伸子は念を押すような目で瑤子をみつめたが、好奇心の燃えたったその表情から、急に笑いが消えた。
「殺し屋……」
「そうみたいね。実は私、あの船の中でこっそりテレパシーを使う練習をしていたの。私は迂闊《うかつ》にその力を使ったばかりに、こうやって逃げまわる羽目になってしまったんです。だから、もっと安全に……と言ったって、なかなか判ってはもらえないでしょうけれど」
「全部教えて」
伸子は姉に甘える妹のような言い方をした。瑤子も喋《しやべ》りはじめると急に気が楽になるようだった。
「テレパシーを電波にたとえるのはどうかと思うけれど、たとえばレーダーのようなものを考えて見てください。レーダーは相手のいる位置を探《さぐ》り出せるけれど、相手が適当な装置を持っていれば、逆にこちら側の位置も知られてしまうわけでしょう」
「そうらしいわね。あたしは電気のことはまるで苦手《にがて》でよく判らないけれど」
「でも、ラジオはそうじゃない……ラジオとレーダーは一緒にできないけれど、テレパシーではそうなんです。使いかたが未熟だと、受信と発信を一緒にやってしまうらしいんです。私は受信だけのやり方をあの船の中で練習していたんです。船の中に敵がいないことはたしかめたし、練習するには一番安全な場所ですもの」
「そうだったの」
伸子は感心したように頷《うなず》く。
「そうしたら、上陸後|誰《だれ》かを射殺することをきめている心にぶつかったの。それはカサカサした心で、しかも殺す相手をただの標的としか考えない、プロの殺し屋の心だったんです。彼の心には広い松の林が泛《うか》んでいました。ホテルへ来て、それがこのゴルフ場のことだと判ったんです」
「でもまさか」
伸子はちょっと言い渋り、照れたような微笑を浮べた。
「あたし、そんな悪いことはまだしていないつもりよ」
「悪いこと……」
「殺し屋に狙《ねら》われるようなこと」
瑤子も思わず笑った。
「あなたじゃないわ」
「誰が狙われているか判ってるの……」
瑤子は周囲に気を配ってから、低い早口で告げる。
「三戸田謙介」
「あ……」
伸子は口に手を当てた。
「理由は私には判らないの」
「でも見当はつくわ。あの人ならね」
「その殺し屋だって理由は知らなかったようよ」
「そうでしょうね。お金だけが目的の人殺しですもの」
「あのとき殺し屋は、私が気がついたらもう銃で狙っていたの」
「まあ、そんなことまで判るの……」
「ええ。ところが、伸子さんが三戸田さんの前にウロウロしてて邪魔になっていたんです。かまわず射ってしまおうかと殺し屋が考えたから、あなたに危いと……」
「それを教えてくれたわけね。それならお礼を言わなければ。でも、とても不愉快な気分だったわ。いきなりあなたの声……いえ、それは違うわね。あなたはいなかったんですもの。あなたの印象、とでも言ったらいいかしら。とにかくあなたに間違いない印象が、声のような感じであたしの体の中に響きわたったんですもの。ビクッとして足がすくんじゃったわ。あんな物凄《ものすご》い勢いで命令されたことなんて、生まれてこのかた一度もなかった」
伸子はまざまざとその時の感覚を思い出したらしく、首をすくめて見せた。
「それで、殺し屋をどうやって撃退したの」
伸子に言われ、瑤子は苦笑した。
「撃退だなんて、伸子さんも少し大袈裟《おおげさ》ね」
「でも、射たせなかったでしょう」
「人の命を奪ってはいけないと言ってやっただけよ」
「でもそれはテレパシーじゃないの。あれがどんな感じか、あなたは自分では判らないでしょうね」
そう言えばそうだった。
「極端な場合、あれをやられたら生きているのが嫌《いや》になるかも知れないわよ」
伸子は瑤子にとって恐ろしいことを口にした。
3
「どうしたの……」
伸子に言われて我に返った瑤子は、無意識にカップをとりあげて冷めかけた紅茶を飲んだ。
