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作者: 当前章节:15375 字 更新时间:2026-6-23 00:12

「いや、ウイスキーの水割りをください」

 田辺が奢《おご》るというので、邦彦は遠慮していた。

「野川課長の奥さんは有名な賢夫人でね」

 田辺が言う。

「あら、そうですか」

「そうさ。……いや、賢夫人というと少し堅すぎるな。とにかく美人で優《やさ》しくて、どうしようもないそうだよ」

「どうしようもない……」

 ママはその言い方を笑った。

「そう。若い連中がそう言っているんだ。僕はまだ拝んだことがないけれど」

「どうしようもないって、どういう意味ですの、坊ちゃん」

「よくあるんだよ。自分の好みにピッタリしすぎてて、いやになるんだ。いやというのは、ちょっとむずかしいんだけど、そんな自分の好みにピッタリの人が、まるで縁もゆかりもなく行きすぎてしまったり、もう人の恋人や奥さんになってしまっていたりすると、がっかりするより先に、自分自身がいやになってしまうのさ」

「あら、それならよく判るわ」ママが真面目《まじめ》な顔で言った。「あたしたちにもありますもの」

「へえ、女性にもかね」

「ええ。たとえば、あたし見たいなおばあちゃんになってから、若いすてきな男性に会うことがあるんです。その男性がすてきだということは、若くてはきっと判らなかったでしょうね。男性というものが少しは判って来て、やっとそういう人が本当にすてきな人なんだ、って判るんですよ。でも判ったときはもう手おくれね。今までに何人こういうタイプの人を自分がみのがして来たかと思うと、自分で自分がいやになるの」

「僕はどう、ねえ僕は……」

 田辺が気負い込んで尋ねたので、そのママも邦彦も声をあげて笑い出した。

 金沢の夜が吹雪いている。

 降りつもる雪

  1

 岡崎の威勢のいい声が仕事場から聞こえて来る。瑤子はそれを聞くと思わず微笑を泛《うか》べた。

 大声になるのは、岡崎が仕事に乗っている証拠なのだ。知らない人が聞いたら、腹を立てて弟子たちを叱《しか》りとばしているように思うだろうが、瑤子はその声にもうすっかり慣れてしまった。

「冬子」

 瑤子はそっとつぶやいて見る。部屋の中は暖かいが、窓の外はまっ白である。ことしは殊のほか雪が多いと言う。瑤子がこの金沢へやって来たのは、その雪のつもりはじめの頃だった。岡崎に対して咄嗟《とつさ》に冬子と名乗ったのは、町につもった雪からの、ごく単純な連想に過ぎなかった。

 だが、それ以来、瑤子は冬子になってしまった。ひょっとすると、いや多分、岡崎は冬子と言う名が思いつくまま口から出た偽名であることをとうに悟っているだろう。そう考えるたび、瑤子の心の中にも、雪に似た冷たいものが降りつもるのであった。

 夕暮れの雪景色の中に、一つ二つ家の灯りが見えている。瑤子は編物の手をとめてじっとその灯りをみつめた。

 雪にとざされたあの家の中も、やはりこの部屋と同じように暖かいに違いない。すべての事柄がそこでは一時進行を停止し、人々は雪が消えはじめるまで、静かな時間の中に沈み込んでいる。

 瑤子はそのように感じ、ため息をついた。

 降りやんで欲しくない。融け消えて欲しくない。雪がもたらしてくれたこの静かな時間が、いつまでも終らずにいて欲しいと思った。厚く雪をのせた屋根の下で、冬子として存在し続けることができたら……。

 瑤子は窓から目をそらし、自分の膝《ひざ》のあたりにその視線を移した。

 いずれこの雪もやむ。春が融かしてしまう。そうなれば、草木の芽と同じように、自分もこの隠《かく》れ家《が》から追い出されなくてはならない。冬子は存在しなくなるのだ。そう思うと、また瑤子の心に沈鬱《ちんうつ》なかげがさすのであった。

 瑤子も悟っている。岡崎唯士の心の中には、冬子という女が降らせた雪がつもりはじめているのだ。冬子が去ったあとに、その雪だけが消え残ることを思うと、瑤子はいたたまれなくなるのであった。

