銭 湯
国電の線路の土手下にある家の古びた板塀の中から、細くひねこびた桜の木が一本突きだしていて、どこかうす汚れた感じの白い花びらが風に散り、四角いコンクリートの踏み石を点々と敷きならべた細い道へ舞い落ちている。
轟《ごう》、とまた電車が通りすぎる。浜田五郎は頭上から落ちてくるその音の中を、爪先で跳ねるように踏み石をつたって歩いていた。
綿のスラックスをはいている。もとはずっと黄色っぽかったのだが、洗いざらしてすっかり白くなり、かえって清潔そうに見える。その上に鼠色でVネックの毛糸のセーターを着て、襟《えり》もとからチェックのオープン・シャツをのぞかせている。
きのう雨が降って、その土手ぞいの細い道に溜った水は、まだ二、三日は乾かないはずであった。とびとびに置いてある四角い石のひとつが、溜った泥水の中に沈んでしまっていて、そのかわり横に幅二十センチほどの古い角材が寝かせてある。ところどころに切り込みがあるところを見ると、かつては建物の柱か梁《はり》だったものらしい。
浜田はサンダルばきの足を用心深くその上にのせ、泥水の上を一歩、二歩と古い角材をつたって次の踏み石へ渡った。角材から足が離れるとき、反対側の端が、ポチャッと泥水の音をたてた。
そこから先は踏み石の間隔が狭くなっていて、十歩ほどで舗装した道へ出る。角は木工所で、国電の土手へ材木をたてかけ、いつも電気鋸の耳ざわりな音を響かせているのだが、今日はもう仕事をしまったのか、ガラス戸をしめ切って静かだった。
浜田はその角を曲って、乾いた道をまっすぐに行く。左手にプラスチックの青い洗面器を持っている。その中には、石鹸箱と安全剃刀、それにシャンプーの容器が入っていて、ガソリンスタンドの名前が入ったタオルがかぶせてある。
風呂屋はその道を二、三分行った右側にあった。時間は四時ちょっと過ぎで、ウィークデーなのにまだ陽があるうち風呂へ行けるのは久しぶりのことなのだ。
浜田は青いのれんをくぐり、サンダルを入口の簀の子のいちばん奥のところへ脱ぎっぱなしにして中へ入った。
番台には二十七、八の、どこと言って特徴のない女がいて、まん中が少し摺り窪んだ板の上へ浜田が金を置いても、すぐには受取ろうともせず、うつむいて小さな鑢《やすり》で爪の手入れをしていた。
高く積みあげた笊《ざる》をひょいと取って、浜田は板の間の左側に並んだ鍵つきの脱衣棚の前にそれを抛るように置くと、手早く着ているものを脱ぎはじめた。
板の間には、はやばやとあがった若い男が、白い小さな尻を浜田のほうに向け、鏡の前で、洗った長髪にドライヤーをかけている。それとほかに老人が一人、これも湯あがりの素っ裸で、番台の女に何か話しかけに行こうとしているようだった。
浜田は青い洗面器を持って板の間から重いガラス戸をあけ、まだあちこちタイルが乾いている流しへ入った。四時が開店時間だから、まだ客は何人もいない。乾いた木の桶をとって蛇口《カラン》を押し、湯を汲んでざっと左肩から流した。桶を置くと、コーン、という音が高い天井に反響する。
浅いほうの湯舟へ入って体を沈め、まだ陽が入っている天井の窓を見あげていると、
「今日は早いんだね」
と、となりの湯舟から声がかかった。
「あれ、おじさんもここで入るのかね」
浜田は相手の顔を見ておかしそうに言った。頭のつるりと禿げあがった、血色のいい丸顔の男だった。歳は五十五か六。
「俺だって湯ぐらいへえるさ」
「それもそうだな」
浜田は軽く笑った。
「でも、見違えるね。いつも番台に坐ってるのとだいぶ違うもの」
風呂屋のおやじは、両手で湯をすくってブルンと顔をなでた。
「ふつか酔いなんだ。きのうは休みで寄り合いがあったのさ。少しやりすぎちゃった」
「ふつか酔いか。でも、もう夕方だよ」
「としだねえ。肝臓が参っちゃってるのかなあ」
