「うれしいもんだね、こういう再会のしかたは」
岸はそわそわしていた。しばらく飲んでいるうちに、高見沢にもそれが判ったと見えて、
「親友が待っているんだろう。二十五年ぶりじゃあ話は尽きんはずだ。僕は一人でも行く所へ行けばこれで結構にぎやかにやれる。かまわずに彼の所へ行ってやれよ」
と言った。
「悪いなあ」
岸はもう少し高見沢に対してましな態度が取れるはずだともどかしく思いながら、髪をちょっと掻《か》きあげて見せた程度で、そうそうにまた大門のところへ移ってしまった。
大門は岸が来るとすぐに席を立った。
「彼を拝借します。何しろ久しぶりなものでして」
高見沢の所へ行ってそう挨拶《あいさつ》していた。
岸はそれを待つあいだに、妙な感覚に襲われていた。それはあの既視感覚に似ていたようだ。
ずっと以前、同じことが起こっていたような気がしたのだ。彼が少し離れた所で大門を待ち、大門は誰《だれ》かに自分が岸をどこかへ連れて行くことを告げている。
それが少年の日のことであることはたしかであったが、どんな場面だったかさっぱり思い出せなかった。
「さあ行こう」
大門に体を押されて岸は我に返った。和服の女が先頭に立ち、三人は一列になってハイランドを出た。
「あの店へは仕事で行ったんだ」
大門はハイランドから少し離れるとそう言った。
「仕事……何をやっているんだ」
「いろいろだ。ひと口には言えん」
「だいたいの方角というものはあるだろう。繊維関係とか建築関係とか」
大門は笑った。
「じゃあ出版関係ということにして置こうか」
「出版か」
「神秘社というのをやっている」
「神秘社……どんな本を出すんだ」
「名は体をあらわす。神秘な本さ」
大門はからかうように言った。和服の女は道案内をするように五、六歩先に立って歩いている。
「おかしなものだ」
「何が」
「二十五年ぶりで会って、いきなり俺、おまえではじまった」
「そうだな。しかしおまえはあの当時、俺のことをおまえとは呼んでいなかったぞ」
「憶《おぼ》えているよ。なぜか君と呼んでいた」
「しかし俺のほうはおまえだ」
「学生時代の友人だけだな。いきなりこんな調子ではじめられるのは」
「軍隊へ行ったことのある連中もそうらしい。何十年ぶりで会って、貴様、と来る」
「まったくだ。……そうか、思い出したよ。君のお父さんは軍人だったんだな」
「戦犯だ。捕虜虐待で死刑さ」
大門はひとごとのように言った。しかしそれももう遠くへ霞《かす》んだ昔のことである。無理もなかった。
「ほかの連中には会うか」
「ほかの連中……」
「同級生たちさ」
「会っているかも知れんな。しかし知るものか。まるで記憶にない。あの学校で憶えているのはおまえ一人だけだ。先生の名も憶えてはいないぞ」
大門が、あの学校で、というのは、彼が中学三年になる時転校して来て、それからまる三年後にまた転校して行ってしまったからである。
彼らは戦後の学制の転換期にいた。だから旧制中学へ入学して、翌年にはそれが新制に切りかわっていた。旧制中学は新制高校になり、旧制のしっぽのような彼らは、その付属中学の形で中学三年をおえると、やっと正規の新制高校の一年生になれたわけである。したがって高校二年まで下級生を持ったことがない。
先に立った女は角を曲がって表通りへ出て行く。二人もそのあとに続いた。
「思い出した」
岸が笑い声をたてた。
「何だ」
「君はピエール・ブランシャールだ」
「何だ。そんなことか」
大門は興味なさそうに答えたが、岸はわざとらしくその顔をのぞき込んだ。
「まだブランシャールの面影があるな」
岸はそう言うと、頭に泛ぶ古い映画の題名を思いつくまま挙げて行った。
「キュピドン酒場、舞踏会の手帖、罪と罰、生けるパスカル、田園交響楽……」
