「母さんもそう思っていた」
房子は頷いたが、瑤子の失踪《しつそう》についてのわだかまりがあって、全面的に邦彦の言葉を肯定したようではなかった。
「判ってやって欲しいんだよ」
邦彦はそういう房子を少しでも納得させたくて、強い口調で言った。
「あの瑤子が今度のような行動を取ったことには、余程の事情があったと思うんだ」
「でもねえ、連絡くらいして来たっていいと思うよ。今どこにいるか、その余程の事情ということで言えないにしたってさ、元気でいるからとか、もう少し待ってくれとか、それくらいのことは妻としてお前に言って来るべきだよ。……優《やさ》しそうなんだけど、芯《しん》は情のこわい女《ひと》なんだねえ」
「判らない」
邦彦は茶碗をテーブルの上へ置くと、両手で頭をかかえた。母親だからこそして見せられる姿勢であった。
「私はね」
房子はゆっくりと言った。
「瑤子さんとはじめて会った時、すぐにこの女《ひと》ならと思ったんだよ」
頭をかかえてうつむいた邦彦の耳に、それはひどく遠くからの声であるように聞こえていた。幼い日、邦彦は何度もその声で励まされ、慰められ、諭《さと》された憶えがあり、その記憶が過ぎ去った長い時間の彼方から、不意に近々と戻って来たのであった。
「もちろん、瑤子さんは綺麗《きれい》だし優しいし、それに何よりもお前を愛してくれていたものね。でもそれだけじゃなかったの。私は女だから、女同士ピンと来たのよ。お前はまだ気が付いていないかも知れないけど、あの女《ひと》は、それはもう芯の強い女《ひと》なんだよ。私はね、そういう瑤子さんだからこそ、お前のお嫁さんとして一も二もなく賛成したの。……いいかい。お前はそんなに強い男じゃないのよ。お父さんに似てるの。いくじなしと言ったら悪く言い過ぎるけれど、よく考えてごらん。小さい時から人さまと喧嘩《けんか》したことがある……」
房子はそう言ってしばらく邦彦をみつめているようだった。
「ないでしょう。素直で勉強もできたけれど、喧嘩だけはできない子だった。乱暴者になって欲しくはなかったけれど、私はいつもそれが気になっていたの。もっとも私だって当時はお前が優しい子であることに満足していたし、外で喧嘩して、泥《どろ》だらけや血まみれになって帰って来て欲しいとは思っていなかったわ。でも、どこか心の底で心配していたの。近頃《ちかごろ》になって……こういうようにおばあちゃんになってから、やっとそれが判って来たのよ。あの頃もう、私は無意識のうちに、お前が社会へ出てからのことを考えていたのね。よく知りはしないけれど、今の会社だって、お互いに競争し合っているんでしょう。男は一生他人と競り合って生きて行かねばならないんですものね。お仕事の上で、誰《だれ》かにそこをどけと言われて、おいそれとどけるものじゃないでしょう。まるで喧嘩のできない子供だったお前を、私が心のどこかで心配し続けていたのは、きっとそういうことだったのね」
房子はなぜか声をくぐもらせた。
「今のお前を傷つけるようなことは言いたくないけれど、ことと次第によっては喧嘩をして欲しいの」
「え……」
邦彦は顔をあげて房子をみつめた。
「もしもよ……。もしも、万一、瑤子さんの家出が何か男の人のことに……憤《おこ》らないで聞いてよ。何か男の人のことに原因があるのだったら、喧嘩をしてちょうだい」
房子の目に涙が泛《うか》んでいるのを邦彦は見た。
「どんなことになっても、お母さん、味方してあげる」
「母さん……」
房子は叱《しか》るような声になった。
「奪《と》られるんじゃないよ。負けちゃ嫌だよ。私は瑤子さんが好きなの。お前には最高の女《ひと》だと思ってる。もし瑤子さんを奪《と》ろうとしている奴がいたら、ぶちのめしてやっておくれ」
邦彦は生まれてはじめて母を見たような気持だった。
3
次の土曜日、邦彦は新宿《しんじゆく》駅から小田急線に乗った。よく晴れた日で、ロマンス・カーは家族連れで満員だった。
