邦彦はその新聞を隅《すみ》から隅まで読みつくした。両隣に坐っている人物が何回も入れ替った。
やがて学生たちの姿が増えはじめた。九時になると急に強い陽が射して来た。その強い陽射しに誘われたように邦彦はふらりと立ち上がり、タクシーの乗り場へ向かった。支社があるのは県庁のあるあたりだと聞いていた。だから邦彦はタクシーに乗ると、
「県庁へ」
と運転手に告げた。一度来ただけだから、タクシーの走る街並みは見当もつかなかった。そして何度も曲ったあげく、邦彦はいきなり県庁の正面へほうりだされていた。県庁はすでに開いていて、その中へ入れば公衆電話ぐらいある筈であった。
5
午後。
邦彦は田辺《たなべ》という男に案内されて兼六園の霞が池の畔《ほとり》に立っていた。よく写真で見る二本足の燈籠《とうろう》がすぐ近くにあった。
「これだね徽軫《ことじ》燈籠というのは」
「はいそうです」
田辺という青年はよく気のつく男で、支社を出る前に、どこからか黒いゴムの長靴を都合してきて、邦彦に貸してくれた。
「よく冬の兼六園がいいという人もいますが、やはり緑のある季節のほうがいいですよ」
田辺はそう言い、うながすようにまた歩きだした。
「そうだろうな。何度も見なれてよく知っている人なら雪景色もいいだろうが、僕のようなはじめての者には何がどうなっているのかよく判らないまま終りになってしまった」
邦彦がそう言うと、
「もっとたびたびこちらへも来てくださればいいんです」
と田辺が熱心な口ぶりで言った。田辺は邦彦を本社きっての切れ者というイメージで理解しているようだ。だから充分に敬意を払ってくれている。邦彦もそれに甘えて、久しぶりに以前の自信にあふれた気持をとり戻していた。
「これをまっすぐ行くと、さっきの石川門に出ます」
兼六園のすぐ外の駐車場の前を通り過ぎながら田辺が教えた。
「街も案内してもらいたいな。香林坊《こうりんぼう》というところはここから遠いのかね」
「いいえ。そう遠くはありません」
田辺はそう言ってから兼六園のほうを振り返った。
「それにしても残念でした。美術館が休館しているとは知りませんでした。あの美術館にある仁清《にんせい》をぜひ見ていただきたかったのに」
「ほう。君はそういうものに趣味があるのかね」
「ええ、家がわりと古いものですから、小さいときから何となく爺《じじ》むさいものに親しんでしまいましてね。美術館が休館していたのでつい寄りそびれましたが、あの隣りに建っている成巽閣《せいそんかく》へは、もう百回以上も行っています」
「そんなにいいところなのかね」
「はい。あそこへ行けば加賀《かが》百万石がどんなものだったか、よく感じとれるのです。ことにわたしは飛鶴庭《ひかくてい》がたまらなく好きなのです。あのびっしりと美しい苔《こけ》を敷きつめた……」
邦彦はぎくりとして思わず足をとめた。
「苔……」
「ええ、飛鶴庭は苔の美しさで有名なのです」
邦彦は思わずその成巽閣へ引き返そうとした。しかし、よく考えてみればこの雪である。それにたしかその建物はいまいる位置の真反対の側にあり、行ってみるならもう一度出直したほうがよさそうだった。
「そうですか。野川課長のようなモダンな方が、苔に興味をお持ちだとは知りませんでした」
田辺は邦彦の反応を勝手に解釈してうれしがっていた。邦彦は石川門のほうへ歩きだしたが、また新しい疑惑にとらえられていた。
「その仁清はどんな品かね」
「色絵雉《きじ》香炉という国宝です。そのほかに古九谷の名品がずらりと並んでいますよ」
それをきっかけに田辺は九谷焼について熱弁をふるいだした。しかし邦彦はろくに聞いていなかった。
今度は磁器と苔が重なっているのである。箱根の美術館は磁器のコレクションとモス・ガーデン。兼六園は仁清や古九谷と飛鶴庭。そういえば京都の北園家の座敷でも、由緒ありげな清水焼の壺《つぼ》を見たような気がする。
