「お婆ちゃん」
いつの間にか眠っていた瑤子は、甲高《かんだか》い子供の声で目ざめた。乗客の大半は黒い制服を着た学生たちで、四つくらいの男の子が瑤子の前の空いた席へついたところであった。
「これこれ。あまり動きまわらないで」
そう言う声がすぐそばで聞こえた。そのとたん、列車が大きく揺れた。
瑤子の前へ老婆がころげ込むように倒れかかって来た。瑤子は反射的に腰をあげてその小さな体を両手で抱きとめてやった。
不意に花が咲き乱れた。
いや、本物の花ではない。瑤子がうっかりその老婆の心を読んでしまったのである。
「まあ、お花……」
瑤子は思わず感嘆の声をあげた。その老婆は、色とりどりに咲き乱れる花の形を、心の中いっぱいに繰りひろげていたのだ。
抱きとめられながら、老婆は瑤子をみつめた。
「お花……」
逆に尋ねた。
「危いですわねえ」
瑤子は笑いながら言い、心を閉じた。
「どうもすみません」
老婆も微笑を泛《うか》べ、男の子のとなりに腰をおろした。
年齢は七十をこえているようであったが、まだ顔に艶《つや》を残し、どこか朗らかな感じを漂《ただよ》わせていた。
「お前がチョロチョロするから、ご迷惑をおかけしてしまったよ」
その老婆が言うと、男の子はよく躾《しつ》けられているらしく、
「ごめんなさい」
と行儀よく瑤子に向かって頭をさげた。
「まあ、お利口さんねえ」
老婆はニコニコと笑っていた。
「お孫さんでいらっしゃいますか」
「それが、曾孫《ひまご》でして」
瑤子は思わず目を丸くした。
「お婆ちゃまもお元気そうでいらっしゃいますこと」
「ええもう元気で元気で」
老婆は闊達な態度でそんな答え方をした。そのまま二人はしばらく黙っていた。瑤子はいずれそのお婆ちゃんが自分の行先などを尋ねはじめるものと思っていたが、案に相違して、お婆ちゃんはそんなことは言わず、
「今年は雪がよく降りましてねえ」
などと、当たりさわりのない話題を持ち出し、それもごく通り一遍で、やがて連れの男の子と話しはじめた。
瑤子はまた目をとじ、うつらうつらとしていたが、ふと薄く目をあけると、お婆ちゃんがじっと自分を観察しているようなのに気付いた。
これはただのおしゅうとめさんの目ではないようだ。
瑤子はあけた目をとじてそう思った。たしかに自分を観察する目は、さっきの柔和で朗らかそうな目とは違って、ひどく厳しい感じであったが、何か家庭の中に籠《こも》り通した人の目ではないような気がした。
もっとずっと広い世界を見て来た人の目であるようだった。
なんで心の中が花だらけだったのだろうか……。瑤子はそういぶかしんだが、同時にそのお婆ちゃんを敬《うやま》う気持が強くなるようであった。
このお年で、あのように花のことばかり考えていられるなんて、すばらしいことだわ。
瑤子はまたうとうとしはじめながらそう思った。
5
残雪の中を、列車はしだいに山から平らな土地へ出て行った。山を抜ければ雪はなくなるに違いないと思っていた瑤子にとって、平地にもまだそれほどの雪が残っているのが意外であった。
「もう米沢ですよ」
あれっきりろくに言葉もかわさなかったのに、お婆ちゃんはへだたりを感じさせない声で、ごく自然にそう教えた。
列車はゆるく曲り続け、のんびりと走っていたが、やがて線路と交叉《こうさ》する道路が増えはじめたので、大きな町に近づいたのが判った。
そして終点の米沢駅に着いた。瑤子はそのお婆ちゃんたちと一緒に列車を降り、改札口を出た。
またしても瑤子の予感は外れた。意外に小さな駅だったのである。
上野方面。そう書いた標示板を見て心をうずかせながら、瑤子は立ちどまった。
「お婆ちゃん」
二人の若者が、お婆ちゃんのほうへ駆け寄っていた。多分孫なのであろう。お婆ちゃんは瑤子へちらりと目礼を送って来た。瑤子はそれにかすかに頭をさげ、ゆっくりと駅前へ出た。
