「お願いだから、あそこに住んでちょうだい。あなたは最高の生活をするべきなのよ。そうしなくてはいけないの」と懇願した。
康平に、身も心もしびれさせてしまって、他の女に彼を奪われることを心配し切っている真弓は、そんな高価なおりに入れることで愛する男をつなぎとめようとしていたようである。そこまで、康平の生活をもち上げてしまえば、よほどの女でも真弓の手から康平を取り上げるわけにはいかなかったろう。
それにしても、康平は若かった。真弓ほどの女を完全に屈服させて、有頂天になりすぎていたのかもしれないし、自信過剰になりすぎていたのかもしれない。それに、根っからの贅沢好きで、昔からの夢が片っ端から現実になっていたのである。感覚がまひして、一億という金がどんなものか、深く考えることもしなくなっていた。ただ、自分に惚《ほ》れ切った美しい年上の女に、しつっこくくどかれて、可哀そうだから住んでやるといったような調子で、その部屋へ入ることを承知してしまった。
真弓ほどのキャリアを持った女だから、それくらいの金は貯め込んでいるのだろうと軽く考えていた。だが、いくら真弓でもそんなような際限もないいれあげようは、能力の限界をこえてしまっていたようだ。
すぐに、あちこちから真弓がたちの悪い借金をしているという噂が聞こえはじめた。だが、そのときにはもう、十一階の部屋には世界各国の最高級の家具や調度がつめ込まれ、康平の王様のような暮しがはじまってしまっていた。
「おまえ……」
康平は、真弓をおまえと呼ぶようになっていた。
「おまえ、あっちこっちに借金があるそうだな」
或《あ》る夜、康平は妖艶な真弓のヌードを楽しみながら、さりげなくそう切り出してみた。
「あなたは、そんなこと心配しなくてもいいのよ。お金のことなら、あたしにまかせておいてちょうだい」
「そんなこと言ったって、おまえ金がないんだろ」
「ないから借金したんじゃないの」
意外にも、真弓は自信たっぷりに微笑んでいた。
「返せるのかよ」
「だいじょうぶ、もう返せるわ」
「別なところから借り直すのか」
「そんなことしないわ。もう借金はしないの」
「そんなこと言ったって、どうする気なんだ」
「あたしが悪いことするとでも思っているの」
真弓は妖しく笑った。久しぶりに見せる、自信たっぷりな年上の女の笑いであった。
「でも心配だな」
「あら」
真弓は目を輝かせた。
「ほんとうに心配してくれてるのね」
「うん」
「それなら、あたしの最大の秘密を教えてあげる。そのかわり、もうあなたとは一生離れないわよ」
「離れる気なんかないよ」
「じゃあ、あしたあたしと一緒に来て」
そんなやりとりがあった翌日、康平は空の大きなカバンを持たされて真弓と一緒に街へ出た。真弓は、あてもなさそうに、まず銀座へ出て、行きあたりばったりのようにある銀行へ入った。ロビーの椅子《いす》に腰をおろした真弓はちょっと緊張しているように見えた。
「どうする気だ」
低い声で、康平が言うと、真弓は黙っていろというような目で康平をにらみ、軽く目を閉じて背筋を伸ばした。
とたんに、康平が自分の膝《ひざ》の上に乗せていたカバンがずしりと重くなった。驚いてカバンをかかえ直したとき、真弓がすっと立ち上がった。康平はそのあとに続いて銀行を出た。
「どうかした」
真弓が謎《なぞ》めいた表情で言った。
「カバンが重くなった」
「そう。ちょっと中を覗いて見たら」
そう言われて康平は立ちどまり、カバンの止め金を外して中を見た。一万円札の束が、カバンを半分ほども埋めていた。
「どうなってるんだ、これは」
「ひとつの銀行でそのカバンをぎっしりにしてしまっては気の毒でしょう。もう一軒まわるわね」
真弓はすぐその先の銀行へ入ってゆき、また同じことをした。
「念動力《サイコキネシス》か……」
さすがに康平は気づいた。それ以外にこの奇蹟を解釈する方法はなかった。二人は十一階の部屋へ戻《もど》り、テーブルの上に積み上げた札束《さつたば》を中に向きあって坐《すわ》った。
「あたしは魔女なのよ」
