伸子は舌打ちをしながらハイヒールを脱いだ。
「どうかしましたの……」
忘れ物でもしたのかと思って瑤子は訊いた。
「このお部屋、左舷じゃないの。あいつ、ほんとに頼りないんだから」
どうやら部屋が気に入らないようであった。それに、切符の手配を人に頼んだらしい。
「左舷じゃいけないんですか」
「そうよ。だって船は西へ行くのよ。日本列島は右側。つまりこの窓から見えるのは水平線だけ」
瑤子は思わず笑った。電車に乗るとすぐに座席にうしろ向きに坐《すわ》って窓の外を見たがる男の子を連想したのだ。
「退屈しても知らないから」
笑った瑤子に口をとがらせて言ったあと、伸子は自分でもおかしくなったのか、軽く肩をすぼめて笑った。
「あたしってわがまま娘なの。贅沢なことばかり言って」
「でも私なんか右舷だって左舷だって、そんなこと全然気が付きもしませんわ。乗物になれていらっしゃるのね」
「わがままなだけ。自分でもこれじゃいけないと思うんだけど」
瑤子はやっとその女性を自分より年下なのだと感じることができた。
「うらやましいですわ」
そう言って椅子に腰をおろすと、伸子はスリッパをはいて飛びつくように自分も窓ぎわの椅子へ移った。
「うらやましいのはあたしよ」
そう言って瑤子の顔をのぞき込む。
「あら、どうして……」
「こんな退屈な人生なら、いっそ死んでしまったほうがましだと思ってるの。あなたみたいな秘密を持って生きてみたいの。すてきだわ、敵に追われて北へ南へと逃げまわるのって」
「おばあちゃまがそうおっしゃったんですか」
「いいえ、あたしの直感よ。凄《すご》い秘密を背負って命がけで逃げまわってるって感じがしたの。もっとも、柴崎のおばあちゃんに事情のある人だからってことを聞いていなければ、そんな風には思わなかったでしょうけれどね」
瑤子は返事のしようがなくて、黙っていた。
「あたし味方よ」
伸子は子供っぽく言った。
3
大きなレストランに、和食堂やコーヒー・ショップ、それにサウナ・バスまでその船には揃《そろ》っていた。瑤子は船内を探検するのだという伸子に連れられて、乗客が歩きまわれるところはすベて行って見た。しかし、船は出港予定時刻を過ぎてもなかなか動き出さず、やがて船内アナウンスで、風速が二十メートルをこえたので、しばらく様子を見るという知らせがあった。
「まあいいわ。どうせフェリーを選んだんだから、少しくらい遅れたって」
伸子はそう言い、二人は和食堂で夕食をとった。
「ねえ、どういうわけなの。教えて」
部屋へ帰ると、伸子は自分でお茶をいれながら言った。
「犯罪に関係あり……」
「まさか」
瑤子は苦笑した。
「そうでしょうね。春子さんて、そんな風には見えないもの」
その頃までには、瑤子もその女王さま然とした伸子の態度の底にあるものが判って来ていた。
甘えているのだ。瑤子が自分より年上であることに、何か安心感のようなものを抱いていて、それで余計にズケズケとした言い方をするらしい。かと言って、相手が一つでも年下だったらたっぷりお姉さんぶるのだろうし、同じ年だったらそれはそれで強引に自分が優位に立ちたがるだろう。
驕慢《きようまん》。ひとことで言ってしまえばそういうことになるが、伸子という女性の本質はどうやら底抜けに善良らしく、相手に対して高飛車《たかびしや》でいながら、どこか可愛気があって憎めないのである。
「ねえ、教えてよ」
しまいには男の子のように言う。
「ごめんなさい」
瑤子は微笑して言った。
「どうしてもだめなの……」
伸子は脹《ふく》れ面になる。
「夫にも打ちあけられないんですもの」
瑤子は仕方なくそう言った。
「え……」
伸子は目を丸くした。
「夫って……春子さん、ご主人がいらっしゃるの」
なぜか突然、言葉がていねいになった。
「ええ」
「まあ……きっとすてきな人ね」
「ふつうですわ」
