やはり瑤子の失踪《しつそう》は苔に関係があるのでは……。邦彦の心にまたそんな疑いが首をもちあげて来たが、たしかにそうだと思える証拠は何もなかった。
ただ、美苔会という三文字を、邦彦は心にしっかりと焼きつけただけであった。
冬の夜は早かった。若い僧と別れた邦彦は、どうやってホテルへ向かうかという心づもりもなく、深まる京都の闇《やみ》の中を一人で歩き続けた。
ネオンのともるあたりへ自分を連れ込むのが何となく嫌《いや》だった。そこでは、またあの喧噪《けんそう》にまき込まれ、瑤子への思いを跡絶えがちにさせねばならないのだ。
瑤子……。
ひっそりとした暗い道に、瑤子の白い優しい顔が泛ぶように思った。そしてその白いおもかげを、いつの間にか真珠色に感じはじめるのであった。
苔だとしよう。
邦彦は瑤子の失踪の理由をそう仮定して見た。
苔だとして、いったい苔のような植物が、瑤子にどのような重荷を背負わせ得るのか。
……そんなことはあり得ない。苔はたしか植物の中でもとりわけ原始的なもので、下等な植物ではないか。
苔ではない。
邦彦は立てたばかりの仮定を一気に崩《くず》した。だが、そのあとには深い底知れぬ穴が残るばかりであった。まず理由を探し当てぬ限り、瑤子の行方は判らないだろう。理由を探り当てれば、彼女のいそうな方角もおのずと知れるのだ。
邦彦はその夜、歩き続けた。タクシーの空車もたくさん見たが、手をあげてそれを停《と》めようとはしなかった。ただひたすら、トボトボと歩き続け、無益な疲れを自分に与えることで、得体の知れぬ瑤子の重荷をわかち合おうとしていた。
足を引きずってホテルにたどりつき、フロントでキーを受取ったとき、邦彦はふと、背にして来た西芳寺の庭で、一群の苔がまだ真珠色に光り続けていることに気付いた。そして、その真珠色の光が、なぜか瑤子の背負った重荷の象徴であるように感じるのであった。
絵の中の風も冷たく
1
瑤子《ようこ》を探《さが》す手がかりさえあれば、邦彦《くにひこ》は少くとも日曜日の夕方まで、京都にいるつもりであった。
しかし、期待して会った北園延弘からは、何ひとつ手がかりらしいものは聞き出せなかった。ただ、ゆうべその家へ泊ったということだけであった。
邦彦は翌朝早めに食事をすませると、フロントのカウンターのそばにある観光案内の札を置いたデスクへ行って、そこに坐《すわ》っている初老の男に質問した。
「京都の苔《こけ》の名所というと、苔寺のほかにどんな所があるのですか」
相手は意表を衝《つ》かれたように邦彦の顔をまじまじとみつめた。
「苔……ですか」
「ええ」
「苔寺のほかにと言いますと」
初老の男は考え込んだ。
「苔見物の観光客と言うのは多くはないのですか」
「はあ」
男は詫《わ》びるように頷《うなず》き、
「余りお聞きしませんので」
と微笑した。
「そうですね、円通寺のお庭は見事な苔が生えておりますよ」
円通寺のことは昨夜西芳寺で若い僧から聞いていた。
「円通寺でしたら、駅前からバスで……深泥《みぞろ》が池《いけ》行きのバスです」
邦彦はポケットから手帖を取り出していた。
「円通寺、東福寺、三千院……ほかにご存知ありませんか」
一応行って見る気でメモをして置いたのだ。
「そうですな」
男は手を頭にやった。
「苔寺の近くの地蔵院はおいでになりましたか」
邦彦は頭を横に振った。
「竹の寺ということになっておりますが、苔が少しあったようです」
余り尋ねられたこともないのだろう。初老の案内係は思い出し思い出し答えた。
「御寺《みてら》さん……ええ、東山の泉涌寺《せんにゆうじ》にも苔の生えた庭があったような気がします。そうそう、あなた、金閣のある鹿苑寺《ろくおんじ》の庭にも生えていますし、等持院の庭にもありますな。修学院、銀閣の慈照寺、それに退蔵院。まだあります」
