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半村 良
魔女伝説
目 次
妻は窓あかりのように
描《か》きかけの夜空
謎は苔寺《こけでら》のあたりに
夜は真珠色に光って
絵の中の風も冷たく
冬の陽ざしの中で
うすけむりの女
玉露のかおり
降りつもる雪
奥能登の波
残雪の町に
若草萌ゆる
皐月《さつき》の海へ
海の上の風
涙は石鹸《せつけん》の泡に
緑つらなる
狙撃者は古墳のかげに
夜のぬくもり
よろこびの午後
静かな里へ
往《ゆ》き交《か》う便り
妻は窓あかりのように
妻は窓あかりのように
1
ふと思い出した。
蓼科《たてしな》高原のホテルの裏の林の中で、瑤子《ようこ》とはぐれてしまったことがあった。そこは遊歩道から少しはずれた所にあり、美しい白樺《しらかば》林に見えたので行って見たのだが、奥へ進むに従って樹影が濃くなり、深い森になってしまうのだった。
あれは結婚した次の年の夏だった……。邦彦《くにひこ》はそう思い、我に返った。自社製品である淡いブルーのスチール・デスクの上にレポート用紙が置いてあり、その右|隅《すみ》へ無意識にボールペンを当てて動かしていたのである。レポート用紙の上のほうには、会議のはじめ頃に書いた文字が幾つか並んでいる。
その部屋には、主として会議室用に開発されたRB90と言うタイプのデスクが二つ並べてあり、それを囲んで八人の部課長が、かなりゆったりした間隔で坐《すわ》っていた。
いま発言しているのは営業第二課の課長で、前期の支社や営業所の売上実績を分析し、各地の地方差を説明していた。そのとなりにいる営業部長が、しきりに頷《うなず》いているが、邦彦はすでにその説明を聞いてしまっていた。
ボールペンの先に付着した僅《わず》かなインクのかたまりを掃除するようなつもりで、漠然《ばくぜん》とレポート用紙の隅に線を引いていたのだが、いつの間にかその線から蓼科のホテルを連想していたのである。
ホテルは小さな人工湖のそばにあった。対岸へまわって眺《なが》めると、静かな湖面の向こうに白い建物があり、その背後に緑濃い山々が重なり合っていた。瑤子とはぐれた林は、奥へ進むと八子《やし》ガ峰《みね》の南斜面になるのだ。ほんのちょっと樹のかげに入っただけだろうと思っていたが、白い袖《そで》なしのワンピースを着た瑤子の姿はいっこうに現われず、五分もすると邦彦はたまりかねて探《さが》しはじめたのだった。
二十分、いや、四十分ほども探し続けた。子供じゃあるまいし……。はじめはそんな風に感じて腹立たしかったが、そのうち不安になって来て、瑤子、瑤子、と大声で呼び歩いた。
瑤子は邦彦が思ったよりずっと奥のほうへ入り込んでいた。そのあたりは下生《したば》えの雑草がからみ合うように茂っていて、うす暗い感じであった。
白いものがちらりと動いたのを見た瞬間、
「瑤子」
と邦彦は叱《しか》るように言った。瑤子は太い杉の木の幹に手を当て、梢《こずえ》を見あげていた。邦彦はその時のほっとした気分を思い出し、同時に回想を打ち切った。さっきから続いていた説明がおわったからである。
会議の雰囲気《ふんいき》は急になごやかになり、雑談のようになった。月例の各部合同会議で、企画課長である邦彦は、一番はじめに高級品開発の状況を報告してしまっていた。
「野川《のがわ》君」
総務部長が邦彦に笑顔を向けて言った。
「は……」
「今日あたりデートじゃないのか」
するとみんな一斉に邦彦を見た。
「いいえ、まだです」
調査課の課長が笑いながら言った。三、四人が声をあげて笑う。
「いいえまだです、はよかったな」
総務部長がニヤニヤしながら言った。
「野川君の奥さんのマネージャーのようだ」
「何しろ注目の的ですからね」
調査課の課長は弁解するようにそう言い、
「そうそう。この間、うちの課の若いのが、野川さんはいずれあの女性と結婚するんでしょう、と訊《き》くんですよ」
と、おどけた顔をして見せた。
