「あなた」
瑤子は力なくつぶやいた。目に涙が滲《にじ》み出ていた。そのときの淋《さび》しさは、ひどく心細いのだが、なぜかどこかに甘ったるいものの感じられる淋しさであった。
ここから電話をすれば、邦彦はすぐに飛んで来てくれるはずだった。尾行されぬよう気をつけてくれと言えば、邦彦はきっとうまくやるに違いなかった。
誰《だれ》にも知られずにここで夫と落合うことができる。
充分に実現可能なそのことが、甘ったるい悲しみのみなもとであるようだった。ガンちゃんが車の中で言った、新婚さんの多い観光地だという一事が、瑤子に夫の肌《はだ》のぬくもりを思い出させてしまったことは間違いない。
「あなた」
ゆったりとした一人きりのスペースを得て、瑤子は今までの辛さを思い切り吐き出すことにしたらしい。あなた、とまたつぶやくと、ふたつ並んだベッドのひとつへ近寄って行き、うつむけにどさりと体を投げかけた。
あいにくなことに、そのベッドにはカバーがかけてあり、そのベッドカバーが、いきなり瑤子の嗅覚《きゆうかく》に、日吉の家のべッドカバーと同じ匂《にお》いを送り込んで来た。
第三者が見ていたら、その姿を何と思って見ただろうか。
「あなた……あなた……あなた……」
瑤子は泣きながら、たて続けにそう叫び、両手でベッドカバーをきつく握りしめると、力まかせに胸のあたりへ両手を引きつけた。
ベッドカバーが波打際で引く波のように枕《まくら》もとのほうから瑤子の体に引き寄せられた。
「いや……いや……いや……」
瑤子は、今度はカバーを握りしめたまま、柔らかいベッドを拳《こぶし》で叩《たた》き続けた。
ヒステリー……。
そうかも知れない。耐えに耐えていたものが、張りつめ切っていたものが、完全に人目を遮《さえぎ》った個室の中で、一度に解き放たれたのであろう。
そのときの瑤子の混乱した頭には、夫に対するわけの判らない恨みが渦巻《うずま》いていた。
「なぜ迎えに来てくれないの」
「なぜ助けてくれないの」
言いたかったのだ、それを。瑤子は家を出て以来、ずっとそれを言いたかったのだ。
スーパーマンのように勇ましくマントを翻《ひるが》えし、空を飛び、弾丸よりも早く、自分を助けに来て欲しかったのだ。
「愛しているのに。こんなに愛しているのに」
瑤子は次にそう言ってまたベッドを叩いた。夫への恨みが少し遠のき、それにかわって自分の運命に対する呪《のろ》いがやって来ていた。
これ程愛し合っている夫婦を、こんなように長い間引き裂いていていいものなのだろうか……。
瑤子はどこへ向けるすべもないその怒りと呪いを、力一杯べッドへ叩きつけているのであった。
そしてそのあとは、長い嗚咽《おえつ》。
窓の外はすっかり暗くなり、部屋の湿度も少しさがったように感じられた。
やがて瑤子は体を起こし、よろよろとよろめくようにバスルームへ行くと、バスタブの栓《せん》をしめ、湯のバルブをあけた。
バスタブに湯のたまる音を背に、瑤子は泣き濡《ぬ》れた顔のまま、ボーイが置いて行ったままの荷物をあけ、衣類は戸棚《とだな》へ、化粧品は洗面台へと運びわけた。
瑤子にしてみれば、最も悲しかったのはそのときであった。悲しみはじめたときは甘さが感じられた。泣いているときは涙に溺《おぼ》れていればよかった。怒っているときにはベッドを叩いていればすんだ。
しかし、悲しみを吐き出し、泣くだけ泣いたあと、まだ立ち直らねばならぬのは、泣き悲しんでいる最中よりはるかに辛いことであった。
瑤子は湯のたまり具合を見守りながら、バスルームのドアのところによりかかって、また新しい涙を溢《あふ》れさせていた。
夫への電話をいつの間にかあきらめている自分に気付いたのだった。
「あなた、ごめんなさい」
新しい涙と共にそうつぶやいた意味は、瑤子自身にもよく判らないようだった。
それは、さっき夫に対して恨みを向けたことへの詫《わ》びも含まれていたが、本当はそれ以上に重い意味があったのだ。
