しあわせ
高村英太郎がうしろのシートにいて、浜田は渋滞した道路で一寸きざみに車を都心へ進めていた。
「酷いな」
高村が言う。
「月末ですから。それに、こんな天気ですし」
ワイパーが動いていた。外は小雨で、鬱陶しい空模様であった。
「渋谷を抜ければいくらかいいだろう」
高村は気をまぎらすように言った。
「そうですね」
だが、浜田はこの渋滞がどこまでも続いていそうな気がした。六本木も駄目だし、溜池のあたりはもっと酷いはずであった。
「青山通りへ抜けたほうが早そうな気がするんですが」
ためしに言って見た。しかし、高村は案の定首を横に振ったようであった。
「どこも同じだ」
高村は、一度自分がきめた道筋を滅多に変更させなかった。車は自分の意志どおりに動くべきだと思っているらしいし、一度きめた道をその場になって変更するのは、大げさに言えば彼の人生観のようなものに反するらしい。
「それにしても、下の道でまだよかったようだな」
高村は高速道路を眺めて、あざけるように言った。上はぎっしりと車がつまって、さっきから動く気配もない。
「いい勘でしたね」
浜田がなぐさめるように言うと、高村はうしろから首をまげてしげしげと彼の横顔を眺めた。
「君はこのごろ少し感じが変わったようだな」
「そうでしょうか」
「いつもさっぱりしている」
「髪型を変えたせいでしょう」
髪を短くして、スポーツマンのように刈りあげていた。
「そうだな。そのほうが似合う。清潔な感じだ。どうも若い連中の長髪は好かんよ」
敏子が無理やりそうさせたのだ。同時に、襟先きの細長くとがった、ひとまわりサイズの大きいワイシャツをやめさせ、襟もとのぴちっとしたナイロンのワイシャツにかえさせている。たったそれだけのことで、浜田は自分でも驚くほど、精悍で現代的な感じに変わってしまった。
本当は、敏子はカラーシャツを着せたかったようである。しかし、それには高村英太郎が顔をしかめるのが判っていたので、白いシャツにしているのだ。
どういうわけか、高村英太郎は自分の車について、ひどく大時代なイメージを持っているらしい。車に乗っている時の彼の態度は、いささか尊大に過ぎ、保守党の代議士のようなふんぞり返りかたをする。シートカバーは純白でなければ承知せず、ボデーもいつもピカピカでないと機嫌が悪い。運転させる浜田に対しても、必ず白い手袋をさせている。たまに忘れていると、手袋はどうした、と注意する。もちろんネクタイも上着も外すことは許さず、グリーンやブルーの塗装をした車は、乗用車であっても、全部スポーツ・カーだと言う。自家用車はすべからく運転手つきで、黒塗り白シートのおごそかなものだときめてかかっているのである。ひょっとすると高村は、若い頃からそういう車に乗るのが学者なのだという思い込みかたをしてきたのかも知れない。
「君はことしで幾つになるのかな」
その高村英太郎が、ふと思いついたように言った。
「はあ」
浜田はバックミラーへちらりと目をあげ、すぐ視線を前へ戻して答えなかった。
「うちの敏子より少し下だったな」
高村はつぶやくように言う。
「よくあれにからかわれているようだが、気にせんでくれ」
「はい」
「ああいう娘なのだ。まったく、あれにも困ったものだ」
高村は珍しくしみじみとした口調で言う。
「学校にいる頃から好き放題にしおって散々親を手古摺らせた。だが、どういうわけか遊んでいるようでいて、成績は悪くなかった。まったく妙な奴だ」
「頭がいいんです」
浜田は微笑して言った。実際、彼は敏子の頭の回転の早さには、いつも舌をまいていた。そのくせ、いましっとりと女らしかったかと思うと、突然素っ裸で浜田の背中へ馬乗りになってふざけたりする。会うたびに振りまわされている感じで、しかもそれがたのしかった。
「見合などさせても、とても承知する娘ではないと思ってな。儂ははじめからあきらめておったのだよ。あれはあれなりに生きるだろうし、それが一番いいと思ってな」
