大門はベッドの上へあがった。
「これは俺のいちばん新しい女だ」
大門は芳江に触れながら言った。
「芳江をおまえに与えたのは、久しぶりに会えた俺の心づくしだったのだ。どうだ、堪能したか」
岸はこくりと頷《うなず》いた。その下で、和子がまた愛撫しはじめていた。
「おまえはあれからくだらない人生を歩んでいた。それはおまえをひと目見て判った。愚にもつかないものを恐れ、とるに足らないことに拘束されていた。ええ……いつまで生きる気だ。人間はすぐ死んでしまう生き物なんだぞ。女房や親類や勤め先の人間にどれほど信頼されようと、決して名誉なことではない。それはおまえが彼らにとって単に無害な存在であるというだけのことじゃないか。自分を悦ばすために生きたことはあるのか。あるまい。だがこれからは違うぞ。俺はもうおまえを離しはせん。俺と一緒に死ぬ日まで生きるのだ。この女の悦びを悦び尽し、自分が味わうことのできる悦びを味わい尽すのだ」
大門は心得切った様子で芳江を責めはじめていた。岸はついさっきまでの女体に対する自信が、粉々にうち砕かれるのを感じていた。大門はそれほど巧みだった。芳江はまるでころころとベッドの上をころげまわっているように見えた。
芳江は甘い声を発しはじめた。その声に応えるように、和子が本格的に岸の体に触れはじめていた。
大門は、実際に岸を教育しようとしていた。ありとあらゆる角度から芳江を侵し、すぐにやめてまた別の角度から侵して見せた。
芳江はたえずころころところがりながら、大門を迎え、しだいに嬉声《きせい》を高くして行った。
「神などおらん」
大門は叫ぶように言った。
「神がいたらこんなに命が短ろうはずがない。人間はすぐ死んでしまう。生れてすぐ死んでしまう。しかもこんな悦びを俺たちは持っている。いったいどうしろというのだ」
芳江は大門の体に白い脚をまきつけていた。心よりも体が、大門の岸に対する教育をやめさせたがっているのだろう。
「やめて、もういや……」
大門が彼女の中から逃げだすと、彼女は狂ったように喚《わめ》いた。
和子は慎重に岸を刺激し、暴発させないでいた。
もう岸にはそれがこの世のものかどうか、判らなくなってしまっていた。媚薬のせいか精力がこんこんと体の奥から湧《わ》きだして来るような気がしていた。
「大門……大門……」
おのれの愉悦を告げるかわりに、岸は友の名を叫んだ。
「あなた……あなた……」
それに応えるかのように、芳江は大門の体の下でそう叫んだ。
「岸……」
大門が喚いた。ベッドが激しく軋《きし》み、芳江の体が大門の下でガクガクと揺れた。
「きしいぃ……」
「だいもおぉん……」
二人は視線を粘っこくからみ合わせ、名を呼び合った。和子の頭が激しく動いていた。
「岸」
「大門」
最後に短く叫び合うと、大門の頬《ほお》に痙攣のようなものが走り、岸は口を大きくあけて息をつめた。
離れた二人が同時に吐いた。
目はみつめ合ったまま。
「岸、俺と死ね」
「よし」
二人は絆《きずな》を新しくした。
19
岸は相変らず実直に職場へ通っていた。その内部がまるで変ってしまっていることに気付く者はほとんどいなかった。
ただ、宮園悠子だけは岸の変化に気付いていた。彼女の目からは、近頃岸がひどく淋《さび》しそうに見えるのであった。
「露、という字の位置はこのあたりでいいのでしょうか」
昼休みに岸の部屋をおとずれ、色紙を出してそんな質問をした。
「ほう、熱心だね、君は」
岸は色紙を取って眺《なが》めた。
「山人の折る袖匂ふ菊の露、うちはらふにも千代《ちよ》は経《へ》ぬべし。俊成《しゆんぜい》か。なかなか上達したじゃないか。これならもうどこへ出しても恥ずかしくない」
「岸さんにそう褒めていただけると、とても張り合いが出ます。でも、まだ散らしかたがうまく行かないんです。いつまでもお手本通りでは、なんだか理屈がよく呑《の》み込めませんし」
岸はちょっと首を傾《かし》げた。
「そうだね。まあ露の字の位置はこれでいいとしても、全体が揃いすぎて味というものがない。たとえば色紙はこう持って、右からこう書いて行くものだろう」
「ええ」
