と逆に尋ねた。
「いや」
男は居眠りから覚《さ》めたときのような顔になり、首を横に軽く振った。
「面白い男だね。君は」
と言った。
康平はいっそう擽《くすぐ》ったい気分になった。今まで他人に面白い男だと言われたことは一度もなかった。彼は擽ったがりながらも、ちょっと気分をよくしていた。
「急がんのだろう。お茶でも付き合ってくれ」
男はそう言ってさっさと裏通りへ入り込み、小さなビルの中へ入った。康平は何かに引かれるようにそのあとについて行った。
「わたしは心霊現象などに興味を持っていてね」
凝った喫茶店だった。入るとき、仰々《ぎようぎよう》しい看板などどこにも見かけなかったが、内部は床も壁も大理石で、その中に曲線ずくめのテーブルと椅子《いす》が並んでいた。あちこちに真鍮《しんちゆう》の金具が光っていたから、金ピカ趣味と言えば言えるのだが、それがすべてまがい物ではないらしく、康平の夢に描く世界の中で気軽に出入りする店のひとつに採用してもいい感じであった。
「心霊……ですか」
意外な言葉を聞いて、康平は相手をみつめた。コーヒーが旨《うま》かった。
「心霊現象というより、いわゆる超能力といわれるものを含めた人間の精神活動の幅広い領域のことなんだがね」
「はあ」
「ずばり言うと、君は特殊な才能……天分というかな、とにかくそういうものに恵まれているような気がしてならないんだ。わたしはこれでもいくらかその方面の研究を積んでいる。見ただけでも、或《あ》る程度はそういうことが判《わか》るつもりだよ」
「面白そうですね。僕は何も能のない人間です。学歴もない。だから、そういうことを言われるととても魅力を感じます」
「百あるとしよう」
男はテーブルの上へ平らに左手をあげ高さを示した。
「君という人間の中身がだ。だが君はそれを知らない。まわりはみんなせいぜい三十か五十どまり」
男は右手を平らにあげ、左手よりは低い位置を示した。
「君は自分のことを、今までどうもおかしいと感じたことがあるはずだぞ」
「どういう風にです」
「なぜこうも周囲とうまく協調して行けないのか。そう感じたことはないかね」
心当たりがあった。康平はかすかに頷いた。
「君は友達がおらんはずだ。違うかね」
男は浮かせた両手をテーブルの上におろして言った。
「はい」
「君は自分でくやしく思うほど低い位置から、いつも高いところを見あげている」
「驚いたな」
康平は頭に手をやって苦笑した。
「なぜ高いところばかり見る。それでは生きにくいだろう。君は決して欲の深い人間ではない。それなのに、自分でも息苦しくなるほどいつも高いほうを見あげている」
「そうなんです」
「君が百だからだ」
「百……」
「まわりよりずっと高いところに目玉がついているということさ。それなのに、君は何かの都合で今ひくい所にいる。人間の体なら、しゃがめばまわりと同じところへ目の位置が来るが、頭の中身の問題だからそうは行かない。目玉はずっと高い所についている。なあ君、立ちなさい。本来の目の位置まで立てばいいんだ。そこには君がうまくやって行ける世界がある。同じ仲間がいる。友達もできるし、恋人もできる。もしよかったら、わたしの所で働いてみないか。仕事はごくありきたりの仕事かも知れないが、わたしは君のその特殊な才能……いや、体質と言うべきかも知れないな。それを見事に開花させてやろうと思う。つまり、もとの百にしてあげたい。今の仕事で満足かね。今の暮しで満足かね。よく考えてみたまえ」
「僕はいったいどんな才能に恵まれているとおっしゃるんです。どんな体質なんですか」
「まだそこまではっきりとは言えない。或《ある》いは君は念力を持っているのかも知れない。手を使わずに物を動かしたりするあれだよ。或いは壁の向こうのものを見たり、遠くの出来事を感じたりするのかも知れない。ひょっとすると、霊界と交信できる人なのかも知れない。まだはっきりは判らないが、とにかく君は何かを持っている。……種あかしをしようか。あの食料品店の前で急に振り向いたわけさ。わたしが霊波で呼びかけていたんだよ。デパートの中で偶然君を見かけたのさ。ひと目で君がそういう体質に恵まれている人間だと判ったよ。わたしはそのほうの専門家だからね。そしてあとをつけた。すぐ声をかけてもよかったが、それでは君がわたしを信用してくれぬかも知れない。だからまず呼びかけたのだ。君はわたしの呼びかけを聞いたはずだ」
