瑤子はときどきそうつぶやいて苦笑するようになった。同時に、好きだった山道の散歩をやめたし子供たちの相手をして駆けまわることもしなくなった。
貞造さんというその家の老人が、或《あ》る日そんな瑤子にずばりと言った。
「奥さん、おめでたではないのですかね」
「まあ……」
瑤子は目を丸くして貞造さんを見た。
「うちの婆さんがそう言っているのですよ」
「やっぱり判っちゃうのねえ」
瑤子は微笑して答えた。
「や……本当におめでたですかね」
「ええ、そうらしいの」
すると貞造さんはびっくりするような声で、
「おい、婆さんや、やっぱり当たっていたぞ」
と家の中へ叫んだ。
「やっぱりねえ」
「カズさんの目はごまかせないわ。そうなの、赤ちゃんができたのよ」
「そりゃまあ、おめでとうございます」
カズさんは縁先へ坐《すわ》って頭をさげた。
「で、旦那《だんな》さんには知らせなさったので……」
貞造さんが訊く。
「いいえ、まだなの」
「そういうことは早く知らせて差しあげたほうがいいですよ」
カズさんは諭《さと》すように言った。
「でも、手紙では知らせたくないの」
「それはまたどういうわけで……」
「どんな顔をするかと思って。だって生涯《しようがい》の見ものじゃないかしら」
「そんな面白半分のことじゃありませんでしょうに」
「それは判っているのだけれど」
「早くお知らせになることですよ」
「ええ」
瑤子はその日から、貞造さん夫婦に邦彦への報告を催促される羽目になった。
それから一週間もすると、ガンちゃんのジープで伸子がやって来た。
「おめでとう、瑤子さん」
伸子は大声でそう言いながら家の中へ駆け込んで来ると、
「すてきじゃないの。素晴らしいことだわ」
と言って一人ではしゃいでいる。
「そんなに珍しそうに言わないで。女は誰《だれ》だって母親になるもんでしょう」
「違うわよ、あなたの場合は」
伸子が力をこめて言った。
「どう違うの……」
「だって」
伸子は老夫婦のいない部屋へ瑤子を引っ張って行き、
「テレパスの母親から生まれる子なら、その子だってテレパスじゃないの」
と言った。
「そうときまっているわけじゃないわ」
「でも、もしその子がテレパスなら大変なことよ。そうは思わない……」
「私の場合のように、余分な苦労をしなければならないかも知れないのよ」
「そうじゃないわ」
伸子が勢いよく頭を横に振った。
「このあいだあなたが言ったように、人間がみんなテレパシーを持つ方向へ向かっているのだとしたら、あなたの赤ちゃんがテレパスであることは、その証明になるじゃないの。その赤ちゃんがおとなになって結婚して、またテレパスの子供が生まれて来ることになれば、世界中がテレパスで満ち溢《あふ》れて、嘘《うそ》のない社会になるのはそう遠いことじゃないのよ」
「伸子さんのほうが私よりずっと興奮してるみたい」
瑤子はそう言って笑ったが、そのことについては自分でもすでに考えていた。
ひょっとすると、新しい世界のはじまりに自分は立っているのかも知れない……。それは余りにも巨大で、余りにも感動的なことであった。
「でも、生まれてすぐテレパシーが使えるかどうかは判らないわね」
伸子がもっともらしく首を傾げる。
「言葉を操るのでさえ時間がかかるんですもの。ひょっとしたら、あの思春期という何となく混乱した時期が、テレパシーの現われる時期なのかも知れないし」
「およしなさいよ」
瑤子は笑った。伸子は空想の羽根をひろげ放題にひろげてしまうようだったのだ。
4
老夫婦に言われたせいばかりでもないが、やがて瑤子は妊娠したことを邦彦に知らせる手紙を書いた。
あいにくその手紙は仕事で旅行に出た留守に着いたと見え、邦彦からの反応はひどく遅かった。
「奥さん、電報ですよ」
カズさんが部屋の外の廊下に立ってそう声をかけた。