悠子は岸のほうへ肩を寄せて頷いた。
「そうすると、一気にさらさらと書きあげた場合、左のほうの字は筆尻《ふでじり》が右へ寄りがちになるはずじゃないか」
「そうですわね」
「ところがこれはみなどの行もまっすぐ下へおりている。お稽古書《けいこが》きだからこれはこれでいいが、前に手本を置いてそれを見ながら慎重に書いたことはすぐに判るよ。自分の詠《よ》んだ歌だと思ってごらん。よく歌を理解して、その上で作者と同じ気分になって一気に書けば、散らしかたも何もない。味もおのずからあらわれるというわけさ。ここまで来たら、歌や字句の解釈の度合がきめ手になる。これから君はそっちのほうを少し勉強するといい」
「よく判りました。岸さんのおっしゃりかたが、あたくしにはいちばん納得が行くんです」
「そうだ、歌のことについてはいい人がいる。ちょっと君を連れて行くような場所にいる人物ではないが、一度会って見ないか」
「あたくしの行くような場所でないと言いますと……」
「なに、銀座のバーさ」
すると悠子は得意げに笑った。
「あたくしだってお酒くらい少しはいただけますのよ」
「ほう、これは驚いた。じゃあお伴《とも》願おうか」
「はい、そういうことでしたら、いつでも」
悠子はいっぱし世なれた風に答えた。
20
悠子はハイランドへ連れて行かれた。ハイランドはどうやら大門の金が出ている店らしく、事前に連絡すると、大門が悠子をそこへ連れ込むように指示したのだ。
「おまえの初舞台だ。俺は顔を出さないから適当にやって見ろ」
大門はたのしそうな声でそう言って電話を切った。
悠子はハイランドを一目で気に入ったようであった。
「本格的なバーなんですね」
他愛もなかった。
例の媚薬がすぐに与えられ、二十分もたたないうちに目を潤《うる》ませ、けだるげに溜息《ためいき》をついた。
「君は美人だ」
岸はありきたりの言葉をつらねた。
「君のような美人と、もっと若い時にめぐり会っていればなあ」
悠子はそれを恥ずかしがりもせず、うっとりと聞いていた。
「僕は家庭を築くことに失敗した男だ。もうやり直せない」
「そんなこと……」
悠子は潤んだ瞳《ひとみ》で否定する。
「今の僕は、君を眺めて暮しているだけなんだ」
岸は面白がって歯の浮くような言葉を並べた。そんな単純なひとことひとことで、悠子の心がガクリ、ガクリと大きく傾いて来るのが読みとれ、その脆さを楽しんでいるのだった。
あたくしも岸さんをお慕いしていたのです、という言葉を悠子が吐《は》いたのは、ハイランドへ入って一時間もたたない頃《ころ》であった。
「その男、今日は休みらしい」
スツールをおりてレジで勘定を払い、まるでそれを尋ねに行って来たように悠子に告げた。
「これから横浜へ君を連れて行きたいんだ」
「横浜でしたら……あたくし藤沢ですから」
ハイランドを出ると、悠子は岸の腕にすがるようにして歩いた。お互いの服地を通して、悠子の胸の膨《ふくら》みが岸の二の腕のあたりにはっきりと感じられた。悠子は肩をすぼめるようにして、自分から押しつけているのだった。
「車にするよ。大丈夫かい」
酔いのことを尋ねた。
「そんなこと、いちいちお尋ねにならないでください」
悠子は岸を押すようにして言った。
「有難う」
岸は声をつまらせるように言う。
「何もかも、すべて僕にまかせると言ってくれるんだね」
悠子は黙って歩きつづけた。その沈黙は明らかに肯定の沈黙であった。
タクシーの中で、悠子は頭を岸にもたれかけさせていた。清潔な髪の匂いの中で、岸は悠子をかかえ込んでいた。
「こんな急に君とこうなるとは思わなかった」
岸は悠子の感情の進行具合を考えながら、さりげなく事態を確認させて行った。
「明日からもう、君は僕の恋人だ」
悠子はこくりと頷いたりしている。
あの媚薬は予想以上に強力だったようである。ホテルの前でタクシーを降り、小さなロビーの奥の大理石のカウンターへ向かいながら、
「僕の女になってしまうことを後悔しているかい」
と言うと、うらめしそうな目でみつめる始末であった。
それでも岸は、部屋へ入るとシャンパンを奮発して取り寄せ、乾杯させた。
「僕らの夜のために」
