でも上品ぶっていいくらしをしてる連中が、あたしたちを貧乏にした犯人なんだわ。
舘山百合子だってその一人よ。
あ、チャイムが鳴ってる。弁護士のとこからのお迎えだわ。行かなくっちゃ……。
畜生、なんとしても金をふんだくってやるぞ。敗けてたまるか。
「いらっしゃいませ。笹木先生のご用でいらっしゃったかたで……」
「ええ。川村と申します。お迎えにあがりました」
「お待ちしておりました。仕度《したく》はできております」
「ではどうぞ」
あたしはハンドバッグを持ってドアの外へ出ると、鍵をかけた。背の高い、ハンサムな、感じのいい男だった。
9
日比谷のでっかいビルの四階。やっぱり金をかけた贅沢な部屋だった。金文字の入った厚い本が、あたしをおどかすようにずらりと並んでいる。あたし、本には弱いんだ。字を読むとすぐに頭が痛くなる。
「まあ、そこへおかけください」
ガラガラ声だわ。それに脂ぎってる。いやらしいじじい。
「有難うございます。では失礼いたします」
「冷たい物を用意しましたが、それでよろしいかな」
威張ってやがる。金持にへばりついてる寄生虫のくせしやがって。
「はあ、どうぞもう、おかまいなく」
迎えに来てくれた川村という奴が静かに立ちあがってとなりの部屋へ何か小声で言った。きっと、ジュースか何かを持ってくるようにって命令したんだわ。
「みんな、あなたのことについては心配しとったのですよ。お母さんがあんななくなりかたをなさるし、お父さんも……」
舘山美津子は赤坂の狭い道を夜中に歩いてて、単車に撥《は》ねられて死んじゃった。小金井吉兵衛は自家用のビーチなんとかという飛行機に爆弾をしかけられて死んだ。どっちも犯人はまだつかまっていない。あたり前さ、四郎がそんなヘマをするわけがないよ。
「悲しいことは忘れることにいたしました」
か細い声でなくちゃ感じがでない。あたしは精一杯けなげに言った。
笹木はじっとあたしをみつめて頷いてる。目で判るわ。こいつあたしを信用してる。
「さすがだね」
笹木のじじいは川村って奴に言った。なんでこんなかっこいい奴が、笹木みたいなじいさんの下で働いてんだろう。名刺には弁護士って書いてあったけど、笹木の弟子かな。
「さすがは小金井社長の血をうけたお嬢さんだと感心しているのですよ」
今度はあたしに笑いながら言う。これだからやんなっちゃうんだよ。貧乏人は親が死んだって、そういつまでも泣いてくらしちゃいらんないのさ。食べなきゃならないからね。仕事で体を動かしてると、いつのまにかそんなことは忘れちゃうんだ。いやおうなしに、毎日の生活の中で忘れさせられちゃうんだ。金持はそれがないから、いつまでも悲しみつづけていられるらしい。贅沢だよ、どこからどこまで……。
となりの部屋から、あたしくらいの女の子がすきとおった飲み物を運んで来て、テーブルの上へ置いてった。サイダーみたいだ。
「今日お呼びしたのは、あなたの財産についてです」
「あたくしの……」
びっくりしたような顔が自然にできた。
「そう、あなたのです」
「あたくし、何も持ってはおりませんけど」
まあまあ、というように笹木は手をあげた。うまく行きそうね。
「わたしは飛行機事故でなくなった小金井社長の資産を管理しています。そして小金井氏はなくなるずっと以前に、きちんとした遺書を作成されていたんですよ」
「はあ」
眩《まぶ》しそうにじじいを見てやった。じじいはうれしそうだった。こんな奴でも他人をよろこばせる役はうれしいらしい。
「それが急になくなって……本来ならばもっと早くにお伝えするところなんですが、こういうことになると、遺族の間でいろいろ面倒な話が持ちあがりましてな。この川村とも相談しまして、万事|綺麗《きれい》にかたづくまで、あなたをこの問題から遠ざけていたんですよ」
道理でいつまでも音沙汰《おとさた》がないと思ったわ。でも、笹木は川村をたててるみたい。かなりやれる男なのかも知れない。