「電報……」
ちょうど絵を描いていた瑤子は、筆をおくと急いで襖《ふすま》をあけた。
「主人からだわ」
カズさんは心配そうに廊下に立っていた。瑤子は急いで紙をひろげた。
アリガトウ、ダイジニセヨ、クニヒコ。
「どうしたのです……」
カズさんはたまりかねたように言った。
「有難う、大事にせよ、邦彦」
瑤子は読んで聞かせた。
「まあ……」
カズさんはみるみる目をうるませた。
「いい旦那《だんな》さまですねえ、本当に」
「そう、いい旦那さま……」
平静でいるつもりだったが、瑤子もつい声をつまらせた。
「わたしはもう電報と言うと悪いことかと思って……どうも申しわけありません」
カズさんは泣き笑いの顔で言った。
「有難う、大事にせよ、ですか。これはお爺《じい》さんにどうしても聞かせなければ。あの人と来たら、一度だってそんな優《やさ》しい言葉をかけてくれたことがないのですからね」
カズさんは急に気負い込むと、廊下を足早に去って行った。
会いたい。
ちょうど胎児のいる辺りから、勢いよくそんな思いがこみあげて来て瑤子をうろたえさせた。なぜなら、突然噴きあげたその激しい思いが、自分のものでないように感じたからであった。
「あんたなの……」
反射的に瑤子はテレパシーでわが子に問いかけていた。
返事はなかった。
しかし、邦彦に会いたいという熱い思いは消えなかった。それはもう、我慢のしようがないほど激しいものであった。
少女時代に或《あ》る映画を観に行きたくて矢も楯《たて》もたまらなかったことがあるが、その時の抑えようもない衝動を瑤子は思い出していた。
会いたい、会わなければ……。
たちまち頭の中はそのことで一杯になってしまった。
その午後から、瑤子は老夫婦を心配させるほどふさぎ込んでしまったのである。
「旦那さんに会いたいのも無理はない。ここへ来てからもう随分日が経《た》つからなあ」
沈黙しがちな瑤子のそばで、老夫婦はそんなことを言っていた。
「よく今日までこらえておられたもんですね。実のことを言えば、何と我慢強い奥さんだろうと感心していたのですよ」
カズさんはそう言って瑤子を慰めてくれたりするのだが、瑤子の慕情はまったくとめどがなく、自分でも呆《あき》れる程であった。
今までの意地も張りも、一度に限界に来た感じであった。
「三戸田さんはいつまで私をこのままにしておくつもりかしら」
夜になると、ついそんな風に不満を三戸田に向けて見たりした。
「あの人もあの人よ。電報一本であとは知らん顔だなんて」
その不満を夫に向けたとたん、やり切れない程の孤独感がやって来て、瑤子をさいなむのであった。
「せめてお父さんでも来てくれればいいのに」
今度は横浜の津田久衛に怒りの鉾先《ほこさき》が向く。
「そうだ、京都へ行ってしまおうかしら。これ以上おなかが大きくなったら、船や飛行機に乗ることは避けなければならないし、長い旅も無理になってしまうじゃないの」
瑤子は身もだえせんばかりにそう思い、焦《あせ》った。
しかし数日後、多分貞造さんが連絡を取ってくれたのだろうが、また伸子がガンちゃんのジープでやって来て、
「お許しがでたわよ」
と明るい声で言った。
「お許しって……」
「きまってるじゃないの。三戸田さんから連絡があったのよ。もうあなたはいつ東京へ帰っても大丈夫なの」
「まあ……」
瑤子は躍《おど》りあがらんばかりだった。
「有難う。本当に有難う」
「嫌《いや》ねえ、あたしに礼なんか言ったってはじまらないわ」
「でもうれしいの。ねえ、このまま私を乗せて帰ってくださらない……」
「いいわよ。ひょっとしたらそうなるかも知れないと思って来たんですものね」
「じゃあそうお願いする」
瑤子は部屋へとって返し、いそいそと荷物をまとめはじめた。
「でもねえ、瑤子さん」