「そうね。恐ろしいことだわ」
「あら」
伸子はやっと気付いたらしく、
「悪いことを言ったようね。ごめんなさい」
と詫《わ》びた。
「でも、そんな感じがしたのよ」
「いいんです。たしかにその可能性はあったようだわ。私が気付かなかっただけなの」
瑤子は目の前が暗くなる思いであった。
テレパシーを悪用すれば、一人の人間から生きる希望を奪い去り、死に追いやることもあり得るのだ。
「たとえば一人の人が崖《がけ》っぷちに立っているとするわね。私が遠くから、一歩前へ出ろと強くテレパシーで命令したら、その人は足を無意識に踏み出してしまうかも知れない。テレパシーにはそういう使い方もあるのよ」
「およしなさいよ、春子さん」
伸子は真剣な表情で言った。
「あなたはそんなことをする人じゃない」
瑤子の耳に、その声はひどく遠くからのもののように聞こえた。
涙の出かたにもいろいろある。瑤子のそのときの涙は、いきなり当人の気持に関係なくふきあげたものであった。
長い間、心の底にわだかまり、自分でもそれを極力おさえつけていたものが、一挙に解放されたのだった。
伸子は唖然《あぜん》としたように瑤子をみつめていた。瑤子は激しく流れ出す涙を人に見られまいと、真横に顔を向け松林を見ていた。しかし実際には次から次へと溢《あふ》れ出す涙で、何も見えてはいなかった。
伸子がそっと席を立った。どうやらレジで会計をすませたようであった。すぐ瑤子の肩に伸子の手が柔らかくのせられた。
「行きましょう」
チャリンと音がして伸子がテーブルの上のキイを取りあげたのが判った。瑤子はかすかに頷き、急いでハンカチを出して涙をおさえると、大きく息を吸って立ちあがった。
さいわい二人に注意を払う者は近くにいなかったし、エレベーターにも同乗者はなかった。
エレベーターを出ると、伸子は小走りに先に行ってドアをあけ、瑤子を部屋へ入れてからドアをしめた。
「どうぞ」
伸子は妙に悪戯《いたずら》っぽく言った。瑤子が思わず振り返ると、伸子は今まで一度も見せたことのない、上品で物柔らかな、優《やさ》しい微笑を浮かべて立っていた。
「どっさりお泣き遊ばせ。お邪魔ならロビーへ行っていますわ」
泣き笑い、だった。瑤子は涙を流しながら、
「いてよ」
と笑った。
「悲しいのね」
伸子は近寄って瑤子の肩に両手をかけ、ソファーに押しつけるように坐《すわ》らせた。
瑤子は素直に坐り、頷いてからまた涙をハンカチでおさえた。
「何がそんなに悲しいのか、教えてもらえる……」
伸子は明らかに瑤子の気持を楽にさせようとして訊《き》いているのだった。
「いいわ。でもその前に、顔を洗って来るわ」
「どうぞ」
瑤子は坐ったばかりのソファーから立ちあがってバスルームへ入った。お湯を出しながら鏡を見る。思ったよりはれぼったくはない顔だった。
伸子との間の垣根《かきね》が、一度に取り払われた感じであった。
4
バスルームを出た瑤子は元のソファーに戻った。
「テレパシーのことなのよ」
「やっぱりね」
「私の家系には、そういう超能力者を出す血が流れていたらしいの。私が自分のテレパシーに気付いたとき、祖父がとても心配したのを憶《おぼ》えているわ。人には知られるな、って」
「どうしてかしら」
伸子は首を傾げた。
「不幸を呼ぶからでしょうね。私もそのときはまだそのことがよく判らなかったけれど、今はよく判るの」
「不幸……」
「ええ。夫とも別れ別れになってしまったし」
「ご主人はテレパシーのことを知っていらっしゃるの」
「いいえ」
「じゃ、どうして……」
「あなたにさっき言われたでしょう。テレパシーで人を殺すことだってできるって」
「ごめんなさいね、悪いことを口走ってしまって」
「いいの。本当なんですもの」
伸子の表情が一瞬堅くなった。
「まさか」