おやじは、ざあっと湯を溢れさせて湯舟から体を出すと、タイルのへりに尻をのせて両肩をまわした。
「あんた、もう随分この辺《へん》にいるね」
ガラス戸のほうへ向いたまま言う。
「うん」
「どこら辺《へん》」
「ガードのそばの松田さんというアパート」
「ああ、以前ドブだったガードのとこか。あそこはうるせえだろう」
「慣れちゃったよ」
「そうかい」
おやじは笑って浜田を見た。
「何の仕事してんの」
「俺かい」
浜田は一度ガラス戸の向うの番台へ目をそらし、
「運転手さ」
と自嘲気味に言う。
「車の」
「うん」
「タクシー」
「いいや」
「トラック」
「自家用さ」
「ほう、お抱えかね。いいじゃないか」
「あんまりよくないよ。不規則だしね」
「故郷《くに》、どこ」
「石川県だよ」
「あ、やっぱり」
「判るかい」
「加賀じゃねえな」
「うん、能登だ」
「どの辺《へん》」
「外浦《そとうら》だよ。輪島と狼煙《のろし》の間」
「曾々木《そそぎ》」
「もっと先」
「真浦《まうら》の辺《へん》」
「いや」
「じゃあ……馬緤《まつなぎ》か高屋《たかや》」
「よく知ってるね」
「そりゃ、うちも能登だもん」
「へえ、東京の生え抜きかと思ったよ」
「もっとも、今じゃ向うに親戚があるっ切りだ。俺は東京生まれさ。でもよ、風呂屋ってのは能登が多いんだぜ」
「そうだってね。能登、加賀、越中、越後……。死んだお袋がよくそんなことを言ってたなあ」
「東京は越後が多いけど、関西へ行ったら風呂屋は能登だらけだ」
「関西のことは知らないけど、三助は能登の人が多かったんだってね」
「まあそうだ。三助なんてのも、今じゃもうすっかりなくなっちゃったなあ。でもよ、三助をしてれば、いずれ風呂屋になる奴も出て来るわけだ。うちの先祖もきっと三助だな」
おやじは人の好い笑い方をした。
「なあ、三助してやろうか」
「いいよ」
「なぜ」
「遠慮するよ。何だか気持悪いもの」
「畜生」
おやじはまた笑った。
「そういう世の中になっちまったんだな」
「ごめんよ。でも、本当にいいんだ」
「いいよ、いいよ。でも、それにしちゃ、あんた訛りがないな」
「早くに東京へ出て来ちゃったからね」
「早くにって、子供んときにかい」
「うん」
浜田も湯舟から出て、タイルのへりにおやじと並んで腰かけた。
「先《せん》からあんたに話したいことがあったんだ」
「へえ。なんの話」
「あんたのその痣《あざ》さ」
おやじは浜田の右の肩のうしろにある、かなり大きな痣《あざ》を指で軽くつついた。
「ああ、これ」
「知ってるかい」
「何を」
「知らねえのか。お袋さん、能登の人だろ」
「うん」
「聞いたことないのかい」
「何も」
「そうか。だろうな。ひょっとすると、こいつは能登|出《で》の風呂屋しか知らねえことかも知れねえな」
「こういう痣《あざ》に何かいわれでもあるの」
「うん。そいつは鏡に映すと自分で見えるだろ」
「見えるよ」
「じゃあそう思わねえかい。その痣は鳥が飛んでるような形をしてる」
「ああ、小さい頃からみんなによくそう言われたよ。背中に鳥が飛んでるって」
「鳳凰《ほうおう》なんて鳥の絵は、みんなそんな具合だ」
「そうかね」
「うん。で、そういう痣には昔から俺たちの間で、ちょいと粋な名前が付いてるのさ」
「なんていう名前」
「嘆《なげ》き鳥《どり》」
「嘆き鳥か。いい名前だね。痣なんかには勿体ないや」
「うちのすまいのほうに、それとそっくりの形の鳥の絵が飾ってあるんだよ。何代も前からうちにあるんだ。小さい頃、じいさんからよく言われたもんさ。お前は大きくなったら風呂屋になるんだ。風呂屋は嘆き鳥の形をよく憶えとかなきゃいけねえ、ってな」
おやじは昔を懐しむように目を細めた。
「だから、あんたがはじめてこの風呂へ来た時から、俺はずっと目をつけていたのさ。ああ、また嘆き鳥が来たな、ってね」
「どうして風呂屋さんは嘆き鳥を憶えてなきゃならないんだい」