あとを追って来た伸子が、それを手伝いながら静かな声で言った。
「なあに……」
「少しあなたらしくないんじゃないかしら?」
「どうして……」
「貞造さんたちの顔を見なかったの」
瑤子はハッとして荷造りの手をとめた。体中の熱がすうっと冷めて行くようだった。
「ごめんなさい。どうかしてたわ」
「そうよ」
伸子は厳しい表情をしていた。
「自分のことに夢中で、うっかりしていたの。もうひと晩泊めていただいて、ゆっくりお別れを言わなくては」
「あたしたちも泊るわよ。今晩は送別会ね。カズさんにそう言って来る」
「いいえ、私が行きます」
瑤子は申しわけなさにしょんぼりしていた。まるでこの家が嫌でたまらなかったように振舞ってしまったのだ。
これではテレパシーを持っていたって何の役にも立ちはしない。瑤子はそう反省した。
5
老夫婦の笑顔に見送られて瑤子は宮崎市へ向かった。
「よかったわ、伸子さんに言って頂いて」
平和な村が見えなくなると、瑤子はしみじみとそう言った。老夫婦は是非生まれた赤ちゃんの顔を見せに来てくれと、くどい程念を押していた。
「ガンちゃん、余りとばさないでね」
伸子はガタガタと揺れるジープの中で、こわれ物のように瑤子の体を抱きかかえながら言った。
長い旅がこれで終わる。
瑤子は揺れるジープの中でそう思った。不思議なほど、ゆったりとした気持に戻っていた。きのうまでの焦りようを思うとまるで嘘《うそ》のようなのだ。
それを伸子に言うと、
「きっと妊娠したせいよ。誰《だれ》でも赤ちゃんができるとそんな風に気持の乱れることがあるそうじゃないの」
伸子は当たり前のことだと言わんばかりの顔で答えた。
それにしても、谷村氏はこの地方の実力者であった。前夜の瑤子の急ぎぶりを見ているだけに、伸子はその日の便で瑤子を東京へ送り出したがり、谷村氏はすんなりと伸子の要求通り飛行機の席を確保してくれた。
「ごめんなさい、こんなにあわただしいお別れで」
瑤子は何度も繰り返し伸子にそう詫《わ》びたが、伸子は何もこれが最後になるわけではなしと、至って陽気に瑤子を機内へ送り込んでしまった。
とうとう谷村氏には会いそびれてしまった。あっと言う間に宮崎空港を離れた機内で、瑤子は自分がいったい何人の人たちの好意でこの日を迎えることができたかと、指を折って数えはじめていた。
岡崎唯士、田辺清次郎、田辺圭介、お兼さん、そして柴崎ふじとその一家、長距離トラックの加藤、そのあとを引きついでくれた名も知らぬもう一人の運転手……谷村伸子、ガンちゃん、あの老夫婦、それに村の子供たち。
数え切れない。
瑤子は指を折るのをやめ、シートにもたれ込んだ。所詮《しよせん》人間は一人きりでは生きて行けないのだということを噛《か》みしめながら……。
旅客機はやがて夜の羽田《はねだ》空港へ着いた。
邦彦が迎えに来てくれるように手配すると伸子が約束していた。山をおり、空港から飛びのるようにして機上の人となるのが、それほどまでにあわただしかったのである。瑤子が出発してから、伸子は東京へ電話をかけることになっていた。
瑤子は席を立って、他の乗客たちと狭い通路を歩きはじめた。すぐうしろに体の大きな外国人がいて、その男が多少押し合うような感じの中を、うしろからかばうようにして歩いてくれた。
もうお腹の大きいことが判るのかしら……。瑤子はそう思い、そっと目を落して自分の下腹部を見たりした。
東京は雨があがったばかりらしく、あたりが濡《ぬ》れていた。
ガタガタとタラップをおりて行き、濡れたコンクリートの上に足がついた。
これが東京の感触なのだ……そう思いながら、紙袋をひとつぶらさげて建物へ向かった。
それが何番のゲートであったか、瑤子は知らない。とにかく人々にまじってそのゲートを入ったとき、横あいから不意に小柄なダークスーツの男が現われて瑤子の前に立ちふさがった。