 だが、岡崎やその弟子たちの声は、瑤子のそんな思いを吹きとばすように屈託がない。

「もうすぐ休憩になりそうですよ」

 仕事場から出て来た青年が、居間の瑤子に早口でそう知らせると、小走りに廊下を去って二階の岡崎の部屋へ、何かを取りに行ったようだった。

「まだ休ませんぞ」

 その声が聞こえたらしく、仕事場で岡崎が呶鳴《どな》っている。

 瑤子は古風な柱時計を見あげた。たしかにそろそろひと休みしていい時刻になっていて、瑤子は編物を坐っていた椅子の上へ置くと、台所へ行って火にかけた鍋《なべ》の具合を見た。

 とうに夕食の仕度はできていた。ちょっと前にお兼さんは帰り、仕事場から男たちが出て来ると、にぎやかな食事がはじまる筈であった。瑤子はもう盆にのせて揃《そろ》えてある食器類を居間へ運んだ。

「冬子さん、手伝いましょうか」

 いつの間に来たのか、別な若い男が悪戯《いたずら》っぽい顔でささやいた。

「こら、島本」

 また岡崎が仕事場から呶鳴る。

「一人だけいい子になろうとしたって、そうはさせんぞ」

 島本はちょろりと舌をのぞかせ、あわてて居間から戻って行く。

「どうにもならんな。みんなこの時間になるとそわそわしはじめる」

「先生だって」

「ばか」

 そして若々しい笑い声。瑤子はその笑い声を救いのように感じると同時に、羨《うら》やんでもいる。その声は疑いもなく、春を待つ人の声だった。

 いつか自分もあのように笑えるだろうか……。瑤子は椅子の上から編物をとりあげて、居間の飾棚《かざりだな》の横へ置きながらそう思った。

 たとえばこの編棒。

 瑤子は使い込んだ古い竹の編棒を左の薬指の腹でそっと撫《な》でた。赤みがかった飴色《あめいろ》をしていた。亡くなった岡崎の妻が使っていたものだ。それをお兼さんが押入れから探し出して来てくれたとき、瑤子は恐ろしいような気がして、すぐには手に取れなかった。

 それは笑いながら春を待った人の持物だった。人に信じられ、人を裏切らず、この世界のどこに立っても、かげりのない心で顔をあげていられる人が使い込んだ品なのだ。

 瑤子は細長いボール箱に入ったその古い編棒に、何日も手を触れることができずにいた。私はこの家に新しく来た、ただのお手伝いさんなのだと、いくらそう思い込もうとしても、その編棒に手を触れることが、岡崎の亡くなった妻を冒涜《ぼうとく》するようで、出来なかったのである。

 敵を持つということは、恐ろしいことだった。自分一人が追われるだけではすまないのだ。敵からのがれるためには、その逃げ道にある何かを傷つけずにはいられないようだ。本来なら行く必要のない場所へ駆け込んで、そのあたりを踏みにじってしまうのだ。

