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 第四章

作者: 当前章节:15528 字 更新时间:2026-6-23 00:08

荒れ模様

 もう秋になったはずなのに、いっこうに涼風が立たず、夏のさかりのように、朝からひどく蒸し暑い日であった。

 高村英太郎はずっと書斎にこもりきりで、相かわらず安田が庭へ出て何かごそごそと植込みの間を歩きまわっていたが、その日に限ってぶらぶらしている浜田を見ても声をかけなかった。

 浜田は所在なくなって、ズボンを膝までまくりあげ、車の掃除をはじめてすぐ、珍しく夫人が玄関から出て来て、

「浜田さん。先生がお呼びですよ」

 と声をかけた。

 浜田の胸を不吉なものがよぎった。この二日、敏子はどこかへ行って留守だった。浜田に連絡もせず、不意に姿を消した感じだったのだ。そしてきのうは、さる銀行の大阪支店長の妻になっている敏子の姉が、子供もつれずひょっこりと姿を見せ、高村夫妻とながながと話しこんで行った。

 呼ばれて気がつくと、家の中の空気がひどくよそよそしい感じであった。いよいよ来るべきものが来たかという思いと、その反対にまさか敏子との関係がバレるはずはないという自信のようなものが、浜田の胸のうちで烈しく交錯した。

 上着をつけ、ネクタイをしめなおした浜田は、玄関から足音をしのばせるようにして高村の書斎にむかった。

 高村の書斎は床の間と違い棚のついた和室で、北に面した薄暗い部屋であった。東側の廊下に面した障子をしめ切ってあるのは、クーラーが動いている証拠だった。浜田はその障子の外で声をかけた。

「浜田です」

「あ、入りなさい」

 いつもよりおだやかな声であった。

「失礼します」

 厚く古めかしい模様の絨緞を敷きつめたその部屋には、凝った木の机と回転椅子があり、くすんだ茶色のソファーが置いてあった。床の間には金庫がでんと据えられ、あちこちに古風なシェードのついた電気スタンドが配置してある。

「少しクーラーがききすぎているかな」

「いいえ」

 高村は回転椅子に坐っていて、浜田にソファーへ腰をおろすよう手で示した。

「手っとりばやく言おう」

 高村はパイプに煙草をつめながら言った。

「娘のことだ」

 浜田は、とうとう、と思った。

「どうやらあれは君に迷惑をかけているらしい」

 浜田は黙っていた。

「しかし、君もあれとひとつしか違わん年だ。あれの立場も考えてやって欲しい」

「はい」

 高村が返事を待つ様子なので、浜田は仕方なく頭をさげた。

「君を気に入っていたんだよ。控え目で、慎重で……。だから、敏子とのことを人が知らせて来たとき、本当に意外だった。残念な気がした。しかし、儂は別に君に対しては腹が立たなかった。敏子のほうからしたことははっきりしているからな。我儘に育ててしまった儂らにも責任があることだ」

「いえ、僕が……」

「まあ待ちなさい。君くらいの年では、こういう場合責任をとりたがるものだ。よく判るよ、そういう気持は。しかしな、考えてみたまえ。別に君を軽視して言うわけではないから、誤解せんようにしてもらいたいが、敏子は君がそれほど深くつき合える女ではない。それは人生の経験を積んだ者なら、誰にでもひと目で判ることだ。人生のパターンがまるで違う。どちらがいい悪いと言う問題ではなく、人それぞれの生き方の問題だ。君には君をしあわせにしてくれる、きちんとした女性がいるはずだ。急がずとも、きっと君は今にそういう女性にめぐり会うはずだ。それにひきかえ、あの敏子という娘は、どちらかと言えば、アフリカへ行って猛獣狩りをしているほうがしあわせなような女だ。まあ、一時はそういう正反対な者同士が、おたがいに魅かれ合うこともあるだろう。しかし、それは長つづきはせん。現にあれは、おとなしいサラリーマンの家が嫌で、わけもなしにああしてとびだして来てしまった。その辺のことをよく考えて欲しい」

「たしかに、僕には敏子さんは高級すぎるかも知れません」

 浜田は詫びるとも反省するとも、またその言葉を抗弁の先ぶれにするともつかぬ言い方で言い、それっきりまた沈黙した。だが、その心の中では、ひとつの決断に踏み切っていた。自分がそういうおとなしい人間だときまったわけではない。敏子という存在を手がかりに、自分の人生の新しい扉をあけてやる……。そんな気持であった。