不意を衝《つ》かれて、ギョッとなった瑤子へ、その男は柔和な笑顔で右手をさし出した。
「はあ……」
瑤子はわけが判らず、あいまいな表情で小首を傾げた。
「おめでとうございます、野川さん」
小柄な男は握手を求めたのだった。瑤子はつり込まれたように軽くその男の手を握って放した。
うしろに大きな外国人が立って笑っていた。それを見た途端、瑤子は気付いた。
「まあ、あなたがたでしたの……」
「そうです。いろいろとご迷惑をおかけしましたが、これですべてはおわりました。役目とは言え、気が進まない仕事だったことを判って頂きたくて」
瑤子はその外国人とも握手を交した。はじめて見る顔だが、彼のテレパシーはよく知っていた。
「元気な赤ちゃんを」
小柄な男はそう言うと、外国人と一緒に乗客たちとは逆の方向へ歩いて行った。
なぜそんなことまで知っているのか……。
瑤子は不審に思い、外国人のほうへ向かってテレパシーを……。
そして瑤子は愕然《がくぜん》とした。あの感覚が消えてしまっているのだった。テレパシーの能力がなくなっていた。
妻は窓あかりのように
1
野川邦彦は浜松《はままつ》にいた。
東日機材の工場長が、倉庫の扉《とびら》をいっぱいに開き、得意そうな顔で邦彦に言った。
「どうです。立派なものでしょう」
邦彦は図面の入った長い紙筒を腋《わき》の下にかかえていたが、その紙筒から設計図をとりだす必要もなかった。試作品は完璧《かんぺき》だった。
邦彦は倉庫の中へ入り、自分が考案した新しいデスクやキャビネット、それにロッカーなどをしげしげと眺《なが》めた。
「念入りに作ってくださいましたね。有難うございました」
邦彦がそう言うと、工場長は首に手を当てて、照れたように笑った。
「本社から送られて来た図面を一目見て判りましたよ。こいつは傑作です。今に日本中のオフィスを、こいつらが占領してしまうでしょう。売れますよ、これは。いいものは売れるんです。ただ、残念なことは、これを設計したあなたがもううちの社に籍がない人だということですよ」
「実は社長にもそう言われて来たところです」
「そうでしょう。でも、野川さんの為にはそのほうがよかった。三戸田さんなどという大物がバックアップしてくれているそうだし、量産態勢に入れば、うちの社だってこのシリーズの販売に全力をあげるでしょう。あなたの会社の前途は洋々たるもんですよ」
「そうなるといいんですがね」
「まあ、作るほうはまかせておいてください。これで日本にも、外国にまけないオフィス・インテリア群ができたわけです」
「しかし、まだ椅子《いす》が問題です。少し贅沢《ぜいたく》にしすぎて、コストが高くなってしまったものですからね」
「多少高くつくのはやむを得ないですよ。機能的で、長時間|坐《すわ》って疲れない椅子なんて、そうおいそれと作れるもんじゃありません。今までのオフィスの椅子は、ただ坐れればいいという、それだけのものだったじゃありませんか。だいいち重すぎましたよ。この椅子があるからこそ、ほかのものが生きて来るんです」
工場長は試作品の椅子に腰をおろし、前後左右に小きざみに動いて見せた。
「こいつを見たら、よそのメーカーがそれこそ腰を抜かすでしょうな。もしライバルがこいつを作りはじめたらと思うと、ひや汗が出ますよ。野川さんが東日機材と関係をたたないでくれていてよかった」
「僕も売りまくりますよ」
「オフィス・インテリアの耐用年数は長いですからね。現在使用中のものと入れかえるには相当時間がかかるでしょうが、今の若い人たちはセンスがよくなっているし、使う側も昔のように何でもかでも押しつけるというわけには行かなくなっています。その辺がこちらの狙《ねら》い目でもあるわけです」
工場長は椅子から立ちあがった。
