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作者: 当前章节:15399 字 更新时间:2026-6-23 00:12

 しばらく沈黙が続いた。瑤子も圭介も、岡崎の言った意味を悟ったのであった。

「それで……」

 圭介は瑤子の顔から目をそらし、わざと訊いたようであった。

「君も判らん男だな」

 岡崎はからかうように笑った。

「彼女にプロポーズしてしまえばいいんだ。うまく口説き落せばあれは君のものになるじゃないか」

「人形のためにですか……」

 圭介はそれを冗談にして、笑いながら瑤子に視線を戻した。

「似合いだよ、君たちなら」

 ボルボは岩肌《いわはだ》の露出した崖《がけ》の下を曲った。バスがクラクションを鳴らしてすれ違って行った。

「先生はもう再婚しないんですか」

 圭介が尋ねる。

「ああしないよ」

「なぜです」

「もう年だ」

「まだそんな年じゃないですよ」

「土をいじっているだけで、もう充分なのさ。それに俺は、死んだ女房をまだ愛している」

 岡崎は淡々と言い、

「こんなことを言えるのは年をとった証拠かな」

 と笑った。

「この辺は何という所ですの」

 瑤子は話をそらせようと思った。

「間もなく曾々木《そそぎ》だよ」

 岡崎が言った。

「時国家などへ連れて行きたい気もするが、山へ入るのはやめておこう」

「この雪ですからね」

 圭介もそれに同意していた。

「しかし、このまま大谷から飯田へ抜ける分には面倒なかろう。雪の九十九《つくも》湾もいいものだぞ」

「どこか、魚料理を食べさせる店へ寄りたいですね」

「うん。今は魚が一番うまい季節だ。しかし、そうしたら次は君が運転してくれよ」

「あ……しまった」

 圭介は大仰に頭を掻《か》いて見せた。

「今頃気がついても遅いよ」

 岡崎が笑う。

「どういうことですの」

 瑤子が訊いた。

「酒ですよ」

「お酒……」

「先生は魚料理で一杯やる気なんです」

「まあ」

「いいか、冬子さん。圭介君には絶対に飲ませてはいかんぞ。ドライバーに飲ませてはいけないのだ」

「一杯くってしまった」

「一杯飲むのはこっちだよ。ほろ酔いで車に揺られてうとうとするのはいい気分だからな」

 岡崎はたのしそうだった。

「雪見酒だ。俺はイカを食いたい。コリコリした奴をな」

「どうぞご自由に。そのかわり、和倉《わくら》に着いたら僕も思いきりやらせてもらいますからね」

 三人は和倉温泉に泊る予定だった。

  3

 和倉温泉の宿へ入ってすぐ、岡崎は瑤子の部屋をのぞいたらしく、

「何だ、君の部屋は洋間じゃないか。けしからんな」

 と言って、その十畳の部屋へ戻って来た。瑤子はまだ自分の部屋へ入っていなかった。

「私はかまいません」

「艶《つや》消しだよ。能登へ来てベッドで寝るなんて」

 岡崎はそう言いながら、さっさと服を脱いで宿の丹前《たんぜん》に着がえてしまった。

「下に大浴場や家族風呂があるし、部屋にも風呂がついている。どちらでもかまわんが、君も先に風呂へ入って来るといい」

「それでは私はお部屋で」

 瑤子は床の間を背に坐った岡崎へ、余り上等ではないお茶をいれてやってから、そう言って立ちあがった。

「俺たちは大浴場へ行って来る。食事のことはもう言ってあるから、湯からあがったらすぐに宴会と行こう」

 岡崎はその宿に顔がきくらしく、入口では主人夫婦に叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》されたりしていた。

 瑤子はその十畳の和室を出ると、自分が当てがわれた洋間の前に立ち、ハンカチを出すと把手《ノブ》を包むようにしてドアをあけた。

 本当を言うと、冬のホテルは苦手《にがて》だったのである。乾燥している上に換気装置が一日中働いているから、静電気が起きているのだ。うっかり把手《ノブ》や鎖などの金属部分に手を触れると、ビリッと痺《しび》れるのだ。