「はい、感じました。あんなことははじめてです」
「だんだん君は方角をはっきり感じるようになり、しきりに振り返っていたね。そしてわたしと衝突した。サングラスをこわしてしまったのはおまけだがね」
「そうだったんですか」
「こういう話は突飛だから、すぐに答えてくれなくてもいい。だが君の住所と名前を教えて欲しい。わたしは君を自分の研究対象にしたいのだよ。それに、うまく君が自分の才能を開花させることができれば、それは君にとっても大変いいことだ。君は多分君の望むような生活ができるようになると思う」
康平はその話に魅《み》せられてしまった。
「返事を延ばす必要はありません。是非《ぜひ》僕をあなたの所で働かせてください。実は兄が結婚するのです。そうなれば今のところからどこかへ引っ越さねばなりませんし、それに、今勤めている会社も、どうやら近い内におしまいになるようです」
「倒産かね」
「いや、合理化という奴《やつ》です。僕の職場はそれでなくなってしまうでしょう」
「じゃあ渡りに舟というわけか」
「ただひとつお願いがあるんです」
「何だね」
「どんな仕事でもいいんですが、ちゃんとした手順できちんと就職したことにしていただきたいのです。でないと、両親が……昔風の頭の堅い人間たちですから、すぐによくないほうへよくないほうへと考えてしまうんです。僕が口で説明したくらいでは納得しないでしょう。もしかすると母などは泣いて反対するかも知れません。兄の結婚のことなんかがからみますから、すぐにひがんだり拗《す》ねたり……。つまり、こじれてしまうんです」
男はにこやかに笑って聞いていた。
「いいだろう。そういうことはよく判る気がするな。君が今の生活から脱け出し易いようにしてあげるよ」
男はそう言うと名刺をとりだして康平に渡した。変った苗字《みようじ》であった。月という姓で、名は治郎。月治郎であった。
東京心霊研究所。そんな小さな金色のプレートが、赤坂の氷川《ひかわ》神社の近くにあるビルの一階に出ている。所長は勿論《もちろん》月治郎だが、ほかに社員らしい人間と言うと、辻《つじ》洋子と言う秘書のような女性が一人いるだけであった。
だいたい、心霊研究などというものは、新興宗教のようなものにでも結びつかぬ限り、経済的に成り立って行くわけがない。だが月の研究所は、どこからの援助もなしに立派にやって行っているようであった。
康平はその東京心霊研究所へ、半月ほどしてから円満に送り出されることになった。
高須木工所をやめることについては、両親とも意外にあっさりと認めた。
「そりゃ、おまえがもっといい職場へ移りたいと言うなら、好きなようにするがいいさ」
母親はそう言ったし、父親はあからさまに安心した顔を見せ、
「そいつはよかった。あそこはよくねえもの」
と言った。
「おまえが糞真面目《くそまじめ》に通っているから今日まで言うのを控えていたんだがな、あそこはもう長えことねえらしいよ。何でもな、あの工場の土地を不動産会社に売り出してるんだそうだ。でも不景気だし、だいいちおまえ、あんな水っぽい土地じゃ、そうそう買手がつくもんでもないさ」
「へえ、そうだったのかい」
「実はこないだっから清子のとこへちょくちょく顔出していたのも、向こうの親のほうにちょっとした手蔓《てづる》があるらしいんでよ。それでおまえに向いたいい仕事はねえかと思って、それとなく当たりはじめていたとこなんだ。向こうの遠い親戚《しんせき》に、草加《そうか》のほうでちょっとした本屋をやっているのがいるそうなのだ、なんたっておまえは本好きだからな。本屋の店員にでもなれれば本望だと思ってよ」
父親の心遣いは有難かったが、本屋の店員なら本望だろうと言われて、康平はいまさらながらわが家の水準の低さを思い知らされた。
「成るほど、三十だな」
思わずそう言うと、