 自分は今、あの立派な体格をした岡崎の心に爪《つめ》を立て、暴れまわっているのではないだろうか……。瑤子はそんな風に感じている。

  2

「あなたのおかげで、こいつらこの冬は誰《だれ》も休まん」

 にぎやかな食事のあとで、岡崎がそう言って笑った。

「休むものですか」

 弟子の一人が即座に言った。

「抜け駆けをされてはかないませんからね」

 瑤子は笑いながら台所へ逃げた。

「おかしいぞ」

 岡崎が言っている。

「お前ら、俺のことを勘定に入れておらんのと違うか」

「先生ですか……」

 一人がわざと驚いたような声で言う。

「何の勘定に入れるんですか」

「冬子さんのだよ」

「冬子さんがどうかしたのですか」

「こいつ、師匠をからかう気か」

「そりゃ、僕らは皆、冬子さんに憧《あこが》れていますよ。でも先生は……」

「俺は別か」

「ええ。競争圏外です」

「なぜ」

「だって、年齢が。なあ」

「そうですよ。年が違いすぎますよ」

「違わん」

 岡崎が大声を出す。勿論《もちろん》ふざけているのだ。

「俺だって独身だぞ。それより加藤、お前はちゃんともう恋人がいるじゃないか。お前こそ圏外だ」

「やめてくださいよ、そんな大きな声で。台所に聞こえてしまいます」

「聞こえたほうがいい。そうだ、お前だってデートとか何とか言って騒いでいたな。加藤もお前も圏外だ。ざまみろ」

 仕事場から出た岡崎は、青年たちの師匠というより、餓鬼《がき》大将と言った感じになる。

「あの大声はもう少し何とかならないものですかね」

 台所へ手伝いに来ていた弟子の一人が小声で瑤子に言った。もう一人は黙々と食器を洗ってくれている。

「久野さん、いいんですよ。私があとでゆっくりかたづけますから」

 瑤子はその青年に言った。

「ここの台所はお湯が出ませんから」

 久野は静かな声で答え、洗いつづけている。

「そうですよ。先生は案外大ざっぱだから気が付いていないんです。お湯が使えるようにしろって言いましょうか」

「やめてください」

 瑤子は思わずきつい声になった。

「そんな必要はありませんわ」

「でも、手が荒れますよ」

「かまいません。冬は冷たいのが本当ですもの。昔の人は風の吹き込むもっと冷たい台所でお仕事をした筈でしょう」

「でも今は湯沸器がありますよ。この家だってプロパンを使っているんだし」

「とにかくいいんです。先生に変なことをおっしゃらないでくださいね」

 瑤子が言うと、久野がかわりに答えた。

「言いませんよ」

 瑤子は久野のそばへ行き、

「さあ、かわってください。あとは私がしますから」

 と言った。久野はさからわずに流しをあけ、腰にはさんだタオルで手を拭《ふ》いた。

「お兼さんがこういう所を見たら憤《おこ》りますね」

「どうして」

「お兼さんがやっていたときは、誰も台所へなんか来はしなかったから」

「そうよ」

 瑤子は笑いながら言う。

「だから早くあちらへ戻ってくださいね」

 二人の男は、

「はあい」

 と子供のような返事をして台所を出て行った。

 瑤子は冷たい水に手をひたした。そしてふと、また岡崎の妻のことを想った。

 冬が来るたび、その人もこの冷たい水に手を濡《ぬ》らしていたのだ。自分は今、同じ冷たさを感じている……。

 瑤子は急にうろたえた。

 なぜ亡くなった岡崎の妻のことを考えはじめているのだろう。自分の心がゆるみはじめているのではなかろうか……。気にする必要はないのだ。気にするなら、その人が寝起きしていたこの家にいること自体を気にしなければならなくなる。

「あなた、助けて……」

 瑤子は顔の中心あたりが痺《しび》れるように感じた。その痺れは涙を引き出して来る痺れであった。

 弟子たちも師匠も、この家の男たちはみな好人物ばかりであった。ことに岡崎は、逃げ込んだ瑤子を疑いもせず、語りたがらないことは強いて尋ねもせず、ただいつまでもいて欲しいと寛大に言うだけであった。

 頼るもののない女の身が、そのような寛《ひろ》い心についすがって行くのはとめようのないことであった。あなた助けて、とつい声に出して言ったのは、害意のないその強い力に引き寄せられて行きそうな自分を、励まさずにはいられなかったからである。

 岡崎唯士は完成に近づいた男であった。この世の中に無造作に突っ立って、ゆるぎのない自分の居場所を確保していられる強い男だった。それにくらべると、夫の野川邦彦はずっとひよわで未熟だった。しかし、その二人には瑤子にとってくらべることのできない差があった。瑤子が愛しているのは邦彦のほうなのだ。しかし、それでもなお……どこからか冬の風が吹き込んで来るようだった。

  3

 弟子たちはみな通いで、夜になるとその家は岡崎と瑤子の二人きりになってしまうのだった。

 が、その晩は客があった。瑤子にとっては、はじめて見る顔であった。

「あの、田辺ですが」

 その青年は玄関に立って、瑤子を眩《まぶ》しそうな顔で見ながら言った。

「あ、田辺先生の……」

 岡崎の友人で画家の田辺清次郎に息子が一人いると聞いていたが、瑤子は何となく高校生くらいの年齢に感じていた。しかし、目の前に立っているのは夫の邦彦とさして違わない年齢の男だった。