ひとりで立ち直り、湯につかって涙の跡を消すと、やがてエレベーターに乗って何気ない様子でダイニング・ルームへ向かうであろう自分自身の可愛げのなさを詫びたのである。
何がどうなってもいい。あとのことなどおかまいなしに、遮二無二《しやにむに》夫の力を頼ってすがりついて行ける女であったならば、邦彦にとっても、自分にとっても、よほどしあわせなのではないだろうかと思ったのだ。
瑤子は涙をポトポトとしたたらせながら服を脱ぎ、バスタブに身を沈めた。バスタブに入る前、湯気で曇った鏡に、ちらりと自分の白い裸の胸が映ると、あわててそれから目をそらせていた。
自分の裸身を見るのが恐ろしかったのだ。その白いふくよかな裸身に見入れば、想いは必ずや邦彦のもとへ飛ぶことになる。
瑤子は喉《のど》のあたりに重苦しい嘆きの塊《かたま》りを意識しながら、幾度も生唾《なまつば》を嚥《の》んでそれをおしさげ、消し去り、ひたすら石鹸《せつけん》の白い泡《あわ》に意識を集中させていた。
緑つらなる
1
瑤子が地下一階のメイン・ダイニングルームへ降りて行ったのは、もうかれこれ七時近かった。
気分を変えようと、柴崎ふじにもらった紅花染めのきものを着た瑤子は、自分が感じている以上に艶《つや》やかな雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせているようであった。
そのせいかどうか、ウェイターが飛んで来て、鄭重《ていちよう》にテーブルへ案内する。瑤子はキイをテーブルの左端に置くと、
「お飲物は……」
と尋ねるウェイターに、微笑を泛《うか》べながら首を横に振って見せ、メニューを読んだ。
「それくらいのことなら簡単だ」
男の声が聞こえた。傍若無人と言うほどでもないが、その声はかなり大きく、自信に溢《あふ》れている感じであった。それに答える声は、低くてよく聞きとれない。
食事に来た泊り客らしく、入口に背を向けた瑤子は、メニューから目をそらせて、ちらりとその客たちが席につくのを見た。
客は四人連れであった。四人ともきちんとスーツを着て、地位のある人物たちのようであった。
「谷村君がそういうなら間違いはないさ」
声の大きな男が壁際の椅子《いす》に坐《すわ》るところだった。
一度目をそらせた瑤子は、谷村、という名を耳にしてまたそのほうを見た。
あの男の標的だわ……。
瑤子はそう思いながら、声の大きな男をみつめた。感じがどこか金沢の岡崎唯士に似通っている。ただ、その男のほうがずっと年上だし、体もひとまわり大きいようだった。
間違いない……。船で一緒だったあの殺し屋が心に描いていた狙撃《そげき》の標的が、その人物なのである。
瑤子の心に困惑の雲が湧《わ》きあがった。その人物は殺し屋に狙《ねら》われていることを知らないのだ。しかし、それを警告してやることもできない。世間の常識の枠内《わくない》で説明できることではなかった。類《たぐ》いまれな瑤子のテレパシーだけが感知できる危険なのである。
谷村と呼ばれたのは谷村伸子の父親らしいが、見ただけではどれがその谷村氏かも判然としなかった。
「お食事は……」
ウェイターが来て瑤子に声をかけた。瑤子はメニューに目を戻して料理を選びながら、そっと心を開きはじめていた。船の上で会得した一方通行のやりかたであった。
開いた窓から内部の物音や匂いを外へ洩《も》らさず、外界の気配だけを探《さぐ》り取るのである。目に見えぬ瑤子の触手が、そっとあたりを探りはじめる。
「かしこまりました」
にこやかにそう言って去るウェイターの心が、まず瑤子の触手に触れた。その心は浮々としていた。まとまった思考にはなっていないが、彼の心は瑤子に対する最大級の讃辞で溢《あふ》れ返っているのだ。