さすが案内係の席についているだけに、思い出し始めると男の知識はなかなかのものであった。
「あなた、桂離宮の庭にもなかなか見事な苔が生えておりますし、竜源院を忘れてはいけませんな。黄梅院、真珠庵……大徳寺の塔頭《たつちゆう》はみな美しい苔の庭を持っておりますな。ですから、大徳寺へおいでになることです。それから南禅寺ですな。それから曼殊院《まんしゆいん》。こりゃいかん」
男は嘆息した。
「きりがありませんよ。苔だらけです」
邦彦は案内係が並べたてる庭園を次々にメモした。そして案内係の前に積んである京都市内の略図を一枚もらうと、メモした庭園の位置を赤い丸で記して行った。
「なるほど、苔を見にまわるというコースの作り方もあるわけですな」
案内係は感激したように言い、
「いや有難うございました。勉強になりました」
と逆に邦彦へ礼を言う始末であった。だが邦彦は気落ちしていた。京都にこれだけ美しい苔を持った庭園が多いと、そこで瑤子と行き会える確率は、偶然に頼るにせよ余りにも頼りないものであった。
だがとにかく、その日は土曜日で、このままむなしく東京へ戻るわけには行かなかった。邦彦はタクシーを借り切りにして、ホテルを離れた。苔の庭をめぐることになったその日は、空が高く澄み、かなり強い北風が吹いていた。
2
会えるわけはなかった。古びた寺から寺をいくらめぐっても、瑤子に似た女すら見かけることはなかった。
苔。そんな頼りない手がかりしかないことが情なく、邦彦はその土曜日も打ちひしがれた思いでホテルへ戻った。
日曜日、ホテルのあたりはにぎやかに人々が行き交《か》っていた。邦彦はその平和な雰囲気《ふんいき》に居たたまれぬ思いになり、昼少し前にホテルを引き払った。なぜか、空けたままにしてある我が家が気になって来たのだ。
もう家に帰っているかも知れない。
我ながら子供っぽい感じ方であったが、そんな気がしてならなかった。言い争いひとつしなかった妻が、突然無断で家を出て何日も戻らぬ以上、尋常な事態ではなく、そうあっさりと家へ帰る筈《はず》もないことは判っていたが、すでに瑤子が家へ戻っており、明日からまたあの甘く平和な生活が続けられるのではないかという、安易な僥倖《ぎようこう》を願う心が強かったのだ。
京都駅の構内へ入り、新幹線の切符売場に近づくと、何やらそのあたりが騒がしい感じであった。それでも追い立てられるように次のひかり号の切符を買った邦彦は、改札口を入ってからあたりが少し騒然としていた理由を悟った。
一時間ほど前、関東から伊豆《いず》にかけての一帯に軽い地震があり、その為列車が自動的にとまって、少しダイヤが乱れているのだった。
次の列車は十二分ほど遅れるようであったが、邦彦は別に気にしなかった。列車を待つこと、乗って東京に向かうこと……次の行動予定さえはっきりしていればそれで少しは気が紛《まぎ》れるのである。
実際のところ、東京へ戻ってから何をするべきか、邦彦にはまるで判っていなかった。瑤子の父の久衛に電話しなければいけないということくらいしか思い浮ばないのだ。
邦彦は自分が広い人間の海に、突然一人ぼっちで放り込まれたように感じていた。誰《だれ》に会い、どう尋ねたらいいのだろうか……。
列車が来た。駅のアナウンスがくどいほど時間の遅れを告げている中でドアがあき、邦彦は一番先に乗り込んだ。幸い席はかなり空いていて、自由席であったにもかかわらず、海側の窓際の席へ坐ることができた。
その席へ落ちついたとたん、列車は動きはじめたが、それから先の走り具合はやはりいつものひかり号とは少し違っているようであった。
ことに名古屋《なごや》を過ぎてからは、ときどき極端に減速し、豊橋《とよはし》を通過するときなどは徐行運転に近かった。
「近頃では新幹線もダイヤ通りにはなかなか走ってくれませんね」
