岸は言った。
「たぶん君は異常なのだろう。判り切っていることは考えない方がいいのではないのか。判り切っているからこそ忘れているのではないか。とにかく俺にはそんなことは判らん」
大門も立ち上がった。
「おまえは俺の親友だ。この先もそばを離れないでくれ。俺と一緒に死ぬ日まで、おまえは俺のそばで生き続けなければいけないのだ」
25
ひょっとすると、それは例の媚薬《びやく》の影響なのかも知れなかった。それよりずっと強力な、未完成の薬品だったとはいえ、信子を死に至らしめた薬と同系統のものなのである。
大門の健康は急速に悪化しているようであった。
大門の死が近づいている。
岸はそれを直感していた。大門はそれに必死で抵抗しているようであった。この世に存在するほとんどのセックスを見た彼は、津山という娘と美子の、稚く新鮮なからみ合いだけが、残された興味の対象であるようであった。
大門から悦びを与えられなくなった女たちは、しきりに岸にそれを求めるようになった。
媚薬を用いることもあったし、媚薬を用いないこともあった。組織とは言えないまでも、大門がつくりあげた淫蕩《いんとう》な集団の規模は想像をこえた大きさであったが、結果として徹底的に大門に仕込まれた岸は、見事にその役を果していた。
事実上大門は隠退しはじめており、彼にすべてをゆだねられた岸は、信子の死の前よりもいっそうたくましく女たちを支配しはじめたようであった。
大門は二人の少女におぼれ切っていた。
「結局あれがいちばん美しいのではないだろうか」
折りあるごとに大門はそう言った。
そんな大門を見て岸は同情した。津山という娘と美子の関係を看過《みすご》してやることは、大門に贈り物をすることと同じであった。
どうやら美子とその娘は毎日のようにあの秘密の部屋へ行って楽しんでいるらしい。そして精気を失った大門はやはり同じように二人の少女の愛し合う姿を見て楽しんでいるのだった。
大門の代理として多忙な快楽の日々を送っていた岸は、久しぶりに大門に会ってみようと思いたってあの秘密の部屋を覗ける場所へ訪ねて行った。
そっと勝手口から入り込んであの部屋へ行ってみると、案に相違して大門の姿がなかった。
不思議に思った岸が襖を開けて見たものは、全裸の大門にさしつらぬかれて悶《もだ》えている、すっかり大人びた美子の肢体《したい》と、美子の悦びをより大きくしようと大門に力を貸しているあの娘の姿であった。
当然予想するべきであった。津山という娘も、すでに大門の女になっているに違いない。二人は交互に大門に犯され、大門に悦びを与えているに違いなかった。
岸の心に奇妙な嫉妬《しつと》が湧《わ》いた。大門がそうするなら、まずその先に自分こそその権利を与えられるべきだと感じた。
たぶん岸も狂いはじめていたに違いない。大門とわが子のセックスを、血走った目で一部始終ながめていた岸は、彼らのからみ合いが終って大門がこちら側へ戻ってくる気配を示すと調理場へ隠れた。
大門は全裸のまま、脱いだ衣服をかかえて戻って来た。たぶんこちら側へ来てから体を清めるつもりだったのだろう。
だが岸は見た。大門の股間《こかん》が濡《ぬ》れ光っているのを。
岸の心が裂けた。大門がしたことを自分もしたかった。するべきだと思った。する権利があると思った。跳び出して行って彼らの間に割り込むことは簡単であった。なぜしない……。なぜできない……。見ている間岸はおのれをそう責め続けていた。だがついにそれははたせず大門が股間を濡れ光らせてこちら側へ戻って来てしまった。
あいつだけが。
嫉妬で岸は世界が赤くなったような気がした。
「そんなに見たければ見せてやる」
そう叫んで岸は跳び出して行った。素っ裸の大門に体をぶち当てていた。どの女のときにも味わったことのない、深い愉悦とともに、岸は大門の体を押し倒していた。聞いたこともない激しい音が聞こえた。調理場で無意識に把《つか》んだ柳葉包丁《やないばぼうちよう》が刃を上にしてふかぶかと大門の下腹部に突きささっていた。