「そうかも知れんな。まだ若いし、美人だし、人妻には見えんよ」
「それが半月に一度、必ず下の喫茶店へ現われて野川君を待っている……カフェ・オーレを注文して彼と十分ほどお喋《しやべ》りをして、それからいずくともなく……」
「おいおい、飲物まで知っているのか」
総務部長が呆《あき》れたように言った。
「みんな知っていますよ。若い女の子たちは、今度はどんなおしゃれをして来るか、当てっこをしている位です」
すると営業部長が、
「とにかくこれはただごとではないのだ」
と深刻ぶって言った。会議室の中に笑い声が溢《あふ》れた。
「結婚してもう三年だろう」
そう訊かれて邦彦は照れ臭そうに頷《うなず》いた。
「ええ」
「どうしたらそういつまでも新婚気分でいられるんだか教えてもらいたいもんだ。俺《おれ》なんか三年目にはもう、ろくに口もきかなかったぞ」
「それでいて五年目には三人の子持になっていやがった」
「それとこれとは別ですよ」
男同士の雑談は、いつもそんな調子でおわって行く。
一人が腕時計を見ると、それが合図だったかのように、みんなメモや書類を揃《そろ》えはじめ、
「それでは今日はこれまで」
と言う常務の西本《にしもと》の声と同時に、次々と立ちあがってドアへ向かった。
外はもう薄暗くなりはじめ、廊下へ出ると、少し寒いような感じだった。
2
邦彦は東日機材の企画課長である。東日機材は事務機の総合メーカーで、正しくは東日機材工業と言い、世間では〈トーキ〉という商標で知られている。スチール製のデスクや椅子《いす》から、各種のキャビネット、ロッカー、複写機、タイム・レコーダーなど、オフィスに必要な物で取扱わないのはコンピューターだけと言っていいほどであった。
その業界が本格的に発展しはじめてからまだ日が浅く、従って社員の平均年齢も他業種からくらべるとかなり低い。しかし東日機材は業界のトップに位し、二十代で課長の椅子に坐ったのは邦彦がはじめてであった。
邦彦は自分のデスクに戻ると、会議室から持ち帰ったレポート用紙をちらりと眺め、蓼科の夏を連想させたいたずら書きのある一枚を破り取ると、そばの屑籠《くずかご》へ丸めて捨てた。
商売柄、オフィスは整然としている。そのオフィス自体がショー・ルームの役を果すからである。デスクやキャビネットなどの並べ方も念入りで、書類を積みあげたデスクなど一つも見当たらなかった。
もう退社時間を過ぎていて、誰《だれ》も残っていない。邦彦は抽斗《ひきだし》へボールペンとレポート用紙をしまうと、肱《ひじ》つきの回転椅子をデスクの下へ押し込み、壁際のロッカーへ行った。そのロッカーは明るいクリーム色に塗られていた。殺風景で冷たい色ばかりのオフィスを少しでも明るい感じに変えるため、二年ほど前に邦彦の提案で量産化された製品である。
その企画は図に当たった。頭の古い経営者たちにも、その程度の色彩であれば大した変化には感じられなかったのだ。クリーム色のロッカーはいたるところのオフィスに姿を現わし、大げさに言えばオフィス向け収納家具の色彩革命をもたらしたのだった。
邦彦はそれを充分に読み切っていた。はじめはクリーム色で穏やかにオフィスへ色彩を持ち込み、それに成功したら、あとはもっと強い色へエスカレートして行く計画であった。
工場などは更衣室が独立している。そういう所では従来の物堅い一方で冷たい感じのロッカーを選ぶ必要など、はじめからなかったのである。ワイン・レッドやコバルト・ブルーのロッカーが発売されると、新設の工場などは在来型の薄暗い感じのロッカーには見向きもしなくなった。ことに女子の従業員を主体とする工場では、こんな色をと特別に指定して来るほどである。
オフィスの色彩革命、などと業界誌がはやしたてたりする中で、邦彦は社内における立場をかため、出世コースを順調に走りだしていたのである。
邦彦はそのきっかけを作ってくれたクリーム色のロッカーから、カシミヤのコートを出して着ると、壁のスイッチに触れて灯《あか》りを消し、廊下へ出た。
「どうだ、一杯やらんかね」
