そして浜田は、敏子の戻らぬ日々を、じっと耐えるしかすべがなかった。しかし、或る日仕事から戻って、車を仲間のトラックの列の中へ入れようとバックさせていて、彼はとなりの車に強くこすりつけてしまった。それはありがちなミスであったし、特に問題にされるほどのことでもなかった。しかし、浜田にして見れば、われとわが身を疑うような大ミスであった。
愕然とした。自分がいかにみじめな状態につきおとされていたか、心の底から思い知ったのである。いかに疲れていても、以前の浜田には決してありえない運転ミスであった。
「おやじさん。俺、やっぱりやめるよ」
事務所へ入ってミスを詫びたあと、浜田はそう言った。
「なんかあると思ってたよ」
おやじさんは同情するように言い、強いて引きとめなかった。その男にも、浜田のひどい精神状態が判っていたらしかった。
「調子が戻ったら、またいつでも来いよ」
おやじさんはそんな言い方で浜田を励ましてくれた。そして、長距離トラックの運転手をやめた浜田がすることはただひとつ、もう一度敏子に会うことであった。
それはもう秋のおわり、というより、冬がはじまった頃であった。
敏子が高村家へ戻ってなどいないことは、浜田にもとっくに判っていた。ほかに男がいたことも、どうという証拠がなくとも判っていた。
あのジネッタの男だ。
浜田はそう直感していた。一度きり、しかも車を見ただけだったが、彼は確信を持っていた。そして、敏子のうしろにひろがる未知の社会に、自分でも空おそろしくなるほどの烈しい怒りを感じた。そこにはプールサイドの夏があり、ジネッタをはじめとするスマートな車の一群があり、贅沢なマンションの部屋と粋な着こなしがあり、そしてなんとも理不尽な富者の笑い声があった。
なぜだ。なぜ貧しい者から女まで奪うのだ。なぜ女は貧しい者から逃げ出すのだ。……浜田は、心の中で絶叫しているようであった。彼はその絶叫をくり返しながら、敏子がいそうな夜の街を歩きまわった。敏子にめぐり会うまで、歩いて歩いて歩き抜くつもりであった。
そして会った。
それは六本木にある小さな喫茶店であった。歩き疲れた浜田がその店へ入ってコーヒーを注文し、ぼんやりと入口のほうを眺めていたとき、薄手のコートを袖を通さずに羽織った敏子が、ほどよく肉のついた大きな男と一緒に、さりげなく入って来て浜田のすぐ前のテーブルについたのであった。
男は浜田に背を向けて坐った。敏子はそれに向き合い、浜田のほうへ顔を見せて坐った。かなり長い間、敏子は浜田に気づかずにいた。浜田は動悸がおさまるまで、じっと体を堅くして待っていた。
敏子の顔には、ときどき浜田に見せたことのない、すがりつくような表情が泛ぶようであった。そして浜田は、その表情を失った宝石でも見るようにみつめていた。
ふと、目が合った。
そのとき示した敏子の反応は、浜田にとって、敏子にもあるまじきうろたえぶりに思えた。顔色を変え、目をそらし、うつむき、また顔をあげて、怯えたように浜田を見たのであった。あら……と言って微笑し、図太いほど平然としていて欲しかった。それでこそ、貧しい男を棄てた女であろう。しかしそうではなかった。ごくありきたりの、五分と五分の立場でつき合えそうな女の態度であった。
敏子の表情の変化に気づいて、男が振り返った。無礼にも、なめまわすように浜田を眺めたのである。やがて男は目を細め、ニヤリとした。
「ほう、運転手がいるな」
浜田はそれを無視して立ちあがった。
「敏子、話がある。ずっと探していたんだ」
敏子は詫びるような目で浜田をみつめた。
「とにかく一緒に来てくれ」
敏子は腰を浮かしかけた。浜田が一、二歩近寄ったとき、男が腕をさし出して道を塞いだ。
「失礼だろう。俺にことわりもなしに」
「君に関係ない」
「ある。俺はあんたに言って聞かせることがあるんだ」
浜田は男を見た。贅沢な腕時計をしていた。