「なんだい、三十って。……そうだね、三十になるまでにおまえもお嫁さんをもらうんだね」
母親はそう言って楽しそうに笑った。
新しい就職先についても意外に抵抗はなかった。月から鹿爪《しかつめ》らしくタイプで打った書類が届き、それに待遇とか仕事の内容とか勤務時間とかが記してあったし、何よりもその末尾にある、是非ともわが研究所に加わっていただきたく云々《うんぬん》という文句が効いて、両親はすっかりいい気分になっていた。
「高校しか出てなくたって、力さえあれば研究所からだって来てくれと言われるんだ。これからもしっかり本を読んで勉強しろよな」
父親は本さえ読めば勉強だと思い込んでいるらしかった。心霊の二字に引っかかって少し揉《も》めはしないかと思っていたが、そういう両親にとってはその下の研究所という三文字のほうが重要であったようだ。
それでもさすがに、心霊とは何かという質問が出た。
「超能力だの、そういうことを研究するんだよ。今までの科学はそういうのはあり得ないときめつけていたけど、今の科学のいちばん新しい分野はそっちのほうなんだぜ」
「そうかい。あのスプーン曲げとか……」
「そうだよ」
「やっぱりあるんだねえ、ああいうことは」
すると父親は何度も頷いた。
「俺《おれ》も若い時に田舎で幽霊を見たことがあるんだ」
「あらやだ」
「本当さ。戦争中だったなあ、あれは」
ひとしきり両親は怪異譚《かいいたん》を語り合っていた。そんなわけで、簡単に転職は決まったが、問題は康平が同時に転居する点であった。
「無理しなくていいんだよ。お兄ちゃんの結婚だって、まだ決まったわけじゃないんだし」
母親ははじめのうちそんな風に穏やかに引きとめたが、しまいには案《あん》の定《じよう》涙を見せて、
「おまえがそういう風に考える気持は判るけどさあ、何もそうひがまなくたって」
と言った。
「うるせえ、康平はもう一人前だ。考えがあってやっているのに、めでてえ門出を涙で湿っぽくすることはあるめえ」
父親のその一喝《いつかつ》でやっとけりがついたが、とにかく厄介《やつかい》な場面ではあった。
そんな騒ぎのあと、康平はわずかな、本当にわずかな身のまわりの品を持って月に身柄をあずけたのであった。
月はあちこちのマンションに小さな部屋をたくさん持っているらしかった。すぐにわかったことだが東京心霊研究所の経済的基盤は、月がやっているほかの仕事によって支えられていた。
ほかの仕事、というよりむしろそれが月の本業であった。驚いたことに月は東京の全域にわたって二十ばかりのバーやクラブそれにキャバレーなどを経営しているのであった。したがって、そういう職場で働く女性たちの住居というか、一種の寮のような施設としてあちこちにマンションの部屋を持っている必要があったのだ。康平はそのひとつをあてがわれた。むろん家賃など負担できるはずもなく月のオフィスが一切の面倒をみてくれた。
月のオフィスというのは、東京心霊研究所とはまったく別個の存在であって、池袋の西口のビルのなかにあり、各店舗の売上げを集計したり酒や食品類の仕入れを一括《いつかつ》して行なったりするための人員が、二十名近くもそこで働いていた。
「本当になにも持っていないのだな」
南青山のマンションに入った康平をたずねてきた月が、ガランとした部屋を見廻《みまわ》してあきれたように言った。
「いいものなんていままでの僕には何ひとつ手に入りませんでしたからね」
康平は月になら思ったことを何でも平気で言えるようだった。
「中途半端なものでは満足できないというわけか」
「その中途半端、という程度のものでさえ僕にはたかねの花なんです」
「そういう考え方も案外悪くないものだ」
月ははげますように言った。
「いいかげんなところで妥協するより、思い切ってこころざしを高く持っていた方が男は成功するものだよ」
「でも、今まではなんだか途方もない夢ばかりを見続けていたような気がしていました」
「今はそれが実現しそうな感じなのかね」
そう言われて、康平はかすかに笑いを含んだ目で月をじっと見つめた。……あなたしだいですよ。そう言っている目だった。