トレンチ・コートを着た常務の西本が、エレベーターの前で声をかけた。
「今日は勘弁《かんべん》してください」
邦彦は笑いながら言った。
「そうか」
西本も笑っていた。
「あの奥さんに恨まれるようなことはしたくない」
エレベーターのドアがあいて、二人は中へ入った。
「いつだったかな、君を引っぱりまわして午前さまにさせたのは」
「去年の暮ですよ」
「そうそう。翌朝目がさめてから気になってなあ。あの奥さんが一人でずっと外の物音に耳を澄ましているところを想像してしまったんだ。君の靴音《くつおと》が聞こえるのを待って……。これはいかんことをしてしまったと、あわてて電話器にとびついたよ」
「家内が笑っていました。あの時の常務の電話はしどろもどろで、まるで浮気をして自分の奥さんにあやまっているようだったって」
ドアがあく。一階のロビーには冷たい風が吹いていた。
「この倖《しあわ》せ者め」
西本はエレベーターから出るとき、邦彦の肩を叩《たた》いて言った。
「焼鳥の話を聞いたぞ」
「ああ、あれですか」
邦彦は右手を首筋に当てた。
「はずみでああいうことになったのです」
「君は奥さんに感謝するべきだな」
西本は真面目《まじめ》な声になって言った。自動ドアがあいて、外の北風がもろに吹きつけて来た。
社内の評判になっている通り、瑤子は半月に一度必ず丸《まる》の内《うち》へ出て来て、邦彦と一緒に外で夕食をするのだ。食事だけでなく、映画や芝居を見ることもあるし、買物をすることもある。二人は恋人同士のように夜の町を楽しむのだった。
だが、それが恒例化すると、ときどき邦彦の部下が割り込んで来るようになった。夏に一度、ビルの屋上で生ビールを二、三人に奢《おご》ったのがきっかけで、その次瑤子が現われると、
「奥さん、今日は僕たちが接待しますよ」
などと言うことになる。この前は六本木《ろつぽんぎ》のサパー・クラブからはじまって、彼らの馴染《なじみ》の店を何軒か梯子《はしご》した揚句《あげく》に、神田《かんだ》のガード下の薄汚れたホルモン焼屋にまで連れて行かれてしまったのである。
それが翌日すぐ社内の話題になって、さばけているとか、ホルモン焼の食べかたが慣れていたとか……。優雅な感じの瑤子がそんな店で楽しげにしたのが意外だったようで、彼女の人気はこのところ一層高まっているのであった。
3
常務の西本はどこかで人に会うらしく、東日機材の本社があるビルの前でタクシーをとめ、
「旱く帰ってやれよ」
と言い残すと去って行った。
邦彦はいつものように東京駅から地下鉄に乗った。
瑤子に感謝するべきだ。西本はそう言っていた。たしかに彼女が部下たちに好かれることは、邦彦にとっても仕事がやり易《やす》かった。企画課は家族ぐるみの付合のような雰囲気で、社内でも最も気の合ったチームを形成している。若い社員たちはそれを羨《うら》やみ、内心企画課へ転属を希望している者が多いようである。
電車の中は大半が帰宅するサラリーマンである。退社のラッシュ時を過ぎているから、若い女性の姿は少なく、比較的年のいった男たちが多かった。
電車を乗り換えたあと、邦彦は座席に坐ることができた。それから日吉《ひよし》駅までは一本道である。いつも通りに家へ向かっているので、邦彦にはとりたててこと新しく考えるようなこともなかったが、このサラリーマンたちの中で自分のように仕事が順調に行き、部下の信望を集め、上司たちから信頼されている男はそう多くあるまいと思ったりしていた。
電車を降りて駅を出ると、ちょうどバスが来ていた。家は駅からそう離れているわけではないが、タイミングさえよければバスに乗ったほうが楽だった。邦彦はバスの吊革《つりかわ》につかまって停留所を幾つか過ぎ、やがて見なれた花屋の前で降りた。
乗って来たバスの排気ガスを浴びながら歩きはじめるとすぐ、左角に小児科の小さな病院があり、その角を曲ると狭いながらそれぞれ庭のついた家が建ち並ぶ道になった。