真弓は、告白した。もっとも、彼女は自分がはじめから魔女であったことを知っていたわけではないらしい。ただ、月の心霊研究の対象として優秀な人材であることは自覚していたという。だがそれは、透視実験で一般的な確率よりははるかに高い的中率を示せたり、水槽《すいそう》の中をゆっくりと落下する小さな植物性の粒子の落下軌道を念動力で、わずかに曲げたりすることができる程度のものであったらしい。
ところが、康平と体を交えるような関係になってから、その能力が急激に増大したのだという。彼女は生理的に、それが康平とのセックスによって増大した能力であることを悟っていたのだ。だからこそ、康平に対して途方もない惚れ込み方をしたのだし、一生手離したくないと願ったのだとも言った。払い切れぬほどの借金を平気でしたのは、近いうちに自分が今日のような離れ技ができるようになるということを感知していたからだと言う。
「つまり魔女は実在したわけよ。そしてあなたは、あたしのような女の体の中に潜伏した魔女の能力を引き出す役をする男なの。おたがいにそういう生まれつきなのよ」
真弓はそう言って妖しく微笑んだ。
康平は恐しくなった。真弓の能力は、際限もなく増大しているようであった。
「あなたさえいてくれれば、そのうちにあたしにできないことは、何もなくなってしまうわね」
事実そのとおりだと思った。真弓は魔女だった。それも女王級の魔女になろうとしていた。
「あたしの秘密を知られたら、その相手を消してしまうことだってできるのよ」
真弓は道を歩きながらあるときそう言い、すれ違った娘がつれていたスピッツを冗談半分に、本当に消してしまった。その娘は、鎖を手にきょとんとしていた。その先につながれた犬が、首輪ごと消えてしまっていた。
身の危険を感じた。真弓ほどの女を一方的に惚れさせてしまったことで得意になっていたが、この分では、結局とりこになるのは自分の方だと思った。何しろ、逆らえば消されてしまうのである。
康平は隙《すき》をみて研究所へ走った。折悪しく月は不在で、洋子だけがいた。
「いい人ができたんですってね」
洋子は、うらめし気にそう言った。
「そんなんじゃないんだ。大変なことになってしまったんだ。所長になんとかしてもらわなくては」
あのような強力な魔女が相手では、どこに隠れようとすぐみつけ出されるに違いないと思った康平は、うろたえきっていた。洋子はそのさし迫った様子をみて、眉《まゆ》をひそめた。
「いったい何が起こったというの」
「とにかく所長をすぐここに呼んで欲しいんだ。わけはあとで話す。すぐ呼んでくれ」
洋子は、あちこち心当りへ電話をし始めた。月の行先はすぐにわかったが、博多《はかた》にいるということであった。
「間にあわない」
康平はうめいた。
「言って、あたしでは力になれないの」
洋子は、訴えるような目で康平をみつめた。
「いつか、所長が僕の能力について首をかしげていたはずだ。覚えているかい」
「ええ覚えているわ。あなたには未知の超能力があるのかもしれないって」
「そいつなんだ。僕は君やモロッコの真弓のような体質の女性から、超能力を引き出す役目をはたしてしまうんだ。僕は、真弓に誘惑されて、からだの関係を持った。そうしたら、真弓のやつ本物の魔女になってしまったんだ。今の真弓は、人間を消してしまうこともできるし、何もしないのに、銀座中の客をモロッコに集めてしまうこともできるんだ」
康平は、そう言って銀行での出来事や、犬を消してしまったことを洋子に話した。
普通の女なら、そんな話を信じはしないだろう。しかし洋子は、月治郎の秘書だった。東京心霊研究所の唯一の職員だった。そして月の最高の研究対象でもあった。
「大変だわ。モロッコのマダムのすることを止められるのは、所長しかいないわね」
