った。
いずれにせよ、いま誰かが4×5《シのゴ》サイズのカラー・フィルムに紅本恵子の姿を収めることを必要としているのである。須藤は多分その代理人であり、自分はその秘密の一端に加わっている。……課長は満足していた。
5
かなり強い風の吹く中を、須藤が歩いている。それでなくてもしょぼくれた中年男は、風に吹かれたり雨に打たれたりすると、いっそう侘《わび》しい様子に見えてしまう。
ネクタイがうしろへひらひらと風に舞い、右肩へかかりかけるのを、ぶきっちょな身ごなしで上着の内側へねじ込んだ須藤は、渋谷の坂道を風にさからって登って行った。
すぐ前を、男の子のようなブルージーン姿で紅本恵子が歩いている。このほうは吹く風さえも飾りになって、ハンチングのような帽子の庇《ひさし》を斜めにつまみさげるようにおさえ、右肩を先に出して斜めに歩いている。それがとても可愛らしい。
やがて紅本恵子は坂の上にあるビルの中へ入って行った。須藤の足が早くなり、そのあとにつづく。が、ビルの中へ入ったとたん、須藤の顔に困惑の表情が泛《うか》んだ。
恵子は入口のすぐ左にある喫茶店へ入ってしまったのである。それはまるで服飾店のショーケースの中のような感じの店で、店全体が若い男女のおしゃれの場になっているのであった。
須藤は溜息《ためいき》をついた。よく見れば、そのビルがまるごとおしゃれのための店で埋められているのだ。須藤のような中年男にとっては、若い女の子でも一緒にいてくれなければ、歩きまわることさえはずかしい感じであった。
それでも須藤は用ありげに、一階をひとまわりした。
「外国だな、まるで」
須藤は舌うちしてつぶやいた。彼の知らぬまに、この日本という国が、いや、日本の若い人々が、すっかりかわってしまっていたのである。
須藤はその場所でとり残されたような心細さに襲われたようであった。そういう場所を平然とうけいれている若い人々との間に、もう越えようがない断層ができてしまっているのだ。並んでいる商品は、どれもこれも、あってもなくてもかまわないような物ばかりで、しかもびっくりするほど高価だった。
「みんなよく金を持っている」
須藤は溜息をついた。ばかばかしい漫画のような絵がついたシャツが何千円もしていた。ひょいと首に巻くスカーフが一万円以上だった。そして、そういう商品を恐れげもなく手にとって見ているのが、はたちそこそこの娘たちなのであった。
「自分で働いているのだろうか。親からもらうのだろうか」
どちらにせよ、信じられないことであった。そんなにふんだんに小遣いをやる親も、まだ若いくせにそんな高給をとる人間がいることも、須藤の常識にはなかった。
須藤はやりきれなくなって風の中へ出た。ガラスばりの喫茶店の中で、紅本恵子が派手なチェックの上着にピンクのシャツを着た男と喋《しやべ》っているのが見えた。
その男の素性ならもう判っていた。テレビ局のディレクターなのである。化粧をまったくしていない、男の子のような姿の恵子にはふさわしくない相手であると思った。毒々しい色で体を飾ったとかげのような感じの男である。
「なんであんな子があんな男と……」
須藤はまた中年のつぶやきを洩《も》らして道を横切り、喫茶店が見える位置に立って、人待ち顔をして様子をうかがいはじめた。
紅本恵子の身辺を調査した探偵社の報告は、ほとんど完璧《かんぺき》であった。いつももっとずっと高度な、大臣級の人物の調査を手がけている連中にとって、恵子のような若い娘の調査は簡単すぎるほどであったろう。
恋愛歴二回。三回目がいま進行中であった。二度目の相手のとき処女喪失。……探偵社の報告には、そんな大胆な記述まであった。もちろん冗談半分に書いたのではない。彼らはそういう調査のきわめつきのプロであり、他に類のない高度な調査機関なのであった。
前のビルで強烈な疎外感に見舞われた須藤は、風を避けて横丁の出口で背を丸めているうちに、やっといつもの自分をとり戻《もど》したようであった。