「はあ」
浜田は擽《くすぐ》ったい思いでハンドルを握っていた。
「何か外ではごちゃごちゃやっているらしかったが、いつになっても結婚する様子がない。三十になる前にと、思い切って見合いさせて見ると、一度で簡単に嫁いでしまった。ところが、これで納まったわいと安心していると、たった半年《はんとし》で出て来てしまう。まったくどういう気なのか。……いったい人生を何だと思っておるのかねえ」
浜田は返事のしようがなく、黙って聞いていた。ただ、この頑固で、梃子でも動かぬ重みを持った人物と、あのとらえにくい蝶のような敏子とが親娘なのだという事実を、不思議に思っていた。
「先方は次男坊なのだ。敏子を迎えるについて、新しく家まで買ったのだよ。今どき家など生易しい金では納まらん。儂の知っている者で、結婚して十五年も二十年もたった夫婦が、いまだに自分の家を持つためにせっせと金を貯めているのがいる。それなのに、大した理由もなくとび出して……。なあ君、儂だって先方に言う言葉がなかろう」
やっと車が少し動きだした。浜田はほっとしてギアを入れかえた。
「君からも言ってやってくれんかねえ」
「僕がですか」
浜田は体を堅くして言った。
「そうだよ。儂らの言うことを素直に聞く娘じゃない。君には何でもズケズケ言っているようだから、案外効果があるかも知れん」
「あちらでは、どうおっしゃっているのですか」
浜田は思い切って尋ねて見た。
「有難いことに、帰ってさえくれればそれでいいと言っているのだ」
「そうですか」
浜田は心の底にチクリとした痛みを感じながら頷いた。
「まあ、そう立派なという程の青年ではないが、真面目だし、家庭も悪くないし、敏子にはまず不足のない相手のはずだったのだが」
浜田は、はじめて敏子とデートしたとき、銀座の洋品店で見かけた、茶の服を着た男を思い出していた。敏子の夫がどんな人物であるか、よく知らなかったが、なんとなく気おされる思いがした。
その日、高村は一時から三時ごろまで、皇居前のホテルで誰かと会い、四時から一ツ橋の学士会館で何かのパーティーに出席していた。車を停めてしまえばあとは何もすることがなく、さりとて車のそばを長く離れていることもできず、自家用車の運転手とは、少し走って長く待つ退屈な仕事であったが、気を長く持ちさえすれば、その分だけ気楽な稼業と言えた。
浜田は停まった車の運転席で、その長い時間を、敏子のことを考えて過していた。
ホテルの部屋で、あの日浜田がバスルームから出ると、敏子はカーテンを引いて暗くしたベッドに横たわって、静かに待っていた。そのベッドへあがると、敏子はほの暗いスタンドの光の中で目をとじ、
「キスして」
と言った。浜田は軽くその唇に触れたあと、
「俺、君がはじめてなんだぜ」
とささやいた。率直になるべきだと心にきめてはいたが、それを口にしたとたん、ひどく恥かしくなった。男と女が逆になったような、みじめな気分に襲われたのである。
「そうは見えないわよ」
その時敏子は、薄く目をあけて浜田をみつめ、まったく動揺のない表情で言った。
「なぜだい」
「落着いているわ。思ったよりずっと……」
あ……、と思った。敏子はすでに浜田がその年でまだ童貞でいたことを見抜いていたらしい。
「どうして判ったんだ」
「不思議」
「うん」
「はじめは気が付かなかったの。でも、今度帰って来て、なんとなくそう感じはじめたのよ」
「結婚したせいか」
「それ、どういう意味」
「つまりその、ご主人と……」
「くらべたかって言いたいのね。おあいにくさま」
敏子は自分の顔をのぞき込む形でいる浜田の首にしなやかな腕をかけ、引き落した。浜田は重なるように倒れ込んだ。
「あたしはあたし自身で感じたの。誰ともくらべやしなかったわ」
首にまいた腕をそのままに、一度きつく唇を吸った。敏子の鼻梁の乾いた冷たさが、ひどく印象的であった。