突きさした包丁の柄を、岸は大門の体に押しつけるようにした。プツプツと岸の掌の下で何かがたてつづけに裂けた。
「大門。これが死だ。見るがいい」
そう言うと岸は包丁を真上へはね上げた。切先が弧を描き、赤い筋が大門の左の乳あたりまで一直線に走った。大門は仰向けのまま体を起こそうとした。
「見たい」
大門が言った。
右手に包丁を持ち左腕を使って岸は大門の背中を押して起こした。伸びた体がL字型に折れると、腹の肉がたるんで、ポコッと水音のような感じで傷口が鳴った。大門の膝《ひざ》から腿《もも》へかけてどす黒い血が一度にあふれしぶきをあげた。
「死ぬのか、俺は」
「そうだ、これがおまえの死だ。さわってみるがいい」
すると大門は両手を大きく裂けた腹の血汐《ちしお》の中へもぞもぞとさし入れ、
「死だ」
と言った。
「いい気持だ。死ぬのは、ほんとうは……いい、気持ち、なんだ」
大門は自分の腹に手を突っ込んだまま、カクンと頸を落とした。
「死は快楽……ほんとうか、大門。ほんとうなのか」
岸は包丁を落とし、夢中になって息絶えた大門の両肩を把み、激しくゆすりながらそう叫んでいた。
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幻《まぼろし》 町《ちよう》の女
店はいつもより閑散とした感じだったが、私は気にならなかった。このクラブ・リトリートはそう大きなほうではないが、銀座でも客筋がいいので知られていて、今夜はとりわけ極上の客ばかりが集まっていた。
私は入口の横にあるクロークの前で腕時計を見た。あと四十分で閉店の時間だった。もっともそれは手の空《す》いているホステスが帰るなら帰ってもよい時間という程度のことで、客が長居すればそれから二時間近くも閉店が延びることもまれではない。
キッチンのハッチから首を突き出して、コックの内藤が私に笑顔を見せた。
「オードブルを少し残して、あとはしまいますよ。今日は早そうだから」
私は頷《うなず》いた。頷いたときあごの先に蝶《ちよう》ネクタイが触れたような気がした。私は左手でタイの結び目を水平に直しながら客席のほうへ戻《もど》って行った。
「マネージャー、かわってよ」
ママの登岐子《ときこ》がすれ違いざまに低い声で言って入口のほうへ去って行った。雇われママだ。それも彼女は二代目で、まだ二年半ほどしかたっていない。
私は登岐子のいたテーブルを目で探した。一番奥の席の通路ぎわにスツールがひとつあいていて、テーブルにサワー・グラスが置いてあった。
私はさっき見た腕時計の針の角度を思い泛《うか》べながら、ゆっくりとそのほうへ歩いて行った。サワー・グラスにはまだ半分ほど飲物が入っていた。ママの登岐子のものだった。彼女はブランデー・サワーしか飲まない。それもブランデーはごく僅《わず》かしか入れさせない。飲《い》ける口だが店では酔いたがらない。ママだから当然だろうが、それにしてもちょっと御身《おんみ》御大切すぎる。本当に自分の店だったらもっと体当りで商売に励むはずだが、雇われだからどうしても踏み込みが足りない。今だって、閉店後の遊びに付合えと言われそうだったから逃げ出したに違いないのだ。家に子供がいるのだ。小学四年生。女の子だ。一度会ったが、綺麗《きれい》で可愛い子だった。それに三つ年下の恋人がいる。今夜はどっちの為だか知らないが、とにかく若手なみにはやばやと帰ってしまう気なのだろう。営業成績はまずまず順調に行っているからいいようなものの、自分がそれに大して貢献していない事実をもっとよく自覚するべきなのだ。
「どうも……おにぎやかですね」
その席の、壁を背にした客と目が合うと私はちょっとからかうような調子で言った。志村という医学博士だった。
「おう、本間。この女はいかんぞ。もう三回も中絶手術を受けとる」
「あら嘘《うそ》よ」
私は登岐子のいたスツールに腰をおろした。黙って志村の目をみつめている。素透《すどお》しのガラスのような目になっているはずだった。相手はそういう目を向けられると、何か答えを聞いたように思うのだ。