名古屋からとなりの席に坐った中年男が、気易《きやす》げにそう話しかけて来たが、邦彦は短く答えただけで、また堅い表情を窓へ向けるのであった。
男。
そうしてなすこともなく坐っていると、自然に浮んで来るのはそのことであった。
そんなことが起るわけがない。
邦彦は必死の思いで瑤子がほかの男と並んで歩いている情景を心の中から追い出した。しかし、心の奥底には嫉妬《しつと》の火がか細いながらくすぶっているのが判るのだ。苦しかった。
信じることは祈ることだと思う。
ふと老人の声がよみがえった。北園延弘はそう言っていた。
信じることで耐えられる。
邦彦は一層強くその声を思い起していた。あの老人はこのことを言っていたらしいと思った。仮定の上に立つ嫉妬にせよ、それは苦しいことであった。嫉妬の苦痛を消すには相手を心から信ずるよりなさそうである。
自分を信じろ、と老人は言った。相手を信ずると同時に、相手が裏切ることのない自分を信ずるのだ。邦彦は過去を振り返って見た。どこかに瑤子の不信を買う行為があっただろうか。瑤子に不幸を感じさせるものが自分にあっただろうか。
日記を綴《つづ》るように、瑤子との日々が甦《よみがえ》って来た。回想をおえたとき、邦彦は息を深く吸い、胸を張った。
ない。瑤子に裏切られるようなことは自分は何もしていない。
邦彦は確信をもってそう思い、そう思える自分を少しはしあわせに感じるのだった。やはり瑤子を信ずるしかないのだ。信じていればいいのだ。
体だけは大切にな。
窓の外の遠い空に向けて、邦彦はそう祈った。どんな理由で家を出たのか知らないが、とにかく元気でいてくれと祈ったのである。
下り線の列車が来てその窓の視界をしばらく奪った。そしてそのあわただしいすれ違いがおわったとき、邦彦はまた老人の声を思い出していた。
あの子の為に祈ってやれ。それが自分を信ずることにもなる。
老人はたしかにそう言っていた。そして今、邦彦は老人に言われたとおりのことをしてしまっていた。
「北園延弘」
邦彦は低く声に出して言って見た。今回のことで、あの老人は自分が頼れる唯一の杖《つえ》のような気がしたのだ。
列車は速度を早めたり落したりしながら東京に近付いていた。地震の為、東京までの間に何本もの列車が互いの間隔を調整しながら走っているらしい。
それでも静岡《しずおか》を過ぎると、ようやく一定の速度で走りはじめ、箱根《はこね》を越えたあたりでまた少し減速したようだった。
邦彦は京都以来、ほとんど身じろぎもせず窓に顔を向けていたが、小田原《おだわら》に近づくと少し気をゆるめ、煙草をとり出して咥《くわ》えた。
火をつけるため目を伏せ、ふとその目をあげたとき、列車はちょうど小田原駅を通過しようとしていた。
下りも同じようにダイヤが乱れているのだろうか。向う側のホームにいつもより人の姿が多いように思えた。
あ……。
邦彦は咥えた煙草を無意識に素早く左手で抜き取り、窓ガラスへ額を押しつけるようにした。
ひかり号にしては比較的ゆっくりと通過する小田原駅のホームに、薄茶のコートを着た女の姿があったのだ。
華奢《きやしや》な体つきだが、何となく清潔な華《はな》やかさを漂《ただよ》わせている。
瑤子……。
邦彦は食い入るようにみつめたが、遅いと言ってもそれは普段とくらべてはということで、ひかり号はすぐ駅を通過してしまった。
はっきりしなかった。ホームにいたのが果して瑤子だったのか、それともよく似た他人だったのか……。薄茶のコートを着て、体つきもだいたい瑤子ほどだったから、そんな気がしてしまっただけなのかも知れない。邦彦は左手の指にいつの間にか煙草をはさんでいたのに気付き、じっとそれをみつめた。
すると意外なことに、波立っていた邦彦の心は急速に安らいで、焦燥《しようそう》も不安も嘘《うそ》のように消えてしまった。