「僕は、もういやなんだ。ひょっとすると、真弓は電池で動く人形のようなものかもしれない。僕が電池だ。だが、その人形は途方もない力を持った魔女なのだ。おもちゃの人形と違うところは、自分の動力源である電池を、自分で自由に操ってしまうかもしれない点なのだ。僕はあんな化物のエネルギー源になっていたくはない。放っておいたら、あいつはこの世界を丸ごと自分のものにしてしまうだろう。何とかならないものか。あいつを滅ぼす方法はないものだろうか。僕が逃げ出したことがわかれば、あいつはきっと自分の超能力で僕を取り戻してしまうだろう。そうなれば、僕はもう二度と逃げ出せまい」
すると洋子は、椅子から立ち上がって、きっぱりと言った。
「ひとつだけ方法があるわ」
洋子は、そう言うと、足早やにドアのところへ行ってドアをロックした。そして、服を脱ぎはじめた。
「あたしを抱いて。もしかしたら、もう手遅れかもしれないけど、それ以外にあなたをたすける方法はないわ」
洋子は、羞恥《しゆうち》で肌《はだ》を染めながら、必死の面持ちでそう言った。
「どういうことなんだい」
はじめて会ったとき、オーラの内側の線で知った、美しい洋子の曲線がそこにあった。
「お願い。カーテンを閉めてちょうだい」
全裸の洋子は、自分からソファーに倒れ込んでそう言った。康平はカーテンを閉めた。ドアの隙間《すきま》から射し込んだわずかの光でソファーの位置がかろうじてわかった。
「モロッコのマダムなんかより、あたしの方が、超能力の指数はずっと高いのよ。あんな人、問題じゃないわ。あなたという男性が、あたしたち女性の超能力にとって、そういう役目を果たすなら、あたしを魔女にして」
康平はソファーに近より、そっと洋子の肌に触れた。
「そんなことを言ったって……」
おびえていたし、いくら自分を救うためとはいえ、急にそんな気になれるものでもなかった。
「あたし、泣いたのよ。あなたがモロッコのマダムに夢中だと聞いて、とても悲しかった。死んでしまいたかったわ。あなたがモロッコへ行かされさえしなければ、あたしたちは結ばれていたに違いないのに」
薄暗い中で、洋子の白い体が動き、康平の服を脱がせはじめた。
「好きだったの。あなたを愛してる。女の口から、こんなことを言わせないで……あなたが欲しいの。抱かれたいの。滅茶苦茶にして欲しいの」
康平は、自分から服を脱ぎ捨てていた。だが、萎《な》えていた。洋子の柔らかい掌が、焦《じ》れたように、康平の下腹部を動き廻った。康平は、含まれ、吸われた。
理想のタイプの女に、自分はいま愛撫《あいぶ》されているのだ。そう思うと、危機感がやや遠のき、洋子の肌のぬくもりが意識できるようになった。
あの形のいい、小さな唇《くちびる》が……そう思ったとたん康平は、力を漲《みなぎ》らせはじめた。まず、洋子が息をつまらせたように、うめき、そのうめきに康平のうめきが重なった。
「抱いて」
洋子は、か細い声で言った。語尾が震えていた。
「いいんだね」
康平は、床に膝まずき、洋子の胸に両手を当てて言った。
「あなたを、たすけるなんて半分は嘘《うそ》なの。なんでもいいから、あなたにこうされたかったの。もし、あたしが間に合わなくて、モロッコのマダムにあなたを取り返されたら、あたしは、あの人と刺し違えて死ぬ覚悟よ。そうなれば、たぶん刺し違えるなんてことできないでしょうね。あたしは消されるか殺されるかしてこの世からいなくなってしまうの。でも、生きてあなたがあの人のものになっているのを見ているより、その方がましよ」
康平の耳もとで、洋子の熱っぽい早口のささやきが聞こえていた。その間に、康平の体は、洋子の中心を探っていた。ささやきと同じように洋子の肌は、熱っぽかった。花芯《かしん》は、もっと熱かった。熱くあふれていた。康平は、ためらいがちにその中へ入っていった。
真弓のときと、同じことが起こった。洋子はたちまち狂乱し、あられもない声を上げた。真弓よりもっと素早く頂きに達し、さらにそのまま空へ舞い上がって行くようであった。康平は、真弓のときと同じように、熱い冷静さを保っていたが、その熱さは、真弓のときの比ではなく、それこそ灼《や》けるようだった。