「どなたかね」

 奥から岡崎が尋ねた。

「田辺です。今晩は」

 その男は瑤子に笑顔を見せながら自分で答えた。

「圭介《けいすけ》君か」

「はい」

 瑤子は体を壁際へ寄せて田辺圭介を迎え入れた。

「お邪魔します」

 圭介は瑤子にそう言うと、勝手知った様子で勝手口へ抜ける土間を進み、その左側にある黒タイルのスペースへ入って靴を脱いだ。

 瑤子はそのあとから、圭介の靴を揃《そろ》え直して廊下へあがり、台所へ入った。

「よう、久しぶりだな」

「ごぶさたしております」

 二人の声が台所へ筒抜けに聞こえている。瑤子は手早くコーヒーの仕度をしてその居間へ向かった。

「そうか、冬子さんははじめてだったな。これは田辺の一人息子で圭介君だ」

 冬子はあらためて頭をさげた。

「冬子でございます。どうぞよろしく」

 明るい居間の光の中で、圭介は少しぎごちなく、

「田辺です」

 と挨拶《あいさつ》した。

「ブランデー・コーヒーでは……」

 瑤子が岡崎に訊《き》く。

「おお、結構だね」

 岡崎は大きく頷《うなず》いて見せ、

「どうだ」

 と圭介に言った。

「親父に聞いているだろう」

 それが瑤子のことだと言うのは岡崎の視線と表情ですぐ判った。

「ええ」

 圭介はあいまいに答えた。

「何と言ってる、あいつは」

 岡崎は瑤子に対する田辺の評価を、是が非でも聞き出してやると言った意気込みで尋ねている。

「親父に聞いていた通り、美しい方ですね」

 岡崎はさもありなんと言うように笑い、

「いよいよもって、これは用心をせんといかんな」

 と、大げさに腕を組んで見せた。

「用心……」

 圭介が怪訝《けげん》な表情になる。

「そうだよ。田辺清次郎は冬子さんに恋をしているらしい」

「およしください」

 瑤子は笑いながらたしなめた。

「そんな風におっしゃると、私が困ります」

 岡崎はかまわずにずけずけと言う。

「君が困ることはない。老いらくの恋の相手などしなければいいだけだ」

「老いらく、と言っても、うちの親父と先生は同い年の筈ですよ」

「や、さすがに倅《せがれ》だな。親父の肩を持つか」

「そんなわけでもありませんがね」

 圭介は当惑したように瑤子を見た。

「お二人は随分仲のいいお友達でいらっしゃいますわね」

 瑤子は助け舟を出した。

「そうなんですよ。先生とは無二の親友なんです」

 圭介は微笑を泛《うか》べて言った。

「ところがこれは不肖の倅で、洋画家の父を持っているくせに絵筆を握る気もないらしい。焼物に熱をあげているんだよ」

「まあ、そうですの」

「ここの先生の子供に生まれればよかったんです」

 圭介は半ば本気のように言う。

「陶器や磁器にそんなに興味がおありなんですの」

 瑤子はサイフォンのバーナーに点火しながら言った。

「それはもう……でも父や先生のような才能がないものですから」

 すると岡崎が叱《しか》りつけるように言う。

「やればいいんだ、やれば。才能、才能とふたこと目にはみなそう言うが、才能など手を動かしていればあとからついて来るものなのだ。才能が問題になるのは、百年、千年に一人と言うような天才のことだ。才能ということを言えば、この俺だって今すぐに手を動かすことをやめて見物人の側へまわらねばならなくなるじゃないか」

「でも僕は、その見物人の側ですよ。だから絵筆にも土にも触れず、しがないサラリーマンで我慢していられるのです」

 瑤子はコーヒーカップを温めるために、熱い湯をそそぎながら言った。

「あら、お勤めですの」

「ええ」

「どんなお仕事をなさっていらっしゃいますの……」

「東日機材の金沢支店に勤めています」

 圭介は淡々と答えたが、瑤子の手の動きが一瞬凍りついたようになった。

  4

「画家も陶芸家も、こころざしてそれになれれば申し分はないが、へたをすれば糸の切れた凧《たこ》のような人生を送ることにもなりかねない」

 岡崎は自分の過去をふり返るような目で言いはじめた。

「田辺が圭介君に対して何も言わん気持は俺にもよく判るよ。君は堅実な道を選んでいる。一人息子に向かって、敢《あ》えて親に気を揉《も》ませるような人生を選べとは言いにくかろうからな。しかしな、田辺は決してそれで満足しているのではないと思うぞ。ひょっとして、君が今にも会社をとび出して、何か好きなことをやりはじめるのではないかと期待しているのが、俺にはよく判るんだ。絵でも小説でも、何でもかまわん。そういうことに手を出す気はないか」