 だからバスルームへ入って蛇口《じやぐち》をひねり、湯加減を合わせて浴槽《よくそう》を満たしはじめると、バスルームのドアをあけ放して蒸気が部屋のほうへ流れて来るようにした。しかし、温泉ホテルだから静電気のことは心配ないようであった。瑤子はダブルベッドの端に浅く腰をおろし、しばらくぼんやりと湯の落ちる響きを聞いていた。

 贅沢《ぜいたく》を言ってはいけない。

 そう感じた。追われる身にしては随分しあわせな生活をしているのだ。何不自由なく、身綺麗《みぎれい》に過せているではないか。好人物にとりかこまれて、ちやほやされているのだ。

 悲しむことはない。気を強く持たなければいけない。

 瑤子はそう自分に言い聞かせたが、岡崎ばかりか圭介までが示しはじめた異性としての態度を考えると、やはり気が重くなってしまうのだった。

 どうしたら彼らの心を傷つけずにすむだろうか……。それは至難のわざに思えてならなかった。

 やはり去るしかないのだろうか。

 瑤子は立ちあがると、カーテンを細く開いて外を眺《なが》めた。その窓はとなりの旅館の裏手に向いていて、屋根の上のネオンが、降り積った雪を赤く染めていた。

 私を追うのは敵だけではないのだ。

 瑤子はそう思った。救いの手をさしのべてくれる人々の好意までもが、結局は瑤子を隠《かく》れ家《が》から追い出してしまうようであった。

 瑤子はため息をつくと窓をはなれ、バスルームをのぞいた。もう湯が溢《あふ》れそうになっており、瑤子はたもとをおさえて蛇口をしめた。

 部屋へ戻って着物を脱ぐと、宿の浴衣《ゆかた》を素肌《すはだ》にかけてまたバスルームへ入った。浴槽に沈むと、湯が小気味よい音をたてて溢れた。とたんに湯気が籠《こも》り、乾いた感じだったバスルームが優《やさ》しく曇った。

 のぼせる程湯につかり、瑤子は時間をかけて丹念に体を洗った。湯気に包まれていると、追手がいることも忘れるのだった。

 髪を包んだバスタオルを少し重く感じはじめた頃、瑤子はやっとバスルームを出た。いい気分だった。しかし、時間をかけすぎたような気がして、浴衣の上に丹前を着ると、急いで廊下へ出た。

