愉しそうであった。ネクタイは高級な絹もので、浜田がいつもしているのよりずっと幅が広く、派手であった。
そのネクタイは、浜田を少しばかり明るい感じにしている。派手だがけばけばしくはなく、敏子の選択はたしかであったようだ。
それにしても、浜田にして見れば思ってもいない贈り物であった。敏子がひどく気さくな態度で接してくるのは判っていたが、それは何も浜田一人に限ったことではなく、女としては少し親分肌の敏子は、南川ヒロシや小野たちにも、同じようなあけすけな喋り方をしていたのだ。
それがはっきりと……、ひとことで言えば、このあいだ車の中で言い寄られた形になったのである。
意外だったし、何か欺されているような感じでもあった。敏子はいわゆる男好きのするタイプである。三十近くなってまだボーイッシュな感じを漂わせ、そのくせよく見ると部分部分は豊満と言っていい体つきをしている。なよなよとしたところがないかわり、高級なスポーツカーと言った感じなのである。
それがいきなり、ネクタイを口実に浜田に倚りかかって来た。あの日、車の中で、浜田さえその気になれば、敏子の腰を引き寄せて、キスくらいかわすのはわけもないことであったようだ。
だが、浜田がそれをしなかったのは、心の底に欺されているような感じがあったからである。その欺されている感じというのは、敏子に対してのものではなく、浜田自身の人生に対してであった。
浜田は今日まで、恋らしい恋の経験もなく過している。何度かは、それらしい想いをもやしたこともあるが、すべて片想いに過ぎず、遠くから憧れていたという程度の、ごくプラトニックなものであった。
いずれ自分も結婚するかも知れないとは思っているが、互いに求め合って華やかにもえあがる恋の日々が来ようとは考えてもいなかった。
よく考えれば奇妙なことであるのかも知れないが、それでも疎外感とか、拗ねとかひがみとか、そういう厄介なものはしょい込まずにいた。その日その日を平凡で無難に送れれば満足で、何かを得る為にやきもきとするのは、ひどく億劫なのであった。
混雑した道路につらなる車の一台として、無理な追い越しや割り込みを決してしないように心がけているのだが、実を言えばそれは運転手の生活を通じて身につけた生き方ではなく、浜田自身が生まれつき持っている性格らしかった。
ところが、突然出戻りとは言え魅力的な女である敏子が言い寄って来た。たとえれば、それは緊急自動車でもない浜田の車に、先行車が次々に進路をゆずってくれたようなものであった。浜田は、この先に何かあるのではないかという疑いを抱きながら、その急にひらけた道をとばしている思いであった。
だが、ネクタイをもらった日から一週間ほどたって、浜田は人生にはこういうことも起り得るのだと考えるようになった。敏子が一人の女として好意を寄せているのは疑いようがなかったし、自分の人生にはそういう日が決して来ることはないときめてかかるのは、自分に限って事故を起すことなどあり得ないと思いあがるのと同じことだった。
となると、浜田は急に世の中がたのしくなった。アパートの前の道に集まって騒ぐ子供たちの遊びにも、寛大な微笑を送らずにはいられなかったし、手をつないで歩く若い男女の服装にも、それまでのように無関心ではいられなくなった。
心の中に、いつも敏子の笑顔があった。そして何よりも、俺はいま恋をしているという、優越感のようなものに酔っていた。
「ねえ、あしたデートして」
きのうの夕方、車庫の前で黒いプレジデントを洗っていると、庭からサンダルを突っかけて出て来た敏子が傍へ来て、さりげなく言った。
「あした……」
浜田はビニールのホースの先を持って、水をしたたらせながら敏子を見た。
「あした、休みなんだよ」
「あらやだ、何か予定があるの」
敏子の顔が曇った。
「いや、別に」
そう言うと、敏子は急にけたたましく笑いだした。
「ばかねえ。だから誘ったんじゃないの」
「あ、そうか」
浜田は苦笑した。
「やな人」
敏子は笑い続けた。浜田の迂闊さがひどく初心《うぶ》に思えたらしい。ずっと年下の男を見るような目で言った。