「ええ、私は人を殺したり傷つけたりはしないわ。でも、それと同じようなことをしてしまったの」
「まあ……」
「主人の会社へ行ってテレパシーを使っていたのよ」
「ご主人の会社で……」
「ええ。月に二度くらい、主人と外でお食事をするということで、会社へ行っていたの。そこで私はテレパシーを使っていたのよ」
「何の為に……」
「主人がみんなによく思われるように、テレパシーで会社の人たちに働きかけていたの。それがどれくらい役に立ったか、はっきりと量《はか》ることはできないけれど、とにかく主人は会社でうまくやっていたわ。課長の年少記録を更新したりしてね。ところが、その罰が当たってしまったみたい。誰かが私のテレパシーに気付きはじめたの。でも、なかなかそれが私だということを突きとめられなかったようよ」
「その、気付いたというのは何者なの……」
「それが、とんでもない大きな相手だったのよ。今言ったように、私はテレパシーで他人が主人に好感を抱かせるようなこともできるわけでしょう。そういう力があると知ったら、一番それを欲しがる人はどんな人たちだと思う……」
「政治家」
伸子は即座に答えた。
「選挙は間違いなく当選ね」
「もっとスケールが大きいの。国際政治の舞台へ、そういうテレパスが送り込まれて、相手の本心を読んだり、こちらの希望するような態度を相手にとらせたら……」
「たしかに、そういうことになるかも知れないわね」
「そうでしょう。でも、テレパスは世界にまだそう多くいるわけじゃないの。そこで、東と西に分れて、世界中でテレパス狩りがはじまったのよ。以前一度テレパシーの能力を持ったことのある祖父は、そのことを知っていて、私に逃げるように教えてくれたの」
「すると、テレパシーの能力は消えてしまうこともあるわけなの」
「ええそうらしいの。ひょっとすると祖父は、それが消えるまで逃げていろと言うのかも知れない。でも、いつ消えてくれるか判らないんですもの」
「でも、なぜご主人にもわけを言わずに……」
「言えないわ。私の力で出世したと思ったらどうなるの」
「あ、そうね。そうだわ」
「言えないでしょう」
「ええ、それは判るわ。でも、黙って消えたままのあなたをご主人はどう思うか……」
「祖父は、主人が必ず私を信じてくれると言うの。ただそれだけにすがって、私はテレパス狩りの手から逃げまわっているのよ」
「安心したわ」
伸子は心からほっとしたように言った。
「あなたが人を傷つけたりしたのかと思った。でも、それなら当たり前よ。誰だって、妻は夫の力になりたいと思っているわ。それをあなたは実行できただけじゃないの」
「違うのよ。私のやり方は、他人の持っていないテレパシーを使ったやり方なのよ。これは正しい競争じゃないでしょう。不正行為よ。でも、それもこれも、私がテレパシーを持っていたせいなの。今までただ私がおろかだからそういう失敗をしてしまったんだとばかり考えていたけれど、さっきのあなたの言葉ではっきりしたの。持っている能力を使わないでいるということは不可能だったのよ。もし、さっきゴルフ場で私がテレパシーを使わなかったら、殺し屋は確実に三戸田謙介という人を射殺してしまっていたでしょう。使わないわけには行かないのよ」
「そうね」
伸子は少し考えてから続けた。
「そうだとしたら、あたしは春子さんがこれからもう少し生き方を変えるべきだと思うの。そのテレパシーというものに、もっと正面からぶつかって行く生き方をすべきだわ」
瑤子は伸子の言葉を理解しかねていた。
「どういうことなの、それは」
伸子の目はキラキラと光っていた。
5
伸子はテレパシーを瑤子の弱点ではないと断言した。
