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作者: 当前章节:15393 字 更新时间:2026-6-23 00:12

 が、呼出音が続くだけであった。

 その呼出音を十回ほども聞いてから、邦彦は受話器を戻した。呼出音しか聞こえない受話器を戻すのを、それほど惜しく思ったことははじめてだった。

 それと同時に、無人のわが家で電話のベルが鳴りやむのを想像して、邦彦はひどく物哀しくなった。

 何処《どこ》へ。

 ボールペンをとりあげて、なかば無意識にそう書いた。

 なぜ。

 また書いた。そして最後に、

 瑤子。

 と書くと、ボールペンをデスクの上へ乱暴に抛《ほう》り出して、そのメモを両手でもみくしゃにすると、左の足もとにある屑籠《くずかご》へポイと投げ入れた。

 別な部下がさっきから新しい企画のことで話したがっていた。だが邦彦はあいまいに答えて席を動かないでいた。他のセクションから連絡票がまわってきて、それに了解のサインをして返してやる。誰も彼も、いつも通り屈託のない表情をしていた。だが邦彦の気分は一秒ごとに沈鬱《ちんうつ》になるばかりであった。そして、自分のそんな沈鬱な気分を悟ってくれないことが、邦彦をいっそう沈鬱にした。

 十一時ごろ、邦彦はたまりかねてまた自宅へ電話した。今度は呼出音しか聞こえないことをはじめから覚悟していた。そしてその覚悟は、期待したようには裏切られなかった。やはり呼出音だけであったのだ。

 昼になった。

 だが邦彦は昼食にも行かずに席にいた。東日機材では商売柄オフィス内での飲食を厳禁していた。ショー・ルームの役割を果す場所へ、ラーメンやもりそばが運び込まれては困るのである。そのかわり、狭いながらも社員食堂が完備していた。もっとも、それも実用ばかりではなく、自社製品の展示をしているわけなのである。

 無人になった昼休みのオフィスで、邦彦はずっと待っていた。

 すると突然電話のベルが鳴った。邦彦は高鳴る胸を鎮めて、そのベルを二回聞いてから受話器をとりあげた。

「内藤さん、おいでですか」

 その声で気付くと、外線のではなく、相互呼出のランプがついていた。

「昼食に行っている」

「あ、すみません」

 社内の女子社員の声らしい。電話はすぐ切れてしまった。ランプの位置も見ないで受話器を取りあげたのは、やはりだいぶ落着きを欠いていた証拠なのであろう。

 邦彦はそんな自分がいまいましかった。そしてその腹立ちは、すぐ瑤子に向けられて行った。

 いったいどこで何をしているんだ。無断外泊じゃないか。そんなことをしていつまでも詫《わ》びの電話をして来ないなんて……。邦彦はそこまで考え、急に表情を堅くした。

 無断外泊。

 そうだ、これは無断外泊なのだ。正常な夫婦の間では、決して起ってはならない現象なのだ。

 まさか……。

 邦彦は首を激しく左右に振った。瑤子と自分の間で、そんなことが起るわけはないと思った。自分たちは愛し合った夫婦なのだ。信ずるの信じないのと、口に出して言い合う必要もないほどの夫婦なのだ。

 ……しかし、瑤子はまだ家に帰っていない。

  3

「どうしたんです。課長」

 部下の一人が呆《あき》れたように言った。だが邦彦はそれに答えもせず、コートをひっ掴《つか》むとオフィスをとび出した。

「奥さんとデート……」

 誰かが言うのが聞こえた。

「あ、そうか」

 あとは笑い声であった。

 しかし邦彦はそれどころではなかった。見栄も何もなく、ひたすら家へ飛んで帰りたかった。道路が空いているという保証があればタクシーに飛び乗っただろう。だがその時間では電車のほうがずっと早いのだ。

 邦彦は地下鉄の入口から階段をかけおり、いらいらと電車を待った。階段で追い抜いた乗客たちがホームへ次々に現われるのが癪《しやく》にさわった。

 電車が来ると、邦彦は乗り換えに一番都合のいい入口を選んだ。そんなことをするのも久しぶりのことだった。まるで新入社員が出勤するときのようだ、と思いながら要領よく乗り換えると、あとは日吉駅まで一本道である。時間が早いので電車の中は若い女性の姿が多かった。