「ピエール・ブランシャールが出た映画ならまだあるぞ」
大門にそう言われたが、岸は思い出せなかった。
「桃源郷、血の仮面……」
「いい俳優だったな」
岸はしんみりと言った。
「ここに線路があった」
大門は表通りのまん中を指さして言った。
「スカラ座は毎日新聞の前だった。二人でよく行ったな。松坂屋の前で黒人兵に呶鳴《どな》られたのを憶えているか」
「君がちょっかいを出したからじゃないか。それをあの黒人兵は、俺がやったと思い込んだんだ」
「子供だったなあ」
大門も昔を懐しみはじめているようであった。
女は信号を待って歩道のへりに立ちどまった。
「こいつは俺の初恋の相手だぞ」
女と肩を並べた時、大門はいきなりそう女に言って笑った。
5
「名刺ぐらい寄越せ」
大門がそう言って手を出したのは、豪華なクラブの中だった。緑色のソファーが円を作っており、その円の中にホステスが八人も入って騒いでいた。
「そうかなあ。君らではもう、ピエール・ブランシャールは判らなくなっているのかなあ」
岸はそう言いながら名刺を出して大門に渡した。もうかなり飲んでいた。和服の女は、〈琴江〉という店のママで、二人はその店に一時間ほどいて、ここへ移って来たのであった。
「俺はうれしいよ」
岸はホステスを三人置いた向こうにいる大門のほうへ、体を乗り出すようにして言った。
「君は立派にやっていてくれた。それだけでもう充分だ」
感情をこめて言ったつもりだったが、その場の雰囲気《ふんいき》は少しも落着こうとしなかった。
それどころか、
「見ろ、これを」
と言って大門が大声で笑い出した。
「精神障害者社会復帰指導協会……。何だこれは」
名刺を左手にかざし、狂ったように笑っている。
「どれ……見せてえ」
若いホステスがその名刺を取りあげる。
「まあ、長い名前ねえ。こんな会社にいたら、電話が掛って来た時大変でしょうね。……はい、こちら精神障害者……者……なんと言ったかしら」
「馬鹿《ばか》。会社じゃない、協会だ」
「長すぎるわよ。ジュゲムジュゲムだわ。ねえ、普段はつめて言っていらっしゃるんでしょう」
「復帰協会、かな」
「それなら言い易いわね」
大門はまだ笑っていた。
「おまえは女学校の先生にでもなったと思っていたぞ」
「あ、そうね。そういうタイプよ」
岸はその店の女たちが、店の豪華さにくらべて少し品が落ちるような気がしている。しかし大門が気に入って通っているのなら、自分も堅いことは言わずに楽しもうときめていた。
「今日は思い切り楽しめ」
大門は岸をみつめて言った。
「ああ、君と会えたんだ。はめを外そう」
「よし、たっぷり楽しませてやろう。で、女房はいるんだろうな」
「いる」
すると大門の表情が複雑な変化を示した。頬のあたりに漂う冷笑的なものがゆっくりと消え、そのかわり、目尻《めじり》のあたりからジワジワとひどく好色そうなものが拡《ひろ》がって来るようだった。
「そうか。結婚したか」
「そりゃするさ」
岸は大門の奇妙な感じの凝視からのがれるように、となりにいるホステスに言った。
さいわいそのホステスはしとやかそうな女で、
「お子さんもいらっしゃるんでしょう」
と訊いた。
「ああ、二人いる。どっちも娘だ」
「いやねえ、これはと思う男性はみんなそうなんですもの」
すると大門が口をはさんで来た。
「芳江、その男が気に入ったか」
「気に入ったなんて、そんな失礼な」
芳江というホステスはへりくだった様子で言った。
「岸、どれでも好きな女を抱けよ。この席にいる女でなくてもいいぞ」
岸はさすがにびっくりした。大門がそういうことをずけずけと言う男になっているのがふしぎだった。
「驚くな」
大門は岸のそんな気持を見抜いたように笑って言う。