湯本《ゆもと》から箱根《はこね》登山鉄道に乗りかえて強羅《ごうら》へ向かう。乗客の半分以上は湯本からバスやタクシーに移ったようだったが、それでも古ぼけた小さな電車は通勤電車さながらの混みようだった。
終点の強羅駅へ着くと、まず早雲山《そううんざん》へ登るケーブル・カーを待つ人の列が目に付いた。土産《みやげ》物を売る店が並んだ狭い駅前に、冬の陽光を浴びて長い行列ができていたが、人々はやはり都心のバスを待つ時などとは程遠い、のんびりと豊かそうな表情で並んでいた。
瑤子はこの強羅のどこかにいた。
邦彦はケーブル・カーを待つ人々の表情とは逆に、緊張した面持ちで駅を出た。
目あてはまるでない。頼るのは自分の足だけなのだ。念の為、瑤子のポートレートを一枚持って来てはいるが、長い行列を作っている人々を見ると、テレビ映画などで刑事がやるような、写真片手の聞き込みなど、とても試みる気にはなれなかった。
邦彦は物見遊山の人々の雰囲気《ふんいき》に巻き込まれぬよう、自分の感覚をとぎすませることにした。そうやって歩き廻れば、何かが自分の第六感に訴えて来るかも知れないし、今はそれだけが頼りでもあった。
人々が行列を作っている場所は、ケーブル・カーの終点が今乗って来た箱根登山鉄道の駅と重なるようになっていて、広場とも言えない駅前の小さな広場はそこで突き当たりになっている。
邦彦はそこを境いに、まず上か下かをきめなければならなかった。登れば早雲山であるし、下れば道はうねうねと曲って早川《はやかわ》畔の強羅坂下へ着く。上にも下にも、ホテルや旅館が並んでいるが、邦彦はまず坂の上へ行くことにきめた。はじめに坂を登れば、収穫もなく引き返さねばならなくても、帰りの足が楽だからだ。
いずれにせよ、歩き廻ることを計算に入れて、二度ほどハイキングに使ったゴム底の軽い靴をはいて来ている。
邦彦はケーブル・カーに乗る人々の行列の最後尾あたりから、急な坂を登りはじめた。
道はまっすぐ山頂へ向かっている。ジーンズ姿の若い連中が何組も同じ道を登っていた。
「君たち、どこへ行くの」
邦彦はその中の一人に声をかけて見た。
「てっぺん」
高校生だろうか。屈託のない声で言う。
「もうここへは随分来ていないんだけど、早雲山の頂上に何か新しく出来たのかい」
「ケーブル・カーの終点がある」
若い連中はそう言って笑った。
「それなら昔からあるさ」
邦彦はあたりに気を配りながら調子を合わせた。頭のどこかで、何かがもやもやと動きはじめている感じだった。
「遅いぞ」
若い連中は少し下を歩いている仲間に声をかけ、
「置いてっちゃうからな」
と、ことさら走り出して見せた。
「ばか。湖尻《こじり》まで行くんだぞ」
下の連中が呶鳴《どな》り返している。どうやら強羅から芦《あし》ノ湖《こ》畔まで歩くつもりでいるらしい。
そう言えば、以前邦彦もそのコースを歩いたことがあった。姥子《うばこ》あたりからは道路をそれ、急斜面の木立の中を面白がって駆けおりた昔の秋の日ざしが、懐しく目に泛《うか》んだ。
瑤子に会ったのは、その小旅行のすぐあとだった……。
瑤子は薄手のセーターを着ていた。ミニ・スカートがはやっていた頃のことで、すらりとした白い脚《あし》の線に目を奪われたものだった。
邦彦はいつの間にか、若い連中から離れて、ゆっくりと坂を登っている自分に気付いた。
気を引き緊めなければ。
そう思い、また周囲の景色に気を配った。
何かが気になっている。しかし、それが何であるか、はっきりとしないのだ。
邦彦は自分自身をもどかしく思いながら、ゆっくりと登って行った。
このまま行けば道は大きく右へ曲って、ケーブル・カーの上強羅駅に出てしまう。
邦彦は自分の足が感じるにまかせて、次の角を右へ曲った。その先にもケーブル・カーの駅がある筈《はず》であった。
こっちではないのではないか。
邦彦はふとそう思った。何かが気になっているのだが、その何かとは、この方角に自分が足を向けてしまったことではあるまいか……。
4
ケーブル・カーが下って行くのがちらりと見えた。
いよいよ迷いはじめたな。