 今日出勤したことは決して手落ちではない。邦彦は自分の行動をできるだけ客観的に点検しはじめていた。夢中になってあちこち電話をかけ、探しまわるほうが余程思慮のないやりかたである。そんなことをすれば、あとで瑤子はほうぼうへ弁解してまわらなければならなくなるのだ。

 しかし今夜を経過したら、もう非常事態と考えていい。万一瑤子が今夜も現われないようなら、明日は欠勤すべきだろう。そして八方手を尽してみよう。……邦彦は鉛筆の芯《しん》を舐《な》めて書きつけるような思いで、尋ねるべき相手の名を一人一人しっかりと頭に刻み込んだ。

 だが、それでもまだ警察|沙汰《ざた》にはできないと思った。瑤子がどこかの病院で身もとも告げられない状態でいるとは考えにくかったし、まして身もと不明の変死体になっていることなど、考えるのも嫌《いや》だった。

 だが、邦彦の心の底には、家のすぐ近くで暴漢に襲われ、どこかに監禁されている瑤子の哀れな姿が泛《うか》んでいた。……もしそうだとしたら、警察に届けないのは大きな失態である。

 どうしよう……。

 邦彦は迷った。しかし、それも日吉駅の改札口を出るまでにはほぼ結論が出ていた。

 家へ着いたら、まず第一に津田久衛に相談するのが一番正しい方法らしいのだ。津田久衛は瑤子の父親である。その横浜の実家には、ほかに清一郎と言う兄もいるのだ。練馬の野川家、つまり邦彦の実家にはとても相談はできない。うまく行っているとは言え、瑤子にとっては姑《しゆうと》や小姑《こじゆうと》たちのいる家なのである。

 邦彦は無理をして満員のバスへ体を押しこみ、花屋の前の停留所で降りた。

「おかえりなさいませ」

 角を曲ったとたん、そう声をかけられた。

「やあ、どうも」

 邦彦は無理に笑顔を作って軽く頭をさげた。前の家の奥さんが買物籠《かいものかご》をぶらさげて、幼稚園へ通っている坊やと出かけるところであった。

 誰もまだこの異変には気付いていない。……そう思うと邦彦は少しほっとした。

 今なら間に合う。瑤子よ、早く出て来てくれ。邦彦はそう祈りながら門扉をあけ、鍵《かぎ》を出してドアをあけた。

 きのうと違って門灯も、玄関の灯りもついていなかった。無人のわが家へ入るのが久しぶりのような気がした。

 邦彦は居間の灯りをつけるとコートを着たまま、まずヒーターのスイッチをいれ、すぐに津田家へ電話をかけた。

 すぐに相手が出た。

「はい、津田です」

 久衛の声であった。

「あ、お父さん、僕です」

「邦彦君か」

 久衛の声はいつもより少し厳しい感じがした。

「どうしたんだね」

「実は」

 邦彦がちょっと言い澱《よど》むと、久衛のほうから要点に触れて来た。

「ゆうべ瑤子が来ているかと尋ねたね」

「はい」

「あとでちょっと気になってね。それで昼間そっちへ電話をして見たんだ。だが、三度かけて三度とも留守だった。いったいどうしたのかね」

「そのことなんです。実は瑤子が居なくなってしまって」

「居なくなった……」

 久衛は絶句したようであった。

「きのう会議がありまして、いつもより少し遅くに帰ったんですが、そのときもういなかったんです」

「なぜ……」

 久衛は邦彦を責めるように言った。

「僕にもさっぱり訳が判らないんです。ただゆうべの状況から見て、僕が帰る一時間か一時間半ほど前に家を出たようです」

「それから全然連絡なしか」

「はい」

「困ったな」

「でも、とにかく様子を見ようと、今日は出勤したんです。社のほうへ連絡が入るだろうと思ったものですから」

「うん」

 久衛は沈んだ暗い声で答えた。

「でも、まだ戻りません。これはちょっと異常です」

 邦彦はつい訴えるような言い方になった。

  4

「警察はちょっと待ってくれんか」

 久衛は邦彦の説明を聞きおわると、ゆっくり区切りながらそう言った。考え考え喋《しやべ》っているらしい。

「ふしだらなことでこういう事態になったのでないことは、君も信じてくれるだろう」

「はい」

「君が今日一日じっと我慢していてくれたことには、父親として充分感謝する。それに、君同様わたしもあの子を信じているのだ。おかしなことで家を出たのではないことは……」