「いいか、人にはそれぞれ持ち分というものがある。どう考えたって、敏子は運転手には無理だ」
「何が無理だ」
「庸介、よしなさいよ」
敏子がとめた。
「俺も自分で車を運転するが、会社には運転手を二人やとってある。世間なみの給料は払っているつもりだから、君の給料と似たようなもんさ」
「それがどうした」
「世の中、金ばかりじゃないことは知っているが、苦労の八割は金でカタがついてしまうことも事実だ」
「何を言いたいんだ」
「俺はその八割をかたづけられるってことさ。あんたじゃ敏子はしあわせになれないね。冷静によく考えてみるんだな。こいつを知ってるんだから、そのくらいのことは判るだろう」
「金がすべてじゃない」
「困った人だね。そんな子供じみたこと言ってないで、敏子を楽にしといてやれよ」
「君たちは結婚するのか」
「おいでなすったね。どこからどこまで紋切りがたでやがる。するかしないかはこっちの勝手だ。運転手に相談することもないだろう」
「運転手で悪いか」
浜田はたまりかねて呶鳴った。すると男は同じような大声で答えた。
「悪いね」
「なぜだ。親の金で楽をしている奴がそんなにえらいのか」
「どんな金だろうと金は金だ。こいつは運転手には無理なのがどうして判らないんだ」
「なぜ無理なんだ。誰がそんなことをきめた」
突然はじまった男二人の呶鳴り合いに、店の中はしいんと静まり返っている。
「うるせえっ」
久松は立ちあがった。
「それなら言ってやろう。電車が来るたび揺れるアパートで、敏子をどうできるって言うんだよ。たかがのろまな運転手のくせしやがって。分に過ぎた女をお粗末な人生のまきぞえにしようったって、そうは行かねえや」
浜田の右肩がさがり、またあがったとき、彼の拳が久松の顎につきささっていた。久松は丸く小さなテーブルの上へ倒れ、テーブルが横に倒れたはずみに、そばの洋菓子のショー・ケースに当たってガラスが砕け、白いクリームをのせたケーキの上に破片が突きささった。敏子は素早くとびのいて、レジのほうへ身を寄せていた。
「お客さん、いいかげんにしてください」
ショー・ケースの内側で中年の男が喚いた。
「どうしてくれるんです。警察を呼びますからね」
すると久松がふてぶてしく笑いながら立ちあがり、
「いいよいいよ。金を払えばいいんだろう。そう怒らないで丸く納めてくれよ」
と言った。
浜田はこわれたショー・ケースの前を通って、レジのところにいる敏子のところへ行った。内側にいる男がまた大声で言う。
「そっちの人、出てってください。乱暴する人は困るんです。帰ってください」
浜田は敏子をみつめた。
「どうなんだ……」
敏子の目に涙が溜っていた。
「なさけない……」
早口でそう言い、くるりとうしろを向いてしまった。
「何してるんです。早く出てってください」
浜田はその声に押し出されるように店を出た。暗い道に冷たい風が吹いていた。彼は方角もきめず、体を前に倒すようにして足早にその場を離れた。
浜田は泣いていた。
地 図
石油ストーブが燃えている。南川ヒロシはそのそばへスチール・デスクから椅子をふたつ引っぱって来て言った。
「ここは北向きで寒いんだよ。ちょうど小野たちも使いに行って留守だし……」
浜田が入口で鼠色のコートを脱いでいるところであった。
「待っててくれよ。とにかくお茶でもいれるから……」
「いいんですよ。おかまいなく」
南川は仕事部屋から消え、すぐにポットと急須などをのせた丸い木の盆を持って戻って来た。
「ミー子の仕度がいいから……。あれでなかなか気がきくんだ。まあ坐りなよ。久し振りだね」
「ごぶさたしちゃって……」
「聞いたよ」
そばのデスクの上でお茶をいれはじめながら、南川は柔らかい調子で言った。
「何をです」
「高村先生のとこを出たんだってね」
「ああ。だいぶ以前のことです」
「今、何をしてるの」
「今ですか」
浜田は言い澱み、
「別に」
と答えて力なく微笑する。
「でも、その気になればいくらでも仕事はあるんだろう」
