邦彦が別れている間の気持を口にしたのは、それがはじめてであった。短い言葉だったが、それだけにずしりとした重味があった。理由も告げずに自分のそばから離れた妻を信じ通すには、愛情だけでは足りなかったに違いない。それには努力や勇気が、愛情と同じくらい必要だったのではないだろうか。
そんなことを考えながら、パターを手にした二人がいるグリーンにゆっくりと近付いて行くと、ゴルフ場の職員らしい男が小走りにやって来て、瑤子に小さな封筒を手渡した。
「何かしら」
瑤子がその封筒をあけると、一枚のメモ用紙が出て来た。
——ホテルのラウンジに来ています。例の奴で話しかけてくれませんか——
メモ用紙には太いペンでそう書いてあり、三戸田、と走り書きの署名があった。
それを読んで瑤子は微笑した。ふざけているようにも受取れるが、三戸田は瑤子に対して、堂々とテレパシーを使えと言ってくれているらしいのである。
——こんにちは——
さっそく瑤子は三戸田の思考を探《さぐ》りあて、そうテレパシーを送り込んだ。三戸田は待ち構えていたらしく、
——やあ、来たぞ——
と、まず反応した。勿論《もちろん》三戸田にテレパシーの能力はない。自分の脳に直接送りつけられて来た瑤子の思考に対し、自分の思考を反応させるだけだから、慣れないと通常の会話のようにはすっきりと行かず、ひとりごとが合いの手に入ってしまうのだ。
——面白がっていらっしゃるんですね——
言葉ではなく思考だから、敬語を使うわけではない。仮りに瑤子が敬語を用いて思考波を生み出したとしても、言葉そのものが伝わるわけではないから、意味と同時にこちら側の敬意が伝わるだけである。その点では、言葉を使うよりごまかしがきかなかった。
——待っていたのですよ——
三戸田の反応にも、僅《わず》かだが瑤子に対する敬意がこめられていた。
——しあわせなんでしょうな——
——ええ、とても——
——それはいい。とてもいい。いい……——
三戸田の思考は瑤子が現在幸福であることに対し、幾通りもの反応を一度に示していた。それは瑤子にとっていいことだというほかに、自分も満足であり、そして実にこの世のすべてがよく思えるという意味の反応であった。もしそれが言葉によってあらわされたら、三戸田が単に瑤子のことを思いやっている部分しか表現されなかったであろう。
他人の幸福を見て自分もうれしく感じるのは、その相手に深い好意を寄せていることだし、そうしたうれしさというのは、この世界のすべてを一時的にもせよ肯定、是認していることになるのだ。
その意味で、三戸田は今善意のかたまりのような精神状態にいるのであった。
——東京へ帰るのを延期しましたよ——
——なぜですの——
——あなたを安全な立場にする為です——
瑤子はラウンジへ行くことにした。三戸田が何か重要なことをしてくれたようであった。
2
「あなたの件には少し時間がかかりそうなのですよ」
ラウンジのテーブルに向き合うと、三戸田はそう言った。そばにプレーをおえた伸子と邦彦もいた。
「そんなに面倒なんですか」
伸子はずけずけと言った。
「何しろこれは国際問題だからね。わたしの力が足りないせいもあるが、少し気長に取り組まないといかんのだ」
三戸田は伸子にそう言い、また瑤子に顔を向けた。
「でも余り心配はなさらなくていいのです。とにかくこれからは逃げまわる必要はありません。わたしとその筋の者たちとの間に、一種の協定のようなものができましてね」
邦彦が頭をさげた。
「有難うございます」
しかし三戸田は気の毒そうな表情になった。
「と言っても、すぐにお宅に帰れるというわけでもないのです。先方の言うには、当分のあいだ瑤子さんを人口の密集した場所へは置きたくないのだそうです。あの連中の言い分をご理解いただけますかな」
「ええ」
瑤子は目を伏せたまま頷いた。
「考えようによっては、武器を野ばなしに持たせるようなものでしょうから」
三戸田は何かをごまかすように咳《せき》ばらいをしてから、