女の体が、それほどたて続けに、それほど深く、愉悦の淵に沈めるものだということを康平は改めて思い知らされた。硬直を続けていた洋子の体が、限界へ来たように、急にぐったりと柔らかくなった。康平は、そのやさしい柔らかさに、かえって刺激され、一気に登りつめはじめた。洋子という女に対するいとしさが胸にあふれた。木工所時代、夜ごと夢見た理想の女が洋子だったのだ。年もつり合っていた。真弓は、道草だったと思った。魔女に対する恐怖がうせ、二人きりのいとなみに没入した。真弓のときには無かった強烈な爆発が起こった。自分でも信じかねるほど、長く長く尾を引いた爆発であった、康平はその無上の悦楽のなかで自分の体が、空っぽになってゆくようなのを感じた。
その響きが、洋子に確実に伝わったようであった。弛緩《しかん》した洋子の体が、急にそり返り、康平を深く深く咥《くわ》え込んだ。細く鋭い悲鳴のような声を上げ、二十秒ほども彼の胸の下でそり返りおし上げていたが、突然がくりと姿勢を崩した。
交わりは終った。
洋子は、失神してしまっていた。自然に体が離れたとき、康平は深い溜息《ためいき》とともに起き上がり、自分の上着をそっと彼女の腰にかけてやった。衣服をつけた康平は、ほの暗い部屋の椅子に坐ってじっと時を待った。
目覚めた洋子は、手さぐりで脱ぎ捨てた衣類を拾い集め身につけると、そのままソファーに坐り直した。康平は、部屋の一方の隅《すみ》にある洋子の椅子に坐っていた。
「カーテンを開けるわね」
洋子の落ち着いた声が聞こえた。そしてその声が終わるやいなや、窓のカーテンは軽い音を立てて左右に開いた。洋子はソファーに坐ったままだった。
「あたしも、魔女よ」
洋子は、明るくなった部屋の中で、謎めいた微笑を泛《うか》べてそう言った。
「知らなかったわ。あなたがこんな人だなんて」
康平は立ちあがり、洋子のそばへ行って坐った。
「さっき、わかったんだ。僕が愛しているのは、君だったんだよ。君と一緒なら、もうどうなってもかまわない。真弓が何をしようともういいんだ。さっき言ったことは、本当だね。場合によっては、僕と一緒に死んでくれるね」
すると洋子は、甘えたように康平の肩に頭をもたれさせた。康平が、その肩へ手を廻《まわ》し、やわらかい髪をなでた。
「心配することはないわ。彼女に何かさせたりはしないわよ。だって、魔女としては彼女よりあたしの方がずっと上なんですもの」
「そんなこと、もうどうでもいい。消されても殺されても、君と一緒ならそれでいいんだ」
「そうよ。あなたはもうあたしのもの。誰にだって指一本触れさせはしないわ。見てごらんなさい」
洋子はそう言って、ソファーの前のテーブルの上を指さした。その指の動きにつられて、康平がテーブルへ視線を移したとたん、テーブルの上に札束があふれてその端の部分がぱさり、ぱさり床に落ちた。
「彼女はこれができるまでに、ずいぶん長い時間がかかったのね。あたしの方がずっと上だわ」
洋子はくすくすと笑いだし、しだいにその笑い声が高くなっていった。その笑い声のなかで、康平はぎょっとして洋子から体を離した。洋子は、まるで彼女らしくない高笑いを続けていた。
「もう世界は、魔女のものよ。この世界は、あたしたちのものよ」
「あたしたち……」
康平は、洋子をみつめながらそうつぶやいた。
「そうよ。あたしたちなの」
洋子はそう言うと、どこか天井の一角を見上げ、
「そうでしょう」
と言った。
「ええ、そうですとも、世界はもう魔女のものに決まりましたわね」
どこからともなく、そう言う声が聞こえた。真弓の声であった。
「超能力を持った女の子を、どこか一ヵ所に集めてちょうだい」
「はい、承知いたしました、女王さま」
真弓の楽しそうな声が答えた。
「何てことだ。君らは協力する気か」
康平は叫んだ。
「当然でしょう。魔女は魔女同士よ。そしてあなたは、これから魔女をもっとふやさなければいけないの。駄目《だめ》なのよ、もう。あなたは、あたしからは逃げられないの。自殺することさえできないのよ。あきらめなさい。あきらめて、最高の生活を楽しむがいいわ。あなたには、最高の暮しを保証してあげる。女の子たちを可愛がってあげてね。あなたもセックスを楽しめばいいのよ。もちろんあたしも、ときどき可愛がってもらうわ。あなたのおかげで、あたしたちの仲間は、どんどんふえるのよ。ひょっとすると、あなたが一番得な役廻りかもしれないわね」