「ほらみろ、当ったろう」
「マネージャーはなんにも言ってないわ」
「あの顔を見れば判るさ」
私は素透しのガラスに色をつけた。となりの京子というホステスを意地悪そうに見てやる。
「あきらめなよ。先生には隠しても無駄《むだ》だ」
「やだ、あたしおろしたことなんてないわ」
私は微笑してサワー・グラスに目を移した。京子は冗談めかしてはいるものの、何パーセントかは本気で否定しているようだった。そのテの冗談を百パーセント冗談として受け流せる女と、今の京子のように冗談と判っていても自尊心が傷つく女がいる。世が世ならこんな所で酔っ払いの相手なんかしてはいないのにという思いが、いつまでたっても心の底にわだかまっているタイプだ。そして、そういう女に限って朋輩《ほうばい》同士の諍《いさか》いが絶えない。これはどうやら生まれつきのことで、いくらキャリアがあってもなかなか抜けるものではないようだった。
「ママのだけど、かわりにいただきます」
私はサワー・グラスをとりあげて客たちに言った。私の正面の志村が主賓格で、その左に京子をはさんで製薬会社の井戸専務、反対側に同じ会社の高木部長がいた。
「間接キッスか」
うんざりするような古臭いことを言って高木が笑った。私はひと口飲み、おやと思った。強《きつ》いのだ。ブランデーの量が登岐子のにしては入りすぎている。きっと先月来た新しいバーテンが作ったのだろう。きっちりワン・シャットいれたに違いない。多分登岐子は裏へ行ってひとこと文句をつけていることだろうと思った。そういう時に限って、たっぷりとママの貫禄《かんろく》を示してしまう女なのだ。
「ママはどうした」
志村が尋ねた。
「彼女は今夜は大変なんですよ」
私はできるだけ無責任な様子で答えた。
「ほう、何かあるのか」
「帳簿の……そうですね、高木さんのところのような大きな会社で言うと、監査っていうんですか。あれなんです」
「夜中にか」
高木が目を丸くした。彼らに取ってクラブの裏側のことなど、想像の世界のものでしかない。仔細《しさい》ありげに言えばたいていのことは通ってしまう。
「そうしょっ中あることじゃないんですが……」
私はちょっと言い澱《よど》んで見せた。
「ははあ、抜きうちだな」
志村がしたり顔をした。私は京子のほうへ視線を移し、お互いの立場を憐《あわ》れむような調子で言った。
「うちのママも雇われてる身ですから」
普通はそんなことは言わない。しかし志村たちは登岐子が雇われママであることをはじめから承知しているし、逆に内情を洩《も》らすような素振りで客の気分をよくするテだってあるのだ。
「なんだ、そうか」
志村はちょっと残念そうに言った。さすがに登岐子も抜け目がなく、誘われる前にぬけ出してしまったようだった。
「なあ本間。君は今夜あいているか」
志村が身をのりだし、わざとらしく声をひそめて言った。
「はあ」
「実は君とママを連れ出そうと思っていたんだ」
「それはどうも……で、どんなところです」
すると志村は急に背中を伸ばし、うしろの壁にもたれるようにして連れの二人を見るとたのしそうに笑った。
「それは言えんよ、なあ」
専務も部長も何やら得体の知れない笑い方をした。
「やっぱりママはよそう。ああいう所へ女を連れて行くのは悪趣味だろうからな」
「随分面白そうな所らしいですね」
私がそう言うと、志村は鋭い目になって言った。
「君がいくらこういう商売に明るくても、あそこは知るまい。後学の為だ、是非連れて行ってやる」
私は当惑した。ママなら途中で連れ出されてもかまわないが、マネージャーは閉店まで出るわけには行かない。しかし、志村はリトリートで現在最も重要な客の一人であった。何かうまい口実を見つけなければ、無下《むげ》な断わり方はできない。
「マネージャー」
折りよくうしろから呼ばれた。電話らしい。
「それはたのしみですね。どんな所を見せてもらえるんですかねえ」
私はそう言いながら席を立った。
「いいか、連れて行くぞ」
去りかける私の背中へ志村が念を押した。