 瑤子はやっと落着きを取り戻し、サイフォンのコーヒーが沸き立つのをじっとみつめていた。

「先生のおっしゃることも親父の気持もよく判ります。でも、創《つく》り出す仕事はどうも僕の性に合っていないような気がするのですよ。その点、我ながらいくじのない男だとは思いますけれど、やはり見物人……よく言えば鑑賞する側でいたいですね。そういう立場でなら、もっともっと突っ込んで研究もして行きたいし」

 岡崎は豪快に笑いだした。

「やれやれ。今に俺は田辺圭介という批評家の餌食《えじき》にされそうだぞ」

 コーヒーが一気に沸きあがって行くところだった。

 東日機材の金沢支店。

 瑤子の耳には、岡崎の大声よりも、圭介のその言葉がいまだに大きく谺《こだま》しているようであった。

 夫の噂《うわさ》が聞ける。

 瑤子はそう思うと矢も楯《たて》もたまらなくなりそうなのを、じっとこらえていた。たしかに邦彦は雪の金沢へ来ていた。社用で出張して来たに違いない。だとしたら圭介は邦彦が金沢のどこに泊っているかも知っている筈だった。

 会える。圭介にひとこと言えば夫に会えるのだ。テレパシーなど使わなくても、当たり前の言葉で、突然姿を消したわけを話せるのだ。

 サイフォンのコーヒーをカップへ移すとき、瑤子は自分の指がかすかに震えているのを感じた。

 夫はすぐそばへ来ている。わけを話せばすべては解決するのだ。

「会社はどちらですの」

 その言葉はまるで瑤子の意志とは関係ないもののように唇《くちびる》から出てしまった。

「県庁の近くです」

 圭介は軽く言った。

「支社と言いますと、本社はやはり……」

「ええ、東京です」

 瑤子は圭介の話題を東日機材の本社のことへ向けたかったのだ。

 しかし、岡崎は敏感に何かを察したらしく、瑤子の横顔をじっとみつめていた。

「どんなお仕事ですの」

 岡崎のそういう気配を感じては、瑤子も話をそらさぬわけには行かなかった。

「事務機を扱う会社です。近頃《ちかごろ》はうちの製品もだいぶ普及しましたから、オフィス勤めの方ならたいてい名前くらいは知ってくれていますが、あなたのような方には余り縁のない商品でしてね」