空が広かった。高い建物がないせいでそう感じるのであろう。タクシーがのんびりと列を作っており、バスが左のほうにとまっていた。
殺風景だが、どこか落着いた感じであった。瑤子は金沢駅へ着いた日のことを思い出しながら歩きはじめた。
乾《かわ》いて埃《ほこ》りっぽい町のように思ったが、駅前を離れ、バスが走り去ったばかりの停留所を通り過ぎると、あちこちに残雪があるのに気付いた。雪は無残な感じでくろずんでいた。
まっすぐに道が伸びていた。バスが走り去って行ったのをたよりに、瑤子はその道を進んだ。右側だけにガードレールがあり、しばらくその右側の歩道を歩いて行くと、その道が一方通行になっていることに気付いた。
バスが走るのは町の幹線道路のはずだから、そのまま行けば繁華街に出られると思ったが、案に相違して家並みはどんどんさびれて来る感じであった。
駅前通りらしい華《はな》やかさはなく、歩いている人影もまばらであった。車の交通量もひどく少ない感じだった。
それでも、幾つか旅館の看板を見た。しかしそれは、みなごく小さな旅館で、その辺りに泊っても、この町の様子はとても把《つか》めそうもないように思えた。
瑤子はその殺風景な道に引きずられる感じで、トボトボとどこまでも歩いて行った。すると右側に、やっと町の臭《にお》いを感じさせるちょっとした病院が現われ、その前を通り過ぎると信号があって、その先が橋になっているのが判った。
この川の向こうが中心街になっているらしい。瑤子はそう思いながら、橋を渡りはじめた。
川原にも残雪があった。そして、その橋の右手にも、もうひとつ橋が見えていた。その橋を渡る道の前方には、ビルの塔上広告が見えているから、中心街へ駅からまっすぐに行くには、もう一本右の道を行くらしいと判った。
が、それだからと言って、瑤子には特に町の中心の繁華街へ行ってどうするという当てもなかった。とにかく行って見てからのことでしかない。
橋を渡りおわると、また信号があった。道はどうやら二本平行に走っているらしいので、瑤子は土手づたいに右の道へ移るのをやめ、来た道をまっすぐにもう少し進んで見る気になった。
橋から土手を下ると、お寺が多くなった。落葉を焚《た》いているのだろうか。その先の寺の塀《へい》の内側から、煙が横になびいていた。
雨でないのが救いだった。薄い日がさして、小さな雑貨屋のガラス戸の中で、二匹の猫《ねこ》が重なり合うようにしてじゃれていたりしたが、本当に人影はごく少なく、瑤子は心細くなってしまった。
パタン、パタンという音が聞こえて来たので、やっと町にいる感じがしたが、その建物には何の看板も出ていず、とりつく島もないように思った。
この町は、みんな家の中へとじこもっている。瑤子はふとそう思った。
パタン、パタンと音のする家を通りすぎかけた時、そこの玄関の柱に、繊維という文字を見て、やっとその音が織機の音だと判った。印刷機が立てる音そっくりの調子であった。
次の角には信号があって、ちょうど赤になったところだった。
瑤子がそろそろ右の道へ移ろうかと考えていると、急に車のクラクションがたてつづけに鳴った。
交差点の信号機の下に立ってそのほうを見ると、信号待ちの車のドアがあいて、青年が一人、瑤子のほうへ飛び出して来た。
車の中で、あのお婆ちゃんが手を振っていた。
「どうぞ乗ってください。うちのお婆ちゃんがそう言っていますから」
車から降りて来た青年はせきたてるように言い、瑤子の持っている鞄《かばん》を奪い取るようにすると、車へ駆け戻って行った。
瑤子は当惑してそのまま立っていた。すると信号が変り、青になった。うしろの車が動かないお婆ちゃんの車に、クラクションを鳴らしはじめた。
瑤子は仕方なく、小走りに車のほうへ近寄った。
「早く乗りなさい」
お婆ちゃんが笑顔でそう言い、瑤子はいやおうなしに乗せられてしまった。