邦彦はそう思った。強羅へ行くと決心した時から、足が棒になるほど歩くことになるのは覚悟していた。どっちへ向かっても坂ばかりの土地である。その土地で、ただ自分の勘だけを頼りに、瑤子の痕跡《こんせき》を求めてさまよい歩くのだ。
行き当たりばったりに坂を登りはじめた時も、それが正しい道だとは全く思っていなかったが、ただひとつ、邦彦には信ずべきものがあった。
他人に聞かせたら笑うにきまっている。しかし、自分だけはそれをゆるぎないものと信じる……。邦彦は自分でも強引だと思うくらいにそれを信じていた。
それは、瑤子への愛情と信頼だった。
母の房子が日吉《ひよし》の家へ来た時、彼はそう決心したのだ。……どんなことがあっても瑤子を疑うまいと。
それまで通り瑤子を信じ愛し続けることだけが、彼女の原因不明の失踪《しつそう》から自分を救ってくれるのだ。もし疑ったら際限もない嫉妬《しつと》の地獄に堕《お》ちなければならない。
房子が房子なりの言い廻しで諭《さと》してくれたことは、そういうことであった。
奪《と》ろうとする奴がいたら、ぶちのめしておやり。
邦彦は房子をそれ程素晴らしい母親だと思ったことはかつて一度もなかった。当人の邦彦以上に瑤子を信じようとしているらしかった。そして彼女の息子が、いや世の中の男という男がとるべき態度を、彼女は母親としての言葉で告げたのだった。
ひょっとすると、それは房子の男性に対する理想を語っていたのかも知れない。
いずれにせよ、邦彦の心はそれできっかりとふんぎりがついた。強羅へ来たのはその第一歩のつもりだった。京都へ行った時はまだそれだけ堅い気持は生じていなかったのだ。
母さん、俺《おれ》、きっと瑤子をみつけるよ。
邦彦は心の中で房子にそう呼びかけながら、車のスリップをとめるために、横にこまかな凹凸《おうとつ》をつけた舗装道路をまた右に曲り、ゆっくりと下りて行った。
瑤子を信じ、今まで以上に愛すれば、自分の体内のどこかにひそんだ何かが、きっと彼女のいるほうへ導いてくれる。
それはいささか神がかり的な考え方かも知れなかったが、邦彦はいま心の底からそう信じていた。明日は日曜日。もし今日何の手がかりも掴《つか》めないなら、どこかの宿へもぐり込んで、明日も朝早くからその辺りを歩きまわる覚悟であった。また、もしも明日、何かの手がかりが掴めたなら、月曜日も瑤子を追って突き進む気であった。
たとえ今の職場を失っても……。
邦彦はそこまで決心していたが、よく考えれば、その底には多少自分にとって都合のいいものがひそんでいる筈だった。
邦彦はまだそこまで深く考えてはいないが、職場を棄ててもよいと考えはじめたことの原因は、東日機材という会社における、邦彦の立場が微妙に揺れはじめていることにあった。
なぜか今までどおりに行かないのだ。社内における行動が、みなちぐはぐになっている。つまり、何をやってもうまく行かないということだ。
今まで邦彦の能力を買っていてくれた者が、次々に批判的な態度を示しはじめているし、部下の中にも課長としての邦彦の能力に疑問を持つ者が出はじめているらしい。
これまで順風満帆であっただけに、そういう動きが、たとえ僅《わず》かであっても、邦彦に孤独感をもたらしているのだ。
たとえ会社をやめても、瑤子を探《さが》し出すことに賭《か》けよう。……そういう思い入れは、どうも一種の現実逃避につながっているようだ。しかし邦彦はそれに気付いてはいない。むしろ、課長の椅子《いす》や望みの多い将来を犠牲にしてまでも妻への愛に殉ずるということに、いささか甘美な酔いを感じていたようだ。
が、今は晴れた冬の日。
邦彦は妻を求めて箱根の道を一人で歩いているのであった。道端に枯葉がたくさん落ちていた。
邦彦はふと足をとめ、腰をかがめてその枯葉の一枚を拾いあげた。何の木の葉か、邦彦にはよく判らなかった。
「綺麗《きれい》……」
ふとそんな声を耳もとで聞いたように思った。
瑤子がそばにいたとしたら、この春めいた暖かさの冬の陽ざしの中で、きっとそんな言葉を聞かせてくれたことであろう。