「実はその通りなのです」
と言った。
「彼らがあなたのテレパシーを社会にとって危険だと思わないようになるまで、どこか閑静なところで過していただく必要があるんですよ。わたしはもうその必要も感じてはいませんがね。何しろ超能力の行使を取締る法律などあるわけはなく、連中も立場上困っているんです」
瑤子は三戸田にではなく、伸子と邦彦に言った。
「テレパシーに限らず、ESPを悪用すればどんなことでもできてしまうんです。私はこの前人の持っている拳銃《けんじゆう》を、本人の意志に反して捨てさせましたけれど、当然その逆のことだってやれるのです。そして、私がテレパシーを持っていることが判っていても、今の法律は直接銃に手を触れていない私を罰することはできないのです」
瑤子の言い方は、逆に三戸田の立場に立った説明であった。伸子も邦彦も納得したようであった。
「外国からの圧力については一応排除しました。これまでのいきさつだと、瑤子さんは秘密のうちに捕えられ、外国へ連れ去られてしまう公算が大きかったのですよ。一部の連中がそんなばかげたことを計画しておったらしいのです。しかし瑤子さんは日本の国民だし、外国の自由にされてはたまったもんじゃない。わたしは断じてそんなことはさせません。その点では、瑤子さんにお礼を申しあげたい程です。よく今まで独力で追跡を振り切っていてくださった。どんな事情があろうとも、本人や国の内意なしに、勝手に外国へ連れ出すなどということが、二度と起こってはいかんのです。だが、瑤子さんが素早く身をかくしてくれなかったら、またそういうことが起こってしまったことでしょうな」
「で、瑤子をどこへやったらいいのでしょうか」
「その場所は谷村氏と相談してきめました。谷村家というのはここの有力な旧家なのですが、四代前まで住んでいた村から今のところへ出て来て今日に至っているのです。昔の本家は先代のときに建て替えられて、今では別荘のようなかたちになっています。こういうご縁もあったことだし、そこにしばらく住んでいていただきたいと思うんですがね」
「まあ、あんなところへ……」
伸子は不服そうだったが、邦彦は瑤子の顔を見ながらまっ先に頷《うなず》いた。
「谷村さんさえご迷惑でなければ……」
「よろしくお願いいたします」
と瑤子も頭をさげた。
「でも不便なところよ」
伸子は反対したいようだったが、邦彦が笑って言った。
「だからいいんでしょう。便利で人がたくさんいるところでは意味ないんじゃないですか」
「それもそうね」
伸子は言い負かされたようにちょっと沈黙したが、
「でも瑤子さんがかわいそうだわ」
と、また口をとがらせた。
「何も悪いことはしていないのに。それに、ご主人はどうなさるの……」
すると三戸田がにこやかに言った。
「さいわいと言っては何だが、野川君も今では東日機材を離れて一本だちのセールスマンになっている。仮りに瑤子さんが東京のお宅へすぐに戻れたとしても、各地を飛び歩いて留守がちな生活になるわけだし、しばらく奥さんがここに住んでいることにして、通ってもらうといいんだがね」
「事情が事情ですから、物騒な東京近くに置くよりそのほうが安心です」
邦彦は瑤子さえ戻ればあとはどうでもかまわないというような寛大さで答えた。
「よし、これできまった」
三戸田は大物実業家らしく、そう言うと右手でひとつ軽く膝《ひざ》を叩《たた》いて区切りをつけた。
「谷村氏はもう手配をしてくれているはずだ。瑤子さんがあの村にいる限り、安全はわたしが保証しますよ。まあひとつ、のんびりと過していてください。そのうち完全な自由をとり戻して差しあげますから」
三戸田はそう言って立ちあがった。
3
国鉄宮崎駅から宮崎大橋へまっすぐ伸びた通りを、見るからに敏捷《びんしよう》そうな小柄な男と、背の高い陰気な男の二人が、あてもなさそうにぶらぶらと歩いている。
「粘り強く野川の尾行を続けていたからこそ、彼女の居場所が判ったんだぞ」