悠子は岸をみつめて一気に飲みほし、グラスを持ったまま、
「あたし、はじめてなんです」
と震え声で言った。岸はその震えが怯《おび》えのためではなく、期待のせいであることを見抜いていた。
「優しくする。とてもとても優しくしてあげる」
岸は立ちあがり、悠子にグラスを置かせると、床に両膝《りようひざ》をついてゆっくりと顔を近づけて行った。悠子は目を閉じ、それを受けようとした。
しかし、顔の位置は岸のほうが下であった。悠子は一度閉じた目をあけると微笑し、しばらく岸をみつめてから、顔を寄せて来た。
悠子が唇《くちびる》を授ける形になった。岸が受身一方なので、とうとう悠子は彼の顔を両手ではさみ、そのことでいっそう積極的になって唇を押しあてた。岸は気づかせぬ程度にゆっくり用心して唇を開いて行った。すると悠子は胸を反らせて岸の胸に触れたそうな動きかたをしたあと、急に深いキスにのめりこんで来た。唇を合わせたままためしに岸が上体を引くと、悠子はガタンと椅子《いす》からすべり落ちてついて来た。
もう意の儘《まま》であった。
立たされ、運ばれ、灯りが消えたのを意識するゆとりもなく、悠子は剥《は》がれ、撫《な》でられ、そして溢《あふ》れた。暗い中で抱きしめ、体を交えたまま動きを中断した岸が、
「君の裸を見たい。この夜の思い出に」
と言うと、すすり泣くような息と共に頷いた。
「灯りをつけるよ」
岸は断わってからスタンドの灯りをつけ、交わったまま上体を起して、
「床に立って欲しいんだ」
とせがんだ。悠子は焦点のぼけた目をあけて、微妙に腰を左右に揺らせた。多分いやだと言いたかったのだろう。床に立ってヌードを岸の目にさらすことより、岸と体を離すことを……。
岸はそれも見抜いていた。ゆっくりと体を離すと、悠子の肉感的な唇が、ひくり、ひくりと二度ほど動いた。熟《う》れ切ったその体は、もう登りつめる寸前だったようである。
悠子はもぞもぞと起きあがり、ベッドをおりた。おりる時、一度ふらりとよろめいたが、両腕を交差させて岸が示したベッドのすその床に立った。
「綺麗《きれい》だ」
岸は言った。悠子は早く彼の体の下へ戻りたがっているようだった。
「もうだめなんだぞ」
そう言うと、わけも判らずにまたこくりと頷く。その懸命な様子がいじらしく、
「おいで」
と岸は手まねきした。
戻って来た悠子は、すっかり思い切りがよくなっていた。かすかだが腰を反らせて岸を待っていた。
「おまえはもう俺の女だ。もうだめなんだぞ」
暗示をかけるように言いながら、再び岸がつらぬいた時、悠子は高い声をあげて下肢《かし》を硬くした。
生まれてはじめて、女の悦びを感じたのだ。岸はその反りぎみの硬直へ、衝撃を加えはじめた。長い優しい時間がおわり、悠子ははじめてにしてはひどく泥深《どろぶか》い淵へ墜ちて行かねばならなかった。
悠子は必死に喚いていた。先を曲げた十本の指が空を掴《つか》み、すぐ岸の背中があることを悟ってそこにしがみついた。
「悪魔……」
我に返った悠子が最初にささやいた言葉がそれであった。
21
岸の漁色の日々が始まっていた。まったく手当りしだいという他はなかった。
そうなると怖いものなしで、たいていの女は呆気《あつけ》ないほど簡単に彼の手中に陥ちた。少し手ごわい相手は大門が力を貸してくれた。
岸は性についての約束ごとがいかにくだらなかったかを思い知った。人間の体はそういうよろこびを得るように出来ているのだ。かつて、そのよろこびの生理的なメカニズムは、種の存続のために成立し、存在したことであろう。
「もともとセックスは苦痛のはずなんだ」
大門はある時そう言った。
「苦痛では人も獣も、いや鳥も魚も花も木も、アメーバのような下等な生き物でさえ、それを拒否するに違いない。そこで快楽が必要となるのだ。苦痛をごまかすために」
「セックスは本来苦痛なのか」