「ご謙遜《けんそん》よ。春子さんみたいな人のご主人がふつうの男であるもんですか」
そう言うと伸子は深刻そうな顔になり、しばらく考えていた。
「よほどのことなのね」
やがてしんみりした声でそう言う。
「しつっこく訊いて、ごめんなさい。あたし、あんまり我慢ということをしたことがないから」
「あやまるのは私のほうです。お世話になる方に、何ひとつ事情をご説明できないんですものね」
「大変ねえ」
大変ねえと言いながらも、伸子の顔には同情の色など泛《うか》ばず、憧《あこが》れるような目で瑤子をみつめていた。
要するに、ロマンチックな冒険に憧れている多感な令嬢なのだ。瑤子に夫がいると知ったとたん敬意をあらわしたのも、結局は華麗なラブ・ロマンスを夢みているからであろう。
「伸子さんて、いい奥さんになる方ね」
瑤子がそう言うと、伸子はニコリともせずに頷《うなず》いた。
「正解よ。あたしって、見かけによらないの。でも相手によるわね」
瑤子は笑い出しながら、こういう人生もあるのだと思った。物質的な不自由というものを、生まれてから一度も味わったことがなく、それだけに何かしら不自由さに憧れている。冒険を求めていると言えば人生に退屈した結果のように聞こえるけれど、冒険そのものにひそむ要素のひとつは、不自由であるということではないのだろうか。何もかも思いのままであれば冒険にならない。意のままになりにくいことに挑《いど》むのが冒険であろう。同じように、華麗なラブ・ロマンスというのも、結ばれがたい条件の中でお互いが求め合うということではあるまいか。一目で好き合って、両親も友人たちも祝福してくれて、すぐに婚約から結婚と進むのを、決してラブ・ロマンスとは呼ぶまい。
瑤子は船室の幅の狭いベッドに横になり、思い切り体を伸ばした。そういう伸子がそばにいるせいか、敵の存在をまったく感じずにすんだ。
4
船は二時間も出港が遅れた。しかし、とびきりのわがまま娘である伸子は、少しもいらだつ様子を示さず、かえってその遅延をたのしんでいるような素ぶりさえ示した。
「嵐《あらし》になれ、嵐になれ」
ふざけ半分に、祈るようにそんなことを言っている。船はタグ・ボートに引かれて東京湾へ出たところであった。
「いやだわ、これ以上揺れたら」
瑤子はそう言ったが、伸子は気に留めもせず、
「嵐になれ、嵐になれ」
と、だんだん本気で祈りはじめる。
瑤子はふと、そんな伸子の心理を知りたくなった。
あれを使って見たら……。
テレパシーをほんの少し使えば、伸子の心理が判るのである。だが、たとえ海の上に出た敵の気配のない船内であろうと、自重すべきであった。
敵に悟られずに、聞くだけのテレパシーが使えないものだろうか。
瑤子はその時はじめてそう考えた。すると今までそれを考えなかった自分が、ひどく迂闊《うかつ》であったように思えて来た。
目をとじ、深呼吸をして気を鎮《しず》めると、自分の心の中を覗《のぞ》き込むような気分で、そっと心の扉《とびら》をまさぐった。
禁じられた扉の中で、どこかが分れているような気がしてならなかった。この扉をそっとあけ、片一方を溢《あふ》れ出させぬようにしながら静かに耳をすませば、伸子の思考が聞こえるのではあるまいか……。
瑤子は自分自身に対する好奇心を抑えることができなかった。
そっと、細く、その禁じられた扉をあけて見た。
とたんに瑤子は自分の超能力が以前よりずっと成熟していることに気付いた。それは、握力が増して脆《もろ》い品物をそっと扱えるようになったことに似ていた。
海が荒れていた。伸子が乗った船はばかばかしいほど巨大な波に呑《の》まれて沈没し、ゴムボートに二人の女が水中から這《は》いあがった。夜が明けると絶海の孤島にそのボートが流れつき、伸子は瑤子とよろめきながら陸へあがる。するとヘリコプターが現われ、砂浜の二人の頭をかすめて飛ぶ……。