浜田は自分の右肩をのぞきこむように首をひねって言う。
「言い伝えさ。今じゃ風呂屋仲間でも、その言い伝えを知ってる奴は僅かになっちゃったけど、つまりその、何だ。……ほんのおとぎばなし見てえなもんなんだよ。俺だってかいつまんだとこしか聞き憶えちゃいねえが」
「教えてよ。自分の痣のことだもの、知っとかなけりゃ」
「背中流してやろうか」
おやじは先に立って鏡の前へ行った。
小さなプラスチックの腰掛けをふたつ取って並べ、桶に湯を汲んでその上へ半分ずつかけ流してくれた。
「有難う」
「向こうを向きなよ」
「いいんだよ」
「かまわねえよ。サービスだい」
おやじは勝手に浜田の石鹸を取って自分のタオルにつけ、ついでに両手へもつけて顔に塗った。
「こうしとけば脂が抜ける」
おやじは石鹸だらけの顔で笑うと、浜田の背中を洗いはじめた。
「ほんとによく似てやがるなあ。やっぱりこいつは嘆き鳥だ」
「どういう言い伝えさ」
「時国《ときくに》って知ってるだろ」
「曾々木《そそぎ》を入ったとこの、あの時国|家《け》かい」
「うん。平時忠《たいらのときただ》って人の息子だそうだ」
「随分昔の人だね」
「うん。平安時代のおわりごろさ。源氏と平家が戦って、平家が壇の浦で敗けちゃってよ。平時忠は捕虜になって能登へ流されたのさ。その流されて乗った船が岸へ着いたとき、一羽の鳥が飛んでくのを平時忠が見て、鳥が飛んでったほうへ行って、自分たちが住む場所を見つけたというわけさ」
「それが嘆き鳥か」
「うん。もっとも、こないだ週刊誌を見てたら、能登の旅行案内みたいなとこに、烏《からす》だなんて書いてありやがった。ありゃ本当は烏《からす》じゃなくて、嘆き鳥なんだぜ」
「へえ、そうかい」
「そういうわけで、時国家は能登へ来るそうそう、嘆き鳥と縁ができたわけだな」
「それで……」
浜田はおやじに背中を押されるたび、上体を前後に揺らせていた。
「時忠ってのは、平家じゃえらいほうだった。栄耀栄華をしすぎて源氏にやられちゃったくらいだから、平家の財産てのは大したもんだった。金持っていうのは、いつだって危くなれば、いの一番に財産の心配をするもんさ。源氏といくさになりそうになったとき、時忠もどこか安全な場所へ財産をかくしちゃったんだな」
「そうかも知れないね」
「かくしたんだよ。そいで、能登に落着いてから、こっそりそれをあっちへ運んじまったらしい。源氏の目をかすめてな」
「それで時国家というのは代々大金持だったのか」
「かも知れねえ。でも、宝のほとんどは……」
おやじは浜田の背中を流す手をとめ、うしろから勿体ぶった小声で言う。
「実はまだほとんど手つかずのままかも知れねえのさ」
そう言ってから軽く笑った。
「いまだにかい。どうしてさ」
おやじは蛇口《カラン》を押して湯を汲んだ。
「時忠って言う殿さんが、莫大もねえその宝をどこかへ隠しちまって、あとになると肝心の子孫にさえ場所が判んなくなっちゃったって言うんだ」
「隠しすぎか。馬鹿な話だね」
「うん」
おやじは石鹸をぬりたくった顔がこわばりはじめた様子で、浜田の背中をそのままにして、まず自分の顔をざぶざぶと洗った。
「でも、時忠はその隠し場所を、ちゃんと判るようにしといたらしい。なんとかという家来の背中に、嘆き鳥そっくりの絵を描いて、そいつを痣にして消えないようにしたって言うんだが、この話はそこいら辺《へん》からどうも怪しくなっちまうのさ」
「怪しいって……」
「眉唾さ。その家来の痣は、一代じゃなく、子孫代々うつるって言うんだ。そんな器用なこと、どうやってできたんだかね」
おやじはまた湯を汲んで、浜田の体へざあっとかけ、右のてのひらで背中を叩いた。ポン、とふくらんだ音が響いた。
「サンキュー」
浜田は鏡のほうへ向き直った。
「すると、俺はその家来の子孫かな」
おやじは顎を鏡のほうへ突きだし、髭の伸び具合を調べた。