「そうさ、考えてもみろ。自分の生命を他に移すんだぞ、麻酔もない時代、自分の皮膚を他人に移植することは、苦痛でしかあり得ないだろう。人間の痛みをやわらげる、あるいはなくしてしまう技術が現われなければ、皮膚などの移植を実用として考える人間などいはしなかった。移植すれば最も愛するものが救われると判《わか》っても、移植を神が許すとは思わなかったろう。それは苦痛のせいだ。苦痛があるから移植の発想がないのだ。夢のような話として移植を考えたとしても、そこに神の存在をおくことによって否定してしまっていたのだ。それと同じことだ。移植でさえそれだからおのれの生命を他に放出しあるいは、異質な他人の生命をおしつけられることは苦痛でしかないはずじゃないか。例えばアメーバが最初の分裂をしたとき、アメーバは苦悶したに違いない。不思議な力で体を引き裂かれたのだからな。がそれでは次の増殖はできない」
「アメーバにも快感があるとそう言いたいのか」
「そうだ。彼らが何らかの快楽を得ていないと言い切れるか。自分自身のことを考えてみろ。おまえは種の保存のためにセックスをするのか。そうではあるまい。セックスにはまず快楽があり、次にそれを求める欲望がある。快楽をめざして欲情し、快楽を得るのだ。子供に小遣をやって使いに行かすのと同じ理屈だ。どこかで苦痛と快楽がすり変っている。セックスとは、その一回一回が小さな死ではないのか。たしかにセックスは一回ごとの死だと俺はそう思っている。死とひきかえに快楽を得ている。昔のモラリストたちが快楽を否定したのはたわけたことと言う他ない。それならば死をも否定しなければなるまい。セックスの快楽と死は同じものではないか」
なぜ大門がそんなことについて多弁になるのか岸にはよく判らなかったが、つき合えばつき合うほど大門の享楽の仕方は度が外れており、ことセックスに関しては変質症的であった。
最も顕著なことは、女に対して大門が特定な好みのタイプを持たないことであった。Kホテルで彼らに奉仕した芳江と和子にしてからがまるで違ったタイプであった。ひとりはしなやかでひとりは骨張っていた。
しかし、その程度のことなら別にとりたててどうということはなかった。芳江と和子もそれなりに美しかったし、似たような年齢でもあった。
岸が大門の異常な性格に気付いたのは偶然彼があるホテルに女を連れて入るのを目撃したときであった。初め岸はそれは大門のセックスの相手だとは思わなかった。なぜならそれは大門が経営している、神秘社という出版社のあるビルの掃除をしているおばさんだったからである。
どんな事情があるか知らないが、あんな年になるまで体を使って働かねばならないものか。娘や息子たちはいないのだろうか……。そう思ったことがあってよく憶《おぼ》えていた。
ところがそれからしばらくして大門がこんなことを言った。
「女はいくつになってもやれるものらしいぜ」
岸はその時反射的にうす汚ない白髪まじりの女を連れてホテルに入ってゆく大門の姿を思い出していた。
「なぜそんなことまでする」
岸は腹立たしそうに言った。すると大門はせせら笑い、
「俺が婆さんを抱いてみたことが、なぜおまえに判った」
「いまそう言ったじゃないか」
「まあいい。俺がただ楽しみのためばかりで女漁《おんなあさ》りをしていると思っているのか。おまえらとはわけが違う」
「何にせよほどほどにするがいい。若い女ではもう感じなくなってしまったのではないのか」
そう言うと大門はのけぞって笑った。
その話はそれまでになったが、岸だってあまり大きなことは言えなかった。悠子を色したたかな女に育てあげようと教育する一方で、協会の書道クラブの女たちに片っ端から手をつけていた。それが岸にとって何を意味するか考えずとも判っているが、目の前に呼べばついてくる若い女の体を見ると、自制するのもわずらわしく誰《だれ》の次に誰をするという計画のようなものすらなしに、手当り次第抱いてしまったのである。
どうもそれは居直りとも少し違うようであった。いままで自分を規制していたものをひと思いに取りはらってしまったあとでは、思い切り自由で闊達《かつたつ》な視界が拓《ひら》け、自分でも両肩のあたりに精気のようなものが立ち昇っているらしいのを自覚できた。
協会の風紀は一度に乱れた。そのあっ気ない乱れ方さえ岸には快《こころよ》かった。それは取るに足らないものにとらわれて、かたくなに胸をおおっている若い女を、放恣《ほうし》な欲望に身をゆだねる女に変えてしまうこととよく似ていた。