「勝負はこれからさ。わたしの確信は日ましに強くなってくる。わたしは既成のどんな宗教も拒否している。神は結局人がつくるものだと思っているのだ。だれかがこしらえた神を自分の神として敬うことなどわたしにはできない。だがわたしにはわたしの神がある。その神が、遠くからわたしに告げているのだ。その男はたしかに強い霊能力を持っている、とな」
「僕もいちおう無神論者です。前にいた会社には、新興宗教の熱心な信徒がたくさんいました。そういう連中にこの数年間せめられ続けました。自分達の集まりに出席しろ。とにかく話を聞くだけでも聞け、などとね。だが僕はとうとう断り続けました。僕には僕の神様みたいなものがあるんです」
「ほう」
「働くことなんです」
「働く……」
「そうです。神も仏も結構ですが、その前にまず理屈抜きに体を動かすことなんです。なんといったってまず自分の命は自分で保っていかなければなりませんからね。喰《く》いぶちを他人に頼っていて神も仏もないでしょう」
月は笑った。
「明快だな」
「働かしてくれるんでしょうね。ごろごろしているのはごめんですよ」
康平の新しい生活はそんなふうにしてはじまった。
月が康平にはじめからそうさせようと思っていたかどうかは疑問である。だが康平はみずから望んだような形で月の水商売の部門にとびこんでいった。とはいうものの、池袋のオフィスに加わることはできない相談だった。康平は生まれつき悪筆で字を書かせればおそろしくきたなかったし、計算も得意ではなかった。だから帳簿などあつかえるはずもないし、仕入れ係にしてもそれ相応の経験が必要であった。したがってまず彼がやれることと言ったら、丸い銀色のトレイを持って飲みものや簡単な料理を客の前に運ぶことであった。つまり彼はクラブのボーイになったのだった。
月はなかなかいそがしい男で康平を心霊研究の対象にすると言っても、その時間はとれないようで、二ヵ月あまりも康平と会う機会はなかった。
ボーイになった康平はしだいに生き生きとしてきた。贅沢《ぜいたく》なもの高価なものを知る康平にとって、そうしたクラブでの客のもてなし方は、自然に要領がのみこめてゆくようであった。
「君ははじめてじゃないんじゃないのかい」
クラブのマネージャーがそう言ったほどである。それに、客の前へ出るのだから今までのように故意に身なりをかまわないでいるというわけにはいかなかった。髪をこざっぱりとなでつけ、シャツもズボンも白いコートも蝶《ちよう》ネクタイも、人なみ以上にきちんと着こなすよう気を配りはじめた。
赤坂のクラブにすごくハンサムなボーイが入った。
康平の知らぬところで、そんな噂《うわさ》が飛びかったようであった。赤坂を中心にすると、六本木、飯倉《いいくら》、新橋、銀座と、月が持っているチェーン店は、その一帯だけで十に近かった。そこには、みな女たちがいた。どれも高級な店で、比較的閉店時間の早い銀座の女たちが、遅くまでやっている康平のクラブへ客といっしょによく流れてきた。康平は気がつかなかったが、その女たちの中には康平を見にやってくる者もいるらしかった。同じチェーンに働く仲間だとも知らず、ていねいに客あつかいをする康平に女たちはくすぐったいような優越感を感じるらしかった。
かわいい。
女たちは康平をそんなふうに思いはじめた。連れてきた客そっちのけで、康平に何かと声をかけてうれしがる女がふえてきた。
「紬《つむぎ》君は、ボーイではもったいないですよ」
クラブのマネージャーが、月にそんなことを言ったという噂が聞こえた。そしてまもなく、康平は六本木の別なクラブに移され、カウンターの中へ入れられた。見習いバーテンダーというわけである。
どうやら、康平はそういう仕事が性に合っていたらしい。もともと、カクテルなどというものは、生活に直接関係ない贅沢なものである。そういう意味で言えば、バーもクラブもキャバレーも、皆贅沢なものであった。そして、贅沢と康平とははじめから性が合うのであった。
その日康平は、月に呼ばれて午前十時に、氷川神社のそばの東京心霊研究所へ行った。ついたとき、月はまだ来ておらず、辻洋子という秘書とはじめてあいさつを交わした。