「そうかもよ。でも、その家来は時忠が死んだあと、何かのいざこざでよそへ逃げちゃったそうだ」
「おやおや。それじゃ宝の地図に逃げられちゃったわけじゃないか」
「そうなんだ。あとをついだ長男の時国がアワを食ったね」
「だろうな」
「家来たちにあとを追わせたが、とうとうわからずじまいさ。それからっていうものは、嘆き鳥を追いかけることが、代々の主《あるじ》の仕事になっちゃった。何しろ平家再興の軍資金だからね。うまい具合に、はじめの家来が死んじゃっても、子供に痣が残って行くんだから、五代、十代あとでも、捜しだしさえすれば宝のあり場所は判るわけなんだ。しまいには、見つけ出すまで帰って来ちゃいけねえ、なんて、無茶なことを言われる家来もいたんだとよ」
「じゃあ、百年あとでもまだ捜してたわけか」
「冗談じゃねえよ。百年どころか、五百年も六百年も捜し続けたんだ」
「驚いたね」
「それくらい莫大な宝物だったって言うわけになるな。でも時国家のほうは、しまいにはあきらめちゃったらしい。ところがその宝の話はいつのまにかひろまっちゃって、能登には時忠の宝さがしをやる奴があとを絶たないようになっちゃった。目じるしは背中の痣……」
「あ、それで三助かい」
「そうなんだ。世の中に風呂屋なんてのがたくさんできるようになると、その痣めあてに風呂屋から風呂屋を流れ歩く奴が出て来たのさ。……と、まあ、これがちいさい時に俺が聞いた、能登の三助の由来だ」
「じゃあ、おじさんはとうとう俺を見つけたわけじゃないか」
「一緒に能登へ行くかい。宝さがしによ」
おやじと浜田は声を揃えて笑った。
「さて、そろそろ商売にとりかからなくちゃな」
「どうも有難う」
おやじはザブンと体に桶の湯をかけ、立ちあがってタオルをしぼりながら、湯舟の横の狭い戸へ去って行った。
浜田は背中をひねって背中の嘆き鳥を鏡に映した。のどかな春の銭湯であった。
自家用車
高村英太郎は物理学の博士号を持ち、いくつもの大学に関係している学者である。すまいは世田谷区の梅丘《うめがおか》にあり、父親の代からそこに住んでいるので、建物こそ古びているが、庭も広く、別棟の物置やガレージもゆったりとした大きさであった。
浜田五郎は三年前、新聞広告を見て高村家のお抱え運転手になった。あとで聞くと、前にいた運転手は何か高村の怒りに触れることがあって追いだされたと言うことで、新聞広告を出した時も、ほかに二、三心当たりがあったらしいが、どれも高村の気に入らず、結局浜田に落着いたのである。
家族は、夫人とその甥でいささか家令めいた安田という中年男、それに夫人と同じ年だというのに夫人よりずっと老いて見える女中が一人。
子供は男一人に女が二人いるが、長男は商事会社の社員で外国ぐらしを続けており、長女は銀行マンと結婚して、今はもう三人の子持ち。三年前、浜田が高村家へ行った当座は月に一度くらい子供たちを連れて遊びに来たが、しばらくすると夫が大阪の支店長になり、これも一家をあげて関西へ移って行った。
一番下の敏子という娘は浜田よりひとつ年上で、一年ほど前縁談が持ちあがり、去年の秋にめでたく華燭の典をあげたが、どういう事情かこの三月、突然実家へ戻って来てそれっきり帰る様子もない。
高村英太郎が昔風のかみなりおやじで、夫人は長年そのワンマンぶりにおさえつけられ、世間のことはまるでうとくなっている。末娘の敏子が出戻って来ても、ただおろおろするばかりで何の役にも立たないようだ。そのかわり、人形づくりにかけては素人ばなれしており、そのほうのコンクールでは毎年賞をとっている。
安田という男は、そういう少し陰気臭い高村家にはうってつけの人物であった。ワンマンの高村も、のべつ安田を呶鳴りつけているようだが、その実結構信頼して、家の中のことから表向きのことまで、概ね一任しているらしい。