岸は何食わぬ顔で悠子を連れ、もう一人の新しい女と一緒にホテルへ乗り込むことさえした。
「悠子は帰れ」
どちらを帰してもよかったが、岸は悠子をいたぶってみたかった。案の定悠子は泣き出した。それを見てもう一人の女も岸を非難した。
「あなたがこんなひどいことを言ったりしたり出来る方だとは思ってもいなかった……」
同病|相憐《あいあわ》れむ心理か、岸の前で二人はさめざめと泣き合った。岸は黙ってその二人の肩に手を置き、なだめるふりをして両わきにかかえ込んでしまった。
ほんの思いつきだが、悠子を二対一の遊びに慣れさせてみようと思い立ったのであった。新しい女の方はまんまと岸の術中に陥って肌《はだ》をさらしてしまったが、さすがに悠子は服を脱ぎかけた途中でやめ、乱れた服装のままとび出して行ってしまった。
何とか岸がそれまで通りの生活を保っていたのはその時が限界であった。悠子は家族に告白した。ものがたい彼女の家族は激昂《げきこう》して協会へ乗り込んで来た。
すでに肚《はら》をきめていた岸は弁明を試みるどころか、相手をあざ笑って職場をとび出した。
あとの生活は大門が引き受けてくれることに決まっていた。彼はその夜媚薬を用いて妻の信子を乱れに乱れさせた。翌朝別れも告げずに妻と子と家を捨てた。
「こんなさっぱりしたことは生まれてはじめてだ」
大門に会った岸はそう言うと、本当に心から笑った。
22
大門と岸は、まったくよく気の合った仲であった。岸は大門がいまどの女に目を付けているかすぐ判るようになった。それが判るようになると、大門がなぜあらゆるタイプの女を試してみたがっているかも何となく理解できるようになった。
こういう生活をはじめるようになった当初はいざ知らず、いまの大門はセックスを楽しみたいために女を漁《あさ》っているのではないようであった。彼はセックスを見たいらしい。セックスが何であるか見つめずにはいられないらしいのだ。その意味では、大門ほど性に飢えている男はいないのではなかろうか。大門が求めているのはおのれの快感ではなく、他人の、わずかではあろうが一人一人異なった快感のありようを知ろうとしているらしい。その快感のありようは一人一人が持って生まれた体型の差、知能の差、感覚の差、生い立ちの差によって異なるのだ。大門が好みのタイプの女を持たないのは、その必要がまったくないばかりでなく、彼の目的から外れているからであった。
「おい」
岸が家を出てから三ヵ月ほど経ったとき、大門はひどく真剣な顔で岸に相談を持ちかけた。
「なんだい」
「おまえの女房を抱くにはどうしたらいいかな」
「くだらないな」
岸は即座にそう言った。
「あんな女はどうしようもない。君のような男が抱く必要のない女だ」
すると大門は疑うような目つきで岸を見つめた。
「いやがっているのか」
「とんでもない」
岸は大笑いした。
「本当にくだらんからくだらんと言っているんだ。でも君がその気なら手を考えてもいいよ」
「おまえの女房だからな。どうなっているのか知りたい」
大門は真剣であった。そして岸はおもしろがって計画を練った。
何と言っても永年連れそった妻である。いかに信子が腹を立てても、いかに世間の評判がひどかろうと、岸が密かに会いたがっていると言えばとんでくるに決っていた。だがいまの信子は恐らく危機意識の塊であって、セックスなどという問題については関心もなければ反応も示さないであろう。
「薬の力を借りるよりないな。それもあの飲み薬程度のものではだめだ」
「それならまかせておけ」
大門は自信たっぷりに言った。
快楽のためだけに女を抱くのではない。だから大門が抱くとき相手は意識を失っていてはいけないし、普段とまったく異なる精神状態に陥っていてもいけないのであった。
「そんな強力な薬があるのか」
岸は自分も利用しようと思って尋ねた。
「強い。正常な精神状態をそこなわずに色情だけを拡大してくれる。知り合いの学者が開発したんだが……少し副作用が強すぎてまだ……」
珍しく大門が言いよどんだ。
「かまわん。使ってくれ。そのかわり頼みがある」