電話ではなかった。登岐子がクロークの横にかくれるようにハンドバッグを持って立っていた。
「本間さん、ちょっと用があるの。あたし帰っていいでしょう」
やっぱりそうかと舌打ちをしたかった。登岐子は私がそういう気分になることを最初から予想していて、それでもなお言い分を通そうと、かたくなな表情になっている。何か言っても無駄は知れていた。
「ええどうぞ」
私は愛想よく言った。
「あら、優しいのね」
登岐子はそれでも拗《す》ねたようにからんだ言い方をすると、ドアを押して素早く外へ出て行った。クロークの女が私に肩をすくめて舌をのぞかせて見せた。
「中野」
私は部下の名を呼んだ。部下と言うより相棒と言うべきかも知れない。この商売では私より五、六年後輩に当たるが、頼りになる男だった。リトリートではマネージャー代理ということになっている。なかなかモテる男で、ホステスたちにはサブとかサブちゃんとか呼ばれている。名は常雄と言い、サブは副の意味なのだった。
「志村さんたちと出なければならないかも知れない。ママに逃げられたしな」
「大丈夫です」
中野は軽く頷いて見せた。
「金を少し貸してくれ」
私はレジをのぞいて言った。連れて行かれた先で客が白けでもしたら、次はこっちが案内しなければならない。レジは万事|呑《の》み込んでいて、素早く札《さつ》を数えて渡した。私はそれを内ポケットへいれ、志村たちの席へ戻った。
志村たちは車を持って来ていた。電話でその車を地下の駐車場から呼び上げると、私を連れて妙にたのしそうにリトリートを出た。そして車に乗り込むと意外なものをとり出して私に渡した。
国際線の旅客機の中などで使う、スランバー・マスクであった。
「すまんがこいつをかけてくれないか」
志村がニヤニヤしながら言った。
「目かくしですか」
私はちょっと薄気味悪く思いながらそれを眺《なが》めた。顔に当たる部分が黒い布になっていて、ゴムのひもがついている。それを目に当ててひもをかけると、何も見えなくなってしまった。
「君にも場所を教えるわけには行かんのだよ」
井戸専務が本気ですまなそうな声を出した。
「お遊びにしてはだいぶ念がいっていますね」
私は決して不愉快ではなかった。これも仕事の内だと思っていた。しかし、そんな念の入ったやり方で私をどこかへ連れて行こうとしている三人に、あまり好感は持てなくなっていた。運転していたのは色の白い女性的な感じの若い男で、多分井戸たちの会社の社員なのだろう。
志村は学者である。たしかに彼はひとつの分野の権威者であるようだった。十何年か前、彼は新しい薬を開発し、それが井戸たちの会社で大量に生産されて、長いあいだテレビのコマーシャルで名前を売りまくっていた。会社も志村も、それでたっぷりと稼《かせ》いだはずであった。しかし、二年ほど前から、その薬の副作用が問題にされはじめていた。勿論《もちろん》私などにそのような問題の詳細《しようさい》が判《わか》ろうはずもないが、志村が自分の後輩の学者を何人も抱き込んで、その薬に害のないことを証明する実験データを作らせていることはよく知っていた。井戸、高木、志村の三人が、そういう連中を連れてよく飲みに来ているからである。
しかも志村は、最初からその薬品について表面には出ていないのだ。実《じつ》は自分が取って、名は後輩に与えていたらしい。だからマスコミにもその件では志村の名は浮んで来ない。私は最近になって、ひょっとすると志村は最初からそのような問題が起きそうなことを知っていたのではないかと疑いはじめている。そして現に、世の中にはその薬害の為らしい患者が数多く苦しんでいるというのに、三人は以前にもまして豪勢な遊びを続けているのだ。
そういう男たちのおこぼれで暮している立場だから仕方がないが、あまりいい気分のものではなかった。
「これから行く場所は、実は以前から君に関係があったのだよ。だから連れて行ってやろうと言うのさ。君にはいろいろ教えてもらったからな。そろそろお礼をせんといかん」
志村が言った。