そうだ、いつか蓼科《たてしな》の林の中へ入って行ったように、道をそれて木立ちの中へ入り込むかも知れない。
邦彦はそう思うとつぶやいた。
「瑤子、冬の箱根もいいものだね」
すると邦彦の心の中に、いかにも瑤子が答えそうな台詞《せりふ》が生じた。
「あたしはいつでもいいの、季節なんか。あなたと一緒なら」
蓼科で、たしか瑤子は同じことを言った筈であった。
邦彦はそばに瑤子がいるようなつもりで、道をそれ、木立ちの中へ入って行った。
しばらく木立ちの中にいた邦彦は、突然目をみはった。
瑤子がそこで自分を見あげているような気がした。
苔《こけ》が生えていたのだ。
5
苔。
邦彦は凝然《ぎようぜん》としていた。
苔が生えている。苔が……。
頭の中にそう言う自分の声が谺《こだま》しているような感じであった。
邦彦はあたりを見まわした。あちこちの木の幹に、露出した岩肌《いわはだ》に、土の上に、濃い緑色の苔が生えているのである。
「畜生……」
罵《ののし》る言葉ではなかった。自分の迂闊《うかつ》さを責めたのでもなかった。瑤子という自分の妻を隠している相手をみつけた喜びの声であるようであった。
邦彦はしゃがみ込んだ。岩肌をこまかい苔がびっしりと掩《おお》っていた。
「おい、教えてくれよ。瑤子をどこへやったんだい」
箱根にも苔が生えている。
考えてみれば当たり前すぎることではある。しかし、瑤子がいる所に苔があったという発見は大きかった。原因不明の失踪に、たったそれだけでもひとつの法則のようなものが現われたのだから……。
邦彦は大急ぎで道へ出た。
何かが心の中にひっかかっていたのは、苔のことなのだ。強羅へ着いて歩きはじめて以来、邦彦はあちこちで苔を見ていた筈なのだ。
美苔会《みたいかい》。
苔を観賞する人々の集りだという、その会の名称が頭に泛《うか》んだ。
瑤子も美苔会に入っていたのだろうか。邦彦はそれまでよりずっと慎重に、道の左右を観察しながら歩いた。めあては苔だ。苔のある所に瑤子の手がかりがある。
道はかなり急な下りだった。もし自転車に乗っていたとしたら、ブレーキをかけずにはいられない坂だ。
近い。
邦彦の勘がそう言っていた。瑤子本人はとにかくとして、何かの手がかりが近いのだ。
両側に塀《へい》がつらなるようになった。石の塀とその上の生垣《いけがき》。苔は見当たらなくなったが、邦彦はかまわず下って行った。右前方に何かの建物が見えていた。コンクリートのがっしりした建物だ。かなり大きい。
あれは何だろう……。
邦彦の足が少し早くなった。下り坂をはずむように下って行く。
箱根美術館。
邦彦の足が急にとまった。何かの制服らしいブルーの上着を着た若い男が、立看板を道端に据《す》えつけようとしていた。陶器のコレクションを陳列している所らしい。
「もしもし」
邦彦はその男に声をかけた。
「その美術館というのはどこにあるのですか」
すると相手は振り向いてひどく朗らかそうな笑顔を向けた。
「そこです」
声も笑っていた。当然だろう。十メートルも離れていない所に、四角ばった低い建物があって、そこに二、三人、ハイキング姿の男女が立っているのが見えていた。ハイキング姿の男女は、切符売場らしい所にかたまっていて、すぐその奥へ入って行った。
「あ、なんだ」
邦彦は苦笑した。
「はじめてですね」
立看板を据えつけた男は、邦彦と並んで歩きはじめた。
「ええ」
「ここが入口です。どうぞごゆっくり」
ブルーの上着はやはり制服だったらしく、そう愛想よく言ってさっさと中へ入って行った。
邦彦はポケットから小銭入れを出し、三百円払ってパンフレットと切符がわりの絵葉書を受取ると中へ入った。
すぐ左側に休憩所のようなものがあり、その中でお茶を飲んだり弁当を食べたりしている人々の姿が見えた。
邦彦はそれをガラスごしにのぞき込みながら進んだ。
そして顔を前に向けた。
「あ……」
邦彦は立ちすくんだ。
目の前に、見事な苔庭がひろがっていたのである。モス・ガーデンと矢印《やじるし》のついた標識まであった。