「なんだ」
「拝見したい。慣れすぎ知りすぎて、俺ではどうにもならない部分がある。だが君なら遠慮会釈なく信子をせめたてることができるだろう。いまとなっては手遅れだがどうすればよかったのかとっくりと拝見させてくれ」
岸は最後の夜の信子の乱れようを思い泛《うか》べながら言った。
23
信子はやって来た。彼女は大門の名を憶えていて、大門に同情されるとしだいに警戒心を解き、くどくどと愚痴を並べはじめた。
堅肥りの信子は苦労してもあまりやせ細りはせず、そのかわり以前よりいっそう世帯じみて見え、横顔にはとげとげしさが覗《のぞ》いていた。
「あんなのをよく抱く気になる」
仕掛のあるその部屋を隣りの部屋から覗いて岸は大門の旺盛《おうせい》な探求心に感心した。二人の間のテーブルにコーヒーが運ばれてきた。大門はことさらすすめもせず、黙ってミルクを入れたり砂糖を入れたりしてやっていた。そうしておいて大門が飲んでみせると話のあい間あい間に、信子もコーヒーを飲んだ。大門はだらだらと話を引き伸ばし、二十分ほどすると信子が額に手を当てはじめた。そしてすぐ貧血を起こした時のように椅子から滑り落ちて床に尻《しり》をつけた。
大門が使う薬は静脈へ注射しなければならなかった。大門は強心剤を打つと称してまんまと信子に注射をしてしまった。初めのコーヒーには目まいを起こさせる軽い薬が混ぜてあったのだ。女中たちの手で、とりあえずといった形に急いで床《とこ》がのべられ信子は遠慮がちにその上に横たわった。大門は信子を置いて部屋を出て行き、五分ほどして戻《もど》ってきた。
信子が横になっている夜具のそばにあぐらをかいてじっと信子を見つめていた。目を閉じて仰臥《ぎようが》していた信子はいつのまにか目を開けて、見つめてくる大門の目を見返していた。大門はまるで催眠術師のようであった。ゆっくりと手を動かして信子のこめかみのあたりへ近づけて行き、軽くそっと触れた。信子の顔に奇妙な安らぎの表情が泛んだ。稚く頼りなげな表情であった。大門の手は信子の顔の輪郭を一周し喉《のど》のあたりへ降りて行った。
ただそれだけのことであった。信子は起き上がると、横坐《よこすわ》りになって帯を解きはじめた。手速く正確に脱いで行った。なんと彼女は次々に帯や紐を解いて着物の袖《そで》を通しているだけのかっこうになると、大門の手を取って引き寄せたのである。大門がごろんと横になるともどかしそうに自分から大門の着衣を脱がせはじめた。
そのあとのことはまったく岸の予想外の展開であった。
「あの信子が……」
岸は呆然《ぼうぜん》としていた。
信子はなにもかも心得ていた。大門を吸い、くわえ、まるで男がするようにただあお向けに寝ている大門に対して様々な愛撫《あいぶ》を加えていたのである。信子は際限もなく大門を求め、かつて夫に一度も聞かせたことがないみだらな言葉を吐き散らして果てた。大門はとうとう一度も体を動かさなかった。
24
信子は急に死んだ。
どうやらあの薬の副作用だったらしい。
さすがに岸も駆けつけないわけにもいかなかった。彼は周囲の冷たい視線を意に介さなかった。
しかし葬儀が終わり一段落すると、何かすべてが終ったような虚《むな》しさを感じた。
「お父さん。また以前のようなお父さんになってくれるのでしょうね」
たった二人の姉妹だが、美子はその代表のような改まった態度で岸にそう言った。
「うん」
岸はあいまいに答えるわけにもいかず、美子の目を見つめて頷《うなず》いてやった。
「もうあの中学へは通えないの」
美子はそのことを不安がっているようであった。信子は夫に去られて生活の不安を感じていたから、美子に対してそんなことも喋《しやべ》っていたのだろう。
「安心おし。お父さんがちゃんとしてあげるから」
すると美子は、
「ああよかった」
と笑顔を見せた。だがその家に住むことは何かと不都合なのだった。娘たちのことを考えれば、信子の亡いあともその家に住み続けるのがいいのだが、岸に対する世間の冷たい目を考えると、それもかえって娘たちにいい結果をもたらさないような気がした。