車が走り出す。
「うちへ来なさい」
お婆ちゃんが言った。
「米沢ははじめてなのでしょう」
「ええ」
「わたしがご招待します。わたしの家へお泊りなさい」
「でも……」
「かまいません。行く当てはないのでしょう。もし行く所があるなら、この車でお送りしますよ」
決して押しつけがましい感じではなかった。
「はあ……」
瑤子は気おされてあいまいに言った。
「それに、あなたにお尋ねしたいこともあるのです」
「何でしょう」
「今すぐ答えてくださらなくてもいいのですよ。それはね、あの時のこと」
「あの時の……」
「ええ。あなたは、まあお花、と言ったではありませんか。わたしはあの時、帯の絵柄のことで頭がいっぱいだったのですよ。なぜ、わたしが花のことを考えていると判ったのですか。あなたは本当にふしぎな人ですね」
お婆ちゃんの言い方は淡々としていた。
若草萌ゆる
1
瑤子《ようこ》は絵を描いていた。春の野に柔らかい風が揺れている。そばに四つぐらいの女の子が立っていて、
「おばちゃん、綺麗《きれい》」
と言った。
「ほんと、綺麗ねえ」
無心に水彩の筆を動かしていた瑤子は、そう答えてから女の子に視線を移した。
「あら……」
女の子は絵を見ているのではなかった。三、四歩離れたところで、絵を描く瑤子をうっとりと眺《なが》めているのであった。黒く大きな瞳《ひとみ》が潤《うる》んでいた。幼い子なりに、何か感動を味わっているような感じだった。
「お花も咲いているし、草の芽もいっぱいね」
そんな明るく柔らかい色ばかりを使って絵を描くのは、瑤子にとってはじめてであった。長く厳しい冬、厚く重い雪にとざされていた置賜《おきたま》の野は、その雪が融けると、野に山に春が一気にはじけたように拡がって行くのであった。
瑤子はその溢《あふ》れ返る春のさなかに、こころよく漂《ただよ》っていた。敵を感じて金沢を脱出したときの、あの不快な感情はもう残っていなかった。米沢へ着いた夜、僅《わず》かばかりの身のまわりの品をひろげると、陶芸家岡崎唯士がいつの間にか忍び込ませていた、白い封筒があったのだ。
体に気をつけて。約束を守ってください。
文字はそれだけだった。そしてそのほかに、一万円札が三十枚ほどあった。岡崎は知っていたのだ……。瑤子はそのことを悟ると、思わずうれし涙に頬《ほお》を濡《ぬ》らした。岡崎のそのような行き届いた好意もさることながら、突然あの家を去ることについて、何がしかの諒解が得られたことをよろこんだのである。
この苔《こけ》の光を見たに違いない。そのとき瑤子は、すでに光を失っている小さな苔の鉢植《はちう》えをみつめながらそう思い、岡崎の深い洞察《どうさつ》力に感嘆した。岡崎にとって、苔の発光現象は、一直線に瑤子の旅立ちをさし示していたのだろう。
愛とは惧《おそ》れるものであるのだろうか……。
瑤子はそう思った。自分に対する岡崎の愛情を疑うわけには行かなかった。それは世間一般の、いわゆる男女の愛よりも、はるかに老成し、洗練されてはいたが、それにしてもなお、岡崎は愛するがゆえに瑤子の去ることを惧れつづけていたのである。常に惧れていなければ、そのことが起ったとき直ちに悟れるわけのものではなかろう。
心の稚《おさな》い者にとって、その惧れは強い不安となり、嫉妬《しつと》と化すのであろう。嫉妬は地獄だ。瑤子はかつて何人もの嫉妬する男女の心を覗《のぞ》いて、そのおのが身を焼き殺すような心の有様を知っていた。その地獄では、まず嫉妬する者自身が鬼と化していた。世間では迂闊《うかつ》に、心を鬼にする、などとも言うが、瑤子の知る範囲では、鬼になった者の心は弱かった。心の弱い者が鬼と化すようであった。
岡崎は強い。