陰気なのっぽがそう言っている。
「しかし宮崎とはまた飛んだものさ」
小柄なほうは気がなさそうに答える。
「川崎から船で日向《ひゆうが》港へ着いたらしい。発見できなかったわけだ」
「米沢からはトラックに便乗したというじゃないか。利口な人だよ」
「何だか知らんが、君はあの野川瑤子に好意を持ってしまっているようだな」
「ああそうだよ。彼女は無害だし、それに国際政治の舞台裏へ引きずり込んで、スパイめいた仕事を強制させるには、人柄が違いすぎる。マタ・ハリにはなれん人だよ」
「マタ・ハリとは古いことを言う」
のっぽは苦笑し、
「しかし我々はその為に働いているんだぞ」
と、念を押すように言った。
「同情などは邪魔になるだけだ。判っているんだろうな」
「判っているさ、そんなことは」
小柄なほうはそう言い、急に陽気な声になった。
「しかしよかった。ここで君と落ち合って、これから彼女をつかまえに行くのだとしたら、こんな気分ではいられなかっただろうさ」
「え……」
のっぽが足をとめる。
「どういう意味だ、それは。俺《おれ》たちは今日のうちに野川瑤子を拉致《らち》しなければならないんだぞ。その目的で落ち合ったんじゃないか」
「拉致……つまり誘拐《ゆうかい》さ。そして無理矢理アメリカへ行く軍用機に乗せてしまう。嫌《いや》な役目だったよ。俺は日本人だものな。仲間を他国に売り渡すなんて、ぞっとしないよ」
「どうしたというんだ」
のっぽは人目を気にしてまた歩き出した。人に目立たぬよう行動するのが彼らの習性になっているらしい。
「こいつを見ろ」
小男はポケットから薄茶色の封筒を出してのっぽに渡した。
「何だ、本部からか」
「そうさ」
小男はうれしそうに微笑した。
「中止……」
のっぽはギョッとしたように封筒の中の書類から目をあげた。
「そう。この件は中止だ」
「何を今更。それじゃ今まで俺たちは何の為に……」
「苦労をしたかと言いたいんだろうが、俺は違うね。ほっとしてるのさ。こいつは君と俺の国籍の違いってとこかな。とにかく俺はほっとしているんだ」
「いったいなぜこんなことになったんだろう」
のっぽはあらためてその命令書らしいものに目を通した。たしかめるような慎重さで読み返している。
「俺は或《あ》る程度予測していたよ。一人の日本人を、エスパーだというだけのことで、こっそり外国に引き渡していいとは思えなかったからな。この国にはこの国の主権というものがある。彼女が逃げまわって時間を稼《かせ》いでいるうちには、いつか主権を放棄したようなこの件を知る人間が出て来るに違いないと思っていたんだ」
「一部には早くから知らせてあった。何もかも俺たちが握って秘密にしていたわけじゃない」
「それはそうだが、決してフェアーなやり方ではなかった。エスパーというものを、必要以上に害のある存在として報告していたじゃないか。極秘に処理してもやむを得ないような印象を与えようとして」
「そいつは解釈の差さ」
「しかしとにかくこうして中止命令が出た。俺は久しぶりに気分のいい命令を受けた気がするよ。あの夫婦のことを考えて見ろ。ささやかなしあわせを追う、人の好い平凡な夫婦じゃないか」
「しかし野川瑤子は人並み外れた能力を秘めている。そいつを使えばどの国だって競争に勝ち抜けるし、国内の政治だって……」
「たとえば総理大臣になるのだっていともたやすいと言うんだろう。選挙なんて、一種の人気投票みたいなもんだ。人に好感を抱かせるようテレパシーを使えば、選挙に勝つことなんて簡単なんだ。だからと言って野川瑤子がそれ程危険かね。危険に思うのは、彼女の能力を自分がこう使えばと、野望をむき出しにしているからじゃないのか。それなら逆に聞きたいが、エスパーまでは行かなくとも、本当に能力のある者を公正に選りわけて登用しているかい、今のこの社会は。大学も金、選挙も金だ。エスパーをどうこう言うのなら、まず本当に能力のある者を、それ相応に扱ってやるべきじゃないか。このエスパー狩りは、今のところ少なくともエスパー側には何の落度もないぜ。せいぜい彼女が東日機材という中小企業の内部で、自分の夫が仲間から好いてもらうように働きかけたくらいじゃないか。それに引きかえ、狩り出すほうの心根はどうだ。本人の意志に関係なく、汚《きたな》い仕事を押しつける為にエスパー狩りをはじめたんだ」