邦彦は目をとじた。今のが瑤子であろうとなかろうと、自分は彼女を信じ続けるだけだ。平穏な心の中でそうつぶやいていた。
ゆったりと座席に坐り、頭を背もたれに預けて、邦彦は妻の俤《おもかげ》を偲《しの》びながら小田原を遠のいて行った。
3
瑤子は小田原駅のホームで、上りのひかり号が去って行くのを見送った。
薄茶色のコートを着て、悲しげな顔をしていた。
瑤子は今の列車に自分の夫が乗っていたことを知っているのだ。列車が通過するほんの少し前、そのことに気付いた。
あの人は私を探《さが》しに京都へ行ったのだ。
気付いた瞬間そう思った。北園延弘に会って来たことは確実であった。突然の家出を詫《わ》びたい気持が胸に溢《あふ》れるようだった。
列車は風を巻き起してホームへ突っ込んで来た。瑤子は夫がその列車に乗っていることを気付いた時の位置を動かずにいた。自分がそこにいることに気付けばよし、また気付かなければそれでも構わないと思った。
突然、夫の心が強く波立ったのを感じた。自分を見たのだ。瑤子はそう思いながら、なおも身じろぎもしなかった。
この世の男と女は、みなそういう風にすれ違っているのだ。特別なことをしてはならない。
瑤子の心には、その時強い悔いがあった。あやまちを繰り返してはならなかった。
しかし、夫の心は余りにも悲しげに波立ち騒いでいた。
あなた、許して。それ以上探さないで。
瑤子は夫にそう告げたかった。しかしそれは辛うじて自制することができた。そのかわり、夫の波立つ心をできるだけ優《やさ》しくしずめてやったのだ。
間もなく下りの列車がやって来る。
瑤子は意味もなく腕時計を見た。その列車に乗るべきかどうか、迷っているのだ。どこへ行くというあてもなかった。
が、急に警戒心が戻った。瑤子はホームに立つ人々の姿を、それとなく見まわした。たった今、してはならないことをしてしまったのだ。走り過ぎる列車の中の夫の心へ、常人にはない不可視のものを送りつけてしまったのである。
気付かれただろうか。
瑤子は不安に襲われた。以前なら、自分に注意している人間がいれば、苦もなくそれを探し出すことができた。しかし今はそれも出来ない。追われる身が迂闊《うかつ》にそんなことをすれば、どんなことになるか見当もつかなかった。
瑤子は靴《くつ》の踵《かかと》を小さく鳴らしてさりげなく階段に向かった。今のことに気付いた者がいれば、必ず追って来る筈であった。瑤子は階段に近付くと、急に足を早めて駆けおりた。
誰も追って来る様子はない。
瑤子はコートの襟《えり》を立て、白い顔を隠すようにして改札口を出ると、人ごみに紛《まぎ》れ込んだ。
4
「いったいどうなっているんだ」
月曜日の昼、東日機材の本社があるビルの一階の喫茶店で、新沢が眉《まゆ》を寄せて言った。
「心配かけてすまない」
邦彦はそう言って目を伏せる。
「心配するよ。してるんだよ」
新沢は何か邦彦を疑っているようなそぶりを示した。
「お前、本当に何もしなかったのか」
瑤子に辛い思いをさせたかというのだ。
「しない。誓ってもいいよ」
「変だなあ」
新沢は納得しなかった。
「女房とも話したんだが、あの瑤子さんがちょっとやそっとのことで、お前との生活を捨てて逃げ出すなんて考えられん」
「そうなんだ」
邦彦は深く頷《うなず》いた。
「何かよほどのわけがあるんだ」
「いったいどんな事情なんだ」
新沢がそう言うと、邦彦は自嘲《じちよう》するように顔をあげて唇を歪《ゆが》めた。
「俺《おれ》にも言えないことだ。君らに判ってたまるか」
「たしかに、そう言われればその通りだな」
新沢の目が穏やかになっていた。
「力になりたい」
「有難う」
「で、何をすればいい。俺はこの通り時間を持て余しているような人間だ。会社勤めでは何かと動きにくいだろう。何でも言ってくれ」
「困ったな」