「もっと正直に生きるべきよ。さいわいと言っていいかどうか判らないけれど、あたしは本当に何不自由もなく育てられたし、今もお金に困るようなことはまずないわ。そういう家庭に生まれてしまったのよ。でも、裕福な家に育ったからと言って、人の心が全然判らないわけではないし、まして弱い者を足蹴《あしげ》にしていいと思い込んでもいないわ。ところが、世間にはよく、貧乏な家に生まれついたことを正義のように言う人がいるじゃないの。本当にそうかしら。豊かな家に生まれたから最初から悪い奴だなんて、少しおかしいんじゃない……私は貧乏な人を一度もさげすんだことはないわ。ただ、貧しい為に心がいじけたり、必要以上に卑《いや》しくなったりする人に会うと、ああよかったな、と思うだけ。自分が豊かな家に生まれたことを感謝したくなるのよ。そして、決してああいう風にはなるまいと……馬鹿にするんじゃないのよ。ただ自分をそう思って見直し、いましめるだけ。まあ、ことがお金のことになるから、いろいろとそれについては議論の余地もあるでしょうけれど、要するに豊かな家に生まれたこともまた、生まれつきということなんだわ」
「そうね」
伸子の側には伸子の側の理屈があるのだと瑤子は思った。
「あなたがそれと同じよ」
「え……」
瑤子は不意を衝《つ》かれたように伸子をみつめた。
「あなたは人の持っていない力を持っている。しかもそれは生まれつき……どうしてそれを必要以上に隠す必要があるの。それはあなたの身を守る為だけのことじゃないの。テレパス狩りがやって来たら、どこかで対決しなくてはいけないんじゃない……今は逃げ廻っているけれども、そのうちきっと対決する時が来るわ。そして、それまでの間、あなたは世にも貴重なその力を、誰の為にも使わないでいるというわけなのよ。ただひたすら、その能力が消えてなくなってしまうのを待っているだけ」
伸子はじっと瑤子を見た。
「お金持が、お金をためこんで、人に知られると盗まれるからと、じっと息をひそめている姿を想像してごらんなさいよ。今のあなたはそれに似てるわ。結局、お金をかかえ込んだまま死ぬのよ。でも、お金ならそのあとで人がまた使ってくれる。ところがあなたの能力は消えてなくなってしまうの」
「ひどい言い方ね。だけど、残念ながらその通りだわ」
「そうでしょう」
「つまり、できるだけのことはすべきだと言いたいのね」
「そう。何から何まで一人で背負い込めと言うのではないし、あっちこっちへ出しゃばりなさいと言ってもいないのよ。でも、その力を人の役に立てたらいかが……国際政治の道具になるのも困るけれど、逃げまわり、隠してばかりいたのでは、あなたはさっきのように自分を悲しむだけでしょう。大力無双の男の子が、その使い道を知らなくて、かよわい女の子にいじめられて泣いているみたい。心の優しいことは褒《ほ》めてあげられるけど、見ていてイライラして来ちゃう」
伸子は瑤子の聞きにくいことを、ズバリと言ってのけたようであった。二人は睨《にら》み合いのように、みつめ合っていた。
「有難う」
瑤子はしばらくしてそう言った。
「判ったわ」
「判ってくれた……」
伸子はうれしそうにそう言った。
「あなたはあたしに一度もテレパシーなんか使わなかった。いえ、実験台くらいにはしたかも知れないけれど、ご自分に好感を持たせようなどとしたことはないはずよ」
「ええ」
「でも、あたしはあなたが好きになっていたの。正直で優しくて、その上とても勇気のある女性だと感じていたわ。あなたはテレパシーなんか使わなくても人に好かれる人なのよ。だからあたしは信頼するの。あなたがテレパシーを使って何かしても、決して悪いことにはならないって」
「そう思ってもらえるとうれしいわ」
瑤子は伸子を十年来の親友だったように感じた。
「あたしって物好きでしょう。あなたのマネージャーになってあげる」
伸子は我儘《わがまま》な令嬢に戻って、甘えた顔で言った。
「応援したいのよ」
瑤子は微笑して頷いた。
6
