「えらい人ですね」
「そうですよ」
ふじの声はまたしだいに睡たげになって行った。
瑤子はその夜、花に埋もれて空を眺めている夢を見た。そして次の朝、本当に紅花色の光を見たのである。
皐月《さつき》の海へ
1
瑤子はジーンパンツをはいて、高校一年の男の子と歩いている。上は黒いセーターに同じデニムのジャンパーである。ジャンパーの袖《そで》を折り返して、手首にセーターをのぞかせていた。
「春子さん」
伸次が言った。
「え……」
「春子さんはUFOを見たことがある……」
「いいえ」
瑤子は微笑を泛《うか》べた。柴崎ふじの孫の伸次は、その笑顔を横目で眺め、眩《まぶ》しそうにすぐ目をそらせた。
「残念ながら今まで一度も見たことがないのよ」
瑤子の微笑は二重の意味を持っていた。ひとつはもちろん伸次の質問に対するものだったが、もうひとつは自分の服装に向けられていた。
今の自分の姿を見たら、夫の邦彦はどう言うだろうかと思ったのだ。もし今この道で向こうから邦彦がやって来たとしたら、一度何気なく目をそらし、それからあわててみつめ直すのではなかろうか……。
邦彦と結婚する前も、してからも、瑤子はジーンパンツなど一度もはいたことがなかった。ましてジャンパーと上下お揃《そろ》いのスタイルなど、着て見る気さえ起さなかった。
それが、着て見ると案外それなりにさまになるようなのだ。太くてごつい茶の革ベルトをして、バッグも持たずに歩くのはさっぱりと若々しく、つい足どりもいつもより軽く、大またになるようであった。
「伸次君は見たことがあるの」
瑤子は逆に尋ねて見た。UFOの話題がブルージーン・スタイルにはいかにもふさわしいような感じがした。
「まだない」
伸次の言い方は、いかにも残念そうであった。
瑤子は声をあげて笑った。ついさっき、伸次は瑤子に数学のテストで満点をとったことがあるかと訊《き》かれ、まったく同じ答えかたをしたからであった。
「どうしてかしらね。雑誌などに目撃した話がよくのっているけれど」
伸次は勢いよく言った。
「そうなんだ。UFOを見る人は、何回も見てる。僕、あれはやっぱり、生まれつきがあるんじゃないかと思うな」
「生まれつき……」
「そう。だって、UFOには宇宙人が乗っているでしょう。宇宙人にコンタクトできるのは、そういう能力を生まれつき持っていないとだめなんじゃないかと思うの」
「そうかしら。それより、伸次君の姿勢のせいじゃないの」
「姿勢……」
「そうよ。伸次君はいつも少し前かがみの姿勢で歩いてるわ。猫背《ねこぜ》になっちゃうわよ。そういう姿勢だから、下ばかり向いていて、空を見ないからUFOもなかなか見られないのよ」
「ちぇっ」
伸次ははぐらかされたように舌打ちして見せたが、すぐにまた勢いよく喋《しやべ》りはじめた。
「UFOって、アルファ・ケンタウリから来るんだと思うんだ。アルファ・ケンタウリって知ってる……」
「星の名前だと思うけれど」
「そう。凄《すご》いな春子さんは。春子さんくらいの女の人で、アルファ・ケンタウリを知ってる人なんて、はじめてだ」
「よく知らないのよ」
瑤子は詫《わ》びるように言った。
「どこにあるの……そのアルファ・ケンタウリって」
「恒星の中では太陽系に一番近い星なんだ」
「おとなりね」
「そう。ケンタウルス座のアルファ星のこと。四・三光年のところにあるんだ」
伸次は得意そうであった。
「四・三光年なんて言われてもピンと来ないわ」
「光が一年かかって進む距離だよ」
「一秒間に地球を七まわり半でしょう」
「そう。だから一年で約五千億キロメートル」
「あら、計算が早いのね」
瑤子はさっきまで数学が苦手《にがて》だとぼやいていた伸次をからかった。
「そうなるはずだよ」
伸次はむきになった。
「ちゃんと自分で計算して見たの……」