 高村が、敏子を高級すぎると言った浜田の言葉をどう受けとめ、どう呑み込んだかは判らなかった。

「困ったことに、あれはまだ婚家と縁が切れておらん。公式には夫のある身だ。儂も教育者だしなあ。この家に君がいては、立場がなくなるんだ」

「それでしたら、すぐおいとまします。先生にご迷惑をかける気はないのですから」

「すまんがそうしてもらいたい」

「運転手ですから、どこへ行っても……」

「惜しいと思っているよ」

 高村は左手にパイプを持ち、右手で白い封筒をつまんで立ちあがった。

「返してもらっては困る。受取ってくれ」

 浜田に差しだした。浜田は封筒をちらりと見てから、顔をあげて高村をみつめた。高村の瞳は静かであった。

「いただきます」

 浜田は立ちあがって受取り、深く頭をさげた。

「長いあいだお世話になりました」

「すまん。傷ついたのは君のほうらしいな」

「ではこれで失礼します」

「うん」

 うん、と高村ははっきり言った。浜田は障子をあけ、廊下へ出ると、そっとしめた。安田が庭で浜田のほうを見ていた。浜田はそれを無視し、玄関へ行って靴をはくと、車庫にちらばっていた掃除道具を手早くかたづけ、そのまま門の外へ出た。身軽なものであった。何ひとつ、持ち帰る荷物はなかった。

 浜田は駅へ歩いた。道を吹く風はべっとりと粘るような感じで、すぐ汗を吹きださせた。浜田は上着を脱ぎ、手に持ってうつむきかげんに歩いた。車がその浜田を次々に追い抜いて行く。

 とにかく、次の仕事を探さなくてはと思った。あてはあった。以前一緒に働いたことのある男が、或る大手の運送会社にいた。もういい年で、その男はすでに車から降り、何とか係りとかいう役についているそうだった。昔からよく気が合って、浜田がおやじさんと呼んで相談相手にしていた人物である。

 多分、そこの仕事は長距離便のトラックを運転することになるだろう。体はきついが高村家の給料よりだいぶいいはずであった。仕事はそれでいいとして、問題は敏子とどうなるかであった。

 浜田はアパートをすぐにでもかわりたいと思った。せめて風呂のあるすまいでなければ、敏子と暮すわけにはいかなかった。それは敏子への思いやりというようなものではなく、浜田が自分に課した、最低の生活水準であった。

 浜田はその時、敏子との新生活を考えていた。主人の娘に手をだして追いだされたなどというみじめなことを考えるより、そのほうがずっと建設的だったし、だいいち楽しかった。夢想の中にひたりこんで、なかば無意識に駅へ向かって足を運んでいた。だから、商店街がはじまる少し手前の小さな交差点で、明るい色の見なれぬ形の車が彼をやりすごしたのに、まったく気付かなかった。その車はイギリス製で、ごく少数しか生産されないことで知られていた。そのかわり、レーシングカーなみのハンドリングやフィーリングを持ち、熱烈なマニアの支持を受けている車である。

