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作者: 当前章节:15368 字 更新时间:2026-6-23 00:12

「北園……」

「瑤子の母親の実家だよ。何だ、北園という姓も聞いていなかったのか」

「ええ」

「しようがないなあ」

 久衛は邦彦の迂闊《うかつ》さを咎《とが》めるように言った。

  4

 邦彦は新横浜駅で津田久衛と落合った。久衛のほうが先に着いていて、次の列車の切符を買って置いてくれた。

「これが北園の家の所番地とだいたいの地図だ。何しろあのあたりへは随分行っていないし、新しい道などができていると探すのに手古摺《てこず》るかも知れないぞ」

「探します」

 邦彦は切符とメモを受取って言った。久衛は邦彦が財布を出しかけるのを見ると、その手をおさえつけるようにして金はいいと言った。

「二人が円満にやっていたのは、わたしもよく知っている。瑤子にも今の暮らしに不足はなかったようだ。だから突然居なくなるなんて考えられないが、とにかくこうなってしまった」

 久衛はそこで言葉を切り、かすかに頭をさげて見せた。

「できるだけ早く、表沙汰《おもてざた》にならぬうちに探して欲しい。ところで、この件は練馬の皆さんはもうご存知なんだろうね」

「いいえ、母だけです」

「ほう、そうか」

 久衛の顔に感謝の色が見えた。

「今回は僕も母を見直しました。父にも誰《だれ》にもまだ伝えていないようです」

「わたしからもお母さんに電話するよ。とにかくこんな姿の消しかたはよくないことだからな」

 邦彦は黙って頷《うなず》いた。

「そうそう、宿の手配をして置いたのだ」

 久衛はそう言うと、もう一枚のメモを手渡した。ホテルの名と電話番号が書いてあった。

「北園家と言うのは、亡くなった奥さんの実家になるわけですね」

 邦彦は少し口ごもりながら訊《き》いた。

「そうだ。あれは瑤子が八つのときに死んだ」

「もう長いことおたずねになっていないようにおっしゃいましたが、そうすると、余りお付合いは深くなかったのですか」

「それはそうだ。もう随分昔のことになるからな。先方もおばあちゃんが死んで、ずっと一人暮らしだったし……」

「なぜ瑤子だけそのおじいちゃんと往き来していたのでしょう」

「あの子が一人で旅ができるような年になってからのことさ。それ以前にわたしと北園家はいったん縁が切れたような形になっていたから、まあ言って見れば、あの子が一人で関係を復活させたようなものだよ。おじいちゃんも淋《さび》しくなっていたのだろう。大層可愛がってくれていたようだ」

 邦彦は久衛からもらったメモを見た。

「北園|延弘《のぶひろ》……」

「そうだ。たしか今年でちょうど八十歳になるはずだよ」

「京都市右京区|松尾《まつお》……」

「うん、例の西芳寺《さいほうじ》の近くだ」

「そうですか」

 邦彦はもっと久衛から聞いて置くべきことがあるような気がしたが、列車の来る時間になっていた。

「では行って来ます」

「万一あの子が京都へ行っていなくて、君の所へ連絡して来るようなことがあっても、日吉の家が留守ならすぐ横浜へ電話をくれるはずだ。だからあとのことは気にしなくていい。わたしか清一郎のどちらかが、必ず家にいることにするから」

「お願いします」

 邦彦は小さな鞄《かばん》をひとつさげて、足早に改札口を通り抜けると、振り返るゆとりもなくホームへ出た。階段を駆けあがるのと、列車が入って来るのと同時であった。

 当然のことながら、新横浜で降りる客は一人もなく、邦彦が乗り込むとすぐにドアがしまった。久衛はグリーン車の席を取っていてくれた。窓際には肥った中年男が坐《すわ》っていて、少し酒の匂《にお》いをさせているようであった。ゆうべ銀座《ぎんざ》あたりで飲んで、二日酔いのまま帰る大阪の商人と言った印象であった。

 席に落着くと、久衛がひどくすまながっていたことに改めて気付いた。わけはともあれ、今度のことを瑤子の不始末と感じているのは明らかであった。

 だが、それだからと言ってやたらな臆測《おくそく》を口にしたがらないのは、久衛も邦彦と同じで、それは瑤子に対する強い信頼感のあらわれでもあった。

 誰であれ、瑤子の日常を知る者は、今度の失踪《しつそう》を男性との関係などに結びつけて考えることはためらうに違いなかった。瑤子はそれほど優雅で明朗で、そして貞淑な女であった。