静かだった。たいていの窓はカーテンを引き、内側のあかりがそれぞれのカーテンの色に染まって見えていた。庭の暗がりから白い湯気が立つのは、クリーン・ヒーターの排気なのだろう。邦彦はゆっくりと歩く自分の靴音を聞きながら、心の中ではもう自分の家のドアをあけていた。
ドアをあけるときまって玉のれんの音がするのである。
「おかえりなさい」
靴を脱《ぬ》ぎおわる前に瑤子が玄関へ出て来てそう言うのだ。はじめのうち不用心だから錠《じよう》をかけて置けと言ったのだが、瑤子はとり合おうとしなかった。夫が妻のいる家へ帰るのに、いちいちチャイムの釦《ボタン》を押したり鍵《かぎ》を使ったりするものではないと言うのだ。それで結局は錠をかけぬことになっている。
靴を脱いで家にあがり、すぐにコートを脱ぐとそれは瑤子が受取ってハンガーにかけるのがきまりであった。従って居間へは邦彦が先に入ることになる。その日来信があれば、それは居間のテーブルの中央に置いてある。邦彦はソファーに体を沈めて端書か封書を取りあげる。来信のないときは夕刊をひろげる。
瑤子は何かしら話しかけて来る。ソファーで適当に答えているとお茶が出て、それを飲みながら夕刊を読みおわると着がえである。そして夕食がはじまる。
毎日きまりきってはいるが、それでいてどこかしら少し違っている。まだ一度もその時間の話題に緊張するような事件は起っていない。豪華ではないが毎日念の入った料理で、近頃《ちかごろ》は夕食のたびにいろいろな料理のことが話の種になっている。
入浴、テレビ、ベッド……。邦彦がいま向かっている場所には不安の影さえなく、暖かで優しい適度なあかりがあるのだ。
左側に大谷石を積んだ塀《へい》の家があり、そのとなりが邦彦の家であった。いつものように門灯がついていて、玄関のドアの横の細長いはめころしのガラス窓からあかりが洩《も》れていた。
胸くらいの高さの黒く塗った鉄パイプの門扉《もんぴ》を押しあけて邦彦はドアの前に立った。ノブを掴《つか》んでいつものように軽くひねり、手前へ引いた。
が、どうしたことかドアは動かなかった。
邦彦は眉《まゆ》を寄せ、もう一度引いた。やはり動かない。錠がかけてあるのだ。わざともう二回ほどノブをガタガタ言わせて見たが、中で瑤子が動く気配はしなかった。
仕方なくチャイムの釦を押した。チャイムは確実に作動して、家の中で鳴っている。
それでも瑤子は出て来なかった。……風呂《ふろ》へ入っているのかな。邦彦はそう思いながら、舌打ちをひとつするとコートの釦を外し、上着のポケットから鍵を取り出した。
鍵穴へそれを差し込んでいる間も、邦彦は肌《はだ》を桃色に染めた裸の瑤子が、浴室であわてふためいてバスタオルを体に巻きつけているところを想像していた。
ドアをあけ、
「ただいま」
と、少し高い声で言った。ドアをしめ、いつものように錠をかけてから靴を脱ぎはじめる。
「おい、どうしたんだ」
家の中はいつもの通りあかりがついていた。しかし、どことなく空気が冷えているような感じであった。
「おい、瑤子」
邦彦はコートを着たまま居間へ入って行った。
「瑤子」
キッチンをのぞき、浴室をのぞき、書斎がわりの六畳の和室の襖《ふすま》をあけ、そして寝室をのぞいた。寝室も六畳間も浴室もあかりが消えていた。
邦彦は最後にトイレのドアをノックした。
「瑤子」
トイレにもいなかった。急いで居間へ戻るとカーテンを引きあける。小さな庭に居間のあかりがひろがった。
瑤子は庭にもいなかった。
4
何かが足りないのに気付いて、急に買物に出たのだろう。
そう判断すると、邦彦はカーテンをしめ、コートを脱いでいつも瑤子がしてくれるように、玄関の横にあるハンガーに掛けた。そして、瑤子がいるときとそっくりそのままに居間のソファーへ体を沈めた。
夕刊はいつもの位置に置いてあった。
ガサガサという新聞の音が、邦彦を落着かせてくれた。邦彦はいつものように新聞を読みはじめた。しかし耳は外に向かって澄まされていた。
帰りぎわ、常務の西本が言った言葉がよみがえって来た。
「奥さんが一人でじっと外の物音に耳を澄ましているところを想像してしまったんだ。君の靴音が聞こえるのを待って……」
