新聞を読むふりをして、岸はその紙の上に芳江の苦悶《くもん》するような表情を見ていた。
12
その週末、岸は金曜の夜の波乱から遠のこうと努めた……。あれは例外的な一夜だったのだ。あんなことばかりをしているわけには行かんじゃないか……。日曜日の午後、岸は和服姿で散歩に出て、その途中ふと苦笑しそうになった。
行ないすました顔で若い女たちに書道を教えている自分と、芳江をベッドに押しつけて居丈高に責めている自分が、我ながら同じ人物だとは思えなくなったのだ。
しかし、まだ老人ぶる年には間がありすぎる。……しばらく歩くとそうも思った。天秤《てんびん》は金曜の夜のほうへ大きく傾いて、書道を教えている自分がひどくみすぼらしい人間に思えた。
今までの生活は決して間違ってはいない。たとえて言えば、それは模範答案のようなものだ。しかし、まったく次元の異なるところで、まだ若さを残した自分を、思い切り開放してもいいではないか。それが今まで通りの、模範答案的な人生を傷つけない限りにおいて……。
芳江はすばらしい女だ。俺はああいう女を理想に描いていたはずだ。まだ若さの残っている自分に、ああいう女が与えられてもいいはずではないか。もう前後の弁《わきま》えもなく暴走する年でもない。おのれの管理はおのれの力できちんとやって行けるのだ。誰《だれ》にも知られずにああいう女と蜜《みつ》の部屋にこもる時間を持てぬはずはないのだ。
岸はさまざまに考えた。散歩の道すがら、金曜の夜のことから遠ざかろうとする一方で、野放図もない空想を生み出していた。
岸は結局その天秤を水平にしたまま家に戻った。そしてその天秤は、次の週いっぱい水平のままかすかに揺れ続けていたようだ。
芳江は金曜日の午後に協会へ電話をかけて来た。
「あの、少しお話をしたいことがございましたので……」
芳江であることは声ですぐに判ったが、彼女の言い方は岸の職場であることを意識して奥歯に物がはさまったようであった。
「かまわんよ。自由に喋りなさい」
岸は自分の笑いが判るように、わざと声を大きくして言った。
「いいんですの」
「俺一人の部屋でね。電話も直通番号のほうへ掛って来ている」
「ああよかった」
「もっと早くに声が聞けるかと思っていた」
嘘《うそ》ではなかった。岸は芳江からの電話を心待ちにしていたのだ。
「もう一週間……」
芳江の声には情感がこめられている。
「会いたいな」
「本気でそう言ってくださるの」
「本気さ。今夜はどうだ」
芳江は少し黙っていた。
「今夜はだめ」
笑いを含んだ声が聞こえた。
「なぜだ」
「だって、先週はあんなだったでしょう。続けてじゃお家《うち》に無理ですもの」
たしかに今夜芳江と会っても、はやばやと帰らなければ具合が悪かった。
「あしたはだめ……」
「仕事は今日までだ。土曜は休みさ」
「やっぱり週休二日なのね」
「そうだ」
「じゃお願い。あした会ってください」
「ああ。どこにする」
「横浜がいいわ」
「横浜か」
「ええ」
芳江は横浜にあるホテルの名を教えた。
「判った。何時にする」
「なるべく早いほうが」
芳江は甘えるように言った。
「ホテルはたいてい二時から部屋に入れるが」
「じゃあ二時。予約はあたしがしておきます」
どこまでも要領を呑《の》み込んでいる女であった。岸は楽しくなった。
「大門はどうしている」
「あれから一度お見えになったわ」
「また行ったか」
「ええ。何だかお仕事だったみたい」
「そう言えば、この間も仕事のようなことを言っていたな」
ハイランドへ、大門は仕事で来たのだと言っていたような記憶があった。
「じゃあ、あした。お待ちしています」
「よし判った」
岸はうきうきと言って芳江が電話を切る音を聞いてから受話器を置いた。
13
その金曜日、先週と同じように岸は研修室へ行って若い女たちに書道を教えた。書道のレッスンは毎週あるわけではなく、その研修室があいている時に限られていた。それもレッスンはクラブ員たちの希望ではじめから金曜日に限られていたから、研修シーズンになると三ヵ月あまりも集まる機会がないことになりかねない。