何かが邦彦の頭の中でカチリと音をたててひとつにつながったようであった。
ひょっとするとここへも瑤子は来ているのかもしれない……。
「そうだ。市役所のそばの建物で、現代加賀陶磁器展というのをやっているんです。よかったらちょっとお寄りになってみませんか」
邦彦は田辺の誘いを断らなかった。それほど厳密に、磁器だけにこだわる必要はないような気がした。苔と重なっているのは陶磁器と考えていいだろう。そう思って邦彦はその会場へ足を向けた。
思い切り広い空間をとって、陶器や磁器の新作がぽつり、ぽつりと並べてあるのは、見るからに高価そうであった。
だが邦彦にとって何も得るところはなかった。
「さすがは野川課長、お目が高いようですね」
田辺はつまらなそうな邦彦の表情を見て小さな声でそう言った。
「たしかに今年は低調なようです。僕が見てもそう思いますからね」
田辺はそう言うと思いきりよくさっさと邦彦をその会場から連れ出した。
「田辺君、成巽閣の飛鶴庭のほかに、この金沢で苔の美しい庭というとどういうところかね」
邦彦がそう尋ねると、田辺は愉快そうに笑った。
「この裏ですよ」
「この裏……」
「ええ、行ってみましょう。この横を入ったあの突き当たりの左にある建物がそうです。中村記念館といいまして、茶道具などが展示してあります。庭はあまり大きくありませんが、茶室も建ててあって苔が生えています」
その建物は目と鼻の先にあった。左右にコンクリートの建物があってその間を抜けて行くのだ。
邦彦は田辺の説明を聞きながら、さっき頭の中で結びつき、カチリと閉じた環が、いっそう固く締ったのを感じた。
6
田辺と、邦彦が、コンクリートの建物の間を歩いて行く。邦彦が進む右側の建物の二階の窓ガラスの内側に、和服を着た小柄な女が立っていて、凍りついたような表情で邦彦をじっと見つめていた。
白地の綸子《りんず》に可憐《かれん》な小菊が散らしてあり、その古典的な柄へ、大きな雲取を割り込ませて近代的な感じに仕上げていた。雲取の縁は金糸で幅を太目にとってあり、中は淡いベージュである。白地だが雲取のベージュが大きいから全体的にはベージュの感じが勝っている。帯は黒地に金銀の焼箔で、帯締めは純白無地かと思えるなかに、金糸銀糸がわずかに織り込んであった。
瑤子《ようこ》だった。
その部屋は何かの会の控室らしく白布をかけたテーブルに灰皿《はいざら》や茶碗《ちやわん》が並んでおり、いまはその人々も外へ出ているらしく、瑤子ひとりきりであった。
瑤子の指が細かく震えていた。形のいい小さな唇《くちびる》もわなないているようだった。
心で呼びかけたいのを必死にこらえているのだ。小田原駅のときのように、瑤子が心で呼びかければ、邦彦は必ず彼女のいる窓のほうに振り向くに決っていた。
しかし、いまはそのたぐいまれな超能力を使ってはならないのである。まして、階段を駆け降り、
「あなた」
と叫ぶその簡単な行動を、絶対にとるべきではなかった。
瑤子は逃げなければならない。あの執拗《しつよう》な追手からのがれるためには、その強力な心の声、つまりテレパシーを使うわけにはいかないのである。
瑤子はいま、たったひとりでたたかっているのだ。その孤独なたたかいに勝たなければ、愛する夫の胸へ戻ることさえできないのである。
瑤子は大きく息を吸い、目を閉じた。それは追手からのがれるために、やむをえず習得したテレパスとしての高度な技術であった。
テレパシーを発することなく、相手の思考だけを読み取る……。
あのなつかしい夫の思考が彼女の心へどっと流れこんできた。瑤子の閉じた目から、熱い涙があふれでてとまらなかった。
邦彦は妻を信じていた。理由も告げず行き先も告げずに、ある日いきなりとび出したままなのに、邦彦は妻を信じているのだった。
どういう経路で邦彦がそういう結論にたどりついたかは判らなかったが、瑤子は自分が恋人のころよりもっと強く恋され、仲の良い夫婦であったときよりもいっそう深く愛されているのを知ることができた。