「あのネクタイをして来るのよ」
「うん。なん時に来たらいい」
「うちへ来る気でいるの」
納まりかけた敏子の笑いがまた大きくなった。
「違うのか」
「やりにくいわねえ」
浜田は困って頭を掻いた。
「よし、思い切って初級者コースで行きましょうよ。銀座の四丁目って言うのはどうかしら」
「四丁目……」
「時計のある角よ」
「なん時」
「そうね。十時四十五分から十一時の間」
「判った」
その時、安田が外出から帰って来たので、敏子は笑いながら庭へ戻って行った。
その約束の時間が、あと三十分そこそこでやって来るのだ。浜田は靴をはき、廊下へ出てドアの鍵をしめると、軽い足どりでアパートを出た。
行き交う女たちを、浜田はいちいち心の中の敏子とくらべて見ていた。あの女より敏子のほうが上だ。この女とも……。地下鉄の中でも、銀座の地下道の中でも、浜田は通りがかる女をかたはしから敏子とくらべてたのしんでいた。
そうだ、何か買ってやらなければいけない。浜田がそう思ったのは、地下道を出て約束の角へ着いてからであった。ネックレスかブローチか。いや、ネクタイをもらったのだからお返しにはスカーフか何かがいい。敏子はよく首に短いスカーフをまいている。どんな色のスカーフがいいだろう。好みは彼女にまかせればいい……。
時計はきっかり約束の十時四十五分をさしていた。十一時までの十五分の間に、目の前へ敏子が現われるのだ。そして、それから恋の日がはじまるのだ。
浜田はその角の歩道をたえず歩きまわっていた。あたりに彼よりずっと年下の男女が何人もいて、物なれた様子でたたずんでいるのに、浜田はそんなことも意識になく、うろうろと短い距離を二、三度往復しては、腕時計を眺めていた。
あと二、三分で十一時、というころ、行きつ戻りつしている浜田がふと目をあげると、地下鉄の入口のあたりに、敏子が半分かくれるようにして自分のほうを見ているのに気づいた。浜田が思わず手をあげて笑いかけ、大股で近づいて行くと、敏子はくるりと背を向けて逃げるように京橋のほうへ歩きだした。
「時間ぴったりだったな」
追いついてそう言っても、敏子は黙って急ぎ足で進み、ちょうどワン・ブロック先きの信号が青にかわると、右へ曲って向う側の歩道へ行った。
「どうしたんだ」
浜田は少し不愉快になりかけて、低い声で尋ねた。すると敏子はやっと含み笑いをしながら、浜田の顔を見た。
通りから少し引っ込んだ、デパートのタクシー乗り場の前にある喫茶店へ入って席についてから、敏子はまじまじと浜田の顔をみつめなおし、
「それもそうね」
とひとりごとのように言う。
「なんだって言うんだ」
「あのね」
敏子はハンドバッグから小さなシガレット・ケースをとりだし、一本抜いて咥えた。浜田は催促するようにもう一度みつめられて、あわててテーブルの上のマッチを擦った。
「いくらあたしでも、ちょっと気が引けたわよ」
煙を吐いてそう言い、一呼吸間を置いてから男のような笑い方をした。明るいグレーのミディのスカートに、同じ色のニットのシャツブラウスを着て、襟もとのボタンを三つほど外していた。浜田は細い金鎖が豊かなバストの膨みの間へ落ち込んでいるのを見ていた。
「なぜだい」
拗ねたようなふくれつらで言い、浜田もハイライトを出して火をつけた。
「何よ、あの待ちかたは」
敏子の表情に母親めいたものが泛んでいる。
「待ちかた……」
「まわりにいる若い子たちのほうが、余程落着いていたわよ」
「そう言えば、待ち合わせらしいのがずいぶんいたな」
「そわそわ、うろうろ……。時計ばかり眺めちゃってさ」
「見てたのか」
浜田はあの時の自分の態度に気づいた。そう言えば、たしかにこらえ性のない感じであったと思った。
「そりゃ、あそこへ行って、あたしが、あなたお待ちになりましたか、って言ったっていいわよ。でも、少しみっともないじゃないの。いい年して、初恋みたい……」
「そんなにおかしかったかい」
浜田は詫びるように言った。
「そうしょげ返るほどじゃないけど、ジェスチャー・ゲームの演技だって、もう少し判りにくいわよ。行ったり来たり、時計を見たり」