邦彦は本当に困惑していた。
「君に何を頼んだらいいのか、皆目見当がつかない」
短気な新沢は何か言いかけ、ひと息吸い込んでから穏やかに言う。
「何もなしか」
「うん」
「それは困る」
「君が困ることはない」
邦彦は苦笑した。
「いや困るんだ。聖子《せいこ》に厳命されて来てる」
新沢夫人と瑤子とはとりわけ仲がよかった。邦彦と結婚してから出来た、瑤子の唯一の友達と言ってよかった。
「何か俺達の為にしないと叱《しか》られるのか」
邦彦はからかうように新沢を見た。
「そうなんだ」
新沢が頭を掻《か》いて見せる。邦彦はそんな新沢をふと羨《うらや》ましいと思った。恐妻家と人には言われても、新沢夫妻は結構円満に暮らしていた。だが自分には……。
邦彦は暗くなりかけた表情をつとめて明るくし、
「それじゃひとつ頼もうか」
と思いつくままに言った。
「何だ」
新沢は猟犬のような目で邦彦をみつめ、坐《すわ》り直した。
「美苔会というのをそれとなく調べて欲しいんだ」
「ミタイカイ……」
新沢は、邦彦がはじめてその名を聞いた時と同じように、目を丸くした。
「美しい苔の会と書く」
「美苔会か」
新沢は、画家にしてはかなりごつい指でテーブルに書いて見ている。
「苔を観賞する人たちの集まりらしい」
「お……」
新沢は更に目を輝かした。
「そう言えば、日吉のお前の家に苔《こけ》が飾ってあったな。こんな鉢《はち》に入れて」
新沢は左手で大きさを示しながら、大ざっぱな言い方をした。
「うん」
「あれはたしか、瑤子さんが育てていたんだったな」
「可愛がっていたよ」
新沢は声をひそめた。
「何かあの苔と関係あるのか」
自分で事あり気にそう言ったくせに、言いおえると急に照れたように体をのけぞらせ、
「そんなことはないよな」
と大声で笑った。
「多分そんなことはないと思う。しかし知りたいんだ」
「なぜ」
「ひょっとしたら、彼女はその美苔会という会に入っていたのかも知れないからさ」
「瑤子さんが美苔会に……」
「うん。彼女は君が今言ったあの苔を、娘時代から持っていたらしくて、俺と結婚した時に嫁入道具と一緒に持って来たんだ」
「すると、結婚前に美苔会へ入っていたかも知れんと言うんだな」
「そうだ。彼女が頼って行きそうな人物の心当たりが全くないんだから、もしそういう人物がいるとすれば、結婚前のつながりかも知れないだろう」
「美苔会というのはどこにあるんだ。……その、事務局みたいなところは」
「知らない。ただそういう会の名前だけ知っているのさ」
「こいつは骨が折れそうだ」
「苔の愛好家が増えているそうだ。花屋とか植木屋とか、そういう園芸関係のところから探《さぐ》れば案外すぐ見つかるかも知れない」
「そうか、それなら聖子が適任だ」
聖子は前衛華道をやっていて、その筋ではかなり名を知られている。
「これで叱られないですむか」
邦彦が言うと、新沢は厳しい表情になって、
「俺のことなどからかってないで、もっと自分のことを考えろ」
と言った。
5
自分のことを考えろ。
まさにその通りであった。新沢が訪ねて来た月曜日以来、邦彦は仕事の上で何かと苦境に立つようになった。
別に邦彦は、瑤子に家出をされたことを、そう仕事に反映させてはいない筈であった。むしろ妙な噂《うわさ》を立てられぬよう、態度にも出さぬよう注意したし、特に仕事の手が抜けるというようなこともなかった。
しかし、何かが微妙に変化しはじめていた。部下が妙によそよそしかったり、会議の席で提案が受け入れられなかったり、上司が彼の仕事を信頼しなかったり……。
しかし、それは決して急激な変化ではなかった。ただ、社内で邦彦の立場が、少しずつ、少しずつ厳しいものになって行くのであった。
「あまり空《から》まわりをせんように」