「二十五年だ。二十五年あれば、尾をふるわせて泳いでいた小さな虫が、好きな女と結婚式をあげるくらいの大きさになる」
大門の左どなりには、とりわけ蓮《はす》っ葉《ぱ》な感じの若い小柄な女がへばりついていて、
「それ、精虫のことでしょう」
と得意そうに言った。
「そうだ、精虫だ。ここにいるんだ」
大門はその女の手を取って自分の下腹部へ押しあてた。女は大門が手をはなしてもそのままにしていた。
「おまえ、家へ電話して置くなら今の内だぞ」
大門は嚇《おど》すようにそう言った。
6
岸が見たところ、大門はクラブの遊びにどっぷり浸り込んでいるようだった。
岸の身辺にはあまりいないが、そういう人間を満更《まんざら》知らないわけでもなく、彼も適当に大門のペースに合わせていた。
仕事が順調で、金まわりがいいに違いなかった。かつての親友が大変な遊蕩児《ゆうとうじ》に変貌《へんぼう》したという驚きはあっても、それで大門を批判したりする気持はまったく起らなかった。
むしろ、みごとな遊びぶりを賞讃したい気持のほうが強かった。……これで立派にやって行けるのだから大したものだ。そう思っていた。
そして、飲むほどに酔うほどに、少年時代の気分がよみがえり、今夜ばかりは番外にして、とことん大門に付合ってやろうと思いはじめた。
自宅へ電話する気になったのは、十一時半ごろだったろう。
「いま銀座にいる」
妻の信子が電話に出ると、岸は酔いを隠さずに勢いよくそう言った。さっきのしとやかそうな和服姿のホステスが、フロアーのはずれにある電話台のところまで案内して来てくれていた。
「あら、まだそんな所にいらっしゃるの」
信子の声は笑いを含んでいた。夫の珍しい酔い方に気付いたのだろう。
「今日は戻《もど》れんかも知れんぞ」
岸はその反応につけ入って、ことさら威張って言った。
「おやおや、大変な勢いだこと。でも、あまり無茶をなさらないでくださいよ」
「俺はまだ若いんだ」
「おかしなかた。どうなさったの」
「中学、高校と一緒だった親友に、バッタリめぐり会ったんだ。二十五年ぶりだぞ。十七の時に別れてそれっ切りだ。二十五年ぶりの再会なんだ」
「まあ。それでお話が尽きないわけね」
「そうだ」
「じゃあ、玄関の鍵《かぎ》はしめてしまっていいんですか」
「かまわん。戸締りをして火の元を点検して、寝てしまえ」
信子は笑っていた。
「はいはい。でも、くれぐれもあまりはめをお外しにならないように」
「オーケー。オーケーだ」
岸はそれまでよりいっそう楽しくなった。電話を切り、芳江というそのホステスのそばへ行くと、
「連絡おわり」
と言ってきものの肩に腕をまわした。
「とっても愉快そう。あたしまで楽しくなっちゃうわ」
「彼はよく来るのか」
円型の客席の間を自分たちの席へ戻りながら訊いた。
「大門さん……ええ、よくいらっしゃるわ」
「いい男だろう」
「ほんと。ピエール・ブランシャールって俳優さんに、そんなに似ていらっしゃるの」
「ああ、そっくりだ」
「その人もおつむがあんな……」
「髪か。さあ、どうだったかな。昔の映画はみんなモノクロだからな。多分ブランシャールは金髪だったんだろう。白っぽいような気もするが、あんなまっ白じゃない」
「あのくらいのお年で銀髪って、すてきね」
「子供のころは凄《すご》く可愛かった。それこそお人形さ」
席へ戻ると大門の姿がなかった。
「彼はどうした」
すると残っていたホステスが、
「オ・ト・イ・レ」
と区切って言った。
「判ったわ、なんとなく」
席についた芳江は、岸に倚《よ》りかかって低い声で言った。
「何がだ」
「男性でも、子供の頃ああいうのがあるんでしょう。ホモというんじゃないけれど、綺麗《きれい》な男の子を愛しちゃうのが」
「ああ、そんなようだな」