小さいが深くえぐれた川が流れており、その小川の岩にまで、びっしりと緑の苔がついていた。
「オオスギゴケ……」
その流れへ落ち込む庭の斜面に生えているのは、京都で見たあのオオスギゴケであった。
ここだ。ここに違いない。
邦彦は心の中でそう叫びながら、左手へ廻り、橋を渡って苔庭へ入って行った。
美しい庭だった。西芳寺の苔庭よりも、ずっと明るい感じを受けたが、オオスギゴケそのものは、思ったより多くないようだった。
そのかわり、重厚なオオスギゴケにはない、かろやかな感じが漂《ただよ》っていた。
邦彦はわけの判らない感動にとらえられた。瑤子にめぐり会えたという感じがあったが、それよりももっと強烈に、大きな謎《なぞ》の一端に触れることができたよろこびを感じていた。
「瑤子、瑤子、瑤子、瑤子……」
邦彦は心の中でそう叫びながら、自分が何を探し出すべきか悟っていた。
瑤子を探し出すことは当然だが、それよりも、もっと重要なのは、瑤子を連れ出してしまったものの正体を知ることだった。苔はその謎の入口なのだと思った。
うすけむりの女
1
土曜日の夜、邦彦は強羅《ごうら》でも一番の安宿ではないかと思われる、うらぶれた感じの旅館に泊った。
帳場の老夫婦は、邦彦をふらりとやって来た気紛《きまぐ》れな客だと思いこんだようであった。乾《かわ》いた海老《えび》フライにひとつまみのポテトサラダ。鮪《まぐろ》の刺身《さしみ》に、赤貝の酢《す》のもの……どこの温泉地でもお目にかかるお定まりの夕食のあと、邦彦は宿の下駄《げた》をつっかけてふらりと外へ出ようとした。
「たいしておもしろいところはありませんよ」
宿の老主人が、そう言って帳場から声をかけた。
「散歩ですよ。強羅の夜はどんなかと思いましてね」
「およしなさい。坂ばかりでくたびれるのがおちです。それよりいかがですか」
見ると老主人のそばに碁盤《ごばん》が置いてあり、盤面に石が少し並べてあった。
「お上手《じようず》そうですね」
邦彦がそう言うと老人はうれしそうな顔になった。
「寒いですよ。散歩などやめてこちらへいらっしゃいませんか」
老人は相手が欲しくてしかたがないらしかった。
「とにかく思いたったのですからひと廻りして来ます」
「そうですか……」
老人は残念そうな顔をしたが、邦彦は強引におもてへ出た。
街路灯と旅館やホテルの看板の灯りでその道はひどく明るかった。しかしどれも蛍光灯《けいこうとう》ばかりで白々としており、その坂道を風が吹き抜けていくと、邦彦は思わず身震いをした。
それでもあの美術館のそばへ行かねばならなかった。美術館の庭のどこかに、光るものが見えるのではないかという期待があったのだ。京都の北園家を訪ねたとき、西芳寺の庭に光る苔《こけ》が生えたと言って珍しがっていたあの二人連れが邦彦の記憶に、なぜか鮮やかに残っている。
瑤子と発光する苔。
つながりはしなかった。ただ瑤子の姿が現われたあたりには必ず苔がある、という法則のようなものを、邦彦は感じはじめているのである。それからさらに発展して、苔の発光現象にまで結びつけて考えてしまうのは、たぶん苔だけでは漠然《ばくぜん》としすぎていて、もう少しはっきりとした特徴のある手がかりを欲しがっているからなのだろう。
わざわざ強羅で泊ったのは、瑤子と苔の法則性の上に、もうひとつ発光現象という確認しやすいものをおきたかったからなのだ。
道はしだいに薄暗くなり、体が冷えきってくるようであった。山の上から風が吹き降ろすたび、轟《ごう》と樹々が鳴り、去った妻の手掛りを追う男の侘《わび》しさを感じずにはいられなかった。
寒々とした下駄の音をたてて、邦彦は美術館の前へやって来た。くやしいことに、その苔の庭を外から覗《のぞ》くことはできそうもなかった。それでも邦彦は未練たっぷりに行きつ戻りつし、かなりの時間をついやしてからやっと坂を下ることにした。
ひょっとすると、もう消えてしまったのかもしれない。