「そんな……。まだ所長がいる。月さんが帰ってくれば、君らの自由にはならないさ」
「まあ、馬鹿《ばか》なこと言って」
魔女の女王は、そう言うとまた宙に向かって言った。
「真弓。あの男はどうなったか教えてあげて」
「はい女王さま。女王さまが、魔女におなりあそばしたとき、一番先になさったのは、九州にいたあの男を消しておしまいになったことです」
「カーテンを開ける前にね」
二人の魔女の笑い声が、部屋のなかにあふれた。そして、康平はその笑い声にうっとりと聞きほれていた。康平の魔女に対する批判力は、完全に封じられてしまっていた。批判することを封じられたこと自体、もう康平は意識できなくなっていた。そして康平は自分が夢見続けた、最高の生活が完全に実現したことの喜びにひたっているだけであった。美しい女たちとの贅沢《ぜいたく》な暮し、これからの世界を支配する魔女たちが、康平にそれを約束してくれているのだ。もう他に何を望むことがあろう。
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魔王街
1
岸はデスクの上の灰皿《はいざら》に煙草《たばこ》を押しつけて丹念に火を消すと、卓上ライターをその横へきちんと並べ、湯呑《ゆのみ》の蓋《ふた》をして立ちあがった。
小さな部屋だが掃除整頓が行き届いて、デスクの前に置いてある来客用のソファーのカバーも、しみひとつない純白であった。
岸は窓際へ行ってブラインドの紐《ひも》を引いた。上の何階分かが夕陽《ゆうひ》を浴びて赤く染まったとなりのビルが、乾いた軽い音と同時に姿を消し、部屋の中は蛍光灯《けいこうとう》の白い光だけで満たされる。
窓からドアへ向かう途中、岸はなかば無意識のようにして、椅子《いす》をデスクの下へ押し込んでいた。
午後五時五分であった。いつもだと岸はそのまま帰宅してしまうのだが、今日は金曜日なのでまだすることがあった。
左手でドアをあけ、右手で入口の壁にあるスイッチをさげ、振り返って灯《あか》りが完全に消えたのを確認してから廊下へ出てドアをしめた。
廊下をふた部屋ほどエレベーターのほうへ行くと、非常口、と書いたドアがあり、それが今はあけ放しになっていて、岸の姿はそこへ消える。
ドアの内側は階段になっている。まだ新しいビルなので、プラスチックの床材が艶々《つやつや》と光っていた。岸の靴音《くつおと》がかすかに鳴りながら下へおりて行く。
六階、五階。
次の階へ着くたびドアの内側に黒い文字で階数が標示してあり、岸は階段を二階分おりて五階の廊下へ出た。
今度はエレベーターの前を通り過ぎて次の角を曲がると、最初のドアをあけた。ドアの上に、研修室、と書いてある。
中は学校の教室そっくりであった。二十人ほどの若い女たちが、思い思いの場所に坐《すわ》って机の上に紙を置き、硯《すずり》の墨を摩《す》っていた。
岸が入って行くと、若い女たちはすぐ不揃《ふぞろ》いだが全員椅子から立ちあがり、
「よろしくお願いします」
と挨拶《あいさつ》した。
「みんな、家へ帰っても書いているかね」
椅子に戻《もど》る女たちに、岸は微笑しながら言った。
「はぁい」
一人が子供のように答えたので笑い声が起こった。
「本当はね、字などというのは一応の手本があればたくさんなんだよ」
岸は女たちがいる机のあいだをゆっくり歩きはじめながら言った。
「たくさん書けば自然にうまくなる。うまくなるということは、慣れるということなんだ。いくら筋がよくても、慣れなければ何にもならない」
髪を極端に短くした痩《や》せぎすの女が筆をとって書きはじめると、岸はそのうしろに立ってじっと眺《なが》めていた。その女は自信があるとみえ、岸に見られているのを明らかに意識しながら、一気に仮名を書きあげた。
「だいぶ練習したね」