「慣れないんだもの、仕様がないじゃないか」
「あんたって、ほんとにデートしたことないの」
「自慢じゃないけど」
「これから先が思いやられるわ」
「何が」
「そんな風じゃ、うちですぐばれちゃうもの」
「気をつけるよ」
そう言ってしまってから、浜田はハッとして敏子を見た。敏子は艶っぽく笑っていた。
「そうよ。これからあたしたち、そうなるんだわ。たっぷり教えてあげるから」
浜田は鼻白んだように目を伏せた。コーヒーが来て、敏子がシュガー・ポットの蓋をあける。
「いくつ」
「ふたつ」
浜田のカップへシュガーが小さじに二杯落ちた。
「いいお天気ね」
「うん」
「何時ごろアパートを出たの」
「十時十分か十五分」
「じゃ、だいぶ早く着いたでしょう」
「いや。約束の時間ぴったりだった」
二人はコーヒーを飲んだ。
「何よ、黙り込んじゃって。まっすぐそばへ行かなかったんで憤ってるの」
「憤ってなどいない」
「じゃあ機嫌よくしてよ。たのしい日にしなくてはね」
「うん」
浜田は素直に頷いた。
「ひょっとすると、あなたって、あたしにとって理想的な人かも知れないわね」
「どうしてだい」
「たくましいくせに可愛らしくて」
「よせよ」
敏子はテーブルの上へ上体をかぶせるようにして、浜田の顔をのぞき込んだ。
「それに、とってもハンサムで」
「そんなわけはない。からかうなよ」
「からかっていないわ。本気で言ってるのよ。今まで誰もそういうことをあなたに言っていないとすると、あたしが最初の発見者かしらね」
「どうだい。ネクタイ、似合うかい」
「似合うわよ。あたしの睨んだとおりだわ」
「お返しをしようと思うんだ」
「あら……」
敏子は目を丸くして見せる。
「ここを出たらどこかで買おう。君がよく首に巻いているようなのを」
「スカーフを買ってくれるの。すてきだわ」
そう言うと、敏子はコーヒーをひと口飲み、カップを下へ置くとハンドバッグに手をかけた。
「じゃあ早く行きましょう。こういうことは気のかわらない内に」
冗談のように言って立ちあがり、伝票をつまんで浜田に押しつける。
「払ってよ」
浜田は頷いて受取った。
敏子はその喫茶店を出ると、四丁目の交差点へ引き返し、また向う側へ渡って六丁目の裏通りにある婦人洋品の専門店へ入った。店構えが高級な感じで、浜田一人だったら入る気も起さないはずであった。
「俺は判らないから自分で選んでくれよ」
そう言って敏子のあとについて歩くうち、浜田は自分がこういう場所にそぐわない感じであることに気付いた。靴も背広もネクタイも、一応どこと言って見苦しいところはないのだが、身についた雰囲気とか物腰が、いかにも場末の男めいていて、立って歩くのさえ、棒を突っ立てたようで、われながらぎごちなかった。
そばに茶の服を着た三十三、四の男がいて、連れの若い美人の買物にあれこれアドバイスをしていた。浜田は肝心の敏子より、むしろその茶の服の男に興味をそそられた。いかにも馴れ切った様子で、服装にも態度にも一分の隙もないと言った感じであった。
「こんなのどうかしら。ねえ、どう……」
敏子はときどき浜田のほうへ、スカーフを胸もとにあてがって言った。
「君のいい奴がいい」
そのたび浜田は自信なさそうに言ったが、ふとショーケースの上に置いた選びかけのスカーフを手にとって、ドキリとした。小さな値札に、目を剥くような数字が書いてあるのだ。まさか、たかがスカーフではないか、と思うのだが、やはり馬鹿馬鹿しい数字はかわらない。
敏子が浜田の表情に気付いたようであった。
「これにきめたわ。いいでしょう」
店員の前で、わざと甘えるように言った。浜田はズボンのポケットから金をとりだしながら、値札をのぞいた。
「遠慮しなくてもいいんだぜ」
そう小声で言った。敏子が今まで手に持った中では、とび抜けて安い値段であった。
「いいの。ねえ、これちょうだい。包まなくてもいいわ、すぐするから」
敏子は店員に言い、浜田が金を払った。
「それにしても、高いもんなんだなあ」
店員がレジへ去った間に、浜田は嘆息した。