「不思議だわ。ほんとに不思議よ」
「なにが不思議なんだ。俺のほうが余程不思議に思っている」
「なにを……」
「君のような人が、どうして俺みたいな奴とこんな風になるのか」
敏子はかすかに首を振った。ボーイッシュな短い髪が、浜田の眉のあたりに触れた。
「あなたを、どうして誰も気付かないのかしら。凄くハンサムよ。たくましいし……」
「まだそんなこと言ってる」
「いいえ、そうじゃないわ。きっとあなたは、世の中の忘れ物みたいな人ね。あなたがあんまり静かに、ひっそりと生きてるから、みんな見落しているのよ。でも、あたしは見つけたわ。だからうれしいの。判ってる。あなたは清潔で、正直で、たのもしい人なのよ」
敏子は潤んだ瞳でそう言い、指で浜田の顔を撫でまわした。浜田はその優しい擽ったさにうっとりとしていた。
「いつかはこうして、女の体を抱く日があると思っていた」
浜田はおずおずと敏子のくびれた胴の下へ手をさしいれ、抱きながら言った。
「そういう時が来たら、優しく、ゆっくりと、静かに愛し合いたいと思っていたんだ」
すると敏子は急に浜田の胸に、匂いをかぐように顔を埋めた。はだけた胸へ、キスがあった。浜田は上になった右手で、その短い髪の頭を優しくかかえた。女の頭は思いがけない程小さかった。
しばらくそうしていると、やがて敏子は鼻声をだし、体をそらせて胸をこすりつけるようにしたかと思うと、
「嫌だわ、あたし……」
と言って、べッドの上へはね起きた。浜田ははずみであお向けになり、驚いて敏子を見あげた。
「どうしたんだ」
「ちきしょう、あたしのほうが熱くなって来ちゃった」
ほの暗い中で、敏子は真剣な表情でそう言い、下唇を噛んだ。
「だめなのよ、あなたのペースじゃ」
そう言い、まさに艶然とした微笑を泛べると、両手の指先きで腰ひもの端を引っ張った。ひとえにしか巻けない、その短い浴衣のひもは、呆気なくはらりと解け、次に敏子が手を動かすと、浴衣は彼女のうしろに落ちて、つやつやとした裸身が彼の視界にあった。
ベッドに両膝をつき、引き締った腿が逆V字に彼女の上体を支えていた。
浜田はじっとそれをみつめた。
「綺麗だ……」
「よく見て、よく憶えてね」
敏子は両手を頭のうしろに組み、胸を突き出すようにしていた。
「これがあなたのはじめての女の体よ」
浜田は夢の中のような思いで体を起し、ベッドに埋まった膝のあたりから、そっとなめらかな肌に触れて行った。両手の指が、左右均等に這いあがった。
たしかに、先に自制心を失なったのは敏子のほうであった。同じ姿勢で抱き合い、次に同じように全裸にさせ、しばらくみつめ合っていると、叫ぶような声をあげて抱きついて来た。どこに唇をあてればいいのか判らぬように、膝で立った浜田の体の至るところにキスし続けた。
倒れ込み、体を押しつけ合うと、敏子は浜田を手にとって自分の中へ導いた。敏子は呻き、唇を噛んで浜田を初登頂させようと努めた。しかし、不器用にのしかかって動かない浜田の体の下では、どうはね動こうともだえようと、感じるものは敏子のほうが多かったようであった。それに、浜田にははじめての解放を恐れるものがあって、敏子のほうが先に震えだしてしまった。
あ、あ、と短く叫び、体をそりかえらせて浜田をきつくしめつけたあと、泣くような声で、
「ごめんなさい」
と言った。
「こんなつもりじゃなかったのに。……いいの、このままにしてて」
敏子は左側から体を起し、交わったまま位置をいれかえた。すぐ豊かなバストが揺れはじめ、浜田はそのたびに底の感覚を持った。今度は浜田のほうへ、どうにもならない熱さが見舞った。浜田は夢中で敏子の腰をだきしめ、敏子がそれにさからって動いた。
「だめ。はなして……」