たしか西本はそんな風に言っていた。そして今、同じことを邦彦がしているのだ。
我慢して夕刊を全部読みおえてしまった。それでも瑤子の戻る気配はない。
「どこへ行ったんだ……」
邦彦はつぶやき、ソファーを立つとキッチンへ行ってみた。夕食の仕度をしかけているに違いないと思ったのだ。
だが、あらためてキッチンへ入って見た邦彦は、ガスのコンロにかけてある湯沸しに何気なく手を触れてギョッとなった。
冷え切っているのだ。
そのときになって、邦彦はやっと異変を感じた。両脇の下が寒気《そうけ》だって来るようだった。
瑤子が家を出てからもうかなりの時間が経過している。……邦彦はそう悟り、あわてて腕時計を見た。あまりにもいつもの通りだったので、駅へ着いた時間も、バスを降りた時間も確認していなかったが、おおよその見当はついた。会議がおわった時間から起算すれば判るのである。
会議があることは瑤子に告げてあった。たいていその月例の会議は退社時間を一時間ほどこえるのだったし、そのあと今日のように西本か誰かに飲みに誘われることも稀《まれ》でなかった。そういう場合は必ず社を出る前に連絡をすることになっていて、その頃電話がなければ、邦彦はまっすぐ自宅へ向かっているということになるのだった。
つまり、瑤子にはその日も邦彦の帰宅時間が判《わか》っていたことになる。邦彦は気付いてポットを取りあげ、流しに向けて傾けて見た。
ほとんど空《から》で、しかも指で触れて見るとその湯は生ぬるくなっていた。
おかしい……。
邦彦は自分がひどく深刻な表情になったことに気付いていた。
たしかにおかしいのだ。
ポットの湯はいっぱいになっていなければならない。でなかったら、コンロの上の湯沸しがもっと温くなければいけない。邦彦が戻るとすぐ、冬なら熱い煎茶《せんちや》、夏なら冷えた焙《ほう》じ茶《ちや》か麦茶を出すことにきまっているのだ。邦彦はコーヒーや紅茶より日本茶が好きで、コーヒー好きの瑤子とその点だけは好みが合わなかった。
いずれにせよ、湯が沸かしてないと言うことは、邦彦が帰宅するまでにまだ充分間があるときに、瑤子は外出してしまったことを意味しているではないか。
だが、夕刊はいつもの位置にあった。
とすると、夕刊が来てから、まだ湯を沸かすには間がある時間の中で、瑤子はどこかへ出掛けたのだ。
邦彦は反射的に冷蔵庫を見た。その扉《とびら》に、瑤子はコートの釦《ボタン》ほどの大きさの、裏にマグネットの付いた赤い玉を貼《は》りつけていた。
買わねばならぬこまごまとした品物や、何かの約束などを記したメモ用紙が、冷蔵庫のドアにマグネットの玉を使って貼りつけられ、黒板がわりになっているのだ。
邦彦は自分への伝言がないかと思ったのだ。メモは貼りつけてあったが、それらしい文字はなく、
——青いスーツ。プレス。金曜日——
とだけ書いてあった。
金曜と言えばあさってである。今日のことは何も記してない。
近所の商店へ行ったにしては時間がたちすぎていた。と言って、瑤子が突発的なことで出掛けなければならない所と言うと、横浜《よこはま》の津田《つだ》家か、練馬《ねりま》の邦彦の実家ぐらいなものだった。
瑤子の旧姓は津田である。清一郎《せいいちろう》と言う未婚の兄が父親の津田|久衛《きゆうえい》と二人で横浜市内の古い家に住んでいる。母親はかなり若い頃に死んでおり、だから瑤子はずっとその家の主婦がわりであった。それが邦彦の妻になって、ほかに兄弟はないから、父の久衛が病気で寝込んだりすると、面倒を見に行くことがある。
練馬の野川家は邦彦の兄夫婦もいれば、両親もいてにぎやかだから、瑤子が行ってもいつも客扱いである。
津田久衛が倒れたのだろうか……。邦彦はそう思った。それだとすると、メモも残さずにあたふたと出て行った理由も納得できるのだ。
邦彦はキッチンを出ると、居間へ行って電話のダイアルをまわしはじめた。
「あ、もしもし」
相手が受話器を外すと、邦彦は急《せ》き込んで言った。
「僕、邦彦ですが」