「あたし、とってもいい気分よ」
敏子は謎めいた笑顔になった。店員が釣銭を持って戻って来て、浜田はそれを受取ると、さっさとその店を出ようとする敏子を引きとめた。
「もう少しいろいろ見せてくれよ」
「あら、まだ買う気」
敏子はからかったようであった。
「そうじゃないが、値段を知りたくなった」
「いいわ。じゃあ少し見学して行きましょうか」
そう言うと、敏子はスーツやパンタロンがぶらさがったコーナーへ入って行った。これは少しあらたまった感じの服、これはいまはやりはじめたスタイル、などと、敏子は並んだ商品をいちいち説明しはじめた。どれもこれも、浜田が妥当だと感じる値段より、三倍も高い感じであった。
「どう。女の子はお金がかかるっていうことが、いくらか判って来た……」
からかい半分なのは判っていたが、浜田は率直に心の底から頷いた。
「驚いたよ、こうなったら男の物も少し見て見なくては。俺は田舎者なんだなあ」
敏子は出がけにショーケースの上の鏡の前で、買ったばかりのスカーフを手早く器用に首に結び、さっきの店員にウィンクしてから外へ出た。浜田がふり返ると、店員が好意のこもった笑顔で見送っていた。
「君はああいう所の人に好かれるんだな」
「さあ、それじゃちょっと靴屋をのぞいて見ましょう。靴、背広、シャツ、ライター、サングラス……。男物は女よりもっと大変よ」
敏子は浜田を教育する気になったらしい。
「いい気分だと言ったな」
「え……」
靴屋のあるほうへ歩きながら、敏子が首をかしげた。
「スカーフを買ったときだよ」
「ああ、あれ……」
「どうしていい気分なんだい」
「それはね」
敏子は浜田の左腕に、するりと腕をまきつけて来た。
「あなたが女のことについてなにも知らない人だからよ」
「それがいい気分かい」
浜田は敏子と腕を組んで、かなり照れていた。歩いて来る人々が、みな自分のほうを見ているような気がした。
「いい気分よ。でも、なぜいい気分になるのか、それはいまは教えてあげないの」
「なぜ」
「きっとあなたは憤るわ」
「へえ……。じゃ、いつ教える」
敏子は体を押しつけ、浜田の耳へささやくように言った。
「あ、と、で……」
このあと、どういうコースで半日を過したものか見当もついていない浜田は、すべて敏子にまかせる気になった。
「なんでもいいや、まかせるよ」
すると敏子は例の男っぽい笑い方をして、浜田の腕を胸に押しつけるように抱き直した。二人づれの若い男が、ジロジロと敏子を眺めながら通りすぎた。
「約束してくれる」
「何を」
「今日はなんでもあたしにまかせるって」
「うん」
「言うこと聞くのよ」
二人は靴屋へ入って行った。
ホテル
敏子はその日のデートを初級者コースにすると冗談を言ったが、彼女が浜田を連れ歩いたコースは、実際そのようなものであった。腕を組んで銀座を歩きまわり、小さなレストランで昼食をすると、日比谷へ行ってロ—ドショーの映画を見た。あのスカーフを手はじめに、昼食も映画も、金はみな浜田が払った。そして浜田は大いに満足した。腕を組んで歩いていると、敏子が男たちの関心をそそっているのがよく判った。さりげない服装をしているのだが、銀座を歩く男たちには彼女の魅力がよく判るらしい。腕を組むのにも慣れて、浜田は一瞬も敏子を離したくない気分であった。
しかし、映画館を出ると、敏子は少し快活さを失なったようであった。
「どうしたんだ。くたびれたのか」
「ええ」
敏子は前を向いたまま無表情で言った。
「疲れるわ、初級者コースって」
浜田は少しあわてた。自分が相手だからそういう歩きまわりかたをしたのだと、責任のようなものを感じた。
「喫茶店へでも入ろうか」
浜田はそうつぶやいてあたりを見まわしたが、いざとなると適当な喫茶店がどこにあるのか、見当もつかなかった。
「帰るかい。送って行くよ」
「だめよ。そろそろ電車が混む時間だわ」
「タクシーを拾うさ」
すると敏子は足をとめ、浜田の顔を見た。
「タクシー……。珍しいのね」
仕事以外では、他人の車にも滅多に乗ろうとしないことを知っているのであった。