「あなたのようなかたを、欲にからんだみにくい争いにまき込ませたくなかったのですよ」
その川村があたしに言った。優しくて、しかも頼りになるという感じ。あたしたちのまわりには、こういう男だけは絶対いないわね。こういう男がかりにいたとしても、すぐ上へよじ登って行っちゃう。畜生、なんだか知らないけど妬《や》けて来ちゃった。
「有難うございます」
でも、あたしはいま、本番の舞台に乗ってるの。ピンと神経を張ってなくちゃいけない。だから、前後の筋をよく計算して、何だか判らないけどとにかくお礼を言った、という様子で頭をさげて見せた。
「全部おわりました。常子未亡人はじめ、登さん、三島さん、津田さんなどの遺族のかたがたや、ほかに一、二関係のあるかたがいらっしゃるが、これがみなさん多かれ少なかれご不満をお持ちでしてな」
笹木は気持よさそうに笑った。
「あなたを羨《うらや》んでいるのですよ。いや、憎んでいるかも知れん」
「まあ」
あたしは怯《おび》えた目で二人の弁護士を見た。
「ですから、ご忠告までに申しあげると、今後あなたはそういう、小金井家と関係ある人々に接触せんほうがおためです。あなたはあなたご自身の新しい人生をきりひらいて行って欲しいものです。わたしたちは二人ともそう願っています」
そんなことはどうだっていいんだよ。糞《くそ》じじいめ、早く結論を言えばいいのに。じれったいな。
「小金井吉兵衛氏の遺志により、あなたにこれだけの遺産がおくられることに決定しました」
笹木はそう言って、いとも無造作に一枚のひらひらした紙をあたしによこした。
一、十、百、千、万、十万、百万、千万、億……。
やった。やったぜ、こん畜生。ざまみろ、ばかやろう。
「あの、随分な金額でございますけれど」
辛いな、とぼけるってのは。
「現金で二億八千万。そのほかに土地が二ヵ所。もちろんこの一部は本来ならあなたのお母さんにおくられるものですが、そのお母さんはすでになくなっておられる。小金井氏の遺言状によれば、その場合はお子さんであるあなたに権利が生ずるようになっています。それにあなたご自身に対する分と合わせますと、これだけのものになるわけです」
「でも、ほかのかたがたに……」
申しわけない、というそぶりをした。笹木は笑いだした。
「それ相応のものは皆さん受取っています。別にあなたが気になさることはないし、だいいち小金井氏の財産というのは、もっとずっと巨大なものです。ご安心なさい」
あたしはなんとなく父ちゃんを思い出した。あののんだくれの糞おやじ。あいつが死んだって迷惑するばかりじゃないの。それにくらべると、小金井って奴はやっぱり凄《すご》い奴だったんだわね。デキが違うんだ、人間の……。
「今後、及ばずながらわたしたちがあなたのお力になりましょう。どういう人生設計をなさるにせよ、一番いい途《みち》を考えようじゃありませんか」
川村は笹木の言葉がおわるのを待っていたように立ちあがり、あたしに握手してきた。畜生、ジーンと来ちゃった。こういう男に愛されたら素敵だろうな。
10
札束をリュック・サックか何かにつめて、よいしょとかついで逃げだしたかったけど、実際はなかなかそうかんたんには行かなかった。
金はあちこちの銀行に分散して預けられ、金が金を生んであたしのくらしがいっそう安泰になるように取りはからわれてしまった。
それでも、四郎や高野たちには楽をさせてやることができたけど、やっぱり早いところ全部を思いのままにしてみたい。四郎たちもそのことではやいのやいの言って来る。
でも、あたしはまだ当分目黒のマンションを出ることはできない。舘山百合子の役をしつづけてなきゃいけないんだわ。
もう、そうそうとじこもってばかりいなくてもよかった。四郎とも気ままに会えるし、外泊だってしようと思えば問題なくできる。
もちろん、四郎ともうあれから何度も寝た。寝たけど、今までみたいに夢中にはなれなかった。あたしのどこかでもう一人のあたしがみつめてるみたい。