結局、そうは言ったものの、伸子にも瑤子の超能力を今後どんな風にして生かして行くか、特にめあてはなかった。
しかし、瑤子の気分は一転して今までになく明るくなっていた。ホテルの内外《うちそと》を歩きまわりながら、テレパシーについて伸子と徹底的に語り合っていた。
ところが、夕食のとき、伸子がふと言い出した。
「それで、あの殺し屋はもうあきらめたのかしら」
とたんに瑤子はギクリとして、ナイフで皿《さら》に音を立てさせてしまった。
「いけない、忘れていたわ」
「何なの」
「岡……とか何とか、次の狙撃《そげき》する場所らしいことを考えていたのよ」
「殺し屋が……」
「ええ」
「大丈夫よ」
伸子は瑤子のうろたえぶりを笑ってうしろを見た。
「あの通りですもの」
三戸田謙介が、昨夜と同じように谷村雄策たちとにぎやかに食事をしている。
「でも、また狙《ねら》われるのよ」
瑤子が言うと伸子はすっと席を立った。
「ちょっと訊《き》いて来るわ」
伸子は三戸田たちのテーブルに行って、何かふたことみこと言い、すぐ戻って来た。
「大変」
「どうなの……」
「三戸田氏はあしたの午後東京へ戻るらしいんだけれど、その前に西都原《さいとばる》へ行くんですって。もしかするとそこらで狙われるんじゃないかしら」
「西都原……」
「西都原古墳群と言って、特別史跡公園に指定されているんだけど、三戸田氏はまだ行ったことがないらしく、今度は最初から予定に入れているんですって」
「古墳群と言ったわね」
「ええ。三二九基……だったかしら」
「三二九……何のこと」
「古墳の数よ。東西二キロ、南北四キロばかりのところに密集しているの」
「それだわ。テレパシーだから、言葉でははっきり把《つか》めなかったけど、岡みたいなイメージの場所よ」
「岡……それならあそこよ。岡だらけだわ。古墳は小さな岡になっているのよ」
「何とかしなければ……」
「ついて行くしかないわね」
「ホテルを何時に出るか、はっきり訊いておいて。あたしたちは先まわりしなくては、一緒について行くのでは、彼が引金を引く前にみつけられるかどうか自信がないの。だって、プロの殺し屋でしょう。憎悪も何もなくて、今日だってときどき心がポカッと空白になってしまうのよ。スポーツと同じね。無心に的を狙うんだわ」
「あ、そうかも知れないわね。すると、射つ前にいろいろ考えたりしている所をテレパシーでつかまえないと」
「そう。お願い、西都原へ先まわりできるように手配してくださらない」
「判ったわ。時間はたっぷりあることだし、ガンちゃんに車で来るように言えば、大よろこびで約束の時間より一時間も前に来てくれるわよ」
「それなら安心だけど……」
瑤子は言い澱《よど》んだ。
明日の襲撃は自分の力で防げそうだ。しかし三戸田謙介にそのような敵がある以上、いつまでも殺し屋に狙われる危険は去るわけがない。
一生、三戸田のボデーガードになるわけには行かないのだ……瑤子はそう思い、眉《まゆ》を寄せていた。
夜のぬくもり
1
「私のほんとうの名前は、野川瑤子です」
瑤子は電話機のそばに備えつけてあったメモに自分の名をボールペンで記し、じっとみつめている伸子に手渡しながら椅子《いす》に戻った。
ひどくさっぱりした気分であった。重い秘密を一気にぶち撒《ま》けたことで、こころよい解放感を味わっている。
伸子は瑤子からメモに視線を移し、思慮深そうな表情で言った。
「あたしはそう思うの。すぐにご主人に連絡すべきだわ」
今度は瑤子がまじまじと伸子をみつめる番であった。
「今すぐに……」
伸子は目をあげて瑤子と視線を合わせた。その瞳《ひとみ》は思いなしか柔和な笑いを含んでいるようであった。
「そうよ」
みつめられている内に、瑤子の顔に紅がさして来た。
「今すぐに……」
なかば無意識にくり返す。
「あなたがあたしに打ちあけた以上、もうご主人に隠している必要はなくなったじゃないの。違うかしら……」