「判ったよ」
のっぽは不承不承言って、封筒を小男に返した。
4
その二人が、一人の外人を連れて瑤子たちの泊まるホテルへ現われたのは、すっかり日が暮れてからであった。
「君の気持も判るが、そこまでやることもないんじゃないのか」
のっぽは不安そうだったが、小男は威勢よく言った。
「俺は彼女に挨拶《あいさつ》がしたいんだ。晩飯を奢《おご》るから是非つき合ってくれ」
小柄なその男が、大男二人を目に見えない綱で引っぱることにしてダイニング・ルームへ連れ込んでしまった。彼らとしても中止命令が出て、その夜は思わぬ休日になってしまったらしい。
瑤子はその三人がダイニング・ルームへ入ったとき、まだ自分たちの部屋にいた。この二日間、それこそ疲れを感じるほど邦彦に抱かれ、愛撫《あいぶ》にこたえた瑤子は、満ち足りた表情の邦彦と、しっとりとした夜を迎えようとしていた。
「おうちから出るとき、玄関にあった苔《こけ》をこれに移したのよ。あのときは悲しかったし、それに必死の思いだったわ」
小さな鉢植《はちう》えの苔がテーブルの上に置かれていた。
「この苔がなくなっているんで、こっちは余計にわけが判らなかったんだ。しかし、京都の苔寺で光る苔を見かけてから、少しずつ苔の秘密が判りかけていた」
「苔がテレパシーに反応する場合があるのよ。同じ場所に生えている苔でも、反応しないのとするのがあって、それがなぜだかよく判らないんだけれど、とにかくこれをそばに置いておくと、自分や自分以外の者が近くでテレパシーを使ったとき、真珠色に光るからすぐ判るのよ」
「ゆうべもうっすらと光っていたが……」
「昼間三戸田さんに向けてテレパシーを使ったから、今はもう少し強く光ってるはずよ」
「見たいな」
「じゃあ灯りを消すわね」
瑤子はテーブルを離れ、部屋の灯りを次々に消した。
「綺麗《きれい》だ」
「熱のない光よ。なぜ苔がテレパシーに反応するとこんな風になるんでしょうね」
「まだ人間が知らないことはたくさんあるんだなあ」
二人は小さなテーブルに向き合い、その真珠色のほのかな光をみつめていた。
瑤子にとって、かつてそれは危険を知らせるおぞましい光であった。しかし今は、まるで邦彦との愛の光であるかのように思えていた。
「瑤子を愛しているんだ。俺はどんな障害があっても乗り越えて見せるぞ」
「あなた……」
ちょうどそのときだった。
何か言いかけた瑤子は突然声をのみ、邦彦は、あっ、と低く言ってテーブルの上の苔をみつめた。
苔が発する真珠色の光が、すうっと強さを増したのである。それはみるみる明るくなって行った。
「どうしたんだ」
瑤子は立ちあがり、灯りをつけた。
「お前、使ったのか……」
半信半疑の顔で邦彦が言う。
「いいえ」
「それじゃ……」
邦彦はギョッとしたように苔に目を移し、すぐにまた瑤子をみつめた。
「下にお友達が来ているのよ」
「友達……」
「ええ。その人が今、私にテレパシーで呼びかけたのよ。外国人よ。きっとアメリカの人だと思うわ」
「そのアメリカ人が何だって……」
「長いあいだ追いまわしてすまなかったって」
「ほう」
「私に対する追跡に中止命令が出たんですって」
「あ……三戸田さんのおかげだな」
「ええ。それで彼がここへ連れて来られたの。私を追っていた人が、中止になったことを私に知らせたかったらしいの。彼もそれをよろこんでくれているのよ。だって同じエスパーなんですもの。そのアメリカのエスパーは、無理矢理エスパー狩りの道具にされていたんですって。だから、中止になっておめでとうと言って来たのよ」
「それで光ったのか」