それはあの人のせいだ。川村さん。くやしいけど、いつのまにかあたしは彼を川村さんと、さんづけで考えるようになっちゃった。だって、四郎よりずっとすばらしい男よ。あたし、尊敬しちゃってる。何かというと日比谷の事務所へ電話して、ときどきはデートみたいなこともする。川村さんもあたしに少しは気があるみたい。……気があるなんて言っちゃ品が悪い。川村さんを侮辱してるみたいだ。そう、あの人はあたしを気に入ってくれてるし、ひょっとしたらそのうち愛してくれるかも知れない。奥さんがいるらしいけど、そんなことどうだっていい。あの人に抱かれたい。愛されたい。あの人の気に入られるなら、もっともっと、本当に、芯から上品な女になってもいい。一生舘山百合子でいてもいいのよ。川村さん……会いたいわ。
11
その川村さんからあたしに呼出しがかかったのは、金曜日だった。今日こそ、ひょっとしたら抱かれることになるかも知れない。キスくらいはされるかも知れない。
あたしはそういう予感がして、なんだかゾクゾクしていた。
川村さんは自分の車で迎えに来てくれた。
「どこへ連れて行っていただけますの」
あたしは訊《き》いた。でも川村さんは黙って車を走らせていた。あたしは幸福だった。どこだっていい。この人と一緒なら……。
でも、様子がおかしくなった。車はどんどんごみごみしたほうへ入って行くじゃないの。やだわ、あたしの古巣のほうよ。
荒川の土手へ登り、土手の下の駐車場でとまると、川村さんはあたしの手を引っぱって土手の上の道へ戻《もど》った。まっすぐに続いた土の道をどこまでも歩いて行った。
「ねえ、どこへおいでになるの」
「君の故郷だよ」
「あたくしの……」
ドキッとした。畜生、やっぱりバレてしまったのか。
「そう、皆川敬子のね」
「どなた……」
「君さ。お父さんは皆川金蔵。お母さんはなくなっているね」
「…………」
「ねえ君。嘘《うそ》はいずれバレる。犯罪者は結局破滅するんだよ」
「…………」
「しかし、いったいどうやってこの大芝居が組めたんだ。まるで奇跡だよ。舘山百合子を殺して、皆川敬子がそれと入れかわる。百合子と敬子はそっくりだから、それはやろうと思えばかんたんかも知れん。しかし、百合子の母と小金井吉兵衛をなぜ殺せたんだ。その二人を殺せば必ず君は莫大《ばくだい》な遺産がころがり込むと、なぜ判ったんだ。僕はそれが知りたい」
あたしたちは土手の上に立ちどまった。あたしの育ったスラム街が目の前にひろがっていた。
「教えて。どこからバレたの」
「君がクラスメイトの墓参りに行ったという嘘をついたからさ。だが、クラスメイトは誰も死んではいない。ハイヤーの運転手、管理人、そして小金井興産の小室という青年……。君はとるに足らない嘘だと思っていたろうが、嘘はそういうささいなところから崩れるのさ」
あたしは笑い声をあげた。これでもうおしまいね。
「高野という奴が話を持ち込んだのよ」
あたしは教えてやるつもりだった。
「知ってる。それも調べた」
「それなら、百合子に遺産がころがり込むのを知ってたわけが判ったでしょう」
川村さんは首を横に振った。
「高野の話が確実だという証拠はどこにもなかった。君らは夢のような話にとび込んだのだ。舘山美津子が小金井氏と約束をしたとしても、小金井氏がその約束を実行して、言うとおりの遺言状を書くとは限らない。女と男の仲のことだぞ。だが君らはそれを信じ込んで、三人の人間を殺した。そんなあやふやなことで、どうして三人も殺せたんだ」
判っちゃいないんだわ。こいつはやっぱり金持側の人間ね。
「夢だって何だっていいのよ。あたしたちはね、そういうものにつかまりたいのよ。一生に一度でも、そういう夢にすがってみたいのよ。死ぬこと以外に自分を救う夢なんか見られない連中の、そういう間抜けな願いなんて、あんたには判んないでしょうね」
「待てよ」
川村の奴が遮《さえぎ》った。