瑤子は触手を思い切り伸ばした。触手は溶解したように拡散し、地下一階から更にその階上へとひろがって行った。まず自分と同じようなテレパスがいるかどうかたしかめているのだ。他にテレパシーを用いているものがあればそれで発見できるはずだった。
しかし、ホテルの中には何の反応もなかった。瑤子は安全をたしかめてから、また自分のテレパシーに指向性を与えた。不可視の触手がまたひとつにまとまり、ダイニング・ルームの四人の男をとらえた。
その四人は互いに害意を抱いてはいなかったが、それぞれの心には取引上の複雑な駆け引きがあって、たえず微妙な変化をしているようであった。
三戸田謙介《みとだけんすけ》。
瑤子は狙撃者の心にあったその標的が、三戸田という名前であることを一人の心から探り当てた。財界の実力者の一人である。
谷村雄策《たにむらゆうさく》。
伸子の父親の名も判った。何と谷村雄策は、談笑しながらとうに瑤子の存在を意識していたのである。
あの娘が伸子の連れて来た友達らしい。それにしても伸子め、早く来ればいいのに……。
どうやら谷村雄策は伸子をその席に加えたがっているようだった。三戸田と伸子を会わせることも、谷村の目的の一つらしい。その背後には伸子の縁談があるようだった。
瑤子は急に心の窓を閉じた。伸子の父親は瑤子を人妻だとは思っていないのだ。それがおかしくて、つい自分の思案を外へ洩らしてしまいそうだったから、テレパシーのスイッチをオフにしたのだった。
三戸田謙介という人を守ってあげよう。
瑤子はそう決心した。三戸田を銃で狙おうとしている男が、三戸田に何の恨みも持っていないことはすでにはっきりとしていた。事情はどうあれ、そんな殺し屋を傭《やと》って相手を滅ぼそうという、その心が許せなかった。
どこに隠れていても、私ならあの殺し屋を探し出せる。つかず離れずに三戸田の近くにいることが出来さえすれば、狙撃の瞬間に相手を動揺させるくらいのことはできるはずだった。
瑤子はふと、宮崎へ来てよかったと思った。逃げまわるだけではなく、人の役に立つ仕事を持てたようなのだ。
「春子さん」
そのとき伸子がうしろから声をかけた。
2
伸子は淡いブルーのロング・ドレスを着ていた。
「まあ、よくお似合いだわ」
瑤子はお世辞でなく、そう感嘆した。初対面のとき、いささか驕慢《きようまん》な印象を与えた伸子であったが、そういうスタイルになると、堂々としていて、そのくせしっとりとした女らしさを漂《ただよ》わすのである。
「どう、このホテルは。お気に召した……」
「ええ、とても」
伸子は椅子に腰をおろそうとした。
「あら、よろしいの……」
「何が」
「だって、あちらでお父さまたちがお待ちなのではありませんか」
「まあ」
伸子は瑤子を睨《にら》むように見た。
「どうして父だと判ったの」
「だって、三戸田さんの声が大きいから、聞こえてしまいますわ」
「嫌《いや》だわ。あたしのこと、何か喋《しやべ》ってたの」
「そうではないけれど、谷村君とか何とかおっしゃったので、すぐピンと来たんです。それに、よく拝見すると、どことなく似ていらっしゃるようだし」
伸子はちょっと鼻白んだ様子で、
「おやじに似てるの……」
と自分の顔を指さした。瑤子は笑い出し、
「だって、親子でしょう」
と言った。
「仕方ないわね」
伸子もそう言って苦笑する。
「お待ちかねのはずよ。早くお父さまのところへ行ってさしあげて」
瑤子が言うと、伸子はじっと瑤子の顔をみつめた。
「ふしぎな人ね、春子さんて……なよなよとしているみたいでいて、そのくせ凄《すご》く鋭い人みたい」
伸子はそう言うと二、三度目をしばたたき、
「いいわ、行って来る。でも、お食事のあとどこかへ……」
と尋ねた。
「いいえ。行く当てなどあるものですか。お部屋へ戻ってテレビでも見ています」
「じゃあ、あとでお部屋へ行くわ。もしかしたら、泊めてもらうかも知れない」
「いいですよ。だって、あのお部屋はツインのお部屋ですもの」
「あした、あのおじいちゃまたちとゴルフを付合わされるの」