瑤子はしみじみとそう思った。鬼の心など寄せつけもせず、見事に愛を一〇〇パーセント思いやりに換えてしまっていた。恐らく岡崎としても、過去に嫉妬の心にさいなまれた日々があったに違いない。その地獄を踏み越え押し渡り、いまはあのように毅然《きぜん》と頭をあげて生きている。
岡崎から離れ、米沢へついてから瑤子はあらためて岡崎という男の素晴らしい強さを思い知らされたのであった。
強い女もいる。
瑤子はそう思い、春風の中で微笑した。その微笑は春風に融《と》けて、彼女自身をいっそうゆとりある心にさせた。
柴崎《しばさき》ふじ。去年喜寿を祝って、ことし七十八歳になる人であった。十代のはじめからその年まで、機織《はたお》りひと筋に生き続けた女性だ。戦争も、子や孫たちの人生も、踏木《ふみき》を踏み筬《おさ》を操りパタンパタンというあの単調な響きの中からみつめていたのだ。
考えてみれば、それは気が遠くなるほど単調な日々であっただろう。だが、踏木が擦《す》り窪《くぼ》み、竹の筬がまるで鼈甲《べつこう》のような艶《つや》を帯びるように、その人の心もまた艶やかに育って行ったのだ。同じことの繰り返しのように見えて、糸は日ごとに微妙な変化を示し、心の動きにつれて織りあげる布にも出来の差が生じるに違いなかった。
その中で、柴崎ふじという女性は、心をきたえていたのであろう。彼女は今日も柴崎家の一隅《いちぐう》で、パタンパタンと単調な音を繰り返し響かせているが、その単調さの背後には何千反という彼女の作品が積み重なっているのだ。
柴崎家の近くの道を通るとき、布を織ることの真の意味を悟った者は、その音を聞いて思わず厳粛な気持になるという。家族も町の人も、機織りの長《おさ》ともいうべき彼女に対して、敬意を払わぬ者はいないのだ。
こんな挿話を瑤子は聞いた。
機織りを業とする一家に嫁《とつ》いだ女が、数年後その一家と不和になって大いに悩んだとき、まる二日、柴崎家の塀《へい》の外に立って老婆が鳴らす機《はた》の音を聞いていたという。
三日目、塀の外にその女の姿はなかった。機織りの老婆はいつの間にかそれを察知していて、どうやら元の鞘《さや》におさまってよかったとつぶやいた。その言葉どおり、女は婚家を去ることもなく、今はしあわせに暮らしているという話である。
2
置賜の野は、いまいちどきに春であった。
「あなたは絵を描《か》けますね」
最初の夜、柴崎ふじはそう言った。
「はい」
瑤子は素直に答えることができた。普通の相手なら、描くことの上手へたをまず口にしてしまったであろう。しかし、ふじという女性には、相手を素直な心に導く力が備わっているようだった。七十八歳にもなって、そのように柔らかく、優《やさ》しく、しかも靭《つよ》い心を持った人に、瑤子ははじめて接する思いであった。
「あなたはきっと、花の心を読みとることもできるのでしょうね」
ふじはそう言ってたのしそうに笑った。
「もし当座の行く当てがないのなら、わたしにその力をかしてください」
ふじの言い方は、決して強制的ではなかった。しかし、幾つかのものからひとつを選ぶなら、自分の望むものを選べというその気持は、瑤子の心を強く捉《とら》えた。
「よろこんで」
瑤子はそう答えた。
「わたしに仕えてもらうことになりますよ」
ふじは念を押すように言い、顔をあげて家人に宣言した。
「春子さんは今日からわたしのお客さまです」
家人はみな頷《うなず》いた。
春子。
その名で呼ばれたのは、そのときがはじめてであった。瑤子はふじの思いやりを有難く思った。なぜならば、それ以前にふじから名を尋ねられてはいなかったからである。春子はふじの勝手な命名であった。
深く尋ねなくても、ふじは瑤子の立場を的確に把握《はあく》していたのであろう。名も言えず、旅の目的も言えないことを。
テレパシーなどという特異な能力を用いなくても、ふじほどに人生をよくみつめて生きれば、たいていのことは見当がつくようになるのであろう。