 しかし、それだからこそ、今度の件について、言いようのない不安感にとらわれもするのである。余りにも潔白で、余りにも動機がなさすぎるだけに、二日間の行方不明の背後には、重大な意味がかくされていなければすまないようなのだ。同時に、特に邦彦にとっては、瑤子の行方不明が二日や三日では納まりのつかないことのように思え、ひどく不安なのである。二日や三日ですむ程度のことなら、もうとっくに連絡をして来ているはずだし、ひょっとすれば失踪などしなくてすんでいるかも知れないのだ。

 ともあれ、列車は快晴の空の下を西へ突っ走っている。この列車の乗客の中で、妻を探しに行く男はほかにいるだろうか。……邦彦はそう考えながら座席の背を倒して目を閉じた。

  5

 京都駅で新幹線を降りた邦彦は、八条口《はちじようぐち》から出ると念の為京都の市街地図を買い、タクシーの乗場の列に並んだ。

 順番が来て小型車のシートに坐った邦彦が、

「西芳寺へ」

 と行先を告げると、運転手は車をスタートさせながら、

「苔寺《こけでら》ですか」

 と念を押すように言った。

「うん」

 邦彦は走り出した車の中で頷《うなず》きながら、思わず眉《まゆ》を寄せた。

 苔寺。……たしかに西芳寺は一名苔寺と呼ばれている。

 苔寺……。

 いつも日吉の家の玄関の灯りの下に置かれていた、あの苔の鉢植《はちう》えが目に泛《うか》んだ。

 瑤子が可愛がっていたあの鉢植えの苔は、ひょっとすると、これから訪ねる北園家でわけてもらった苔なのではないだろうか……。可愛がってくれるおじいちゃんからもらった苔……。

 邦彦は苔のことが気になりはじめた。おとといの夜、帰らぬ瑤子を待ちながらうろうろと家の中の異常を調べたとき、あの苔だけがいつもの場所になかったのだ。苔を植えた浅い鉢は、空《から》にされて勝手口のそばに置いてあった。

 瑤子はあの苔を持って出たのではないだろうか……。邦彦はそう考えると絶望に近い感情にとらえられた。仮定に仮定を重ねたことではあるが、その苔が北園延弘からもらったものだとして、家を出る瑤子が苔を持って行ったとすれば、行先は北園家ではあり得ないことになるのだ。日吉のわが家にもいられず、京都の北園家にも行けぬからこそ、大事な苔を持って出たことになるはずである。そして更に、あの苔がそれ程瑤子にとって大切なものだったとすれば、相当長期にわたって日吉の家へは戻らないことを意味してしまう。持ち歩いて世話をしなければならないほど長期間……というわけである。

 だが、いったい苔をどうすると言うのだろうか。

 邦彦はかすかに首を振って苔のことを頭から追い出した。祖父に当たる北園延弘の家が苔寺の近くにあるのなら、瑤子が大事にしていた苔の鉢は、その祖父からもらった物である可能性は大きい。しかし、家を出るとき瑤子が苔を持って行ったかどうかは、余りはっきりしていないのだ。あの朝、すでに苔の鉢は空けられ、玄関の下駄箱の上になかったかも知れないのである。それどころか、何日も前に玄関から姿を消していて、邦彦がそれに気付かなかっただけなのかも知れない。

 苔と妻の失踪を結びつければ、嫌《いや》でも不吉な方向へ事態が移ってしまう。だから邦彦はその考えを捨てることにきめた。

「その先が西芳寺です」

 運転手が小さな川ぞいの道で車のスピードを落しながら言った。

「お待ちしますか」

 邦彦を観光客だと思ったらしかった。

「いや、いい」

 そう答えると運転手は、西芳寺の総門がある橋の近くで車をとめた。

「このあたりは詳しいかね」

 料金を払いながら邦彦が訊《き》くと、運転手はすまなそうな微笑を泛《うか》べ、

「余りよく知らないのです」

 と答えた。

 車を降り、ドアがしまる。タクシーは砂利の音をさせて駐車場へバックして行き、方向を変えて、やって来たほうへ走り去った。

 邦彦はなんと言うことなしに歩き出しながら、久衛からもらったメモをとり出して番地をたしかめた。その小さな川は西芳寺川という名らしく、北園家は川ぞいに進んで行ったあたりにあるようだった。