「計算……そんなの面倒臭いよ。いちいちしていられない」
「だめよ、しなくては。本に書いてある数字を丸暗記したのでは勉強にならないでしょう」
「とにかく一光年は約五千億キロメートル」
「じゃあ訊きますけどね」
「うん」
「二百カイリ問題が起きているでしょう」
「うん」
「時速二十ノットの船で二百カイリの専管水域の外へ出るには何時間くらいかかると思う……」
伸次はたちまち返事につまった。
「知らないよ、そんなの」
「だめねえ」
「何時間くらいかかるの」
「十時間じゃないの」
「ちぇっ、なんだ」
伸次はまた舌打ちして見せた。
2
「僕、宇宙のことが専門だものな」
伸次は気をとり直したように言った。前方に杉《すぎ》の木立ちが見えて来た。
「そう。宇宙のことが専門なの」
瑤子はおかしそうに言った。
「地球は宇宙の中の星のひとつでしょう」
「それはそうだけれど。じゃあ春子さん、パーセクって何だか知っている……」
「パーセク。知らないわね」
伸次はそれ見ろ、というような顔になった。
「パーセクも宇宙の距離をあらわす単位のひとつだよ」
「あら、そうなの」
「うん。年間視差が一秒に当たる天体の距離を一とするんだ。でパーセクは三十兆九千七百億キロメートルさ」
「それ、何光年になるの」
「ええと……」
伸次は沈黙し、少し歩いてから笑った。
「意地悪なんだなあ、春子さんて」
「だいたいでいいから計算してみなさいよ。三十兆九千何百億かだったら、三十一兆でいいじゃないの。三十一兆を五千億で割るのよ。両方とも単位はキロメートルでしょう」
「判らない」
伸次は憤《おこ》ったように言った。
「もうガイドしてやらないから」
「いいわよ。終点は見えているもの。あれがそのお墓でしょう」
たしかに、二人の行手にある杉木立は、上杉家|廟所《びようしよ》の森であった。
「いいよ、一人で行けば。でも帰り道が判らなくなるよ。方角オンチのくせに」
伸次は走り出した。
「待って、伸次君。こら待て」
瑤子もふざけて走り出した。軽快なジーンズ姿でいることが、そんな風に瑤子を活溌《かつぱつ》にさせているようであった。
「ここは、おたまやと呼ぶんだ」
伸次が瑤子を残して突っ走ったのには目的があったようだ。上杉家歴代の廟所であるその「おたまや」の入口には料金所があって、伸次は先に行って参拝料を自分で払いたかったらしいのだ。
瑤子がその料金所の前を通ると、中で柔和な顔をした老人が、軽く頭をさげて見せていた。
「案外小ぢんまりとしているのね」
瑤子はそう言いながら、ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、少々男っぽい歩きかたでゆっくりと両側の杉木立を眺めた。高校生の伸次と連れ立って歩くには、そんな恰好《かつこう》が一番ふさわしいような気分であった。
「あれが上杉謙信公のお墓……」
瑤子は正面を指さして尋ねた。どこから来た人達か、四十人ほどの団体が一団となって、ガイドの女性の説明を聞いていた。
「上杉謙信の遺骸《いがい》はよろいかぶとを身につけて、大きな甕《かめ》の中に入っているんだって。もとはお城の中にあったのを、明治になってからここへ移したんだそうだよ」
「へえ……あの両側に並んでいるのはなあに」
「上杉家の十二代までの殿様たちの廟だって」
伸次はつまらなそうな顔をしていた。身近なことより、今の伸次の関心は大宇宙の彼方にあるのだろう。
「静かで気持のいい場所」
瑤子は胸を張って息を吸い込んだ。
「杉の匂《にお》いがするわね」
「うん」
伸次は気のなさそうな返事をする。
「あら……」
瑤子は杉木立の中の地面に目をやって足をとめた。
「何……どうしたの」
伸次がそのとなりへ立って訊いた。
「苔《こけ》が生えてるのね」