伸子はそう言って悪戯《いたずら》っぽい微笑を泛《うか》べると、軽く手をあげてから瑤子のそばを離れて行った。
伸子が去るのを待っていたように、スープが運ばれて来た。
食事のあいだ、瑤子は心の窓を開かずにいた。船の中で会得したテレパシーの用法について、その安全性には自信が持てたけれど、ただの好奇心からその力を乱用する気にはなれなかった。類いまれな、大きな力を持つだけに、超能力者には超能力者としての慎みがなければいけないというように考えているのだ。
食事がおわると、瑤子は三戸田や谷村父娘のいる席に顔を向けぬように気を使いながら、さっさとダイニング・ルームを出た。へたをしてその席に呼ばれでもしたら、かえって殺し屋から三戸田を守りにくくなってしまうだろう。
それでも瑤子は、ホテルの様子を知っておくため、ぶらぶらと見物をはじめた。バーがあり、売店があり、寿司《すし》や鍋物《なべもの》を出す和食堂があり、館内の様子はそう珍しいものでもなかった。
瑤子は自分の部屋に戻った。窓の外には松林が暗くひろがっていて、その向こうは海であった。海ぞいに道路があり、車のライトが濡《ぬ》れた光を放って動いていた。
私はもう少し攻撃的に生きてもいいのかも知れない。
瑤子はふとそう感じた。自分のテレパシーをコントロールできなかった頃は、テレパス狩りの組織からただ逃げまわり、敵の目が届きそうもないところで、じっと息をひそめているしかなかった。
しかし、瑤子の超能力はそのあいだにも、日一日と成長していたらしい。川崎から日向へのフェリーの中で、ごく自然にその進歩が瑤子に自覚できたのである。敵に悟られることなく、周囲の人々の心を自在に読み取ることができたのだ。
「たしかに恐ろしい力だわ」
瑤子はつぶやいた。敵がなぜ執拗《しつよう》に自分を追いまわすのか、その気持が判るような気がしたのだ。
この力をもってすれば、たいていの人間関係は苦もなくさばけてしまう。相手の本音を知ることができるからだ。その上、自分の意志を相手に押しつけてしまうことだってできる。
その意味では、テレパシーを持たない普通の人間は、テレパシーを使える者、すなわちテレパスに対して、まったくの無防備であり、また無抵抗でもある。
たとえて言えば、それは視覚を持たぬ生物の中へ、視覚を持った生物がまぎれ込んだようなものだった。
優《すぐ》れたテレパスをかき集め、自分たちの思うままに働かせたら、世界を思いのままにあやつることができる。そして、どこかの誰《だれ》かが、その通りにやろうと、テレパス狩りをはじめているのだ。
「そうだわ」
瑤子はのんびりと時を費してはいられないことに気付いた。漫然と自分の能力の成長を待つだけではなく、自分からそれを開発する努力をしないと、いずれは敵の思いのままにされてしまう危険性があった。
3
瑤子は気を鎮《しず》め、テレパシーを開放したり、急に沈潜させたりする稽古《けいこ》をはじめた。それは精神の体操のようなものであった。繰り返しそうやっていると、テレパシーの力を閉鎖したときの感じに、浅い場合と深い場合があるのに気付いた。
近くに敵がいて、テレパス狩りの目的で周囲を探《さぐ》っているとしたら、やはり自分の心を外へ洩《も》らさぬように、受信一方のやり方をするに違いなかった。
自分の本当の思考を深く沈めて、その上に何気ないもう一つの思考をのせておくことができれば、そうしたテレパス狩りの手からものがれることができそうだった。
しかし、二つの思考を同時にするということは、なかなかむずかしかった。
が、声で喋《しやべ》るよりはむずかしくないはずだった。ふたつの言葉を同時に喋ることは絶対に不可能だが、人間は手作業をしながらまったく別なことを考えることができる。しかも、そうしたからと言って、手作業のほうでミスを犯すとは限らない。また、計算をしながらでも、ふと別なことを頭に泛《うか》べていることもあるし、柔軟な頭を持った子供たちは、勉強をしながらちゃんとラジオを聞いていたりもする。