 付近の様子は、どうやら久衛の知っている頃とそう大きな変化はないようであった。久衛の書いた大ざっぱな地図の通りに進んで行くと、結局広大な西芳寺の外側を西側から北へまわり込むかたちになり、寺の真裏に当たると思われるあたりで北園の名を尋ねると、やっとその家の所在が知れた。

 多分そこは嵐山《あらしやま》の南に当たるのだろう。北園家はゆるい斜面の広い敷地の中に、黒光りする瓦《かわら》を僅《わず》かにのぞかせた、ひどく古びた、そして意外に小ぢんまりとした家であった。

 門のようなものは見当たらず、手入れの行き届いた生垣《いけがき》の切れ目に、枝折戸《しおりど》のような入口があった。案内を乞うには建物の位置が深すぎるし、呼鈴の釦《ボタン》のようなものも見当たらなかった。

 邦彦はためらいながらその枝折戸をあけ、庭の中へ入った。

 庭いちめんに、びっしり緑の絨緞《じゆうたん》が敷きつめてあった。いや、絨緞と見紛《みまが》うばかりに、見事に苔が密生しているのだった。その苔の庭の隅々《すみずみ》に、寒椿《かんつばき》の赤が鮮やかに目に映った。

「ごめんください」

 黒ずんだ格子戸の前でそう声をあげると、思いがけない近さで嗄《しわが》れた声がした。

「どなたかな……」

 左手に和服姿の老人が、花鋏《はなばさみ》を持って立っていた。

「北園さんでいらっしゃいますか」

 茶色い裁《た》っ着《つ》けをはいた老人は、無表情で邦彦をみつめている。

「東京から参りました野川と言う者ですが」

「瑤子のご亭主か」

「はい」

「よう見えた。入りなさい」

 老人はそう言うと格子戸をあけ、中へ入った。多分そこが玄関なのだろうが、若い女のいる気配はまったく感じられなかった。

 夜は真珠色に光って

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 その家は何もかも小ぶりにこしらえてあるような感じであった。しかし、それでいて柱などは充分に太く、やや薄暗いが重厚な雰囲気《ふんいき》をかもし出している。

 室内には、良質の香の匂《にお》いが隅々まで深くしみ込んでいるようだった。その匂いはたとえかすかであっても、新幹線とタクシーを乗り継いでやって来た邦彦には、全身の肌《はだ》へしみとおるようにはっきりと感じられるのであった。

 瑤子の祖父に当たるという北園延弘は、長い沈黙の中で茶を点《た》てていた。邦彦をこの家へ請《しよう》じ入れてから、まだひとことも口をきいていなかった。その部屋のその場所へ邦彦を坐《すわ》らせて、長い間姿を見せなかった。そう広くはない家なのに、老人が立ち動く物音はまったく聞こえてこず、邦彦は予想もしなかった深い静けさの中に身を沈めることになった。

 その部屋は茶室として作られたものではないようであった。すべてが古びて何やら禅味が漂《ただよ》う質素な造りであるし、たしかに炉は切ってあったが、炉に置かれているのは茶釜《ちやがま》ではなくて、武骨な感じの鉄瓶《てつびん》であった。

 鉄瓶は小さな炉の中へ埋もれたような恰好《かつこう》で置かれ、はじめは炉に火が入っているとも感じられなかったが、やがていつの間にか白く薄い湯気を口から噴きはじめていた。それが室床《むろどこ》と言うのだろうか。三方の壁や天井が土壁の小さな床が、炉の向こうにあり、隅々の土壁が古びて白く変色している。

 邦彦はそこで、鉄瓶の湯が沸ききるまで老人を待っていたことになる。新横浜駅を出るときには妻を追い求めて気負い立っていたが、京都までの間にその気分はやや納まっていた。しかし、波立つ心は抑えようもなく、北園家を見つけた時には一気に相手を質問ぜめにして瑤子の行方を訊《き》き出さずにはいられない心境になっていたのである。