宮園悠子は書道クラブの幹事をしていた。岸に対しては代表者として何かと言葉を交す折も多く、先週一緒に新橋まで歩いたこともあって、以前よりいっそう親しみを感じているらしかった。
岸はそういう宮園悠子を新しい目で眺《なが》めはじめていた。実を言えば、二十七歳で信子と結婚して以来、妻以外の女を抱いたのは先週の金曜の晩がはじめてなのであった。
はじめて浮気をして、まだ自分に若さが残っていることを知らされた。男を知り抜いているような、男に奉仕するすべを心得切ったような芳江が、彼の体で痴れ狂わされたのである。しかも彼は、充分なゆとりを持ってそれを楽しむことができた。
浮気の経験がなく女体のあつかいについて無知を自認していた。従って芳江が自分の体にとりのぼせ、我を忘れて悦《よろこ》んだことに、彼は新鮮な驚きとともに自信を持ちはじめていたのである。
そういうことは若い頃の経験より、中年以後の精神的な落着きのほうがものを言うのだと考えるようになったのだ。
宮園悠子に対して、それまで関心がなかったわけではない。しかし、あまりにも若すぎるように感じていたし、妻以外の女性と男女の関係を持つことなど、先週まで考えてもいなかったのである。
だが突然世界が変った。岸は目から鱗《うろこ》が落ちたような感じであった。親し気に話しかけてくる悠子の頤《おとがい》のあたりがひどく気になった。ブラウスの襟《えり》もとから覗《のぞ》いている鎖骨のあたりにも目が行ってしかたがなかった。胸のふくらみはもちろん太いプラスチックのベルトで絞めた胴のくびれや腰の線にも目が行った。
岸はその下にある白い肌《はだ》を目に泛《うか》べていた。いとしいという感情ではなく、ころころと肥え太った仔犬《こいぬ》を庭の土の上につき転がして楽しむように、若い悠子を思いのままに操って楽しみたいと思った。
それはたしかに岸の妄想《もうそう》であった。その妄想はやがて明日の二時に会える芳江のイメージと重なり、重なるとすぐに悠子は消えて芳江だけになった。書道を教えながら岸は土踏まずのあたりがむずがゆくなるのを感じた。明日の情事への期待があふれて、そんなところに溜《た》まってしまったような感じであった。岸は悠子から女の色気を感じたが、心の一方ではその色気の稚さを嗤《わら》ってもいた。
その帰り道、岸はセックスに淡白だと思いこんでいた自分を、評価し直していた。……俺はこれでなかなか多情な男だったのだ。結婚以来みずから好んでそれを小さなわくの中におし込めていたにすぎないのだ。
岸は大門の顔を思い泛べていた。
すでに中学生のときにああいうことがあったではないか。早熟だったのだ。……何が何でも大門のそばにいなければすまなかったその時期の感情をまざまざと思い出していた。大門と離れていると例えようもなくさみしかったし、わけもなくもの哀《がな》しかった。明日の朝大門に会えると思うと胸が躍ったものだった。そしてその追憶は自然と娘の美子の上へ移っていった。
やはり俺の血が流れている。岸はいささか不謹慎な感じでそう思った。思春期のはじめの同性に対するあこがれなど、自分の経験から推してもたいして問題になるまいと多寡《たか》を括《くく》っていた。
美子はいまあの感情のなかにひたっているのだ。岸は微笑《ほほえ》ましくさえ思った。あの頃自分が大門に感じていたものは、男性だったのだろうか女性だったのだろうか。多分そのどちらでもなく、そのどちらでもあったのだろう。しかし大門はあきらかに自分を女性として見ていたような気がする。彼は庇《かば》ってくれた。優しく年下の者のように扱ってくれた。時には弱い者をいたぶって楽しむようにいじめてもいたようである。
岸はそんなことを考えながら中野区|白鷺《しらさぎ》の自宅へ戻った。
その夜おそく、岸は風呂に入り、妻の信子を呼んで背中を流させた。何ヵ月に一度かそういう夜があるのだ。いつの頃からはじまった習慣か岸はもう覚えていないが、それはそのあと夫婦のいとなみがあることの合図になっていた。信子は岸に呼ばれ、