考えてみれば、それが時の流れというものなのであろう。若者をいとい、彼らの行動に目くじらを立ててもはじまらぬことであった。
「こういう時代を作り出してしまったのだから……」
須藤はそうひとりごとを言い、そのひとりごとが風に乗って通りがかりの男に聞こえたようだった。男は何か問いたげに須藤を眺《なが》め、風に押されるように坂をおりて行った。
たしかに、今の老人や中年たちがこの時代を生みだしたのである。夢中になって作りあげた豊かさの中で、若者たちは次の時代に向かって歩きだしたのだ。否定しようが嫌悪《けんお》しようが、それは彼ら自身のものであり、若者について行けなくなったとしても、老いというひとこと以外の何物でもないのであった。
「何しろ美男美女だからなあ」
風の音の中で、須藤は安心してかなり高い声でつぶやいていた。紅本恵子も江川哲也も、今の須藤の立場から見れば恋人などいて欲しくないのは当然だったが、客観的に言えば、それこそ恋人の一ダースやそこら、いないほうがふしぎなくらいなのである。
「まあ、あれならやりやすいだろう」
須藤は自分をなぐさめるように言った。そのテレビ局のディレクターは見るからにいかがわしく、仮りに恵子が本気で愛していたとしても、二人の仲を裂くことにためらいは感じずにすむのだ。あのピンクのシャツの男より、江川哲也のほうがずっと優れた青年のように思えている。
問題はむしろ江川のほうで、彼の恋人の山崎敏江は、江川の恋人としてそう難癖のつけようがなかった。もし紅本恵子という存在さえなければ、そのまま二人が夫婦になっても、祝福こそすれ非難すべき点はまったくないのである。だからその仲をこれから裂かねばならぬ須藤にしてみれば、どうにもうしろめたい思いがしてならないのだ。
二度目の恋愛で処女喪失。……須藤はその報告を思い返していた。いったいどうやったらそこまで調べあげることができるのか、ふしぎに思った。しかしその調査マンたちを疑う気持はまったく起こらなかった。彼らは正しいのだ。
須藤は幾分|物哀《ものがな》しい思いで、正面にあるビルの喫茶店を眺め直したようであった。そこには彼が捜しあてた、この東京で最も好ましい美女が坐《すわ》っているのだ。しかし、今彼の体に吹きつけている風のように、世の中全体を吹き抜ける時代の風が、その美女にあっさりと処女を捨てさせてしまったのである。娘たちの貞操が、もっと重い意味を持つ時代であって欲しかったというように、須藤は首を左右に振った。
だが風は吹いている。須藤にはその風向きを変えることは不可能であった。
それから夜になるまで紅本恵子を尾行しつづけた須藤は、彼女が自宅の玄関へ消えるのを見届けた。その夜恵子がテレビのディレクターといかがわしい宿などに足を向けなかったことは、須藤にとってしあわせなことであった。
だが、住宅街の暗い道を戻って行く須藤のうしろ姿は、いつもにも増して侘しげであった。純なものが純のまま収まるべきところへ収まってくれないことが、須藤にやり切れない淋《さび》しさをもたらしていたようである。
6
太洋工機の部長である山崎は、自宅の茶の間で茶をすすりながら、妻の顔をちらりと眺めた。朝の光がいっぱいに射し込んでいて、障子《しようじ》が庭の緑に少し染まっているようであった。
「いいお話なんですけれどねえ」
山崎の妻は少し申しわけなさそうに言った。山崎は妻から目をそらせ、渋い表情でぼんやりと座卓の上に置いた新聞に目を落とした。
「どうかな……」
「え、何のことです」
「この縁談、ひと思いに行けるところまで進めてしまおうか」
「そりゃあたしだってそうしたいですわ。でもねえ……」
妻は溜息をつく。
「江川さんのほうをどうすればいいか……立派な人ですからねえ。あたし、江川さんの気持を傷つけるなんて、とてもできませんわ。それに、あなたのお立場だって……」
妻はつけたしのように言ったが、本当はそっちのほうが気にかかっているのである。