 それが、京都市内だというのに、山深い林の中にいるような静けさの中に置き放されてしまった。沸きたって鳴る鉄瓶の音と共に、邦彦の心には普段味わったことのない落着きが生まれて来た。

 老人の沈黙は、まるで邦彦のそうした落着きを生み出そうとしているかのようであった。茶道具を持って音もなく姿を現わし、目礼というには無表情すぎる一瞥《いちべつ》を邦彦に与えたきり炉を前にして坐ると、客の存在をまったく感じていないような超然とした態度で茶を点てはじめたのである。

 なぜか、邦彦も、老人の無造作な手の動きを目で追ったまま、語りかけようとはしなかった。

 この家へ入って以後の深い沈黙に、何か言いようのない安らぎを感じていたからであった。

 それにしても、茶の作法のなかに、そんなやりかたが果してあるものかどうか、邦彦には見当もつかなかった。老人はひょっとすると、すべての流儀や作法を無視して、まったく自分勝手に茶を愉《たの》しんでいるのかも知れなかった。

 老人は裁《た》っ着《つ》けの腰の辺りに袱紗《ふくさ》らしいものをはさみこませてはいたが、それを用いる様子もなく、奈良|晒《さら》しの茶巾《ちやきん》らしいものも置いてはいたが、それに手を触れたのは、鉄瓶の蓋《ふた》を取った時だけであった。だいたい、鉄瓶を使う点前《てまえ》など、邦彦の知識にはまったくないものであった。

 が、それでも茶は点てられる。老人は見るからに扱い易そうな黒楽の茶碗《ちやわん》から茶筅《ちやせん》を引くと、手もとを見もせずにその茶筅を置き、急に邦彦を凝視《ぎようし》すると肩を斜めにして茶碗を邦彦のほうへすすめた。

 邦彦は一度老人の目をしっかりと受けとめたのち、茶碗に手を伸ばした。うろ憶えの知識ながら、老人が形どおりの作法を無視していることは判っていたし、自分が正しいやり方で茶を服《の》める自信もはじめからなかったから、形式ばることなく、ごく自然に体が動いて、いつの間にか茶を喫しおわり、茶碗を老人のほうへ戻していた。

 その茶碗を手もとへ引いたとき、老人の目にはじめて表情らしいものが泛《うか》んだ。

「茶は好きかな」

 そう問いかけている老人の顔には、何やら邦彦に対する好意らしいものが窺《うかが》えて、

「はい」

 と、邦彦は思わず頷いていた。

「こういうお茶なら好きです。でも、余り服んだことはないのです」

 老人の顔にはっきりと笑いが見えた。

「そうか。あの瑤子が夫に選んだのは、あなただったのか」

 ひとりごとのようにそう言った。

  2

「瑤子のことでお尋ねにあがりました」

 邦彦は切り出した。老人は膝もとに茶碗を置くと、黙然と邦彦をみつめている。

「実は、瑤子がいなくなってしまったのです」

 そう言うと老人の目がそれ、寒いのにあけ放してあった小さな障子の向こうに視線を移した。いちめんに苔《こけ》が密生した庭が見えている。

「いかんな」

 老人はまたつぶやくように言った。

「僕には理由が判らないのです」

 邦彦はもっと詳しく話さねばならぬと思い、いつから、どのような消え方をしているのか説明しようとしたが、言いかけてやめてしまった。邦彦の世界では、そういう説明が不可欠のものであった。いつ、どうやって失踪《しつそう》し、その後自分はどんな気持でどう行動したか。失踪する以前の夫婦の間はどんな状態であったか、など。

 しかし、老人はまったく別の世界にいた。まず第一に、ここには邦彦の世界につきものの、街の音が零であった。老人は自然の中に、少し悪く表現すれば箱庭のような景色の中に生活していた。苔と言い樹木と言い、それは自然のものであるにもかかわらず、どこからどこまで人の手が行き届き、その分だけ自然が本来持っている荒々しさがなくなって、浮世ばなれした静けさと、何か邦彦の尺度とは異る尺度による調和が、その老人をとりまいているようであった。