瑤子はあいまいに、
「ええ」
と答えた。
「すぐにご主人をここへお呼びしなければいけないわ」
強制するのではなく、たしなめるような言い方であった。
瑤子はたまりかねて坐《すわ》ったばかりの椅子《いす》を立ち、窓際に両手を突いて外を眺《なが》めた。胸に熱いものがふきあげて来る。その熱いものは、痺《しび》れるほど甘美でもあった。
背後で伸子の声が続く。
「秘密を一人きりで背負っているうちは、ご主人にも会えなかったでしょう。たしかに、あなたはご主人に対して申しわけないことをしていたのかも知れないわね。男性はお仕事に関して妻から援助を受けることをいさぎよしとしないらしいから。……もっとも、それをよろこぶ人もいるでしょうけれど、あなたのご主人の場合はどうやらそういう人ではないらしいし。だからあなたはご主人にも打ちあけず、黙って一人きりで逃亡の生活に入ったんでしょう。しかし、その逃亡生活ももう随分たったじゃないの。あなたの償《つぐな》いはそれですんだのではないかしら。考えて見れば、自覚していなかったにせよ、ご主人だってそれで大きな恩恵を受けていらしたんですしね。いまだにあなたを愛し、信じているのだとすれば、今度はご主人があなたの力になるべきよ。ご主人だってそうしたいにきまっているわ」
伸子の言葉は瑤子にとって強い説得力を持っていた。
超能力が消える日まで逃げまわっている。そう思い込んで来た瑤子だったが、伸子の言う通りどこかの時点で夫に救いを求めることも考えて見るべきだったのだ。
「あなたは今、あたしに秘密を打ち明けた。あたしに打ち明けてご主人に隠している理由があるのかしら。機が熟すということを言うわね。今がそれよ。機が熟したのよ。情勢が変って、ご夫婦でその問題に立ち向かって行くべき時になったのよ。あたしはそう思うわ」
「そうね」
瑤子は自分の喉《のど》が圧迫されているような気がしていた。胸からひろがった熱いものが、喉の辺りにまで達していて、声がうまく出せないような感じであった。
邦彦《くにひこ》に連絡できる。
そう思っただけで、今にも涙がふきこぼれそうになるのであった。
瑤子はかなり長い間、同じ姿勢で窓の外に顔を向けていた。伸子の思いやりは、瑤子にその時間をたっぷりと与えてくれていた。
「そうなのね」
瑤子が再びそう言って沈黙を破ると、伸子は待ちかねたように言った。
「電話ならベッドのそばよ。いくらそこから外を見てたって、ご主人はやって来ないわ」
伸子は立ちあがり、ドアへ向かった。
「一人にしておいてあげる。どうぞゆっくりとおかけ遊ばせ」
からかうように言い残すとドアをあけ、
「でも、あたしのことを忘れないでね」
と廊下へ出て行った。
明日は三戸田謙介をもう一度殺し屋の襲撃から守らなければならないのだ。瑤子はそれを自分の仕事のように感じていた。
2
ダイアルをまわすとき、瑤子は少し指が震えるのを感じた。
今まで数え切れないほど電話をかけたが、これほど自分の人生にとって重大な電話をかけたことは一度もなかった。
時間的に言えば、野川邦彦はまだ帰宅していない筈《はず》である。
それは判《わか》っていたが、家へ電話をかけずにはいられないのだった。ダイアルのひとまわしごとに、瑤子は自分を囲んでいた固い壁が、呆気《あつけ》なく崩《くず》れ去って行くのを感じた。家の中の様子や、居間から見る小さな庭の眺めや、附近の商店などが次々に目に泛《うか》んで来た。
遂にダイアルをまわしおえて、瑤子の心臓は期待ともよろこびともつかぬもので、激しく高鳴っていた。
呼出音が続く。……呼出音が続く。
瑤子は目をとじて祈った。夫がそこにいて、受話器を外《はず》してくれることを祈った。
しかし、心の中ではその時間に邦彦が家にいることのほうが異常なのだということも判っていた。それでもなお、受話器が外される音を聞きたがっている。