「判っています」

 邦彦は皆まで言わせずきっぱりと言った。

「わたしの言い分は少し筋が通らんかも知れん。そういうことはないと信じていれば、すぐにでも警察に届けるべきだろう。しかしもうちょっと待ってくれないか。或《ある》いはこれは三つか四つの子供が迷子になったのと同じように扱わねばならん事件かも知れんが、万一|誘拐《ゆうかい》されたとしたら、今ごろはとうに犯人から連絡が入っているはずだし、そのあたりは夕方になると買物に出る人が多いはずだから、何かと人目があってそういう犯罪も起きにくいと思うのだよ」

「たしかにそうですね」

「ただ、これ以上手をこまねいて連絡して来るのを待つというわけにも行かんね」

「ええ」

「君のほうは君のほうで、手を尽してみてくれないか。わたしのほうも昔の友達などを当たって見るから」

「そうお願いできると有難いのです。何しろ瑤子は結婚以来クラス・メートたちともろくに付合っていないようでしたから、僕には見当もつかないんです」

「判った。やがて清一郎も帰るはずだ。とにかくまた電話をしよう」

「じゃあお願いします」

 邦彦は電話を切るとコートを脱ぎ、電話台の下の抽斗《ひきだし》から早見表をとり出すと、帰る途中で考えて来た尋ね先にかたはしから電話をかけはじめた。

 だが、どこも平穏無事なのんびりとした声を聞かせるだけで、瑤子が立ちまわった様子はなかった。

 練馬の野川家へは一番最後にダイアルをまわした。

「邦彦かい、珍しいね。何か用事……」

 母親の声が聞こえた。

「あの……うちの奴、行ってないか」

「うちの奴って、瑤子さんのこと……」

「うん」

 母親は笑った。

「生意気にうちの奴だなんて」

「行ってない……」

「来てないよ」

 母親は笑いを残しながらそう答えると、急に冷静な声にかわり、

「どうかしたの」

 と尋ねた。

「いや、別に。ただ、帰ったら瑤子がいないもんで」

「変だね。瑤子さんと何かあったんじゃないのかい」

 さすがに母親は敏感だった。邦彦はできるだけさりげなく言ったつもりなのに、もう異変に気付いたようであった。

「何もないよ」

「何もないのに瑤子さんがいなくなるわけがないじゃないか」

 わけが、と力をいれて言う。

「本当に何もないんだよ。だから心配して探《さが》してるんじゃないか」

「いつからいないの……」

 到底隠し通せるものではなかった。

「ゆうべ」

「ゆうべからかい」

「うん」

「大変だわ。それで、探したの……」

「うん。でも、あまり騒ぎ立てるわけにも行かないしな」

「横浜は……」

「まっ先に電話したよ」

「それで……」

「行っていない」

 母親はしばらく沈黙していたが、急に叱《しか》るように言った。

「お前、悪いことしたね」

「悪いことって……」

「浮気したんでしょう」

「冗談言うなよ」

「瑤子さんみたいないい人を……」

 母親はそうきめてしまったような口ぶりであった。

「違うよ。そんなんじゃないんだ」

「可哀そうに。この寒いのにどこへ行ってしまったんだろう。お前、箪笥《たんす》や押入れをよく調ベてごらん」

「見たけど、いつも通りだ」

「ばかだねえ。瑤子さんが持って出た品を調べてごらんと言っているのよ。女だもの、何日も戻らない気なら、あれこれ持って行かなければならない物があるはずよ」

 そうか、と思い、

「判った、すぐ調べて見る」

 と言って邦彦はすぐ電話を切った。

 部屋はあたたまりはじめていた。邦彦はまず寝室に造りつけになっている衣裳棚《いしようだな》の戸をあけた。自分の服と瑤子の服がずらりと並んでかけてあった。

 邦彦は茫然《ぼうぜん》と立ちつくしてしまった。手がつけられない感じなのだ。どれもこれも瑤子の衣裳には見憶《みおぼ》えがあった。しかし、それでいながら、なくなっている物の見当がつかないのである。