 ジネッタであった。

 ジネッタのシートにうずもれるような姿勢で、敏子が駅のほうへ去って行く浜田を見ていた。ひとあれしそうな曇り空なのに、濃いサングラスをかけていた。

 ふふ……と男が笑った。

「運転手が歩いてやがる」

 敏子は黙ってその声を聞き流した。

「お前も罪な女さ」

「うるさいわね。黙っててよ」

 浜田が通りすぎると敏子は体を起し、坐りなおして言った。

「追い越してやろうか。ゆっくりとな」

 男はギアを入れかえて言った。体つきは大きいほうで、程よく肉がつき、短く刈り込んだ髪と陽に焼けた肌が、どことなく贅沢な感じを漂わせている。

「そんなことをしたら承知しないわよ。とび降りてやるから」

「おおこわ……」

 男はふざけて言い、

「そんじゃ、ま、左折だな」

 と車をスタートさせた。

「静かにやって」

 敏子は鋭い声で言った。

「ちえっ、これじゃまるで間男だ。こそこそしちゃってよ」

 それでも男は言われたとおり、静かにゆっくりと車を進めた。浜田が来たほうへ行く。

「このまま、まっすぐにやって頂戴」

「なんだ、気がかわったのかい」

 男はもう頃合いと見たのか、いきなり荒々しくエンジンをふかすと、一気に加速した。

「よしてよ、彼は車のプロよ。音ですぐ判るのよ」

 敏子が憤った。

「判るもんか。このジネッタの音が、あんな貧乏運転手に判ってたまるかよ」

 男はどこまでも機嫌がよさそうであった。別に悪気がある風でもなく、軽口を叩きながら、それでもかなり巧みに車を捌いている。

「どうした、うちへ帰らないのか」

「よすわ」

「なぜ。それじゃこのまま渋谷のほうへ行くぜ」

「いいわよ」

「変な奴だな、相かわらず。うちへ帰るって言うから送って来てやったのに」

「バレたらしいわ」

「え……、何がバレたんだい」

「なんでもいいでしょう」

「ははあ、あの運転手のことだな。そう言えば歩いてやがった。さてはクビになったかな。お前のうちの先生はこわいからなあ」

 敏子は不機嫌に黙り込んだ。男が口笛を吹きはじめる。ウエディング・マーチだった。

「うるさいっ」

 敏子が癇癪を起した。

「申しわけない」

 男は笑った。

「でもよ、お前ももう少し物を考えたほうがいいぜ」

「考える……」

「そうさ。だいたい、あんなチンケなサラリーマンのとこへ嫁に行こうってのが、そもそもおかしいんだ。はじめから判ってるじゃないか。お前のタイプじゃねえよ」

「余計なこと言わないで。あたしの人生なんだから」

「そりゃそうだけどさ。運転手なんて……お前らしくもない」

 敏子はいらだたしそうに煙草をだして火をつける。

「あのなあ」

 男の声の調子がかわって、しっとりと優しい感じになった。敏子はシートにもたれた。

「なあに」

「お前はもっと大物食いのはずじゃないか。ずいぶん前のことになるけど、あのプロ野球の選手をつまんであっさりポイしたときは、俺だってお前に一目置いたんだ。あんときのあいつの騒ぎったらなかったじゃないか。女房と別れるだの、チームを移るだのって」

「女は年をとるわ」

 敏子は頼りない声で言う。

「しっかりしてくれよ。俺はお前を愛してる。凄いお前をだ。可愛いだけじゃ男と女なんて長く続くもんじゃない。俺みたいな男がそんなこと言っちゃおかしいかも知れないが、相手に人間として一目置けなきゃ、いずれ浮気しちゃう。そんなもんさ。ことに俺やお前みたいな性格の人間は、相手が自分の思いどおりになっちゃうんじゃ、すぐ嫌になる。手ごわいから愛しもするし、本気にもなるんだ。別に妬いて言ってるんじゃないぞ。嫁入り先からとび出して来たんで、ほっとしてるんだ。敏子はやっぱり敏子だったってな」

「女は年をとるわ」

 今度は少しきつい声になっていた。

「誰だって年はとるさ。そんなもの、気にしたって仕様があるか。年をとるんなら、自分のやり方で年をとれ。辛気臭い奴は辛気臭い人生……お前にそんなのが我慢できるわけないだろう」