「特別さ。今日は君と一緒だからね」
すると、敏子は組んでいた浜田の腕をぐっとしめつけるように抱えなおし、ゆっくり歩きはじめた。
「平凡だけど、すてきな言い方ね」
「どうしてだ」
敏子は、ううん、と言って首を振り、
「本当に初級者みたいな気分になって来たわ」
と笑った。その笑顔を見て、浜田はほっとすると同時に、敏子に未知の深い部分があるのを感じた。
「そう初級者、初級者って言うなよ」
「気にさわる……」
「少しはな」
「ごめんなさい。あたし、あなたのプライドを傷つけたかしら」
「別にプライドという程のものなどありはしないよ」
運転手だからな、と言いかけて浜田はその言葉を喉の奥へ押し返した。
「それならいいけど」
「でも、ちょっと気になるよ」
「あら……」
「君が無理に俺に合わせてくれているような気がして」
「そんなことないわ。あたしだってたのしいのよ」
「でも、君がいつもたのしむのは、もっと上級のコースだろ」
「嫌だわ。それ皮肉なの」
「皮肉じゃないが、俺は何も知らないからな。身なりだって野暮ったいし」
敏子は含み笑いをはじめた。浜田がその横顔を見ると、とても彼には理解できそうもない、謎のような微笑が泛んでいた。
「あなたが思ってるようなたのしみ方ではないかも知れないけど、本当にあたしはあなたとこうして歩いていて、たのしいのよ」
「俺じゃ役不足のような気がするな」
浜田は実感をこめて言った。道ばたにタクシー乗り場の標識があり、空車のタクシーが四、五台並んでいた。
「あなた、帰りたいの。……あたしが送って行ってと言ったら、あれに乗ってさっさと帰ってしまう気」
浜田はひくりと肩を動かした。
「ほんとは帰りたくねえんだ。いつまでもこうしていたいんだ」
照れかくしに、荒っぽい言葉で低く言った。
「いい気分」
敏子は浜田の肩へ顔をあずけるようにして言った。
「もう一度言ってくれない」
「いやだよ」
浜田は邪慳に肩をゆすってその頭を払いのけたが、敏子は少しエロチックな感じで笑いつづけていた。
「もうすぐ日が暮れるわ」
「まだだいぶ時間があるよ」
「初級者コースが気になるんだったら、もっと上級のコースに付き合ってよ」
「もっとかい」
反対する気はまるでなかったが、浜田はポケットの中が気になっていた。高い店で酒など飲んだらすぐに足をだしてしまう危険があった。
「嫌なの」
「嫌じゃないけれど」
「それなら言うとおりにしてよ。だいいち、今日はあたしの言うことをなんでも聞いてくれるはずよ」
「そうだったな」
すると敏子は急にしゃっきりした姿勢になり、
「それに、このあたりだと知ってる人に会いそうだわ」
と言った。たしかに、もう退社時間であった。敏子が足を早めたので、浜田も引っぱられるようにそれに従った。敏子は行先がはっきりきまっている様子で、どんどん築地の方角へ進んで行った。
やがて二人は大きなホテルのロビーへ入った。敏子はまっすぐにラウンジへ連れて行き、席につくとコーヒーを注文した。
「ああ疲れた」
敏子はわが家へ戻ったような、くつろいだ笑顔で言った。
「俺、こういうとこでコーヒーを飲むの、はじめてだぜ」
「ばかね。自慢してるみたい」
「そのかわり、地下ならくわしい」
「地下……」
「駐車場さ」
敏子は一瞬浜田を睨み、
「よしなさいよ」
と言った。
「でも本当だ」
「あなた、自分の仕事に劣等感を持っているの」
「いや。少くとも今朝まではね。でも、今日はいい経験をしたよ。世の中で、俺のいる場所がどんなところだったか、いくらか判って来たようだ。もし俺が誰かとデートするなら、もっと場末を歩きまわるほうが分に合っている」
「何を言ってるのよ」
敏子は憤ったように言う。
「銀座なんて、ミーちゃんハーちゃんの町よ。そんな大したところじゃないわ」
「それはそうだろう。いつか日曜日に来たら、歩行者天国で若いのがぞろぞろ歩いていた。大した町じゃないということは判っているんだ。でも、なんて言うか……。とにかく俺の町じゃない」
「町は町よ。誰でも自由に出入りするから町なんだわ。誰の町、かれの町ということはないわよ」
「でも」