「この件は僕しか知らない」
じっと川村はあたしをみつめた。
あたしの目から、涙がポタポタと流れおちはじめた。
次に川村の言う台詞は、そのみつめてる目で判った。内緒にしてやるからわけ前をよこせ、なのだ。
ばか。ひとでなし。なぜ仲間になりたがるんだ。これじゃ、あたしの夢は……せっかくつかまえた、あたしの夢の中の夢は……。
畜生、みんなおんなじじゃないか。やっぱり、こんな世の中から、早くバイバイしちゃったほうがいいのか。
最初の夢がいちばん正しかったんだわ。
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窓辺の円盤
街が突然暗くなって、大きな雨の粒がパラパラと灼《や》けた舗道に黒い跡をつけはじめた。
あっちでもこっちでも、キャー、という娘たちの悲鳴がしていた。
青山通りから原宿の駅へ行くために表参道へ入ったばかりの戸川啓介は、ひどい夕立が来ると見て、いち早く雨を避ける場所を探していた。
日曜の午後であった。
啓介のいる位置から眺《なが》めると、ゆるい下り坂になった並木道の両側で、若い男女が右往左往しているのが見えた。彼の右脇《みぎわき》を、白い服を着た二人連れが坂の下のほうへ駆け抜けて行った。
「いやーん……」
背のひょろ高い青年と手をつなぎ、引きずられるように前のめりに走って行く娘の甘ったるい声が啓介の耳に残った。
だが啓介はそれどころではなかった。明日の朝一番に印刷所へ渡す、ポスターカラーで描いた絵を持っていたのだ。その絵は薄茶色の大きな封筒に入れてはあったが、一滴でも雨に当てればだいなしになってしまう。
左手は古い石垣《いしがき》で、それが切れたところに細い横道があった。啓介は大きな封筒を胸に当て、上体を折るようにしてその横道へ入った。
よく通る道だからなんとなく見憶《みおぼ》えていた。たしかその横道へ入るとすぐ、石垣をえぐった小さなガレージがあったはずである。
角を曲ると記憶どおりガレージがあった。多分その石垣の上の家のものなのだろう。最初のひと粒が落ちて来てから、啓介がそのガレージへ着くまでに、ものの二分とたっていなかった。
だが、着いた時にはもう激しい雨がバシバシと音をたて、舗道にしぶきをたてはじめていた。
啓介が見るともなく見て記憶していたのは、古い石垣に口をあけた、車一台分ほどの幅の小さなガレージであった。そこにいつも白塗りの洒落《しやれ》たスポーツカーが駐《と》めてあり、ナンバー・プレートは青地に白数字の外交官ナンバーであった。啓介はそのナンバー・プレートの一番左に書いてある「外」という字を、はじめのうち外交官の外だと思い込んでいて、会社の先輩にそれは外交団の外だと教えられたから、特によく記憶していたのだ。
だが、そのときガレージの薄いグリーンのシャッターは、半分ほど引きおろされていた。上体を折り、腰をかがめるようにしてガレージにたどりついた啓介は、なかば閉じかけたシャッターの下からのぞいた、青地に白数字のナンバー・プレートを見ながら、シャッターの内側へもぐりこんだ。
ガレージは暑くてうす暗くて、それにガソリン臭かった。しかしここなら絵を濡《ぬ》らす心配はなかった。啓介はほっとして封筒を体から離し、中の絵が無事であることをたしかめた。さいわい濡らさずにすんだが、胸に当てて抱いて来たので、少ししわが寄りかけていた。啓介は用心深く封筒をまっすぐにのばし、白いスポーツカーのフロント・フードの上に置いた。
雨音はいっそう激しくなっていた。閉じかけたシャッターの下から、白い靴《くつ》やサンダルをはいた足が駆けているのが見えたが、誰《だれ》もそのガレージへ逃げ込むことには気がついていないようであった。
すぐに、ガレージの前を駆け抜けて行く者もいなくなった。舗道に叩《たた》きつける強い雨のしぶきが、啓介の足もとへも霧のように入りこんで来ていた。
遠い雷鳴が聞こえはじめ、それが二つか三つあとには、びっくりするような近さになっていた。