それは言葉ではなかった。心の声だった。邦彦はそこに瑤子がいることに気付いてはいない。それでなお、一点の疑念もなく瑤子を信じているのだ。
悲しみとうれしさ、しあわせとふしあわせ。そのあい反するものが入り混り、瑤子の胸の、白く柔らかい肌《はだ》の下で、せつない渦《うず》を巻いているのであった。
邦彦は中村記念館のほうへ去って行く。きっと建物へ入る気なのだ。
瑤子にはとてもその自信がなかった。邦彦がその建物の中に消え、内部をひと廻りして出て来れば、またその窓の下を通るに決っていた。
出て来るのを待ちたかった。もう一度窓の下を通るのを見たかった。しかし、そうしたらきっと、瑤子は精かぎり根かぎり、テレパシーを、体中の愛を込めたテレパシーを、邦彦にぶつけずにはいられなくなるだろう。さもなくば、夫婦ともども逃げ廻る苦しみに、夫をまき込み、破滅させてしまうに決っているあの行為……つまり階段を駆け降りて夫の胸に身を投げかけてしまうこと……それをせずにはすまないだろう。いままで何度邦彦のもとへ戻ってしまおうと思ったことか。
瑤子はねばりつくような足を、自分自身目を見はるような自制心を発揮して動かしはじめた。最初はのろのろと、そしてすぐに逃げるような素早さで、階段に向かい駆け降りはじめた。
講演を終えた陶芸家の岡崎唯士《おかざきただし》が、その姿を見て後を追った。
「冬子《ふゆこ》さん、冬子さん……」
瑤子は銀髪のその高名な陶芸家に、冬子という名で呼ばれた。
しかし瑤子はとまらなかった。夢中で外へ出るとタクシーを停め、犀川《さいがわ》と野田山にはさまれたあたりにある、岡崎唯士の仕事場へ逃げ帰ってしまった。
北陸の雪景色のなかで、瑤子の着物姿が窯からたつうすけむりにつつまれていった。
玉露のかおり
1
明るいブルーに塗ったボルボが、未舗装の道をゆったりと揺れながら戻って来た。排気ガスが白く見えている。
瑤子がそれを家の中から、レースのカーテンごしに見ていた。もう顔からはさっきまでの思いつめたような表情が消えている。
岡崎唯士は頑丈《がんじよう》な屋根のついたカーポートにボルボを納めると、ドアをあけて降り立った。いつもその車に乗る時は勝手口から来るらしく、玄関へ向かう方向には雪が積っており、逆の方向へは雪を踏み固めた道がついていた。
岡崎は長い足を慎重に動かして、勝手口へ向かった。
「お帰りなさい」
瑤子が迎えた。
「どうしたと言うんだ。凄《すご》い勢いで出て行ってしまったから、ここへも帰っていないのかと心配したんだぞ」
岡崎は土間で何度か足踏みし、靴についた雪を落しながら言った。変った造りの家で、玄関から勝手口へ土間が突き抜けている。この辺りに古くからある構造には違いないが、ほかがすべて洋風にできている。しかも、洋風と言っても家具類はみな民芸調のもので、少しもバタ臭くはない。玄関を入ってすぐ左側にある応接間などは、床が土間になっているから、履物《はきもの》を脱がずに外からそのまま入れる。下駄《げた》や草履《ぞうり》がよくマッチする洋間、と言った感じだ。
その上、応接間のすぐそばに、風炉の敷瓦《しきがわら》にでもしたら合いそうな、黒っぽい茶の大きなタイルを貼りつめた一坪ほどの靴脱ぎのスペースがあり、天井から古びた小さなシャンデリアがぶらさげてあった。ちょうど、家の中にもうひとつ玄関がついている感じである。
岡崎はそこで靴を脱ぎ、スリッパに履きかえる。
廊下の床は檜《ひのき》で、建ってからもうだいぶたっているらしく、程の良い色で艶《つや》光りしている。
「いったい何があったと言うんだね」