常務の西本からそんな注意を受けたとき、邦彦は自分をとり巻く情勢の変化にやっと気付いたようであった。
毎日妻のいない家へ戻り、一人きりの侘《わび》しい生活を続けているからだろうか。
邦彦はそんな風に考えた。今まで自分の肩先から放射していた生気のようなものが、瑤子に家出されて以来、すっかり消えてしまったような気がしたのだ。その為に、以前なら通る主張も通らないし、何かを提案してもいっこうに説得できない。部下達の信頼もいくらか失っているほうだし、そうしたことは自然上司の批判の対象にもなる。
頑張《がんば》らねばならない。
邦彦は自分にそう言い聞かせ、仕事に精を出した。
新沢は美苔会について、あれから電話で二、三度連絡をして来た。たしかに、美苔会という組織は関西を中心に存在しており、東京にもその会員がいるということだった。事務局は大阪にあり、会員数は今のところ約五百名。近頃はそれが急増する傾向にあり、海外から来た苔の愛好家を、各地の庭園などに案内して組織を国際的な規模にひろげようとしているそうであった。
「そのうち名簿を手に入れて見せる。なに、今は複写機があるから簡単さ」
新沢はそう言っていたが、それっきりでまだ連絡がなかった。
「その後、どうかね」
或《あ》る夜邦彦が帰宅して風呂《ふろ》に入ろうとしていると、津田久衛からそんな電話が掛って来た。
「相変らずです」
邦彦は沈んだ声になるのを承知しながら答えた。
「元気がないようだな」
「実は、練馬の家のほうが少し」
「お母さんか」
久衛も当惑したような声になった。
「そういつまでも押さえて置けませんしね」
「それはそうだ。で、お母さんは何と……」
「こうなったら、津田さんと一度お会いしなければならないなどと言うんですよ」
「やむを得んな。わたしも覚悟はしているさ」
「家の者にも喋《しやべ》ってしまったらしいのです」
「瑤子もいいかげんに現われてくれんと困るな」
久衛は本音を吐いたようである。何ひとつ言い残さず、理由らしい理由もないままに家を出てしまった娘を、これ以上かばう方法がないのだろう。
しかしさすがは父親で、
「とにかく、いつでもお目にかかるよ。何ならこっちから出向いてもいいんだがね。明日にでも行っていいかな」
と言った。
「ええ、そうしていただけると……」
邦彦はほっとして言った。ウィーク・デーならそのいざこざに直接巻き込まれずにすむ。
「よし、じゃあそうしよう」
邦彦は礼を言って電話を切った。
いよいよ来る所へ来てしまった。
湯に浸りながらそう思った。ひとつ、またひとつと、自分を保護する板のようなものが取り外されて行く感じであった。……何もかもうまく行かない。邦彦はそう感じ、はじめて瑤子をうらむ気になった。
が、その翌日、思わぬ方角から瑤子の情報が入った。
邦彦が自分のデスクについていると、一人の男が勝手知った様子で企画課へ入り込んで来た。
「いやあ、さすがにここは整然としていますな。おたくへ来るといつもいい気分になるんですよ。まったく、ショー・ルームを見ているようだ」
インテリア・デザイナーで佐倉《さくら》という名の男であった。デザイナーと言っても、東日機材の下請《したう》けの仕事をしているのではなく、逆に東日機材の製品を、各地のオフィスに売ってくれる立場の人間である。
「やあ、お久しぶりです」
邦彦が腰をあげると、佐倉はそれを制して勝手に近くの椅子《いす》を引き寄せ、邦彦の前へ陣取った。
「いつぞやはご馳走《ちそう》さまでした」
笑顔でいう。
「ご馳走だなんて、そうたいしたおもてなしをしたわけじゃありませんよ」
「いや、ご馳走さまだった。まったく綺麗《きれい》な奥さんだよ」
以前、瑤子と例のデートをしている時、偶然道で会って、一緒に軽い食事をしたことを言っているのだ。
「バッタリ会っちゃってね」
邦彦は居合せた部下の一人のほうを見てそう言った。