「あたしも小学生のころ、近くにいた中学に行ってる女の子に夢中になってたわ」
「小学生でか」
「ええ。中学のときはもう男の子。同級生だったの」
「ませてやがるなあ」
「変なことなんかしないの。でもその、最初の中学生の女の子の時は、キスされちゃった」
「へえ……向こうも君が好きだったわけか」
「これでも小さい頃はとても可愛らしかったのよ」
芳江は冗談のように言った。
7
大門は閉店までそこに頑張《がんば》っていた。ホステスたちもボーイたちも大門には充分すぎるほど敬意を払っているようであった。
「今日はおまえは家へ帰れん」
大門はそんなことを言いながらみこしをあげた。ボーイが二人とんで来て、鄭重《ていちよう》に送り出す。
「どこへでもついて行くよ」
岸はその夜一度ピークに達した酔いが少し醒《さ》めかけて、割合いしゃきっとしていた。それでも豪快に飲んだ大門とくらべると、ずっと酔っているように見えた。
「強いんだなあ、君は」
「そうだ。何事によらず俺は強い」
エレベーターの前に、二人を送って来たホステスがにぎやかに並んでいた。
と、エレベーターの前で別れを告げる女もいたが、半分くらいはそのエレベーターに乗って一階まで降りて来た。
「ありがとうございました」
季節外れの薄着をした女たちは、二人をビルの出口まで送って来ると、寒そうに肩をすくめながら手を振った。
岸は振り返ってそれへ笑顔を送ったが、大門は気にも留めず大股《おおまた》で歩いた。
するとその先の角に、黒服|蝶《ちよう》タイの男が一人立っていて、大門が近付くと丁寧にお辞儀をして一緒に歩きはじめた。さっきのクラブの男のようであった。
男は外堀通《そとぼりどお》りのハイヤーの溜《たま》りまで二人を連れて行った。
「ご苦労」
大門はハイヤーのドアをあけるその男に、たしか金を渡してやっていたようだが、岸にははっきり見えなかった。
大門と反対側のドアから岸が車に乗り込むと、さっきまであのクラブにいたはずの芳江が前のシートに坐《すわ》っていて、楽しそうな笑顔で振り返った。
「早いでしょう」
岸は呆《あき》れて芳江よりは大門を見た。
「早わざだな」
すると大門は当然だと言わんばかりな顔をした。
「帰さんと言ったろう」
「なるほどね」
岸も遊びなれた風を装って平然と脚を組んだ。ハイヤーの運転手はすでに行先を知っていると見えて、車の流れの中へ巧みに割り込んで行く。
芳江を抱くことになりそうであった。岸は本格的に肚《はら》を据《す》えなければならなかった。
しかし考えて見れば、大門に対抗して、と言うよりは大門に調子を合わせて、なぜ自分がそれほど遊びなれて見せなければいけないのかよく判らなかった。
「二十五年ぶりか」
岸は走り出した車の中でそうつぶやいて見た。大門はシートにもたれて目をとじており、芳江は右側のドアにもたれるように半身に構えて顔を前へ向けていた。
二十五年ぶり。
いくら親友であっても少年時代のことだ。二十五年たてば赤の他人であってもいっこうに支障ないはずである。しかしなぜか有頂天になってしまった。自分の人生の重大事件のように感じてしまった。そして思い切りはめを外すことにきめ、したことのない外泊宣言まで妻にしてしまっている。
これはいったいどういうことなのだろう。……岸は心の中で首をかしげた。
「手をかせ」
大門が目をとじたまま低い声で言った。
「え……」
「さっき久しぶりでお前の手を握った。もう一度握らせてみてくれ」
岸は眉《まゆ》を寄せた。しかし、前のシートにいる芳江が、面白そうにうしろをのぞき込んでいた。
「手か。ほら」
岸は酔った勢いのように、左手首をぶらぶらさせながら大門に差しだした。実際には、酔いはそれほどでもなかった。