岡崎はぼやくように言いながら居間へ入った。無造作な感じで積んだ大谷石の桝《ます》が中央にあり、天井から自在鉤《じざいかぎ》が下げてあった。囲炉裏の感じだし、大谷石の桝の中には事実炭火が勢いよく熾《おこ》っているが、それがなぜかひどくモダンな感じに見える。大谷石の炉縁《ろぶち》が高いのと、幅が広いせいだろうか。自在鉤は飾りで、灰の中にはちゃんと五徳《ごとく》が埋めてあって、黒光りした南部の鉄瓶《てつびん》がかかっている。
「すみません。勝手なことをして」
瑤子は微笑して見せ、
「お茶の仕度をして置きました」
と言った。
「うん、もらおう」
その大谷石の炉の二辺の、普通ならソファーでも置かれるべき筈の位置が、高麗《こうらい》べりの畳を敷いた小間になっていて、岡崎はそのひとつに腰をおろすと、背筋を伸ばして二、三度肩をまわした。
瑤子は絣《かすり》の小|座蒲団《ざぶとん》を敷いた民芸調の椅子《いす》に浅く坐《すわ》って、茶をいれはじめる。帰る時間の見当がついていたと見えて、もうすっかり準備は整っていた。
それがこの家のやり方なのだろう。瑤子はしゅんしゅんと音をたてている鉄瓶の蓋《ふた》を取り、大谷石の炉縁に置いた柄杓《ひしやく》を使って、湯ざましに移す。そばに品のいい藍染《あいぞ》めの玉露茶碗《ぎよくろぢやわん》が二つだけ並んでいる。
茶托《ちやたく》がちょっと変っている。程のよい大きさの木を、自然の形のまま輪切りにしたものらしいが、よく見るとそれでも取りあげ易いようにへりの外側が僅《わず》かに削ってある。実は玉椿《ねずみもち》の木で造ったもので、岡崎がひどく気に入っている品であった。茶碗や急須《きゆうす》はすでに湯を入れてあたためてある。
瑤子は鍋島焼《なべしまやき》の茶壺の蓋を取り、飴色《あめいろ》に光った竹の茶合へ茶を移した。玉露の緑色が飴色の茶合の中で鮮やかに見えた。その茶合を、あたためてあった急須の口に持って行くと、口の円と茶合の弧は殆《ほと》んど同じ大きさであったことが判る。瑤子の白い指が茶合を傾けると、緑の茶葉はかすかな乾いた音をたてて落ちた。
湯ざましの湯が急須に入れられる。また柄杓で鉄瓶の湯を取り、湯ざましに入れる。茶碗の白湯は銀の建水《けんすい》にゆっくりとあけられ、舞うような手つきで二つの茶碗に茶をついだ瑤子は、玉椿の茶托にのせてその一つを岡崎の前へ置きに行った。
岡崎は近付いた瑤子の横顔をじっとみつめていた。
「お相伴いたします」
瑤子はにこやかに言い、自分も茶碗をとりあげる。
「君は……」
岡崎はそう言い、残りを言わずに茶碗に口をつけた。
とろりと重い露が舌に落ち、豊かで底深い味が体中にひろがって行くようだった。
飲みおえて、岡崎はため息をついた。
「何ですの」
瑤子が小首を傾《かし》げて訊《き》く。
「君は謎《なぞ》のかたまりだと言いたかったのさ」
岡崎は憤《おこ》ったように言って茶碗を置いた。
「まったく何ということだ。俺《おれ》はまだ君の苗字《みようじ》も知らん。冬子という名前しか教えてはもらえんのだからな。それでいて、もう君がいてくれねばろくに茶ものめんようになってしまった。こんな旨《うま》い茶をほかの誰《だれ》が入れられるというのだ」
岡崎はそう言うと、ふと窓の外へ目をそらせた。その目はどこか物哀しげであった。
2
二煎目を岡崎が口に含んだ時、ポロロン、とチャイムの音がした。瑤子は素早く立って廊下を玄関のほうへ行く。
岡崎は瑤子が戻る間、肩の辺りに孤独のかげりを見せて茶をのんでいたが、戻って来た瑤子のうしろにある顔を見ると、
「よう」
と急に元気よく言った。
「いい所へ来た。君に会いたくなっていたところだよ」
現われたのは半白の髪をした初老の男だった。痩《や》せていて、ちょっと猫背《ねこぜ》の感じだ。油気の抜けた、物判りのよさそうな顔に笑いを溢《あふ》れさせている。
「嘘《うそ》をつけ。とんだ邪魔が入ったと思っているんだろう」
「どうぞ」
瑤子が小間へ座蒲団を置き直して言う。
「はいはい、ありがとう」
田辺清次郎《たなべせいじろう》という洋画家である。東京と金沢の間をめまぐるしく往復している男だ。