「とにかく、おめでとうと言わせてください」
野川はさし出された工場長の手を握った。
「苦労なさった甲斐《かい》がありましたね」
工場長の顔は好意に溢《あふ》れていた。
「突然本社の野川課長が会社をやめたと聞いた時は、正直言って一体どうする気なんだろうと思っていました。しかし、独立してこんな素晴らしいものを作り出して……」
「そう持ちあげないでください。やむを得ない事情でこういうことになっただけです」
工場長は邦彦のそばを離れると、試作品のひとつひとつに、丹念にビニールのカバーをかけた。
「来週そうそう本社の営業の連中がこれを見に来ます。このところ業績が悪くなっていましたからね。こいつを見れば張り切るでしょうな」
工場長はそう言って倉庫を出た。邦彦の目の前で、ガラガラと大きな音をたてて扉がしまった。
「ここ当分、機密の保持が問題になります。社長の命令でこの工場にも保安課ができるんですよ。まだ他社には気付かれていませんが、こうなると車のメーカーなみですな」
工場長は楽しそうに笑って扉に錠《じよう》をかけた。
「試作に関係した工員たちはみなここの生え抜きの連中でしてね。その点心配ありません」
「よろしくお願いします」
邦彦は工場長と事務所のほうへ歩きはじめた。
「新幹線の駅までお送りしましょう。わたしも町に用事がありますから」
「それは有難うございます」
邦彦は晴ればれとした顔で空を見た。空も晴れ渡っていた。
「その前に電話を拝借します」
「どうぞ」
「家へかけます。夕食には間に合いそうだ」
邦彦があとの半分をひとりごとのように言うと、
「そうそう」
と工場長が大きく頷《うなず》いた。
「お子さんがお生まれになったそうで」
「ええ。男の子です」
「万事順調というわけですか。仕事も家庭も……羨《うらや》ましいですよ」
邦彦は建物の中へ入った。事務機メーカーの工場だけあって、まるでショー・ルームのようなオフィスであった。
何もかも順調……。邦彦は工場長の言葉を思い返しながら受話器をとりあげ、ダイアルをまわした。
瑤子はすぐ電話に出た。
2
瑤子が受話器を置くと、邦彦の学生時代からの友人である新沢信行の妻の聖子が、
「旦那《だんな》さまからね」
と、悪戯《いたずら》っぽい目で言った。
「ええ」
瑤子はベビー・サークルの中にこんもりと盛りあがっているかたまりを覗《のぞ》き込んで答えた。赤ん坊はよくねむっていた。
「電話のベルの音を小さくしなくては」
瑤子はソファーに戻った。
「そんな旧式のを使っていないで、音量調節のできる電話ととりかえなさい」
聖子は自分の子供をあやしながら言った。一歳と二か月になる女の子だった。
「晩ご飯には間に合うらしいわ」
瑤子は紅茶のカップをとりあげながら言った。
「いまどちら……」
「浜松ですって」
「相変らず飛びまわってるのね」
「会社を作ったのよ」
「そうですってね」
「あら、もうご存知なの……」
すると聖子は軽く笑った。
「会社を作る前、ご主人が新沢に相談したのよ」
「あら、そうだったの」
「だめねえ。さすがのテレパスも、こうなるとただの奥さんね」
瑤子は微笑した。
「そうよ。ただの奥さんでいいの」
「でも、ちょっともったいないわね」
「何が……」
「テレパシーのことよ。そんな素晴らしい能力があったら、何だって思いのままじゃないの」
「そんなことないわ。普通の人でいいのよ。現に、私がテレパシーの能力を持っていたとき、こっそりそれを使って主人のバックアップをしてるつもりだったの。でも、主人が男性として本当に力をつけたのは、私が身をかくしてからだったじゃないの」
「まったく、おたくの旦那さまは頑張《がんば》ってるわね。新沢もびっくりしてるわ。人間的にとても大きくなったなんてね。でも、うちの人がそんなことを言うと、なんとなくおかしいのよ」