「はいはい……」
と軽く言ってすぐ風呂場へ入ってくると、何の感情も示さず、洗濯《せんたく》や掃除をするときと同じような態度でタオルに石鹸をつけ耳の後ろあたりからわき腹、そして小さな木の台に腰かけている臀《しり》のあたりまで、平均した力で要領よくこすった。
「お湯をちょうだい」
石鹸のついた手を洗うために新しい湯を求めたとき、ください、と言わずに、ちょうだい、と言ったことだけが、信子の合意を表わしていたようだ。
信子は女として決して魅力にとぼしい方ではなかった。素材としては水準以上であろう。しかし彼女はものがたい、小さな社会のわくの中に完全に適応していた。信子にとって度の強い性技は無頼な心がおこす行為であり、こまやかすぎる愛情の表現は淫蕩《いんとう》に通じていた。信子と岸は年齢が三つしか違わず、ことにそういう方面にかけては信子の方がむしろ岸よりもうひとつ古い世代に属しているようなところがあった。従って閨房《けいぼう》のことも積極的に淡白であろうと努め、ほとんどとりみだすということがなかった。かといって禁欲主義者的では決してなく、それはそれなりにセックスを期待し愉《たの》しんでもいるようである。
どちらにしても、芳江に及ぶべくはなかった。岸にしてもかつて用いたことのない体位やテクニックをそういう信子の体にくわえてみる気もなかった。ただその夜彼が風呂場へ信子を呼んだのは明日への期待が大きすぎて、何か後ろめたく、申しわけないような気になっていたからである。
背中を流させたときのしきたりに従って岸が先に夜具の中に入って煙草をすっていると、すぐに風呂場から信子が湯を使う音が聞こえてきた。やがて信子は寝室へ入って来て湯上りの体を岸の隣りへすべり込ませた。岸が煙草をもみ消すと信子は肉づきのいい腕を伸ばして枕許《まくらもと》の灯りを消した。
その時になって岸は体力の温存を計算しはじめていた。過去のどの夜とも一致するように、余分に踏み外さないよう、岸はわずかに信子を愛撫《あいぶ》した後、かさなっていった。
性の歓《よろこ》びとはどうやら相対的なものであるらしい。それでも信子は充分にうるおっていた。すぐに喘《あえ》ぎだし、やがて重い物を持ち上げるときのように息をつめた喉声を発して、岸をきつく抱き締めておわった。まったく相対的なものであった。芳江という女を知ってしまった岸は、いっこうに熱中できず、しらじらとした気持で妻の体からおりた。果てなかったのである。信子は息をはずませながら用意していた紙で夫の体をぬぐった。そのとき岸はまだ屹立《きつりつ》していた。だが信子はそれについての意見や感想を口にするような女ではなかった。自分のセックスから目をそらすように夫のそれに対しても無意識に関心を消してしまうのである。信子はすぐ寝息を立てはじめ、岸はその妻をあつかましいかた太りの肉塊のように感じていた。
そして眠り、夜があけ土曜日になった。
14
土曜の午後でかけて帰りが夜遅くなることは金曜の夜のうちに妻に告げてあった。信子は岸が協会の仕事で出かけると思い込んで疑わなかった。Kホテルの場所を、岸は横浜市の地図でみつけておいた。その地図の記憶をたよりに行ってみると、Kホテルは横浜港の見える山側にあって、思ったよりずっと小さな、そして洒落《しやれ》た感じのホテルであった。
ソファーが二つ置いてあるだけの小さなロビーのつき当たりに短い大理石のカウンターがあって、部屋の番号が並んだ鍵棚《かぎだな》を背に、髪の白い太った老婆がその中に坐《すわ》っていた。
「岸といいますが」
そう言うと老婆は愛想よく微笑して、
「キーは先においでになったお客様がお持ちになりました」
と品のいい喋《しやべ》り方で答えた。
「二〇三号室です。その階段をお登りになって左側の廊下のいちばん外れです」
「どうもありがとう」