「心霊研究ってどんなことをするんでしょうか」
洋子は美人だった。男物のような、きつい感じのスーツを着て、眼鏡をかけていたのではじめのうちはいかにも才走った秘書という感じを受けたが、よく見ると大変な美人であった。
それに気づいた康平は、もう彼女をまともに見ることさえできなかった。なぜなら、洋子は康平が夢見てきた、贅沢な恋人にぴったりのタイプであったからだ。
「すぐにわかるわよ」
なぜかしら洋子も康平に好意をもったようであった。
「なんだかいやな気分がする。モルモットの気持がわかるみたいだ」
直接洋子にではなく、康平はつぶやくように言った。洋子は笑いながら紅茶を入れてくれた。
「心配することないわよ。あたしもそのモルモットですもの」
はげますつもりらしかったが、洋子は康平にとって意外なことを言った。
「へえ。君もそうなの」
康平は目を丸くした。その理想の美人との距離が急に短くなった感じであった。洋子がそれに答えて何か言いかけたとき、月がやって来た。
「相変らず道が混《こ》んで……」
月はいいわけのように言い上着を脱ぐと、医者が着るような白衣に着替えた。
「辻君、カーテンを閉めて。オーラの撮影をする」
オーラが何であるか、康平は知っていた。部屋が暗くなると、洋子はてきぱきとスクリーンのようなものを部屋の中央に持ち出し、奇妙な形の照明器具を二つほど並べてスイッチを入れた。暗かった部屋に不思議な真珠色の光があふれた。康平が嘆声を上げると、月は真珠色の光のなかで得意そうに頷き、
「こんな色の光ははじめてだろう」
と言った。
「僕が考案した装置だよ。パテントもちゃんと取ってある。君、この光の特許だけでも、売れば一生食えるだけのねうちがあるんだぞ」
するとその横で、洋子が口をはさんだ。
「これを作って売らせてくれと言って、大きな会社がしつっこく言ってきているの。でも所長が、うんと言わないから……」
「金が必要になれば売るさ」
月は複雑なかっこうをしたカメラをいじりながら言った。
「どうせなら早く売ってしまってください。きのうも来たんですよ。ああ熱心に言われたのでは、とてもお断りしきれない」
「売らないと言ったら売らない。そうぴしゃりと言ってやればいいんだ。君、そのスクリーンの前へこちらを向いて立ってくれないか」
康平は言われたようにスクリーンの前へ立った。
「楽にしていてくれればいい。レントゲンの撮影じゃないんだから。息なんかつめていることはない」
いくらか緊張気味の康平を楽にさせようと、月は冗談のように言った。撮影はあっけなかった。カシャリ、とシャッターの音が続き、すぐに終った。
「さて、これからだ」
月はカメラをしまい、洋子が二つの照明器具をスクリーンのうしろ側へ移動させた。月がどこかを操作して電圧を上げたらしかった。
「どうだ辻君。わたしの見込みどおりだろう」
「ほんとに」
洋子の声には、喜びと驚きが入り混っているようであった。
「何か見えるんですか」
「見えるとも。君には見えまいが、いま君の体のまわりには、強いオーラがくっきりと見えているのだ。いい形だ。ひどい歪《ゆが》みがない。こんなに素直なオーラはひさしぶりだ」
「見たいな。鏡に写せば見えますか」
「いや、見えん。この装置によるオーラは決して鏡には写らない。だから、鏡を利用したカメラでは撮影もできない。オーラは、肉眼で見るか、または鏡を使わないカメラでフィルムに記録するしかないのだ。そうだ、辻君。君のオーラを見せてやってくれ」
「はい」
洋子は、スクリーンの前へ来て康平と入れ変わった。康平がスクリーンの後側へ行って月と並んだ。
康平は息を呑《の》んだ。
七色の虹《にじ》のようなと言いたいが、その七色のどれでもない複雑極まる色が、ゆらゆらとゆれていた。スクリーンの後ろ側から色が投射されているので、洋子のシルエットは見えなかった。しかし、ゆらゆらとゆれるオーラは、洋子の体の外側にほぼ同じ幅でゆれており、その内側の線は、決してあいまいではなく、きっちりと人の形を現わしていた。洋子は男物のようなきついシルエットのスーツを着ているはずだが、そこに現われたひとがたは、衣服をつけていない裸の形であった。