「やあ、今晩は」
瑤子の父の久衛であった。晩酌《ばんしやく》でも楽しんでいたらしく、上機嫌《じようきげん》な声だった。
「あの……」
「何かね」
邦彦は言葉に詰《つま》った。しかし、ほかに言うことは思い付けなかった。
「瑤子がそちらへ行っていませんか」
「いや、来ておらんよ」
久衛は不思議そうに言った。
「どうしたんだね。何かあったのか」
邦彦はあわてて否定した。
「いえ、大したことじゃないんです。実は今戻ったところなんですが、瑤子がいないもので」
「どこへ行ったのだろう」
久衛は父親らしく、心配しはじめたようであった。
「判りました。それじゃ何か買物にでも出たんでしょう。いえ、お父さんが病気でもなさったんじゃないかと思ったものですから。悪い風邪《かぜ》が大はやりですからね」
久衛は笑った。
「帰ったらママがいないので心配になったのかね。まるで子供みたいだぞ」
邦彦は久衛の不安を消すために笑い返してやり、
「それじゃあ」
と電話を切った。
そのとたんだった。聞き慣れた鉄パイプの門扉の音が、ごくかすかだがしたようだった。邦彦は急いで玄関へ行くと、サンダルをはいてドアの錠を外した。瑤子が寒そうに肩をすくめて帰って来たのだと思い込んでいた。
だが、いなかった。
「瑤子」
隣りの家へ聞こえてもかまわぬ気で名を呼び、門扉をあけた。門扉はたしかに今聞いたのと同じ響きを立てた。
道へ出て見た。人影はなかった。
たしかに誰かが門をさわったはずだ。……邦彦はそう確信しながら、暗く寒い道に立ちつくしていた。
5
夜が更《ふ》けた。
邦彦は待ち続けた。自分で湯を沸かして茶をいれ、自分で一人分の食事の用意をして、それも一時間ほど手をつけずに瑤子を待ってから、仕方なく食べはじめたのだった。
練馬へ電話をしようと、何度もダイアルをまわしかけた。しかし、もし練馬へ行っているのなら、とっくに邦彦に連絡して来ている時間になってしまっていた。
つまり、練馬へも行ってはいないのだ。
この三年間、瑤子は邦彦だけが相手の生活をしていた。妻になる以前の友達もいただろうに、そういう交際もする気がないらしく、彼女の友人はすべて邦彦の友人たちに限られてしまっている。
その友人のどれを思い泛《うか》べても、仮りに瑤子が訪ねて行ったとして、まだ連絡をして寄越せない距離に住んでいる者はなかった。
いつ外出してもかまわぬよう、邦彦は会社から戻ったままの服装でいた。しかし時計の針は容赦なく零時に近付いて行き、そして零時を過ぎてしまった。
その、不安で物哀しい時間を、邦彦は家中歩きまわり探《さぐ》りまわることで過した。どこかに行先か目的か理由を語ってくれる何かの痕跡《こんせき》があるはずだと、衣裳《いしよう》だんすから押入れや冷蔵庫の中、はては食器棚《しよつきだな》まであけて調べた。
しかし、家の中は憎らしいほどいつものままであった。業《ごう》を煮《に》やした邦彦は、しまいに懐中電灯を取り出すと、夜の一時近くだと言うのに庭へ出て見た。
ひどく寒く、すぐ手の指がかじかんだ。だが邦彦はなかば意地になって、徹底的に庭を調べまわった。隣家との境いの、低い竹の垣根《かきね》に人が乗り越えたあとがありはしないかと、それまで注意して見た。
何もとりたてて変ったところはなかったが、ただひとつだけ、変化と言えば言えそうなことがあった。
四角く平たい植木鉢《うえきばち》がひとつ、勝手口のドアのところに置いてあったのだ。
それは本来なら、家の中にあるべきはずのものであった。いつも玄関の下駄箱《げたばこ》の上に置いてある苔《こけ》の鉢なのである。
瑤子はそれを可愛がっていた。と言うより、ひどく大切にしていた。邦彦は観賞用の苔があるなどと言うことを、瑤子と結婚するまで知らなかったが、瑤子はその苔に毎日霧噴きで霧をかけてやり、寒い季節になると家の中へいれ、万一鉢の中の土に含まれた水気《みずけ》が凍りでもしたら苔が死んでしまうからと、玄関を照らすための、壁にとりつけたランプの真下へ苔の鉢を置いて、ひと晩中あかりをつけ放しにしているのであった。その位置がちょうど下駄箱の上になるのである。