「こういう日は、きっと東京は雨だぞ」
窓の外の晴れた空を見て言う。
「こっちが降ればあっちは晴れ。いつも逆だ」
「たまには東京にも降ってやらんと、水に困るだろう」
岡崎が言うのを聞き流しながら、田辺はじろじろと無遠慮に瑤子を見ている。
「まったく美しい。あなたが来て以来、ここへ来ると家へ帰る気がしなくなるよ」
「お茶をいかがですか」
「おう、玉露かね。いただきましょう」
瑤子は仕度を改めに立つ。
「とうとう居ついてくれそうな具合だな」
そのうしろ姿を見ながら田辺が言った。
「まあな。しかし相変らず判らん人だ」
「そうか」
「ついさっきも講演会の会場から、急にあわただしく逃げ出してしまった。何に怯《おび》えたのか知らんが、本当に胆《きも》を冷やしたぞ。あのままどこかへ行かれてしまうのかと思ってな」
半分は瑤子自身に聞かせている言葉のようであった。
「君が何かわるさをしたんだろう」
「冗談を言うな」
岡崎は大声を出したが、
「俺はただ、彼女がいつまでもそばにいてくれるだけでいい」
と、すぐにしんみりとした声になる。
「冬子さんを見ていると、俺にもその気持は判るな」
瑤子が戻って来て、また茶をいれはじめた。
「しかし、冬子さんだっていつまでも君に観賞されっぱなしで過すわけには行かんだろう」
「おいおい」
岡崎があわてて言う。
「寝た子を起すようなことを言わんでくれ」
「しかし本当だぞ。なあ冬子さん」
瑤子は田辺を見て微笑した。
「それそれ、その笑いかたがこの男には毒なのだ。いや、岡崎ばかりではないかな。モナ・リザの絵の前で首を傾げる男はそこら中にいる」
「本当によくしていただいて、感謝しております」
瑤子はそう言って茶碗を二人の男の前へ配った。二人は瑤子のしとやかな動作に気おされたように黙り込んだ。
「弟子たちはどうした。ばかに今日は静かじゃないか」
「休みだ」
「ほう。仕事が一区切りついたと見えるな」
「うん。おかげで今回は何とか満足の行く仕事になったようだ」
「それはよかった」
「どうだ。今日はゆっくりして行かないか」
すると瑤子が口をそえた。
「そうですわ。ぜひそうなさってください」
田辺は相好を崩し、
「ご馳走《ちそう》してくれるかね」
と言った。そんな時の田辺の顔は、邪気のないいい顔であった。
「そういうことならまず酒を選んでもらおうか」
岡崎は張り切って言う。気の向くままに、各地の地酒を集めているのだ。
「うんと辛口がいいな」
「よし、来い」
二人の男は、子供のようにはしゃいで立ちあがると、酒をしまってある納戸《なんど》のほうへ去った。
瑤子は大谷石の炉のまわりをひとまわりして茶碗を集めると、手早く茶の道具を盆にのせ、鉄瓶に水をさして台所へ行く。
「これこれ、こいつにきまったぞ、冬子さん」
納戸から台所へまわったらしく、岡崎の声が聞こえている。
無人になった居間の飾り棚の端に、小さな水盤に入れた苔《こけ》が置いてあった。
3
「しかし、縁と言うものはふしぎなものだ。俺はつくづくそう思うよ」
男二人の酒宴がはじまっている。二人とももういくらか酔っているようだ。
「俺は行きずりの若い女性に、自分から声をかけるような男では決してない」
そういう岡崎を、田辺がからかうように見て瑤子に言う。
「どうだか判るもんか。この前ヨーロッパへ行ったとき、どこかでそいつをやったと言うぞ」
「ばか。あれは道を尋ねただけだ」
「でも、若い綺麗《きれい》な子を選んだそうだ」
「向こうの男は恐ろしげでいかん。会話のときの表情のタイミングが俺みたいな純日本人にはどうもピンと来んのだ」
「若い美人ならいいのか」
「うん。話しかけるとまず、かすかにでも笑ってくれるからな」
岡崎よりずっと海外旅行の回数が多い田辺は、ワハハ……と声をあげて笑った。
「とにかく信じて欲しいな。ところが、金沢の駅で、列車から降りたばかりのこの人に、俺はどういうわけか衝動的に声をかけてしまった。うん、あれはまったく衝動的としか言いようがない」