岸は軽く頭をさげ古びた赤い敷物を踏んで二階へ上がった。廊下は広く、並んでいるドアは大ぶりだった。かなり古い建物らしい。ドアのそばにチャイムのボタンは付いておらず、岸は二〇三号室の木のドアをノックした。二秒ほどしてそのドアが内側へ開いて、芳江のうるんだ瞳《ひとみ》が彼をみつめた。岸は黙ってかすかに頷いてみせ、中へ入った。岸が後手でドアを閉めると芳江はつま先立って抱きついて来た。長いキスをかわし息苦しくなった二人の顔が離れると、芳江は岸の手を引いて奥へ歩いて行った。
「いいホテルだな。こんなところにこんなホテルがあるなんて知らなかったよ」
「ここは連込みホテルの元祖なんですって」
「ほう、そうかい」
「ええ、戦前からそういうホテルとして有名だったんですって」
「なるほどねえ」
岸は改めて部屋の中を見廻《みまわ》した。そういえば品よくまとまってはいるが、壁紙は淡いピンクのバラの連続模様だったし、ダブルベッドのシーツもピンクのカラーシーツを使っていた。随所にそういった甘いムードを醸《かも》し出す趣向がこらしてあるようだ。
「だから、気にすることはないの。何をしても……」
芳江は照れたような、それでいて期待するような、複雑な微笑を泛べた。
「ここの人たちはなれているのよ。感じなくなってしまったんですって。少しぐらいの声では眉毛《まゆげ》も動かないそうよ。それにほら……」
芳江はドアの方へ足速に行き、
「ドアが二重になっているのよ」
と笑った。
「珍しいな」
廊下からドアを開けて入ると左側がバスルームでその前が狭い通路のようになっている。そしてその通路からベッドを置いてあるかなり広いスペースへ出る境に、もうひとつドアがついているのだ。これなら仮に廊下から踏み込まれても、すぐには情事の現場を見られないですむことになる。
「君は妙なところを知っているんだな」
「あら、それ皮肉かしら」
「とんでもない。これから君について大いに勉強しなくては」
「いやだわ、そんな言い方」
「いやがらんでくれ。俺は本気でそう思っている。俺ははたち代からずっと糞真面目《くそまじめ》な生活をしてきた。このあいだは言いそびれたが、正直に告白すると、結婚以来君がはじめてだったんだ」
「まあ」
芳江は目をまるくした。
「信じられない。だって……」
そう言うと芳江は欲情した目を岸に向けた。二番目のドアのところによりかかって後ろに手を廻《まわ》していた。
「そういうスタイルも似合うんだな」
芳江は衿《えり》の大きい、シャツスタイルの白い絹のブラウスを着ていた。下は焦茶《こげちや》のパンタロン。厚味とつやのある白絹のブラウスの肩のあたりの肉の薄さが、いかにも女らしく、岸は椅子《いす》から立って抱きしめに行きたいような衝動を感じた。
「あたしって、悪い女でしょう」
芳江はそう言いながら二番目のドアを閉めた。窓際へ行きカーテンも閉める。
「夜にしてしまうの。いいでしょう」
「それはかまわんがまだ二時だぞ」
「だってあなたは泊ってはいけないんでしょう」
「それはそうだが」
「お願いがあるの」
「なんだい」
「晩にステーキをご馳走《ちそう》してくださらない」
「いいとも。うまい店があるのか」
「このホテルの一階の向こう側がステーキ・ハウスになっているの。遠くからわざわざ食べに来る人もいるくらいよ」
岸は腕時計を見た。
「何時にする」
「七時か八時」
「よしそうしよう」
すると芳江は岸のそばへ歩み寄って、床の上へ横坐りになり、彼の左の腿《もも》に両腕をのせてそこへ顔をふせた。
「どうしてこんなふうになっちゃったのかしら」
「後悔してるのか」
「こんな気持になったのは久しぶり……」
岸は芳江の髪を撫《な》ではじめた。
「あたし、もっとちゃんとした女でいたかった。あなたのような人とこんなふうになるんなら」
「過去を言ってもはじまらんよ。俺は気にしてなどいない」
「あたしは気になるわ。いやでしようがないの。いろんな目に遭《あ》ってしまったわ。悪い女なの。汚れてしまった女なの」
芳江は低い声でつぶやくように言い続けた。