「お金持のお坊ちゃんはお金持のお坊ちゃんなりに、人生論みたいなものが身につくってわけね。……たくさんだわ」

「じゃあ帰るかい。おやじさんはあいつをクビにしたかも知れねえぞ」

「帰ってもいいけど、まだそんな気分じゃないだけよ」

「強がるな、って……」

 ジネッタは狭い近道を選んで強引に走り抜け、どんどん高村家から遠ざかって行く。

「いいんだよ、少しはうしろめたくったって。どうせあの運転手じゃお前を持《も》ち切れやしない。あいつもお前に逃げられたほうがしあわせってもんだ」

「そうかも知れないわね」

 敏子は自嘲するように言った。

「その気分、俺が徹底的に治してやる」

 男は万事心得たという様子で頷いた。同時に烈しくホーンを鳴らし、

「あん畜生、いやらしい運転をしやがる」

 と、前を行く車に強引な追越しをかけた。

「ざまみろ、馬鹿」

 ジネッタは玉川通りへ入り、すぐ高速道路へ乗り入れる。

「どこへ行くの」

「まかしとけ、って。お前のそのウジウジした気分がこっちにまで感染しちゃかなわねえからな。派手に行こうぜ、派手に」

「いいわよ」

 敏子はあきらめたように首を振り、

「ほんとにあたしの気分が変えられるの」

 と陽気な声で言った。

「変えてやるとも。そのかわり、お前泣くかも知れねえぞ」

「ふん、泣かせてごらん」

「ようし、畜生」

 たしか男は久松と言ったはずである。二人は似たような年で、そうやって並んでいると、よく似合ったカップルであった。

「降るわね、この調子じゃ」

 敏子は空を見て言った。朝から蒸し暑かったが、とうとう晴れ間はでずに日が暮れるのかも知れない。西の方に台風が近づいていた。

 夜。風が少し強まっていた。宵の口から降りだした雨は、まださほどではないが、時どき急に吹く強風のたび、マンションのガラス戸に雨音をたてている。

 純白のバスローブをまとった久松が、陰気な顔でそのガラス戸の外をみつめていた。左手のブランデーのグラスを、今にもとり落さんばかりに軽く持って、吸口つきの軽い葉巻を咥えている。

「庸介《ようすけ》……」

 敏子の声がする。久松は我にかえったように上体をのばし、バスルームのほうをふり返った。

「なんだよ」

「あたしのバスローブ……」

「そんなもの要るか」

 小馬鹿にしたように呶鳴り返し、ニヤリとした。スタンドの光をうけてキラキラと光っている大きなガラスの灰皿に葉巻を抛り込み、ブランデーを呷る。

「やだあ、持って来て……」

 敏子の甘え声を、久松はかまう気がないらしく聞き流す。二人で散々都内を遊びまわったあとであった。

 敏子がバスルームから出て来た。一糸もまとっていない。

「あたしも飲む」

 久松は豪華なホームバーを顎でしゃくって見せた。

「めんどくさい……」

 敏子は久松の手からブランデー・グラスをとりあげて唇にあてた。久松は肩をすくめて立ちあがり、バーの棚からグラスと瓶をとってついだ。今度のは大きなタンブラーで、その中へたっぷりすぎるほどブランデーが入る。それを左手に、右手の指で瓶の蓋をしめながら言う。

「帰らないんでたすかったぜ」

「どうして」

 敏子は全裸でガラス戸のカーテンを引きはじめていた。

「屈辱だからな」

 すると敏子は妖艶な笑い方をした。

「ゆうべまで散々人を運転手とくらべ物にしやがって」

「いいじゃない。あんた憤ったの……」

「憤りはしないが、いい気分じゃないよ。帰したらチャンスをのがすところさ」

「チャンスって」

「思い知らせてやるのさ、お前に」

「何を」

 敏子は言葉でじゃれ合っていた。

「俺をさ。きまってるじゃねえか。お前のことは俺がこの世で一番よく知ってるんだ。どこからどこまでな。お前が気分よさそうに俺を運転手とくらべて悦に入ってやがるから、黙ってたのしませてやったんだよ」

「かっこいいこと言っちゃって」

 敏子はからかうように言った。二人ともみつめ合ってブランデーを飲む。

「これからお前、もうちっと髪を長くしろ」

「あたしの勝手よ。人のおしゃれに口をだす男なんて嫌だわ」

 久松は黙ってグラスを置き、ゆっくり敏子に近づいてグラスをとりあげた。顔を寄せ、軽く唇に触れる。

「結婚なんかする必要はねえや。でも、俺とお前はいいコンビだ。工員とお手伝いならいい家庭ができたろうな」

「そんな言い方するとろくなことないわよ」

「俺は仕事は仕事でちゃんとやってる。人なみ以上に税金も納めてる」

 敏子は肩をすくめて見せた。むきだしのバストが少し揺れる。

「今までしたことはないが、一度お前にしてやりたいことがあった」

「なあに」

 敏子の瞳が甘えた。両手を尻のあたりで組み、胸を突き出して久松を押すようにした。

「世界中で一番よくお前のことが判ってるのは俺さ」

 久松はブランデー・グラスをテーブルの上に置き、もう一度軽くキスをした。が、次の瞬間敏子の頬に久松の平手が鳴っていた。さして力もいれないようであったが、敏子は不意をつかれてよろよろと倒れかけた。夢中でさしのべた片手を掴んだ久松は、それをぐいと引き寄せると、今度は髪の毛を掴んでねじり倒した。