「僕が……。何か先生がたにお教えしましたか」
「ああ、いろいろ教えてくれたじゃないか」
車はのろのろと動いているようだった。多分|外堀通《そとぼりどお》りを抜けるのに手間取っているのだろう。とにかく、車の先が東京駅のほうへ向いていることは判っていた。
私が答えずに黙っていると、志村はそれを考え込んでいるという風に感じたらしい。
「女のことだよ。どんな女が本当にいい女か、君は例をあげてくわしく教えてくれたじゃないか」
「ああ、そんなことですか」
酒と女の番をするのが仕事である。毎日酒席に侍《はべ》るいろいろなタイプの女たちに接していれば、どんなタイプの女が男にとっていちばんいいか、自分なりに一家言《いつかげん》持つようになるのは自然のなりゆきであった。私はそれを、やや面白おかしく志村たちの座興に提供したにすぎない。
とは言うものの、よく考えてみれば、かなり詳細に自分の意見を述べていたようでもあった。
「ああいう話を、先生がたはお仕事で僕に喋《しやべ》らせていたのですか」
「そうだよ。高い酒をただ飲んでいたわけじゃない。いや、君ばかりではないんだ。いろいろな店で、君のような立場の男たちから女に対する見方を聞き出していたんだ。しかし、お世辞ではなく、君の言うことが我々には一番よく納得できた。いつも君が言っていたようなタイプの女がいたら、男はもう言うことはないという感じだな」
「ちょっと待ってください」
私はおどけたようにうろたえて見せた。
「たしかに僕は僕なりに、こんな女が一番いい女なのだということを先生がたに喋りましたよ。しかし、それは浮気とか遊びとか……つまり、そういう場だけのことです。実際にそんな女がいたとしても、僕がそいつと結婚するとは限りませんよ。そうですね、僕が言ういい女とは、せいぜい二年もくっついていればいいところで、女房ということになれば、理想の女はまた違ったことになります」
「それでいいのさ」
志村は笑った。車が左に曲がり、スピードを増した。桜田門の方へ行くな、と思った。
「まあ、とにかく着いたら判るさ。浦島太郎《うらしまたろう》ではないが、あけてびっくりと言うところだな」
それが高木部長の声に変った。
「ところで君は本当にいま独り身なのかね」
「ええそうです」
「奥さんがいたりすると気の毒だからな」
「なんで先生がたにそんなことを隠したりしますか。若い女の子なら話は別ですが」
すると三人は声を揃《そろ》えて笑った。
「実は、今夜は君にたっぷりとご馳走《ちそう》をしようと思っているんだよ」
志村が笑いながら言った。
「ご馳走……」
「そうだ。すばらしい女を君にプレゼントしようと思っているのさ」
「ご冗談を」
私はスランバー・マスクを取ろうとして、左どなりにいる井戸専務の手でとめられた。
「心配するな。君だって男だろう」
井戸はきつい声で言った。
「はあ……」
「据《す》え膳《ぜん》食わぬはなんとやらさ。あと腐れの心配もなければ病気の心配もまったく要らんのだ。勿論金も要らんよ。我々が世話になった礼をしようというのさ。こころよく受けてもらいたいな」
私は肚《はら》を据えた。
「嫌《いや》ですよ、私にいろんな恰好《かつこう》をさせて置いて、テレビかなんかの仕掛けで覗《のぞ》いてたのしもうなんて」
「そんな愚劣なことはせん」
志村はちょっと憤《おこ》ったように断言した。
「じゃあまあ、おまかせします。こうなれば俎《まないた》の上の鯉《こい》です」
すると志村は、フフフ……といやらしい含み笑いをした。車はたてつづけに右へ左へとハンドルを切りはじめていた。坂を登ったりおりたりする気配を感じたが、たしかなことは判らなかった。それに、意外なことを聞かされている内に、方角がまるで判らなくなってしまっていた。おまけに、井戸専務らしい骨ばって乾いた手が、私の耳に耳栓《みみせん》までつめてしまった。
方向感覚がすっかり狂ってしまっていて、車がとまったとき私はそこが中野か阿佐谷《あさがや》……ひょっとすると吉祥寺《きちじようじ》辺まで来ているかと思っていたのに、ドアがあいたとたん、汐《しお》の匂《にお》いが鼻をついて来た。