長い間、瑤子は呼出音を聞いていた。それが鳴り響いている家の中に配置された家具のひとつひとつを、まざまざと思い出しながら。
結局、瑤子は受話器を置いた。判り切っているのに、邦彦が不在だったことに落胆した。ため息をつき、肩を落す。
だが、とうとう家へ電話をかけたという事実は、瑤子のかたくなだった守りの姿勢を解かせ、すぐ次の行動へ移させた。
瑤子はためらわずまた受話器を取りあげた。今度は確信のある目の色で、手早くダイアルをまわす。
横浜の実家へかけているのだ。そこになら、いつでも応えてくれる人がいる。父の津田久衛である。
呼出音。そして受話器が外れた。
「もしもし、津田ですが」
ちょっとつっけんどんに聞こえる低い声だ。
「お父さん、瑤子です」
「…………」
久衛が息をのむ気配があった。
「今九州にいます」
「…………」
久衛はまだ言葉を発しない。
「宮崎です」
とたんに押しかぶせるように久衛の声が爆発した。
「ばか」
そう怒鳴られた瞬間、瑤子の心の防壁は一度に音をたてて崩れ去った。涙がとめどもなくふき出して来る。
「ごめんなさい」
「元気なのか」
久衛の怒鳴り声は続く。
「元気よ」
「心配させおって」
その怒鳴り声の調子が微妙に変化している。鼻をつまらせているようだった。
「ごめんなさい」
「邦彦君にはもう連絡したんだろうな」
「会社へはまだです」
「家へは……」
「いまかけたんですけれど」
「留守か」
「ええ」
久衛は舌打ちする。
「とにかくそっちの番号を言いなさい」
瑤子は左手で涙を拭《ぬぐ》い、視界をはっきりさせてから、メモに刷り込んであるホテルの電話番号を告げた。
「当分そこを動かんのだろうな」
「はい」
久衛の声がやっと落着いたようだった。
「だいぶ前だが北園さんから連絡があった。お前を信じてやれとな。もちろん儂《わし》は信じていた。しかし心配であることには変りはない。でも、こうして電話して来た以上、事情はいいほうに変ったと考えていいのだろうな」
「多分そうです」
久衛は声をつまらせた。
「力になってやりたい」
「あの人に連絡したいんです」
「そんなこと、判っている」
「会社へ……」
瑤子が言いかけると、久衛はそれをさえぎり、
「邦彦君はもうあの会社にはおらんよ」
と言った。
「まあ……」
「あれから間もなく会社をやめ、一人でセールスをやっている。会社といざこざがあったというより、自分から望んでそうなったのだ。だから東日機材と縁が切れたわけではない。お前を探《さが》す為に自由な身になりたかったのだろう」
「じゃあ、すぐには連絡がとれないんですか」
「東京にはおらんようだ。しかし、会社に尋ねれば見当はつく筈だ。営業部とは連絡がとれている筈だからな」
「お願いします。できればこちらへ来てもらいたいんです」
「そうだろう」
久衛は満足そうに言った。
「まかせておけ。すぐに連絡をとってそっちへ電話をさせる。それで、お前は今、そのホテルの部屋にいるのか」
「ええ」
「なるべく部屋を空《あ》けるなよ」
「はい、判りました」
「まったくしようがない奴だ」
久衛はそう言って自分から電話を切った。最後の言葉は瑤子に聞かせるつもりではなく、それは多分父親のつぶやきとでも言うべきもののようであった。
瑤子はしばらく、うっとりした表情で受話器を手にしていた。
誰《だれ》かが待っていてくれるということのすばらしさを、しみじみと味わっていたのだ。
これからも、待たれる人間になりたいと思った。
3
伸子は心配して、二十分か三十分おきにやって来た。
「まだなの……遅いわねえ」
しまいには、いかにもお嬢さん育ちらしく、我慢できずあけすけに不満そうな言い方をした。
それでも電話で尋ねて来ないのは、瑤子にかかる電話の邪魔をしないよう気を配っているのだ。