聖子は笑った。膝《ひざ》の上の子供が一緒になって笑う。
「人さまの批評ができる柄じゃないのにね」
「今度また個展をなさるんですって……」
「そう。でも今度の場所はスペースが大きいのよ。そんなに作品だってたまっていないのに、どうする気なんだか」
瑤子は遠くを見る目になった。押入れに描きかけの絵が一枚あるのだ。
「ご主人に見ていただこうかしら」
「何を……」
「絵よ。まだ描きかけのままなんだけれど、そろそろ仕上げてしまおうかと思ってるの」
「おやめなさいよ」
聖子は失笑するように答える。
「あなたの絵を見て新沢がもし自信をなくしたら困っちゃうわ」
「まさか」
今度は瑤子が失笑した。
「新沢さんはプロじゃないの。それも新進気鋭と言われて注目を浴びている」
「やめて、瑤子さん」
聖子は本気で眉《まゆ》をひそめた。
「そんな風に言われると背中がムズムズして来るのよ」
「だって本当ですもの」
「本当でも何でもいやなのよ。はずかしくて死にそうになっちゃうわ」
「大げさねえ」
瑤子は笑った。
「あら、もうこんな時間だわ」
聖子はサイドボードの上の時計を見て腰を浮かせた。
「お買物をして帰ろうっと」
「じゃ私も行くわ。だからもうちょっと待っていてくださらない……久彦が起きるまで」
「いいわよ」
聖子は浮かしかけた腰をおろした。そのとたん、サークルの中の赤ん坊が身動きをした。
「あら、起きたわ」
瑤子はそう言って立ちあがると、赤ん坊をだきあげる。
「泣かないのねえ」
聖子が感心したように言った。
「凄《すご》く寝起きのいい子よ」
瑤子は赤ん坊をだいて、買物に出る仕度をはじめた。
何もかもが平凡だった。平凡な一人の主婦に、瑤子は戻ることができたのだ。そして、それに満足し切っていた。
出産前後の騒ぎにとりまぎれて、あの小さな鉢植《はちう》えの苔《こけ》も枯らせてしまった。それどころではないという感じだったのだ。
そして今、瑤子はもう苔を育てる気をなくしてしまっている。テレパシーなど、遠い遠いものに思えるのだった。
玄関の戸をしめて、二人の仲のいい主婦が、めいめい子供をだいて門をあけ、道へ出た。
キー、カタンと黒く塗った門扉《もんぴ》が閉じた。
「おたくは何にするの……」
瑤子が尋ねた。
「そう言えば新沢は何か鍋物《なべもの》が食べたいなんて言っていたわ」
「お鍋にするの……」
「どうしようかしら」
瑤子はそのやりとりを、少しもふしぎがっていない。
あの頃なら、聖子が夕食を何にする気か、口に出して尋ねなくてもすぐに判ったのだ。
3
買物から戻った瑤子は、描《か》きかけの絵を出して画架《イーゼル》にかけた。カンバスは十二号だった。
絵は完成しかけているが、空の部分がまだであった。
少年の絵である。
目の大きな少年が、夜空を背景に真正面を向いている絵を描こうとしていたのだった。
少年の姿は腰のあたりで切れ、顔は無表情だった。
……何でこんな気持の悪い絵を描きはじめたのかしら。
瑤子は久しぶりにその絵を眺《なが》めてそう思った。
あれのせいかしら……。
その絵を描きはじめたとき、瑤子はたしかにテレパスであった。人の心の動きが言葉を聞くように判り、大勢の人の心を自分の望む方向へ一度に誘導することもできた。
そういう能力を持っていたことが、こんなような絵を描かせたのではないかと考えている。それにしても、改めてこうして見ると、とても自分が描いた絵とは思えない。少年の無表情さが、かえって何か底知れぬ謎《なぞ》を語っているように思えるのである。
背景は地平線までずっと暗く、地平線の上あたりが僅かに暁の色で染まって、その上がまだ描けていないのだった。
「見てごらんなさい」
瑤子は抱いていた久彦にそれを見せた。久彦はその絵の少年のように大きな黒い瞳《ひとみ》を、描きかけの絵に向けていた。