「海……」
私はスランバー・マスクの下で眉《まゆ》をひそめた。
「マスクはまだそのままに」
高木の声がした。
「いらっしゃいませ」
それに重なって柔らかい女の声が聞こえ、私の左手を湿った掌《てのひら》が包んだ。
「こちらへどうぞ」
女に手を引かれ、木の板らしいものの上を歩かされた。三人が私のそばを一緒に歩いているようだった。
建物の中に入った。それは靴《くつ》の下の感じで判った。板の感触から、柔らかいカーペットの感じに変ったのだ。背後で軽く空気が吹き出すような音がした。自動ドアが閉じたようだった。汐の匂いが消え、乾いたタオルのような清潔な匂いに変った。
「さて……マスクをとってやりなさい」
志村の声がすると、柔らかい手が私の顔に触れた。
マスクがとり去られたとき、私は目をとじていた。眩《まぶ》しく感じるのが判り切っていたからである。そして徐々に閉じた瞼《まぶた》をゆるめて行った。目の前に、白い肌《はだ》の感じのいい笑顔があった。
「お飲物は……」
その女が小首を傾《かし》げて尋ねた。そのうしろで三人がニヤニヤしながら私をみつめていた。私は女の問いを無視してあたりを見まわした。立派なシャンデリアが天井で光を放っていた。背の部分が極端に高い、ひどくゆったりとしたソファーが十ばかり、かなりの広さのフロアーに並べられていて、そのひとかたまりずつが柔らかい穴倉のような感じだった。
「さあ、こっちへ来て」
志村が先に立ってその円型の柔らかい穴倉のひとつへ入って行った。
「いらっしゃいませ」
私たちが席につくと、ひらり、ひらりと若い女たちがその穴倉へ舞い込んで来た。
「いいクラブだろう」
志村は得意そうだった。
たしかに、並外れて豪華にできていた。私にも文句のつけようがなかった。それに女たちも選《え》り抜きの美人ぞろいだった。しかし、そう驚きもしなかった。金をふんだんにつぎ込みさえすれば、私にだってその程度のことは楽にできそうであった。
酒が出て、少量だが贅沢《ぜいたく》きわまる食べ物が出て、女たちが精一杯のサービスをしていた。
「こんなクラブへお出入りをなさるようでは、とてもうちなどはかないっこありません」
私が閉口したように言うと、三人は得意げに笑い合った。
「ここは幻《まぼろし》 町《ちよう》一丁目さ」
「幻町……」
「そうだよ。これでも東京の中だ。だが、余程の人間でない限り、この幻町へは来ることができんのだ。向こうを見なさい。大物がずらりと並んでいるよ」
私は背もたれの高いソファーの間から、となりの席を見た。僅かな隙間《すきま》しかなかったが、閣僚級の政治家の顔が三つほど見えた。
私はピンと来ていた。汐風で判ったのだ。だいぶ以前にさる筋の客が冗談のように言ったことがあった。
「東京港の中にとほうもない歓楽街があるって言うぜ……」
私はそれを思い出し、さりげなく言ってやった。鼻づらを引きまわされたようでいささか癪《しやく》にさわっていたのだ。
「ここはやはり江東区になるのですか。それとも中央区……」
志村は驚いたように高木や井戸と顔を見合わせた。
「さすがだな。知っていたのか」
「いいえ、幻町などという名ははじめて聞きました」
空とぼけている。志村たちはそう受取ったらしい。
「本当にここははじめてか」
「ええ、本当です」
「この下はゴミだ」
志村は左の人差指で床を示した。
「その上に現代貴族のお遊び場があるわけですね」
私は褒《ほ》めそやすように言った。
「おかしなものでな、ここは水上署の管轄になっている。公式の地図にはまだ載っていない土地だ。都市計画図にならすでに記されているがね」
「つまり、銀座からすぐのところにある、幻の町というわけですね」
「方角を誤魔化そうと余分なまわり道をしたが、君のような人間には無駄だったようだな」
志村は苦笑していた。
「賭博《とばく》も女もここでは自由だ。重い責任を負って働いている人間には、こういう特別な息抜き場所が要るのさ。もっとも、我々ならそうでたらめもせんが……」