娘の敏江は名門の女子大を出てから、ずっと花嫁修業にはげんでいた。どこかへ就職したがる敏江を説得してそうさせたのである。
だが、敏江はいつの間にか恋人を作ってしまった。両親にそれをかくす気もないらしく、折りを見て家へ連れて来た。それが江川哲也だったのである。
山崎たちも江川を見てすっかり気に入ってしまっていた。さすがはわが娘というような気分で、二人の恋を進行するにまかせていたのだが、最近になって急に中央銀行の塚田専務との間に縁談が発生したのである。息子の嫁にくれというのだ。
本来ならすぐにきまった相手があるということで断わってしまうところなのだが、塚田家が相手では条件がよすぎた。山崎自身の将来につながるのである。それに、相手の青年というのがよく出来ていて、敏江の夫として文句のつけようがないのだ。
いろいろ利害を考え合わせると、江川よりはそっちの話のほうがずっといいように思えて来たのだ。江川さえうまく身を引いてくれれば、一気にまとめてしまいたいと言うのが、親としてのいつわらざるところであった。
「敏江も果報者だな」
山崎は結論をあいまいにしてそう言い、立ちあがった。そろそろ出勤の時間であった。
「果報者って……」
「どちらも甲乙つけがたい。二人とも立派な青年だ。女としてこれほどの果報があるものか」
「でも、あたしは江川さんのほうが好きですわ」
それは母親としてでなく、一人の女としての言い方であったようだ。とたんに山崎はきっぱりと言った。
「よし、それなら決めた」
「江川さん……」
「いや。塚田さんのほうだ」
「やっぱり……でも、変なかた」
妻は山崎の顔を胡散臭《うさんくさ》そうに見た。自分の今の言葉に刺激されて夫の考えがかたまったことに、まるで気がついていないようであった。
「こういうことで中央銀行の実力者と縁を結べるのは、この家にとって大変なプラスだ」
山崎は着がえをはじめながら言った。
「いや、この家ばかりではない。うちの社にとっても大いにプラスだぞ。お前には判るまいが、塚田さんが味方についてくれれば、会社は倍にも三倍にも大きくなる」
「それはそうでしょうけれど」
「決めたんだ。お前もそのつもりで精々敏江の考えを変えさせるようにするんだな」
山崎は家長の威厳を見せて言ったが、その裏に一人のしょぼくれた中年男が動いていようなどとは、思っても見なかった。
7
紅本恵子が自分の部屋で忍び泣いていた。軽い仕事で呼び出され、明治神宮のあたりの路上で撮影をしているとき、あのディレクターが妖艶《ようえん》な美人と、いやにベタベタした感じで歩いているのを見かけてしまったのだ。その女は、まるで恵子が彼の恋人であるのを知っているかのように精いっぱい見せつけ、その揚句に、
「あら、何かの撮影だわ」
と立ちどまって眺めたのである。
「モデルって、ああやって人目にさらされて、いくらくらいもらうのかしらねえ」
……男はうろたえ切ってその場を離れようとした。恵子は感情が乱れてカメラマンの指図どおりに動けなくなってしまった。
「おい君、でくの棒みたいに突っ立っていては絵にならないじゃないか」
意地悪くカメラマンが大声で叱《しか》った。
「早く仕事をすませれば、君だってああいう風に彼氏と腕を組んで歩けるんだぞ」
仕組んだような一瞬であった。そしてそれはまさにしょぼくれた中年男が仕組んだことであった。紅本恵子の三度目の恋がそれで決定的におわってしまった。
そして恵子が家へ戻って屈辱感にさいなまれている頃、須藤は次の段階へ向かって、準備をはじめていた。
次は傷心の美男美女がいかにしてめぐり会うかということであり、江川のいる会社が中央重工である以上、それはいともたやすいことであった。中央重工はあのマンモス商社と同じ力の支配下にあったのである。