 岡崎たちの和室の入口の格子戸はあいていたが、入口にはスリッパが一つしかなかった。

「すっかりのんびりしてしまって……」

 そう言いながら踏み込みの三畳間へ入り、あいた襖《ふすま》から中を見ると、

「ちょうどお仕度ができたところです」

 と宿の女中さんがテーブルの前を離れた。欅《けやき》のテーブルの上に、所狭しと料理が並んでいた。

「お嬢さまのところへはサイダーをお置きしておきました」

 女中さんはそう言うと、まだ何かを運んで来る様子で、急いで部屋を出て行った。

 瑤子はその席へつこうとして坐りかけたが、急に体を硬《かた》くした。

 床の間に、さっきまでなかった物が置いてあるのだ。

 大きな鉢植《はちう》えのオオスギゴケであった。岩山に見たてた石が中央にあり、びっしりと見事に生えていた。よほど大事に育てているものなのだろう。

 不安が湧《わ》きあがるのを、瑤子は深く息を吸っておさえた。

 なんでもない。ただの飾りなのだ。

 そう思おうとしたが、気が付くと手をしっかりと握りしめていた。

「やあ、待っただろう」

 岡崎たちが戻って来た。

「お、いいタイミングだな」

 女中さんも入口で一緒になったらしい。ビールが二本、ひと足先にテーブルにのせられていたが、そのほかに銚子が四本ひとまとめに届いた。

「艶やかだなあ」

 岡崎は湯あがりの瑤子にみとれて、立ったままそう言った。

  4

 岡崎も圭介も、床の間の苔《こけ》には気が付かない様子で、

「まずビールだな」

 と言いながら坐った。女中さんが素早く栓《せん》を抜く。

「最初の一杯だけは君も付合ってくれ」

 岡崎はそう言い、瑤子も微笑してグラスを持った。

「さあ、何の為か知らんが、とにかく乾杯」

 岡崎が言い、三人はグラスを合わせた。

「寒いから窓があけられん。しかし雪見酒は雪見酒だ」

 一気に飲みほして岡崎が言った。女中さんがすぐに注ぐ。

「どうした、湯ざめでもしたのか」

 岡崎はやはり圭介より気が付く。瑤子の顔を見てそう尋ねた。

「いいえ」

 瑤子は苔を忘れることにした。思い切ってビールを半分ほど飲んだ。

「お、凄《すご》いじゃないか」

 岡崎はうれしがった。

「よかったら日本酒もあるんだよ」

 瑤子は笑った。

「とんでもありませんわ」

「酔ってもいいぞ。二人がかりで介抱してやる」

 圭介はそれを聞いて苦笑を泛《うか》べていた。

「酔わせて訊《き》きたいことがある、ってな」

 岡崎は上機嫌《じようきげん》であっさりビールを一本あけると、

「さあ酒だ酒だ」

 と盃《さかずき》を持った。

「まるでビールはお酒じゃないみたいですのね」

「ビールは酒じゃないさ」

 女中さんの酌《しやく》を受けながら言う。

「ビールは飲物さ。ただの飲物」

 瑤子はイカの刺身《さしみ》に箸《はし》をつけた。

「あら……」

「どうした」

「柔らかいんですね」

 すると圭介が教えてくれた。

「途中で食べたイカの刺身はもっとコリコリしていたでしょう」

「ええ」

「獲《と》った魚は朝早くに岸へあがるんです。だからあの時間だとまだ堅い。でも、もう柔らかくなっているんですよ。しかし、柔らかいと言ったって、東京あたりのとはわけが違う」

「そうだよ」

 岡崎もイカを口へ入れて言った。

「能登の海ぞいでは、朝からイカ刺しを食う家が多いんだ」

「まあ、朝ご飯からですか」

「そうさ。それも、こんな上品な並べ方をしたんじゃなくて、もっと細長く切って、どんぶりにいれて掻《か》き込むように食べるんだぜ」

「おうどんみたいに……」

「そう。すすり込んでしまうのさ」

「おいしそう」

 瑤子が言うと、圭介はうれしそうに笑った。

「そう言えば、東尋坊《とうじんぼう》という所を通りませんでしたわね」

 しばらく飲み食いが続いたあと、瑤子は思い出したように言った。すると女中さんが笑った。

「おいおい、東尋坊は反対側だよ。通らなかったわけさ」

「あら、そうでしたの。反対側と言うと、どっちの……」

「永平寺《えいへいじ》があるほう、と言ったら判ってもらえるかな」

「ああ、富山のほうですのね」

「これだ」

 岡崎は呆《あき》れて見せた。

「嫌《いや》になるな。どうして女性にはこう方向オンチが多いのだろう」

 すると女中さんが、圭介の盃に銚子《ちようし》を傾けながら言った。

「女の目玉は内側に向いているのだそうですよ」

「参った。この人はうまいことを言うね。そうかい、内側へ向いているのかね」

「わたしらの所では、昔からそういうことを言います」

「男は外ばかりキョロキョロ見まわしているが、女はじっと内側をみつめているわけだな」

「それで方向オンチになる」

 圭介が笑った。

「君はやはり内側を見ているのかね」

 岡崎は瑤子に尋ねた。

「さあ……」

「いったいその綺麗な目が何を見ているのか知りたいもんだ」

「そうですね」

 圭介が頷《うなず》いた。

「やめた」

 岡崎は盃をほすとテーブルに置き、

「冬子さん、そのあいているコップをくれないか」

 と手を出した。

「これですか」

 瑤子はサイダーの瓶《びん》のそばにあったグラスを渡した。

「小さいのでは面倒でいかん」

「いいんですか……」

 圭介がからかうように言った。

「君は二日酔してはいかんぞ」

「あ、明日も僕が運転するんですか」

「きまってるさ」

「やれやれ」

 圭介はまた笑った。

「お邪魔いたします」

 その時宿の主人が入って来た。

  5

 苔《こけ》を床の間へ飾らせたのはその主人だった。

「いや失敬した。酒にばかり気をとられて、気付かなかったよ」

 岡崎は宿の主人に苔の自慢をされ、はじめて床の間を振り返って眺《なが》めた。

「うん、これはこの前見せてもらったのよりずっと立派だ」

 主人はその苔を京都の寺からもらって育てたのだと言った。

「この人はね、熱帯魚だの盆栽だのに熱中しているのさ。老人じみて精神衛生上よくないと思うが、まあ好きなものは仕方ないな。そうそう、何とか言う苔の会へ入ったとか言っていたな」