「何すんのよっ」

 敏子が悲鳴をあげる。

「運転手の女になんかさせねえぞ」

 腕のつけ根をつかんで起きあがらせようとする。

「気でも狂ったの……痛いっ」

「狂っちゃいない」

 久松は薄笑いを泛べ、敏子の腕を背中で逆手にねじあげると、べッドルームのほうへ押して行き、ドアのところで片足をあげ、敏子を部屋の中へ蹴込んだ。

「この馬鹿野郎ッ」

 罵声と悲鳴が重なり、パシッと肌を打つ音が聞える。

「ごめんなさい。許して……」

「うるせえっ」

 しばらく揉み合う様子で、そのうち敏子が泣きだした。

「許して。もうしないから」

 すると一瞬騒ぎが静まり、久松の妙にしんみりした声が聞える。

「お前はこうされるのが好きな女なんだよ。強い男に引きずりまわされたいんだ。お前が蹴ったり撲ったりするような男に憧れてるのは、前から判ってた」

「あたし、変態じゃないわ」

 すすり泣きながら言う。しかしその声にはたっぷり蜜が含まれていた。

「判ってる。お前は女としてはきついほうだ。だから時には優しい男に魅かれもするが、本当は自分よりうんと強い男に、弱い女として扱われたいのさ」

 敏子が細い声をあげた。それはまさに、強い男に一方的に扱われている、かよわい女の声であった。

「だが、みんなお前をそういう風に扱おうとはしない。気位の高い女王様として、好き勝手にさせたがるのさ。その点じゃ、お前のおやじさんだって似たようなもんさ」

 敏子の細い声は、甘い呻きにかわって来たようだ。

「見ろ、手荒にしたらこんなになってる。いいんだろ、ええ、こういうのがさ……」

 ガラス戸にあたる雨音がまた烈しくなって、その中で敏子が意味もなく許しを乞う。

「許して、許して……もういや……」

 ベランダで、何かが風に煽られる音がしはじめている。

「庸介……庸介……」

 暗い空を雨雲がかなりの速度で流れていた。車のライトが滲んで見え、電車の長い窓灯りの列だけが、いやにたしかな感じで動いている。

 その電車が短いガードにさしかかると、ガタガタと雨戸のない窓がふるえ、台所の棚に置いてある鍋に、歯ブラシを二本入れた安物のグラスが触れて、チリリリリ……と軽い音をたてている。その歯ブラシの白いほうは浜田ので、赤いのは敏子のものだった。

 浜田は窓のそばに立って、国電の土手をみつめていた。その急な斜面を、電車の灯りがチラチラと照らしだし、やがて消えた。

 ボーン、ボーン、と下の部屋の柱時計が十二時を打つのが聞えた。浜田は薄い座蒲団の上に戻り、煙草に火をつけてあおむけに寝た。

 敏子は来ないらしい……。

 浜田はあきらめをつけた。この雨では来られないだろうと思った。ひょっとすると、東京にはいないのかも知れないと思いながら脚を組んだ。しみだらけの天井だった。

 そうか、敏子はいつもこのしみを眺めていたのだな。……急に浜田は詫びたいような気分になった。

「いくらなんでも……」

 つぶやいた。いくらなんでもここでは少しひどすぎると思ったのだ。苦笑している。だがたのしそうであった。高村家をやめたことで気持がはっきりした。よく考えると、高村英太郎は、いざというときなかなか物判りのいい人物になるようだった。決して敏子と別れてくれとは言わなかった。ただ、浜田が不幸になると忠告しただけだ。それについては、詫びてさえいた。やめさせられたのではなく、やめるのが当然だったのだ。高村家には高村家の立場がある。しかし、これからは違う。父親でさえ判らないかも知れないが、敏子は案外平凡な家庭生活を夢見ている女なのだ。その夢をみたし、その上で自分も一人前の男としてやって行ければ、どこからも文句の来る気づかいはない。敏子にきちんと離婚してもらおう。そして、正式に結婚しよう。体の限り働いて、敏子をしあわせな女にしてやろう……。

 浜田はそっと体を起し、長くなった煙草の灰を灰皿へ落とすと、あらためてその煙草を底に押しつけて揉み消した。立ちあがって押入の襖をあけ、蒲団を敷いた。安物だが敏子の分もとうに買い揃えてあった。今まで敷きそびれていたのは、敏子が来るのではないかと思ったからだった。もし自分のだけ敷いていて、そこへ敏子が来たりすると、また散々からまれてしまうにきまっているのだ。まったく口ではとうていかなわない相手だった。