「今に雪が融けます。するとこの土地は、いちどきに春になるのです。そのいちどきの春を描いて見せてください」
ふじはそう言ってから、少しくやしそうな表情になった。
「わたしは花の帯を織り続けています。咲く花をわたしなりによく見て、克明な下絵を描くのですが、花は描けても春を描くことができないのです。この置賜の野のいちどきの春を、どうしても帯に織り込んでみたいのですよ」
「私にできますでしょうか」
そうまで言われると、瑤子は自信がなくなった。
「できますとも」
ふじはいとも気軽に言った。
「春になればいいのです」
「春になれば……」
瑤子はふじの言葉を解しかねて小首を傾げた。
「あなたが春になるのですよ」
ふじはたのしそうに笑った。
「私が春になる……」
春に同化せよということか。瑤子はそう思った。
「あなたなら春になれますよ」
ふじは励ますように言った。
「わたしの心の中の花を、あなたは見たではありませんか。それならば、あなた自身の心に描いた花も見ることができるはずです。今に春になりますから、そうしたら毎日春の野にいてください。あなたは春のただなかにいて、春の心になるでしょう。絵筆をとって、その春の心を紙に写してくださればいいのです。わたしにはとうとう描けなかった春を、あなたはきっと絵にしてくれるはずです」
瑤子は愕《おどろ》いていた。自分の心を、自分自身で外側からもう一度|探《さぐ》って見る……そんなことは今まで考えたこともなかった。しかしできそうな気がした。他人の心を探るように、自分の心を探るのだ。テレパシーが必要なのかどうか判らなかったが、瑤子は大いに心を動かされた。
「自分の体を自分の手で触れることができるのですから、自分の心を自分の心で触れることもできるはずでしょう」
ふじはそうも言ったが、実際にやって見るとなかなかむずかしそうだった。
自分の右手で自分の右手を握ることはできない。ひょっとしたら、ふじは不可能なことをいっているのではなかろうか……。瑤子はそう思いながら日を送り、やがて春になったのであった。
そして今、瑤子は見事に春と同化しているのである。
童女が春の野で絵を描く瑤子を見て、綺麗、と言った。無垢《むく》な童女だからこそ、美しいものを美しいと見たのであろう。そのとき瑤子は本当に美しかったのである。
テレパシーなど使う必要はなかった。若草の萌《も》える春の野にいて、その若草と同じに自分の命をいとしいと思えたとたん、瑤子は春の心になり切っていた。
絵を描いていることさえ、ほとんど忘れていた。瑤子は自分の命の歓《よろこ》びを紙に記していたのだ。筆が躍《おど》り、色が冴《さ》えた。みずみずしい春の野は今や瑤子そのものであった。柔らかい風が、そんな瑤子をいつくしむように撫《な》でた。
お婆ちゃまによろこんでもらえる。
描きおえた瞬間、瑤子はそう思った。なぜか涙が溢《あふ》れ出た。
あなた、私はこうして生きていますよ。
瑤子は立ちあがり、心の中で夫の邦彦に向かってそう叫んでいた。
3
茶を飲みながらその男は、
「おや、妙だな」
と柴崎志郎《しばさきしろう》に言った。がっしりとした体つきの、物静かな人物であった。
「どうした」
柴崎志郎はその男をみつめた。
「音だ」
「音……」
「そうだ。お婆ちゃんの機《はた》の音が、いつもと違っている」
柴崎志郎は、あ……と目を丸くした。
「さすがだな、判るか」
「軽い。うたっているようだ」
柴崎は茶碗《ちやわん》を置くと腕組みをした。
「なぜ判るのだろうか」
「何かあったのか」
柴崎の友人は目を細め、ふじの機の音になおも耳を澄ませながら訊《き》いた。
「あの人のせいだ」
柴崎が答える。
「あの人……さっき庭を通った春子さんのことか」
「お婆ちゃんがあの人に春景色の写生をたのんでいた。そのあいだ、お婆ちゃんは十日も仕事をせずにいた」