それは伸子の空想であった。伸子は瑤子とそんな危地に陥ることで、まんまと瑤子の秘密を知り、それを共有してしまう。
瑤子は心の扉をとじ、クスクスと笑った。
「どうしたの……」
反対側のべッドで伸子が寝返りをうち、そう尋ねた。
「いえ、何でもないの」
「いやねえ、思い出し笑いなんかして」
伸子は苦笑したようだったが、すぐにまた自分だけの世界へ戻った。
うまく行く。
瑤子は自信を持った。超能力者、つまりテレパスにしか理解のしようがないことだが、今の実験は大成功だったのである。瑤子は自分の思考を外に洩《も》らすことなく、相手の思考を聞くことができたのだった。
これは武器になる。瑤子はそう思った。今までは折角の超能力を、すべて封鎖してしまわなければならなかったのだ。しかし、付近の人間の思考を、敵に知られることなく読みとれるとしたら、身に迫る危険は充分に回避できるはずであった。
もう少し距離を伸ばしてみよう。
瑤子はまた精神をそのことに集中させはじめた。扉をそっとあけ、心の耳をすませる。
——帰ったらお袋《ふくろ》になんと言おう——
それは、右どなりの部屋の若い男の思考であった。彼は東京で突然結婚してしまったらしい。新婚旅行がわりに花嫁を故郷へ連れて帰る途中なのだ。
——とうとう彼に電話をしなかった——
それは花嫁のほうの思考であった。結婚する前のボーイフレンドのことを考えている。
——ねえ、継夫さん——
これは声に出して言った言葉。
——なんだい——
二人は窓際の椅子にいるらしい。
——何時ごろ着くの——
男は船の運航表を見る。目が文字を追っていた。
——うまく行けば店の借金が払える——
強い思考が新婚の二人の思考に割り込んで来て、瑤子は更に距離をのばした。もうひとつ先の船室にいる男の思考であった。二人用の部屋に一人きりだった。
——必ずうまく行く。俺《おれ》のやることだから——
男は無理に自分の心を奮いたたせているようであった。
——飛行機ではこれは運べないし、新幹線でも網棚《あみだな》へ置かねばならない——
男はスーツケースを見ている。
瑤子はハッとして心を閉じた。そのスーツケースに入っているものが、男の頭に泛《うか》んでいたからだ。
銃だわ。
瑤子は目をあけてそう思った。幾つかに分解した銃がスーツケースにかくしてあるのだ。
あの人、何をする気かしら。
瑤子はまた心を開いた。
——大騒ぎになるな——
男の心には松林が泛んでいた。
——うまく逃げられるだろうか——
男は狙撃《そげき》したあとの脱出法を考えかけ、急にそれをやめると、一人の男の顔を頭に泛べた。逃走については不安が大きいのだ。それで考えるのをやめたに違いなかった。
5
殺人をたくらんでいる男がこの船に乗っている。
瑤子は自分がテレパスとしていっそう成熟したのをよろこぶ反面、殺人者の心を覗《のぞ》いてしまったことを後悔しながらその夜を過した。
瑤子とは縁もゆかりもない男だったし、その男が標的として頭に泛べた相手もまた、瑤子にとっては無縁な存在であった。
私にはとめようがない。
瑤子は何度も自分にそう言い聞かせた。事前にその男に殺人を思いとどまらせることなど、不可能にきまっていた。自分がなぜ彼の殺人計画を知っているか、説明するわけには行かないし、仮りに説明したところで信じてくれるかどうか判らなかった。
それでも瑤子は、何度かこっそりその男の部屋へメモでも投げ込もうかと考えて見た。
あなたの殺人計画を知っています。
そう書いたメモを見せるだけで、男は用心して犯行を中止するに違いないと思った。しかし、そのかわり自分が探《さが》される側に立ってしまうのだ。
万一、その殺人者が瑤子の敵とつながりを持っていたらどうなるだろうか。男は明らかに誰《だれ》かの命令を受けているのだ。何かの店を持っていて、殺人の報酬でその店の権利が彼のものになるのだ。