 浜田は小さなテーブルをどけて蒲団をしいた。服を脱ぎ、青い夏物のパジャマに着がえ、台所で顔を洗って部屋のまん中へ戻ると、じろじろと敷いたばかりの蒲団を見た。なんとなく寝にくかった。と言って、本もテレビもあるにはあるが、まるで見る気は起きなかった。思いついてまた台所へ行き、小型の冷蔵庫をあけて、ウイスキーの瓶をとりだした。立ったままグラスにつぎ、瓶を冷蔵庫へ戻してテーブルのそばへ坐った。

 また電車が通って家が揺れた。

「そろそろお別れだな」

 浜田はひとりごとを言い、壁や台所に向けてグラスをあげた。

「乾杯だ……」

 ボソリと言い、飲んだ。電車の音と揺れがおさまると、窓を鳴らす風の音だけが残った。

「敏子、おやすみ」

 飲みおえるころは少し酔っていて、浜田はそう言って蒲団に入った。だが彼は部屋の灯りを消さなかった。消し忘れたのではなく、夜更けに来るかも知れない敏子のために、わざとつけはなして睡ったのであった。

 やがて朝になり、しらじらとした光の中で、その灯りはうすらいで行った。しかし、雨は前夜よりいっそう強く、風も本格的になって来たようであった。

 その朝、浜田は新しい仕事のことで、深川の運送会社をたずねようと考えていた。しかし、目覚めたときの空模様は、とてもそれどころではなかった。浜田はのんびりと時間をかけて部屋を掃除し、食事の仕度をした。台風情報を知りたくて珍しくテレビをつけっぱなしにし、ゆっくり朝飯を食べた。

 台風はしだいに接近して来ていた。もう方向を変えてくれる望みもなくなり、テレビが報ずる街の様子は、人も車もみなどこかへ逃げ込んでしまったらしく、がらんとしていた。

 ……いったい誰が高村家へ報らせたのだろう。

 昼ごろになって浜田はそれを考えはじめた。敏子の姉があたふたとやって来たとき、それはもうはじまっていたに違いない。いや、その段階ではすでにおわりだったのかも知れないのだ。その姉か……。いや違うだろう。

 浜田は自問自答した。南川たちが告げ口するはずはなく、可能性としてはよく二人連れで歩いたから、そのとき誰かに見られたということもあり得た。しかし、敏子がとび出して来た家のことを考えたとき、すべてははっきりしたようであった。

 嫁いで六ヶ月目に、さしたるわけもなくとびだして来たのだから、先方では当然わけを知りたがったに違いない。実家は社会的な地位もある裕福な家庭らしいから、興信所の調査にかけるのは当然のような気がしたのだ。

 このアパートではもう誰知らぬ者はないと言っていい仲であった。どんなにラフによそおっても、この辺りでは敏子のようなタイプの女は珍しかった。

「きょうは彼女は来ないの」

 アパートのおかみさんたちは、からかい気味にそんな声をかけたりしているのである。しかも、夫の家のほうが行なった調査でバレたとすると、当然高村家との間でひともめ起らねばなるまい。

 浜田は高村英太郎にあらためて詫びを言いたくなった。そして、さすがは一流の学者だと思った。耐えるところは耐え、許せる分は許した上で、必要な処置をとったということなのであろう。

 午後三時ごろからいっそう風が強まり、そのかわり雨は小降りになった。浜田は窓の鍵をしっかりとしめなおし、敷居と戸のすき間へ、古雑巾をぴっちりと押しこんだ。今にまたどしゃ降りになるにきまっていた。

 はやばやと暮れた。風は臨終の人の息のように、不規則に強まったり弱まったりしていた。弱くなったときは雨音が強くなった。もうアパートの横の道は水が溢れていた。そのあたりは以前ドブ川があっただけに、近くの雨水を一手にひきうけてしまっているようであった。

 いよいよ暴風雨の中心に近づいたらしい。……そう浜田が感じたとき、いきなりドアがあいて敏子がころがり込むように入って来た。傘もなく、レインコートもなく、頭からずぶ濡れになっていた。