邦彦はそっとオオスギゴケに撫《な》でるようなさわり方をした。
「彼のテレパシーには憶《おぼ》えがあるわ。一度でも相手のテレパシーを受ければ、声を憶えるよりずっと強く記憶に残るのよ」
「それで、どうする気だ」
「下へおりて行ってご挨拶《あいさつ》をしたいところだけれど、まだ問題は完全に解決したわけじゃないし、そうも行かないでしょうね。でもお礼は言っておいたわ」
邦彦は、
「そうか」
と頷《うなず》いたが、何となく警戒心を強めているようだった。
「みんなが今のようにテレパシーで意志を伝え合うようになったら、どんな世の中になるかしら」
「どうなると思うんだ」
「嘘《うそ》がつけなくなるわ」
「すると、今よりはいくらかましな世の中になるというわけか」
「そうなるのかも知れないわね」
「少なくとも、世界中の苔が光りっぱなしになるのはたしかだろう」
邦彦はそう言ってニヤリとした。
5
何とそれは、小字《こあざ》の名が谷村と言う土地であった。
「谷村から谷村家が出たというわけね」
ガンちゃんのジープでその村にたどりついた瑤子が、伸子にそう言った。
「山の中で気の毒だわ」
「まだそれを言ってる」
瑤子は笑った。
「この先ですよ。野川さんがいらっしゃったら、いつでも僕がこのジープでお送りしますからね」
ガンちゃんは車のエンジンの音に負けないよう、大声で言った。
「これ、ガンちゃんの自家用車なのよ。ご自慢の車なの」
伸子がそう教えた。
「僕もこのそばの村の出でしてね。だからジープのほうが都合がいいんです。何しろ坂ばかりで、途中からは舗装もなくなりますからね」
車が急な坂を鋭く曲りながら登ると、大きな門のついた家の前へ出た。
両びらきの扉《とびら》があけ放たれていて、ジープは小さな石橋を渡り、一気にその屋敷の中へ乗り入れた。
老夫婦らしい小ざっぱりとした感じの二人と、小学五、六年生くらいの女の子が、松を植えた車寄せの向こうで待っていた。
「来た来た」
と女の子がはしゃいでいる。
「元気……」
車がとまり切らないうちに伸子が飛びおりて老夫婦に言う。
「お久しぶりで」
「こちらが瑤子さん。こちらがご主人の野川さん」
「まあまあ、よくこんな山奥へいらっしゃいました。どうぞこちらへ」
老人が家の中へ案内しようとしたが、伸子は瑤子の手を引いて家をまわり込むように庭のほうへ連れて行った。
「こっちが南に当たってるの」
「まあ……」
瑤子は感嘆した。なぜこんな山の中にと思うほど見事な和風庭園がひろがっていたのである。
「父はここを取っておきのおもてなしの場に使っているのよ。温泉こそ出ないけれど、凝《こ》ったお風呂《ふろ》もあるし、へたな温泉旅館には負けないくらいよ」
「静かだし、すてきねえ」
「ここへ連れて来られた人は、みんなそう言うみたい。俗塵《ぞくじん》を洗いおとすというわけね」
まさにそのような感じであった。村の家々の屋根もかなり間遠に散在していて、絵に描いたような景色であった。
「転地療養という感じだな。空気が違うよ、空気が」
ガンちゃんと荷物を持って玄関から一足先に家の中へあがった邦彦が、広い縁側へ出て来てそう言った。
「俺もこんなところで住めたらなあ」
「結構ですよ。でもそれじゃお仕事のほうが」
伸子が答える。
「そこですよ。いつもぶつかる問題は」
邦彦は陽気に笑った。
「ところでこの庭には苔《こけ》が生えてますか」
「苔……」
「ええ。オオスギゴケ」
「さあ、生えていることはいるけど、オオスギゴケかどうか」
「あ……」
瑤子が走った。そしてしゃがみ込む。
「生えているわ、あなた」
「そこへあの苔を返してあげなさい。長い間ご苦労だったと言って」
「何のこと……」
伸子は怪訝《けげん》な表情で言った。
「春子さんの……いや、瑤子さんのお部屋はあっちです」
ガンちゃんが老人と一緒に広い縁側を、荷物を持って歩き出しながら言う。
「離れよ。ご主人がいらっしゃる間はいいけれど、一人になると少し淋《さび》しいんじゃないかしら」