五十近いのに、安田はまだ独身である。多分一生妻は持たないのではないだろうか。ひどく生気のない男で、高村家へ来た当座、浜田は病人だと思い込んでいた。とにかく足音も立てぬような静かな男だが、喋ると何事によらず仰々しい言い方をする癖がある。
ひょっとすると、そういう仰々しさが高村の気に入っているのかも知れない。高村は、先生とか博士とか言う呼び方がこの上もなくぴったりとする、いささか尊大な人物なのであった。
そのような、とかくしいんと静まりがちな高村家の中では、敏子ひとりが異彩を放っていた。
現代的、と言うよりも、あのやかましい高村英太郎が、なぜもう少ししとやかに育てられなかったかと思うほど、勝手気儘で行儀がよくない。
もうすぐ道路に面した大谷石の塀いちめんに白と赤の花を咲かせる蔓《つる》バラの手入れを、古い作業服に軍手といったいでたちの安田がはじめ、手のあいている浜田がそれを手つだいかけたとき、敏子がデパートの紙袋をぶらさげて外出から帰って来た。
「浜田君、車あいてる」
浜田は振り向き、微笑しながら首をかしげて見せた。
「ちえっ、判んないの。いいわ、おやじに聞いて見る。オーケーだったらたのむわね」
敏子は大股で家の中へ入った。
「どうもいかんねえ、彼女は」
花鋏《はなばさみ》を持った安田が、そのうしろ姿へ陰気なつぶやきを向けた。
「静かな人ばかりだから余計目立つんでしょう」
「浜田君だなどと、あんたに失礼だ。今はそういう時代ではないのに」
「かまいませんよ」
浜田は笑った。
「僕より年上なんだし。さばさばしてて、いいですよ」
「あんたは来年三十だったな」
「ええ」
「男はいいが、女はそうは行かん。彼女も三十前には嫁に行かせようと、随分骨を折ったものだった。さすがに当人も気が付いたのだろう。二十九になったら簡単に見合してかたがついた」
安田は塀に向かって鋏を動かしはじめた。
「ついたと思ったら半年であれだ。世間に顔向けができんじゃないか。それに三十だ、三十……」
「そんな風には見えませんねえ。どうかするとまだ女子大生か何かに見える」
安田は手をとめてジロリと浜田を見た。
「人間、若く見えればいいと言うことはないのですぞ」
「ええ」
浜田は塀の下を竹箒で掃きはじめた。相手が誰であろうと、議論などする気は毛頭ない男なのだ。
蔓《つる》バラの手入れがおわりかけたとき、門のあたりで、メェェー、という山羊《やぎ》の啼き声のような音が聞えた。
「南川さんだ」
浜田はそう言うと竹箒を塀にたてかけ、植込みの間をくぐり抜けて門のほうへ走った。
「いま寄せますから」
浜田は道路から門へ鼻先きを突っ込んだムスタングへ向かってそう言い、黒いプレジデントのシートにすべり込むと、玄関の前に置いてあったその車を、器用にガレージのほうへ寄せた。
ムスタングが、あいたスペースへ入りこんでとまった。山羊の啼き声のような音をたてたのは、その車のクラクションである。
そんなおどけたものを車につけて喜んでいるだけに、運転して来た男も、高村家の客としてはおよそふさわしくない恰好をしている。
よれよれのジーンズに、米軍の黄色い階級章が目立つジャンパーを着て、長髪を掻きあげながら車から降り立った。
「おす」
「いらっしゃい。先生はご在宅ですよ」
「ご在宅か。浜さんもすっかり安田さん式になっちゃったな」
そう言ってからかうように笑う。SF風のイラストで人気を博した売れっ子の絵描きである。それがいつの頃からか高村と知り合い、ばかに気に入られて、ときどきひょっこり遊びに来る。名前は南川ヒロシ。
反対側のドアからもう一人降りて、
「こんちわ」
と挨拶した。
「やあ小野ちゃん、この間はご馳走さま。うまかったよ」
浜田は気易げに言った。
「なんだ小野。浜ちゃんに奢ったのか」
南川は黒いブレザーに黒のスラックスをはいた、アシスタントの小野に言う。
「例の鰺の小糠《こぬか》漬けですよ」