岸は褒《ほ》めてやった。
「筆の運びにためらいがないのはいいことですよ。勢いのない字はいけないからね。しかし、欠点を言うと手本に似すぎているな」
「あら、我流でもいいんですか」
その女は理屈っぽい性格らしかった。
岸は笑って見せる。
「我流という考え方がおかしいのさ。今我々がお手本にしている、たとえば紀貫之《きのつらゆき》なら紀貫之の文字は何かお手本があったのかな。違うだろう。みんな自分の字を書いているんだ。いいかね、君が今書いた、はるさめは、の、さの字と、さくらはな、の、さの字は……よく見てごらん。まるでおんなじだろう。これじゃ活字になってしまうよ。は・る・さ・め、と、最初のさは下にめが来ている。さの字を書いたときの最後の筆の位置から、めの字の書きはじめの位置までは、筆を一度あげてしまわなければならない。ところが、さ・く・ら、のさは、次のくの字とつなげて書くことができる。そうなると、ふたつのさの字のおわりは違う形にならなければおかしいじゃないか。まっすぐ家《うち》へ帰る時と、デートのある時の君たちの帰りかたは、見ていてちゃんと違っているよ」
筆を動かしはじめた女たちが、手をとめて笑った。
岸はその女のそばを離れ、またゆっくりと歩きはじめた。
「あの、お願いがあるんですけれど」
柔らかそうな長い髪をゆるく波うたせた女が、岸の近付くのを待っていたように言う。
「何だね」
岸は柔和な微笑を泛《うか》べてその女を見おろした。ふっくらとした美人だった。
「これに書いていただけませんか」
短冊をとり出して見せる。
「ほう、これは高そうな短冊だな」
「短冊に書くとどういうようになるか知りたいんです」
「そうだね、勉強になるかも知れんな」
するとほかの女たちも次々に席を離れて集って来た。岸はその女のとなりの椅子に坐り、筆と硯を自分の前へ移して短冊を持った。
はるさめはいたくなふりそさくらはな
またみぬ人にちらまくもをし
「春雨は、いたくなふりそ、桜花。まだ見ぬ人に、散らまくも惜し」
岸が手早く書きあげると、その女はよく透るすずやかな声で読んだ。
2
精神障害者社会復帰指導協会。
岸はその協会の常任理事である。と言っても、協会の運営に関与しているだけで、復帰指導の現場などは一度も経験したことがない。月曜から金曜まで、毎朝十時半に出勤して五時にはオフィスを出る。月に二度か三度の会議と、週に二度自分の部屋へ運び込まれる書類の山に目を通して捺印《なついん》して返せばそれで仕事はおしまいである。
岸は清廉《せいれん》な人物で通っている。挙措《きよそ》が穏やかで人の話をよく聞くから、ことに女子職員の間には信望があり、書道クラブも彼が能筆家であるところから成立したようなものであった。
年は四十二。身長百六十八センチ体重五十七キロ。短めに刈った髪をきちんと撫《な》でつけて、やや面長な顔からは、いつもシェービングローションの匂《にお》いが漂って来るようであった。
一時間のレッスンがおわると、女たちは筆や硯をしまって三々五々、その建物を出て行った。
「兄が岸さんのことを存じあげておりました」
宮園|悠子《ゆうこ》は薄手の赤いコートを着ていた。風がもう冷たくなっている。
「ほう」
二人は協会のオフィスがある虎《とら》ノ門《もん》を背に、ゆっくりと新橋へ向かって歩いていた。午後六時。初冬の街路はもう夜の灯に溢《あふ》れていた。
「君のお兄さんがねえ」
岸は意外そうに言う。悠子はさっきの短冊をいれた茶封筒を、赤革のハンドバッグと一緒に大切そうに左の胸のあたりにかかえている。家は藤沢。したがって帰りは新橋駅まで歩いてしまうことになる。出勤時や雨の日などは地下鉄を使っているようだった。
「あたくし、少しも存じませんでしたわ」
岸の父親が、以前大臣をやっていたことがあるのだ。悠子はそのことを言っているらしい。
「どこかへお勤めかね、お兄さんは」
「はい。一番上の兄です。法務省へ……」
「法務省か。法務省のどこ」
「いまは大臣官房です。司法法制調査部という所にいます」
