「私が専務取締役……」
瑤子は唖然《あぜん》として邦彦をみつめた。
「ごらんの通りさ。但《ただ》し給料は当分やれないぞ」
「知らないわよ。私なんか専務にしたら潰《つぶ》れちゃうから」
「大丈夫さ。社長がしっかりしている」
邦彦は笑い、瑤子もつりこまれて笑った。
「前途洋々ね」
瑤子はキッチンへ戻った。
5
「ねえ」
夕食のあと、瑤子は真顔になって邦彦に言った。
「何だい」
「さっき、帰っていらしたとき、何か変だったわよ」
「帰って来たとき……」
邦彦は少し考え、すぐに、
「ああ」
と笑った。
「判ったか」
「ええ。変な顔をなさってたわ」
「ギョッとしたのさ」
「なんで……」
「君がドアの錠をかけるようになっていたことを、一瞬忘れたのさ。ノブに手をかけても動かないじゃないか。それで思い出してしまったんだ」
「思い出したって、何をですの」
「もう随分昔の出来事のような気がするよ」
邦彦はしんみりした声で言う。
「いつものように帰って来たんだ。ノブをまわすとすぐドアがあいて、あの玉のれんの音が鳴り、君が出て来るものだと思い込んでいたよ」
瑤子はじっと夫の目をみつめている。
「それが、あの時はあかなかった。チャイムを押したが君は答えなかった。それでポケットから鍵を出してドアをあけた。風呂《ふろ》に入っているのかと思ったよ。だって家の中の灯りはみないつも通りについていたからな」
瑤子は夫の目をみつめたまま頷く。
「コートを着たままこの部屋へ入って君を呼んだ」
邦彦はあの夜の自分の動きを追うように、視線を移して行った。
「最後にはトイレまでのぞいた」
瑤子の目に涙がたまりはじめていた。
「俺《おれ》は急いでそこのカーテンをあけ、庭を見た」
邦彦は瑤子の肩を抱き寄せた。瑤子は夫の胸に顔を埋めて静かに泣いた。
「君のいない家は、変に寒かったよ。両方の腋《わき》の下が寒気《そうけ》だって来るんだ。恐ろしかった。本当にあの時は怕《こわ》かったんだぞ」
「ごめんなさい」
「あやまることはないさ」
邦彦はしばらく瑤子を抱いていたが、やがて微笑して瑤子の額を小突いた。
「専務が社長に甘えてやがる」
瑤子が泣き笑いになる。
「変よ、やっぱり。あたしが専務だなんて、人に聞かれたら恥ずかしいわ。それに、この専務さんはいつでも社長に甘えますからね」
「いいさ」
邦彦は瑤子の体を放し、駅前の書店で買って来た建築雑誌を開いた。
「見ろよ、これを」
「なあに……」
「久彦はすぐに大きくなる。今から増築のプランを練っておかないとな」
「勉強部屋……」
「そうさ。一人にひとつずつ部屋が欲しい。久彦だけでなく、下の子たちにもだぞ」
瑤子は目を丸くした。
「下の子たち、ですって」
「そうさ。下の子たちさ」
「だってまだ……」
「いずれ生まれるさ。君は例のテレパシーが遺伝することを気にしてるようだが、俺は何とも思っていないぞ。いずれそのうち時代が変り、考え方も変るだろう。ああいう超能力に恵まれた子供たちが、魔女狩りめいた迫害を受けるとは限らないさ。むしろ、貴重な人材として社会の役に立つようになるだろうよ」
「そうだといいわね」
「そうなるさ。心配要らないよ」
邦彦は雑誌を瑤子に渡すと、立ちあがって玄関へ向かった。
「あら、どこへいらっしゃるの……」
「いや、どこへも行くもんか。ただちょっと庭へ出て、外からこの家を眺《なが》め直したいんだよ。二階だてにするわけだからな。おとなりの日照権を奪ってもいけないし」
邦彦はサンダルを突っかけて外へ出た。
庭へ出ると、邦彦はまたあの夜のことを思い出した。意地になって徹底的に庭を調べまわったのである。隣家との境いの、低い竹垣《たけがき》に人が乗り越えたあとでもついていはしないかと、隅《すみ》から隅まで丹念に調べてまわったのだった。
空にされた苔《こけ》の鉢《はち》をみつけたのはその時だった。
「また苔を育てないといかんな」
邦彦はニヤニヤしながら呟《つぶや》いていた。久彦が超能力を発揮しはじめたら、その苔が光るだろう。
「たのしみだな」
邦彦の微笑はいっそう大きくなった。
屋根のシルエットをもっとよく見ようと、門扉をあけて外の道へ出た。
カーテンの中に瑤子の動く影があった。
どの家の窓にも明るい灯がともっている。みな暖かそうな、優しいあかりであった。
瑤子がカーテンをずらせて、外にいる邦彦を見ようとしているのが判った。
窓のガラスごしに見える瑤子の顔は、平和な家庭の窓あかりのようであった。
角川文庫『魔女伝説』昭和56年3月20日初版発行
昭和57年4月10日4版発行