 しばらくの沈黙があったのち、邦彦は老人と同じように広い庭に目をやり、

「瑤子がここへたびたび来た理由が判るような気がします」

 と言った。

「ほう、そうかね」

 老人は邦彦の言葉に興味を示したようであった。

「こういう場所があると知っていれば、瑤子と一緒にお邪魔していたでしょう」

「好きかね」

「はい」

 邦彦は老人とまた目を合わせた。老人の言い方はいかにもその庭にふさわしく、意味深い感じであった。庭のたたずまいと共に、瑤子という人間を好きかと尋ねていたようだ。

「信じることだ」

 老人は、今度は邦彦の目をみつめてはっきりと語りかけていた。瑤子について言っているのは明らかであった。

「はい」

 邦彦は何か感動のようなものを味わいながら深く頷《うなず》いた。

「あなたは祈ることがあるかな」

「祈る……」

「そうだ」

 邦彦は考えた。父も母もまだ健在であった。邦彦の脳裏《のうり》に練馬の野川家の仏壇が泛《うか》んで消えた。まだ心の底から仏を念じたことはないようであった。しかし、高校や大学の入試の時など、神や仏とは違った、漠然《ばくぜん》とした何かに強く祈った憶《おぼ》えがあった。

「あります」

 老人はかすかに頷いた。

「信じることは祈ることだと思う」

 再びつぶやくように老人は言った。

「人の苦しみは信じることで耐えられる。信じることを形にあらわせば祈る姿となる」

 邦彦は黙って老人の目を見ていた。

「あなたはあなたを信じればよい」

 老人は意外な方角へ話を移動させた。

「瑤子を信じるなら自分をも信じることだな。あの子が姿を消したのなら、あの子の為に祈ってやることだ。それが自分を信ずることにもなる」

「よくお話が判りません」

 邦彦は詫《わ》びるように言った。

「理由がなくて妻が夫の前から姿を消すわけがない」

「ですから、その理由を知りたくてここへ伺ったのです」

「理由を知りたければ自分で探《さが》しなさい。あなたはあの子を信じたのだろう」

「はい。でも……」

「妻を追うのもあなたのさだめかも知れん。あなたの仕事かも知れん」

「ここへ来ませんでしたか」

「ゆうべ泊って行った」

「ゆうべですか」

「そうだ。だが、あの子はいつも通り何も言わなかった。祖父と孫という間柄だが、あの子と儂《わし》はそのような関係でもある。互いに顔を見せ合い、しばらくそばにたたずんで、また去って行く……」

「でも、今度は特別の筈《はず》です。何か言い残しませんでしたか」

 老人はゆっくり頭を左右に振った。

「行先も言わん、なぜ来たかも言わん。一日この庭や近くを歩きまわって、この家に泊って行っただけだ。しかし儂には判っている。何があろうと、あなたとあの子が仲たがいしたわけはない。それはさっきあなたの顔を見て判った。あなたに判らんとすれば、あの子が姿を隠した理由はあの子だけの問題であった筈だ」

「でも、夫婦なのです。僕に説明してくれてもいいじゃありませんか」

 邦彦は目の前に瑤子がいるかのように、老人に向かってなじるように言った。

「言えなかったのかも知れん。だが信じてやって欲しいものだ。あの子は決してあなたに悪意を持っているわけではない筈だからな」

「それはそうですが」

 邦彦は言い、ふとうろたえた。

「瑤子は僕にも言えない悩みごとを持っていたとおっしゃるのですか」

 その時、老人はすっと立ちあがった。

  3

 客らしかった。老人は気配でそれを察したのだろう。邦彦は昨夜この家に泊った瑤子がまた戻ったのではあるまいかと緊張し、そっと様子を窺《うかが》ったが、どうやら違うようであった。

 客は男の二人連れらしかった。案内を乞《こ》われる前に老人のほうが出て行ったようで、老人のほうが先に声を発していた。

「先日|西芳寺《さいほうじ》さんから紹介のあったお方ですな」

 相手の声はいやに低くボソボソした感じで、内容は聞きとれなかった。

「どうぞご自由にごらんください」

 どうやら家へは入れず、庭へ廻って行くようであった。

「家の中におりますが、お帰りにも声をおかけくださる必要はありません」

 老人はひどく素っ気なく言い、二人連れを庭へ案内するとすぐ戻って来た。

「苔を見に来たのだ」

 老人は部屋へ入るときそう言い、元の座につくと黙って茶を点《た》てはじめた。

「ほう、外人のようですね」

 邦彦は庭を歩く二人連れのうしろ姿を見て言った。

「外国語は喋《しやべ》れんし、外国人は好かん」

 老人は客に示したのと同じように、素っ気ない態度でそう言った。茶を点て、自分で服《の》む。それはまるで、嫌《きら》いな外国人に会ったあとの口なおしをしているように思えた。