江川はいま中央重工の営業部にいるが、それをたとえば広報課あたりの、モデルと接触する機会のある部署へ移せば、紅本恵子とめぐり会うことはごく自然のなり行きということになろう。ことのついでにまだ平社員である江川に、係長くらいの肩書きを与えてやれば、前途に希望をいだくだろうし、そうなれば万事に意欲的となって、新しい恋も芽生えようというものである。
須藤は一歩一歩確実にゴールへ近づいているようであった。
8
とうとう江川は恵子と会った。
恵子はあのディレクターがいかにくだらない男であったか、江川を知ってあらためて悟ったようだった。江川は優しく、快活で、正直だった。そしてなによりも美男であった。
二人の恋は急速に燃えあがったようである。彼らが楽しげに語り合っていると、誰《だれ》もがほれぼれと見とれるようであった。まさに一対の夫婦雛《めおとびな》と言ったところで、これ以上似つかわしい美男美女の組合わせはあるまいと思えた。
須藤は自分のした仕事に自信を持っていた。もう放って置いても二人が離れることはあるまいと思った。
しかしまだ仕事は残っていた。モデルと言えども、社の仕事として出入りしている相手とそんな関係になるのは許せないことだと、強く江川の恋に反対する上司を作り出さねばならなかった。それに、建物のほうも大急ぎで完成させねばならなかった。
須藤は自分の力が及ぶ数十の企業の中から光学関係の会社を選びだし、必要な道具を作り出すように命じた。その間にも江川と恵子の仲は急速に深まって行き、それにも増して大きな理由が、彼を最終段階へ急がせた。
江川はまったく唐突に上司から呼び出され、叱責《しつせき》された。最終段階のはじまりであった。さいわい心理的に江川はもう引き返せないところへ来ていた。恵子を人生の伴侶《はんりよ》とすることに決めてしまっていた。
職場をとるか恵子をとるか、江川は二者択一を迫られた。
「あなたに申しわけなくて……」
恵子は江川の窮地を知らされて、涙ながらにそう言った。
「でも、お別れしたくはないの。……ねえ、お願い。あたしを放さないで」
「当然だよ」
江川はきっぱりと言った。母親想いの江川は、そう決心してはいたが、係長に昇進したことで有頂天になっている母親のことを思うと、つい表情が暗くなるのであった。
恋をさまたげられた美男美女は、よそ目にはますますしっとりとして見え、みんなを羨《うらや》ましがらせた。だが本人たちにとっては、悲恋としか思えないでいた。
追い込むだけ追い込んで、いよいよ須藤の出番が迫った。須藤は例の調査機関から、江川の死んだ父親に関する情報を充分に得ており、それを頭に叩《たた》き込んでから舞台へ登った。
「実は、わたしはあなたのお父さんに大変お世話になったことがあるのです」
須藤は自分から江川に面会を求め、初対面の挨拶《あいさつ》のあとそう言った。
「そうですか。少しも存じあげませんで失礼いたしました」
江川はなんとなくうつろな声で答えた。
「ずばり要点を申しあげますが、あなたはいま女性問題でお悩みですね」
須藤は赤い顔をする江川にかまわず、珍しく強引に話を進めた。
「中央重工には少しわたしも関係がありまして、先日ちらりと或《あ》る人から小耳にはさんだのです。差し出がましいことですが、多分お力になれると思うのです」
「いったい、どういうことなのですか」
江川はいぶかしげに尋ねた。
「紅本恵子とかおっしゃる女性のことですよ。たしかに会社のかたがおっしゃることにも一応の理屈はあるでしょうが、わたしにはどうも納得できないのです。そうでしょう、今は昔とは時代が違います。物の価値も考え方も、すっかり変ってしまっているのです。仕事で出入しているご婦人と、会社の社員が恋をしてはいけないのでしたら、社員同士はどうなるのです。中央重工にも社内結婚をなさったかたがたくさんいらっしゃいますし、中には結婚後もまだお二人で働いておいでのかたもあるじゃありませんか」
江川はわが意を得たりと頷きたいのを我慢して聞いているようであった。