つまり殺し屋じゃないの……。
瑤子はそういう職業が単にドラマの中だけではなく、この社会に実在することを知らされて慄然《りつぜん》とした。
傭《やと》い主《ぬし》はよく判らない。しかし、それが瑤子の超能力を欲している連中と同一でないとは断言できなかった。もし同じだとしたら、彼らはきっと瑤子か、もしくはそれに似た能力を持つ者が同じ船に乗り合わせていたことに気付いてしまうだろう。折角九州へうまくのがれたと思ったのに、それでは追手にこちらへ来いと言っているようなものだ。
殺人は失敗するかも知れない。
瑤子はそう思おうと努めた。最初の弾丸が外れれば、標的にされた相手も気が付いて身を隠すだろう。それなら自分がしゃしゃり出る必要はない。
失敗して欲しい。失敗してもらいたい。瑤子はまんじりともせずにそう思い続けた。それでいながら、ときどきその男の思考へそっと心の耳をすますのであった。
たしかに彼は狙撃の対象とは直接何の関係も持っていなかった。彼は金を欲しがっているだけだった。したがって、これからしようとしていることに罪の意識など持ってもいなかった。
恐ろしいことだわ。
瑤子はその殺人者が感じている一種のゲーム性を、心の底から恐ろしいと思った。たしかに彼は大きな不安を感じてはいるけれど、その不安というのは、たとえて言えば全財産を一回きりの博奕《ばくち》に賭《か》けてしまうような不安でしかなかった。自分自身の生命には何の不安もないのだ。射ちそこなってもうまく殺しても、とにかく逃げるという動作は同じなのだ。仮りに逃走に失敗して逮捕されても、自分が死刑になりはしないという確信があるのだ。彼はそうした場合の法律を熟知しているようであった。
法律って、おかしなものだわ。
瑤子はそう思った。男は自分がつかまった場合に適用される法律と、その罪に下される刑罰の範囲を知っているからこそ、死の危険を感じてはいないのである。何年くらいで出獄できるか、それさえ判っているらしい。取調べを受けることさえ恥辱に感じる人間と、少しくらいの刑務所暮しなど平気に思う人間との差が、法律にはまったくとり入れられていないようなのだ。前例に従って同種の犯罪の刑の量をきめるというやり方が、一見公正なようでいながらその実犯罪の減少には役立っていないことになる。最悪の刑期を見込んだ上で、その男のように犯行計画を組立てる者さえ現われるのだ。
阻止すべきかどうか。
瑤子は思い悩んだ。巻き込まれずにその犯行を防止することができればいいが、巻きぞえにならないという保証はどこにもなかった。
風はやんでいた。空が白みはじめると、瑤子はそっと服を着て部屋を出た。その通路の突き当たりから、じかに後部甲板に出られるようになっていた。
瑤子には巨大と思えるほどの白い航跡が、明けはじめた海の上にまっすぐ尾を引いていた。
瑤子はそれに見とれた。何もかも、このようにうしろへ置きすてて進めればいいのに……そんなことを考えたとき、重いドアをあけてオープン・シャツ姿の男が一人、甲板へ出て来た。
「イチ、ニ、サン、シ……」
男はもうひとつ下の甲板へおりる梯子《はしご》の手すりにつかまって、逞《たくま》しい筋肉を盛りあがらせながら体操をはじめた。
瑤子がその屈託のなさそうに体操をする男に思わず微笑を向けると、男は、
「お早う」
と太い声で言った。
瑤子は一瞬顔に血がのぼりかけ、すぐそれがさっと引いて行くのが判った。スポーツ刈りの丸っこい顔をしたその男こそ、人殺しをたくらんでいたあの男だったのである。
瑤子は相手のいやに乾《かわ》いた心から自分の心をとざすと、何食わぬ顔でぶらぶらとそばを離れて行った。
涙は石鹸《せつけん》の泡に
1
午前六時、潮岬《しおのみさき》沖通過。午前十時、室戸岬《むろとざき》沖通過。そして午後一時三十分、足摺岬《あしずりみさき》沖通過。