 浜田は驚いて敏子に駆け寄った。

「とうとう出て来ちゃったわよ」

 敏子は濡れて子供のように小さい感じになった頭を振り、しずくをはねとばして笑った。

「タオルかして」

 浜田はあわてて手近にあったタオルを渡した。

「足が泥んこだわ」

 急いで雑巾をとってひざまずき、足を拭いてやった。敏子は濡れた髪を拭きながら片足をあげて浜田にあずけていた。

「もっと、タオル……」

 浜田は雑巾を置き、タオルを二、三本出して来た。どれも使い古しであった。

「湯あがりタオルよ。ないの……」

 敏子は不服そうに言った。浜田はうろたえて押入れをあけ、一枚だけあった湯あがりタオルを引っぱり出した。

「ドア、ちゃんとしめて」

 敏子が部屋へあがり、浜田はドアの錠をかけた。

「脱がせて」

 背中を向けて言う。浜田の指が袖のないブラウスの背中のフックを外し、ファスナーをおろす。敏子は着ているものを次々に脱いだ。濡れた着衣が入口の板の上に、みじめな感じで積まれた。

「あなたにも迷惑かけちゃったわね」

 敏子はなぜか憤ったようにぶっきら棒な言い方をした。しかし、パンティーだけになって体を拭いているその顔は、弱々しい微笑を泛べている。

「あなたのためにもと思って、できるだけ我慢したのよ」

 浜田は背中を拭いてやりながら言った。

「俺のため……」

「そうよ。あなたをクビにしたって聞いたとたん、あたしもとび出そうと思ったの。でも我慢したわ」

「どうして」

 敏子の背中は熱い感じであった。

「負担になるからよ」

「俺のかい」

「そうよ。これでも自分のことはよく判ってるつもりよ。あたしって、毎日一緒にいるとうるさい女なの。ふつうの意味でじゃないわよ。なんて言うか、……きっといつもあなたに気をつかわせちゃうわ」

「気を使ったっていいさ。一緒にいられればそれで満足だ」

 浜田がそう言うと、敏子は彼に背を向けて一瞬強く目をとじた。

「先生には悪いが、もうあの家と縁は切れた。よく考えてみると、先生は出て行けとは言っても別れろとは言っていない。案外判っているのかも知れないぜ」

「うそ、あんな判らず屋……」

「とにかく一緒にやって行こう。なんとかしあわせにするようやって見る」

 敏子は裸の体をうしろへ倒し、浜田によりかかった。

「その気で出て来たのはたしかよ。でも……」

「でも、なんだい」

「あたし、自信がないの」

「何の自信」

「あなたが好きだわ。愛してるのよ。でも、この嵐みたいに、あなたを散々な目にあわせて、すぐどこかへ行っちゃうかも知れない」

「君は嵐じゃない」

 浜田は抱きしめ、唇を合わせた。目をとじたのは浜田で、敏子は大きな目をあけていた。どこやら怯えたような色があった。

運転手

 浜田は長距離トラック便の運転手になった。経験は充分にあり、最初の往復ですぐ勘をとり戻した。帰って来るとアパートで敏子が待っていて、以前よりずっと張りのある毎日になったようであった。

 しかし、敏子がかなりなげやりな感じでその生活に入っていたことに、浜田は気づいていなかった。ただ、彼女がアパートに住む女たちとしっくり行かず、周囲の女たちからもよく言われていないことだけはすぐ判った。

 浜田はそれを当然なこととして受取っていた。敏子がこんなボロアパートの住人たちとうまく行くはずはないと思い、ときどき彼女がそのことで愚痴を言うと、ひたすら自分の責任だと感じて敏子をなだめるのであった。

 浜田にとって、その問題の解決策ははっきりとしていた。アパートを移ればよいのである。その程度の金の用意はあったし、適当なすまいさえ見つかれば、すぐにでも引っ越す気であった。

 しかし、敏子が余り乗り気ではないようだった。敏子のために引っ越すのに、当の敏子をくどくどと説得しなければならないという、妙な事態になっていた。敏子は浜田になぜ転居したくないのかと尋ねられると、きまって、金がもったいないからだと答えた。

 その答は或る程度浜田を満足させた。自分のことを思ってのことだと感じ、敏子が一転してこのつつましやかな生活に入って、それなりに努力しているのだと、いじらしく思ったりした。

 だが実際には、敏子はそういう考え方で転居に反対していたのではないようである。お金がもったいないわ、と言う時の敏子の表情を、浜田はもっとよく観察し、分析して見るべきであった。投げやりで、どこか傍観者的なところがのぞいていたのだ。