「スギゴケだろ。あっちは苔が絨緞《じゆうたん》みたいにふかふかに生えているよ」
「本当……」
瑤子は上杉謙信と十二代の藩主の廟が並ぶ奥のほうへ進んだ。
「まあ……」
みごとな苔であった。瑤子はジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、そこに立って眉《まゆ》を寄せながら苔を眺めていた。
「苔、嫌《きら》いなの……」
伸次はその表情を見て言った。
「苔の鉢植えなんか持っているくせに」
「この辺りにも苔が生えるのね。雪がたくさんつもる所だから、生えないと思っていたわ」
「苔くらい米沢だってはえるよ」
伸次はけなされたときのように、口をとがらせて言った。
「西大通りのほうの法泉寺はもっと凄《すご》いよ。苔庭で有名なんだ。京都のほうのお寺の真似をしたんだとか聞いたな。行って見る……」
「そう、法泉寺って、モス・ガーデンがあるの」
「うん」
「見たいわ」
「じゃ案内する。そう遠くないよ、僕の学校の近くだから」
観光客の一団が、説明をおえたガイドについてぞろぞろと入口のほうへ戻りはじめた。どうやら近県からの団体のようであった。
「行きましょうか、私たちも」
瑤子は何気なくそう言った。その団体の移動に釣《つ》り込まれたように、伸次と瑤子は一緒になって歩きはじめる。
と、廟所の入口にタクシーが来てとまり、中から背の高い外人を連れた二人の日本人がおりた。やはり廟所を見学に来たらしいのだが、瑤子には不吉な直感があった。
3
「どうしたの……」
伸次は低い声で言った。団体の観光客はまとまりが悪く、なかなか観光バスに戻ろうとせず、土産物を物色したり並んで記念撮影をしたりしている。
瑤子はバスのうしろに半分身をかくすようにして、外人をまじえた三人づれのうしろ姿を見ていた。
「知っている人……」
「いいえ」
瑤子はそう答えた。たしかにはじめて見る三人ではあったが、瑤子の心の中で警報のようなものが鳴り響いているのだ。
三人はまっすぐに突き当たりの廟《びよう》が並んでいる所へ行った。まるでそれは廟そのものに用事のある人間の歩き方であった。
観光客ではない。
瑤子は三人の歩き方を見てそう思ったのだ。はっきりと目的を持った人間の歩き方で、なんとなく見物に来たのなら、足どりはもっとあいまいな感じでなければならなかった。
「あ……」
瑤子は思わず声をあげた。突き当たりの廟が並んだ所へ行くと、その三人はすぐにしゃがみ込んだのである。
苔を調べている。
「ねえ、どうしたの」
伸次は瑤子の態度に異変を感じたらしく心配そうに言った。
「あの外人がどうかしたの……苔を見ているようだけれど」
伸次にもそのように見えたのだ。
「行きましょう」
瑤子は身を翻《ひるが》えすと足早に「おたまや」をあとにした。
ブルー・ジーンズを着ていてよかった。
瑤子はそう思った。まかり間違って、東京から着ていた服でいたら、発見されてしまったかも知れないのである。
「法泉寺はこっちだよ」
「いいの」
瑤子は叱《しか》るように言った。
「帰りましょう」
「え……法泉寺へ行かずに」
「そう、早く帰りたいの。お願いだから近道をして。タクシーが入って来ないような道を選んで」
「よし」
伸次は急に意気込んだ。なぜか理由は判らなくても、瑤子の身に危険が迫ったらしいことを感じたのであろう。それでなくても、柴崎家へ突然ころがり込んだかたちの瑤子に、何か人に言えない事情があることは判っているのだ。
「春子さんの都合が悪ければ、今のことは誰《だれ》にも言わない」
伸次は誓うように言った。
「お婆ちゃんにもだよ」
瑤子は高校一年の伸次に歩調を合わせるので息を切らせており、答えるゆとりがなかった。ただ少しでも早く裏道へ逃げ込みたかった。今にも「おたまや」の苔を調べおえた三人が、タクシーに戻って背後から追いついて来そうな気がしていた。