「何と言ったのかね」
田辺が瑤子に聞く。
「お嬢さん、お茶でもいかがですか、かね……」
「冗談言うな」
岡崎が大声で言う。瑤子は微笑していた。
「で、何と言ったんだ、君は……」
田辺はふと真顔に戻って訊《き》いた。
「それがよく判らんのだ。何かこう、ぼんやりとしてしまってな。ただ、初対面と判っているのに、とてもなつかしい人のような気がしたんだ。あんなことははじめて経験したな。昔からよく知っている人に会った感じで、ついうっかり訊いてしまったのさ」
「だから何と言ったんだ」
「ええと……」
岡崎はぐい呑《の》みを左手にした儘、しばらく考えた。
「畜生、やはり思い出せん。冬子さん、君は憶《おぼ》えているかい」
瑤子は首をゆっくりと横に振った。
「忘れてしまいましたわ。あんまりさりげなくおっしゃられたので」
すると田辺が騒いだ。
「ほれほれ、そこが曲者《くせもの》なのだ。それほど年季が入っているんだよ」
「まったくふしぎだなあ」
岡崎はそれにかまわず、しみじみとした口ぶりで言うと首をひねり、思い出したように酒を飲んだ。
瑤子は早くその話題からのがれたかった。
「能登《のと》の冬って、どんなですの。きっとすばらしいと思うんですけれど」
男二人が顔を見合わせる。
「そうだ、連れて行ってあげよう」
田辺が先に言う。
「何を言ってる。車も運転できんくせに」
「車などどうにでもなるさ」
「うちにはちゃんとボルボがある。天気のいい日を見はからって、ひとまわりして来るか」
「おいおい、俺が先口だぞ」
「うちの冬子を人に貸してたまるか」
「あ、うちの冬子だと。冬子さん、何か言ってやりなさい」
話題はあっさりとそれた。風が出たらしく、どこかの窓がガタガタと音をたてていた。
「窓が鳴っているようですわ。見て来ます」
瑤子はそう言うと中座した。居間を離れると寒かった。また降るのかも知れなかった。
風に鳴る窓はすぐに判った。掛金がゆるんでいるのだ。釘《くぎ》で打ち直さねばならないだろう。瑤子はとりあえず、マッチ箱を使ってその掛金にはさみ込み、音をとめて居間へ戻った。
男たちは能登で瑤子に見せるべき場所について議論しはじめている。
二人とも紳士だった。その二人が清潔な心を持っていることは、誰よりも瑤子が一番よく知っていた。
だからこそ、行き当たりばったりに降りた金沢の駅で、岡崎に声をかけさせたのである。岡崎がその時何と言ったかよく憶えていないのは、瑤子に強制的に声をかけさせられたせいなのだ。
そのテレパシーを用いた時、近くに敵がいなかったのは幸運だった。瑤子はせっぱつまってそういう非常手段を講じたのである。
泊ろうにも、もう金が心細かった。
「宿をお探《さが》しですか」
岡崎はその時そう言ったのである。
「ええ」
「わたしでよかったらご案内しましょう」
「でも、お金が……」
「それは困ったな」
そんなやりとりであった。心細いと言っても、一泊や二泊なら市内のホテルへ泊る位はあったが、それでは発見されるおそれがあった。
雪は降るし、うろうろと逃げまわるのに疲れてもいた。せめて春が来るまで、どこか一個所で過したいと思っていた。
岡崎が芸術家であることはすぐに判った。話している内に、岡崎が瑤子をアシスタントに使ってもよいと考えはじめたのが判ると、瑤子はひたすらそれにすがる気になった。金沢の町はずれなら、追手もおいそれとは発見できまいと思ったのだ。
岡崎はくわしく尋ねなかった。瑤子の人柄を見て信用してくれたのだ。決してテレパシーで強制したのではない。強制したのは、最初に声をかけさせた時だけだ。
そして今のような状態になった。八、九年前に妻をなくした岡崎は、兼《かね》さんというおばさんを通いの家政婦にして、七人ほどの弟子たちと陶芸の仕事をしているのだが、やはり何かと不便していたらしく、瑤子のような女性を探していたのであった。