 自分は妻のことを何も知っていなかったのではないか。邦彦はそう思った。

  5

 昨夜は家の中の乱れを点検しただけだった。押し入った者がいはすまいかと、それだけを考えていたからである。しかし今度は瑤子が何を持ち出したかを点検するのだ。

 邦彦は茶色いハンドバッグと、薄茶のコートが見当たらないことに気付いた。それで玄関へとんで行き下駄箱を探して見ると、そのコートに合う茶のハイヒールが消えていた。

 が、判ったのはそこまでであった。新婚旅行のときに使った白いスーツケースは残っているが、そのあとの小旅行のたび、日数や季節に合わせて旅行用の鞄《かばん》を幾つも買ったから、どれがなくなっているかまるで見当がつかなかった。まして下着類に至っては、結婚以来はじめてその抽斗《ひきだし》をあけて見るわけで、数の増減など判るわけもなかった。

 預金通帳も、印鑑やキャッシュ・カードと一緒にちゃんとしまってあった。また、現金もキッチンの食品棚の抽斗のひとつに、いつも通り納まっていて、そのことがいっそう邦彦の気持を乱れさせた。

 金も持たずに出て行ったのだろうか……。いや、そんなことはあるまい。コートにハイヒール、それにハンドバッグ。少なくともそれだけを身につけて外出したからには、タクシー代くらいは持って行ったはずなのだ。

 邦彦は、

「しまった」

 と声に出して言い、また寝室に戻った。その隅《すみ》に三面鏡が置いてあり、邦彦は勢いよく抽斗をあけた。

 ない。

 口紅がないのだ。その口紅は比較的高級な品で、つい半月ほど前に瑤子が丸の内へ出て来たとき一緒に買ったからよく憶えていた。その口紅がなくなっている。

 邦彦は自分がなさけなくなった。心の底から愛しているつもりでいながら、妻の愛用する品について口紅一本しか思い当たらないとは……。

 家の中を探しまわる邦彦の視点が、また少し変ったようであった。

 自分の知らない瑤子の姿を知ろうとしはじめたのだ。そして、邦彦の気付かなかった瑤子が、すぐに押入れの中から姿を現わして来た。

 なんとそれは油絵の道具一式であった。画架《イーゼル》に絵具類、筆が十何本か、そして十二号のカンバス。

 カンバスには絵が描きかけてあった。ほとんど完成しかけているようだったが、空の部分にまだカンバスの生地が露出していた。

 その絵は少年の絵だった。

 目の大きな少年が、夜空を背景に正面を向いていた。少年の姿は腰のあたりで切れ、その顔はまったくの無表情にも見えるが、何か底知れぬ謎《なぞ》を語っているようにも思えた。

 邦彦は商売柄絵画についてよく知っているほうだった。だから、それが写生ではなく、想像画らしいと言うことはすぐに判った。異様に大きな瞳《ひとみ》と、整いすぎる顔だち。衣服も着皺《きじわ》などまるで描かれてなく、背後には地平線までただ闇《やみ》が伸びているだけであった。そして地平線の上のあたりが僅《わず》かに暁の色に染まり、すぐ空も夜の色になっている。が、その夜空がまだ一部描きかけなのである。

 邦彦は自分の留守のあいだ、瑤子が少しずつ楽しみながらその絵を描いていたのだろうと思った。いつからか知らないが、それをコツコツと描きはじめ、完成したら居間の壁にでも飾って、帰宅した夫を驚かせようと思っていたのかも知れない。

 それにしても、かなりうまい絵だと邦彦は感心した。瑤子は編物などの手芸でも素人《しろうと》ばなれした腕を持っていたが、これほどの絵を描くとは思っても見なかった。

 その無理解が瑤子を家出させたのではあるまいか。邦彦は描きかけの絵を前に、床《ゆか》にへたり込んでしまった。

 しかし、すぐにそれを否定した。もしそうなら、きのうの状況はすべてにわたって余りにも突発的であり過ぎる。違う……違う。邦彦は心の中で何度も叫んだ。そんな衝動的な女ではない。瑤子はこんなやりかたで夫の前から姿を消すような妻ではないのだ……。

 そのときになって、邦彦はやっと空腹に気付いた。だが、昨夜の食事でもう何も残ってはいなかった。学生時代からずっと練馬の家で生活して来たから、飯の炊《た》きかたもろくに知らないのだ。