浜田はラウンジの客を見まわした。
「ここでコーヒーを飲んでる運転手は俺だけだ」
「本当に憤るわよ」
「ごめんごめん。君を憤らすつもりで言ったんじゃない。なんと言って説明したらいいかな。とにかく俺はたのしいんだ。今日のこのたのしさは君がくれたものだ。だから、それを言いたくてさ。……君はもてるんだな」
「あたしが……」
「うん。一緒に歩いていてよく判ったよ。男たちがちらちら君を見て行く。あの目つきは、いい女だなと言っている目つきだよ」
「困った人ね」
敏子は苦笑した。
「有難う」
突然浜田はそう言って姿勢を正し、頭をさげた。
「どうしたのよ。お礼なんか言われる憶えはないわ」
「あるんだ」
浜田は静かな表情で言った。
「ネクタイをもらったし、誘ってくれて、腕を組んで歩いてくれた。みんなが俺を羨やましがっているようだった。こんなたのしい思いをしたのははじめてなんだ。舞台で一人だけ照らされて歌ってる歌手みたいな気分さ」
敏子は椅子にもたれ、じっと浜田をみつめていた。
「あなたって……」
しばらくみつめたあと、敏子はかすれ声でそう言った。
「まあいいわ。今日はまだおわったわけじゃないんだから」
コーヒーが来て、二人は静かにそれを飲んだ。しっとりとした沈黙が二人の間に流れていた。
「煙草を買って来るわね」
敏子が急に思いついたように立ちあがった。
「煙草ならあるよ」
浜田はハイライトをとりだしてテーブルの上へのせた。
「いいの。待っててね」
敏子は珍しく、女らしいしとやかな態度を見せて言い、ラウンジを出て行った。浜田はハイライトを咥え、火をつけて待った。
やがて敏子は赤い綺麗な箱の外国煙草をひとつ持って帰って来た。椅子には坐らず、立ったままテーブルの上の伝票をとりあげ、
「行きましょう」
と言った。浜田はあわてて煙草を揉み消し、敏子のあとを追った。敏子はラウンジの出口で伝票を出し、手早く勘定をすませてロビーを横切った。
「俺が払うのに」
浜田は出しかけた金をポケットへしまい直しながら言った。
「いいのよ。サインですませちゃった」
敏子は妙に潤んだ目で浜田を見た。ちょうどエレベーターのドアがあいたところで、二人は足を早めて箱の中へ入った。
敏子は十一階でエレベーターを出た。静かなほの暗い廊下を歩いて行く。浜田は耳鳴りがするような気分でそのあとに続いた。敏子はハンドバッグをあけ、チャラチャラとキーを鳴らしていた。やがて、ひとつのドアの前で立ちどまると、そのキーを鍵穴へ差し込んだ。浜田は呆気にとられて眺めているだけであった。
ドアがあき、敏子がその中へ吸い込まれて行った。
「お入りなさいよ」
廊下で突っ立っていると、敏子が顔をだして言った。他人の家を訪問するように、浜田はおずおずと中へ入って、静かにドアをしめた。
「鎖もかけて置くのよ」
敏子はカバーのかかったベッドの上へハンドバッグを抛り投げて命じた。浜田は言われたとおり鎖錠をかけた。
「くたびれたわねえ」
敏子は窓ぎわに立って、ハイヒールを両方とも蹴り脱いだ。ハイヒールはどこか我儘な感じでカーペットの上へころがった。
「この部屋、どうしたんだい」
浜田は部屋の中を見まわしながら尋ねた。
「借りたのよ」
「誰に」
すると、敏子は猫のような足どりで浜田に近づき、両手を彼の胴にまわして胸を合わせた。
「ホテルによ」
浜田は自分の愚問に気付いて苦笑した。
「いつの間にやったんだ。早業だなあ」
敏子は頤《おとがい》をあげて浜田を見あげている。靴を脱いだので顔の位置がだいぶ低くなっており、浜田にはそれが、急に可愛らしくなったように感じられた。敏子は浜田がいつまでも受太刀の姿勢でいるので、爪先だって顔を寄せた。
はじめはごく軽く唇が触れただけだった。二人とも、乾いた唇をしていたようであった。二度目は少し長かった。だが、それも、閉じた唇が重なったにすぎなかった。三度目、敏子は浜田の唇を、小鳥がついばむように何度も短く触れて来た。その都度、敏子のすぼめた唇が浜田の唇をはさみ、濡れて生暖かい感じを伝えた。浜田は酔ったように目をとじ、敏子の両肩を強く抱き寄せた。今度は濡れた唇が深く合わさり、敏子の舌がぬめぬめと浜田の下唇の裏側を這いまわった。