康平は、まるで洋子の裸を見たような気分に陥った。美しいプロポーションだった。
「横を向いてごらん」
月は命令した。洋子が体を廻《まわ》した。彼女の裸体を覗《のぞ》き見ているという康平の感覚がいっそう強くなった。ゆらゆらとゆれ動くオーラの、内側の線は洋子のふっくらとした乳房の形まではっきりと示していた。やや、上向きの小さな乳首まではっきりと現われていたのだ。
「僕のときも、こんなふうに見えたのですか」
康平は月に尋ねた。
「そうよ」
洋子が答えた。
「あたしも、あなたの裸を見たわ。いいスタイルをしているのね」
それは、たとえオーラの線とはいえ、自分の裸を見られている若い女の、ちょっと意地になった言い方であった。月が、照明器のスイッチを切った。照明はすぐには消えず、すうっと尾を引くような消え方をした。そのとき、オーラはまるで狂ったようにゆれ動いた。
が、それも一瞬のことで、あたりは闇《やみ》になり、洋子の靴音《くつおと》が聞こえてすぐに蛍光灯《けいこうとう》がともった。
それから、康平が研究所へ通う回数が急にふえだした。月も、最初のオーラ測定の結果を見て、康平に対する興味をつのらせたようであった。康平に対してさまざまなテストが行なわれ、康平はそのすべてにかなりの成績を示したようであった。
とはいうものの、手を触れずにダイスを動かして任意の目を出させるとか、ふせたカードを百発百中で言い当てるようなことは、康平にはまだ無理のようであった。
そのことについて、月はしだいに首をひねりはじめた。
「先天的な霊波も強いし、君がたぐいまれな霊能力の持ち主であることははっきりしているのに、遠隔感応《テレパシー》や念動力《サイコキネシス》や|透 視《クレアボヤンス》などについてどうしてこう平均的な数字しか出てこないのだろう。ひょっとすると君はまだわれわれの知らない新しい種類の超能力を秘めているのかもしれないな」
そのころになると、康平は研究所のことについてかなりわかって来た。
辻洋子は、月の研究対象としては、最高級の素質を持っているらしい。そのために月は辻洋子をぜったいに手ばなす気がないようであった。
「辻君は、何万人にひとり、いや何百万人にひとりの貴重な超能力者なのだ」
月はよくそう言った、もっとも、そうした天分というか体質に恵まれた女性は他にもまだかなりたくさんいて、それがみな月のチェーン店のどこかで働いているようであった。というよりも、自分の店に集ってくる女性のなかから、月はそうした人物を拾い上げているようである。はっきりしたことはわからないが、そういう体質は男性より女性の方にはるかに数が多いらしい。だから、月の研究対象としては、女性の数の方がはるかに多く、男性も何人かいることはいるが、月を満足させるほどの体質を持った男は、康平ひとりと言ってもよいようであった。
「オーラなどというものは、誰《だれ》にでもあるのだよ。ただ、ふつうの人間はそれがごく微弱だし、常時発散しているというものでもない。形も歪んで、君のようなわけにはゆかないのだ」
月はそう説明したが、洋子は康平とふたりきりのときに、その月の体質的な秘密を康平にあっさりうちあけてくれた。
「所長は、オーラが全然ない人なの。そんな人ってめずらしいのよ。彼がこんな研究をはじめたのも、ひょっとするとオーラがゼロというめずらしい体質のせいではないのかしらね」
「オーラが全然ないということは、どういうことなんだね」
「わからないわ、でもあたしには見当がついているの。彼には、超能力は操れないけれど、超能力者は操れるらしいのよ。あたしだって、こんな奇妙なことのモルモットみたいにされてあんまりいい気分じゃないわ。いままで何度もやめてしまおうとおもったの。でも結局彼にはさからえなかった。あなた、よく考えてみて、はじめて彼に会ったとき何だか催眠術をかけられたみたいに、自分の方からすらすらと彼の思い通りになったんじゃないの」
「そう言えば、そんな気もした」