 邦彦はやむを得ず、サンダルを突っかけて外へ出た。バス通りに中華料理の店がある。と、言っても餃子《ギヨーザ》かラーメンかチャーハンくらいなもので、ほかにそう大げさな料理を出す店ではなかった。しかし、それでもないよりはましで、早く行かないと店を閉めてしまう時間になっていた。

 邦彦は小走りにその店へ行き、チャーハンを食べるとまた小走りに家へ戻った。今朝から何も口へ入れていないから、食事をしたあとのほうがかえって腹具合がおかしいような感じであった。

 鍵穴へ鍵をさしこんだとたん、家の中で電話のベルが鳴り出した。とたんに邦彦は心臓が高鳴り、大急ぎで家の中へとび込んで受話器をとりあげた。

「邦彦君か」

 久衛の声だった。邦彦は気落ちしながら答えた。

「はい僕です」

「そっちのほうはどうかね」

「どこもまったく反応なしです」

「こちらもだ」

 久衛はすまなそうに言い、すぐ声の調子を変えた。

「もう一日待って見てくれないか」

「何か心当たりがおありですか」

「はっきりは言えんが、瑤子が行きそうな所がひとつだけ残っている」

「どこです」

「京都だ」

「京都……」

「うん。あれの母親の実家だ」

「と言うと、お祖父さんの……」

「そうだ、瑤子が八つのときに死んだわたしの家内の実家だ。実ははじめからそこではないかと思っていたのだが、先方が留守らしくてまだ連絡が取れんのだよ。でも、明日になれば連絡がつくはずだ。瑤子は京都のおじいちゃんに可愛がられていて、昔からよく遊びに行ったりしていたんだ」

「そこですね、きっと」

 邦彦はほっとして言った。あの描きかけの夜空に、明るい月が現われたような気分であった。

 謎は苔寺《こけでら》のあたりに

  1

 快晴の日が続く。邦彦は目覚めたとたん、体を横にころがすようにしてすぐベッドから降りた。カーテンを引きあけると、ガラスごしの陽光をいっぱいに浴び、胸のあたりが急に暖かくなった。

「瑤子、待っていてくれ」

 邦彦はひとりきりの家の中で、そう声に出して言った。

 今日は会社を休むときめていた。必要なら、明日もあさっても、妻を発見するまで欠勤するのだ……。そんな決意が邦彦の心をきのうよりはずっと軽くしているようだ。

 邦彦は妄想《もうそう》を振り払うときのように、頭を左右に振って寝室を出た。明るい朝の光が活気をもたらし、少しは楽天的な気分にさせているようであった。とは言え、それはあくまでもきのうにくらべてのことで、妻に突然|失踪《しつそう》された夫の心に、重苦しいものがないはずはなかった。

 邦彦はヒーターのスイッチをいれ、湯沸器の口火をつけた。洗面台のコックをひねると、その湯沸器が作動《さどう》する軽い音が聞こえた。邦彦は髭《ひげ》をそりながら欠勤の口実を考えはじめた。

 今の段階では、家内が家出しまして、などと言えるわけがなかった。練馬の野川家、つまり邦彦の実家に対する場合と同じように、瑤子の名誉にかかわることだし、自分たち夫婦の今後の立場を考えても、おいそれと公表できることではないのである。

 髭をそりおえるまでに、邦彦はそのことに結論を下《くだ》していた。朝の社内の微妙な時間があるのだ。年輩の役づき連中が出社するのはおおむね始業時間ギリギリの頃で、入りたての若手や女子社員などはそれより少し早めに顔を揃《そろ》える。平《ひら》でも中堅、古手《ふるて》といったクラスは、そのふたつのグループの中間あたりで出社して来るのだ。これはどこの会社でも似たようなものであろう。だから欠勤の連絡をするようなとき、上司に直接電話口へ出てもらいたくない場合は、少し早目に電話をかければ良い。いま、上役に直接連絡はしたくないが、仕事上のことなどを同僚に頼んで置かねばならないときは、中堅クラスが出社しはじめている時間を狙《ねら》うことになる。いずれにせよ、そうした時間帯は幅のごく狭いものなのだが、今の邦彦の場合は、できるだけ早い時間に欠勤の連絡をしてしまえばよかった。そうすれば、電話に出るのは新入社員か若い女子社員で、詳しい説明をせずにすむのである。