大門は泰然としていた。右手で岸の左手をとらえると、それを自分の膝《ひざ》の上へ置き、左の手をそえて、掌《てのひら》で岸の手の甲をさすりはじめた。
「俺も白髪《しらが》になった」
しみじみとした口調であった。
「少しなりかたが早かったな」
岸がつり込まれて同じような言い方になった。芳江は前を向き、坐り直しながら言った。
「男性って、いいわねえ。そんなに長く会わなくても、会えばすぐ親友の昔に戻れるんですものね」
「おまえは関係ない」
それはびっくりするほど冷たい声であった。芳江は首をすくめて沈黙した。大門は岸の手の甲をさすり続けている。
「岸は小さい頃綺麗な子だった。美少年だった」
岸は運転手の存在を気にしはじめていた。左手を引こうとしたが、その手の下で掴《つか》んでいる大門の右手の力になぜか抗しかねた。
「中学三年の一学期にはじめておまえに会った。席がとなり同士だった。高一、高二と、まる三年間、俺たちは離れなかった。教室でも、運動場でも、いつも一緒だった。俺はおまえの家を訪ね、おまえも俺の家へ来た。一緒に映画を観に行き、一緒にコンサートへ行った。判《わか》るか。あれは、俺のいちばん平和な時代だった。おまえと一緒だったという以外に、何事も起こらない平和な三年間だった」
大門は低いがよく透《とお》る声でそう言い、岸の手の甲をさすりつづけるのだった。
8
そのホテルは岸もよく知っていた。しかし大門はそのホテルで、まるで帝王のように振舞っていた。いや、ホテル側でそういう扱いかたをしたのだ。
大門が車を降りてロビーに入ると、ベル・ボーイが素早くフロントのほうからとんで来て、キーをふたつ渡した。
「これは大門さま、これはお連れさまのでございます」
大門は歩きながら自分のキーを受け取って無造作にポケットへ入れた。お連れさま、である岸のキーは芳江が受け取ってくれた。
「酒はどうだ」
大門がバーへ行きそうに言ったので、岸はあわてて断わった。
「いやもう結構。これ以上飲《や》ると参ってしまう」
大門はエレベーターの前でとまった。
「では部屋へ行くか」
六基ほど並んだエレベーターの半分はロビーにとまってドアをあけていた。
「どうぞ」
ボーイが素早くその一つに入ってボタンをおさえながら言う。三人はあとに続いた。するとボーイは大門たちの行く階のボタンを押してさっと外へ出ると、うやうやしくお辞儀をした。それが頭をあげ切らないうちにドアが閉って、エレベーターは昇りはじめる。
「君はよほどこのホテルをご愛用とみえるな」
岸が感心したように言うと、大門は鼻の先で笑った。
「こんな所で田舎者扱いをされてたまるか」
岸はその時になってはじめて、大門から強い圧迫を感じた。
大門は迫力を身に備えていた。岸に向けた砕けた笑顔や喋《しやべ》り方は、彼にしてみればかなり特別なものらしかった。
エレベーターは二十一階でとまった。ドアがあくと大門は躊躇《ちゆうちよ》せずに右側のほうへ進んで行った。歩きながらポケットからキーを出し、その番号もたしかめずにいきなりドアのひとつへそれを差し込んであけた。
「入れ」
振り向かずに言い、スイッチの音をさせて先に中へ入った。芳江と岸は他人の家を訪問する夫婦者のように、おずおずとそのあとについて行った。
続き部屋だった。
大門は大きなソファーにどすんと腰をおろし、背もたれに後頭部を押しつけるようにして背筋をそらせた。
「肩が凝《こ》ったようだ」
そうつぶやくと、まだ立っている二人に顎《あご》をしゃくって坐るよう指図した。
「おまえはあのほうはどうだ」
「あのほうというと」
「セックスだ」
「ああ……」
岸はあいまいに笑った。
「元気かどうか訊《き》いているんだ」
大門はニコリともしない。
「よく判らんな」
「なぜ」
「あまり浮気をしないほうでね」