瑤子は台所で洗い物をしながら、夫のことを考えている場合を想定し、夫のことを心の深部で、洗い物のことを浅部でと、ふたつにわけてためしてみた。
だが、どうもうまく行かないので、バスルームへ入って、洗面台で本当にタオルを洗いながらやって見た。
今度はうまく行った。かなりの精神統一を要したが、深部と浅部を使いわける要領のようなものが体得できたのである。
テレパシーを使いながらこれをやったらどうなるだろうか……。
瑤子は心の奥深くから、例の一方通行のテレパシーを発し、同時に洗面台の鏡に自分の顔を写して、自分の顔について考えはじめた。
見なれた顔だが、そうやるといつもよりずっと客観的に見ることができた。
と、テレパシーに伸子の心が触れた。伸子はエレベーターを出て、その部屋へ近付いて来る。心の中はほとんどからっぽで、部屋の番号以外何も泛んではいない。
瑤子はその実験をやめると、バスルームを出てドアのノブに手をかけた。頃合《ころあ》いを見て引きあけると、廊下に伸子が突っ立って、目を丸くしていた。
「いらっしゃいませ」
瑤子はおどけて言った。
「どうしたというの、これは」
伸子は驚きながら部屋へ入った。
「なぜあたしが来るのが判ったの」
「偶然よ」
「まさか」
伸子は信じなかった。
「教えて。なぜ判ったの」
子供が物をねだるように言う。
「足音よ」
瑤子は窓際のソファーに坐って笑った。
「ごまかさないで。足音なんかここから聞こえるわけがないじゃないの。学校の廊下じゃあるまいし」
「いい勘《かん》だったでしょう」
瑤子がそう言うと、伸子は仕方なく頷《うなず》いた。
「本当に勘が当たっただけ……」
「そう。私は勘がいいの」
伸子はゆるく左右に首を振りながら、瑤子と向き合って坐った。
「ふしぎ……というより、春子さんて、どこか変よ」
「どういう風に変なの……私は普通の人間のつもりだけれど」
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないんだけれど」
瑤子はそう言う伸子を微笑しながらみつめた。
「で、どうしたの……」
「何が」
「下でのお話よ」
「別に何もないわ。ただ、おじいちゃま連中のお相手をさせられただけ」
「あら、そうかしら」
そう言うと、今度は伸子がじっと瑤子をみつめた。
「やっぱり変だわ。あたしがなぜあの席に呼ばれたか、知ってるみたい」
瑤子はたのしそうに笑った。
「こう見えても私は結婚している女よ。伸子さんより年も上だし、ご縁談がからんでいそうなことくらい、雰囲気《ふんいき》で判るのよ」
「なあんだ」
伸子は釣《つ》り込まれたように苦笑したが、その目にはまだ疑いの色があった。
「父にここへ泊るって言っておいたの。あした、ゴルフの道具を届けてくれるはずよ」
「ゴルフ、お上手のようですわね」
「さあ、どうなのかしら」
伸子は他人事のように言い、
「あなたはゴルフ、なさらないの」
と訊《き》く。
「いいえ」
「この外がすぐゴルフ場になっているから、あした一緒にひとまわり歩いたらどうかしら」
「私は結構。この窓から拝見しているわ」
「そうね。ここからならよく見えるわ」
伸子はそう言うと、
「ねえ、一杯付合ってもらえないかしら。おじいちゃま連中はお部屋へ引きあげたし」
と、瑤子をバーへ誘った。
4
伸子にすすめられたブランデーのおかげで、その夜瑤子はぐっすりと眠れた。
目覚めると七時だった。寝すごしたと思い、あわててベッドをおりたが、となりにはまだ伸子が軽い寝息をたてていた。
そっとバスルームへ入り、洗顔して髪を整え、スラックスをはいて部屋へ戻ると、伸子がものうい声で訊いた。
「なん時なの……」
「お早う」
瑤子は暗い中で言い、
「カーテンをあけてもいいでしょう」