 邦彦は時間を気にしながら食事の仕度をするためにキッチンへ入った。

「ちゃんと飯を炊いて見せるからな」

 邦彦はどこかへ消えてしまった瑤子に対して、また声に出してそう言った。どこへ行ってしまったのか判らないが、瑤子がこの朝の夫の食事を気にかけているのは確実に思えた。邦彦はそういう妻に対して、安心させようとしていたらしい。

 だが、その意気込みは次々に呆気《あつけ》なくうち砕かれるのだった。

 まず第一に、米のしまい場所が判らなかった。邦彦はさして広くもないキッチンの中を這《は》いまわるようにして、やっとの思いで流しの下の戸棚《とだな》から米の容器を見つけ出した。

 が、米を発見したよろこびもつかの間で、どのくらいの量を取り出せばいいのかよく判らなかった。邦彦はため息をつくと、仕方なくキッチンを出て居間の電話器のそばへ行った。

 練馬の野川家へダイアルをまわす。

「もしもし……」

 聞こえて来たのは妹の敬子《けいこ》の声だった。

「母さんを呼んでくれないか」

「あ、お兄ちゃん。ちょっと待ってて……」

 妹の声は屈託がなかった。すぐ母親の声に変った。

「邦彦……」

「うん」

「どうした……」

 瑤子のことを尋ねているのだ。

「まだ帰って来ない」

「しようがないねえ」

 それは瑤子一人を責めている言い方ではないようだった。

「まだ誰《だれ》にも言っていないんだよ。だから早くなんとかして頂戴よ」

「判ってる。今日は会社を休んで探す」

「早く出て来てくれるといいのにねえ」

 母親が瑤子の家出の原因を尋ねたくてうずうずしている気持が、その声で手にとるようによく判った。

「飯の炊き方を教えてもらいたいんだ」

 母親は、え……と短く言い、すぐ笑いを含んだ声になった。

「ばかだねえ」

「教えてよ」

「お前はずっとうちにいて、外で生活したことなんかなかったからねえ」

「米は見つけた。俺《おれ》一人分だと、どのくらい炊けばいいんだい」

「そんなのはゆうべのうちに言うもんだよ」

 母親は一瞬|憤《おこ》ったような声になったが、すぐ静かな調子で、噛《か》んで含めるように教えだした。

 邦彦は、母親から炊き方を教えられている内に、自分が何か大きな忘れ物をして来てしまったように感じはじめた。たしかに夫婦というものは、生活して行く上で男女それぞれの仕事を分担すればいいのかも知れない。しかし、毎日食べる米すら満足に処理できないのは、どこかに大きな欠落があるような気がしてならなかった。

  2

 朝食ができあがった。炊《た》きたての飯に味噌汁《みそしる》、漬物《つけもの》に海苔《のり》……。何も毎朝そんな古めかしい献立ての食事ばかりではないのだが、邦彦は意地をはってそんな風に一人だけの朝食を作りあげたのであった。

 箸《はし》をとるとき、心の中で瑤子に言った。……いただきます、と。そんな子供っぽいことでも考えていたほうが、邦彦の気が紛《まぎ》れるようであった。

 母親は突然一人きりにされた邦彦を憐《あわ》れんだのか、懇切丁寧に作る手順を教えてくれたが、瑤子のことには深く触れようとはしなかった。何かにつけて、世話を焼きすぎるほど焼きたがる日頃《ひごろ》の性格からすれば、それは極めて異例のことだったが、それだけ今度のことを重大視しているようである。

 飯はいつも瑤子が炊くのより柔らかかった。葱《ねぎ》の味噌汁は上出来だった。漬物は瑤子が漬けていたのを、邦彦が洗って刻んだだけだから、まったく瑤子の味そのものだった。

 悪戦苦闘して作ったその朝食を、邦彦はいつの間にかゆっくりと時間をかけて楽しみながら食べている自分に気づき、……まるで母親に置き去りにされた子供のようだ、と思った。柔らかすぎる飯はとにかく、何から何まで瑤子がしてくれる通りにしたわけであった。突然口をあけた大きな穴を、そんなことで埋めようとしたらしかった。