川崎の浮島を強風のため二時間遅れで出航した船は、夜の内に風のおさまった海を順調に進み、甲板には多勢の人々が、日本列島を日頃《ひごろ》見ることのできない太平洋側から眺《なが》めつくして動かなかった。
谷村伸子も一、二度甲板へ出て来たが、すぐつまらなそうにキャビンへ引き返してしまった。
「つまらないわ」
船にしたのが失敗だったと言いたげである。
「でも、このコースでお帰りになるのははじめてなのでしょう」
瑤子はこの谷村伸子という女性を理解してみようと思った。もちろんテレパシー抜きで。
「いも虫よ、これは」
伸子は自分が今乗っている船のことをそんな風に言った。
「あたし、いも虫は嫌《きら》い」
「あら、どうしてこの船がいも虫なのですか」
「いも虫は醜くて、蝶々《ちようちよう》は綺麗」
伸子はべッドにあお向けになったまま言う。
「でも、あたしはいも虫が恰好《かつこう》悪いから嫌いなんじゃないの。同じように、綺麗だから蝶々が好きなんでもない」
瑤子は気むずかしそうな表情の伸子を、反対側のべッドの端に浅く腰かけてみつめた。こういう勝気なお嬢さんが、物事をどんな風に考えるのか興味があるのだ。
「いも虫は判り切ってるのよね」
伸子は抑揚のない声で言った。倦怠《けんたい》、という言葉がぴったりするような、贅沢《ぜいたく》なけだるさを漂《ただよ》わせているが、妙に老成した感じでもあった。
やはりこのくらいの年齢の女性は、せわしないくらい動きまわっているほうが魅力的なのだ。瑤子は心の中でそうつぶやいた。
「何が判り切っていますの……」
瑤子は微笑を泛べて訊《き》いた。
「行動よ」
「行動……」
「いも虫の行動にはあたしの意志を衝《つ》いてくれるものなんて、なんにもないじゃないの」
伸子は体を起こすと瑤子のほうへ向かって坐《すわ》り、両手をベッドの端に突いた。
「じゃ蝶々は……」
瑤子はそう言い、途中でなるほどと思い当たった。たしかに、単純に言って蝶々の飛び方は小きざみでせわしなく、予測がつきにくいようだ。
「蝶々が飛ぶのは、見ていて倦《あ》きないわ。どこへ行く気なのかさっぱり判らない。そうでしょう。花にとまる時だって、あの花かなと見当をつけたって、当たることなんて滅多にないじゃないの」
「そうですわね」
瑤子は頷《うなず》いたが、すぐにくすくすと笑いはじめた。
「あら、何が……」
伸子も釣《つ》り込まれて薄い笑いを泛《うか》べはじめながら言った。
「つまり、このお船はいも虫みたいにのそのそとしていて、行動の予測がつき過ぎるとおっしゃるのね」
「そう」
「だったら、今の伸子さんもいも虫」
瑤子がそう言うと、伸子は素早く左手を額に当て、大げさに嘆《なげ》いて見せた。
「やられたわ」
二人は笑い合う。
「船のことを悪く言えた義理じゃないわね。自分が寝そべってばかりいて、いも虫みたい」
「でも、突然蝶々になるんでしょう」
「そういうこともあるわね」
伸子はそう言うと、両手を胸のあたりに寄せて、蝶々のようにヒラヒラとさせた。
「米軍の将校と友達なんだけど、あの連中がこうやるのは、浮気者というサインなんですって」
「まあ」
「ひょっとすると、スラングでバタフライというのがそういう意味を持っているのかも知れないけれど」
「あなたは蝶々さん……」
「そうかも知れないわ」
伸子は自嘲《じちよう》気味に笑った。きっと多勢のボーイフレンドを持っていて、しかもその内の誰《だれ》にも満足できないでいるのではないかと瑤子は思った。
伸子のような華麗な感じの女性に、ヒラヒラと飛びまわられたのでは、そのボーイフレンドたちはさぞかしいらいらするだろう。
「でも、このいも虫船だって、たとえば何かにぶつかって突然沈没したりするかも知れないわよ」
伸子は嚇《おどか》すように言う。
「でも、あたしが待ちこがれているのはそういう瞬間なの」
「つまり、アバンチュールを待っているわけ……」