そのことを大門に相談すると、大門は少し贅沢《ぜいたく》だがマンションの部屋がひとつ空いていて、岸が娘二人と暮すなら多分好都合だろうとすすめてくれた。
岸はまた二人の娘を背負わされて、いや応なしに生活の設計を考えねばならなかった。
大門は親の代からの土地を都内各所に持っていて、それを生活の基盤にしていた。神秘社とかその他の水商売関係とかは道楽のようなもので、岸が自分で金をかせぎ出さねばならないようになると、露骨に軽蔑《けいべつ》しはじめるのだった。
岸は大門があてにならなくなり、職を求めて毎日駆け廻《まわ》るようになった。大門はそれを尻目にあい変らず気が向くと手なずけた女たちを引きつれて遊び廻ったり、あるいは新しい女を求めて一人でどこかへ潜り込んでいったりしている。
職探しは職探しで、夜になるとやはり岸も大門の女たちと同じように彼のそばを離れることはできなかった。冷たくされても、あざけられても、一度わくを取りはらった性への欲求は抑えようがなく、大門のおこぼれをちょうだいしてかろうじて渇《かわ》きをふせいでいた。
「おまえは近頃|俺《おれ》の女たちに片っ端から手を出すじゃないか」
大門はそう言って冷笑した。
「何を言っている。君は俺の女房を殺してしまったじゃないか」
「おまえの女房……。おまえはあの女を必要としなくなっていたじゃないか。だいいち俺はあの時おまえの許可を得ているんだぞ」
「しかし殺してもいいとは言わなかったはずだ。おかげで俺は娘たちをしょいこんでしまった。女房が生きていればこんなことにはならずにすんだんだ」
「俺を責めている気か」
大門はそう言うと不機嫌《ふきげん》に黙り込んでしまった。
そんなことがあって岸は一週間ほど大門に近づかなかった。すると大門の店から逆に呼び出しがかかった。もともとけんか別れなどする気はさらさらないのだから、岸は喜んで大門の所へ行った。
「おもしろいものを見せてやる」
大門は待ちかねたようにそう言い、珍しく岸をせかせてある建物の中へ入った。それは以前大門がある女にやらせていた店のあとで、その女が大門に捨てられて以後閉鎖したままになっていたはずであった。
「空いたままにしておいてはもったいないから、ちょっと手を入れたんだ」
大門は元小料理屋だったその店の裏口から足音を忍ばせてそっと中へ入ると、調理場から女将《おかみ》が寝起きしていた部屋へ入った。
「この隣りが可愛らしい洋間に生まれ変っている」
大門は畳の上にあぐらをかき、楽しそうにそう言った。
「いったい何がはじまるんだい」
「おまえの驚く顔が見たいのさ」
「俺の……」
「そうおまえのだ。おまえは子供の頃俺とああいう仲だった。おまえにはどうやらそういう血が流れていたらしいな」
岸は何のことか判らず、それでもこのところ気まずかった大門と和解できるいい機会だと思い、調子を合わせてニヤニヤしていた。
「言っておく。おまえはもうとっくに俺なしでは生きていけない人間なんだぞ。そのことは判っているんだろうな」
その日の大門は久しぶりに岸に関心を集中してくれているようであった。
岸は大門と二人きりでいる場合、いつでも彼の言いなりだった。その点では大門の他の女と同じだった。大門が一人の相手にいつまでも愛情を集めている人間でないことは百も承知しているくせに、みんな大門の愛を求めていたのだ。そして岸もまた無意識のうちに大門の愛に頼り、大門の愛を求めていたようである。
「判っているよ。このあいだのことは悪かった。しかし俺も多少混乱していたんだ。こんなことなら子供などつくりはしなかったんだ。とにかくいまでは二人の娘の父親だ。しかも母親がないときている。やはり俺も人の子さ、娘たちを何とか仕合わせにしてやらなければならない」
すると大門はくすくすと忍び笑いをした。
「おまえの娘なら、結構幸福にやっているよ」
「なぜ……」
言葉の意味を解しかね岸は眉《まゆ》をひそめた。
「男と女の違いはあっても美子という娘はおまえそっくりだ」
「それはどういう意味だ」
「津山という美しい友達がいるのさ」
「あ……」
「知っているな、おまえ。美子はその子に首ったけさ。津山という子もおまえの娘が好きらしい。そしておかしなことにおまえの娘は可愛がられる方へ廻っている」