「あなたに愛してもらう資格なんかない女よ。駄目《だめ》な女なの。あたしをちゃんとした女のようには扱わないで。それでないと、あたしはかえってあなたに近寄れなくなってしまう。奴隷にして。あなたの奴隷にして。あなたに軽蔑《けいべつ》され、手荒く扱われた方があたしは気が安まるの」
いつのまにか芳江は顔を上げ重ねていた両手を離して、椅子に腰かけている岸の脚の間へ入り込んでいた。
15
岸は王のようにその椅子に坐っていた。両わきの腕木の端を手で把《つか》み胸をそらして坐っていた。それは傲然《ごうぜん》とした坐り方であった。芳江はその王に仕える奴婢《ぬひ》であった。彼女は王が椅子から立つことをよろこばなかった。彼女は王の椅子をめぐりながら、王の衣服を一枚一枚丁寧に剥《は》いでいった。天井の中央にある大きな灯りを消し室内に散らばった四つのスタンドのスモールランプだけにしたほの暗い光の中で全裸にされた王が、椅子に傲然と坐っていた。芳江はまだ服を着たままであった。踵《かかと》の高い靴《くつ》さえ脱いではいなかった。彼女はその高い踵をパンタロンの裾《すそ》から覗かせて、王の股間《こかん》にひざまずいていた。ひざまずいて、唇《くちびる》だけで王に奉仕していた。それ以外の部分では王に触れようとはしなかった。王の肉体は猛《たけ》り狂っている。彼女はうっとりと目を閉じ白く細い頸《くび》をゆっくりと上下させていた。彼女はときおり顔を右に向け、左に倒した。椅子の腕木を把んだ王は背筋を伸ばし胸を張り、顎《あご》を引いて彼女を見降していた。彼女は急がなかった、ゆるく、ゆるく、際限もなく頸を動かし続けた。昂《たかぶ》った王は、悦びを与えられるのみで、果てることを許されなかった。
「芳江……」
とうとう王が言葉を吐いた。芳江は顔を引き左手を王のそれにあてると、やっと唇を離して上目づかいに王をみつめた。王は相手の名を呼んだだけで何も言わなかった。芳江は唾《つば》を飲み込み熱っぽくささやく。
「判《わか》った……。悪い女なのよ」
自分の唾液で濡《ぬ》れそぼったものを、彼女は包むようにあてがった。掌《てのひら》で微妙にゆすりはじめた。二人はみつめ合っていた。掌は動く速度を増してゆく。
「悪い……女でしょう」
見つめ合ったまま、また芳江がそう言った。見つめ合ったまま、王は下唇を噛む。王の目に訴えるような光が生じた。芳江はその変化を読み取って掌の動きをいっそう早くした。王の右肩が急に動いた。芳江の腕の動きが止まる。王は芳江の手首をきつく握って彼女の動きを止めさせてしまったのだ。
「こいつ……」
芳江の手首をつかんだまま王は立ちあがった。把まれているので芳江も一緒に立ちあがった。
「いたい」
岸は芳江の左手首を背中へ廻させて、肩胛骨《けんこうこつ》のあたりへ押しつけるようにしていた。
「あたりまえだ」
岸は素早く芳江の手首を左手に持ち代えると、空いた右腕を彼女の体の前へ廻して引きつけた。
「いたい」
芳江は前よりずっと細く、ねばるような声で言った。
「生意気なことをするからだ」
岸はそう言うと白絹のブラウスの上から彼女の胸をつかもうとし、ブラジャーをしていたことに気付くと、がむしゃらにブラウスのボタンを外しはじめた。ボタンを外すとそのすそをパンタロンから引き抜き背中へ手を入れてブラジャーを外した。肩紐《かたひも》のないブラジャーは、ほんのわずかのあいだ彼女の胸にへばりつくようだったがすぐに外れて床に落ちた。
岸は芳江の手首を離すとブラウスの衿に両手をかけて引き降ろしざま、彼女の背中をトンと突きとばした。芳江は突きとばされて三歩ほど前へのめりダブルベッドに膝《ひざ》をぶつけてうつぶせに倒れ込んだ。
岸はそれでブラウスを脱がせたつもりであった。だが長袖のブラウスの袖口《そでぐち》が二重のボタンで止めてあってブラウスは肘《ひじ》のあたりまでめくれただけであった。
芳江は裸の背中をさらしてベッドに倒れている。
全裸の岸は素早く近寄ってブラウスを把み上へ持ち上げた。袖口のボタンで引っかかったブラウスは、芳江の両腕を後ろへ高く反らせることになった。
「ごめんなさい……」