 美苔会。瑤子はその会の名を知っていた。

「ミタイカイ……」

 主人に言われて、岡崎は大げさに驚いて見せた。

「洒落《しやれ》た名を付けるじゃないか。会いたい見たいという洒落かね」

 主人は多分そうだろうと答えている。

「よし圭介君、俺たちも今度そういうのを結成しようじゃないか。君の親父を会長にしてやる」

「どんな会を作るんです」

「苔の変種ばかりを集める会さ」

「苔の変種……」

「うん。それで会の名が変苔会」

「ヘンタイカイ」

 圭介は笑いこけた。

 ひとしきりそんな冗談がとび交って、やがて主人は戻って行った。

 瑤子はほっとした。岡崎が金沢の家にある小さな苔の鉢のことを思い出すかと、はらはらしていたのである。もしそのことが話題になったりすれば、好きなだけに宿の主人は瑤子に関心を持ったに違いないのだ。何しろまだ数の少ない苔ファンである。へたをすれば美苔会の他のメンバーに瑤子のことを喋《しやべ》られてしまうかも知れないのだ。

 が、岡崎はいい具合に宿の主人が帰ってしまってからそれを思い出した。

「そうだ、君も苔を育てていたね」

「ええ」

 瑤子は仕方なく微笑して答えた。

「君も美苔会かね」

「いいえ」

「でも、好きだからあの鉢を大切に持ち歩いているんだろう」

「そうですけれど」

 瑤子はあいまいに言った。すると岡崎は、グラスを置いて腕を組み、鹿爪《しかつめ》らしい表情を作って瑤子を睨《にら》んだ。

「おかしいぞ。ひょっとすると、あの苔が謎《なぞ》を解く鍵《かぎ》かも知れんな」

 瑤子はギクリとした。明らかに冗談のようだが、外見に似ず繊細な神経の持主である岡崎だから、その冗談をきっかけにして案外真相に近づいて来るかも知れなかった。

 だからなおのこと、無理に苔から話題をそらせることができなかった。

「どうしてですの」

 瑤子は甘えるように小首を傾《かし》げて見せた。

「それを今考えている」

「冬子さんも苔を持っているんですか」

 圭介が訊いた。

「おいおい、失礼な言い方はよせ」

 岡崎は腕組みを解いて笑い出した。

「冬子さんに疥癬《かいせん》でもできているようじゃないか」

 瑤子は声をあげて笑った。笑って誤魔化《ごまか》すいいきっかけだった。だから必要以上に笑い続けた。釣《つ》り込まれて二人の男も爆笑した。女中さんまでも大笑いをしていた。

 が、その笑い声の中で、瑤子の心は悲しいほど醒《さ》めていたのである。

 身近で誰《だれ》かが強いテレパシーを使ったら、その苔はたちどころに真珠色の光を放つ筈なのである。

 瑤子自身はテレパシーを使わぬように努めているが、いつなんどきあの小さな鉢に植えた苔が光りはじめるかも知れないのだ。そしてその時は、瑤子の身に危険が迫った時なのである。