「むずかしい所にいるんだな」
岸は笑った。悠子の赤いコートは襟《えり》が立っていて、歩くたびに白い裏地がのぞいていた。
「仕事は面白いかね」
岸は月並な質問をした。ほかに話題もなかったのだ。しかし、書道クラブができてから、この宮園悠子は岸に親しみを示していた。折さえあれば話しかけて来るし、こうして帰りには一緒に歩きたがりもする。
「はい。……とお答えすれば優等生なんですけれど」
悠子は悪戯《いたずら》っぽく言った。
「毎日おなじことの繰り返しで、あまり面白く思えないんです」
「そうか」
岸はまた笑った。悠子は自分の率直さが通じたと思ってうれしそうだったが、岸は典型的な優等生タイプの彼女が、そのことをまるで自覚していないようなのをおかしがっていたのである。
そう言えば、協会の女子職員は大半が箱入り娘であった。中にはラフそうなのもいないではなかったが、厚生省の外郭団体で、職員の大部分は何らかの形で厚生省につながっていた。
「お兄さんは何人かね」
「法務省へ行っているのと、もう一人、陸連へ行っている兄がいます」
「陸連……するとスポーツマンか」
「ええ、学生時代はボート部の選手でした」
要するに上流家庭の子女なのであろう。岸は父親のことを訊《き》くのをやめた。多分官庁関係で、それもかなり高い役職についている人物なのだろう。
岸はわざと歩調をゆるめ、悠子の姿を眺めた。年は二十二歳。もう熟《う》れはじめた体を、堅い躾《しつけ》が無理やり稚くさせているといった感じであった。
3
赤いコートは新橋駅の雑踏の中へ紛れ込んで見えなくなった。
岸は改札口の前を通り抜けて銀座へ向かった。医者の高見沢と会う約束があるのだ。高見沢とはこのごろよく会って一緒に飲んでいる。高見沢が医師側の代表者の一人になったからだ。岸の妻と高見沢は縁つづきなのである。
岸は銀座の東側の通りへ入って行った。西側にくらべるとだいぶ薄暗いその通りに、小さなオレンジ色の灯りが見えて来た。〈ハイランド〉という文字が読める。
やがて岸はハイランドのドアを押して店の中へ入った。天井の高い、古びた感じのバーであった。入ると右手に突き当りまで長いカウンターが伸びており、棚《たな》にぎっしりと並んだ酒の瓶《びん》が、色とりどりの光を反射させていた。
やや赤っぽい照明の中に煙草の煙がたちこめていて、長いカウンターにはずらりと客の背中が並んでいる。岸はもうその店へは五、六回顔を出していて、見憶《みおぼ》えていたらしいバーテンが、カウンターの外にいる女に合図を送った。
濃い臙脂《えんじ》のドレスを着たホステスがやって来て、
「もうあちらでお待ちです」
と言った。
岸は女のあとについて、かすかに油の匂いが漂い出す板ばりの床の上を奥へ向かった。
その時だった。
カウンターと平行になったその通路の突き当りのドアがあいて、意外な人物が岸と真正面から顔を向き合わせたのであった。
レコードの音も、客たちの話し声も、一瞬岸の耳から遠のいて行った。彼はその店の赤味がかった照明の中で、相手をまっ白なホリゾントの前に立っているように感じていた。
その男は黒いスーツを着ていた。艶のある柔らかそうな生地で、ぴったりと体に合っていた。白いワイシャツに渋いネクタイをしめ、すらりと、だが逞《たくま》しく立っていた。細く高い鼻、薄く引き緊《しま》った唇《くちびる》。眉《まゆ》は太いがやや茶色がかって濃い感じではなく、眉のいちばんあがったあたりから髪の生えぎわへかけて、額の骨の角が薄い肉をとおしてはっきりと区切りをつけているようだった。深い二重瞼《ふたえまぶた》。瞳《ひとみ》はひどく奥深い感じで、はっきりと視線を合わせているにもかかわらず、その瞳から心の動きを窺《うかが》い知ることは難しいようである。
そして、髪がまっ白であった。それがその男の最大の変化であった。以前は漆黒《しつこく》だったのに……。
「岸頼二郎」
よく響く声で言った。岸はそれに答えようとしたが、うまく言葉が出なかった。無意識に唇を舌で湿しながら、二歩ほど近づいて右手をさしのべた。相手は軽く手をあげてそれを握った。