「ええ、それはまあ」
「はい、どうぞ」
南川は茶碗を浜田に渡した。
「茎《くき》茶とか言って、わりとうまいお茶だよ。ミー子の実家からもらったんだ。あれは京都の子でね」
「ほう、そうですか」
二人はしばらく黙ってお茶をのんだ。
「君はいい人だ」
南川がしんみりした声で言った。
「敏子さんと別れたほうがよかったかも知れないね」
「運転手ですから……」
「職業や地位など関係ないさ。もし関係あるんだったら、いい女は上から順番になっちゃう」
「南川さんは結婚しないんですか」
「するよ。実はミー子をもらうことにしたんだ。年貢の納めどきって奴さ」
「それはおめでとうございます。いい人ですからね、ミー子さんは」
実を言えば浜田はそのミー子の本名すらまだ知らないでいる。だが、南川はどうやらどこかで敏子とつながりがあるらしく、浜田のことについてはかなりくわしくいきさつを知っているようであった。
浜田は茶碗をそばに置くと、あらたまった様子で言う。
「あの、能登のことを少し聞きたくて……」
「能登のこと……」
南川は浜田をみつめた。
「君のほうがくわしいはずじゃないか。俺はまだろくに行ったこともない」
「時国のことです」
「時国。ああ、嘆き鳥の件か」
「ええ。ざっくばらんに言いますと、敏子と……敏子さんとあんな風になっちゃって、仕事する気にもなれないんです」
「いけないねえ。しっかりしてくれなきゃ……」
「すいません。それで、しばらく能登へ行って頭を冷やそうと思うんです」
「ああ、そいつはいいや。賛成だな。早く元気をとり戻さなくてはな」
「それで、ついでだから嘆き鳥のことも少し教わって行こうと思ったんです」
「どうする気だい。まさか宝さがしじゃないだろうね」
南川は笑った。
「来年の春になったら俺も行ってみるつもりなんだ。宝さがしにね。やっとスケジュールの目安もついて……ずいぶんのびのびになっちゃったが、仕事が忙がしくてね」
「とにかく、自分の体にある痣のことですし」
「それはそうだ。君が本家本もとみたいなもんだからね」
そこまで言って、南川は急に眉をひそめた。
「ひょっとして……」
調べるような目付きで浜田を見てから、太いため息をついた。
「ひどい人だな、敏子さんも」
「は……」
「そうか。君がそこまで深く傷つけられてしまったとは思わなかったよ」
「なんのことです」
「君は本気なんだね。本気で嘆き鳥を探すつもりなんだろう」
浜田はうつむいて黙っていた。
「なんとかしてあげたいよ。実は俺もあの久松庸介という男を少しは知っているんだ」
「久松庸介……」
鸚鵡返しに浜田は言った。あの晩庸介と言う名を敏子が口にしていた。
「にぎやかな奴で、人の面倒を見るのが好きらしいが、徹底した道楽息子でもある。人の面倒を見るんだって、まわりをにぎやかにして置きたいからなんだ。思いやりとか同情心はどこかへ置いて来ちまってるような奴さ。がむしゃらに人と争うが、いざとなると……なんというかな、自分のまわりにめぐらせた金の壁の中へ逃げ込んじゃうような奴だ。君とは正反対の男だよ。俺もああいうのはあんまり好きじゃないんだ。でも、ちょっと特殊なタイプだね。君がああいうのを相手にしてムキになることはないさ」
浜田は首を振った。
「違うんです。もう彼女やその久松とかという人のことは関係ないんです。でも、僕は僕なりにやり直したいんです」
「それで嘆き鳥かい。いけないね。それは反対だ」
「一生に一度、夢を追って見たいんです」
「埋蔵金にとりつかれて一生穴を掘りつづけてる人もいるよ」
「いいえ、しばらくの間だけですよ。それも、自分の体についていることなんです。持って生まれたことなんですよ。人間はみんな、持って生まれたものの中で生きて行くんでしょう。敏子、さんは僕が持って生まれた分以上の人でした。でも、嘆き鳥なら生まれたときから僕の肌についている……」