 圭介は卑下するようにそう言い、

「親父から言いつかって来まして」

 と、持って来た風呂敷《ふろしき》包みをといた。

「おお、修理ができたか」

 圭介が取り出した箱を見ると、岡崎はうれしそうにそれへ手を伸ばした。

 箱から出て来たのは人形だった。しかし、ただの人形ではなく、オルゴールつきの機械人形だった。

「こういう物はやはり東京でないと修理ができんのだ」

 岡崎はそう言い、ネジを捲《ま》きはじめた。どうやら圭介はそれをすでに知っているらしく、珍しくもなさそうな顔で見ていた。

「まあ、精巧にできているのですね」

 瑤子が言うと、岡崎は子供が玩具《がんぐ》を自慢するときとそっくりの表情で、

「見ていてごらん」

 と台のどこかを指で押した。

 オルゴールの曲は瑤子が一度も聞いたことのないものであった。そして人形は上の瞼《まぶた》を動かし、同時に腕をあげさげしながら、台の上でゆっくりと回転しはじめた。

「オランダ製だよ。十八世紀もだいぶ早い頃に作られたものなんだ」

 物哀しいメロディーだった。瑤子は人形の動きに見とれるふりをして、ちらりと圭介の横顔に目をやっていた。

 どこか図太そうなところのある父親の田辺清次郎とくらべると、圭介は若いくせに少し影の薄い感じがあった。しかし、その分清潔そうで、正直な人物らしかった。

「よければ君の部屋に飾っておきなさい」

 人形が台の上を一回転しおわったとき、岡崎はそう言って動きをとめさせた。

「大切なお品なのでしょう」

 瑤子が訊く。

「うん、まあね。しかし、故障で動かなくなってからもう随分たつ。それを直す気になったのは、君の部屋へ置こうと思ったからさ」

 すると圭介が笑った。

「先生じゃこれは似合わないもの」

 たしかに、優雅で可憐《かれん》なその人形は、どう見ても岡崎には似つかわしくなかった。

  5

 圭介が帰ったあと、岡崎は風呂へ入った。その間に夜具をのべ、戸締りを見てまわるのが瑤子の役目であった。洗濯《せんたく》はお兼さんが引受けている。それも岡崎の紳士的な配慮からであろう。しかし、とかく色眼鏡で見がちな世間の目からは、ひとつ屋根の下にいる今の岡崎と瑤子のことがどう映って見えるか、考えるまでもないことだった。

 雪が融けるまで。瑤子がこの安穏なかくれ家での生活に、そういうめどをつけているのも当然なことであろう。雪融けと共に、噂《うわさ》が一気に流れ出すのは目に見えていた。

「ああいい湯だった」

 岡崎はそう言いながら、丹前に帯を巻きつけて居間へ戻って来た。

「何か召しあがりますか」

 瑤子が訊いた。

「うん。ブランデーをもらおう。ナイト・キャップという奴か。考えて見ると、俺も生意気なことをするようになったもんさ」

 岡崎は冗談めかして言い、いつもの場所にどっかとあぐらをかいた。

「シングル……」

「いや、ダブルにしてくれ」

 岡崎はそう言い、瑤子がブランデー・グラスを真横に近く寝かせる手つきを見ていた。

「まったくふしぎな人だ」

「またですの……」

 瑤子はそう笑う。

「またでも何でも、ふしぎなものはふしぎさ。そうじゃないか。お茶と言えばお茶で、君は見事に作法通り、いや、それ以上に心得切った自在さでこのわたしにお茶を楽しませてくれる。料理も上手だし、花を活《い》けさせても立派なものだ。おまけにブランデー・グラスの扱い方まで心得ている。これがふしぎでなくて何だと言うんだい」

「そうでしょうか」

 瑤子は岡崎の前へグラスを置きながら言った。

「正規の寸法で作られたブランデー・グラスは、テーブルの上へ横にして自然に置いた場合がダブルの分量になるようにできている。それを水平の位置になるよう尻を持ちあげるとシングルだ。しかし、そんなことも今どきのバーの連中は誰も知らなくなってしまっている。言いたくないことだが、今のような君のやり方を見ていると、つい訊いてしまいたくなる」

 岡崎はそこで一度口をとじ、じっと瑤子をみつめてから、あらたまったように言った。

「どこで教わったのかね。いや、誰に習ったのかね」

 瑤子は黙ってうつむいていた。

「まあいい。判っていながら訊いたわたしが悪かったのだ」

「いいえ」

 瑤子は細い声で否定した。私がいけないのです、と言う意味であった。

「君は東京の人だ」

 岡崎はグラスを掌《てのひら》に入れてゆすりはじめながら言った。

「圭介君に、さっき東京の話をさせようとしていたじゃないか」

 声が沈んでいた。

「東京が恋しいのだね」

 沈んではいたが、優しい声だった。

「なぜこんな所へ逃げて来たんだ。何があったのかね。いや、わたしは君の力になりたいのだよ。たとえばあの圭介君だ」

「え……」

 瑤子は顔をあげて岡崎を見た。

「そう、圭介君だよ。たとえば彼と君が恋をしてくれてだ」

 岡崎の顔には優しい微笑が泛《うか》んでいた。

「もし結婚と言うようなことにでもなったら、わたしは本当に自分をしあわせに思うことだろうな」

「圭介さんと私……」

「たとえばの話だよ。わたしは圭介君が好きだ。彼の父の田辺とも親友だ。そして、君が彼と結婚してわたしや田辺の身辺でしあわせな人生を送ってくれたとしたら、どんなにうれしいことかな」