 庭の外人はひどく背が高かった。艶《つや》のある黒いコートを着ていて、連れの日本人は日本人としても標準より背が低いようだったから、対照的すぎて少し滑稽《こつけい》な感じがしていた。

「そう言えば瑤子は苔を鉢植えにして可愛がっていました」

 邦彦はふと思いついたように言い、同時に少しうしろめたさを味わったようであった。

 本当に何気なく口を出た言葉ではあったが、その何気なさが老人を引っかけようとしているようで気になったのだ。

 それほど老人には公明正大な感じが強く、駆け引きや小細工などをしかけると、しかけたほうが慚《は》じてしまわねばならぬようなところがあったのである。

「苔をかね」

 老人は眉《まゆ》を寄せた。

「はい。水盤と言うんでしょうか。平べったい花器に土をいれまして」

「苔をか。いつからかね」

「結婚する時、もう育てていたようです」

 老人は感心したような声を出し、すぐそれを打消すように言った。

「東京あたりではいい苔が育たんからな。東京で育つのはゼニゴケのたぐいくらいだ」

「瑤子の苔はこちらで分けていただいたものではないのですか」

「いや」

 老人ははっきりと首を振って否定した。

「こちらに伺ってふと気付いたのですが、瑤子は何か苔のようなものに……」

 邦彦は先を言い澱《よど》んだ。瑤子の失踪と苔の間に何かつながりがあるのではないかと言おうとしたのだ。しかし、口に出して見れば、それは余りにも飛躍した考えであった。

「苔と……」

 老人はそれでも邦彦の言おうとすることを察したようである。

「いや、ただ瑤子が家を出るとき、どうも可愛がっていた苔を捨てて行ったような気がするものですから」

 邦彦は弁解するようにあわてて言った。

「ここや西芳寺の苔を見て、自分でも育てて見ようとしたのだろう」

 老人は微笑して言った。

「西芳寺は苔の寺として、日本ばかりではなく、今では世界中に知られている。モス・ガーデンと言ってな」

「ほう、そうですか」

 老人は障子の外へ顎《あご》をしゃくって見せた。

「そこらにびっしりとはえているのはオオスギゴケだが、外国人の中には芝を植えるより余程いいと言って、これを自分の国で育てている者もいるらしい。しかし、育てるのはむずかしい。このあたりでよく苔が育つのは、京都という土地が苔に適しているからなのだ。京都盆地の空気は湿気が多いのでな。大阪でこういう庭を作ろうと思ってもうまく行かん」

「大阪でもですか」

「夏の乾燥期にみな参ってしまう。スギゴケのたぐいは湿気を好むくせに排水が悪いとすぐ腐ってしまうのだ。だから、鉢植えにしてもたいてい二年くらいで駄目《だめ》にしてしまう。まして関東は霜が立つからな。霜で根を浮かされたらそれきりなのだ」

 老人は苔のことになると少し多弁になるようであった。

  4

 苔《こけ》といっても種類が多い。たとえば、スギゴケ類ひとつ取っても、日本に一千種以上も生育していると言う。

 従来、コケの仲間は蘚苔類《せんたいるい》と呼ばれ、蘚類と苔類に大別されていた。蘚類はスギゴケの仲間、苔類はゼニゴケの仲間である。

 だが近頃《ちかごろ》は研究が進み、スギゴケ、クロゴケ、ミズゴケ、ゼニゴケ、の四つに大別されていて、その四つが更に分類されることになる。

 スギゴケは最も種類の多いコケで、茎と葉が分化している。クロゴケは高山の岩に生え、まだ二種類しか知られていない。ミズゴケは寒い地方の湿原に群生する大型のコケで、苗木を包んだりランを植込むのに利用されている。種類は二十あまり。

 ゼニゴケは茎と葉が分化していなくて、日本に数百種あることが判《わか》っている。

 いずれにせよ、苔寺の庭のように観賞される上には、ゼニゴケは造園上悪いコケとされ、最も美しいのはオオスギゴケとされている。コケを熱帯産のように思っている者も多いが、元来は高地に産するものだから寒さに強く、常緑であって四季その美しさに変化がないから、近頃しだいに愛好者が増えていると言うことである。