志村はそう言った。どこか弁解じみた言い方であった。
「この女《ひと》たちが、ですか」
私は席に侍っている美女たちを見まわして訊《き》いた。
「ああ、この子たちも君なら嫌とは言わんだろう。なあ……」
高木が女たちに言った。女たちはみなあいまいな微笑を泛べていた。
「好きな子がいたら指名すればいい。ここはホテルでもある」
女たちは志村にうながされて、一人一人私に名乗った。私は何だか白けてしまった。
「僕に提供するという例の話はどうなったのです。何かもっと特別なことのように思っていましたが」
「彼女たちでは不足かね」
「いや、そういうわけではありませんが、こういうことですと正直言ってそう意外でもないんです」
「そうだろう、そうだろう」
志村はまたニヤリとした。
「実は、ここには特別室があるのさ。君にそこでひと晩過してもらいたくて呼んだのだ。驚くなよ、そこには君が言っていた通りの女性がいる。多分君の理想の女性ではないかと思うんだ。ひと晩じっくりそこでたのしんでもらって、あとでくわしく採点などしてもらおうと思っているのさ。何しろ、その女性は我々の努力の結晶のようなものだからな」
「努力の……」
「そうだ。君はサイエンス・フィクションを読むかね」
「ええ、たまには」
「じゃあ、人間そっくりの姿をした機械について知っているな」
「人間そっくりの……ああ、ヒューマノイド・ロボットですか」
「ロボットというと、人はすぐ人間そっくりの姿をしていると思いがちだが、ほとんどの場合、そんな必要はない。いったい、ヒューマノイド・ロボットはどんな必要から発達して行くと思う」
「さあ、そういうことは苦手でして」
「ダッチ・ワイフさ」
「え……」
「それ以外のことで、人間そっくりの姿をしていなければどうにも都合の悪いことなどありはしないだろう。そうじゃないか」
「すると、僕にダッチ・ワイフを抱けというんですか」
「ヒューマノイド・ロボットさ。我々はあらゆる分野の専門家たちと協力して、それを作りあげようとしている。今夜君に提供しようというのは、その試作品だ。試作品と言ってもいいかげんなものではない。女性に対する君のイメージを、完璧《かんぺき》に近いほど採りいれたものだ。さあ、ついて来なさい」
いやも応もなかった。私は志村のあとについて、その建物の奥へ入って行った。
ルイ何世風とか言うのだろう。贅《ぜい》を凝《こ》らした寝室であった。私はその部屋へ送り込まれ、ぼんやりと突っ立っていた。
すると、かすかにどこかでドアがあく気配がして、衣ずれの音が聞こえた。そして、不意に絹のナイトガウンを着た女が私の前に現われた。
私はその顔を見て息を呑んだ。
「紹《しよう》ちゃん……」
紹子だった。紹子は悲しそうな瞳《ひとみ》で私をみつめ、ゆっくりと近付いて来た。
「今夜あなたが見えるって教えられていたの」
紹子は聞き憶《おぼ》えのある声で言った。
「俺《おれ》は……」
私は唾《つば》を嚥《の》んだ。
「俺はロボットに会うつもりだった。そう言われていたんだ。まさか……まさか君がそのロボットじゃあるまいね」
紹子はゆっくりと私の肩に両手をかけて来た。卵形の顔、柔らかい髪……それは私がひそかに惚《ほ》れ抜いていた女であった。
「よせ」
私はかたくなに紹子の手をふりほどいて一歩さがった。
「どうしてこんな所へ来てしまっているんだ。あれ以来、中野はすっかり陰気な男になってしまった。君らはあんなに愛し合っていたじゃないか。なぜ急に姿を消したんだ」
紹子は愁《うれ》いを帯びた目に優しい光をたたえ、白い人差指をたてて私の唇《くちびる》にあてた。
「何も言わないで」
「よせ」
私は華奢《きやしや》な紹子の体に押されるようにして後退をつづけた。
「以前からあなたが好きだったの」
「まさか。君は中野の恋人だ。中野は今でも君を待っているんだ」
「いいの。あたしはこの日を待っていたのよ。今までのことはみんな間違い。そして今夜だけでもいいの。お願い……」