「誰かにそんなことを言われたのかい」
「いいえ」
「まあ、だいぶ思い込んでいるようだけど、それなら来年になってから俺たちと一緒に行かないか。もちろん遊び半分だけど、小野も行くよ。そのほうがいい。平家の宝物なんてのにとりつかれたら一生が台なしになる」
浜田は微笑した。
「みなさんが行く頃には東京へ戻っていますよ。僕にはいま能登へ行くことが必要なんです。行って、僕が持って生まれた分というのをよく考えて見ます」
「やっぱり言われたんだな。久松の奴だろう、そんな汚いことを言うのは」
「万一僕が宝にとりつかれたとしても、春には南川さんたちも同じ所へ行くんでしょう。僕がとりつかれていたら連れ戻してください」
浜田は笑いながら言った。南川は返事に困ってその笑顔に合わせた。
「なるほど、そう言えばそうだな。それに君のような人が、夢のような話にいつまでもこだわりつづけているわけもなかろうしね」
南川は立ちあがり、デスクの抽斗をあけて四角く畳んだ紙をとりだした。
「おいでよ、ずいぶん研究したんだけど、君に宝のありかを先に教えちゃおう」
「すいません」
浜田は南川のデスクへ近寄った。それは五万分の一の地図で、輪島の少し手前を西の端、能登飯田のあたりを東の端にして、能登半島を南北にまっすぐ割った形になっていた。
「俺がどんな考え方でこれから言う場所を時国家の宝が埋まっている場所だときめたか、そいつは君に説明してもしようがない。だから結論を言おう。例の嘆き鳥が渡って来た場所というのは、このあたりだと思う」
南川は地図の左上の四分の一を斜めに切っている日本海の上に指を置き、それをずらせて曾々木海岸のあたりを示した。
「ここだよ。町野川の流域だ」
その川口は大川浜と言い、そこからほぼ真南の角度で、一本の川が両岸にかなりの面積の平地を作って蛇行しながら、半島の中央部へ這いのぼっている。その川口を少し山へ入ったところに、今は観光名所となったふたつの時国家があり、地名も西時国、南時国と呼ばれている。
「時忠の時代までに、能登で荘園の立券《りゆうけん》状を得ているところというと、鳳至郡では町野庄と志津良《しづら》庄のふたつしかない。ただし、この町野庄の当時の領有関係については、今では何も判らなくなってしまっているんだ。しかし、同じころ能登にあった他の荘園の持主は、東大寺、西大寺、大伴氏、醍醐寺、後白河院、八条院、皇嘉門院などだから、似たようなところが持っていたと考えてさしつかえない。俺は後白河院だろうと思う。時忠とは深い関係があるからね。それで、二代目の時国がこっちのほうに移り、町野川の治水か何かをしてこのあたりを自分の領地のようにしたはずなんだ。これは俺が時国家の秘宝というのを、神鏡だと仮定したから出て来た答なんで……。いや、説明してもはじまらなかったんだな」
南川は苦笑した。
「とにかく、探すならこの辺りを探すんだね。ここは、はじめ時忠が住んだ大谷のあたりの角間川や名ヶ谷川よりずっと大きな川だし、伝説の烏川に至ってはお話にならない小さな流れだ。俺はその渡り鳥を水鳥ではないかと睨んでいるんだが、どっちにしろ、このあたりは妙に平家風というか京都風というか、そんな感じのする地名が多いんだ。とにかく、君が行ってまずマークしなければならないのは、この町野川からすぐ西へ分れる支流の先きにある金蔵という場所だ。五郎左衛門とか弥十郎とかという地名の多いところだから、金蔵だって人の名かも知れないが、その南には金山《かんやま》という場所もある。それからここだ」
南川の指は更に川をさかのぼった。