「どうしてそれを知っている」
「知らぬは親父ばかりなりだ。あんなに二人きりになりたがっているのを放っておけるか。このもの判りのいいおじさまがよ。おまえにあの子を叱《しか》る権利はないぞ、いまここでそのことは厳重に言っておく。おまえと俺がああなっていたとき誰かに小言を言われたか。俺もおまえも、誰からも何も言われなかった。おまえは俺の愛撫を受け、あられもなかったじゃないか」
「判ったよ。津山という子と美子とのことは何も言うまい」
「それでいい。それでいいんだ」
そう言うと大門は押入れの襖《ふすま》に手をかけ、するすると開けた。
押入れはなくなっていた。襖の向こうはじかに白い壁であった。そしてその白い壁にはちょうど坐っている二人の顔の高さあたりに窓が開いていた。
マジック・ミラーだった。向こう側が見える。マジック・ミラーの向こうはベージュの壁と小さな可愛らしい椅子とそして小さな冷蔵庫、小さな食器棚《しよつきだな》、小さな三面鏡、そしてベッド。
そのなかで、美子と津山と言うやや大柄な美しい娘がベッドの縁に並んで腰を降ろし抱き合っていた。
声は聞こえない。
だが二人が、愛の言葉に近いものをささやき合っているのは、はっきりと見てとれた。
もうずいぶん長い間その状態が続いているようであった。
「あの二人には天井の蛍光灯《けいこうとう》を消すことができないんだ」
大門は楽しそうにそう言った。
「見ていろ、もうすぐ我々の歴史が繰り返されるのだ」
窓の向こうの二人は互いに抱き合った手を離すとベッドからはなれ左右に別れた。左の隅《すみ》に津山という娘、右の隅に美子がいた。二人はそうやって別々な場所で服を脱ぎはじめた。お互いに背を向けあい、脱いではたたみ、きちんと衣服を積み上げてから振り返って向き合った。二人は微笑み合い、何か叫んだようであった。
二人は稚《おさな》さを丸出しにして競争するようにベッドへ飛びついた。毛布の下へ潜り込み、すぐ頭まで隠して激しく動き廻った。
ふざけているのだ。じゃれているのだ。
やがて二人の動きが急に止まった。そのまましばらく時間が経過し、やがて急に毛布の一部が跳ね上った。どちらかが息苦しくなって、毛布を跳ねのけたに違いなかった。
「もう立派な女だ」
大門はそう言った。
たしかにその通りだった。ことに津山という娘は美子の倍も豊かな胸をしている。
抱きすくめられているのは美子の方であった。美子は下になって唇を吸われていた。津山という娘はベッドの上に膝をつくと美子の頸筋《くびすじ》に唇をはわせ、そのまま下がってまだ丸味を欠いた美子の胸の頂きを吸っていた。
「こうされているのだぞ」
大門はささやくと、いつか暗闇《くらやみ》の中で羽交い締めにしたときのように、岸の頸筋に熱い息を吹きつけてくすぐった。
「あれを見るために部屋までつくったのか」
岸はそう言って立ち上がった。
「つまらん。少しもおもしろくない」
「自分の娘だと思うからだ。あれも女体だ。他の女と少しも変わらん。いまのうちはまだ相手が女だが、いずれ男に抱かれるようになる。それを欲するようになる。恋人も、妻も、娘も、孫も、みんな同じことだ。同じことの繰り返しだ。未来|永劫《えいごう》こればかりは変りようがない。みんな死だ。一回ごとの小さな死だ。それを積み重ねて本物の死に近づいて行く。聞いてくれ。俺は死ぬのが怖《こわ》い。なぜみんな死を恐れないのだ。毎日死を怖れずに生きて行けるのだ。俺は毎日が恐ろしくてしかたがない。必ず死ぬのだぞ。一秒一秒、一分一分、俺は死に近づいている。そのことを忘れることはできない。だのにおまえたちは平気な顔をして生きている。金だ、地位だ、名誉だ、仕事だ、遊びだ……いったいそんな図太い神経がどうして持てるのだ。俺にはとてもできない。死以外のことに目をそらすことができない。俺がセックスを追い求めるのは快楽を求めるのではなく、一回ごとの小さな死に魅《ひ》かれるからだ。まってくれ。行かないでくれ。俺はいま真実を告白しているのだ。俺は狂っているのか。死を忘れることのできない俺は異常なのか」