苔の発光現象は、ごく限られた時間内のことかもしれないと思った。しかし、いずれにしても、オオスギゴケなどの発光は珍しい筈で、もしそういう現象が起きていれば、光は消えても噂《うわさ》は残っているに違いない筈だと思った。
それからいかにもこの土地に古そうな、あの老主人あたりが聞いているかもしれない。
宿へ戻る邦彦の足が早くなった。
しかしその邦彦の心のどこかでは、そんな考えを苦笑している部分があった。
飛躍しすぎている。たしかに苔と瑤子の関係は、どうにか結びつけるにたるだけの事項があるようだ。失踪のあと玄関にあった苔の鉢植《はちうえ》が消えていたこと。瑤子をかわいがっていた祖父の北園延弘が、自宅の庭を苔で埋めつくしていること。その北園家のすぐそばに苔寺として有名な西芳寺があること。瑤子が失踪直後にそこへ現われていること。次に瑤子の消息のあった場所が箱根の強羅であり、そこにある美術館の庭園がいわゆるモス・ガーデンであったこと。
いまのところほかに確たる手掛りがない以上、瑤子を追う邦彦としては、その苔の件だけが手掛りであると言えた。しかし苔の発光現象は西芳寺に一度あっただけである。
2
これでいま、この美術館の庭の苔に発光現象があったというのならとにかく、それも確認できないのだし、またありそうもないことであった。
俺《おれ》はいったい何を考えているのだろう。邦彦は舌打ちをするような気持で歩いていったが、白々とした街路灯の光のなかで急に足をとめた。まさか……、寒さのせいばかりではなく、邦彦は自分の顔がこわばっているのを意識した。
瑤子と結婚して以来、ずっと玄関の下駄箱の上に飾られていた、あの苔の鉢植を思い泛《うか》べたのであった。それは玄関の内部を照らす小さなランプの真下にいつも置いてあった。苔の成育のためにということで、夜になるとその小さなランプはいつもつけ放しにされていた。寒い季節にはまんいち鉢植の土の水分が凍って、霜でも立ってはというのが、瑤子の言い分であったから、邦彦もそれを鵜《う》のみにしてなんの疑惑もさしはさむことがなかったが、いま考えてみると、その言い分には少しおかしな部分があり、しかもそのおかしな部分が、実は重大な意味を持っていたように思えてきたのである。
瑤子には何か大きな秘密がある。邦彦は寒い坂道にたちつくし、全身に痺《しび》れに似た感覚を駆けめぐらせながらそう確信した。
たしかに瑤子と苔の発光現象とは関係があるのだ。しかもそれは最近になってからのことではなく、結婚した当初からの……、いや結婚する以前からの秘密かもしれないのである。玄関の内側を照らすランプの真下に苔の鉢がいつも置かれ、結婚以来一度も暗くなってからそのランプが消されなかったという厳然たる事実があるのだ。苔が霜を嫌《きら》うなど口実にすぎなかろう。家の中は冬になるとヒーターで充分暖められており、たとえ玄関であろうと、屋内である限り水が凍ることなどあり得なかったのだ。おまけに春、夏、秋いずれの季節をとっても、その小さな玄関のランプは一晩中苔を照らし続けていたのだ。邦彦は自分の帰りが遅く、ひとりっきりで家にいるときの、瑤子の或《あ》る姿を想像して慄然《りつぜん》とした。
灯りを消した暗い玄関に瑤子がたっているのだ。下駄箱の上の苔の鉢植が、ぼうっと真珠色の光を放って瑤子の顔を照らし出している。
邦彦は自分の両腕を抱えるような腕の組み方をして、背を丸めとぼとぼと歩き始めた。
下駄箱の上の苔が光るのを、邦彦に知らせまいとしていたのだ。そうに違いなかった。
発光する苔を瑤子がかわいがっていたのか。それとも瑤子が育てたから苔が発光したのか。いずれにせよそれは瑤子の持って生まれた体質にかかわっているような気がしてしかたがなかった。
なぜ光る。
なぜ光らせる。
似ているようでいて、その実途方もなく意味のかけ離れた二つの問いが、邦彦の頭の中で谺《こだま》していた。
「ただいま」
安旅館の戸を開けて、邦彦は無意識に言った。
「おかえりなさい」
宿の主人は帳場から伸びあがるようにして邦彦を見ると、機嫌《きげん》のよさそうな声でそう言った。
「ほらごらんなさい、寒かったでしょう」