乾いたあたたかさが掌から伝わって来た。
とたんに遠のいていた音が、一度にぐわっとボリュームをあげたようであった。赤っぽい照明が実際以上に赤く感じられ、鼓動さえ早くなったようである。
「大門《だいもん》……」
岸は相手の右手を握りしめ、左手をその上へかぶせて何度も上下させた。
「大門京介じゃないか」
「そうか。生きていたか」
大門の薄い唇が綻《ほころ》んで、岸を見る目に熱が感じられた。
「久しぶりだなあ。いったい何年ぶりだろう」
岸は心の底から感激していた。
「そうだ、二十五年だ。二十五年ぶりだ」
「そんなになったか」
大門は掴《つか》まれている右手を引き、左腕を岸の肩にかけた。岸は入口のほうへ逆戻りする形で、大門に肩を抱えられて歩き出した。
「こんな店へ飲みに来るのか」
大門が言った。
「友人と会う約束があったんだ。そこへ来ている」
「まあ坐れ」
そこが大門の席だったらしく、岸は押し込まれるように黒いソファーへ坐らされた。
「どうしていた」
岸が言うと、大門はそばの女に顎《あご》をしゃくって見せた。和服を着ていて、ハイランドのホステスでないことはひと目で判《わか》った。
その女はこういう場所に慣れ切っている様子で、ごく簡単な手真似《てまね》でホステスに新しいグラスを運ばせた。
「二十五年たっている」
大門はボトルをとりあげ、そのグラスに自分で注ぎながら言った。
「言葉をそんな一度に喋《しやべ》れると思うか」
注ぎおわるとボトルを置き、自分のグラスをとりあげた。
「乾杯」
岸は大門をみつめたまま慌《あわ》ててグラスを持った。
「乾杯」
大門の深い瞳をみつめたまま言い、グラスに唇をつけると一気に呷《あお》った。
スコッチ・ウイスキーだった。それもシングルやダブルならいざ知らず、オールド・ファッション・グラスに八分目くらい注いであった。当てにしていた分量よりずっと多すぎて呼吸が狂い、呷りそこねた岸は激しく噎《む》せた。
「馬鹿が」
大門は笑った。たのしそうにのけぞって笑った。
ポケットからハンカチを引っぱりだし、口に当てて体を折った岸は、咳込《せきこ》みながらその笑い声を聞き、夢中で咳を鎮めようと努めた。
「中学生にスコッチを飲ませたようだ」
岸がやっとの思いで顔をあげると、大門がそう言った。
「こんなに注いであるとは思わなかった」
「俺の顔ばかりみつめているからだ。ちっともおまえは変らんな」
「あんまり久しぶりだったからさ」
岸はそう答えたが、頸動脈《けいどうみやく》のあたりからひどく熱いものが登って来るのを感じてうろたえた。
「おしぼりをくれないか」
そばのホステスに言う。ホステスはすぐに立って取りに行った。
だが、おしぼりで誤魔化すのは、間に合いそうもなかった。頬《ほお》のあたりが熱くなり、耳が赤く染まるのが自分でも判った。
「懐《なつか》しいなあ」
岸は息を深く吸ってから言った。
「こいつと俺《おれ》は中学の頃《ころ》の友だちなのさ」
大門は連れの和服の女に言っているのだが、目は岸をみつめていた。
おしぼりが来て、岸はそれを顔に当ててやっとどうにか赤くなった顔を隠した。
だがうれしかった。理屈ぬきにうれしかった。鼓動は早くなりっぱなしで、気分が浮き立っていた。
大門京介。
その名を少年の岸は何度ノートの隅《すみ》に書きつけたことであろう。授業中も、家へ帰ってからも、その名を書いては心を躍らせたものであった。それは、岸の遠い日の秘密であった。
4
ハイランドには高見沢がいた。岸は大門にめぐり会って、しばらく彼の席にいてから高見沢の席へ移った。
「二十五年ぶりだそうだね」
その再会の瞬間は高見沢の席のすぐ前で演じられたから、やりとりが聞えていたらしい。
「親友だったんだ」
岸は弁解するように言った。大門は話がすむまで待っているから、おわったらゆっくり飲もうと言ってくれていた。ところが、実際にはその高見沢とも特別な用件などなく、週末の夜をのんびり飲もうというだけの約束だったのである。