浜田の呼吸が荒くなった。両肩をだいた手が、もどかしげに背中をおりて行く。敏子は両肩をすぼめ、すっぽりと浜田の体につつみこまれるように体を密着させていた。
やがて二人は顔を離し、みつめ合った。長い間、そうやって動かなかった。
「君は人の奥さんだ」
浜田が低くかすれた声で言った。辛うじて喋れたという感じであった。
「関係ないわ、そんなこと」
敏子はゆっくり首を左右に振った。浜田をなだめているようであった。
「あなたが好きなの」
浜田はそう言われ、今度は自分から唇を求めた。そのとたん、敏子の舌が彼にとっては目もくらむほど淫蕩な感じで動きはじめた。歯の間へ押し入り、堅くとがらせた舌端が、まるで生き物のように口の中で踊った。
「愛してね」
次に顔が離れたとき、敏子はひどくさし迫った表情で言った。浜田は当然だと思い、頷いて見せた。言われなくても、もうとうに敏子を愛しはじめており、彼女がそれを口にだして言うのは、甘いたわむれのようなものだと思っていた。
しかし、どうやら敏子の言った意味は、もっと直接的なものらしかった。
「あたし、先にバスを使うわね。あなた、その間にべッドのカバーを外しておいて」
そう言って抱擁を解くと、入口のドアの横にある戸棚をあけてハンガーをだし、服を脱ぎはじめた。浜田が茫然とそれを見ていると、ふとふり返り、細く丸い肩ごしに笑いかけた。
「浴衣をとってよ。そこにあるでしょう」
浜田は操り人形のように、ギクシャクした態度で、糊が効いて板のようになった浴衣をとりあげて渡した。敏子はそれを受取り、四角い板で胸をかくすように、ミディのスカートをはいたままバスルームへ消えた。
浜田は太いため息をついた。一気に終点へ着いてしまった感じであった。しかし、考えて見れば、もう少年のような恋の語らいをつづけていい年齢ではないような気がした。二人のような年齢の組合わせが恋をすれば、今の敏子のように振舞うのが当然であろうと思った。
テーブルの上に、小さなステンレスのポットとグラスが置いてあるのに気づき、浜田はグラスをひっくり返してポットをかたむけた。冷たい水であった。浜田はそれを飲んで気を鎮めようとした。
とうとう女を抱く日が来た。浜田はしみじみとそう思った。女の体を抱くことを夢想した夜はかぞえ切れなかった。しかし、なぜか遂に今日までそういう機会はおとずれなかった。童貞であることが、恥かしい年齢になると、禁欲が自分の一部になり切ってしまい、特に肉欲を封じている気もなくなっていた。しかし、その分だけ、はじめての夜が優しいものでありたいという願望が育っていた。そういう時が来たら、心を通わせ合い、いたわり合いながら、湧き出す泉の中でしみじみと抱き合うことを夢見ていたのだ。
果してそうなるだろうか。浜田はベッドカバーを静かに折りたたみながらそう思った。バスルームではシャワーの音が聞えていて、べッドカバーの下からは、ピンと張った白いシーツと、柔らかでいながらべッドを堅くしめつけている感じの白い毛布があらわれていた。そう言う仕度を見るのははじめてだったが、何か清潔で気分がよかった。
率直に言ってしまおう。浜田はそう決心した。女の体を知らないことで、虚勢を張って見ても仕方がないと思った。彼は自分がそのように正直になれたことに満足したが、それも相手が敏子だったからかも知れなかった。敏子に対して、浜田は心のどこかでかすかに母性を感じているようであった。そしてそれは、この場になって、彼にゆったりとした安心感を与えていた。
「はじまるんだ……」
浜田はべッドカバーをたたみおえると、それを眩しいような白さのべッドの上に置き、椅子にゆったりと体を沈めてそうつぶやいた。
人生の新しい幕があく。そんなように感じていた。浴室では、シャワーの水音がやんでからも、敏子が何か短い物音をたてつづけていた。その敏子が、まだ前の夫と正式に別れておらず、籍も入ったままであることは知っていたが、浜田はもうまったく気にしていなかった。