 北園延弘は見事な苔の庭を所有するだけあって、苔の話になると急に熱心になった。

 多分瑤子もその祖父の感化を受けて、自分で苔を育てて見る気になったのであろう。

 が、老人から苔の話を聞いているうちに、邦彦は自分の心に焦燥《しようそう》感が湧《わ》きあがって来るのを抑えられなかった。

 多分瑤子はこの家へ来て、老人と苔の話をしたのだろう。何か心の安らぎを求めてここへ来たには違いないが、老人の与えてくれる安らぎは、彼女の本質的な悩みを解決してくれるものではなかったようだ。

 その朝、瑤子はどんな思いで祖父のもとから去ったのであろうか。祖父にも父にも夫にも頼れず、重い荷を背負ってどこかへ去った瑤子のことを考えると、のん気に苔の講釈など聞いてはいられない気分になるのだった。

 外人と日本人の二人連れは、老人に言われたとおり声もかけずにひっそりと帰って行ったようである。ふと気付くと障子の外がすっかり薄暗くなっていた。

 邦彦は老人に別れを告げた。暗い家を出て、枝折戸《しおりど》のような小さな入口から外の道へ踏み出した邦彦は、自分の過した時間の虚《むな》しさに気が滅入るようであった。

 所詮《しよせん》は違う世界の住人だった。

 失望の中で思ったことがそれだった。老人……北園延弘は、自分の苦しみや瑤子の悩みには程遠い人間だったと思った。下って行く薄暗い小径《こみち》で一度迷いかけ、なんとかタクシーを降りた道へ戻れたものの、邦彦は心細さをつのらせていた。

 いったい、再び瑤子にめぐり会えるのだろうか。あの柔らかい体をまた抱きしめることができるのだろうか。

 それにしても、瑤子はなぜ自分の背負ったものを、父にも祖父にも夫にも、打ち明けようとはしないのだろうか。自分は夫として、それほど頼り甲斐《がい》のない存在だったのだろうか。

 そして、これからどこへ探しに行けばいいと言うのだ。……邦彦は途方に暮れる思いであった。

 苔寺。

 邦彦はふと心の中で舌打ちするように道の左側を眺《なが》めた。小さな川の向こうに西芳寺の総門があり、薄暗い中に禅宗洪隠山西芳禅寺と言う白い文字が泛《うか》んで見えていた。

 川に木橋がかかり、中央に車止めの高札が立ててある。門はまだ開いていて、中に白い塀《へい》が見えている。

 きのう瑤子がここへ来たのだ。……そう思ったとたん、邦彦の足は誘われたように橋を渡りはじめていた。鴉《からす》の啼《な》く声がひと声きり、かなり遠くで聞こえた。

 総門をくぐると、今やって来た道を逆行するかたちで、白い塀ぞいに歩くことになった。

 塀は高く、脇道《わきみち》はなかった。ひと気もなく、参観の刻限はとうに過ぎているようだった。

 が、邦彦は行手をさえぎるもののないまま、奥へ進み続けた。すると、突き当たりに小さな料金所の小屋のような建物があった。

 もう庭内へ入ることができないことは判り切っていたが、邦彦はとにかくその料金所のところまで行って見た。

 白い土塀が尽きて、そのあたりから小径をめぐらせた苔庭の一部が眺められた。

 もう暗くて木立の下の苔の色も見定め難かったが、踵《きびす》を返して戻ろうとした邦彦が急に足をとめたのは、妙に差のありすぎる二つの人影に気付いたからであった。

 あの二人連れだ。

 邦彦はそう直感した。北園家の庭を見に来たノッポとチビの二人連れに違いなかった。

 こんな遅くに何をしているのだろう。

 邦彦は苔寺の中の二人を凝視《ぎようし》した。老人がその二人に向かって、西芳寺の紹介とか言っていたから、何か特別のはからいでこんな時間に庭へ入れてもらっているのだろうが、何かしらその二人の影には不吉なものが感じられるのであった。