「鴨川があって鴨《かもん》 平《だいら》がある。更にその先、川は柳田村へ入って河内川と呼ばれるようになる。この辺りは過疎現象が起っているらしいから、脇道などは荒れてしまっているかも知れないが、その川を西へ向えば上《かみ》、下《しも》、北《きた》などにわかれた河内という土地へ入る。そのあたりや極楽寺というあたりも、是非調べて見る必要があるし、町野川を西へ入らずに南へ直進すると、その道は内浦側の宇出津《うしつ》へ続いている。宇出津にはキリコ祭りで有名な八坂神社があって、これも調べなければならない。チェックする要点は、鳥とか鏡とかに関係するものだ。名前でも形でもなんでもいい。また、どうしても町野川ぞいに歩いて何もピンと来るものがなければ、下流の川西というところから真東へ分れている支流をさかのぼって、宝立山《ほうりゆうざん》などへも行けたら行って見るといい」
「有難うございます」
「この地図を持って行くといい。ひまさえあればこいつと睨めっこをしていたんで、あちこち書き込みで汚れてしまっているが、かえってこれが役に立つかも知れない」
浜田は何度も礼を言ってその地図を畳み、大事そうにコートの内ポケットへいれて南川のオフィスを出て行った。
浜田が帰ると、南川は太い溜め息をついた。窓の外は、雪でも降りそうな曇り空であった。
再 会
その冬は全国的に降雪が少く、各地のスキー場の中には、人工雪で急場をしのぐところもあった。南川は冬の間中、浜田からの連絡を心待ちにしていたが、冬がおわり、春がはじまっても、浜田はいっこうに連絡して来なかった。
国電の線路の土手下にある家の古びた板塀の中から突きだした、あのひねこびた桜の木にまた花が咲き、どこかうす汚れた白さの花びらが風に散っても、そのあたりにもう浜田の姿は見えないのであった。風呂屋の主人は嘆き鳥が姿を見せなくなった当座、一、二度浜田のことを思い出したが、今ではもうすっかり忘れてしまっている。
そして、そんな春の或る夜、敏子の姿が上野駅にあった。
「君も来ればいいのに」
登山仕度のようないでたちで、南川が敏子に言った。
「よしてよ。もうたくさんだわ」
そばに同じような身仕度の小野が立っていた。
「俺、浜さんが可哀そうでしょうがないよ」
小野は敏子を睨んで言った。
「あたしが悪いのよ」
敏子はその目をじっとみつめ返した。
「でも、今行ってあの人に会えたって、もうどうにもならないわ」
南川がとりなすように小野の肩を叩く。
「厄介なもんさ、人生って奴は」
「でも、浜さんは誰にも毒を与えない人だった。馬鹿じゃないかと思うくらい、そっと生きていた。みんなの邪魔にならないようにね」
「小野ちゃん、そう責めないでよ」
敏子は力なく笑った。
「それより、彼を見つけてね。お願いするわ」
南川が頷いて見せる。
「嘆き鳥調査団が浜さんの捜索隊になっちまったな」
小野がボヤいた。
「まあいいじゃないか。ああいう人はいったんこうと思い込むと、とことんやるのかも知れない。案外夢中でしらみつぶしに歩きまわっているかも知れない」
「そうであることを祈るわ」
「君はそれでどうするんだい。また久松と喧嘩したって言うじゃないか」
「何が何だか判んなくなっちゃった。あたしって、下らない女ねえ。庸介と長つづきしっこないのは、ずっと昔に判ってたはずなのに」
「言っちゃ悪いがあいつは駄目さ。誠実さってものがまるでない。頭がよくて教養があるだけに余計始末が悪いのさ」
「来たわよ」
列車が入線して来た。ホームの人々がいっせいに動く。
「きっと浜さんを連れて帰る。嘆き鳥の件では俺にも責任があるからな。宝さがしなんて、遊びならともかく……」
「休みがとれたからと言って、彼を見つけても一緒に宝さがしなんかしないでね。そんなことはただの夢なんだって、よく判らせてくれなければ困るわよ」
「判ってるさ。それに、いくら浜さんだってそう子供じゃない。俺たちが連れ戻しに来たと判ればすぐ帰るさ」
「じゃ、あたし帰るわ。小野ちゃん、彼をお願いね」
敏子に肩へ手を置かれて、小野は眩しそうな顔をした。
「ねえ、南川さん」
敏子のうしろ姿を見送って小野が言う。
「なんだ」
「彼女、どうなっちゃうんですかね」
南川は肩をすくめた。