邦彦が下駄を脱《ぬ》いであがる。
「さあさあこちらへ来ておあたりなさい」
帳場には石油ストーブが暖かそうな炎を見せて燃えていた。
「お茶の熱いのを入れましょう」
老人はいそいそと茶のしたくをはじめた。
「お勤めですか」
「ええ」
「どんなお仕事です」
「ただのサラリーマンですよ」
「銀行……」
「いや、事務機です」
「ああそうですか」
老人は大切な碁の相手を逃すまいと、邦彦に隙《すき》を与えずにたたみかけていた。しんと静かな帳場に暖かそうな茶をつぐ音が響いていた。
「さあ、どうぞ。冷えきってしまったでしょう。あとで寝る前にもうひと風呂《ふろ》お浴びになるといい」
邦彦は茶を啜《すす》り微笑を向けた。
「その前に一局でしょう」
老人は大仰《おおぎよう》に頭を掻《か》いてみせた。
「やあ、これはこれは」
邦彦は結局その老人と碁を打つことになった。
3
翌日の昼ちょっとすぎ、邦彦は箱根を下り東京へ向かった。
宿の老夫婦は苔《こけ》が光るという噂《うわさ》などまったく耳にしていないようだった。念の為あの美術館へもう一度足を運んだが、モス・ガーデンになっている部分はそう広い面積でもなく、どこにも異常は発見できなかった。磁器のコレクションを陳列した建物の中も、蒐集《しゆうしゆう》ぶりに感心させられただけで瑤子に関する収穫は何もなかった。
家へ戻って、途中で買った植物学の本を開いてみたが、発光する苔については、あることはあっても実際にはミズゴケ、藻の類で、スギゴケなどが発光する現象については何も記されてなかった。
瑤子と苔の発光現象の間に関係があるとしても、それがどういうことなのか見当もつかなかった。とにかく調べた限りではスギゴケの類の発光は一般には無いことのようである。
瑤子はその珍しい性質を持つ苔の近くにいると、何か得るところがあるのだろうか。たとえば、精神が昂揚《こうよう》するとか、気分が落ち着くとか……。
あるいは、瑤子がそばにいるとその珍しい現象が苔に起こるのだろうか。もしそうだとしたら瑤子はいったいどんな特異体質なのだろう。
そんなことを考えているうちに時が過ぎて月曜日になり、邦彦はいつものように丸《まる》の内《うち》へ向かった。瑤子の失踪《しつそう》以来、邦彦の仕事ぶりはずっと低調だった。妻のことと仕事は別である。自分に何度もそう言いきかせ、会社では瑤子のことを極力忘れ去っているつもりなのだが、やはり張りのようなものが失われているのだろうか。課長就任の年少記録を作った当時の勢いが嘘《うそ》のようになくなっていた。自分では一生懸命やっているつもりなのだが、何をやってもうまく行かない。他の管理職たちからうらやましがられるほどだった部下たちの信望も日に日に失われ、一種のエリート集団と目《もく》されていた企画課の雰囲気《ふんいき》がこのところひどく沈滞していた。それでもひところは何とか盛り返せる筈だと自分に言いきかせ努力してきたが、このところずっと手に余る感じなのだ。
企画課のデスクにつくとすぐ、電話のベルが鳴った。受話器を耳に当てると声は常務の西本であった。
「はいすぐに参ります」
邦彦はそう答えて受話器を置き、立ちあがった。何か不吉な予感がしてならなかった。ところが常務の部屋へ行くと、西本はつねにない笑顔で邦彦を迎えた。
「急な話だから来てもらったんだ。まあ掛けたまえ」
西本は椅子《いす》をすすめ煙草《たばこ》をつけると、煙をはきだしながら言った。
「君はいままでに金沢《かなざわ》へは行っていたかな」
北陸《ほくりく》支社のことを言っているのだ。
「いいえ」
邦彦は西本を見つめて答えた。視線が合うと西本のほうから目をそらす。
「それはちょうどいい、一度見ておいてくれ」
西本はあいまいな言い方をした。
「出張ですか……」
「うん、そうだ」
「いつです」
「急なんだが、明日にでもとんで欲しい」
邦彦にはぴんと来るものがあった。金曜日の午後、社長を交えた上層部の会議があった筈なのだ。主として人事関係の話だったと聞いている。