「ほう、十日もか。珍しいことだな」
「そのあいだ、三郎がつきっ切りであの人をあちこち案内してまわっていたのさ。そして三日ほど前、あの人は一枚の絵を仕あげてお婆ちゃんに渡した」
「するとあの音になったのか」
「そうだ。お婆ちゃんはその絵を見るとすぐに仕度をはじめた。君の言うとおり、いつもとは意気込みが違っていたよ」
「いったいどんな絵だ」
「だから春景色さ」
「どこの」
「笹野観音あたりで写生したらしい。絵はよく判らんが、たしかにまろやかな感じだった。しかし、そう珍しい絵でもないようだ」
「見たい」
柴崎の友人は今にも腰をあげそうに言った。
「よし、持って来てやろう」
柴崎は気軽に言って立ちあがると、部屋を出て行った。そのあいだ男は膝《ひざ》に当てた手の指を、お婆ちゃんの機《はた》の音に合わせて動かしていた。
柴崎はすぐに戻って来た。
「夢中で織っている。声をかけてもうわの空だったよ」
元の座に戻りながら言い、友人のほうへその絵を差し出した。
「これか」
男は貴重な品を扱う慎重な手つきでそれを受取り、態度を改めてじっと絵を見た。
「何か判るか」
柴崎が尋ねても、男はしばらく答えなかった。
「春だ」
やがて男は低くつぶやき、顔をあげるともう一度言った。
「春だ」
「春……」
「春が描けている」
男はテーブルの上に絵を置くと、あらためてつくづくと眺《なが》め入った。
「たしかに春の絵には違いないが」
柴崎は不審そうにその絵と友人の顔を見くらべている。
「この絵の中で春がうたっている」
「春がうたう……」
「そうだ。描いた者のうたが聞こえる絵にはときどき出くわすことがある。しかし、描かれた対象物のうたが聞こえる絵ははじめて見た」
「春がうたっているのか。わたしにはよく判らんな」
柴崎はあきらめたように首を振った。
「いったい春子さんというのはどういう人かね」
男はなおも絵に見入りながら尋ねた。
「どこの生まれだ。どこから来たんだ」
「それが判らんのさ」
「判らん……」
男は驚いたように顔をあげて柴崎を見た。
「列車の中で偶然会ったらしい」
「お婆ちゃんとか」
「うん。米坂線に乗って米沢で降りた。判っているのはそれだけさ。お婆ちゃんが駅から松川を渡ってこちらへ歩いて来るあの人に声をかけ、車に乗せた。そしてわが家に居ついたというわけさ」
「姓は……」
そう訊かれて柴崎の顔に苦笑がひろがった。
「知らん。春子という名も、恐らくお婆ちゃんが咄嗟《とつさ》につけた仮りの名だろう。しかし、お婆ちゃんがそうするなら、わたしらにそれ以上|詮索《せんさく》する必要もないのでな」
男は頷《うなず》いて見せる。
「この家ではそうだろうな」
「たしかにそれ以来、お婆ちゃんは少し変ったよ。張り切っている様子が見えた。そしてこの絵を見たとたん、その張り切りようがいっそう大きくなった。機の音が軽いと言ったが、わたしもそう感じている。絵は判らんがお婆ちゃんの機の音なら君以上によく判るつもりだ。軽い。わたしには絵でなくて、お婆ちゃんのうたが聞こえるようなのだ。お婆ちゃんの機の音をあんな風に変えたのがその絵なら、きっと大した絵に違いあるまいと思っているのさ」
「春子さんに会って見たい」
柴崎は微笑した。
「そう来ると思ってもう呼んであるさ」
二人はしばらく黙り込んだ。パタン、パタンという機の音以外は、春の陽ざしが音になって聞こえそうなほど静かな午後だった。
4
襖《ふすま》があき、敷居の外に手をついた瑤子の姿があった。
「お邪魔いたします」
瑤子は静かに柴崎の居間へ入った。
「是非あなたと話がしたいそうだ」
柴崎が笑いを含んだ声でそう言った。
「さっきお庭を通るところを、ここから拝見していました」
柴崎の友人は物柔らかな声で言う。
「花をお活《い》けになるのですね」
「はい」