この位激しく降るなら、そう長くは続かないはずだ……。啓介は白いスポーツカーと乾いたコンクリートの壁の間に立って、そう楽観していた。
たしかにその雨は典型的な夏の夕立で、激しく降ってさっとあがるはずであった。啓介は気味が悪いほど暗くなった外の舗道を眺めながら、赤く染まった今日の夕焼け空を思ったりしていた。
と、いきなりシャッターをくぐって白いものがとび込んで来た。啓介がはっとした時には、その白いものがキャーッという叫びをあげ、それとまったく同時に、頭の真上で烈しい雷鳴がとどろいていた。
若い女の子だった。
その子はシャッターをくぐるときかがめた姿勢のまま、ガレージの入口の壁に額を押しつけるようにして、顔に両手を当てていた。
「もっと中へ入らないと濡れるよ」
雷鳴のあと、すぐに啓介はそう注意してやった。注意してやったというより、相手をびっくりさせまいとしたようであった。
啓介の声に、その子は顔に当てた両手を外し、ふり仰いだ。
「凄《すご》い雨だね」
変に警戒されるのが嫌《いや》で、啓介は自分もそこで雨やどりしているのを強調する言い方をした。
そのとたん、ピカッと青白く光った。その光りようと言ったら、まるでガレージのまん前で何かが爆発したような感じであった。
キャーッとも、アーッともつかない叫びをあげて、その女の子がとびあがった。啓介はその子に肩から突き当たられて右足を半歩ひいた。
雷は光と音の間隔がひどく短くなっていて、啓介が女の子の体を胸に抱きとめるとすぐ、バリバリ、という轟音《ごうおん》で空気が震えた。
女の子は左手にハンドバッグを持っていた。バッグは白い服に合う夏物ではなくて、焦茶色《こげちやいろ》のショルダーバッグであった。右手には青い綿の帽子を掴《つか》んでいる。その帽子を掴んだ手が、ごく自然に啓介の左の脇の下に差しこまれ、手首を肩胛骨《けんこうこつ》のあたりに押しつけていた。髪はポニーテイルで、空色の小さなスカーフで束ねてあった。
啓介はなんだか小さな男の子に抱きつかれたような気がしていた。多分、乾いた髪の匂《にお》いのせいだろう。
音が去ってから少しの間、女の子は体を堅くしてじっとそのままでいた。それがやっと体を離そうと動きかけたとたん、ガレージの中へまた強く青白い光がとび込んで来て、今度は三度ばかり明滅した。
バリバリッ……。
啓介は顎《あご》をあげ気味にしていた。女の子の体をすっぽりと胸に抱き込んでしまったからである。ポニーテイルにした頭のてっぺんが、啓介の顎の先に触れていた。
その子は、啓介にしがみついていることに気づくと、
「ごめん……」
と言った。ごめーん、と長く伸ばした言い方で、いかにもこわそうに、細い声を震わせていた。
肩をすぼめ、見も知らぬ若い男にしがみついているのは心外なのだが、さりとてまたいつ雷が鳴るか判《わか》らないし……と言った様子であった。
啓介のほうも、胸を反らし気味にして体を堅くしていた。
ピカッ、バリバリッ、という空の騒ぎが急に遠のきはじめ、忘れていた雨の音が耳につきだした。
「雷って大嫌《だいきら》いなの」
その子は弁解するように言い、照れ臭そうに啓介から体を離した。
「この雨はすぐにやむさ」
啓介ははじめて正面からその子の顔を見た。ひっつめた髪の下に、丸くおでこがとび出している感じであった。眉《まゆ》は少し薄めで、目が大きかった。口もとは小さくて、外国の女優のような感じの、幅の狭いやや高めの鼻の形が印象的であった。
「このままやまなかったら大変ね」
女の子は半分おりたシャッターに向いてしゃがみ込み、そう言った。たしかにこの勢いで何日も降りやまなかったら、東京は水びたしになることだろう。
「急に降って来たものな」
啓介は答にならないことをつぶやいた。気がつくと、その子は道に向かってしゃがんだ膝《ひざ》のあたりに、うす青い色の綿の帽子を当てていた。それで撥《は》ねて来るしぶきをよけているらしい。