すべてうまく行った。難を言えば岡崎が瑤子をやたらに外へ連れ歩きたがるくらいなものだ。しかし、瑤子は用心して、なるべく外出しないようにしている。それに念の為、苔も身近に置いている。苔が瑤子に取って警報装置の役目を果すことは、ずっと以前に祖父の北園延弘が教えてくれていた。
4
東京は雨があがったばかりだった。
「やんだようだな」
小柄だが、見るからに敏捷《びんしよう》そうな男が窓の外を眺《なが》めて言った。庭園灯に照らされて、広い芝生の庭と、その先に四本ほど並んだ太い椎《しい》の木が見えている。
「兼六園の成巽閣《せいそんかく》はどうだ」
背の高い、陰険な感じの男がそばのデスクに坐《すわ》っていて、ファイルをめくりながら言った。
「金沢か」
小柄なほうが外を見たまま問い返す。
「そうだ」
「雪だ」
小柄なほうが言って振り返る。
「いずれは調べねばならんだろうが、雪が積っている所はあとまわしになる。それでなくても手が足りないのだ」
「野川瑤子か。どこへ消えたのかなあ」
「亭主にもまだ連絡がないのだろうか」
「うん」
「気の強い女らしいな」
すると小さいほうが内ポケットから瑤子のポートレートをとり出して、デスクの上へひょいと投げた。
「ほう、美人じゃないか」
「それが気の強い女か」
「たしかにそのようにも見えんな、これは」
小男は肩をすくめて部屋を横切り、ソファーに体を沈めた。カーペットもソファーも、重厚なものばかりだった。
「厄介な相手さ」
煙草をとり出しながら言う。
「なぜ」
「あんたはいいよ。俺たちの尻《しり》をひっぱたいていればそれですむ」
「嫌味《いやみ》を言うな、嫌味を」
のっぽのほうは苦笑を泛《うか》べている。
「その顔を見ればどう厄介か判るだろう。決して気が強くもなければ勇敢でもない。少女の頃が判るぜ」
「どう……」
「純情一途な娘だった筈《はず》だ」
「今でも清純派だな」
「それが夫にも連絡を断って頑張《がんば》っている。なぜだか判るか」
「さあね。こっちは事務屋だから」
「亭主を愛しているに違いない」
「そりゃそうだろう。まだ結婚して三年しかたっていない」
「半年で別れる奴もいるよ。野川瑤子は本当に亭主を愛しているんだ。俺にもだんだん判って来たよ。だから今度のことに亭主を巻き込みたくないのさ」
「成る程ね」
「それでやけに頑張るんだ」
「テレパシーを使う奴に頑張られてはかなわんな」
「彼女はきっと後悔している筈だ」
「何を後悔する」
「自分がテレパスであることをだ」
「生まれつきなのだから仕方あるまい」
「しかしそれを利用した。利用してしあわせになった」
小柄な男は天井へ煙を吐き出しながら言った。
「それで俺たちに発見されてしまったのだからな。あんなことをしなければよかったと後悔しているだろう」
「しかし判らんな、その女」
のっぽが言い、今度は小柄なほうが訊《き》いた。
「何が判らない」
「そうじゃないか。何千万人……いや、一億人に一人というような、またとない能力に恵まれているんだぜ。他人の思考を自由自在に読みとれるし、こっちの考えを相手に気付かれずに押しつけることもできる。そんな力がもし俺にあったとしたら、たちどころに俺は大金持ちになってしまうだろう。ところがこの女は、亭主を出世させただけだ。月に二度か三度、定期的に亭主の会社へ行って、亭主に好感を抱いてもらうように手当たり次第テレパシーを使う。だがそれで、亭主のほうはどれ程出世した。たかが二部上場の会社の課長じゃないか。選挙にでも出して見ろ、トップ当選間違いなしなんだぞ」
「それがテレパスの特長なのさ。テレパシーを使える奴は、みな子供の頃から人の心をくまなく知っている。それだけに、自分を目立たなくしてしまうんだ。テレパシーを使って人の上に出て見た所で、大して幸福になれるわけではないということが判っているそうなのだ」