 食事をおえた邦彦は、まだ少し時間があるのを確認してから熱い茶をいれ、それを飲みながら新聞に目を通した。

 実を言えば、起きるとすぐに朝刊をひろげたかったのだが、万一瑤子が事故に遭《あ》った記事でも出ていると、と思うと何か恐ろしくて手が出なかったのである。

 幸いそれらしい記事は出ていない。邦彦はこれからの一日を冷静に過すべく、自分自身をできるだけいつも通りに振舞わせるよう努力していた。

 会社への電話はうまく行った。ダイアルをまわすと、案の定若い女子社員が出た。東日機材本社の電話は交換手が受けるのではなく、それぞれのデスクごとに直通番号を持った新しいシステムを採用しているのだ。

「野川だが、部長は……」

「まだおいでになっていません」

「そうか」

 邦彦は困ったような調子で一度言葉を切った。彼が課長をしている企画課は、調査課などと共に開発部に所属している。総務、営業などとくらべると、一番新しく、一番小さな部だが、それだけに会社の最も近代的な部分なのである。

「企画課の方をどなたかお呼びしましょうか」

 女子社員が気をきかせて言った。

「いや、いい。それでは部長が出て来たら、よんどころない用事で休ませてもらうと伝えてくれないか」

「今日は欠勤なさるのですね」

「そうだ。仕事のほうは特に大きな問題はないはずだからと言ってくれ」

「はい、判りました」

「頼んだよ」

 邦彦は事務的な調子で言いおわると受話器を置いた。置くと同時に勢いよく立ちあがり、食事の跡始末をはじめる。

 きっと京都の祖父のところへ行ったのだ。そうに違いない。……キッチンで手早く食器を洗いながら邦彦はそう考えた。瑤子が家を出た時間なら、まだ新幹線で京都へ行けるはずであった。

 食器を洗いおえたとき、居間の電話が鳴った。邦彦はなぜかそれが瑤子からの連絡ではないことを直感し、そうあわてずにキッチンを出た。

「はい野川です」

「あら、まだおうちにいらっしゃるの」

 その声は、昨夜瑤子が行っていないか探《さぐ》って見た友人たちの一人、新沢《にいざわ》夫人の声であった。

「やあ、ゆうべは突然妙なことを言って失礼しました」

「それより、どうなさったの……」

 新沢夫人は心配そうな声で尋ねた。

「参りましたよ。実は瑤子の奴、急に消えてしまったんです」

 昨夜はあいまいに、瑤子がお邪魔していませんかと尋ねただけであったが、新沢夫妻が相手ならもう隠す必要もなかった。

「まあ……」

 新沢夫人は絶句し、すぐ男の声にかわった。

「いったいどうしたんだ」

 夫の新沢|信行《のぶゆき》は画家で、邦彦とは高校時代からの親友であった。

「わけが判らないのさ」

 邦彦は声ばかりか表情まで、困り果てた様子で答えた。

「喧嘩《けんか》でもしたのか」

 新沢はそう言い、すぐ自分で打ち消した。

「いや、違うな。君ら夫婦が喧嘩なんかするわけがない」

「そうなんだ。全然思い当たるふしがないので困っている」

「いつからだ」

「きのう……いや、おととい会社から戻るといなかった。それっきりだ」

「探せ」

 新沢は厳しい声で命令するように言った。

「うん、会社は休んだ」

「必ずみつけろ」

 新沢は憤《おこ》っているようだった。

「きっと瑤子さんだって困っているに違いない。……なぜだかは知らんが」

 邦彦には新沢のそういう激しい言い方がこころよかった。何はともあれ、そこに味方がいるのが確かだったからだ。

「何か判りしだいに報告するよ」

「あんないい人はいない。探してすぐ連れ戻すんだぞ」

「うん」

 邦彦よりは新沢のほうが興奮してしまっているようであった。

  3

 新沢との通話のあと、邦彦はすぐ横浜の津田家へ連絡した。

「京都と連絡を取っている最中なのだ。すまんが電話を切って、こちらから掛けるまで待っていてくれないか。何しろ先方の家には電話を引いてないのでね」

 瑤子の父の津田久衛は、すまなそうな声でそう言い、電話を切った。すぐ横浜の津田家を訪ねるつもりだった邦彦は、出ばなをくじかれた感じで居間のソファーに沈み込んだ。

 京都に瑤子の祖父がいることは、たしかに聞いたことがあった。しかし、瑤子の母は早くに死んでいて、それ以来ずっと父親の久衛の手ひとつで育てられて来たのだ。従って結婚するときも、特に京都の祖父という人物は登場して来なかったし、邦彦はいまだにその苗字《みようじ》すら知らないでいる。