「ほら。もう大丈夫だよ」
伸次は瀬戸物屋の横から裏道へ入ると、急に足をゆるめてそう言った。しばらく二人は黙り込んでいた。
「ねえ春子さん」
「なあに」
「もしかしたら、どこかへ行ってしまうんじゃないの……」
伸次は思春期の男の子らしく、そういう別れにはことのほか敏感であった。
「いつまでもおたくにお世話になり続けているわけにも行かないのよ」
無益な否定をして見せる気は、瑤子にもなかった。伸次が何かその胸の内にほのかな想いを抱いているとすれば、この場合否定することがかえって伸次の心を傷つけることになると思ったのである。
「大変だねえ」
伸次の稚拙《ちせつ》な言葉が、瑤子の心を動揺させた。
「ごめんなさいね」
「ずっと米沢にいればいいのに」
「多分……出て行くことになりそう」
伸次は、ふうん、とあいまいに言った。しばらく黙って歩き、突然小石を蹴《け》った。
「かっこいいお姉さんができたと思ったのに」
瑤子は励ますように笑った。
「伸次君は、ガールフレンドまだいないの」
「いないよ」
いないよォ、と伸次はふてくされたように言う。
「ハンサムだから、きっと今にすてきなガールフレンドができるわよ」
伸次は照れて、エヘヘ……と笑った。
「あたしは逃亡者。以前そんなテレビ映画があったじゃないの」
「インベーダーに追いかけられてるの……」
「そう」
伸次は少し考え込み、
「判った。そう思うことにするよ」
と、ひどく大人びた返事をした。
「早くやっつけちゃってくださいね」
言葉つきをあらためて言う。
「ええ、そうするわ」
「すんだらまた来てくれる……」
「ええ、きっと」
「約束して」
金沢のときと同じだ。
瑤子はそう思い、悲しくなった。岡崎の顔が泛《うか》んで来る。どこへ行っても自分に対する好意があった。そして、どこへ行ってもその好意にむくいることができないのである。いまに……いまに……。瑤子は涙ぐんだ。
4
「お別れのときが参りました」
夜、瑤子は柴崎ふじの前へ坐《すわ》ってそう言った。ふじと瑤子の膝《ひざ》の間に苔《こけ》の小さな鉢植《はちう》えがあり、それが真珠色の光を放っていた。
「そうですね」
ふじはそのふしぎな光をみつめながら頷《うなず》いている。ふじもくわしいことは何ひとつ知らないのだ。知らないでいて、別れの時が来たことだけは悟っている。
「いずれは逃げなくてもすむようになるのでしょうね」
「はい、多分」
「早くご主人としあわせにお暮らしなさい。で、どこへ行きます」
「さあ」
瑤子は困ったように小首をかしげた。
「思い切り遠くへ行こうかと思っています」
「思い切り遠くへね」
ふじも小首をかしげた。
「手伝いたいのですよ。手伝っていいですか」
「それはもう」
「ではちょっと」
ふじはそう言うと立ちあがり、
「苔をしまっておきなさい」
と注意してから、瑤子をその部屋に残して出て行った。
瑤子は苔をしまうついでに、手早く旅立つ用意をした。荷物は少なく、すぐに仕度はおわった。
ふじは三十分ほど戻って来なかった。瑤子はその間にいつものように床をのべ、ふじを待った。
ふじは戻って来ると、着がえをはじめながら言った。
「汽車には乗りたくないのでしょう」
「ええ」
あの三人が同じ列車に乗り合わせたら大変なことになる。
「赤沢に小さな造り酒屋さんがありましてね。そこのトラックがあした東京へ向かうのです。朝早くここへ寄って乗せてくれるよう、たのんでおきました。東京の近くへ行ってから、タクシーなり電車なりに乗りかえて、そこから一人で川崎《かわさき》というところへ行きなさい」
「川崎へ、ですか……」
「川崎は知っていますか」
「ええ、だいたいは」