と窓際へ行った。
「もう七時すぎですわ」
さっとカーテンを引きあけると、朝の光が伸子のベッドのあたりへ襲いかかるようにさし込んだ。
伸子は黄色い声をあげてシーツをかぶってしまう。
「意地悪ねえ。あたしは朝が弱いのよ」
「さあさあ、起きて」
瑤子はふざけて伸子の手からシーツをもぎ取った。
「飲みすぎたみたい」
伸子は両手で頬《ほお》のあたりをおさえて言った。
「ねえ、あたしゆうべ春子さんにからまなかった……」
「いえ、別に。でもご機嫌《きげん》だったわ、とても」
「よかった」
伸子は起き出して素足のままバスルームへ入った。
「あたしって、ときどき人にからむのよ。酒癖が悪いの」
伸子はそう言うと、すぐにシャワーの音をさせはじめた。
窓の外の松林に、もうちらほらと人影がある。派手なシャツやスラックスのゴルファーたちであった。
たしかにここからならよく監視できそうだわ。
瑤子はそう思ったが、気がつくとその思考は心のかなり深いところでなされており、表層では晴れ渡った空の下のゴルフ場の様子をほめたたえているのだった。
瑤子はそれに満足した。いろいろなトレーニングを積めば、いずれ完璧《かんぺき》なテレパスになれるのではないかと思った。
「朝ご飯は下でしましょうか」
シャワーの音がやむと、伸子がバスルームのドアから首を突き出すようにして言った。ルームサービスですませるつもりだったらしい。
伸子はすぐに出て来ると、急に気付いたように指をパチンと鳴らして見せた。
「しまった。ロング・ドレスのままだわ」
「かまわないじゃないの」
「嫌《いや》よ。やっぱりルームサービスにするわ」
伸子はベッドに腰をおろし、ホテルの浴衣《ゆかた》を羽織って体に巻くようにすると、係りを呼び出してコーヒーや卵を、瑤子に相談もせずさっさと二人前たのんでしまった。
「家へ電話をしないと。あいつ、ゴルフ道具だけしか持って来てくれないわ」
「あいつ、って……」
「ガンちゃんのことよ」
「まあ」
瑤子は笑った。伸子はまたダイアルをまわしはじめる。
いったい、こういう女性はどんな毎日を送っているのだろうか。
瑤子は電話をかける伸子を見ながらそう思った。いつどんな時でもお姫さまの姿勢を崩《くず》さない伸子が、まるで別の世界に住んでいる女のように思えるのだった。
そしていつまでこのままの姿勢でいられるのか……。いま縁談が持ちあがっているという。それが最初の縁談だとしたら、父親の谷村雄策にはちょっと気の毒だが、絶対にまとまらないような気がした。理由は特にない。ただ、伸子のような女性が、最初の結婚話ですぐお嫁に行ってしまうとは思えないのだ。と言って、恋愛結婚で駆落《かけおち》同然に愛の巣へこもると言う風にも思えない。
ずっと成り行きを見ていたい……瑤子がそう思ったとき、伸子は電話を切った。
「ねえ、いま何を考えていたの……」
「え……別に……」
「嘘《うそ》よ。あたしのことを考えていたでしょう」
「まあ、伸子さんこそテレパシーを使うみたいだわ」
「テレパシー……」
伸子が怪訝《けげん》な表情になったのを見て、瑤子は少しうろたえた。
「伸子さんが言ったのよ」
瑤子は辛うじてごまかした。
「ゆうべ、あたしのことを、テレパシーを使うみたいだ、って」
「ああ」
伸子はどうやら納得してくれた。
「だって、それは春子さんの勘がよすぎるからよ。でもあたし、テレパシーだなんて言ったかしら」
「あら、忘れちゃったの」
瑤子はなれなれしく言ってその場をとりつくろったが、同時に伸子の思考を探りはじめた。
テレパシー……。
伸子の心にそれが大きくわだかまっている。ゆうべ伸子はそんなことは言わなかったのである。しかし、少し酔っていたらしくて、その記憶がないこと自体は決して怪しんでいない。自分が言ったこととして、いま改めてテレパシーについて考えはじめている。
「スタートはなん時からだったかしら」