「ためしてみろ」
大門は芳江をまた顎で示した。
「おまえに馳走《ちそう》する」
馳走、と、大門はひどく古めかしい言葉を使った。それは下賜《かし》する、というように受け取れ、しかも大門が言うと少しも違和感がなかった。
「やあねえ」
芳江はそれが儀礼のひとつででもあるかのように言った。
9
それから間もなくするとチャイムが鳴って、芳江がドアをあけに行くと二人の女がその部屋へ入って来た。
一人は外人、一人は日本人であった。両方ともとびきりの美人で、金のかかったドレスを着ていた。
「こいつらはコール・ガールだ」
大門は情容赦ない態度で言い、ソファーから起きあがると上着を脱いだ。
「おまえらはとなりの部屋だ」
そう言うと、もう二人が出て行くものときめたように、
「風呂《ふろ》の支度をしろ」
と、日本人の女のほうへ命令していた。
「行きましょう」
芳江がそう言って岸をうながした。
「うん」
岸はうろたえて芳江のあとに続いた。
「どうせおまえは朝早いんだろう」
「ああそうだ」
岸は大門の声にそう答えていた。
「そのまま帰っていいぞ。またあとで連絡する」
「判った」
バスルームで水の音がしはじめていた。
二人は廊下へ出ると、その続き部屋のもうひとつ先のドアへ行った。
「ここだわ」
芳江がキーを使う。
ドアがあき、芳江が先に入って灯《あか》りをつけると、
「どうぞ」
と、その部屋の主が客を迎えるように岸を招き入れた。
「お邪魔するか」
岸は冗談のように言って中へ入った。こっちはダブル・ベッドが置いてあった。
「上着をお取りになったら」
ドアをロックした芳江が岸のすぐうしろへ来て言う。岸は素直に上着を脱いだ。
「お煙草《たばこ》は」
「そうか、右のポケットだ」
芳江は岸の上着の右のポケットからセブンスターを取り出して作りつけのデスクの上へ置くと、衣裳棚《いしようだな》の戸をあけてハンガーを外し、上着を掛けてまたハンガーをパイプに引っかけている。
心得ている。岸はそう思いながら椅子《いす》に腰をおろした。カーテンが引かれていて、窓の外は見えない。
芳江はデスクの上から煙草の袋を取りあげ、窓際のテーブルのほうへやって来た。
「不束者《ふつつかもの》でございますが」
本気とも冗談ともつかぬようにそう言ってから、岸と向き合った椅子に浅く腰をおろした。
「君は結婚したことがあるようだね」
岸が言った。芳江はセブンスターの袋から煙草を一本途中まで引き出して、出たほうを岸に向けてテーブルの上の灰皿《はいざら》のそばへ置いた。
「いいえ」
「そうかな」
「結婚したことがあるように見えます……」
「ああ」
芳江は今度はホテルの名を印刷した半透明のカバーからグラスをとり出して上に向け、ポットを取って水を半分ほど注いだ。
「無理もないんです。あたし、結婚したことはないけれど、ある方の持物になったことがあるんです」
持物、とは古いがうまい言葉を選んでいた。
「今はそうじゃないのか」
「ええ」
岸はグラスに手を伸ばし、冷えた水を一気に飲んだ。したたかに飲んだ。喉《のど》を冷たい水がこころよく通りすぎる。
「だめだな、俺《おれ》は。この期《ご》に及んで野暮なことばかり言っている。少し大門を見習わなければ」
芳江は微笑した。
「あなたもお風呂へ……」
「ああ、そうするか」
芳江は待っていたように、すっと腰を浮かすと、衣ずれの音をさせてバスルームへ消えた。
岸は彼女が半分まで引き出して置いてくれた煙草をつまみあげ、咥《くわ》えるとマッチを擦《す》って火をつけた。
「悪くはない」
最初の煙を吐《は》き出す時、低くそうつぶやいた。外泊は公認の形だったし、大門は遊び相手として申し分ないようだった。それに、芳江は妙な負担など感じさせぬように振舞うすべを心得ていた。