「それにしても仲のいいご夫婦さ。こっちはまるで当てられに行ったようなものさ」
佐倉は大声で笑った。
「で、美人の奥さんはお元気かな」
「おかげさまで」
すると佐倉は急に真顔になり、
「それにしてはちょっと気になったよ」
と言う。
「何がです」
「あの時からくらべると、少し窶《やつ》れたような感じだった」
「いつ家内と……」
「ほら、箱根さ」
「箱根……」
「君もいたんじゃないのか」
「いつです」
「ええと、あれは一か月くらい前になるかな。そうそう、日曜日さ。地震のあった日じゃないか」
「ああ……」
邦彦はあいまいに答えた。それなら京都から帰って来た日であった。
「町でデートはするは、休みには強羅《ごうら》あたりへ出掛けるは……まったく新婚さんそこのけだなあ」
佐倉の笑いに合わせて、邦彦も笑顔を示したが、心の中は渦《うず》を巻いていた。
小田原で見かけたのは、やはり瑤子だったらしい。……強羅……小田原。間違いないようだ。
しかし、残念なことに、佐倉とは事情を打ちあけて詳しくそのことを尋ねられるほどの関係ではなかった。佐倉は社長の縁者の一人で、打ちあければたちまち上のほうへ知れ渡ることになる。
「あのとき、家内は佐倉さんに見られてしまったんですね」
「そうだよ。何だか浮かない顔をしていたが、さては喧嘩《けんか》をしたな」
「ええ、まあ」
邦彦は無理に笑顔を作った。
遅い、もう一か月たってしまっている。
心の中でそう叫びながら、邦彦は佐倉のはじめたとりとめもない話に相槌《あいづち》を打っていた。
冬の陽ざしの中で
1
その日、邦彦は母親と日吉駅で落合った。
「よかったのかい、会社のほうは」
母の房子《ふさこ》は先に来ていて、邦彦が近付いて行くとまずそう言った。茄子紺《なすこん》の地に枯葉色の格子柄の結城紬《ゆうきつむぎ》は、邦彦にも見憶《みおぼ》えのある着物だった。
「ちゃんと時間まで社にいたよ」
邦彦は微笑して見せた。実は仕事の打合せがあって定時に退社するのはちょっと気が引けたのだが、房子と約束してしまったので無理に帰って来てしまったのだ。
邦彦と房子は黙ってバス停の列のうしろについた。狭い駅前の道へ、バスがのろのろと入って来る。
「連絡はなにもないんだね」
そのバスに乗り込んで、並んで吊革《つりかわ》につかまるとすぐ、房子はさりげない声で尋ねた。
「うん」
邦彦はそう答えたが、房子の溜息《ためいき》を聞いたような気がしていた。
「横浜のお父さんが見えてね」
津田久衛が練馬の野川家へ行って話合ったのだ。
「それで……」
久衛からは練馬へ行くと言う話を聞いていたが、その後の報告はまだ知らせて来ていない。
「安心したよ」
房子は穏やかな声で言った。バスは細い道をゆっくりと走って行く。
「何がだい」
「お前のほうに落度がないと言うことよ」
「久衛さんがそう言ったの……」
「ああ」
房子はそう言ってから、フフ……と笑った。
「何だい」
「お前にはそんなことできっこないものね」
房子は満足そうだった。
つまり、邦彦には妻を虐待したり、浮気をしたりできるわけがないと言っているのだ。
邦彦は少し不満だった。
「できるさ。やろうと思えば」
窓に顔を向けて言った。
「こっちに責任があったらどうしようかと思ってたのよ」
房子は邦彦のそういう心理にお構いなく、心そこ安心したように言った。難問の半分はもうかたづいたような言い方であった。
「いっそ、そういうことのほうが気が楽だ」
邦彦は我知らず激しい口調で言った。
房子は沈黙した。邦彦の傷ついた心に思いをめぐらせているようだった。
「次だよ」
邦彦はそう言い、房子の体をうしろから支えるようにして、揺れるバスの中をドアへ向かった。
バスがとまり、二人は降りた。バスは白い湯気のような煙を残してゆっくりと走り去って行った。