「まるで将来なんて頭にない女性だな。やってくる日々に体をあずけていれば、結構なるようになってしまうという感じだ。ああいう風になって見たいよ」
「美人はとくだなあ。生まれつきなんだからどうしようもないけど」
南川は荷物を持ちあげながら小野を見た。
「生まれつきか」
「そうでしょう、だって……」
「君はそんなことを考えないほうがいい」
おしかぶせるような言い方であった。
「たとえ誰かに言われたって、そんなことを気にするな。君の人生は君のものだ。みんな自分なりに生きるしかない。人とくらべてどうなると言うんだ」
南川はグリーン車のほうへ歩きだした。
「でもいいや。南川さんにくっついていれば、俺はグリーン車に乗れるんだから」
「こいつ……」
二人笑った。
浜田はまるで乞食か気違いのように思われていた。能登生まれと言っても、すでに知人などは一人もいなかった。したがって、一般民家に長期の宿を借りることは不可能で、町野川ぞいにはそういう長期の客を泊めるような旅館もなかった。
仕方なく彼はその冬のあいだ、海岸ぞいにある民宿のひとつに泊り込んでいた。毎日昼の弁当を作ってもらい、中古の自転車を買って川ぞいの道を通勤するように上流へ向かうのである。
はじめ、浜田はたしかに富を追い求めていた。敏子をそれで買い戻せると思ったわけではないが、自分が生まれながらに社会の下層にしか住めない人間だという考えを、その富で追い払おうとしていたようである。もちろん、それとても本気で心の底から考えていたのではなく、とにかくそうやっているうちに心の傷が癒えて、以前の平穏な生活に戻れるのではないかと期待していたのだ。
いくらかのたくわえはあって、それを全部持ち出して来たから、民宿程度ならまだ当分そうやって能登にいられるはずであった。しかし、その夢を追うような宝さがしの日々の内に、浜田はたった一人で山や川を相手にしている生活が、この上もなく自分の性に合っていることを発見した。山へ登り谷へおり、それこそ草の根をわけるような孤独な探索が、彼の心に静かな幸福感をもたらしはじめたのだった。
「浜さんは人間嫌いながやねえ」
人の好い民宿のおかみさんが、ときどきそんなことを言った。
「そうなんだよ。俺はたくさんの人の中ではうまく生きて行けないらしいんだ」
自嘲は能登へ来てから消えてしまっていた。それは浜田の率直な感慨であった。なぜか浜田は、自分がこうして生涯嘆き鳥を追うために生まれて来た人間であるような気がして仕方なかった。家も金も仕事も女も、この能登という土地へ来てから、まるで関心がなくなってしまっていた。すべての欲が嘘のように消え去り、ただ山や谷を歩きまわれる毎日がうれしかった。
あくまでも、歩きまわる目的は嘆き鳥であるから、浜田は村ごとに里ごとに、鳥とか鏡とかという地形や地名について尋ねまわってはいた。しかし、鏡池とか鳥山とかいう地名などは、どこにでもありそうでいて、その地方にはまるでないようであった。それでも浜田は失望しなかった。金のつづく限りその地にとどまって、平穏で満ちたりた山歩きを続けていたかったのである。
その平和な日々を破ったのは、小野であった。
「おーい、浜さあん」
或る日、下時国家のあたりの道で、浜田はうしろからそう呼びとめられた。反射的に自転車のブレーキをかけてふり返ると、リュック・サックを背負った小野が両手を烈しく振って合図をしていた。
予期しないことではなかった。春になれば南川たちがやって来ることは判っていたし、来れば必ずこの町野川ぞいのどこかでめぐり会うはずだと思っていた。あとひと月、あとひと月と能登を去る日をのばしたのも、心の底で春になれば南川たちに会えるという心づもりがあったからであった。しかし、それが現実になって見ると、何やらわずらわしいだけであった。
「やあ、元気かい」
下時国家から出て来たらしい南川が現われて、大声で言った。浜田はニコリとして見せ、軽く頭をさげた。
「心配したんだぞ。敏子さんだって……」