瑤子は伸子の思考をそのことから引き離そうと躍起になった。
「三戸田さんという方はお上手なんでしょう」
「さあ、どうかしらね」
伸子の返事はうわの空だった。
「私はゴルフのことなんてよく知らないけれど、伸子さんのハンデキャップは……」
伸子はぼんやりと瑤子をみつめ、
「そうね」
と考え込んだ。
「おいくつ……」
「ほんとだわ。もしテレパシーを使える人がいるとしたら、きっと春子さんのような人ね」
瑤子は困惑して黙り込んだ。迂闊《うかつ》なことはできないのだ。人間はテレパシーを用いなくても、真実を見抜く力を持っている。
5
伸子たちがコースに出ている。瑤子はソファーを窓に向けて浅く坐り、窓枠《まどわく》に両肱《りようひじ》をついて、じっと外を眺めていた。
伸子たちの思案がその心に流れ込んでいる。みんなゴルフを心からたのしんでいるようだった。
が、瑤子はのんびりとしてはいられなかった。殺し屋が伸子のそばにいる三戸田謙介を狙《ねら》っているのだ。
瑤子は伸子たちの周囲にテレパシーを拡散させた。あの殺し屋が現われれば、嫌《いや》でも三戸田に対しての思念を凝《こ》らさなければならない。そうすれば必ず瑤子のテレパシーに訴えて来るものが生ずる。
三十分、一時間、一時間半と、何事もない時間が過ぎて行った。
現われないのではないか……瑤子がそう思いはじめたとたん、ひとつの思考がちらりと動いた。
来た……。
その思考は強く瑤子のテレパシーにそう触れていた。
予想していたよりずっと遠くにいたのだ。考えて見ればそれも当然だったのだ。ゴルフ場の客は歩くコースをきめられている。狙撃者はそのコースの、最も自分に有利な位置で待ち構えていればいいのだ。
瑤子は少しあわてた。狙撃者はすでに銃を構えているのだった。
拡散してあったテレパシーを、一気に束ねるようにしてその殺し屋にさし向けた。
殺し屋はすでに三戸田に狙いをつけているのが判った。
いけない、このままでは引金を引いてしまう。
瑤子はうろたえたが、何しろはじめてのことなので、どうやったら相手の意志をねじ伏せることができるか判らなかった。が、夢中になって探るうち、相手の張りつめた心の一部に、ひどく脆弱《ぜいじやく》な部分があるのに気付いた。
「ここだわ」
瑤子は声に出して言い、精神をいっそう強く集中した。
殺し屋は突然不安に襲われて、うしろを振り向いたようだった。瑤子の探り当てた部分は、彼に不安をもたらす、警戒心の中心だったらしい。殺し屋がキョロキョロとあたりを見まわしているのが判った。
しかし、誰もいるわけがない。殺し屋はまた銃を構えた。
畜生、あの女が邪魔だな。
殺し屋がそう考えたので、瑤子はドキリとした。伸子が危険だと思った。
一度不安を感じた殺し屋は、焦《あせ》りはじめていた。三戸田謙介を狙うたび、その火線をちらちらと動く伸子に対して、腹を立てているのだ。
あの女め。かまわずにぶっ放してやろうか……。
殺し屋の指に力が入る。瑤子は思わず伸子に呼びかけた。
「どいて、危い……」
伸子の心にそれがどう響いたか、知ることはできない。が、逆に伸子は竦《すく》んだようにその場に立ちどまってしまった。
殺し屋は次の瞬間を狙って引金に力をこめた指をかけたままだ。
瑤子は殺し屋の心へ、今まで一度もしたことがないほど深く介入した。
「人の命を奪ってはいけません」
実際に瑤子は部屋の中で声に出してそう言っていた。
殺し屋が目を閉じるのが判った。
「糞、ここでは無理だ」
不意に湧《わ》いた自制心のようなものを、殺し屋は自分の身の安全の為のもののように感じたらしかった。
今日はやめだ。やはりあの古墳のかげからにしよう。
殺し屋はそう考えると、急いで銃をゴルフバッグにしまい、何食わぬ顔で歩きはじめた。
瑤子は太い溜息《ためいき》をついて全身の力を抜いた。両方の掌《てのひら》は汗でびっしょり濡れていた。
でも、私は人を助けたのだわ。