たっぷり三時間。瑤子は青い電話機をみつめていた。
そしてベルは、いきなり鳴った。
瑤子はそのとたん、膝《ひざ》の力が抜けたようになって、壁やベッドに手をつかなくては電話機に歩み寄れなかった。
「はい」
「…………」
最初にあるべき答えがなかった。
「どなた……」
「ばか、俺《おれ》だ」
邦彦はゆっくりと言った。
「よかった」
また涙が押しよせて来る。
「探したぞ」
「ごめんなさい」
「なぜ俺に頼れなかった。どんなわけがあるか知らないが」
「それは……」
「いや、いい。それより、すぐにそっちへ行くからな」
「お願い。早く来て」
「一番早く着く飛行機で行く」
「今どこなの」
「どこでもいい。時間がないんだ。これからその飛行機の切符を手に入れなければならない。万事は着いてからだ。もしどうしても場所を移らなければならなくなったら、必ず俺に次の場所が判るようにしておけ。判ったね」
「はい」
「じゃあな」
今度も電話を切ったのは向こうが先であった。
瑤子は受話器を戻し、そのままベッドにうつぶせになった。
やっと夫の声を聞けたのだが、当の邦彦の声や言い方は、瑤子が期待していたものと少し違っていた。
何だか素っ気ないのだ。事務的な感じすらしている。たのもしいと言えば言えるが、どうも以前の邦彦とは少し違うのである。
無理もない。
瑤子は自分に言い聞かせた。黙って突然家出をした妻に対して、夫がそうベタベタと甘い言葉をかけられるものではあるまい。理由を告げぬ家出は、夫に対する信頼感のなさの表明ではないか。
瑤子は急に邦彦に会うのが恐ろしくなった。男と女の言い争いなど、この際絶対に起こって欲しくなかった。
「愛しているのに」
瑤子がうらむような調子でそうつぶやいたとき、また伸子がやって来た。
伸子はドアをあけた瑤子の顔を見るなり、
「かかって来たのね」
と叫んだ。
「ええ」
「すてき」
一人ではしゃぎはじめた。
「それで、いつ来るって……」
「一番早くこっちへ来る飛行機で」
「どこから……今どこにいらっしゃるの」
瑤子は力なく首を横に振った。
「横浜の父が探し当てて連絡させてくれたのです。だから……」
「どこにいるのか判らないの」
瑤子は頷《うなず》く。
「ばかねえ」
よくばかと言われる日だと、瑤子は苦笑した。
「飛行機の切符を買いに行くから、こまかいことを言っているひまがないんですって」
すると伸子は高い声で笑った。
「すてきじゃないの。そんなことでしょげてるんなら、あなた少しおかしいわよ。ご主人はいま、夢中でこっちへ来ようとしているんじゃないの。そうでしょう。だったら、のんびり愛の言葉なんかささやいてはいられないわ。あなた、やっぱり愛されてるのよ」
伸子は瑤子の肩を男の子のように叩《たた》いてそう言った。
4
夜八時。
伸子とダイニング・ルームで食事をしていると、ウェイターがやって来て瑤子に電話がかかっていると告げた。
「ご主人よ」
伸子はうれしそうに言った。瑤子はそれにこたえるゆとりもなく、いそいそと入口のそばの電話機へ歩いて行った。
「はい」
「あ、俺だよ。畜生、骨が折れたぞ。でも、やっと切符がとれた。明日の午後三時にそっちへ着く。宮崎空港だ。もっと早く着く便があるんだが、満席でとれないんだ」
「三時ね」
「そうだ。行く前に、もうひと仕事すませなければならない」
「いそがしいのね」
「なんとかやってるよ。そっちは大丈夫か」
明日の午後まで同じ場所にいられるかという意味らしい。
「ええ、大丈夫よ」
「よし。だが覚悟だけはしておけよ」
「覚悟って……」
「こいつ、とぼけるな。いろいろあるだろう」
「あ……それなら充分覚悟しています。どんなに叱《しか》られても文句は言いません。でも……」
「でも何だ」
瑤子はちらりと周囲に目を走らせてから言った。