小野が言いかけ、
「とにかく約束どおりやって来たよ」
と南川がその言葉をさえぎった。浜田はボロボロになってしまったあの地図をとりだして南川に渡した。
「有難うございました」
南川は黙って受取り、しばらく浜田を観察していた。
「よかったね」
ポツンと言って手をさしのべる。
「ええ」
浜田は軽くその手を握った。
「見ろ、心配することはなかったじゃないか。浜さんは見事にもとの浜さんにかえっている」
小野がなるほどというように、南川へ目で頷いて見せていた。
「どうだい、嘆き鳥の調子は」
「いやあ……」
浜田は照れたように笑った。
「駄目か」
頷く。
「駄目でいいのさ。俺もあれを探す気はなくなったよ。君を探しに来たんだ」
「久田《きゆうでん》の先に、なんし岩というのがあるそうなんです」
南川が言うとおり、すっかり以前の寡黙な男に戻っている浜田がボソボソと言った。
「久田《きゆうでん》」
すると浜田は渡したばかりの地図を南川からとりあげ、さっと指で示した。もう知り尽しているといった感じであった。
「辺鄙《へんぴ》なところらしいな」
浜田はこくりと頷く。
「もうよせよ。堪能したろう。山の中のほうが君の性に合ってるかも知れないが、いつまでいてもきりがないさ」
浜田は黙って笑った。
「なんし岩……一緒に行きましょう」
「おやおや」
南川は小野と顔を見合わせて笑いだした。
「浜さん、一緒に俺たちと帰るだろ」
「うん」
「仕事も探してあるんだ。マイクロ・バスだけどさ。いい仕事だぜ。歌手や俳優なんかを乗せてまわるんだ」
「有難う」
浜田の笑顔にはかげりがなかった。
「よし」
南川は手を打った。
「そのなんし岩という奴を、宝さがしのうちどめにしようじゃないか。今日一日そこへ行って、それでおしまいだ。いいね」
「はい」
「ジープを借りてあるんだよ。それで行こう」
南川は浜田の肩に手をあてて、川下のほうへ歩きだした。
巨 岩
ジープに三人が乗っている。浜田が久しぶりにハンドルを握っていた。道は曲りくねった川にそって、山の奥へ伸びていた。
「なんし岩か」
南川がのんびりと言った。
「それが最後だけれど、その最後で一発当てると愉快だな」
「そうは問屋が卸すもんですか」
小野がからかった。
「そう馬鹿にしたものでもない。なんし岩、なんし岩と……。案外本物かも知れないぜ」
「またはじまった。南川さんのはこじつけばかりなんだから」
「なんし岩というのはどういう岩なんだ」
南川は浜田に尋ねた。
「今日はじめて行くんです」
「大きい岩かね」
「そうらしいです。四角いんだそうで……」
「四角い大きな岩か。面白そうだな」
「面白がってちゃいけないんでしょう」
小野が注意した。
「なんし、とはどういう意味だ」
「さあ」
小野は首をひねり、
「どうして、とか、なぜ、とかいう言葉じゃないですかね。なんして、とか、なんしに行く、とか使いますよ」
「なんしに行くがか、おらもよう判らん」
南川は土地の人の喋りかたを真似て笑った。
「そうだ」
突然南川が大声をあげた。
「時忠の宝が神鏡だとすると、なんし岩というのはいい線行ってるぜ」
「浜さん、本気にしないほうがいいぜ」
小野が忠告した。
「いいか、嘆き鳥が特殊な鴨の仲間だったとしようか。それが町野川上流の、鴨《かもん》 平《だいら》とか鴨川と呼ばれる所に渡って来ていて、そういう地名の元にもなった。そうだ、鴨だよ。嘆き鳥というのはしゃれすぎてる。やはり平家の人間がつけた綽名に違いないな。そして、嘆き鳥がどんな形の鳥かは一般の人間には判らない。形を知るには浜さんのような痣を見なければならない。そして痣の形を見たら、なんだ鴨《かもん》 平《だいら》へ来る鴨のことじゃないかと判るんだ。そして、かくし場所がそのあたりだとなると、当時の人はごく自然にその近くのなんし岩に神鏡がかくされていると判る」
「なぜ、なんし岩なんですか」
浜田が尋ねた。