さっき、この家の客間を飾る花を持って庭を通った瑤子は、相手に視線を合わせて臆《おく》せずに答えた。
「お流儀は」
「池の坊です」
瑤子は膝《ひざ》をずらせ、客の茶碗《ちやわん》を取った。
「ほう、お茶もなさる……」
「はい」
僅《わず》かな動作から、その客はいろいろなことを見抜いて行く。
「絵も拝見しましたよ」
「笹野観音あたりを描きました」
柴崎が口をはさむ。
「観音さまのほかには、何の変哲もない場所だ」
瑤子は否定も肯定もせずにほほえんだ。
「この男は、春のうたうのが聞こえると言っているんですよ」
柴崎はそう教えてじっと瑤子をみつめた。
「まあ」
瑤子は茶をいれ、客の前に茶碗を戻してから笑った。
「この絵をお描きになっているとき、どんなお気持でしたか」
男が尋ねた。
「とてもたのしく感じていました」
男はその答えに満足したようだった。
「そうでしょう。春になり切らねば、こういう絵は描けるはずがありません」
瑤子は礼を言うように、ゆっくりと頭をさげた。
「でも、それはお婆ちゃまに教えていただいたからです。私は教わったとおりに描いたのです」
「ほう、お婆ちゃんが……。お婆ちゃんはあなたに何と教えたのです」
「春になれとおっしゃいました」
「なるほどねえ」
男は溜息《ためいき》をついた。
「しかし、そうたやすく春の心になれるものではないでしょう。……おや、また音がはじまったな」
男はそう言って音の聞こえて来るほうを見た。瑤子が現われる少し前から、機《はた》の音が中断していたのだ。
「これをお客さまにお渡しするよう、お婆ちゃまに言いつかって参りました」
瑤子は柴崎を見てそう言うと、二つ折りにした小さなメモを男の前へ置いた。
「拝見」
男はメモをとりあげ、すぐに瑤子へ目を移した。
「なるほど」
物静かなその男にしては、少し高い声で言った。
「どれ……」
柴崎が男からメモを取りあげ、
「紅《べに》、花《ばな》」
と、声に出して読んだ。書かれていたのはその二字だけらしい。
「紅花……」
瑤子は小首を傾げて二人の男を見た。
「そうか」
柴崎も合点がいったらしく、男と顔を見合わせている。
「さすがにお婆ちゃんだ。なるほど、あなたにあの色の着物を着てもらったら」
「どういうことでしょうか」
瑤子は客に尋ねた。
「着物ですよ。紅花をご存知ですか」
「ええ」
「紅花で染めた着物をあなたに着ていただきたいのです」
「私が……」
「そうですよ」
男は少し興奮しているようだった。
「わたしは染めることばかりに気をとられて、着る人のことを忘れていた。誰《だれ》にでも着てもらえるのが理想だが、現代ではあの色を着こなす人のことも考えねばならない。そうです、あなたなら」
男はそう言ってしげしげと瑤子をみつめた。
「そうだ、春子さんならぴったりだ」
「でも、高価なものだとうかがっております」
瑤子は尻込《しりご》みするように言った。すると柴崎は愉快そうな声になる。
「彼がその紅花の本家本もとなのさ」
「まあ……」
「失われた紅花染めを求めて、彼は十五年間試行錯誤を続けた。十五年、ただひとつの色を探したロマンチストですよ。金銭のことを気にする人間には、そんな真似《まね》はできるはずがないでしょう。そしてとうとうその色を探し当てたのです。ただひとつの色を求めて世界中を旅した男は彼くらいなものですよ。その本人が、あなたに着せたいと言っているのだから気にかけることは何もない」
「紅花は植物染料の一種で、この辺りでは室町《むろまち》時代から盛んに栽培されていました。しかし、今では化学染料に押されて、栽培する者もいなくなりかけていたのです」
「口紅にも使われていたそうですね」
「ええ。是非あなたに着ていただきたい。着て見せてくださいますね」
柴崎の友人は熱っぽい口調で言った。
5
「お婆ちゃまのおっしゃるとおり、ここでは春が一度に押し寄せるのですね」