「お前、あんなものを浜さんにあげたのか。塩っからいだけじゃないか」
「俺、小野ちゃんと同じ能登だから」
浜田はとりなすように言って小野にほほえみかけた。
「そうかそうか。二人は同県人だったな」
「ええ」
玄関へ女中のおたきさんがあらわれた。
「どうぞ。書斎においでです」
「どうも」
南川は靴を脱ぎ、勝手知った様子で奥へ消えた。
「これ、見るかい」
小野は腰をかがめ、ムスタングのシートへ手をいれて、漫画週刊誌を二冊ほど取りだした。
「サンキュー」
浜田は目を細めてそれを受取った。すぐにページをパラパラとめくり、
「ああ、また南川さんの漫画がのってるね」
と言った。
「漫画じゃないったら。イラストだよ」
「あ、そうか」
浜田は大して理解した風もなく頷いた。
「でも、どうしてこういう雑誌に絵を描く人が、先生みたいな学者と気が合うんだろうな」
「南川さんがSFをやってるからさ」
「うん……」
浜田はまた要領を得ない頷き方をした。
小野は浜田より三つか四つ年下だが、ずっと先輩のような言い方をする。
「円盤だの超能力だのということになると、二人とも夢中だからな」
「え……。先生は空飛ぶ円盤や超能力なんかも研究してるのかい」
「いやだな、知らないのか」
小野は呆れたように浜田をみつめ、
「浜ちゃんが知らないなんて」
と苦笑する。
「放送局だの出版社へ、毎日のように高村先生を乗せて行くんだろう」
「そりゃ行くけど」
「先生はこのところ、そっちのほうの中心人物だぜ」
「へえ、うちの先生がねえ」
「学者仲間ではどうのこうの言う連中も多いらしいけど、ああいう人だから一度興味を持っちゃうと、誰がなんと言おうとわが道を往くって奴なんだな。何しろ本物の学者だから、にせ物やにせの情報なんかはコテンコテンにやっつけちゃう。そのかわり、少しでも本物の超能力である可能性があったりすると、ほかの学者が難くせをつける隙など全然ない、本式のやり方で可能性を証明してくれるんだ。そっちのほうの本も何冊か出して、ベストセラーになってるのもあるんだぜ」
「そうか」
浜田は気のない返事をした。
主人の高村英太郎が近頃何かマスコミで活躍しているらしいことは知っていた。しかし浜田はそういうことにはまったく無関心であった。
彼が運転手としてかなり優れているのは、そのあたりに秘密があるのかも知れない。免許を取得して以来、ずっと車の運転で生活していながら、無事故の記録を伸ばしつづけているのだ。
浜田は、車は物を運ぶためのものと、徹底して割り切っている。人間も、高価でこわれ易いものというだけで、結局は物なのである。
それは、彼が他人の所有になる車しか動かしたことがないせいかも知れない。およそ自分の用事で車を走らせるということがないのだ。だから、たとえどんなに時間が切迫していても、所詮は他人のことで、事故や違反の危険をおかしてまで、無理をして急ぐ理由がないのだ。
事故と違反は自分持ち。……浜田はいつもそう肝に銘じている。だから、糞真面目にルールを守っている。他人の物を運ぶのに、自分の物を持ち出しにする必要はないというのが、浜田の基本的な考え方で、から身で走る時は車自体が荷物ということになる。したがって、私用でどこかへ行く時は、きまってバスか電車である。車は便利だが、他人の車では荷物を預ったことに等しい。
そういうわけで、浜田は本質的に自家用車の運転手に向いている。タクシーやトラックもやったが、そういうかたちで交通戦争に加わるのは、いわば代理戦争をやらされているようなもので、彼の性には合わないようであった。
「浜田君」
玄関で敏子の声がした。運転席のドアをあけて外へ足をだし、前かがみになって小野にもらった漫画週刊誌を読んでいた浜田は、それをとじてゆっくり立ちあがった。
「南川さんはゆっくりして行くらしいわ」
外へ出て来て敏子は小野に気づき、