疲れ切った感じで立ちあがりながら、瑤子はそう思った。今まで一度も味わったことのない充実感があった。
狙撃者は古墳のかげに
1
谷村伸子たちがゴルフ場から引きあげて来たとき、瑤子《ようこ》は一階のティー・ルームで紅茶を飲んでいた。
殺し屋を遠くへ去らせてから、瑤子はテレパシーを用いていないから、伸子が背後から近付いて来ても全然気が付かなかった。
「くたびれたわ」
伸子はそういうと瑤子の前の椅子《いす》に腰をおろした。
「あら、お帰りなさい」
瑤子は微笑した。
「どうでした……」
伸子は拗《す》ねたような表情で、
「散々よ」
と答え、片手をあげてウェイトレスを呼んだ。
「あたしにもレモン・ティーを」
「かしこまりました」
ウェイトレスは去って行く。伸子はなんとなくそのうしろ姿を目で追っていた。
「私もご一緒すればよかった。だって、こんなにいいお天気なんですものね」
すると伸子はウェイトレスから、ガラスの向こうの松林に目線を移した。
「あら、来てたじゃないの」
その言いかたは、瑤子に対して何かわだかまりを持っているようであった。
「変な伸子さん……私はずっとホテルの中にいたわ」
「嘘《うそ》」
伸子は突然瑤子を真正面から見据《みす》えて言った。
「五番のグリーンの手前であたしに何か言ったじゃないの」
「五番ホール……」
瑤子は眉《まゆ》をひそめた。
五番か六番か、実際にそのコースを歩いたことのない瑤子には判るはずもない。しかし伸子が瑤子からテレパシーを受けたことを確信していることははっきりと判った。
瑤子は伸子から目をそらし、松林を見た。
「何が危なかったの。教えて頂戴」
伸子は率直に、そして厳しく詰め寄った。瑤子の心に、自分の思いあがりを責める気持が動いた。
人間はテレパシーを使わなくても、相手の心を見抜く力を持っている。そう考えたのは今朝のことであった。しかし、そのことをもう一歩踏み込んで考えると、瑤子自身のテレパシーの問題につながって来るようなのであった。
たしかに自分は類《たぐ》いまれな超能力に恵まれている。だが、その自分も人間である以上、超能力をもたらす基本的な構造は、他のみんなと変りはないはずなのだ。たとえば、百メートルを十秒で走れればそれは驚異的なランナーであろうが、走るという能力自体はすべての人間が等しく持っている。それと同じで、広い範囲に自在にテレパシーをあやつれることは、たしかに超能力を持つということであるが、勘とか第六感とかというかたちで似たような結果を得ることは、人間として決して珍しいことではない。現にあの殺し屋は自分のテレパシーに動揺して狙撃を中止しているではないか。それは彼がテレパシーのようなものを受けとめる能力を持っているということになる。誰《だれ》でもその芽のようなものは持っていて、自分は特にそれが大きく発達しているだけなのだろう。
瑤子はそう思った。伸子はその芽が普通の人間よりやや大きい女性なのかも知れない。だから、たとえ生まれてはじめての経験にせよ、自分からテレパシーを受けたことを、事実として確信しているのだ。
「隠してはおけないわね」
瑤子がそう言ったとき、ウェイトレスが伸子の前に紅茶を運んで来た。伸子は瑤子をみつめたまま、器用にレモン・スライスをカップの中へ入れた。
「今朝、伸子さんはあたしにテレパシーが使えるのは私のような人間だと言ったわね」
伸子は熱っぽい瞳で頷いた。
「そうなのよ。私はテレパスなんです」
「テレパス……テレパシーを使える人のことね」
「ええ」
「やっぱり」
伸子の顔から厳しいものが去る。
「やっぱりそうだったの」
「あのとき伸子さんは誰かに撃たれそうだったのよ」
「撃たれる……あたしが……」
伸子は目を丸くした。怯《おび》えている顔ではない。逆にうれしがっているような表情であった。
2
「船の中で気が付いたの。私たちの近くに銃で人を殺そうとしている男がいたのよ」
「まあ……」