「帽子が汚れるよ」
啓介が言うと、その子は肩ごしに彼を見て、
「いいの。洗濯《せんたく》するんだもん」
と笑った。若い女の子なのに、啓介はそれを少しも意識せずにすんだ。……そんなことは珍しいのである。まだ二十四になったばかりで、これと言ったガールフレンドもいない彼は、いつも若い女の子のそばへ行くと異性を意識して堅くなるのだった。
「だって、かぶるんだろ」
それがなんとなくうれしくて、啓介は気安い口をきいた。
「これじゃかぶれないじゃ……」
女の子は左手を後頭部に当てて見せた。なるほど、空色の小さなスカーフで髪を束ねていた。
「変だな。かぶれないのに帽子を持って歩くなんて」
啓介はその子の横にしゃがみこんだ。
「もらって来たのよ」
「へえ、誰に」
「お店の女の子。昌代って言う子。凄いお洒落なの。お店へ気に入った品物が入るとバンバン買っちゃうの」
「お店って」
「ブティック。原宿の交差点のすぐそば……」
雨脚《あまあし》が急速に衰えて来ていた。
「ほら、もうやみそうだろ」
「そうね。風が涼しい」
「俺も原宿のほうへ行くところだったんだ」
啓介は女の子の頭ごしに手をのばして、スポーツカーのフロント・フードの上に置いた大きな封筒を取った。
「それなあに」
「イラストが入ってる。ポスターカラーだから、濡れたらパアになっちゃう」
「イラストやってるの」
「うん」
「広告の……」
女の子はいい勘をしていた。
「そうだよ。でもこれは俺のイラストじゃない」
啓介はそう言って、青山のマンションに住んでいる有名なイラストレーターの名を言った。
「知ってるわ。あの人よくこの辺を散歩するのよ。ねえ、そのイラスト、見せてくれない」
「いいよ」
啓介はたのしくなっていた。子供の頃《ころ》、友達とこんなことをしたような気がしてならなかった。その子は啓介がトレーシング・ペーパーをかけたケント紙を封筒から引き出すと、「わあ……」とうれしそうに言ってそのイラストを眺めた。
「あなたもこんなの描いてんの」
啓介は首を横に振りながらケント紙を封筒に戻した。
「俺《おれ》のタッチはこういうんじゃない」
「名前は」
「え……」
絵のことを訊《き》かれたのかと思った。
「あなたの名前」
「俺……戸川。戸川啓介」
「あたし市村久子」
市村久子はハンドバッグと帽子を左手に持ちかえ、右手を出して握手を求めた。乾いた小さな手だった。
雨はやんだ。
二人はガレージを出ると、雨あがりの並木道を下って行った。あちこちから、雨を避けていた若者たちが道に湧《わ》き出していた。
「日曜でも仕事なの……」
久子が言った。
「新しくできるアスレチック・クラブのパンフでね。遅れてるんだよ。だから」
「そう。うちのお店は日曜がかきいれ。休みは木曜日」
「デパートなみか」
「そう。ちっちゃいくせにね」
二人は声をあげて笑った。舗道はくろぐろと濡れていて気分がよかった。
「今日はきっと夕焼けになるな」
「そうね。空が晴れてれば、円盤が見えるかもね」
「円盤……」
「そうよ。このごろよく飛ぶのよ。きっとそのうち新聞なんかにも出るわ。だって、見たのはあたしばかりじゃないもん」
「へえ。一度見てみたいな」
「あら、夜になったらよく空を見てればいいのよ。うちの店長もこの間の晩、代々木公園のとこで見たって……。彼女と歩いてたらしいの。三十四でまだ独身」
「君はいくつ」
「今年成人式をしたわ。久しぶりに田舎へ帰って……」
「田舎って」
「弘前《ひろさき》のほう」
「俺は静岡さ」
「去年|御前崎《おまえざき》へ行った。知り合いのカメラマンの車にのっけてもらって。ファッションの仕事よ。見物するつもりで行ったら結構使われちゃったけど。ナナ・杉山なんかが一緒だったのよ」
久子は少し得意そうに言った。
「ナナ・杉山ならこの前うちでも使ったな」