 岡崎は瑤子から目をそらし、夢を見るような目になった。

「あいにく君が若くて美しい女性だから、なんとなく話がややこしくなってしまうが、今言ったことがわたしの本心だ。もうひとつたとえさせてもらえば、さっきの人形さ。わたしは外国の町であの人形を見かけた。そうしたら、もう、一歩もそこを動けなくなってしまったのだよ。綺麗で、可愛らしくて、そして何かいじらしくて……こんなものが自分の人生の外に存在するのは許せないと言った気持になったんだ。わたしは欲が深いのだろうか。圭介君にからかわれたが、たしかにあの人形はわたしのような男には似つかわしくない。しかし、美しいものを感じる心は同じだ。外見がどんなだろうと、稚《おさな》かろうと老成していようと、そんなことは問題じゃない」

 岡崎はブランデーをひと口含んでから、しんみりと言った。

「冬子さん。いや、それもかりそめの名かも知れんが、わたしにとってもう君は冬子なのだ。……ひとつ約束してくれんか」

「お約束を……」

「そうだ。君の置かれている状態がどう変化しても、これからの人生で、わたしと接触を絶やさないで欲しい。それさえ約束してくれれば、いつか君が不意にここから姿を消す日がやって来たとしても、わたしは悲しまないですむ」

 この人は何もかも見通している。瑤子はそう思い、また自分の体に、雪が重く降りつもったのを感じた。

 奥能登の波

  1

「地図で見ると、このあたりは能登《のと》半島の項《うなじ》だな」

 ハンドルを握った岡崎唯士が言った。

「項ですか」

 うしろのシートで田辺圭介が軽く笑ったようだった。

「あまり綺麗《きれい》なえり首じゃないな」

「婆さんのえり首か」

 男二人は声をあげて笑った。

「でも、素敵ですわ」

 岡崎のとなりに坐《すわ》って瑤子が言った。和服を着て、二つに畳んだショールを膝《ひざ》の上にかけていた。

「ドライブ・コースだとおっしゃるので、ちゃんと舗装してある道路だとばかり思っていましたのに」

 ブルーのボルボは海岸の砂地を疾走している。細かな砂に海水がしみこんで堅くしまり、舗装道路そこのけの安定した走路になっているのだ。

 冬の北陸としては珍しく晴れあがった日で、ただ風が強く、左側にはその砂浜に打ち寄せる日本海の波が、白い牙《きば》のようにたけだけしく見えている。

「舗装道路よりこのほうがよほどいい。だいいち車の音がここへ来ると柔らかくなる」

 シーズン・オフなのでほとんど車影はなく、岡崎は思い切りアクセルを踏み込んでいるようだった。ボルボはずっしりとした安定感があり、シートが瑤子の体をうしろからそっと抱きしめるように支えてくれていた。

 土曜日の朝であった。岡崎は前の晩、急にいつか言っていた奥能登へのドライブをすることにきめ、田辺清次郎に電話をしたが、田辺は都合が悪いらしく、圭介をかわりに寄越したのだった。