 敏子はどうやら本気で転居の費用を、もったいないと思っていたらしい。敏子にして見れば、浜田と一緒なら、どこへ移り住んでも五十歩百歩であることが判り切っていたのだ。浜田は夢中になって新しいすまいのことを考えていたが、それはせいぜいふた部屋に小さな浴室がついた程度のことで、それもいま住んでいる場所とそうかわらない地域の、木造アパートなのであった。

 浜田が敏子との新居の候補に高級マンションまでを考えに入れなかったことは、迂闊と言えば迂闊だったし、当然と言えば当然でもあった。ただ、たとえ考えに入れたとしても、それはとうてい浜田にとって実現不可能な夢であったろうし、敏子もそんな無理を彼に強いる気はまるでなかった。

 敏子にして見れば、浜田のそうした配慮がわずらわしかったに違いない。かりに浜田の最高の処置を彼女がうけいれても、彼女がなれ親しんで来たすまいの水準には遠く及ばないのだし、それならいっそ今までどおり国電の土手にそった、以前ドブ川があったガードのそばの安アパートでも同じことなのであった。そんなすまいのことなどより、浜田が昔どおり寡黙で淡々として、窓から吹き込んだ風のように敏子を迎え入れてくれれば、彼女は浜田をただ一人の男として尊重したはずであった。そういう浜田なら貧しくて当然だし、敏子もその貧しさに誇りを持って生きて行くことができたかも知れない。本来敏子はそういう浜田に魅かれ、それを愛することで自分も何かから救われようとしていたのである。

 ところが、敏子が浜田を愛した瞬間から、浜田は別な男にかわってしまった。野心を持ち、富に憧れるようになってしまったのだ。それが自分のせいだと判っているだけに、敏子はいっそうやり切れないのである。浜田のような男にそんな毒を与えてしまったことがくやまれ、簡単にかわってしまった浜田に不甲斐なさを感じてしまうのだ。浜田はもとのままであることがいちばん美しい。それなのに、欲を持ってしまった。欲を持つにはもう遅すぎるのだ。そんなことなら、昔なじみの久松庸介のほうが、余程立派な男であった。欲のある男としてなら、浜田五郎は未熟で頼りなくて、とてもお話にならない存在であった。

 それでも敏子はしばらく耐えた。浜田をそんな風にしてしまったのは彼女の責任であったし、彼が一時の迷いから醒めて、本来の姿をとり戻してくれる望みが残っていないわけでもないと思ったからである。

 だが、浜田の今度の仕事は家を留守にしがちであった。疲れ切って帰ると、まず必要なのは熟睡することであった。そして、体力をとり戻すとまた重いトラックを運転して遠くへ突っ走って行く。ろくに語り合う機会もなかったし、いかにも生活に追われていると言ったみじめさを感じずにはいられなかった。敏子はしだいに陽気な笑顔を失ない、冗談や得意の悪ふざけなども、気力が失せてする気がなくなってしまった。

 そういう生活がひと月かひと月半もつづくと、浜田の留守中、敏子の足は自然に久松庸介のもとへむかってしまうのであった。辛気臭い浜田との生活から久松の世界へ戻って見ると、そこは相変らず活気に溢れてまばゆいほどであった。何度かこっそり久松に会っている内に、敏子はアパートへ戻るのが億劫になって来た。酔ってつい帰りそびれた晩をきっかけに、浜田が帰ると判っている時でも、久松に抱かれて睡ってしまうことが多くなった。

 浜田はそういうことに対しても慣れていなかった。どう考えても浮気の外泊と判り切っていそうなものを、自分を欺し欺しなんとか敏子を信じようと努めるのだ。敏子が高村家へ戻っていたと言えば、そうか良かったなと簡単によろこんで見せるし、友達と遊んでいたと言えば、そうか楽しかったろうと微笑して見せるのである。そして、そういう見えすいた嘘をつくたび、敏子はいっそう苦しまねばならなかった。

 自分に対する浜田の不信が手にとるように判っているのである。いかに苦しみながら浜田がそれをおさえつけているか、自分のことのように感じ取れるのである。そして、浜田のそういう忍耐が、結局は自分をいっそう苦しめるのだと感じはじめたとき、敏子は遂に浜田のアパートから逃げだした。久松庸介という男は、そんなとき最も効果的な解毒剤であり、麻酔薬であった。夜の高速道路をジネッタが唸りをあげて突っ走り、敏子を知り抜いた久松の体の下で、彼女は蜜をしたたらせて泣いた。

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