「おかしな奴だ」

 ソファーに坐って横浜からの電話を待ちながら、邦彦は舌打ちしてそうつぶやいた。考えて見れば瑤子という女は、余りにも自分のことについて語っていなかった。しかも、語っていないことを、今日まで全然邦彦に感じさせないでいたようである。

 それからどのくらいたっただろうか。瑤子と過した日々のあれこれをぼんやりと思い浮べていた邦彦の耳に、突然玄関のチャイムが大きすぎる感じで響いた。

 邦彦は反射的にソファーから腰をあげ、少しうろたえながらドアの錠《じよう》を外した。

「お早うございます」

 若い威勢のいい声と一緒に、邦彦の目の前に青いものが突きつけられた。

「ん……」

 邦彦は無意識に青いものを受取ってしまってから、まじまじと相手をみつめた。

「奥さん、お留守ですか」

 相手はクリーニング屋だった。

「うん、留守なんだ」

「必ず今日お届けするように言われてたんですよ。毎度……」

 クリーニング屋は、そう言うとあっさり帰って行った。邦彦はドアをしめ、じっとクリーニング屋が届けた品を眺《なが》めていた。

 青いスーツであった。

「青いスーツ……」

 邦彦は足早にキッチンへ入った。

「これだ」

 冷蔵庫の前に片膝《かたひざ》つくと、その白いドアにコートの釦《ボタン》ほどの大きさのマグネットの玉を使って貼《は》りつけたメモをみつめた。

 ——青いスーツ。プレス。金曜日——

 メモにはそう書いてある。

 金曜は今日である。そして今日は、いつもの半月ごとのデートの日でもあった。もし何事も起っていなければ、邦彦はいつも通り出社し、夕方になると瑤子が丸の内へ出て来るはずであった。瑤子は一階の喫茶店で邦彦の退社を待ち、二人|揃《そろ》って夜の街へ出て行くことにきまっていたのである。

 瑤子は少なくとも水曜日の夕方まで、二日後のデートを予定に入れており、そのために青いスーツをプレスに出していたのだ。とすると、水曜日の宵《よい》の外出はどうしても突発的な出来事と言うことになる。

 まったく掴《つか》みどころのない妻の失踪《しつそう》に関して、それが突発的であったという部分だけ、少しかたまって来た感じだった。

 青いスーツをしまおうと、キッチンを出て寝室へ入った邦彦は、急に気を変えると、スーツをベッドの上にほうり出し、和室へ行って押入れから例の描《か》きかけの絵を取り出すと、画架《イーゼル》を立ててそれにかけた。

 その大きな瞳《ひとみ》を持った無表情な少年の絵に、何か瑤子のかくし持った秘密がのぞいているような気がしてならなかったのである。

 何か知っているなら教えてくれ……カンバスの中の少年に心の中でそう言ったとき、また居間で電話が鳴った。邦彦は大股《おおまた》で和室を出た。

「待たせてすまなかった」

 津田久衛であった。

「京都と連絡は取れましたか」

「いや、それがまだなのだよ」

「そうですか」

 邦彦は気落ちした声になった。

「引き続き向こうと連絡を取って見るつもりだが、何せ呼出し電話では話にならない。君は今日休むとすると、土、日も休みのはずだね」

「ええそうです」

 東日機材も週休二日制になっている。

「どうかね、いっそ京都へ行って見るかね。もっとも、ほかに心当たりがあれば別だが」

「心当たりなんて全然ないんです。よければ京都のおじいさんの家へ行って見たいんですが」

「電話のない相手だから、この際行ったほうが早いかも知れないな。よし、京都に宿の手配をしてあげよう。北園《きたぞの》の家はちょっと判りにくいから、新横浜の駅で会うとするか、わたしもよくは憶《おぼ》えていないが、だいたいの地図を書いて渡そう」

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