紹子は私に倒れかかって来た。それは機械などではなかった。たしかに紹子だった。紹子を先に発見したのは中野だった。だから私はどうすることもできなかった。しかし、紹子こそ私の理想の女だったのだ。
私は紹子を胸に乗せたまま、押されてベッドに倒れた。
「中野のことはどうする気だ」
「中野……どうもしないわ。あなたが好きなの」
私は紹子に惚れ切っていた。どんな女を見ても、紹子より劣っているとしか思えなかった。独身を続けたのもそのためだった。中野と付き合い続けているのもそのためだった。また紹子は中野のもとへ帰って来るに違いない。友人の妻でもいい。せめて紹子のそばにいることができたら……。
それが今、私の腕の中に身を投げて来ていた。私は抵抗できなかった。私はすべてを忘れた。私たちは肌を合わせ、狂ったようにお互の体を貪《むさぼ》り合った。
「なぜこんなところへ来てしまったんだ」
狂乱の時間が過ぎたあと、私たちは並んで仰臥《ぎようが》していた。私の右腕は紹子の柔らかい髪の下にあった。そして紹子は、それっきり答えなくなった。
「紹子、どうしたんだ」
私は紹子の長すぎる沈黙に、彼女の頭の下から腕を抜いて体を起し、その顔をのぞき込んだ。紹子の白い胸はかすかに上下していた。胸に耳を当てると規則正しい鼓動が聞こえた。しかし、大きく開かれた目は、明らかにガラス玉であった。
「お前は……機械なのか」
私はつぶやいた。
「ロボットなのか」
私はのろのろとベッドをおりた。
「ダッチ・ワイフだったのかよ」
私は紹子の体をかかえあげた。ずしりと重かった。私はそれをさしあげはじめた。紹子のしなやかな体が私の頭上にあった。
「こん畜生め」
私は二、三歩踏み出してそれを壁へ叩《たた》きつけた。とたんにドアがあき、男たちがなだれ込んで来た。
「何をするんだ」
全裸のまま、私はうしろから羽交い締めにされた。
「ロボットだって言って置いたろうが」
志村の喚《わめ》き声が聞こえた。私にはもう理性のかけらもなくなっていた。ただ、あらん限りの力で羽交い締めからのがれると、手あたりしだいに投げつけ撲りつけ蹴《け》とばした。
「人でなし……」
私はそう喚きつづけていたようだったが、何かで後頭部を強く撲られて意識を失ってしまった。
その後私は志村たちと和解した。すべては彼らの作品がうまくできすぎていたためだった。志村たちは今でもリトリートへ機嫌《きげん》よく通って来るし、私も時々は幻町へ連れて行ってもらって、あの女を抱く。
しかし、中野には何も言っていない。中野はまだ紹子の行方を探しているようだ。そして私は、本物の紹子の行方を考えるたび、何か背筋の寒くなるものを感じてならない。
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最初の夢
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墓石《はかいし》でも新しいと気分がいい。
空は青く晴れているし、風はそよ風だし、まったくいいお墓参り日和《びより》。見渡すかぎり、ずらりとお墓が並んでいる。新しいお墓、古いお墓。でも、きょう、このうららかな春の日のお昼ちょっと前、お骨《こつ》の入った小さな白い壺《つぼ》を石の下に納めて、塔婆《とうば》って言うのかしら……よく判《わか》んないけど、薄べったい木の板に字を書いた奴《やつ》も、鉋《かんな》をかけたばっかりみたいにまあたらしくって、つまり、店開きしたてのお墓は、いまあたしが立って眺《なが》めてるお墓ぐらいなものだろう。
皆川家之墓、って彫ってある新しい墓石の前でお経を読んでるお坊さんは、若すぎて何だか貫禄《かんろく》がない。やっぱり坊さんは年寄りのほうがいいみたい。
墓石に彫る文句を、皆川家之墓ってすることにきめたのは四郎だった。でも、左どなりのお墓には、伊藤家代々之墓って書いてあるし、右どなりのには、先祖代々之墓とだけ書いてあって、苗字《みようじ》は墓石の前のお花やお線香をたてる小さな四角い石に横書きになってる。