「洗濯物《せんたくもの》なんかどうしているんだい」
小児科の病院の角を曲った時、房子が言った。
「自分でやってるよ」
邦彦が答えると、
「まったくねえ」
と房子は首を振った。
狭いながら、それぞれ庭のついた家が建ち並んでいる道を、母子は元気のない足どりで歩いて行った。
キィ、と鉄パイプの門扉《もんぴ》をあけ、邦彦は玄関のドアをあけた。
房子は門扉を背に立って、家を眺めていた。
「こんなちゃんとした家に住んでいるのに」
悲しそうな顔でつぶやき、ドアをあけて待っている邦彦の前を通り抜けて家へあがった。
「ご近所はどう言っているの」
「どう、って……」
邦彦はドアをしめ、靴を脱ぎながら訊《き》いた。
「瑤子さんのことよ」
「さあね」
邦彦は淡々と答える。
「噂《うわさ》くらいしているんだろうけれど、俺《おれ》の耳には入らないから平気さ。何しろ朝出て夜帰るだけだからね。近頃は慣れたから、食料品なんかも昼休みに会社の近くで仕入れちゃう」
「都心じゃ高いでしょうに」
「少しはね」
「まったく不経済だねえ」
「ヒーターをつけてもすぐにはあたたまらないから、しばらくその儘《まま》にしたほうがいいよ」
ショールを外しかける房子に言い、邦彦はクリーン・ヒーターのスイッチを入れると、自分もコートを脱がずにキッチンへ入って湯沸しをコンロにのせてガスに点火した。
「そうか、近所で噂をしてるな」
居間へ戻って房子と向き合って坐った。二人とも外にいた儘の姿で、冷え切った室内ではそれが一層|侘《わび》しく感じられた。
「何とか取りつくろって置いてやらないと、帰って来てから嫌《いや》な思いをするかな」
「必ず帰って来ると思う……」
房子は邦彦の目をみつめて尋ねた。
「うん」
「だといいんだけどねえ」
邦彦はギョッとした。
「久衛さんが何か言ったのかい」
「いえ、そんなことはこれっぽっちも」
房子はあわてて首を横に振った。
2
家の中があたたまり、コートを脱いだ邦彦が房子に茶をいれてやっていた。房子もショールを外していた。
「瑤子さんはいい女《ひと》だよ」
房子が言った。
「いいお嫁さんだと思っているわ。お前には過ぎた女《ひと》よ」
房子は真剣な表情で言った。
「でも、これはよくないわ。これはとてもよくないことよ」
念を押すように繰り返し、邦彦のいれた茶に手を伸ばす。
「お前、判《わか》っているんでしょうね」
邦彦はあいまいに頷《うなず》き、自分も茶碗《ちやわん》をとりあげた。
「お前に落度がないことは、横浜のお父さんもはっきり私たちに言ったのよ。うちのお父さんと私の前でね」
「親父、なんと言ってた……」
「お父さんは昔っから、こういう話は苦手《にがて》なのよ。瑤子さんには瑤子さんなりの事情があったのだろうって、それだけ」
「で、それに対して久衛さんは……」
「瑤子さんは決してあなたが嫌になって家を出たんじゃない、それだけは信じてやってください、って」
「母さん」
「え……」
「俺も久衛さんと同じ考えなんだ」
「つまり、あの女《ひと》を信じるのね」
「うん、信じる。だってそうだろう。こっちに落度がない……」
邦彦はそう言い、少し考えてから続けた。
「落度って言い方はよそうよ。落度があれば出て行っても当然だってことになってしまうもの。夫婦というのはそんなもんじゃないと思ってる。落度がある、ない、というのは他人同士の言い草さ。夫婦が世間に対して落度があることはあり得るだろうけど、夫婦の間では失敗があるだけだ。女房の落度は亭主の責任でもあるわけだし、その逆も同じことだ。仮りに亭主が浮気をして、それで夫婦の間に泣いたり喚《わめ》いたりのひと幕があったとしても、それを失敗として、なんとか納めて行くのが夫婦ってもんだろう」
房子は微笑した。
「判ったわ。落度という言葉はもう使わないわよ」
「瑤子はきちんとした女だ」