「あら、そうなの。綺麗なモデルね。そうそう、御前崎でも円盤を見たわ。帰りが暗くなっちゃって……あれ、七時ごろだったかなあ」
「そんなにしょっちゅう円盤を見るのかい」
「変ね。見ない人はちっとも見ないのに。……それでね、この間のユリ・ゲラーのテレビのとき、あたしのお部屋にあった目覚しが動いちゃったの。二年もこわれてた奴《やつ》なのよ」
「儲《もう》けたじゃないか。修理代を払わなくてすんだんだろ」
啓介は笑った。
「うん。でも次の日帰ったらもうとまってたの。動いたとき、すぐにネジを巻いとけばよかったんだけど」
「それっきりかい」
「うん」
「ばかだなあ。折角《せつかく》動いたって言うのに」
「そうなの。あたしってそそっかしいのよ」
二人はもう何年も前から付き合っている仲のように、肩をならべて日曜日の人ごみの中へ入って行った。
それから啓介と久子が同棲《どうせい》するようになるのに、ひまはかからなかった。
会った日の夕方、彼らはさっそく渋谷でデートをした。そのデートの別れぎわ、翌日の晩に会う約束をしている。そして久子の次の休日である木曜日まで毎日続けて会って、木曜日の昼休みには、新橋にある啓介の会社の近くの喫茶店へ久子がやって来た。
その日啓介は口実を設けて三時頃早退し、日比谷にある小さな装身具の店で久子のささやかな買物に付き合ったあと、パンと国産のワインを一本と、なまのとうもろこしを二本買って東中野にある彼のアパートへ行き、結局そこで結ばれてしまった。
久子は若いデザイナーたちが集まって作った小さな会社に勤めている、洋子という同じ年の娘と一緒に千駄《せんだ》ヵ谷《や》のアパートに住んでいたが、それから毎日のように東中野へ泊りに来て、或《あ》る晩啓介に、
「そんなんなら一緒に住みなさいって言われちゃった」
と舌を出した。
「来いよ」
「来てもいい……」
「下のおばさんに話をつけといてやる」
「うん。それじゃ来るわ」
……話はかんたんであった。
寸づまりの六畳ひと間に少しばかりがらくたが増えて、そういう安アパートにはよくあることだから噂《うわさ》にもならなかった。
久子は人なつっこく、それまで啓介がろくに挨拶《あいさつ》さえしなかった隣人たちにも、
「こんちわ。となりへ引っ越して来たの。うん、彼と一緒」
などとすぐ親しくなって行った。
「戸川さんの彼女って、可愛い子だねえ」
一階の入口の部屋にいる管理人がわりのおばさんが、そんなことを言ったりした。誰も二人が正式の夫婦でないことをとがめたりはしない。アパートの住人は出入りが激しく、それがみな似たり寄ったりの暮しぶりなのである。
「やだあ……折角乾きかけてるのにぃ」
真下の部屋に住んでいるOLが大声で啓介たちに抗議すると、もう外出するときには着なくなったミニスカートをはいた久子が、窓の敷居を両手で掴み、上体を逆さにして、
「ごめんごめん」
と、しずくのしたたる洗濯物をかけたことを階下に詫《わ》びたりする生活であった。
二人とも、食べて行くのがかつかつの給料であった。……いや、かつかつでも食べて行ければよかったが、どうかすると給料日にはまだ十何日もあるというのに、両方の持金を合わせても千円以下ということがよく起った。
「そんなに無駄《むだ》づかいしてないわよねえ」
久子はそんなとき、自分自身を怪しむような顔で言うのだった。だが、それもごく短い間のことで、久子はすぐに屈託のない表情に戻《もど》ってしまう。
「なんとかなるわ。あたしには円盤ちゃんがついてるんですもの」
啓介は何のことか判らなかったが、とにかくそんな風に物事にくよくよしない久子を好もしく思っていた。
そして、結局なんとかなって給料日が来るのであった。
秋が去り、冬が来て、新年になった。
「憂鬱《ゆううつ》だなあ」
さすがの久子も、正月の三日になるとそう言って溜息《ためいき》をついた。
商店はみな閉っていた。映画くらいはやっているだろうが、特に観る気も起こらないし、だいいちそんなことは二人にとってこの上もない無駄づかいだったのである。