そういう芳江の声は妖《あや》しいまでに甘かった。それは男の征服欲を燃えたたせる効果があった。
岸は我を忘れた。ブラウスをもみくちゃに丸めると、芳江の両手は後手に括られたようになった。事実、岸はそのブラウスで括ってしまおうとした。芳江はそれに抵抗するようにベッドの上でうつぶせのまま両肩をゆすったが、どういうわけか両手首の自由を得ようとはせず、下手人を演ずる役者のように、縛られた形を崩そうとはしなかった。
16
岸はベッドのすその方に立って、漠然《ばくぜん》と芳江の白い体をながめていた。我に返ってみれば、自分がそんなことをしたのが信じられない気分であった。
なんと芳江はそうされるための仕度をしてきていたのだ。
彼女は後手に括《くく》られ、二の腕のあたりへかなり太めの縄をかけられていた。
縄《なわ》。いや正確には紐《ひも》であろう。しかしそれは直径三センチほどもある太い縄であった。それは柔らかい布で作った三本の細紐から成っており、ロープのようにその三本が撚《よ》り合わされていた。きつく縛っても肌を傷つけず、見た目にはかなりものものしい効果があった。
ブラウスで仮りのいましめを受けたとき、芳江はその姿勢のまま衣裳棚《いしようだな》にある紙袋の中を見るように言った。言われたとおりにその紙袋を見ると三本の紐を撚り合わせた太い綱がとぐろを巻いているのであった。
岸はそのまがまがしさに煽られて猛り狂った。綱をわしづかみにすると残りをずるずるとひきずって芳江の傍に馳《か》け寄り、※[#「手へん+宛」]《も》ぎ取るように両袖のボタンを外すと、ブラウスを完全にはぎ取り、投げ捨て、その柔らかい綱で締め上げたのであった。
下半身はまだ焦茶のパンタロンをまとい、その裾がまくれ上がって踵の高い角張った靴を覗かせてベッドの上へ仰向けに転がった芳江は、どうかすると少年のように見えるのであった。しかしその胸は手荒いいましめを受けていた。左右の白い丘の頂は、幾重にも交錯した綱によって奇妙な方向にねじれ、歪《ゆが》み、本来あるべき形よりもはるかに強く、それが女体であることを訴えていた。
いましめを受けてからの芳江の瞳は怯《おび》えと、哀訴の弱々しい色に変わっていた。
「おねがい、乱暴にしないで」
岸はそれをはじめのうち一種の演技であると思っていた。綱を用意して来たことが、疑いもなく彼女のそうした嗜癖《しへき》を示していた。だから演技に違いないと思ったのである。
しかしそれはなかば以上本心から出た言葉であった。そのような加虐遊戯になれない岸は、おのれの異常な行動に興奮して、遊戯以上の力をこめてしまいがちであった。
「これ以上は、乱暴にしないで」
そんな風に芳江の言い方が微妙な変化を示したとき、岸はやっとそれに気づいた。
要するにこれは遊びなのだ。そう理解すると岸は奇妙な冷静さを取り戻《もど》した。ひどく興奮しているくせにどういましめれば女体がよりつややかに見られるか、何が芳江を悦ばすのか、それを客観的に考えはじめたのであった。芳江は岸の手で何度も解かれたり、いましめられたりした。いつの間にか芳江は全裸にされていた。綱はかなり長くどんないましめ方も自在であった。綱によって花芯《かしん》を隠すことを許されなくされた芳江は、泣くような声で岸に許しを乞《こ》うた。
しかし岸は許さなかった。芳江が羞恥《しゆうち》し許しを乞う言葉を吐くときは彼女がもっとも悦びを味わっているときであることが判っていたのである。花芯をあらわにされたとき芳江はもっとも激しく許しを乞うた。つまり彼女は最大の愉悦に身をゆだねていたのだ。
岸は花芯をもてあそんだ。そこはぬめりにぬめり、熱く熟《う》れていた。
岸は目撃した。芳江が胸を反らせて達するとき、それが痙攣《けいれん》するさまを。彼の手が女体に対してそのように圧倒的な勝利をおさめたことは一度もなかった。あの狂熱と冷静さの見事に入り混った感覚のなかで、岸は嵩《かさ》にかかり勝者のゆとりを持って芳江を翻弄し続けた。