「ママはテレパスだったのよ」
瑤子は久彦に語りかけた。夫の邦彦と、父の久衛の名をとって久彦と名付けたのであった。
「世界でも一番強いテレパシーの力を持っていたのよ」
瑤子は絵の中の少年に向かって言っていた。
「でも、おなかに久彦ができたら、その能力が消えちゃったの」
瑤子は久彦の体をゆすりながら、絵の前を離れた。
「よかったわねえ」
そう言いながら居間へ向かう。絵を仕上げるかどうかはまだきめていなかった。しかし、もし完成させてしまうなら、地平線から上を朝の空にしようと思っていた。
暗い絵はいやだった。もっと明るくて楽しい絵にしたかった。
「そのうち、金沢や米沢へ行って見ましょうね」
瑤子は想像した。夫と一緒に、久彦の手を引いて金沢の町を歩く自分の姿を……。
すると、柴崎ふじの顔がそれに重なった。
「あのおばあちゃまにも会いましょうね」
瑤子は米沢の春景色を思い出した。
「ママは春子だったのよ。そして冬子でもあったの。でももうママの名前はひとつだけ。ママの名前は瑤子なのよ」
久彦、瑤子、久彦、瑤子……彼女は心の中で何度もそう繰り返していた。
その頃、夫の邦彦は新幹線の車内にいた。
「久彦……瑤子……」
窓に顔を向け、そっとつぶやいていた。それは全くの偶然で、決して瑤子の発したテレパシーのせいなどではなかった。
邦彦は妻と子を思っている。仕事が終った今、一刻も早くわが家に帰りたいと願っている。
瑤子は夫を思っている。仕事が終った今、一刻も早く家へ戻って来てくれと願っている。
その偶然に、常人を超えたテレパシーの能力など全く介在していないのだ。
だがそれは、本当に偶然なのだろうか。常ならざる力が働いてはいないのだろうか。
邦彦と瑤子は互いに愛し合っている。あの瑤子を逃避行に追いやった危機にも、その愛は崩《くず》れなかった。消えなかった。邦彦は行先も理由も告げずに姿をかくした妻を信じ抜いた。瑤子もまた、そのような理不尽な行為をおかしても、最終的に夫が信じてくれることを疑わなかった。
そうした愛があるとき、二人の間を結びつける強い精神の力が働くのではあるまいか。
「あなた……」
瑤子が思った。
「瑤子よ、久彦よ」
車内で邦彦が思った。もし離れた場所にいる二人を同時に見ることのできる者が存在したとすれば、夫と妻がたしかに呼び合い、答え合っているのを確認できた筈である。
いま、世はテレパシーを異常な能力であるように言う。
果してそうだろうか。愛とはこたえ合うものなのではなかろうか。こたえ合うとき、互いをつなぐ何かが必要になる。
ESPと呼ばれる人間の精神の特殊な力には、幾つかの種類がある。
その第一がテレパシーである。ほかに、まだ起こらぬ出来事を予め知ることができる力とか、遠方のものや隠されたものを見ることができる力もある。手足を使わず、精神の力だけで物体を動かすことができる力もあるし、瞬間的に自分を違う位置へ移動させる力もあるという。
それらは、かつて人間がみな等しく持っていた力なのか、これから人間がみな等しく持とうとしている力なのか、定かではない。
しかしここにひとつたしかなことは、愛が時として、テレパシーと同じ働きを生じさせるということである。
そしてそれは、少しも異常な事柄ではないのだ。誰《だれ》もが等しく持つ、生まれながらに与えられた能力に過ぎないのだ。
4
邦彦が日吉駅へ着いたのは、七時を少し過ぎた頃であった。駅を出るとちょうどバスが来ていたが、邦彦はそのバスを横目に駅前の書店へむかい、建築雑誌を一冊買って駅前のバス停へ戻った。
ちょうど人々の帰宅時間に当たっているから、バスは続いてやって来た。家は駅からそう遠くはないが、タイミングさえよければ邦彦はいつもバスに乗るのだった。吊革《つりかわ》につかまって停留所を幾つか過ぎ、やがて見なれた花屋の前で降りた。