「なんし、は、ないし、の訛ったものじゃあるまいか」
「ないし……」
「そうだ。宮中では、天照大神の御霊代を安置する場所を、賢《かしこ》 所《どころ》と言うんだ。知ってるだろう」
「賢《かしこ》 所《どころ》……聞いたことあります」
「アマテラスの御霊代というのが、問題の神鏡なのさ。はじめのうち三種の神器は天皇が住むところに一緒にまつられていたが、崇神天皇の時に大和の笠縫邑《かさぬいのむら》へ移され、摸造の剣と鏡を宮中へ置くようになったんだ。そしてあとになって、鏡だけ別の建物に安置されるようになり、そこを賢《かしこ》 所《どころ》と呼びはじめた。おそれかしこむ場所さ。鏡は一番大事にされていて、今でも内掌典《ないしようてん》という役名の、未婚の女性がそれを取扱う係りになっている。その係りの役名を、古くは内侍《ないし》と呼び、内侍所《ないしどころ》と言うと、賢所の別名になるんだ」
「それでなんし岩か……」
小野が感心したように言うと、南川はニヤリとして、
「だといいがね」
と言った。
「なんだ、またこじつけですか」
小野が口をとがらせた。
「でも、平時忠の妹の滋子は後白河上皇の女御になって、建春門院と呼ばれたんだが、その建春門と言うのは内裏の東の宣陽門の外にあって、賢所とはすぐ近くの位置をしめている。まんざらこじつけでもなかろう」
ジープはガタガタと揺れながら脇道へ入りこんでとまった。すぐ近くにひとかたまりの家が見えている。
「あれが久田《きゆうでん》です」
浜田はその屋根を指さして言った。
「なんし岩はこっちのはずです」
まるでその土地に昔からいる人間のように、浜田は心得たようすでジープをおり、二人の先になって歩きはじめた。ところどころに細長い沢がえぐれている山の中を、まっすぐに進んで行く。
「久田から来ている道です」
浜田は道のない山の中から、細い一本の道へ出るとそう言った。
「少し行くとふたまたにわかれていて、湧き水のあるほうへ行けと言われました」
「誰に聞いたんだ」
「久田の老人です」
しばらく行くと、道は左右に分岐していて、その右側に石で囲った小さな水飲場のような湧き水があった。
「もうすぐだね」
「ええ」
三人の足が早くなった。その一行の前が急に明るくなり、くろずんだごつごつの岩場がひらけた。
「あれだ」
浜田が指さした。南川はそれを見て唖然とした。高さは八メートル以上あって、一辺は優に二メートルもある四角い墓石のような巨岩であった。
「おい、こいつはおかしな岩だぞ」
南川はそう叫んだ。
「人工のものみたいだ」
小野がみあげて言った。
「でも、ごつごつしてる」
浜田が反論するように小野を見た。
「人工のものならもっとつるりとしてるんじゃないかな」
「でもまっ四角だ」
「まっ四角かどうかは測って見なければ判らないさ」
南川が口をはさんだ。
「どちらにせよ、ちょっとおかしい。いや、わけは判らないが、ただの岩じゃないような気がする」
「掘って見ましょうか」
浜田は自転車から外して来たズックの袋をあけ、小さなシャベルを出して折り畳み式の柄を伸ばした。
「よし、俺がやる」
南川はそのシャベルをとりあげ、岩の根もとを探りまわった。
「登れそうだな」
小野はリュックサックをおろし、手に唾をふきかけて岩にとりついた。でこぼこがあり、うまく登れそうであった。
浜田と南川が岩の下を熱心に掘り出そうとしていた。基部を見れば人工のものかどうか判るはずであった。
「この岩、おかしいよ」
遊び半分に岩へよじ登った小野が突然叫んだ。
「なにかあったのか」
南川が上を見て言った。
「ほら、ちょっとどいていてください。この岩は全部同じかたまりじゃないんですよ」
小野は岩のてっぺんに危っかしく左手をかけ、右手で岩をめくるようにした。すると風化して剥離したらしい岩くずが、バラバラと落ちて来た。岩くずばかりではなく、かなり大きなかたまりまで剥け落ちて来る。