「ええ」
伸子はけろりとした感じで言うと、今までの会話を忘れたかのように、ベッドをおりると窓の外を眺めに行った。
「いいお天気。もうすぐ日向よ」
たしかに、今まで水平線しか見えなかった左舷の窓に、島影が姿をのぞかせていた。
2
荷物を持ってタラップを渡るとき、伸子が急に思いついたように尋ねた。
「春子さん。お宿はどうなってるの」
人々の靴音《くつおと》がガタガタと鳴る中で瑤子は答えた。
「まだきめていませんの」
「そうだろうと思った。で、だいたいどこのあたりに落着くつもりなの」
「さあ」
すると伸子は空いたほうの手で右を示し、
「あっちは延岡《のべおか》。延岡から山へ入ると高千穂《たかちほ》峡。この正面が椎葉《しいば》、そしてあっちが宮崎《みやざき》」
と左を指さした。
「どこへ行ったらいいかしら」
日向《ひゆうが》というその港が、思ったよりずっと小さくて、瑤子には町らしい町として映らなかったから、つい心細くなって伸子に尋ねてしまった。
「じゃあ宮崎へいらっしゃい。無理のきく宿があるから紹介してあげるわ」
「すみません」
どうせ行く当てのない旅であった。瑤子は伸子の案内にまかせることにきめた。
「そこならまたすぐに会えるしね。明日、あたしもその宿へ行かなければならないの」
「まあ、それなら是非そこにさせてください」
タラップをおり切ると、がっしりした体つきの青年が頭の上で大きく手を振りながら伸子に言った。
「おかえりなさい」
「あら、出迎えはあなたなの」
伸子は不服そうに言う。
「ちぇっ、ひどいなあ」
青年はそう言って何か言い返そうとしたらしいが、そばにいる瑤子に気付くと黙って伸子のスーツケースを取りあげる。
「これ、岩井《いわい》君よ。今は運送会社の課長さん」
伸子に言われて、岩井は眩《まぶ》しそうな顔で瑤子に頭をさげた。
「岩井です。でも、ガンと呼ばれています」
「そう、ガンちゃん」
伸子がからかうように口をはさむ。
「春子です。どうぞよろしく」
瑤子が挨拶《あいさつ》を返すと、ガンちゃんは、
「ウヒー……」
と意味不明の声をあげた。照れくさがっているらしい。
「この調子だからいまだにお嫁さんの来手《きて》がないの」
伸子が笑う。ガンちゃんは先に立って階段をおり、ターミナルの建物を出て行った。車で迎えに来ているらしかった。
瑤子が伸子のあとについてなんとなくタクシー乗場のあたりに立っていると、案の定ガンちゃんがクリーム色のコロナを近付けて来た。
「はいはい、春子さんのお荷物もトランクへ」
ガンちゃんはおどけているが、素早いサービスぶりで車をおり、トランクへ瑤子の荷物をしまった。伸子はお姫様然としてコロナに乗り込む。
「ビュイックを持って来ればいいのに」
ガンちゃんが運転席に納まると伸子はすぐそう言った。
「あんな大きな車、厄介でしようがない」
ガンちゃんは伸子の高飛車な言い方に慣れているらしく、あっさりとそう受け流して車をスタートさせた。
「人間はがさつだけど、運転は大丈夫よ」
伸子は瑤子を心配させまいとして言う。
「伸子さんのお友達は、どうしてみんな綺麗《きれい》な人ばっかりなんです……」
ガンちゃんはハンドルを握って前を見たまま言った。
「判《わか》らないの、あんたは」
「判らないね」
「類は友を呼ぶってことを知らないの」
「じゃあ春子さんも気が強いんですか。とてもそんな風には見えないけど」
伸子は、
「こら」
と言って前のシートを軽く蹴《け》り、
「いつもこうなの。小さいときからの喧嘩《けんか》相手だから仕方がないのよ」
と苦笑した。
「春子さんは米沢のおばあちゃんからのお預りものよ。粗末に扱ったらひどいから」
「え……米沢のおばばさま」
ガンちゃんは大げさに驚いて見せる。
「それは大変だ。先刻来のご無礼の段、平《ひら》にご容赦くださりませ」
「まあ……」