 その理由は、二人の姿勢にあった。彼らは互いに立ったり膝《ひざ》を折ってしゃがみ込んだりしているが、それがどことなく刑事の現場検証のような感じを漂《ただよ》わせていたのである。

 二人連れ、というせいもあるのだろうし、テレビの刑事ものなどで、俳優のそういう演技を見なれすぎていたせいもあろう。どちらにせよ、邦彦にはそれが苔の観賞などという優雅なものには感じられず、何かギスギスとした、非常に事務的な動作に思えたのである。

  5

 いったい、あそこで何をしているのだろうか……。邦彦は相手に悟られぬよう、少し体の位置を変え、木立にかくれるようにして眺め続けた。

 と、二人が急に位置を入れ替えた。しきりに地面を見て議論しているようなのだが、二人が入れ替ったとき、何か光るものが見えたようであった。

 懐中電灯でも使っているのか……。

 邦彦は一瞬そう思い、納得しかけた。苔を観賞に来て、二人のうちのどちらかが落し物をしたのかも知れないのだ。それだったら、時間外に庭へ入れてもらうこともできようし、ギスギスした雰囲気《ふんいき》も理解できる。しかし、次にまた二人が体の位置を動かしたとき、さっきの光が懐中電灯のものなどではなかったことがはっきりとした。

 なぜなら、その光は冷たい真珠色をしていたのだ。しかも光源は決して人間の手もとになどなく、地中に埋まっているようなのである。

 この寺の僧が三人ほど、ノッポとチビのほうへ近寄って行った。

「いや、光る苔というのは聞いたことがありますが……」

 僧の一人が声高にそんなことを言っていた。

「ヒカリゴケでしょう、それは」

 もう一人の僧が答える。

 光源は地中に埋まっているのではなく、苔そのものが真珠色の光を放っているらしい。

 背の高い外人が、興奮したような早口で何かまくしたてている。チビがそれに何か答え、また外人がまくしたてる。

 とにかく、苔寺の苔の一部が真珠色に光りはじめているのだ。そしてそれは、苔寺の僧にとっても奇異な現象であるらしい。

「ゆうべは気づきませんでした」

 多分僧の声だろう。

「いったいいつから……」

 ふしぎがっている。

「もしもし」

 邦彦はギクリとして振り返った。

「何かご用ですか」

 若い僧が薄暗い中で悪意のない表情を邦彦に向けていた。

「いや、折角近くまで来たのだから間に合うかと思いまして」

 邦彦はガラス窓をしめた料金所を顔で示しながら答えた。

「それはどうも申しわけありません。でも、もうとうに閉ってしまいました。明日おいでください」

「ええ、もうすっかり暗くなってしまいましたね」

 邦彦は苦笑するように言い、ノッポとチビと三人の僧がいるほうを指さした。

「何か、苔が光っているようですが……」

「え……あの……」

 若い僧は笑顔になり、

「何の拍子か、新しい苔が生まれたようなのです」

 と言った。

「それは結構なことです。新しい苔を見に、また見物が押しかけることでしょう」

 邦彦は若い僧が中へ入れてくれはすまいかと期待していたが、寺の外へ使いにでも行くところだったらしく、促すように総門のほうへ歩き出されてしまった。

 仕方なくそれについて行く。

「外人のようでしたね」

「ええ」

 若い僧は屈託がない。

「このお寺のお知り合いですか」

「ファンなのですよ」

 僧は軽く笑って見せた。

「ファン……」

「ええ。アマチュアの苔の研究家です。愛好家、と言うのが正しいかな」

「ほう。苔の愛好家が近頃多くなったそうですが、外人まで……」

「そうなのです。だいぶ以前から、日本にもミタイカイというのができていますよ」

「ミタイカイ……」

「美しい苔の会と書きますから、本当はビタイカイと読むのでしょうが、会いたい見たいに引っかけて、ミタイカイと洒落《しやれ》て読むのが正しいのだそうで」

「美苔会ですか」

「このお寺は何しろ苔寺ですから、そういう苔の好きな人たちの中心のような場所になってしまうのです。もっとも、オオスギゴケばかりを好む人たちは、この京都でも、円通寺さんとか、東福寺さんとか、三千院さんとか、そちらのほうを褒《ほ》めるかたも多いのですけれど」

 若い僧は総門までの間に、苔について邦彦の知らなかったことを、かなりの早口で教えてくれた。

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