その夜、ふじと枕《まくら》を並べて床についた瑤子が言った。
「そうですよ」
「厳しい冬があるせいなのですね」
「そうですよ」
ふじの声は睡《ねむ》そうであった。
「あの花もこの花も、一度に咲き揃《そろ》うみたいです」
「そうですよ」
「人もですね」
ふじは睡気を少し去らせたようである。
「人も……どういうことです」
「十何年もひとつの色を追った人を見ました」
「ああ、あの人のことですか」
「それに、お婆ちゃまも」
「わたしなど、ただ布を織り続けただけですよ。機《はた》の音が体の奥まで浸み込んでしまいました。きっと、死んでからもわたしはあの音を聞き続けるのでしょうね」
「冬が人をきたえるのです。我慢強い人を作り出すのですね」
「多分そうでしょう。昔はわたしも雪のない国の人を羨《うら》やんだものです。でも今は、羨やみもしません。人は所詮《しよせん》、土地なりに生きるものなのでしょう。雪深い国にはそれなりに、一気にはじけるような春があるではないですか。暖かい国の人は、この春のよろこびを生涯《しようがい》知らずに過してしまうのでしょう。雪に埋もれて耐え忍ぶとき思い描く、春のあたたかさを知らないなんて、今のわたしには不幸なことのように思えるのですよ」
「お婆ちゃまにも、女の悲しみを味わった昔もあるのでしょうね」
「雪は降りましたよ。わたしにもね」
「知りたい」
「わたしに降った雪のことをですか」
「ええ」
「人のしあわせを羨やむのは愚かなことですよ。まして人のふしあわせを羨やむなんて、ばかげています」
「でも知りたいのです」
瑤子は甘えるように言った。
「知る必要はありません」
ふじの声が微かに厳しくなった。
「自分の雪をみつめていればいいのです。心の雪はどんな国の人にもつもりますからね」
「はい」
「だいいち、あなたは今、雪に降りこめられている最中でしょうに」
ふじはそう言ってクスクスと笑った。
「若いのに、強い人ですよ。昔のわたしだったら、きっと泣いていますね」
「そうでしょうか」
「あなたを泣かせてみましょうか」
ふじはいたずらっぽく言った。
「どうするのです」
「少しご主人のことを聞かせてもらいましょうかね」
「え……主人の……」
「あなたのご主人は、とても好い人なのでしょうね」
「…………」
「あなたはそのご主人にも言えない重荷を背負って、あてのない旅を続けている」
「どうしてそんなことがお判りになるのです」
瑤子の声はくぐもっていた。
「ほらほら」
ふじは軽く笑い、
「よしましょうね、いじめるのは」
と言った。
「何でも見抜いてしまうのですね。お婆ちゃまとあのお客さまは、どことなく似ていらっしゃいますよ」
「そう、楽しい話をしましょう。紅花の着物を是非着なさい。あの人もそう言っていたのでしょう」
「お婆ちゃまのメモを見て急に気付かれたようでした」
「あなたならきっと似合います。紅花で染めた赤を見たことがありますか」
「ええ、一度だけ。とても綺麗な色でした。淡くて上品で」
「あれは朝の光の色です」
ふじは断定するように言った。
「春の野に出て、空に向かって軽く目をとじてごらんなさい。若草の萌《も》える野原で昼寝をしたら、きっと瞼《まぶた》の裏で紅花の色を見ることができるでしょう。同じ赤でも、夕焼けにはあの色はありません。澄んだ、けがれのない赤です」
「朝の光の色……」
「朝靄《あさもや》の中からだけ現われる色です。優しくて柔らかで、それでいてこの上もなく力強いのです。これはわたしだけの考えかも知れませんが、あの色にくらべたら、金色など貧しいものです。あれは色の王様です。いや女王様と言うべきでしょうか」
「そんな色が、なぜ失われていたのでしょうね」
「人の心が貧しくなったからです」
「それを復元した人の心は豊かなのですね」
「そうですよ」