「あら、小野ちゃんも来てたの。彼と一緒にあがればよかったのに」
と言った。
「僕は先生が苦手なんです」
「ごめんなさいね。頑固おやじだから……」
「違うんです。あんまり何も知らない人間がそばにいると、先生はいらいらなさるんですよ」
「うまいこと言っちゃって」
敏子は笑って小野に近づき、肩をポンと叩いた。
「かげじゃ糞じじいなんて言ってるくせに」
「かなわないなあ」
小野は照れ笑いをした。彼はなんとなく敏子に憧れているふしがあった。熟れ切っているくせに、物の言い方やすることがどことなくボーイッシュで、親分肌というか、年下の者の面倒をよく見てやりそうなタイプの敏子は、小野のような年ごろの男から見ると、たまらない魅力があるらしい。
「二、三時間借りたわ。おやじったら、南川さんが来たもんだから機嫌がいいの」
敏子はプレジデントのドアの前に立って言う。浜田は心得てシートへすべり込み、体をのばして反対側のバック・シートのロックを外した。
外で敏子が手を振り、前のドアを指さしている。
「おやじじゃないから、うしろでふんぞり返る気なんてないわよ」
浜田が言われるとおり前のドアをあけると、敏子はそう言ってとなりのシートへすべり込む。ミディのスカートをはいて、太い毛糸で編んだ男物のようなセーターを着ていた。Vネックの襟もとは素肌で、首に青く短いスカーフを結んでいる。
浜田はエンジンをかけ、ギアをいれてゆっくり車を門へ向ける。小野がうらやましそうにそれを見送っていた。
門のところで浜田はいったん車をとめた。窓をあけ、
「あ、すみません」
と言う。安田が塀の下に掃き集めた葉や枝を、大きな木の塵取《ちりとり》で掃き取っているところであった。
「あなたは車の面倒を見るのが仕事です。手のあいたとき、たまに手伝ってくれればそれでよろしい」
安田はにべもない言い方をした。
「すみません」
浜田はもう一度言い、車を道へ出した。
「あなたもやりにくいわね」
敏子がクスクスと笑った。
「どこへ行くんです」
「そうね。とにかく世田谷通りへ出てちょうだい。馬事公苑へでも行きましょうか」
浜田は次の角で車を左折させる。
「道が混んでるかも……」
「混んでるようだったら、どこでもいいからすいてるほうへ走らせて」
「なんだ。またドライブか」
「うちにじっとしてるのがきらいなのよ。だから出戻っちゃったんじゃないの」
敏子はひとごとのように言った。
「用もないのに車を乗りまわすのはいやだな」
「めんどくさいの」
「いや、道を混ませるからね」
「変な人。車を運転するのが商売のくせに」
「こういう道で……」
浜田は静かな住宅街の細い道へ顎をしゃくって言った。
「遊びに行くみたいなドライバーが、歩行者に大きな顔してクラクションを鳴らしているのを見ると、ほんとにおかしいなと思うんだ」
「へえ、どうして」
「何人もの歩行者を、どうして一人の人間がわきへどかせてしまうのかな。仕事ならとにかく、遊びでさ。車の税金を納めてるくらいで、そんな権利があるのかね」
「でも、危ないからどかすんでしょ。ホーンを鳴らして警告するのよ」
「違う」
「どう違うのさ」
「俺なんかはそんな気分になったことないけど、中には、こん畜生邪魔するとふんづけるぞ、って顔してるのがいる」
「警告じゃなくっておどしだって言いたいの」
「そういうのがいる。若い奴に。南川さんの、山羊《やぎ》のホーンはいいな。メェェ……」
浜田は南川がムスタングにつけているホーンの真似をした。
「そっくり」
敏子は笑いだした。
「ねえ、そっくり賞をあげるわ。それに、東京一のジェントル・ドライバー賞」
車に持ちこんだデパートの紙包みを浜田に押しつけるようにした。
「それ、なんだね」
「ネクタイよ。あなたって、いつも野暮ったいものばかりなんですもの」
少し甘え声であった。
「そういうの、わざわざ選んでるの」