だから、冬の間は苔をあたためるために玄関の中のあかりがつけられ、そのかわり夜中は外の門灯を消してしまうのである。
その苔の鉢が空にされ、外に置いてあるのだ。入っていた苔を探したがどこにもない。ひょっとすると枯れ死んでしまい、どこかへ捨てたのかも知れなかった。
変化らしいことはそれくらいなもので、邦彦は庭の探索を打ち切ると、しばらくの間、ぼんやりと周囲の家々を眺めていた。
はす向いの家の二階に灯りが消え残っていた。もうたいていの窓は暗くなっていて、その窓だけが妙にあたたかそうであった。
その赤味がかったあかりを、邦彦は家庭の色だと思った。そこにはいつも通りの、何気ない、平凡な、しかしそれだからこそかけがえのない生活があるのだった。
邦彦が家へ入りかけたとき、その二階の窓あかりが、ふっと消えた。瑤子もその窓あかりのように消えてしまったのであった。
描《か》きかけの夜空
1
目覚めたとたん、邦彦は言いようのない不快感に襲われた。全身に、耐えようもない重圧がかかっていて、少しくらいの気力ではとても起きあがれない感じであった。
今日も晴れている。
カーテンごしの光で邦彦はそう感じた。そして、そんな平凡なことを考えてしまう自分自身がまた不快になるのだった。
この朝は嵐《あらし》が吹き荒れているべきだと思った。それでなければ、車も通れぬほどの大雪であって欲しいと思った。それならば、瑤子が帰らない説明がつくのだ。
しかし、現実は憎らしいほどの晴天であった。邦彦は十分以上もそのまま夜具にくるまってカーテンのあたりをみつめていたが、やがて根まけしたようにベッドからおりた。
それも邦彦にとっては腹立たしいことであったが、時間はいつも通りであった。
瑤子がいなくなったと言うのに、自分はいつも通りの生活をはじめようとしている……。そう思うとなぜかなさけなかった。体の奥のほうから、手当たり次第に物を投げつけ蹴《け》りとばし、すべてを破壊し尽してしまいたいような、狂暴な衝動が湧《わ》きあがって来るのを必死に抑えつけているのだ。しかも、そんな自制をしている自分自身が、何か不純で不道徳な、偽善者であるように感じて仕方がなかった。
邦彦はそんな気分を鎮めようと、つとめていつも通りに振舞った。だが、昨夜ベッドにつく前に暖房をとめたので、家の中はどこも冷え切っていた。洗面台の蛇口《じやぐち》から出る水もことさらいつもより冷えた感じだったが、邦彦には湯沸器の口火をつけることさえ億劫《おつくう》に思えた。
それでもコーヒーだけは沸かした。ゆうべの残りのコーヒーはいつも瑤子がいれてくれるものよりだいぶ苦《にが》く、その苦さだけが邦彦の気分によく合うようであった。
コーヒーを飲みながら、邦彦は何度もヒーターのほうを見た。そのスイッチを入れれば、すぐに家の中はあたたまりはじめるのだ。そうすれば、パジャマの上へガウンを着た姿で、何時間でも居間のソファーに坐《すわ》っていることになるはずであった。そして、瑤子を待ちながら、思いつく限りの所へ電話をするはずであった。
邦彦は熱く苦いコーヒーを啜《すす》りながら、その誘惑とたたかっていた。ヒーターをつければ会社へは行かずにすむ。行かずに瑤子を探《さが》せる……。
だが、コーヒーを飲みおわると、邦彦はカップを持ってキッチンへ行き、流しにそれを置いて着替えをはじめた。帰って来れば会社へ連絡して来るはずだった。帰って来なくても、きのう連絡しそこなっただけなら、やはり電話はかかって来るはずだった。
今日は一日中会社にいよう。
ネクタイをしめながら邦彦はそう決心していた。できれば一日中デスクにしがみついている気だった。電話のベルが鳴り、受話器を取りあげる自分の姿が目に見えるような気がしていた。その受話器から、瑤子の細く柔らかな声が聞こえるのを想像していた。……それ以外のことは想像したくなかった。今日一日の内に何の連絡も入らないことなど到底考えられなかったし、どこかの病院から、あなたの奥さんが、などと言う電話をかけて来られる場面など、想像しようとするだけで全身が寒気《そうけ》だって来るのだった。