洋子は、康平のマンションとは目と鼻の距離にあるマンションに住んでいた。すまいが近いので、研究所から一緒に帰ることも多かったし、研究所へ行かない日でも電話で連絡を取りあって一緒にコーヒーを飲んだり、食事をすることが多くなった。
洋子は、康平が彼女の眼鏡を気に入っていないと知ると、二人きりでいるときはハンドバッグにそれをしまい込むようになった。
康平の方も、彼女のような美人とひと前にいるときは、彼女に恥をかかせないような男でありたいと思うようになった。おしゃれに気を使い、給料はほとんど服装にかけるようになった。
そんなわけで、康平は見違えるような美男子になっていった。もともとが、やさ男なのである。しかも、本当のおしゃれがどんなものであるか、何が最高であるか、そういうことばかりに情熱をもやして来た人間なのだ。今までそれをしなかったのは、自分が望むものが手に入らなかったにすぎない。恋人も、十人並み十五人並みというものではがまんがならなかったからつくらなかっただけのことだ。ところが今彼は、辻洋子という途方もない美人を恋人にしはじめていた。そうなると、最高でなければ、最低でいたほうがいいというわけにはいかなくなっていた。彼は全力をあげて、おしゃれな男に生まれ変ろうとしていた。心霊的な才能より、むしろその方の才能の方が、まさっていたようでもある。
日に日に美しくなる……男なのに、美しくなるとはおかしな言い方になるかもしれないが、事実その通り、康平は美しい男になってゆき、洋子もそれを歓迎しているようであった。洋子は、ことさら人前で康平と腕を組んで歩きたがった。それまでの冷たい秘書の感じが消え、洋子も持ち前の女性美を発揮しはじめていた。二人が歩くと、振り返って見る人が、多くなった。まさに美男美女の組み合わせであった。
康平は、研究所に呼ばれないときは、六本木のクラブで働いていた。バーテンとしても、めっきり腕を上げ、人に頼らなくても自分の守備範囲をがっちり固められるようになった。だが、それ以上に店でも康平は女たちにちやほやされるようになった。そうしたクラブでは、男客よりむしろ女客の方が主導権をもっている場合が多い。その女たちが、康平とひとこと、ふたこと言葉を交したり、常連に対する特別な笑顔を投げかけられたりするために、そのクラブへ来たがるのだから、彼女らの連れである男客もしぜん数が多くなり、康平はいまやその店になくてはならぬ存在になりつつあった。
「銀座の方へ移ってもらいたいんだ」
そういう康平を、チェーン店のオフィスは放ってはおかなかった。康平は、経験が浅いにもかかわらず、傘下《さんか》でもトップクラスの銀座のクラブへ配属替えをされることになった。
康平は仕合せだった。得意の絶頂だった。
その店はモロッコと言った。店の名などどうでもいいだろうが、客の大部分はその店へ入って、マダムの真弓という女の顔を見たとたんに店の名の由来がわかったはずであった。まじり気なしの日本人なのだが、真弓はマレーネ・ディートリッヒそっくりの妖艶《ようえん》な美人であった。
康平が配属されたとたん、その妖艶な美女の目の色が変わってしまった。真弓は、人目もはばからず、あからさまに康平を可愛がりはじめた。
どうやら以前にも似たようなことがあったらしい。モロッコのボーイやバーテンたちは、康平のたぐいまれなやさ男ぶりを見て、はじめからあきらめてしまっていたようである。
嫉妬《しつと》する気配もなく、また真弓の男遊びがはじまったというような調子で、むしろけしかける様子さえあった。また、真弓のほれこみようがあまりにも急であったために、ホステスたちも、いちおうは康平に興味を示すものの、浮気の対象としては高級すぎるといった態度で、康平は真弓のものと決めてかかったようであった。
真弓はモロッコを自分自身の手で繁栄させているという自信にあふれていたし、事実、彼女は数え切れないほどの上客を擁していて、モロッコは完全に彼女の掌握下にあった。