「敬子のテレビを買っとけばよかった」
となりの部屋から、寄席中継をやっているらしいテレビの笑い声が聞こえると、久子はくやしそうにつぶやいた。
去年の暮れに田舎へ引き揚げた友達がいたのだ。その子が白黒のテレビを買ってくれないかと久子に持ちかけたらしい。だが、万事につつましい久子は、
「テレビなんて、あたしたちにはまだもったいないわ」
と即座に断わってしまったのだ。
「しまったな」
久子が退屈し、退屈している以上になんだか淋《さび》しがっているようなのに気づいて、啓介は詫びるように言った。
「会社にポータブルのが三台もあるんだ」
「三台も……どうして」
久子が目を丸くした。
「だって、俺の会社は広告屋だぜ。テレビだって扱ってるもの」
「あ、そうか」
久子は頭に手を当てた。
「正月休みの間、借りて来ればよかった」
「そうね。……カラーなの」
「そうだよ」
「すてき。ねえ、これから借りに行こうか」
「だめさ。鍵《かぎ》がしまっている」
「ちぇっ」
久子は男の子のように言うと、しばらく黙って考え込んでいたが、急に押入れをあけて何かを探しはじめた。
「ねえ、あんた着物を着せられる……」
「着せるって、誰に」
「一枚だけ持ってるの。お正月だから着てみてあげようか」
「へえ、久子が着物着るの」
「古いけどいい着物よ。富田のおばさんにもらったの」
「富田のおばさんて……」
「やだ、弘前《ひろさき》のよ」
「知らないな、そんな人」
「あら、言ってなかったっけ」
久子は古ぼけた紫色の着物を引っぱり出して笑った。
「いけね……帯もなんにもなかったんだわ」
「着てみろよ」
「うん」
久子はナフタリン臭い着物をひろげて、セーターのまま袖《そで》を通した。
「長襦袢《ながじゆばん》なんていうのも要《い》るのね」
「そうさ」
「これ、こうやるのよ」
久子は着物の両脇をつまんで腰のあたりへたくしあげて見せた。
「そのくらい知ってるさ」
久子はそのまま前を重ね合わせ、窓のそばへ坐《すわ》り込んだ。
「匂うわ」
「何が」
「田舎の匂いよ。おばさんやおかあちゃんの……」
「ナフタリンだよ。ナフタリンの匂いさ」
啓介は否定したが、久子は頤《あご》を埋めて目をとじていた。
「よせ」
啓介が大きな声で言った。
「脱いじゃえ。早く脱いでしまっちゃえ」
啓介は憤《おこ》っていた。久子がびっくりしてそれをみつめた。
「どうして」
「やだよ。田舎なんて」
「あたしが思い出したから憤ってんの……」
「うるさい。早く脱いでしまっちゃえ」
それははじめての喧嘩《けんか》であった。いや、喧嘩とは言えなかったかも知れない。久子は啓介に呶鳴《どな》られて、ほんのしばらく脹《ふく》れっつらでいたが、いつの間にか着物をついていた折り目どおりに畳んで押入れへ戻していた。
そしてまた窓際へ戻ると、今度は窓に向かって坐り、戸を細くあけて、半曇りの白い空を眺めはじめた。
「円盤ちゃん、来ないかなあ」
冷たい風がその隙間《すきま》から吹き込んでいた。電気ストーブの赤く熱した管が、その風でときどき白っぽく色をかえた。
「円盤ちゃんごめんね。啓ちゃんがいるのに田舎なんか思い出しちゃって……」
久子はつぶやくようにそう言った。啓介はそのうしろへいざり寄り、同じように白い空を見あげて言った。
「なんだか、バラバラになりそうな感じだったんだよ。それだけさ。今度テレビ買おう」
「いいのよ」
久子は珍しく女らしい言い方で答えた。
「それより、寒くない……」
「平気さ」
「じゃあ、もうちょっと空を見てていい」
「いいよ。俺も見てる」
啓介は久子の肩を抱くようにして言った。
「円盤ちゃんを見せてあげる」
「来るかな」
「来るわ。こんな気分の時に呼ぶと、きっと来てくれるの」
「なんて呼ぶんだい」
「わかんない。声には出さないの」
「呼んでみな」
「いま呼んでるの。あたしの円盤ちゃんはちっちゃいのよ、とても」