「で、北陸支社へ行って、何をすればいいのでしょう」
「いや、先週末の会議で急にその話が出てね。あそこはどうもセンスが古くていけないというのだ。いつも君が言っている事務機に関する新しい考えを、北陸支社の連中にひとつ大いにふきこんでやって欲しいのだ。北陸支社はこのところ人事的な交流も少し欠けているようだし、そろそろ活を入れてやらんとね」
西本はそう言って、あまり意味のない笑い声をあげた。
人事異動……。これは人事異動の前触れなのだ。邦彦はそう直感した。
「雪の兼六園《けんろくえん》もいいものだぞ。君は仕事以外でも金沢へは行ったことがないのかね」
「学生のころ、能登《のと》へ旅行する途中で一度通り抜けました。その程度ですから」
「何かむこうの連中の刺激になるような資料があったら持って行くといい」
西本はそう言うと煙草をもみ消し、椅子の位置を正面に直して、デスクの上の書類に目を通した。邦彦が入って行ったときのにこやかさが、西本の顔からぬぐうように消え去っていた。
4
新幹線で米原《まいばら》廻りにするのをやめ、邦彦は火曜日の夜行列車で上野《うえの》駅から金沢《かなざわ》へ向かった。まだ北陸支社へ左遷《させん》されるとは決っていなかったが、その可能性が強く、上野駅からの夜行列車が、都落ちするような邦彦の気分にあっていたのである。寝台もあいていなくて、邦彦は小柄な高校生と向き合った席に坐《すわ》り、窓辺に肩を押し当てるようにして身動きもせず東京から去って行った。高崎《たかさき》、水上《みなかみ》、小出《こいで》、長岡《ながおか》……。夜中の三時過ぎても邦彦は寝つけなかった。見廻すと車内の人々は、めいめい少しずつ家庭の匂《にお》いを覗《のぞ》かせて眠っていた。
これが女房といっしょの旅だったら、自分たちはどんな眠り方をするだろうか……。邦彦はふとそう思った。
きっと瑤子は窓際に坐っているに違いない。自分は通路側だ。窓際にミカンがのせてあるかもしれないし、網棚《あみだな》の下には瑤子のコートが掛っているかもしれない。瑤子はいま自分がしているように窓辺に肩をもたれさせて眠っているだろうか。いやそうではあるまい。通路側に坐った自分は瑤子の体重を受けとめているだろう。そんなことを想像しているうちに、邦彦はいつかうつらうつらしていたようだ。ふと気付いて目を開けると海が見えていた。まだ暗い海だったが、夜の明けかけているきざしはありありとしていた。もう親《おや》不知《しらず》のあたりだろうか。邦彦はそう思ったが、次に停《とま》った駅は黒部《くろべ》で、ものものしい雪山の装備をした男たちが、まだ眠っている人々を起こさぬよう、そっとホームへ降りて行った。
富山《とやま》では、はっきり夜が明けていた。富山からは停る駅の間隔が短くなって、人々は皆、目を覚ました。
金沢の朝は寒かった。改札口を出たとき、時計は七時をさそうとしていた。駅はいつもの仕事に出る人で活気があった。駅前にはチェーンをつけたタクシーの列があって、まだそれに乗る人の数はそう多くないようだった。道路はとけた雪でびしょびしょで、その水のところどころに雪の白い塊《かたまり》が浮いていた。どの車の排気管からも白い湯気のような煙が大きくひろがって風に流されていた。
邦彦はそんな金沢駅の朝景色を納得のいくだけ眺《なが》め続け、やがて駅の中へ引き返して売店へ向かった。朝刊を買う。ベンチへ坐ってそれをひろげはじめたが、急に生臭《なまぐさ》い風が起きたので顔を上げると、白い手拭《てぬぐい》を頭にかぶった女が大きな荷物を背負って目の前を通りすぎて行くところだった。ざっと新聞に目を通す。時間はいっこうに進まなかった。支社も出社時間は九時半の筈である。邦彦はゴム底のレインシューズを履《は》いてこなかったことを後悔していた。雪解けの水があふれる道では、いま履いている靴《くつ》などひとたまりもなかろう。
いずれにせよ、明日行くと電話連絡はしたものの、到着時刻さえ告げていなかったから、支社が開くまでは行く場がないわけである。