 つきつめて言えば、瑤子を追っている者は、国家であった。更につきつめれば、それは自由主義世界であり、極端に言えば全人類でもあった。

 超能力者。

 世間では今、それを最も興味ある話題のひとつとしており、マスコミのどこかで、毎日のように取りあげられていた。

 人はそれにロマンを感じているかも知れない。超能力があれば自分の人生はどう変るだろうと、楽しい想像をしているかも知れない。

 しかし、現実にその能力を与えられてしまった瑤子にとっては、すべての不幸の根源であった。

 架空のもの、想像上のものとされて久しかったテレパシーが、現実に存在していることを、一部の人々はもう知ってしまったのである。

 国際政治の場が、その能力を有する者を欲しはじめた。アメリカとソ連を中心に、テレパス狩りがはじまったのである。

 テレパシーの能力を持った者、すなわちテレパス。それが瑤子であった。現代の魔女。世界の運命を変える力を持つ女。それが瑤子なのである。

 能登の暗い磯《いそ》に、波が白く砕けていた。

 残雪の町に

  1

 岡崎唯士は仕事場の座蒲団《ざぶとん》に坐《すわ》って、煙草《たばこ》をふかしていた。

 深夜である。外には風の音もなく、家の中は静まり返っている。瑤子ももうとうに二階の部屋で寝てしまっていた。

「そうか」

 岡崎は低くつぶやいた。次に手をつける仕事のことを考えていたのだろう。岡崎は急に煙草を灰皿《はいざら》に押しつけて消すと、背筋を伸ばし、両肩を何回か上下させた。

 床につく気になったらしい。右脇に置いた小机の上のボールペンをとりあげ、短いメモを書きつけると、そのボールペンを投げ出すように置いて立ちあがった。

 仕事場を出て居間へ行く。飾《かざ》り棚《だな》に置いたブランデーの瓶《びん》をとりあげて栓《せん》を外し、その横に置いてあった重そうなオールド・ファション・グラスに少し多めに注ぎ、瓶の栓をしめて元の位置に置いた。

 グラスを持っていつも自分が坐っている場所へ行きかけたが、その居間はもう冷えていて、肌寒《はだざむ》さを感じたらしく、仕事場へ歩きはじめた。

 仕事場から彼の寝室へ通じる別の出入口があって、多分そのブランデーをまだ暖まっている仕事場で一気に飲んだら、その勢いで床につくつもりだったのであろう。

 が、仕事場と居間の境いの戸のところで、岡崎は急に足をとめ、振り返って居間の電灯を見た。

 不審そうな顔をしていた。何かが気になっているらしい。だがその気になることの見当がつかないようだ。

 岡崎は立ったままブランデーを一口飲み、大ざっぱに居間を見まわした。そして特に異常なものも発見できぬまま、壁のスイッチに手をのばしてパチリと音をさせた。

 居間の電灯が消えた。スイッチをオフにした岡崎の手が、境いの戸のほうへ動きかけて急にとまった。

 居間に異変が発生していたのである。

 居間の隅《すみ》の棚に置かれた小さな鉢植《はちう》えの苔《こけ》から、真珠色の光が発しているのだ。

 岡崎は竦《すく》んだようにそれを凝視《ぎようし》していた。暗い居間の隅の真珠色の光は、淡いだけに見れば見るほど妖《あや》しく感じられるのであった。

 かなり長い間、岡崎はそれをみつめていた。そして突然右手を動かし、パチリとまた灯りをつけてしまった。その動作は、まるでおぞましいものをふり払うようであった。

 ゆっくりと苔の鉢植えに近付いて行く。

 人差指でそっと苔に触れて見ている。何の仕掛けもないことは明らかであった。苔は自然に発光しているのだ。

 岡崎はまた電灯を見た。その明るさが苔の発光を隠していたのだ。しかし彼は知っていた。今までにも何度か、深夜にその居間の灯りを消したことがあるのだ。暗くした居間に坐って二、三十分黙考していたこともあるのであった。

 だが、苔が光っているようなことはなかった。今夜がはじめてなのである。

 実を言えば、万事に行き届いた冬子が、毎晩なぜ居間の灯りだけつけ放しておくのか、不審に思っていたのである。別に岡崎はそんなこまかなところまで冬子に節約を押しつける気などなかったのだが、その他のことが行き届きすぎるほど行き届いた女性だけに、妙な気がしていたのだ。

「これか」

 岡崎はまたつぶやいた。その顔はひどく哀《かな》しげであった。

 これか、と言い漠然《ばくぜん》と納得しただけで、詳しいことは何一つ判らない。しかし、その苔の鉢が冬子という女性の謎《なぞ》を象徴していることはたしかな気がしたのである。