岸はそのとき驚くほどたくみであった。芳江はと言えば、これはまた憐《あわ》れなほど脆《もろ》かった。二度三度……。芳江はいましめを受けたまま岸の指技に陥落した。陥落までの時間は見る間に短くなりはじめた。
「おねがい……」
芳江の言葉の意味が変化した。岸は需《もと》めに応じ、おのれをそこに臨ませた。浅い接触だけで白かった芳江の肌が見る見る桃色に染まりうわごとのように様々な言葉を吐きちらした。芳江は岸を愛しており、待ち望んでおり、おそれており、かけがえのないものとして大切にされているのだそうであった。芳江はその状態で、岸のごく軽い動作に屈した。屈している間岸は待たねばならなかった。待ったあと岸はさらにおのれを進めた。手足の自由を奪われた芳江は花芯の動きだけで岸をむかえ撃たなければならなかった。岸がついに断固とした行動に出たとき、芳江は白目を剥《む》いた。もう叫ぶこともなかった。最奥の愉悦が噴きだして岸に熱を感じさせ、あふれて流れた。岸が果てる少し前に、芳江は弛緩《しかん》し、岸はしばらくの間まったく抵抗のない眠ったような女体で悦しまねばならなかった。
17
勝利ほど男を酔わせるものはない。
岸は芳江によって、生れてはじめて男のよろこびを教えられていたとも言える。かたちこそ違え、芳江が悦楽の淵《ふち》に沈むたび、岸も悦《よろこ》びにうち震えていたのであった。
いましめを解かれたあと、芳江は岸の胸にすがりついて泣いた。岸はそれを、真に女が男を愛した時の形であろうと思った。
「もうあなたなしでは……」
生きて行けないと言う。
それは極めて月並な台詞《せりふ》であったかも知れないが、それだけに岸を有頂天にさせた。
「俺《おれ》ももうお前を離さん。おまえは俺の女だ」
「お願い、捨てないで」
二人とも、すでに燃え尽きていた。しかし心が熱くほてり、とめどなく愛の言葉を吐きつづけていた。
やがて二人は少し眠り、すぐ起き出して衣服を着けると、腕を組んで一階のステーキ・ハウスへ向った。
そこに大門が待っていた。
はじめそれは偶然のように思えた。だが実は、そのホテルこそ大門の秘密の愉しみの舞台だったようである。
顔を合わせた時、大門はニタリと無気味に微笑した。
「何だ、隅《すみ》に置けん奴《やつ》だな」
大門は褒《ほ》めそやすように言い、テーブルを共にするよう提案した。岸に否やのあろうはずはなく、大門とその連れの女と一緒に、岸たちは血のしたたるような肉を賞味した。
食事の途中、ワインが空になり、もう一本追加された。四人はほとんど均等にそれを飲んだ。
うまいワインであった。もちろんステーキも最高の味であった。食事のあと、大門は太い葉巻を岸にも与え、二人でくゆらしながらしばらく雑談をかわした。
「何時に帰るんだ」
席を立ってレジの前へ行った時、大門は伝票に手早くサインをしながら訊《き》いた。
「まだ二、三時間はいいだろう」
大門の出現で、岸は予定より少しホテルにいる時間を延ばす気になっていた。
「それなら俺の部屋へ寄っていけ。面白いものを見せてやる」
大門は岸の好奇心をそそるように言った。
「ほう……」
岸はあいまいに答えたが、内心大門の部屋へ行くことに期待しはじめていた。このあいだの晩、となりの部屋から聞こえた叫びを思い出したからであった。
言うなりに大門の部屋へついて行ったが、まだ人の寝た形跡のない巨大なベッドがあるだけで、何も目先の変ったものは見当らなかった。
「何もないじゃないか」
岸が言うと、大門はいきなり自分が連れていた女をつかまえて、乱暴にベッドへ抛《ほう》りあげた。女は悲鳴をあげてベッドの上にはずむ。
「この女が面白いんだ」
大門は少年の昔にかえったように、ふわふわと揺れるベッドの上へとび乗ると、奇妙な踊るような足どりで女のところへ行き、その着衣を剥ぎ取ってしまった。
彼女は髪を男のように刈りつめていた。芳江にくらべるとずっと骨ばっていて、中性的な感じであった。それに、大門でなくても軽々と扱えそうな華奢《きやしや》な体つきであった。