「そんなものかな」
「仕事だからやむを得んが、彼女を追いつめるのは気が進まんよ。彼女の祖父の北園延弘と同じように、あの能力が老化して消滅してしまうまで、ほどほどにひっそりと暮らさせてやりたくなっているんだ」
「小さなしあわせ、って奴か」
「そうだ。どうも、しあわせという奴は、あまり大きなものではあり得ないような気がする。みんなめいめいしあわせを求めているんだからな。それは、たとえて言えば頭の上に風船をうかべているようなものだ。一人だけその風船を大きくふくらませれば、まわりの風船のいくつかを破裂させなければなるまい。しかし、もっと大きくしたら、自分の風船がふくれすぎて薄く破れ易くなるじゃないか。そしてバーンさ」
小柄なほうは、両手で玉が割れる仕草をして見せた。
「本物のしあわせは大きくない。だが、大きい小さいは本当は問題ではないのかも知れんな。問題はそれが安定しているかどうかだよ。いつ燃え出すか判らない家で笑っているより、絶対燃えないと判っている家でほほえんでいるほうがいい」
「センチメンタルになっているようだな。そんなことを言って、仕事がおろそかになっては困るぞ」
「またはじまったな」
「本気で言っているんだ。我々はどうしても強力なテレパスが必要なのだ。ソ連の超能力研究は我々西側諸国よりずっと進んでいる。彼らが国際会議のたびに、その随員としてかなり強力なテレパスを連れて来ていることははっきりしているんだ。その為に向こうの思い通りにされてしまう。また、スパイにテレパスを使っていることもたしかだ。ビルの外で煙草でも吸いながら、極秘の会議の内容を全部聞き取ってしまうんだぞ」
「判ってるよ」
「だったら早くつかまえてくれ。CIAもやいのやいの言って来ている。野川瑤子は今のところ、存在が判っているテレパスの中では世界一の能力を持っているんだからな。何しろ、苔を発光させてしまう程の力なのだぞ」
東京の高輪《たかなわ》にあるその家は、雨あがりの夜空の下で、黒くぬれ光って見えている。
5
金沢。香林坊《こうりんぼう》からちょっと離れた所にあるビルの三階の酒場だ。
「人口の割りに飲食店の数が多いことでは、ひょっとするとこの金沢は日本一かも知れませんよ」
東日機材金沢支店の田辺が、邦彦を案内してその酒場へ入って来たところである。
「おや、また降り出しましたか」
和服を着たママがそう言い、カウンターに坐った二人に湯気の立つおしぼりを渡す。
「うん。風も強くなった」
「まったく、晴れても長く続かないのだから」
「ママ、紹介しよう。うちの本社の野川課長だ」
「まあ、課長さん。まだお若くていらっしゃるのに」
「切れるんですよ、野川さんは」
田辺はお世辞ではなく言ったようである。
「よろしく」
邦彦は軽く頭をさげた。へたをすれば金沢へ転勤になるかも知れないのである。
「東京なみとは言いませんが、なかなかいい店でしょう」
田辺に言われて邦彦は店の中を見まわした。
「うん、洒落《しやれ》た店だね。落着いていていいよ」
「おやじがひいきにしているんです」
「君のお父さんが……」
「ええ。あの絵は父のです」
田辺は背後の壁にかけてある、二十号ほどの絵を指さした。
「勘定がたまると、自分の絵で払うんですからいい気なもんですよ」
するとママが笑って見せた。
「とんでもない。田辺先生の絵なら、いただいて損になりませんからね。右から左に売ったって、かなり儲《もう》かってしまいますよ。でも……来ていただく先生のですから、すぐに売り払ってしまうこともできないのが、少し辛いところですけど」
「そうなんだよな」
田辺は得たりというような顔になった。
「おやじはそこまで気が付いていない。今度言ってやらなくては」
「よしてくださいよ。坊ちゃん」
ママは半ば本気でとめ、
「あら、まだご注文もうかがわないで」
と邦彦を見て笑った。
「寒いからコニャックがいいですよ」
田辺がすすめる。