「寒くないだろうね」

 岡崎が訊《き》いた。

「暖かすぎるくらいですわ」

 瑤子がそう言うと、うしろで圭介が、

「車の外へ出る時は気をつけないといけませんね。うっかりすると風邪《かぜ》を引いてしまいますよ」

 と注意した。車内は充分に暖かだが、外には冷たい風が吹いていたし、その砂のドライブ・コースの右側には雪がつもっていた。

「そうですね」

 瑤子は圭介の忠告を素直に聞き入れて、羽織を脱《ぬ》ぐと畳みはじめた。

「風邪くらい引いてもかまわんよ」

 岡崎は前を向いたまま言った。

「君が寝込んだらみんながよろこぶだろう」

「あら、なぜですの」

「介抱できるからさ」

 岡崎は当たり前だと言うような顔であった。

「おや、何かやっていますね」

 圭介が岡崎と瑤子の間へ顔を突き出すようにして前を見た。

「そうだな」

 ずっと前方に車が何台も停《と》めてあり、人が動いているのが見えた。

「あれはロケだな」

 岡崎はそう言って車のスピードをゆるめた。

「映画のロケーション……」

 瑤子は圭介に訊いた。

「さあ……そうですね。人数も車も多いし、スチール撮影ではないようです。でも、コマーシャルかもしれないし」

「いや、あれはテレビ局の車だよ。テレビ・ドラマのロケーションだろう」

 岡崎が言った。たしかにテレビ局のマークをつけた車が見えはじめていた。

「見ろ。あの女優はよくテレビに出ているぞ」

 白いパンタロンに薄茶の毛皮のコートを着た女優が、波打際にこちらを向いて立っていて、キラキラと光る反射板を持った男がその前にしゃがんでいた。すぐそばにカメラがあり、十二、三人の男女がそれをとりかこんで何かやっていた。

 岡崎はそこを低速で通りすぎると、またアクセルを踏み込みながら、ウフフ………と笑った。

「何がおかしいんですの」

「誰《だれ》かさんのことをドラマに仕立てたら、きっとあんな場面を撮影することになりそうだと思ったのさ」

 瑤子は苦笑した。

「冬の千里浜を一人|淋《さび》しく歩く謎《なぞ》の美女、か」

「やめてください」

 瑤子は笑って言った。

「いいじゃないか。謎の美女だもの」

「冬子さんが困っていますよ」

 圭介が言うと、岡崎ははじけたように笑い出した。

「また一人、冬子ファンが増えたな」

 圭介は照れたのか、体を引いてうしろのシートによりかかった。

「あの女優より冬子さんのほうがよほどいい。それは、あの女優だって美人には違いないが、所詮《しよせん》はお芝居だ。いくら謎めいて見せたところで、本物にはかなわん」

「私はそんなに悪い女ですの」

「いや、悪いなどとは言ってはおらん」

 瑤子の言い方が恨めしそうだったので、岡崎はちょっと慌《あわ》てたようであった。

「ただ謎めいていると言っただけさ」

「謎って、悪いことではないでしょうか」

 瑤子は自分の胸に湧《わ》いた悲しいものを、つとめて外にあらわさぬように気をつけながらそう言った。

  2

 能登の雪景色は、まるで墨絵《すみえ》を見るようであった。雪が色彩を吸い取って、影の濃淡だけを許しているように思えた。白い波頭を立てて荒れる海も、その黒白の絵を引き立たせる役を果している。

「どうだね、能登の雪は」

 ボルボは海ぞいの道を走っていた。

「綺麗ですわ」

 瑤子はため息まじりに答えた。

「気持が鎮《しず》まります」

 すると岡崎は、ひどく沈んだ声で言った。

「そうかも知れんな」

 瑤子は岡崎が言おうとしたことの見当がつきかねて、その横顔をみつめた。

「君の心の中の絵がこんな風だとすると……ちょっと哀《かな》しいよ」

 瑤子は言い当てられたと思った。たしかに能登の雪景色は、今の瑤子の心理状態にしっくりと合うのであった。すべてが重く冷たいものにおしつつまれていた。色を消し、息をつめ、ただその重く冷たいものが去るのを、ひっそりと待っているだけであった。

「先生を哀しませたくありません」

 瑤子は詫《わ》びのつもりで言ったが、それを岡崎がどういうように受取ったかは、はっきりしなかった。

「そうそう」

 圭介が雰囲気《ふんいき》を変えるように明るい声で言った。

「この間お届けした機械人形はどうしました」

 瑤子もそれに合わせて笑顔で答えた。

「私のお部屋に飾らせてもらっています。もうあのオルゴールのメロディーを憶《おぼ》えてしまいましたわ」

 そう言って、瑤子はハミングした。

「ああいう品は僕も大好きなんですよ」

「それじゃ、先生に言って譲っていただいたら……」

 すると岡崎は憤《おこ》ったような声で、

「譲ってやるものか」

 と言った。

「まあ……」

 瑤子は呆《あき》れたように圭介を見て笑った。

「ただし自分のものにする方法はあるぞ」

 岡崎はニヤニヤしはじめた。

「どうすればいいんです」

「俺はあの人形を冬子さんにプレゼントした気でいるよ」

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