 岡崎は一気にブランデーを飲みほすと、空のグラスを瓶のそばへ置いて大股《おおまた》に居間を出て行った。

 灯りは冬子の望み通りにつけ放していた。

 仕事場の灯りを消し、寝室へ入った。岡崎はまるでふてくされた子供のように、仕事着のまま夜具にもぐり込んでしまった。

 来るべきものが来た。

 そう思っているのだ。理由は判らない。謎のままだ。しかし、冬子がその家から去る時が来てしまったことは、あの苔の真珠色の光がはっきりと告げているのであった。

 もぐり込んだまま、掛蒲団はひくりとも動かなかった。静かな家の中で、古風な柱時計の音が、堅く冷たい音をたて続けていた。

 岡崎がいつ睡《ねむ》ったのか、それとも睡らなかったのか、よく判《わか》らない。柱時計が時を刻み続け、やがて窓に白い光が現われて朝になった。

  2

 二階から瑤子がそっと降りて来た。明けたと言ってもまだしらしら明けである。朝刊が配達されるにも少し間があった。

 それがこの岡崎家へ身を寄せてからの、瑤子の日課であった。早朝、まだ光の白い内に一度起き出して階下へ降り、居間の灯りを消すのである。その時に苔の状態を点検し、発光していないことをたしかめると、また無事に一日を送れそうだと胸をなでおろし、そっと部屋へ戻って更に一、二時間まどろむのであった。

 瑤子は大して警戒もせず、居間の灯りを消した。しかし、スイッチを消したとたん、数時間前の岡崎とそっくりの姿勢で立ち竦《すく》んでしまった。

 光っている。

 瑤子はその妖《あや》しい光をみつめ、来た、来た、来た……と頭の中で繰り返していた。

 敵に追いつかれてしまったのだ。こうしてはいられない。すぐに逃げ出さなければ……。一方ではそう思い、また一方ではうろたえる自分をおさえつけようとして、まだ発見されたわけではないと、強く自分に言い聞かせていた。

 瑤子は隅の棚の上にある鉢植えへ近寄った。そして一度それを両手で持ちあげた。二階へ運ぼうとしたのである。しかし、僅《わず》かに持ちあげただけで元へ戻した。それでは岡崎に対して不自然なことになる。すでに朝の光が強くなりはじめているのだ。少なくとも朝食がおわるまでは動かさないほうがいい。岡崎は今日、午前中に外出する予定があるのだった。

 瑤子は岡崎の寝室のほうへ耳を澄ませた。動く気配は感じられなかった。それをたしかめると、瑤子は苔の小さな鉢植えをそのままにして、そっと二階へ引きあげて行った。

 自分の部屋へ戻ると、窓のカーテンを細くあけて外を見た。屋根の上で雀《すずめ》が啼《な》きはじめているほかは、人も車もまだ動いてはいなかった。

 なぜ光ったのだろうか……。

 瑤子は寒そうに衿《えり》もとをかき合わせると、蒲団の上に坐りこんだ。

 苔が光る理由は判っていた。祖父の北園延弘から教えられたのだ。近くで誰《だれ》かがテレパシーの思考波を発したのだ。苔はそれに反応して真珠色の光を発するのである。だから、瑤子が苔を持ち歩くには二重の意味があるのだった。

 一つは近くに自分と同じ能力を持った者、すなわちテレパスがいることを知るためであり、一つは自分自身が無意識にテレパシーを用いてしまったことを知るためである。

 テレパスならば、近くのテレパシーを必ず感じ取ってしまうかというとそうではない。少なくとも瑤子の場合は、自分の脳にその不可思議な思考波を受信することを拒否させることができるのであった。

 テレパシーの能力とは、それを持たない者には理解しにくいものであった。

 たとえば皮膚の感覚は、それを拒否することが不可能である。肌《はだ》を刺激されて、感じないでいることはできない。だが、耳の感覚はいくらかコントロールできる。近くで発した音は必ず聞こえてしまうが、耳の栓《せん》などを用いればその音を感じずにいることができるし、他のことに熱中すれば聞こえていてもほとんど感じずにすむこともある。

 だが、テレパシーは違っていた。たとえて言えば、それはラジオのスイッチを入れたり切ったりすることに似ている。必要でない時は、その能力がないのと同じように、まったく感じないですむのだった。

 もしテレパスが、自分の意のままに脳のスイッチを、オフにしたりオンにしたりできないとすれば、そのテレパスは狂い死にしてしまうだろう。なぜなら、周囲の人間の思考波が間断なく脳に侵入して来るからである。人間はのべつまくなしに喋《しやべ》っているわけではないし、通常の会話に用いられる音声はそう強いものではないから、少し離れれば意味が判らなくなってしまう。

 ところが、テレパシーは声よりもずっと遠距離のものまで受信してしまうのだ。相手の思考をいきなり脳に受けいれてしまうからである。通信の手段としては声によるものよりずっと効率が高い。