「おまけにあなた、あなたがたのことをとがめだてしている人が、そういう社員同士の結婚のお仲人をつとめているんですよ。下請け会社の社員とご自分の娘さんを結婚させた人だっているんですし、あなたの場合だけとがめられ反対されるなんて、筋が通りません」
江川の表情がしだいに明るくなっていた。
「で、この件については、亡くなったお父さんにかわって、このわたしにおまかせ願いたいのです。もちろんわたしもこういうことを言いだすからには、紅本さんがどういうかたかということも、わたしなりにちゃんと調べました。いい娘さんじゃありませんか。お父さんが生きていらっしゃっても、きっと諸手《もろて》をあげてご賛成になったに違いありません。お二人は結ばれておしあわせになるべきです」
「僕もそう決心はしているのですが……」
「そうでしょう、そうでしょう。あの娘さんとなら当然のことですよ。でもね、江川さん」
須藤はそこで声をひそめた。
「なに分にも上司のかたが相手ですし、わたしの力でうまく行ったとしても、将来何かとしこりを残すようではなんにもなりません。ですから当分はそのかたのおっしゃるとおり、紅本さんとはお会いにならず……いえ、人目に触れるようなところでさえ会わなければ、毎日お会いになったってかまわないのです。ただ、わたしがそのかたを説得するあいだ、しばらく人目を忍んでいていただきたいのです。実はそのための場所も用意してあるのです。ちょっとあいている場所があるのです」
須藤は鍵《かぎ》を一個とりだして見せた。
「ついでのことに、あなたがたの結婚に、形だけのことかも知れませんが、中央重工の社長さんが仲人役を引きうけてくださるよう工作もいたします。なに、大舟に乗った気でいらしてください。あなたがたはもうご夫婦になれたも同然ですよ」
万事控え目な須藤にして見れば、それが精いっぱいのオーバーな表現であったようだ。そしてその懸命な様子が、江川の警戒心をとり除き、信用させることに成功したらしい。
「ではこれから、お二人の愛の巣へご案内しましょう」
須藤はそう言うと待たせてあったハイヤーに江川を乗せて去った。
9
須藤はそれっきり出歩かなくなった。中央重工へなど、まったく姿を見せなかったのである。
しかしそれでも江川との約束は完全に守れるのであった。必要な時が来たら、電話一本で江川の恋に対する障害は取り除けるのであった。
「どういう人なんだろう。須藤さんなんていう人は、僕の母に聞いても全然|憶《おぼ》えがないそうなんだ」
「よほどあなたのお父さまにお世話になったかたなのね」
須藤が貸してくれた小さな家の中で、江川と恵子は会うたびにそう言い合っていた。しかし、それにしても妙な家であった。若者好みのすてきな調度にかこまれてはいるが、居間とトイレと小さなキッチンだけで、ベッドルームがなかった。
それは須藤苦心の作であった。ベッドルームがあれば、二人が情熱のおもむくままに体を重ねるようなとき、使用する可能性のある部屋がふたつになってしまうのである。だからベッドルームを作らなかった。そして、そのかわり居間にばかでかいソファーを置いたのである。
そしてその二人の忍び会いの場所は、彼が十七のときから慣れ親しんだ屋敷の庭内に建てられていた。
須藤はそのおもちゃのような可愛らしい愛の巣へ二人が入ると、母屋からそっと車椅子《くるまいす》を押して出て行くのであった。その車椅子には、ことし八十九歳になる或る強大な力を持った人物が乗っていた。
その老人を会長と呼ぶ人々もいるが、須藤は旦那《だんな》さまと呼んでいた。彼は十七のときからその旦那さまに仕え、四十五歳の今日まで毎日身のまわりの世話をやいて来たのであった。
旦那さまは巨大な富と、それに劣らぬくらい強大な権力を握っていたが、すでに死期が近づいていることを自覚していた。