背広を着おわり、電気のスイッチやガス栓《せん》の点検をしてまわりながら、今日一杯は決して瑤子を探す電話などかけまいと心に誓っていた。迂闊《うかつ》にそんなことをしたら、瑤子の名誉に瑕《きず》がつくと思った。これはほんのちょっとした手違いなのだ。瑤子は誰かに頼んでもうとっくに連絡した気になっているのかも知れない。どこにでも無責任な人間はいるものだから。頼まれた人間が自分に連絡し忘れているのかも知れないではないか……。
邦彦はガスと電気を完全に点検しおわると、靴をはいてドアをあけた。門扉にとりつけた郵便受けから朝刊を引き抜いて下駄箱の上へのせると、鍵をとり出してドアの錠をかけた。鍵穴から鍵を引き抜くとき、
「瑤子……」
と低くつぶやいた。行って参りますという挨拶《あいさつ》のつもりであった。
道へ出ると丁寧に黒い鉄の門扉をとじ、思い切りよく大股《おおまた》で歩きだした。ふしぎなもので、そうなると幾らか気が軽くなって来た。会社へ着くのが楽しみになったからである。必ず今日中に電話して来る。……そういう確信があった。そして、どんな手違いがあっても決して叱《しか》ったりはすまいと思った。いや、自分には瑤子に対する難詰などできるわけがないと、苦笑まじりに思ったのであった。この三年間の生活の中で、いささかなりと瑤子に疑いをさしはさまねばならぬことなど、まったくなかったのである。
バス停があり、いつものようにバスが来た。バスはいつものように混んでいた。朝の出勤時には駅へ向かって一方通行になる道を、バスはいつものようにのんびりと進んで行った。
ただ、その朝が邦彦にとっていつもと違うのは、やたらに瑤子の面影が目に泛《うか》ぶことであった。キッチンの流しの前からふと振り向いたときの表情とか、浴室のドアをあけて新しい石鹸《せつけん》を手渡してくれるときの微笑とか……、邦彦が思い泛べる瑤子の表情は、どれもこれもごくさりげない日常のものであった。
2
会社へはいつもより少し早めに着いた。企画課の自分のデスクについて経済紙をひろげ、煙草《たばこ》に火をつけた。が、すぐに気が付いて席を立つと、一般紙を取って来て社会面をひろげた。相変らずいろいろな事件が起っているが、瑤子が巻き込まれそうな事故や事件は何ひとつなかった。
「お早うございます」
部下たちがそう言って部屋へ入って来るたび、邦彦は新聞から目をあげて頷《うなず》き返した。
「課長、時間が空《あ》いていたら五反田《ごたんだ》へ行って頂けませんか」
部下の一人がそう言って来た。邦彦は新聞を畳んでデスクの左端に置くと、意味もなく腕時計を見た。
「今日はちょっとまずいな」
「そうですか。じゃ、僕らだけで見て来てもいいでしょうか」
五反田の新しいビルに入ったオフィスを、東日機材がレイアウトしていて、今日あたりその作業が終了する予定だった。
「うん、そうしてくれないか」
「はい」
その男は、かえって張り切ったようであった。すぐ自分のデスクに戻って、となりの席の男と打合せをはじめている。
何があってもここを動くものか。
邦彦は自分のデスクの上にある白い電話器をみつめてそう思っている。すると、思いがけない強さで瑤子をあわれに感じた。
どこかで自分に連絡を取ろうと焦《あせ》っているのではなかろうか。だが何かが邪魔をしてここへ電話をかけさせないのかも知れない。いったいその何かとは……。とにかく、瑤子が連絡しようとしていることはたしかなのだ。それだけは間違いない。
邦彦はいつの間にか受話器をとりあげていた。そして自宅の番号をまわしはじめていた。入れ違いに飛んで帰り、いつもと同じように自分が出勤してしまったのを知って、拗《す》ねているのかも知れないと思ったのだ。ひょっとしたら、こういう場合夫としては出勤するどころではないのが本当かも知れない。……邦彦はそんなことを考えながら受話器に耳を当てていた。