乗って来たバスの排気ガスを浴びながら歩きはじめるとすぐ、左角に小児科の小さな病院があり、その角を曲ると狭いながらそれぞれに庭のついた家が建ち並ぶ道になった。
静かだった。たいていの窓はカーテンを引き、内側のあかりがそれぞれのカーテンの色に染まって見えていた。
邦彦はゆっくりと歩く自分の靴音を聞きながら、心の中ではもう自分の家のドアをあけていた。
ドアをあけると、きまって玉のれんの音がするのである。
「おかえりなさい」
靴を脱ぎおわる前に瑤子が玄関へ出て来てそう言うのだ。今日もそうに違いない。
邦彦は胸の高さほどの、黒く塗った鉄パイプの門扉を押しあけて、ドアの前に立った。
ノブを掴《つか》んでいつものように軽くひねり、手前へ引いた。
が、ドアは動かない。
邦彦は一瞬ドキリとして、急いでチャイムの釦《ボタン》を押した。チャイムは確実に作動して、家の中で鳴っている。
邦彦は苦笑した。以前は夫が妻のいる家へ帰るのに、いちいち鍵《かぎ》など使うのはおかしいと言って、邦彦の帰宅時間にはいつも錠《じよう》をかけずにいたのだが、久彦が生まれる少し前から、さすがに瑤子も用心深くなって、錠をかけることになっていたのだ。
苦笑を泛《うか》べた邦彦の前へ、ドアがあいて瑤子の顔が現われた。
「パパ、お帰りなちゃい。お帰りなちゃい」
小さな小さな赤ん坊の手が、邦彦に向けて振られていた。もちろん瑤子がそう動かしているのだ。
「お、機嫌《きげん》がいいらしいな」
邦彦は中腰になり、久彦の頬《ほお》にそっと人差指をあてた。
「聖子さんが見えたのよ」
「そうかい」
子を抱いた妻が先に家の中へ入り、夫がドアの錠をかけてからそれに続いた。
「すき焼か……」
邦彦は鞄《かばん》を置きながら鼻をうごめかした。
「ええ。聖子さんに付合っちゃったの」
「新沢の家も今夜はすき焼か」
「そう」
「今度の日曜には、奴の家へ行って見るかな」
「お邪魔よ、きっと」
「どうしてだ」
「また個展をなさるんですって」
「またか、よくやるなあ。まあ、それじゃ訪ねるのはやめとこう。あいつが絵を描きはじめると、気難しくてかなわないからな」
瑤子は笑った。
「聖子さん、追い出されたなんて言ってたわ」
「そうだろう。時々そばに誰もいないほうがよくなるらしいんだよ」
邦彦はソファーに体を沈めて夕刊をひろげた。それを待っていたように瑤子がお茶を運んで来た。お茶を飲みながら夕刊を読みおえると着がえである。そして夕食がはじまる。
いつもきまりきっていたが、それでいてどこかしら毎日少し違っている。
入浴、テレビ、ベッド……。邦彦がいまいる場所には不安の影さえなく、暖かで優《やさ》しい適度なあかりがあるのだ。
「今度の日曜日、おひまなの……」
久彦をサークルに入れた瑤子が、キッチンへ入って甘えたような声で言った。
「ああ」
邦彦は夕刊のページを繰りながら答える。
「どこかへ行きましょうか」
「いいな。動物園へでも行くか」
瑤子の笑う声が返る。
「久彦はまだ判らないわよ」
「そうかな」
「そうよ。それより、あなたの会社を見せていただきたいわ」
今度は邦彦が笑う。
「おいおい、あなたの会社はないだろう」
「あら、どうして……」
「俺たちの会社なんだぜ、専務さん」
瑤子はキッチンから急いで出て来た。
「うそ……」
邦彦はニヤニヤしながら夕刊をテーブルの上に置くと、鞄を取りに立った。
「ほら」
鞄から書類を取り出して瑤子に示す。瑤子は濡《ぬ》れた手をエプロンで無意識に拭《ぬぐ》い、それを読んだ。
「この通り、会社は正式に発足したよ。でもまだ規模が小さいし、俺一人の会社みたいなもんだからな。三戸田さんに相談したら、君を重役にして置けと言われてこうなったのさ」