瑤子はガンちゃんの芝居がかった言い方に戸惑う。
「青年会議所の演劇部員なのよ」
伸子は馬鹿にしたように説明した。
「それも、へたでもかまわないから新劇か何かやろうと言うならまだ判るけど、いつだってこの人たちがやるのはチャンバラばっかり」
「そりゃ無理だよ。お客あっての芝居だからね。新劇なんてやったら誰も見に来てくれはしないさ」
「どんなお芝居をおやりになるの」
瑤子が訊《き》いた。車は港から左のほう、つまり南へ向かって海岸ぞいの道路を走って行く。
「水戸黄門」
伸子がまぜっ返すように言う。
「ええ、そうなんです。このところ僕らの劇団は水戸黄門漫遊記専門。でも、脚本だってちゃんとオリジナルなんです。あの芝居はチャンバラと言っても滅多に人が死んだりしませんし、最後はいつでも悪人が這いつくばることになっているでしょう。爺さんや婆さんが結構よろこんでくれるんですよ。それに、テレビでやってるでしょう。だからテレビのほうでやってる人物構成を、そっくりいただいちゃって、ストーリーだけ独自にこしらえるんです」
「わりと頭のいいやり方なのよ」
伸子がいつの間にか褒《ほ》める側へまわっていた。
「お客は毎週テレビでおなじみだから、人物の関係とか、いろんな約束ごとを呑《の》み込んでしまってるでしょう。だからとても判り易《やす》いのね。役者のへたな分をテレビがカバーしてくれているってわけよ。そこへ持って来てストーリーはテレビでやらない奴だから、田舎《いなか》の素人《しろうと》芝居にしてはいつも大入り満員なの」
「ええ。だからもう水戸黄門をやめられないんです」
「で、岩井さんは誰の役をおやりになるの。助さん……格さん……」
「春子さん」
伸子はたしなめるように言った。
「見れば判るじゃないの。いつだって悪役よ」
ガンちゃんの笑い方では、どうやら事実らしかった。
3
瑤子は伸子にあの狙撃手《そげきしゆ》のことを話したくてたまらなかった。
狙撃手……。
瑤子はいつの間にかあの男のことを、そんな風に頭の中で考えている。しかし実際には殺人者、殺し屋に違いないのである。それを狙撃手というようにひと間隔おいて考えるのは、一種のおぞましさがあるからであった。
それは恐怖とも少し違う。瑤子の生命を狙《ねら》っているのではないからだ。が、あのカサカサに乾《かわ》いた異様な心は、思い出しても背筋が寒くなるようなおぞましさを瑤子に与える。それが、下船のとき注意して見ていたのだが、姿を見かけられなかったことも気になっているのだ。
だが、伸子はシートの隅《すみ》に体を埋めるようにして目を閉じているので、瑤子には喋《しやべ》るきっかけが把《つか》めなかった。
「宮崎までは随分遠いのですね」
港からすぐだと思い込んだのは、瑤子の早合点ばかりとは言えない。フェリーの案内パンフレットにはたしかに日向港と書いてあったが、その一方では宮崎行きなどという文字がちらちらしていたりしたのである。
「割りとありますよ」
ガンちゃんは相変らず屈託のない声で答える。
「ここらで丁度半分くらいかな」
「え……まだ半分なのですか」
瑤子は呆《あき》れた。
「宮崎ははじめてですか」
「そうなのです」
「ひと頃はシーズンになると新婚さんだらけでしたがね、この頃はだいぶ新婚さんの数も減りましたよ」
「そうですの……」
「そのかわり、車で来る人が増えたなあ。この道なんかも追い越し禁止になっているんだけれど、よそから来た連中の中には、平気でどんどん追い越しをやるのがいる。おどかすわけじゃありませんが、毎年一組や二組は死んでいますよ。土地の人間はそんな乱暴はやらないんですがねえ」
ガンちゃんは嘆くように言った。
「なぜあんなに急ぐんだか判らんですよ。去年も関西のほうの新婚さんがフェリーで来て、車をとばしすぎて死んでしまいました。旦那《だんな》さんのほうがね。奥さんは助かったそうだけれど、顔にひどい傷で……」