「平気よ」
「でも、変な人が忍んで来たりしたら大変。だって瑤子さんは綺麗《きれい》だし」
「あら、忘れたの……」
瑤子はそう言って伸子を睨《にら》むようにした。
「あ、そうか」
伸子は男の子のように首をすくめた。
「あれがあるわね。痴漢が途中で改心して帰って行っちゃうのね」
「でも、こんな静かな村に、痴漢なんているもんですか」
瑤子は立ちあがり、邦彦に同意を求めるように言った。
「それはそうだが、淋しかったら部屋を変えていただいたほうがいい」
伸子ははしゃいで手を打った。
「ほらほら。ご主人が心配してるじゃないの。いいなあ」
「伸子さんも早く結婚なさることね」
瑤子は笑顔で言った。穏やかな陽ざしの中で、小鳥の声がそこここから聞こえていた。
往《ゆ》き交《か》う便り
1
邦彦は瑤子が思っていたほど足繁くはその村に来なかった。伸子に連れられてはじめて三日ほど泊って行ってから、一か月半ほどしてやっと姿を見せ、二晩泊ってまた一か月くらい現われなかった。
仕事がいそがしいのだと言う。しかし瑤子は不満ではなかった。何しろ辺鄙《へんぴ》と言ったらこれ以上はないような辺鄙な山の中なのだ。東日機材をやめ、小さいながら自分の会社を持つことを目標にしている邦彦が、その大事な時期に足繁く通って来ては、かえって先行きが不安になるくらいなのである。
それに、静かな村がすっかり気に入ってもいた。重なり合った山々の斜面に竹藪《たけやぶ》が多く、遠望するとそれがいかにも物柔らかなかたまりとなって、景色をいっそう穏やかなものにしていた。
谷村家の門のあたりは、村の子供たちの集合場所のようになった。都会の匂《にお》いを漂《ただよ》わす瑤子に対して、子供たちははじめあからさまな好奇の目を向けていたが、すぐに昔からの村人のようになついてくれた。
瑤子は谷村のお姉ちゃんと呼ばれ、午前十時頃になるときまって子供たちに呼び出されるのだった。
別に瑤子が子供たちに対して特別なことをするわけではない。子供たちが瑤子の前で、自分たちなりの遊びをして見せるのである。瑤子はそれに対して、面白がったり、不思議がったりするだけなのだ。子供たちにとっては、そういう瑤子の反応を見ることがたのしいらしい。
子供たちはほとんど喧嘩《けんか》というものをしなかった。瑤子という花のまわりをひらひらと飛び交う蝶《ちよう》たちのように、ただつきまとい遊びたわむれているだけであった。
優雅だ、と瑤子は思った。町の子供たちのほうが繊細な感覚を身につけているというのは間違いだと思った。町の子はひよわだがギスギスしていた。敏捷《びんしよう》だとすればそれは次の争いに備える為なのだ。その点この村の子供たちは、争いに関しては全く無防備であった。抜け駆けをするのは、仲間に何かの収穫をもたらそうとする場合だけであった。思いやり、という言葉さえ子供たちには無用のものらしかった。
自然は大きく、それにくらべて彼らの仲間は余りにも数が少ないのだ。助け合うのではなく、ひとかたまりになって生きているだけなのだ。そこではかばい合ったり助け合ったりすることは、歩いたり喋《しやべ》ったりすることと同じなのであった。
ここではテレパシーなんて要らない。
瑤子はそう感じていた。そしてそれは、おのずからひとつの結論に瑤子を導いて行くのであった。
大きな自然の中で少数の人間がひとかたまりに生きていた時代、他人の心を読む必要がどこにあっただろう。必要なのは兇暴な野獣たちに対する心の備えだけだったのだ。太古の人間は、現代人よりそうした危険に対する警戒心は遥《はる》かに強く、それをいち早く察知する能力にも恵まれていたのであろう。各種の防衛本能はそうして人間の体の奥深くに根を張り、現在に至っているに違いない。
文明が進むにつれ、太古の人々が持っていた自然への警戒心は、徐々に薄れて行った。そのかわり、増えすぎた仲間に対する警戒心がつのって来たのだ。野獣や天変地異などの危険を察知する能力が失われたかわりに、仲間の心をいち早く読み取ることが要求されはじめたのだ。