まったく、悪くなかった。
10
翌朝、岸は九時ごろその部屋を出た。
全裸のまま睡《ねむ》ってしまった芳江は、岸が起き出す気配を示すと、
「ちょっと待っていて」
と甘えたように言い、カーテンを引いた暗い部屋の中で手早く長襦袢《ながじゆばん》に伊達締《だてじめ》を巻きつけると、足音もたてずにバスルームへ行き、すぐ戻って来てスタンドの灯りをつけた。
ざっとだが寝乱れた髪が梳《と》いてあり、またしても心情のよさを示したのであった。
煙草を咥えて火をつける姿が仇《あだ》っぽかった。
「お目ざよ」
その煙草を持って来て岸の口に咥えさせると、ベッドの横の床に膝をついて倚りかかり、岸の体を覆ったシーツの下へ柔らかい手を入れてまさぐった。
「すてきだったわ」
岸は太腿《ふともも》の内側をまさぐられて体を動かした。
「擽《くすぐ》ったい。灰が落ちるぞ」
「何時にお出になるの」
それが八時半ごろであった。
「九時にはここを出ねば」
岸がそう答えたのは、芳江に対する思いやりであったようだ。土曜日は休みなのであったが、ゆうべ大門はそれに気付かぬらしく、どうせお前は朝早いんだろう、と言っていた。芳江もそれにつられて岸が出勤すると思い込んでいる以上、部屋を出るなら早いほうがよかった。そうすれば芳江もそのあと少しはのんびりできるはずである。
それに、妻の信子に対しても昼前になるべく早く帰ったほうがよかった。
「大変……もう八時半だわ」
そういうと芳江は煙草を取りあげ、片手で岸の手を引っぱって起こしてしまった。
岸も全裸だった。
「いまお湯を出して来ます」
芳江はデスクの上の灰皿で煙草を揉《も》み消し、バスルームへ行って湯の音をたてはじめた。
「そのままでいらして」
バスルームの中で芳江が言う。岸は言われた通り全裸で入って行った。すると芳江はすでに手早く長襦袢を脱いでバスタオルを胸に巻き、頭にもタオルを巻いて待っていた。
「お入りになって」
湯の増えはじめているバスタブへ入って岸が体を寝かせると、
「あたし、ゆうべ夢中だったから点検して置かないと」
と言いながら、素手に石鹸《せつけん》をつけて岸の臍《へそ》のあたりから洗いはじめた。
「浮気がバレたら大変でしょう」
岸はふと、子供の頃《ころ》入院したことを思い出した。七つか八つの時だった。若い看護婦にこうして体を洗ってもらったことがある。それはちょっと照れ臭く、そして大変|贅沢《ぜいたく》な、至れり尽せりの感じであった。
「この子がいけないのよ。あたしをあんなにさせちゃって」
芳江は柔らかい手でペニスを包み込み、丹念に洗っていた。
それはかなり母性的な態度であった。官能よりは安らぎを岸から引き出し、刺激よりも鎮静へ彼を導いてくれた。
「君はいい女だな」
岸は素直にそれを言うことができた。しかし、岸の言い方があまりにも善良すぎたのが逆に芳江の羞恥心《しゆうちしん》を誘い出してしまったらしく、
「ええ、みなさんそうおっしゃるわ」
と、少し依怙地《いこじ》になったように答えた。
「そんなことはどうでもいい」
岸はバスタブに横たわったまま言った。
「君はたしかにいい女だ。俺は君のような女が好きだ」
すると芳江は手を引き、立ちあがって洗面台のコックをひねり、石鹸のついた手を洗いはじめた。
「ずるいわ、こんな時間になってそういうことを言うのは」
手の石鹸を落とすと、歯ブラシの包装を破って小さなチューブの練歯磨《ねりはみがき》をそれにつけ、グラスに水を入れて鏡の前へ並べた。
「あたしはおとなりに泊ったようなコール・ガールじゃありません。でも、必要があればはじめての男性に平気で抱かれてしまう女よ」
「どんな必要」
岸は上体を起こし、湯をとめて言った。バスルームの中が静かになり、岸が動くたびに揺れる湯の音だけになった。