瑤子は心細そうに答えた。
「あたしの姪《めい》が一人、日向《ひゆうが》にいます。その姪の娘がいま、東京の学校へ来ているのです。姪の家は少し豊かでしてね。娘に贅沢《ぜいたく》をさせているのですよ。それがちょうど、あした日向へ帰るところなのです。今度は船で帰って見るのだそうです」
「お船で……」
「どうです。ちょうどよくはありませんか」
「あの、日向と言いますと、何県になるのでしょうか」
「相変らずですね」
ふじは笑った。瑤子の方向オンチを笑ったのだ。
「宮崎《みやざき》ですよ」
「ああ……」
瑤子は納得した。
「船で宮崎へ渡ったとは誰も考えつかないでしょう」
「そうですね」
「さあ、おやすみなさい。朝が早いですよ」
「はい」
瑤子は頷いて着がえた。
「本当にお世話になりました」
「あたしはもうこの年ですからね。うまくまた会えるかどうか判りません」
「そんなことをおっしゃらず、いつまでもお元気でいてください。今にきっとお目にかかりにうかがいます」
「あなたのことは忘れません」
ふじは瑤子に背を向けて言った。
「ふしぎな妖精《ようせい》のような人でした」
「…………」
「その妖精のようなところが、今のあなたを不幸にしているのですね」
「そうかも知れません」
「がんばってくださいよ。くじけてはいけませんからね。いいですか、あたしの言うことを、よく憶《おぼ》えておいてください」
「はい」
「虫は草の葉っぱを食べて育ちます。でも、葉っぱを食い荒して地面を這《は》いまわる虫より、葉っぱを食べられても元気に天へ向かって伸びて行く草のような人になりなさい。これはただの負けじだましいのようなこととはちがうのです。草にとっては葉っぱを虫に食べさせることも役目のひとつかも知れないではありませんか。世の中は、すぐ役に立つ者を利用しようとしてかかります。それに対して、利用されまいとたちまわるのは、一見利口そうに見えて、実は大して利口なこととは言えないのです。草は自分がすくすくと大きく育つことだけを考えていればいいのです。その点、葉っぱを食べる虫は気の毒ですね。他人を利用したばかりに、いつまでも地面を這いまわっていなければなりません」
「はい。よく判りました」
瑤子は夜具の中に横たわって頷いた。たしかに柴崎ふじの言うことは正しい。しかし、それは通常の世界での正しさであった。
いま瑤子が置かれているのは、そんな生易《なまやさ》しい世界ではないのだ。瑤子の持つ稀有《けう》な超能力を、世界中の権力者が利用しようと狙《ねら》っているのだ。もしそれを利用させてしまえば、世界の情勢は一夜にして変ってしまう。独裁者が生まれるのである。
5
「新栗子《しんくりこ》トンネル」
運転している男が、大声で怒鳴るように教えてくれたとき、そのトラックはまだへッド・ライトをつけて走っていた。長いトンネルを出ると、東の空にうっすらと赤味がさして来ていた。
福島《ふくしま》市街へ入ったのはそのすぐあとで、町はまだ静かであった。
「一軒途中に寄る所があるので、このまま121を行くから」
会津若松《あいづわかまつ》の手前でそう教えられたが、瑤子には何のことかさっぱり判らなかった。運転手は加藤という寡黙な男で、年は三十五くらいだった。
トラックは驀走《ばくそう》を続ける。そんな大きなトラックに乗ったことははじめてだったし、そんな長い間車に乗り続けるのも瑤子にははじめての経験であった。
121が国道の番号だと気付いたのは、途中にときどきその数字を書いた標識があったからだ。
「川治《かわじ》温泉」
加藤がまた怒鳴るように言ったので、瑤子は自分が日光《につこう》のほうへ来ていることを知った。日光なら二、三度来たことがある。トラックは今市《いまいち》市の入口あたりの倉庫でいったんとまり、うしろへ荷を少し積み足してすぐまた走り出した。