「まあ」
瑤子は肩をすくめた。
「僕ら運送業でしょう。会社のドライバーたちにも、県外のナンバーをつけた車には特に注意するよう言っているんです」
「こんな道、順番に並んで走っていれば事故なんか起こるはずはありませんのにねえ」
「そうなんです。きっと、欲ばったスケジュールなんでしょうね」
たしかにガンちゃんの運転ぶりは、伸子が太鼓判をおした通りに慎重であった。
そのガンちゃんが、
「あそこがサファリ・パークですよ」
と教えたのは、瑤子も乗り疲れて、少し睡気《ねむけ》がさしはじめた頃であった。
「佐土原町《さどわらちよう》……」
瑤子が坐り直して道のわきに立っている標識を読むと、眠っていると思った伸子がそのままの姿勢で、
「春子さんを先に送るから、有料道路へ入って頂戴」
と言った。
「諒解」
ガンちゃんはそう答えると、すぐその先でハンドルを左に切った。
「今越えたのが日豊《につぽう》本線よ」
伸子は体を起こして教える。その線路はだいぶ前から、ずっと道路の左側を平行に走っていた。
「まあ、綺麗なところ」
瑤子は少女のように歓声をあげたが、やがてその有料道路が海ぞいから少し陸へ入り込み、大きなホテルが見えはじめると、表情を堅くした。
「ご紹介してくださる宿って、あのホテルのことですの」
すると伸子は優しい微笑を泛《うか》べ、
「ええ」
と答えた。
「立派すぎますわ」
瑤子は費用の心配をしはじめていたのだ。その程度のホテルでも四、五日は心配ないが、この先どこまで続くか判らない逃避行なのであった。
4
初対面の時から、瑤子には伸子が富豪の令嬢らしいと判っていた。しかし、それならば宿を紹介すると言われたとき、そのことをよく考え合わせるべきだったのだろう。
伸子は生まれてこの方、金銭の心配など一度もしたことがない女性に違いなかった。
「あたしの大事なお客さまだから、いいお部屋をね。海側でなければ駄目《だめ》よ」
車をおりてフロントへ行くと、そんな風に念を押し、
「じゃあ、多分あしたまたお目にかかることになるから」
と、いとも気易《きやす》く引きあげて行ってしまった。
「お荷物はこれでございますね」
宿泊カードに新沢春子という偽名を記入していると、ボーイがやって来てクロークからキイを受取り、そうたしかめた。
「ええ」
カードを返して言うと、
「どうぞこちらへ」
と、ボーイはエレベーターへ案内して行く。米沢の駅に降り立って、宿らしい宿が見当たらなかった時にも心細さを味わった瑤子だが、思ったより贅沢《ぜいたく》すぎるホテルに押し込まれた今も、それ以上に心細く感じた。
エレベーターを出て部屋へ案内されると、瑤子は中へ一歩踏み入れるなり、
「まあ、ツインのお部屋じゃないの」
と立ちすくんだ。
「はい。フロントではこちらをお選びしたようです」
ボーイはそう言うと瑤子のそばをすり抜けて荷物を置く。
「キイはここへお置きいたします」
「シングルのお部屋でいいのに」
するとボーイは邪気のない笑顔になり、
「谷村さまのお嬢さまのご案内で見えられたのですから、フロントでも精一杯にサービスしたのでしょう」
と言った。
瑤子は溜息《ためいき》をつき、
「仕方ないわね」
とあきらめ、窓へ歩み寄った。
「外はゴルフ場なの……」
「はい。おかげさまでなかなか評判のいいゴルフ場でして、東京からもよくお見えになります」
ボーイは得意そうに言い、お定まりの室内や館内の説明をして部屋を出て行った。
「これから私はどうするのかしら」
瑤子は窓際のソファーに沈み込むと、まるで他人ごとのようにそうつぶやいた。何日ここにいるか、この先どこへ行くか、まるで判らないのだ。きめようとしても、きめる手がかりすらない。
瑤子は随分長い間そこにじっと坐り続けていた。窓の外が夕陽でいったん赤くなり、そして白っぽくなりはじめた。