「大門さんに言いつけられたような時よ」
芳江はそう言うとそっぽを向いて表情を隠した。
11
朝食は自分の家でした。
味噌汁《みそしる》と納豆の、どちらも葱《ねぎ》の香がする爽《さわ》やかな食事であった。
「大門さんて、何をなさるかた」
信子が好奇心を顔に溢《あふ》れさせて訊いた。
「出版社をやっているそうだ」
「有名な出版社……」
「いや、それほどではない」
「雑誌なども出していらっしゃるの」
「さあ、どうかな。とにかく昔ばなしばかりでね」
「そうでしょうね。中学の時のお友だちでは」
「あれはまるで兄弟か夫婦のようなものだった。どこへ行くにも、何をするにも一緒で」
信子は頷《うなず》いている。
「中学三年というと、十五ね」
「そのくらいだな」
「そのころの親友と言ったら、人生で一番思い出深い相手でしょうね」
「ああ」
「それは判るんですけれど……」
信子が言い澱《よど》んだので、岸は箸《はし》をとめた。
「何だ」
「いえ、美子《よしこ》のことなんですよ」
岸は内心ほっとした。
「美子がどうかしたか」
「その、親友がいるんですよ」
「いいじゃないか」
「あなたとその大門さんとかのようなのなら、男同士ですし、問題はないんですけれど」
「ほう……」
「ちょっとどうも」
「どんな子だね」
「津山さんとか言うんですけれど……とても綺麗なお嬢さんで、お宅もかなりしっかりしたおうちらしいんです」
「俺もちらっと見たことがあるな」
「ええ、あるはずですよ」
美子は岸の上の娘で、私立中学の二年生であった。
信子の表情から察すると、美子はその津山という美しい女の子と、かなり熱っぽい間柄になっていて、信子は彼女らの何かの現場を目撃してしまっているようであった。
「そう心配はないと思うがな」
「でも、感じ易い年頃ですし」
「そうだ。あの年頃は何につけひどく感じ易くなっている。おまえがへたに注意でもしたら、どうなるか予測がつかなくなる」
「ええ。ですから注意する気などないんですけど、もうほかのお友だちが気付いているらしくて、いろいろからかわれたりしているようなんです」
岸は舌打ちをした。
「弱ったな、それは」
「本当に困りましたわ」
「とにかくそういうことは男親の出る幕ではない。おまえがよく注意して見てやるよりしようがなかろう」
「ええ……」
信子は頼りなさそうに答え、美子の話はそれっきりになった。
居間へ入って朝刊をひろげたが、活字の上を目が走るばかりでいっこう身が入らなかった。
芳江は二十八。二十八でああも心得られるものなのだな、と、岸は昨夜から今朝にかけてのことを反芻《はんすう》していた。
細くしなやかなくせに、豊かであるべきところは人一倍|稔《みの》っている女であった。白く肌理《きめ》こまやかで、それにもまして情のこまやかな女であった。
少し渇《かわ》いていたようだ。
岸は、徐々にしどけなさをくりひろげて行った芳江の嬌声《きようせい》を思い出していた。喉にかかった細い声で、その声を聞かせはじめる寸前には、人差指の腹を噛《か》むようにして耐えていた。
大門の部屋の影響も少なくないようであった。二人の美女を引きいれた大門の部屋からは、岸の指戯がはじまると同時くらいに、あられもないというような程度を通り越した、まるで獣のような女の叫びが聞こえはじめたのである。
たしかにそれに煽《あお》られてもいた。
芳江もしまいには痴《し》れ狂ったようになった。それは岸が少し疲れを感じて、体を入れかえてからであった。
芳江は岸にのしかかり、果ててくれることをせがんだ。下の時、すでに芳江は一度頂きに達していたようであった。
静穏な岸の日々を、冬の夜の猫《ねこ》の声が掻《か》き乱しはじめたようであった。