宇都宮《うつのみや》、小山《おやま》、古河《こが》、栗橋《くりはし》……。
「川口《かわぐち》へ寄ってあげるから」
加藤はそう言い、春日部《かすかべ》から道をそれた。
川口市の近くに、大型のトラックばかりが駐《と》まっているドライブ・インがあった。
「ちょっと待っていてください」
加藤はそこへ車を乗り入れるとエンジンをとめて車をおり、小走りに汚《よご》れた食堂のほうへ去った。
川口からだとまっすぐ国電で川崎に行ける筈だったのではないだろうか。
瑤子がうろ憶《おぼ》えの地理を頭に思い泛べていると、すぐに加藤が戻って来た。
「うまい具合にいましたよ」
そう言って瑤子の側のドアを外からあけ、手をさしのべた。降りろということらしい。
「ここでお別れするんですか」
「荷物を持って」
加藤は大声で言った。瑤子は叱《しか》られたように首をすくめ、荷物を取って加藤に渡した。加藤はそれを地面に置き、途中の休憩所で何度かそうしてくれたように、瑤子が高い運転席から降りるのを受けとめるように手伝ってくれた。
ブルー・ジーンズ姿の瑤子は、大きなトラックに囲まれて、途方に暮れていた。
「こっちこっち」
加藤が荷物を手に走り出す。その先に、エンジンをかけたトラックが待っていた。
「これが木更津《きさらづ》へ行くんです。乗りなさい」
有無を言わせず、加藤は瑤子をそのトラックに押しあげ、無遠慮に尻《しり》に手を当てて乗せると、荷物を渡してその運転手に言った。
「お前、綺麗《きれい》な人だと思って妙な真似をすると、あとでひどい目にあわせるぞ」
「この人なら半殺しにされてもいいや」
運転手は笑い、手を振った。
「さようなら、春子さん」
加藤は米沢《よねざわ》以来はじめて笑顔を瑤子に向けた。歯の白い、優《やさ》しい笑顔であった。
「さようなら。どうも有難う」
「また米沢へ来なさいよ」
加藤は意外にも、熱烈に手をうち振って瑤子を見送った。
「加藤と知り合い……」
新しいトラックの運転手が訊《き》いた。
「ええ、まあ」
「いい奴でしょう」
「そうですね」
「運転も俺《おれ》よりずっと上だ」
その男は加藤よりお喋《しやべ》りだった。道に乗り入れると、自分と加藤の付合いがいかに古いか、子供の頃にまでさかのぼって語りはじめた。
「あの……」
瑤子はたまりかねて口をはさんだ。
「なんですか」
運転手は上機嫌《じようきげん》で訊く。
「このトラック、木更津へ行くそうですね」
「そう」
「川崎へ寄ってくれるんですか」
瑤子が言うと、男は声をあげて笑い出した。
「なんだ、そいつを心配してたのか。こっちは心細そうにしてるから、安心させようと思って喋りまくってたのに」
瑤子もその屈託のない笑いに釣《つ》り込まれて笑った。
「川崎のね、浮島ってとこから木更津へフェリーが出てるのさ」
「フェリー……」
「渡し船」
「まあ、こんな大きなトラックを乗せる渡し船があるんですか」
「いやになるな」
運転手はたのしそうに笑った。
「日向へだって乗せて行くよ。お嬢さん、日向へ行くんだろう」
「ええ」
「じゃこれでいいんだ。安心して乗ってなさいよ。ちゃんと九州行きのフェリーに間に合わせてあげるから」
そう教えられて瑤子はやっと気分が落ちついて来た。
しかし、そこはもう東京の道であった。やがてトラックが高速道路に入り、東京タワーの近くを通り過ぎたとき、瑤子は目にごみが入ったふりをして、ハンカチで涙を拭《ぬぐ》っていた。
海の上の風
1
横浜には父の津田久衛と兄の清一郎がいる。市内の古い家だ。瑤子はそこで生まれ、東京と横浜の間を往復しながら育った。ところが、その中間の川崎についてはほとんど何も知らないと言っていい。