恐らくこれは、太古の人々が持っていたものと、根本的には同じものなのかも知れない。……瑤子は自分のテレパシーについて、そう考えるようになった。複雑化し続ける人間関係にともなって、その能力も変化しはじめたのだ。
現に、おそろしく敏感に他人の顔色を読んでしまう人々がいる。列車などで隣りの席に乗り合わせた相手を、瞬間的に警戒したりすることもある。えてしてそういう相手に対しては、好もしく思った相手より目による観察の度合は少ないのである。
人類には等しくテレパシーの能力が育ちつつあるのだ。
瑤子の結論はそれであった。何も自分が特異な体質を持っていたわけではないのだ。ただ、その芽生えが早くやって来る家系に生まれついただけなのではないだろうか……。
人類は猿《さる》から進化したものだという。たとえばその同じ猿であっても、尻《し》っ尾《ぽ》を消滅させるのが早かった者と、遅かった者がいるに違いない。また、数をかぞえることが必要な段階に至ったとき、いち早く数を理解できた一族と、それがいつまでたっても難解なものであった一族がいたに違いない。
人類の足の第五番目の指、つまり小指は、やがて退化してしまうものと予測されているそうだ。しかし、現に足の小指だけを動かそうとしても動かすことができない人と、自由にそれを動かせる人との差が生じているではないか。
ただ、早くにそれがやって来ただけなのだ。瑤子は自分の超能力をそう理解しはじめていた。
今の人の世にはびこる不信と自己本位な考え方は、テレパシーという能力が行きわたることで解消されるのかも知れない。
瑤子は人類という種族の、思いがけないたくましさを感じずにはいられなかった。人類全体がひとつの種として、自分たちの進化が生み出した危機を乗り切るべく、新しい能力を用意しはじめているのだ。
それが行きわたる日まで、無謀な核戦争など起こさないで欲しい。瑤子は心の底からそう願うのであった。
2
瑤子は今、手紙を書いている。茶室風の部屋の窓から、月の光が静かにさし込んでいた。
手紙は金沢の岡崎唯士に宛《あ》てたものであった。
もう隠すことは何もなかった。あの穏和な中に情熱を秘めた好意を瑤子は生涯《しようがい》忘れることはないであろう。とすれば、いまなすべきことは、すべてを打明け、その好意を更に昇華させることであった。
岡崎唯士は、夫の邦彦より遥《はる》かに優《すぐ》れ、完成した男性であると瑤子は思っている。そういう男性に好意を示されたのは、女として素晴らしいことだとも思っている。
しかし、愛は別であった。愛は相手の価値によって操作できるものではなかった。瑤子が愛しているのは邦彦であり、それより遥かに優れてはいても、岡崎は好もしい人物でしかないのである。その好もしい人物が、男性として自分に少しでも愛を示しているなら、その愛は更に昇華させなければならなかった。
だから瑤子は、その手紙に心をこめた。相手の心を気づかう余り、少しでもあいまいなところが出来てはならないのだった。
とは言え、手紙を書くことは楽しくもあった。すべてを告白できる日がこんなに早かったことに、感謝したい気持でいっぱいであった。手紙の後半は、自分がテレパシーというものをどう解釈したかということで埋められた。
——今に誰《だれ》もが人の心を読めるようになるのです。私たちの社会から、嘘《うそ》というものがなくなる日が来るでしょう。私はそう信じております——
瑤子はそう書いて便箋《びんせん》から目をあげた。近くの竹藪《たけやぶ》の風に揺れる音が聞こえていた。
「その日まで人間が無事に生きのびられる為だったら……」
瑤子は窓の外の黒い山影を眺《なが》めながらそうつぶやいた。
もし本当に、その為に自分の能力が必要とされるのなら、外国へでもどこへでも出掛けてかまわない。……そう書こうと思ったのである。