 恐らく、そういう理由から、脳のどこかで任意に受信したりしなかったりを選択することができるようになっているのだろう。或《あ》る超能力の研究家は、テレパスとして不完全な者はその選択能力がないために早期に発狂してしまうのだと主張している。狂人の中にはテレパスがまじっているというのだ。

 だが、そのオン、オフのスイッチは、何せ本人の意志の力によるものだけに、油断をしているといつの間にか、オフがオンの状態にかわってしまうこともあり得るらしい。だから、緊張がゆるんでいる時、不意にテレパシーで語りかけられると、うっかりその思考波を受信してしまうことも起るのだ。そして発信者は、呼びとめて振り向いた者の顔を見る時のように、受信者をはっきりと識別することができるのであった。

 今、瑤子は未知の敵から追われている。相手はテレパスを狩り出すテレパスなのである。瑤子の敵は何食わぬ顔で強い思考波を発し、不用意にそれを受信した者をつかまえようとしているのだ。

 恐らくそのテレパスが、この金沢へやって来たのであろう。車に乗ってゆっくりと走りまわり、随所で思考波の罠《わな》を仕掛けているに違いなかった。

 瑤子はうまくそれを受信せずにすませたけれど、苔はその特殊な思考波に反応して光を放ったのだ。つまり、瑤子という稀代《きたい》の超能力者を追い求める組織が、岡崎家の近くを通過して行ったということである。

 瑤子は蒲団の上に坐ってじっと考え続けた。どうやら発見されずにすんだようだが、敵がこの金沢にいることはたしかだし、ただ当てずっぽうに金沢へ捜索の手を伸ばしただけだと楽観することもできなかった。

 去らねばならない。

 瑤子はそう思った。すると、階下で寝ている岡崎のことが気になりはじめた。

 苔の発光を見はしなかっただろうか……。

 瑤子は岡崎の思考を探《さぐ》りたくてたまらなかった。脳のスイッチをオンにして、更にそれを通常の人間の思考波に合わせれば、テレパスでない者の思考まで読みとることができるのである。

 しかし瑤子はやっとそれを自制した。受信だけにせよ、その能力を今使うことは、自分から敵に所在を告げるようなものであった。

  3

 青いスーツに薄茶のコートを着た瑤子が、呼び寄せたタクシーに乗って岡崎家を離れて行った。

 岡崎は何かの会合に出席するため、予定どおり昼前に外出して、岡崎家は瑤子一人きりだったのだ。

 呆気《あつけ》ない別れであったが、その呆気なさを悲しむゆとりは、瑤子にはまだなかった。

 瑤子は車に乗って金沢市内の道をまだ走りまわっているテレパスのことを想像しながら、そうあって欲しいと祈った。それなら金沢駅はまだ安全なのだ。

 しかし、すぐにそういう思考も中断させなければならなかった。

 瑤子は居もしない伯父《おじ》のことを考えはじめた。その伯父は危篤《きとく》で、瑤子は報らせを受けて駆けつけるところなのだ。

 何しろ、テレパスはテレパス同士の思考波のほかに、通常人の思考もキャッチできるのであった。正直に追われて逃げるのだなどと考えていたら、相手に発見されてしまうだろう。

 駅へ着くと、瑤子は改札口の上の標示を見た。ちょうど新潟《にいがた》方面への列車の改札中であった。

 瑤子はその列車のことだけに考えを集中して、大急ぎで切符を買うとプラットホームへ出た。

 列車はすぐにやって来た。それは鈍行列車であった。瑤子は人々を掻《か》きわけるようにして、まっ先にその薄汚れた列車に乗り込んだ。

 堅いシートに腰をおろすと同時に、ガタンと列車は走りはじめた。

 何ということだろう……。

 瑤子は涙がこみあげてくるのをとめることができなかった。岡崎が外出するとすぐ、僅《わず》かな荷物をまとめ、金沢へ着いた時の服を着てタクシーに乗ったのであった。駅へ着くと息つく間もなく列車に飛び乗り、こうしてみるみる金沢を遠のいて行く。岡崎に対して詫《わ》びる気持さえ、強く心に泛《うか》ばせることをさし控えなければならないのだ。