何と自分は世間のことにうとかったのだろう……。瑤子はいまさらながらそう思った。東京と横浜を往復する、と言っても、ごくまれにタクシーを利用した程度で、国電や東横線の駅名なら知っているものの、高速道路で羽田《はねだ》から横浜へ向かうことなど、一度も経験したことがなかった。
まして、そのトラックが羽田の少し西の大師インターチェンジを出て、幅の広いまっすぐな道を海へ向かって走りはじめたとき、瑤子はまるで外国へ来てしまったような心細さを味わった。
「ここも川崎市……」
瑤子が信じられないというように尋ねると、運転手は愉快そうに笑った。
「お姫さまなんだなあ、あんたは」
「こんな場所があるなんて知らなかったわ」
瑤子は思わず拗《す》ねたような表情になった。
「左が六郷川《ろくごうがわ》と言ってね」
「六郷川……」
「そう。多摩川《たまがわ》の下流さ」
「同じ川なのに……」
「うん、なぜか河口が六郷川になっている。第一京浜には六郷橋があるじゃないか」
「知らないわ」
「蒲田《かまた》の先は六郷という名前の土地だよ」
「昔からなの……」
「そう。まあ、知らなくてもどうということはないけれどね。地理の試験じゃないんだから」
運転手はそう言ってまた笑った。
「とにかくこの道は、まっすぐ行くと海の中へドボンさ。もっとも、その手前にトラック・ターミナルがあるけれど」
「あれは何線……」
瑤子は右側を指さして言った。線路がその道と平行に走っている。
「さあ、何と言う名前か知らないね。とにかく貨物線さ。あっち側は石油会社だらけだ。石油コンビナートって言うのかな。その先は多分大師運河とか言ったはずだよ」
「よくご存知」
瑤子はほとほと兜《かぶと》を脱いだ気持で言ったが、運転手は照れ臭そうな顔をした。
「俺たち、よく地図を見るからね」
トラックはスピードを落した。
「さあ終点だ。カーフェリーのターミナルだよ」
瑤子はほっとした。目的地へ着いたことよりも、その場所が東京のすぐそばなのに、まるで自分とは縁のない世界だったからである。これなら安全だという確信があった。
「さあ、ここで降りて」
運転手は左折するとすぐトラックをとめ、後続車が迫っていないのをたしかめながら言った。
「ここで……」
「そう。あの建物の一階がフェリーの待合所になっている」
瑤子はドアをあけた。
「気をつけて、高いから」
瑤子はうしろ向きに降りかけ、
「有難うございました。お名前は……」
と言った。
「名前なんか」
運転手は白い健康そうな歯を見せて笑った。
「あんたみたいな綺麗な人とは、この先一生ご縁がなさそうだもの」
瑤子はもう一度礼を言ってトラックをおりた。運転手が荷物を渡してくれた。
「おしあわせに」
バタンとドアがしまると、瑤子の目からその男の姿がまったく見えなくなってしまった。巨大なトラックが、物々しい感じでターミナルへ入って行く。
何とも呆気《あつけ》ない別れであった。
この先一生ご縁がなさそうだ……。瑤子はその言葉を噛《か》みしめながら、教えられた建物のほうへ歩いて行った。
たしかにそうかも知れない。だが、それだからこそ、瑤子は今の男の顔を忘れたくないと思った。同じ好意を受けた場合でも、すがすがしい場合とそうでない場合がある。今の男から受けた好意は、すがすがしかった。それは、彼が瑤子を二度とめぐり会うことのない相手だとはっきり認識していたからなのだ。
ああでなければいけないのだ。瑤子は自分にそう言い聞かせながら、その建物の中へ入った。
2
たくさんのトラックや乗用車がきちんと列を作って海岸の広場を埋めていた。待合所の前にはオートバイも並んでいる。
瑤子はうろうろとそんな風景を見ながら歩きまわるだけであった。柴崎ふじは、谷村伸子《たにむらのぶこ》という姪《めい》の名前しか教えてくれなかった。迂闊《うかつ》なことだが、目的地へ着いて見れば、その谷村伸子をどうやって見分けたらいいのか、途方にくれるばかりであった。