しかし、軽率にはきめられないことであった。人類全体にとって、それが先走りすぎた行為になるかも知れないのだ。人類はこの先まだ何度かの大戦争を必要としているのかも知れないのだ。もっと地獄の奥深くを経験した上でなければ、嘘のない世界は得られないのかも知れない。
恐ろしいことだが、そうあっては欲しくないことだが、瑤子には神の代理人になってそれを防ぐ役を果たす自信はないのだった。
すべては人類全体がきめることであろう。今はただ、嘘のない日が来る可能性のあることを知った一人の人間として、静かに今まで通り暮して行くことが正しいのだろう。
瑤子は岡崎唯士への便りを、そこで結びにすることにした。
米沢の柴崎ふじには、もうとうに手紙を出してあった。高校生の伸次からすぐに返事が届き、おばあちゃんが春子さんに絵を描いて送ってくれるように言っていたと書いてあった。
「あしたから絵を描きましょうね」
瑤子は窓の外の夜空に向かってそう言った。この穏やかな山あいの村の景色を写生するつもりなのだ。
瑤子はふと思いつくと、自分の心の中にひろがっている明日への希望と、生きていることのよろこびを、力一杯テレパシーに乗せて外へ解き放った。
すでに眠りについた村人にも、まだ起きている村人にも、それが伝わって行く筈《はず》であった。それは月光に魅せられた笛の名手が吹く、美しい笛の音のように村人たちの心にしみ渡って行った。
この家の管理をしている老夫婦の部屋の窓が、静かにあいたようであった。
「綺麗《きれい》な月だこと」
「まったくだなあ」
老夫婦のそんな会話が、かすかに聞こえて来た。
瑤子は思念の放射をやめ、立ちあがって部屋の灯りを消した。暗くなった部屋の文机の上にのせた小さな鉢植《はちう》えの苔《こけ》が、真珠色の光を放っていた。
3
瑤子が妊娠したことをはっきりと悟ったとき、秋がはじまっていた。
とうとう……。
果して自分がそれを待っていたかどうか、瑤子はよく判《わか》らない気持であったが、とにかく来るべき日が来たのだと思った。
よろこびと期待が生じたのは、少したってからであった。そして、それが生じると、うれしさが際限もなく大きくなるようであった。
あの人の子供が生まれる。……はじめは邦彦の妻となったことを改めて感じ直すような気分であったが、たちまちのうちにそれは自分たちの子供、というように感じ方を変えて行った。
そして遂には、私の子供、となった。
邦彦がその報告をどんな表情で受けとめるか興味があったが、それもやがては大した問題ではなくなってしまった。
不思議なものだ……瑤子はそう思った。
妊娠したと悟って以来、邦彦の存在が日ましに小さくなって行くような感じなのだ。いや、小さくなって行くというのは錯覚なのかも知れない。正確には、邦彦が自分の中へ入り込んで、切り離しては考えにくくなって来たのである。
そのかわり、まだ自分の体の中にいる子供が、どんどんその存在感を大きくしているのだ。夫が内側へ入り、胎児が外側へ出て行くと言ったらいいのかも知れない。
妊娠を邦彦がどんな顔で受けとめても、もう一向に構わないという気分になって行った。問題は子供が健全かどうか、誰《だれ》に似た顔を持って生まれるか……性格は……声は……そして将来は……。
要するに瑤子は妻から親へ、女から母へと変化しはじめているのであろう。多分それはごく世間なみのことで、とりたてて言う事柄でもないのかも知れなかった。
ただ、世間一般の母親と瑤子が際立って異るところは、毎日胎児に話しかけようと試みる点であった。
テレパシーを使ってである。
「赤ちゃん……」
まだ男女の別も判らず、呼びかけようがないまま、瑤子はテレパシーでそんな風に自分の体の中へ語りかけるのである。
「まだお返事はできないの……」
もし胎児が胎内ですでに何らかの思考をはじめるものだとすれば、多分瑤子は人類で一番早くに自分の子供と会話をする母親となる筈であった。
しかし、胎内からの応答はいつまでたってもなかった。
「変ねえ、おんなじチャンネルなのに」