 これはまるで、ひとでなしの所業ではないか。

 理由はどうであれ、形にあらわれたものは、恩を受けた人にひとことの挨拶《あいさつ》もなく、気ままに逃げ出す礼儀知らずな行為であった。あれほどの好意を示してくれた岡崎唯士や田辺清次郎、それに田辺圭介たちに対して、何かを報《むく》いるどころか、心に傷を与えるような去り方なのであった。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。瑤子は体を堅くし、唇《くちびる》を噛《か》みながらそう思い続けた。

「お前を欲しがるのは権力者だ」

 思うまいとしても、祖父の北園延弘の声がよみがえって来た。

「決してそのようなものに巻き込まれてはいけない。なぜなら、彼らにとってお前たちテレパスは、同じ仲間ではないのだ。彼らはお前を人間として認めようとはするまい。通常の人間にはない能力を備えているからだ。頭が二つある者のことを考えてみるがいい。手が三本、足が三本ある者のことを考えてみるがいい。お前は彼らにとってそれと同じことなのだ。お前は道具にされ、決して人間としてのしあわせを掴《つか》むことはできなくなる。だいいち、お前の愛している夫がそのことを知ったら何と思うだろうか。若くして他にぬきん出たのは妻の超能力のおかげだと知ったら、決してよろこぶまい。いや、よろこぶどころかお前を憎むだろう。そして自分をおぞましく思うに違いない。逃げるのだ。逃げる内に必ず道はひらけるはずだ。これは人類の問題なのだよ。お前をとらえ、利用した者は世界を牛耳《ぎゆうじ》ることができるのだ。そうなれば、独裁者が生まれてしまう。テレパスはこの社会の中で万能に近い。だからこそ、テレパスはそうでない者に奉仕してはいけないのだ。夫のためにそれを用いてしまったことは、かえすがえすも不注意なことだった。お前は今その罰を受けているのだと思いなさい。だから、辛くとも逃げ続けるのだ。お前たち夫婦の愛がたしかなら、彼は必ず待っていてくれるはずだし、テレパスのお前が信じた愛ならば、絶対に裏切られることはないとわたしは確信している。さあ逃げはじめるのだ……」

 瑤子は北園延弘の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。列車はどんよりとした空の下を走り続けていた。

 どこへ行くか、まったく当てはなかった。新潟に着いて、追い出されるようにプラットホームへ降り立った時に聞いたアナウンスの声につられて、瑤子はまた次の列車に乗った。いつか岡崎や圭介に笑われたように、方向オンチの瑤子には、その列車の行先さえもう見当がつかなくなっていた。

 どこか名も知らぬ小さな町に身をひそめよう。

 ただそれだけを思い、列車が駅にとまるたび、次の駅名を読んでは迷っていた。

 さかまち。

 その名を読んだ時、瑤子は降りる決心をした。いかにも平凡で、追手の網の目からこぼれそうな感じだったからである。

 坂町。

 これほど平凡な駅名はあるまいと思ってそこで降りたのだが、逆に瑤子は目立ってしまったようであった。その清楚《せいそ》な美しさが人口の多くない小さな町では、ひどく際立ったのである。

 瑤子は失敗だったと思った。しかし、鈍行列車を乗り継いで来た為に、その先どこへ行くにも時間が半端になってしまっていたし、もう一度ゆっくり逃げ道を考え直す必要も感じた。

 結局瑤子は小さな旅館へ入った。

  4

 落ちつかぬ一夜が明けた。翌日は青空のひろがった好天で、それだけがいくらか瑤子の心を軽くしてくれるようであった。

 ゆうべの内にきめた通り、瑤子は駅へ行くと米沢《よねざわ》までの切符を買った。そこから米沢へ通じる支線があったのだ。

 とにかく米沢へ行ってみよう。地図で見ると、金沢を探《さが》しまわっている相手からは、まるで見当違いの方角であるような気がして、瑤子はその道を選んだのであった。

 列車はきのうの鈍行より、いっそう頼りなげな気動車であった。その上レールは単線で、どんどん山深いほうへ入って行く。

 これなら大丈夫だ、と瑤子がやっと安心したのは、三月だというのにまだ深くつもった山々の雪を見たからであった。

 安心したとたん、瑤子は睡気《ねむけ》に襲われた。ゆうべはうとうとした程度で、ほとんど眠れなかったからである。

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