「もう女の肌《はだ》に触れなくなってから久しい。だが、死ぬ前にもう一度、あの人間が最も人間らしくなる性のいとなみを、心ゆくまで味わって見たいものだ。この世で一番美しいと思える若い男女を捜して来い。その男女が、お互いの自発的な情熱で我を忘れて抱き合い、よろこび合うところを見せてくれ。金で買われた男女ではいかんぞ。そんなものは目の汚れだ。いいか、恋い慕い合う男女でなければ意味がないのだ」
旦那さまは須藤にそう命じた。世の中に対していろいろな命令を発しつづけた旦那さまであったが、その命令だけは須藤でなければ実行できなかった。
須藤は三十年近い間、旦那さまの命令を忠実に実行して来た男であった。だから、その最後の命令もいつもどおり実行したのだ。旦那さまが生きているうちに、江川と恵子がその広大な庭の一画に出入りするようになったことは、八分どおりの成功であった。あとは、二人がその愛の巣で体を交えてくれるのを待つだけであった。
江川と恵子は会うと必ずキスをした。しかもそのキスは会うたびに大胆になり、回数も多く、時間も長くなって行った。旦那さまは庭の花が咲くのをたのしみに待つように、毎日その小さな離れへ忍び込んではよろこんでいた。
「明日はするかな。須藤はどう思う」
旦那さまは特別な仕掛けで向こう側からは壁にしか見えないガラスごしに、長いこと二人に見とれた揚句、必ずそう言った。二人がそこにいるのを許されている時間は、日が暮れるまでであった。暗くなってからでは肝心の場面を見ることができないからだった。灯《あか》りの要る頃になってそういう事態が起れば、二人が電灯《でんとう》を消してしまうのははっきり判ったことであった。
そして、とうとうその日がやって来た。二人は抱き合っているうちに自制できなくなり、求め合った。
「おお、見るがいい。二人ともなんという美しい体をしているのだ。若い……美しい。人間はこんなにも美しいのだ」
旦那さまは興奮して大声で言ったが、二人に聞こえる心配はなかった。
「見ろ、あのたくましく充血したものを。あれが娘のあの柔らかい腰に突きささるのだ。おお、それ、刺したぞ。見ろ、あのよろこびにあふれた二人の顔を。まるで体によろこびをつめこまれて苦しがっているように見える。そうだ、あれなのだ。あれだったのだ。須藤、よくやった。礼を言うぞ。若い日を思い出した。わしの若い日々をな」
旦那さまは感激して涙を流していた。須藤はそれに気付くと、前にまわってハンカチでそれを拭《ふ》いてやった。
「ああ、今だ。二人は昇りつめたぞ。見ろ、あの勇ましい腰の動きを、あれが男だ。そしてあの娘の男をしめつける白い腿《もも》を見ろ。あれが女なのだ。美しい、人間はあんなにも美しい生き物だったのだ」
人の世の醜さを知り抜いていた旦那さまは、二人の姿の美しさで、自分が人間であったことをたたえようとしていたのかも知れない。
そしてその旦那さまの目の前で、二人は同時に快楽の頂点へ登りつめ、動かなくなった。
「うつく、しい……」
かすかにそう言って、旦那さまはガクリと首を前へ倒した。若い二人が交わって頂きをきわめたとき、旦那さまの命が消えたのであった。
「須藤さんのおかげだ」
ソファーで抱き合っている江川が言った。
「あの人は天使よ。あたしたちにとっては」
須藤は二人がそう言っているのを聞いた。
しかし、彼の旦那さまは死んでしまっていた。旦那さまは彼の人生そのものであった。旦那さまは彼の仕事であり、生活の糧であり、あるときは生き甲斐《がい》ですらあった。
「たしかに君らを結びつけようとして、一時は天使気どりだったよ。でも、何が天使なものか。わたしは旦那さまを殺してしまったじゃないか」
須藤は乾いた声でそうつぶやいた。彼の目の前には、彼の人生が息たえていた。彼はじっとその車椅子にのった旦那さまをみおろしていた。
須藤がそんな無遠慮な目で自分の主人を眺めたのは、はじめてであった。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『魔女街』昭和54年8月30日初版発行