「選ぶわけじゃない」
浜田は苦笑した。
「ねえ、どこかでとめてとりかえなさいよ」
「本当にくれるのか」
「さっきわざわざ買って来たんじゃないの」
「どうして俺にネクタイなんか……」
「だから言ったでしょう。野暮ったいのばかりしてるからだって」
「こういうネクタイしてる奴はたくさんいるよ」
「あなたはうちの人だからよ」
敏子はじれったそうに言う。
「ネクタイか」
浜田はちらりと敏子を見た。ダブダブのセーターがシートにもたれているので余計ダブつき、切れこんだVネックの襟もとから、バストのふくらみが見えている。
「俺、派手なものは似合わないんだけどな」
「嘘、似合うのよ」
「似合わないよ」
「あなた、本当はハンサムなのよ」
「俺がかい」
浜田が一笑すると、敏子はくやしそうな顔をした。
「じれったくなっちゃうわ。ヘア・スタイルから服からネクタイまで、全部似合わないもので統一しちゃってるんだから。少しはおしゃれをしなさいよ」
「そうかな」
「もうちょっとなんとかすれば、少しはイカすようになるんだけどなあ。とにかく、手はじめにこのネクタイをしてごらんなさい。あんたに惚れてる女が言うんだから間違いないわよ」
「…………」
浜田は眉を寄せた。
「どう。あたし、うまいでしょ」
「何が」
「さらりと言ったでしょ。なかなかこうは行かないものよ」
「ご主人がいるくせに」
「出戻りよ。気にしないで」
「先生に叱られるぜ」
「あたしは平気。こわがってるのはあなたじゃないの」
「とにかく、からかわないで欲しいな。俺はただの運転手だ」
「からかってなんかいないわよ」
敏子の目はキラキラと光っていた。
「好きなものは好き。あたしは自分に嘘をつかないことにしてるの」
「先生とよく似てる」
「そうよ、あたしも頑固よ。今にきっとあんたをものにして見せるから」
「困ったな」
「どうして」
「こんなのはじめてだ」
「あたしがきらい……」
敏子は煙草を咥えた。
「馬事公苑でいいのかい」
「ええ、あてなんかないんですもの。ねえ、あたしがきらいなの。それならそうと早く言ってくれなきゃ困るわよ。あたしみたいな女はどうしても好きになれないって……」
「そんなことはない」
「じゃあ好きなの」
「弱るなあ」
「おたきさんとあたしとどっちが好き。女としてよ」
「そんな……。くらべようがないよ」
浜田は失笑した。敏子の言い方はまるで遊びめいていた。
「でも二人とも女じゃない。言って見なさいよ。おたきさんのほうが好き……」
「そりゃ、やっぱり……。君のほうさ」
「ありがとう」
敏子は浜田のほうへもたれかかった。
「ご褒美よ」
フィルターつきの煙草を咥えさせた。フィルターに、わざと唾液がたっぷりついていた。
「間接キッス」
敏子は声をあげて笑った。
五月晴れ
心が弾むような五月晴れであった。その上、木曜日だが浜田にとっては休日である。高村英太郎はきのうの午後関西へ講演に出かけて、今週いっぱい帰って来ない。先週の日曜日に出勤させられたから、今日はその分の代休というわけであった。
浜田は十時少し前、朝食をかんたんにすませると、まず靴を磨き、それからゆうべ丁寧にプレスしたズボンをはいた。太腿のあたりの線が二重になっていないかよくたしかめ、古ぼけた整理だんすから白いワイシャツを出して着た。糊が効きすぎていて、ひろげる時バリバリと音がした。ワイシャツのボタンを全部かけ、その裾をズボンの中へたくし込んでしまってから、まだ裸足でいるのに気づき、軽く舌打ちをして灰色の靴下をはいた。はくとき片膝ついてしゃがんだので、せっかくたくしこんだワイシャツが、背中のあたりでまたズボンから出てしまう。だから、立ちあがると妙に背中が膨らんだ感じになった。しかし浜田はいっこうに気にせず、上着の袖に腕を通し、壁にかけた何の飾りもない小さな鏡の前へ行ってネクタイをしめはじめる。