二十分もたつと、瑤子はこのまま船が出てしまいそうな気がして心細くなった。トラックを降りた頃から風が強くなりはじめていて、空が薄暗くなりはじめると風はいっそう激しくなった。
「春子さん……」
たくさんのトラックを乗せた木更津行きのフェリーが出港しはじめるのを眺《なが》めていると、瑤子のうしろからそう声がかかった。瑤子はビクッとしたように振り向き、
「あの……谷村伸子さんですか」
と言った。二十一か二、といった年頃《としごろ》の大柄な女性が、ちょっと眉《まゆ》を寄せた感じで瑤子をみつめている。
「よかった。柴崎のおばあちゃんたら、あなたの着ている服だけしか教えてくれないんですもの。途中で着がえたらどうするつもりだったのかしらねえ」
「お世話になります」
瑤子は深々と頭をさげた。
「でも、あなたが春子さんでよかった」
伸子はそう言うと急に笑顔になり、
「ほら、あの売店のところにもジーンズを着た女性がいるでしょう」
と低い声で教える。
「え……ああ」
伸子の視線の先に、金色の飾りボタンがついたブルー・ジーンズを着た背の高い女がいた。
「あんなトゲトゲした感じの人だったらどうしようと思ってたの」
伸子はそう言ってクスクスと笑った。
「どなたかお友達とご一緒の予定だったのでしょう。そこへ私が割り込んでしまって」
「いいんです」
伸子は鷹揚《おうよう》に言い、
「さあ、行きましょう。その前にこの切符に記入して」
と、自分はスーツケースを持ったまま、瑤子に乗船券を渡した。瑤子が書くものを探《さが》すと、黙ってボールペンを貸してくれる。
「すみません」
「この船ははじめて……」
「ええ」
瑤子はしゃがみ込み、自分のバッグにその紙を当てて少し考えた。
「あたしもはじめて。何でこんな気まぐれを起したのかしらね。飛行機で行けばすぐなのに」
伸子がそう言うのを聞きながら、瑤子は思いつくままに適当な名を書いた。新沢春子……友達の新沢夫妻の姓に、春子という名をつなげたのだ。住所も新沢家の番地にした。
「さあ、偽名を書いたら行きましょう」
立ちあがった春子に、伸子は無表情で言った。建物を出て長い歩道橋を渡り、船へ向かう。
「なぜ偽名だと……」
「おばあちゃんに言われてるの。深いことを訊《き》いてはいけないって」
強い風に二人の髪が乱れる。
「柴崎のおばあちゃんがそれほど気をつかうなんて、珍しいことよ。何でも判ってるくせに、人を突き放すような態度をとるおばあちゃんなんだから」
伸子はそう言い、ちょっと間を置いてから、
「そうか、判ってるから突き放すのかも知れないわね」
と笑った。長細い箱のようなタラップの登り口に改札係がいて、船へ入ると今度はホテルそっくりのフロントがあった。
伸子がそこでキイを受取り、ルームナンバーをたしかめながら階段をあがって特別室と書いた通路へ入った。
「ここだわ」
伸子は薄暗い通路に立ちどまってドアをあけると、中へ入って突き当たりの窓へ行き、荷物を持ったまま振り返ると、
「うん、わりとよくできてる」
とつぶやいた。
突き当たりの窓ぎわにテーブルと椅子《いす》が二つあり、両側にべッドがあってカーテンで仕切られるようになっていた。ドアの近くには洗面台と衣裳棚《いしようだな》、反対側はバスとトイレである。
「特別室だなんて私には贅沢《ぜいたく》ですのに」
瑤子が遠慮がちに言うと伸子はベッドに腰をおろし、スーツケースを床《ゆか》に置いて、
「あたしは特別室でなければいやなの」
と微笑した。
「たしか通路の向こう側は一等客室よ。でも窓がないらしいの」
「窓が……」
「そう。船の両舷《りようげん》にそって特別室、まん中が一等ですもの。……しまったなあ」