だから、一介の新米バーテンダーである康平を、好き勝手なときによび寄せたり、連れ出したりした。真弓のような女にとって、康平のような男との情事は、小さな勲章がひとつふえるような程度のことでしかないようだった。たぶん、人の口に登っても、気にもならないのだろう。正体ははっきりしないが、彼女には政、財界の大物たちが何人もパトロンとしてついているようでもあった。幾つもの情事を並行して進行させることなど、真弓には不徳でも何でもないらしかった。
康平は、真弓の投ずる妖《あや》しい糸に苦もなく捕えられた。すまいへ送らされ、酔わされ、裸にされ、からみつかれた。
と、そこまでは明らかに真弓が主導権を握っていた。それは、しごく当り前のことであった。康平には、正確に見極めることもできなかったが、真弓は彼よりはるかに年上で、情事の場数もけた外れに差があった。
だが、そこで奇蹟《きせき》のようなことが起こってしまった。初めての夜、酔った康平は真弓のベッドで裸にされ、さんざんになぶられて、もだえ狂ったあと、やっと彼女の体を与えられたのだが、体を合わせたとたん、狂い出したのは真弓の方であった。
「あなた……誰なの」
真弓は、今にも悶絶《もんぜつ》しそうな表情の中で、あえぎながら、かすれ声でそう言った。
「あなた、誰なの」
繰り返し繰り返し、そう言って頂きに駆け登り、すこし降りてはまた駆け登った。
不思議なことに、経験の浅い、というより自慰以外にほとんどセックスを知らない康平の動きが、ことごとく真弓の弱点を攻め立てるらしいのである。もちろん、康平にも快感はあったが、それは奇妙な静けさを伴った熱しぶりであった。
康平は、己れを自由自在に持続させることができた。反対に、真弓は若く経験の浅い男に負けまいと、歯をかみ鳴して耐えるのだが、いかんともしがたい様子でわれを失し、際限もなく、愉悦の淵《ふち》に浮かぶのであった。
翌朝、真弓は日が登っても泥《どろ》のように眠り続けていた。そして、康平が身じたくをして帰る気配を示すと、
「いかないで、お願いだから行ってしまわないで」
と、夢うつつのようにすすり泣いたのである。
それからというもの、真弓はうつけたようになってしまった。さすがに店で仕事をしはじめると、いつものようにしっかりものの妖艶なマダムの顔になるのだが、どうかしてふと目のはしに康平の姿を認めたりすると、とたんに放心したような状態になり、それがまたいとも甘美な風情《ふぜい》に見えるので、事情を知らぬ客たちまでが、それに気付いてさわぎたてるのであった。
「おまえ、あのママをどうしちゃったんだ」
もう六十近いチーフ・バーテンダーが、毒気を抜かれたような顔で康平にそんなことを言ったりした。
「なんでもしてあげる。いいえ、どんなことでもしてあげたいの。だから、あたしを捨てたりなんかしないでちょうだいね」
真弓は、そんなことをよく言うようになった。そして、事実、真弓は惜し気もなく高価な品々を康平が求めもせぬのに次々に買い与えた。真弓は最高級のテーラーで三日にあげず、康平のスーツを注文した。新しいスーツを注文するたびに、靴とシャツとネクタイがそれに合わせて選ばれた。
「こんなに着きれないよ」
康平が閉口して言っても、
「あたしがしたいんだからいいじゃない。勝手にさせておいて」
と、甘え切った調子で言うのであった。しまいに、真弓は康平をモロッコに出すことすら嫌《きら》いはじめてしまった。
「若い女の子がたくさんいるところに、あなたを放り出しておくわけにはいかないのよ」
自分でも無理を承知の上でそんなことを言ったりする。年下の女なら、だだをこねるというところであろう。
「会社のマンションに入っているのね。そんなみすぼらしいお部屋に、あなたをすまわせておきたくないわ」
真弓はそう言って、自分の住んでいるマンションの近くに、本気で康平のための住まいを探しはじめた。
「俺は、そんなに値うちのある男じゃないよ。そう甘えさせないでくれ」
康平はそう言って断ったが、彼女は聞き入れなかった。
幸か不幸か……たぶん不幸、だったのであろう。そんなとき、真弓のマンションのすぐ近くに、一億円もする新しいマンションが売りに出された。それは、十一階建ての最上階の部屋で、ワン・フロアーが丸ごとひとつの住居になっていた。
冗談じゃない、と康平が断わると真弓はしまいに本気で涙を浮べながら、