そのとき急に灯《あか》りが消えた。ドアのところでスイッチを切る音がしたから、その近くに立っていた芳江が消したに違いない。
まっ暗な中に立っていると、かすかに香水の匂《にお》いが漂って来た。それは芳江のものではなかった。
とたんに岸はうしろから羽交い締めにされた。驚いてそれを振りほどこうとしたが無駄《むだ》だった。相手の力のほうが遥《はる》かにまさっていた。
大門であることはすぐに判った。
羽交い締めにされた岸の耳朶《じだ》を、男の息が擽《くすぐ》っていた。
「おまえは俺と何度キスをした」
大門がささやくように言った。
「…………」
「言え」
大門の声は岸の心から何かを奪い去って行くようであった。
「言え」
「…………」
「言え」
岸はかすれ声で答えた。
「忘れた」
「思い出せ」
大門は暗い中で、背後から岸の耳朶を唇ではさんだ。言いようのない戦慄《せんりつ》が岸の背筋を駆けあがった。
その戦慄は、少年の日の記憶に直結し、まざまざとそれを思い出させた。
「思い出したろう」
大門が耳朶から唇を離して、岸の心理を見抜いたように言った。
「…………」
「もっと思い出せ」
耳朶を、襟首《えりくび》を、大門の唇が這《は》った。
これだ……。
岸はそう思った。遠い日の鮮烈な悦びが胃のあたりを中心によみがえっていた。
暗がりで、衣服の下で、岸はみるみる怒張した。するとそれを待っていたかのように、嗅《か》ぎなれない香気の主が、岸の服を剥ぎ取りはじめた。岸はさせまいと脚を動かしかけた。
「動くな」
大門が羽交い締めの力を強くした。肩のあたりに痛みが走った。そして岸は、その痛みよりも、大門の制止する声に体を痺《しび》れさせていた。
靴を脱がされ、下半身を露出させられた。少し萎《な》えかけた岸を、柔らかく含んだ唇があった。
「和子《かずこ》。最高によろこばせてやれ」
岸の前にひざまずいているであろうその女の名は、和子であった。岸は抵抗しようもなく昂りはじめた。和子は巧みであった。そして大門は強力だった。
岸は身動きもできないでいることに奇妙な安らぎを感じた。拒否することも許されないということは、拒否しなくてもいいということであった。
自己放棄、他力本願。……すべてはおのれの責任ではないのだ。
「俺たちが下で最後に飲んだのは、特別強力な媚薬入《びやくい》りのワインだ。俺もおまえも女たちも、今後はもうとめどがないのだぞ」
大門は耳もとでささやいた。
「あたしを縛ったのよ、この人」
芳江の声がした。
「芳江は悦んだろう」
大門はまた岸にささやいた。和子の唇がいったん離れ、それとは別に岸の足首を縛る手があった。感触から考えて、それはさっき芳江を縛ったのと同じ綱であるようだった。
「足を揃《そろ》えて」
芳江の声が下でした。
「言う通りにしろ」
大門が命じた。岸は彼の命令に従う為に生れて来たように感じながら、足を揃えた。
太く柔らかい綱が足首から臑《すね》、そして膝から腿へと巻きついて来て、太腿のあたりでとまった。結んでいるらしい。
「もう動けん」
大門はそう言い、腕を離した。芳江が立ちあがったらしく、すぐ上半身を裸にされた。
18
赤く薄暗い照明の中で、岸は巨大なベッドに仰臥《ぎようが》した芳江を見ていた。
岸自身は壁に倚《よ》りかかっていた。と言うより、立てかけられていた。あの綱が、彼の両手両足の自由を奪って棒のようにさせてしまっていたからである。
その前にひざまずいているのは全裸の和子である。ベッドの横に引き緊《しま》った裸体を見せているのは大門であった。
「おまえに本当の悦《よろこ》びを教えてやろうと思ってな」
大門は無表情に言った。
「なぜ教えてやろうとしているか、そのわけはおまえにも判っているはずだ」
大門はベッドに片膝をかけて言った。
「おまえは俺の初恋の相手だ」
大門は岸の股間を指さした。
「俺はそれを知っている。よく憶えている。女たちを知ったあとも、それをよく思い出した。おまえは俺のこの手ではじめての悦びを知ったはずだ。あの時に見せたおまえの美しい顔を、俺は一生忘れないぞ」