何度か敏子は叱るように言った。浜田は、それが敏子の腰をだく自分の手のことを言っているのだと気づいた。そして手をはなした瞬間、我にもなく、あっと叫んだ。もう目の前に何もなく、巨大な火球が体の中を上昇して爆発したようであった。敏子はその浜田の両方の二の腕を、爪が食い入るほど強く握りしめ、息を短く吸い込んでいた。やがて、ゆっくりと浜田の真上へ倒れかかり、ぴったりと重なった。
言葉は要らなかった。敏子の熱い肉がうごめくたび、浜田はそれをはね返すように反り、それが二人の会話になっていた。そしてだいぶたってから、敏子はシクシクとすすり泣きをはじめた。
「どうしたんだ」
「しあわせなのよ」
「…………」
「ごめんなさい。でも、あたし、いまとってもしあわせなの」
浜田は敏子の短い髪の間に指をいれ、優しく梳《す》いた。
「君だけでいい」
「え……」
「俺は君だけでいい。このまま君だけでいたい」
敏子は浜田の胸に唇をあて、軽く歯をたてた。
「本当にそうしてくれる」
「君だけを愛して生きていたい」
「すてきだわ。もう一度言って」
「俺はこれから、君だけを愛して生きる。君の為に生きて、君と一緒に死にたい」
「そんなことが言える人なんて、もういないかと思っていたわ」
「まさか、これきりになるんじゃないだろうな」
すると敏子は首を持ちあげ、驚いたようにみつめた。
「本気でそう思うの」
「心配になった。もう君を離したくない」
「つかまえてて。いつまでも……」
二人の愛の言葉にいつわりはないようであった。翌朝まで二人はその部屋でじゃれ合い、むつみ合い、食事も部屋へとり寄せて過した。
「予約しておいたのよ」
翌朝早く、ホテルを出るとき敏子はそう言って笑った。
「あたしって、悪い女でしょう」
何もかも、結局敏子の予定どおりに運んだらしく、ホテルの勘定なども、敏子がいとも気軽に払ってしまった。
「今度だけだぞ」
憮然として浜田は言い、この次から女の敏子が金を払うのは許さないと睨んだ。
「そうね。あたしだってお金持ちじゃないし」
敏子は素直に同意し、これからはあなたのアパートへ行っていいかと尋ねた。
「そのほうがいい。精々綺麗にして置くよ」
そういう約束が出来て、敏子は次の晩から本当にやって来た。浜田が高村英太郎から解放される時間さえ判れば、どこへ寄り道するという気づかいのない男だから、敏子のほうで夕食の材料などを買い込んで、うまく時間を合わせることができる。
いま、二日に一度か三日に一度の割合いで、敏子はしげしげと浜田のアパートへ通って来る。泊って行くこともあるし、遅くに帰ることもある。女物の下着やネグリジェが、安物の箪笥の抽斗に数を増し、浜田の着る物やヘア・スタイルまでがかわって行った。
浜田の肩のうしろにある嘆き鳥については、最初の夜に説明させられた。
「そう言えば鳥が飛んでいる形だわ」
敏子は感心したように言い、その痣へ唇をあてて舌を這わせた。
「ねえ、感じないの」
「別に。ほかのところと同じさ」
「変ねえ、鳥が飛んでるくせに」
敏子は理屈に合わぬことを言って笑った。
「でも、これが宝物の地図だなんて、ちょっとロマンチックね」
「おとぎばなしだよ」
「でも、もし本当だったら大変なことよ。平家が壇の浦で滅んだ時というと、たしか文治元年。西暦で千百何年かだわ」
「よく知っているんだな」
「歴史は好きですもの」
それから浜田はながながと敏子の解説を聞かされた。義経や頼朝や武蔵坊弁慶などが出てくるその時代の物語は、それ自体が浜田にとってはひとつのおとぎばなしのようであった。
「昔だったら、さしずめあなたは嘆き鳥の五郎とかなんとか言う、ふたつ名前のおあにいさんだわね」
「嘆き鳥一家か」
「あたしがあねごってわけ……」
二人は笑い合った。浜田はずっとあとになっても、その時の満ち足りた幸福感を忘れられなかった。
神 鏡
六本木の通りを、敏子が大きな紙袋をぶらさげて、飯倉のほうから歩いて来た。その左側の歩道にそって建ち並んだビルのひとつにあるオフィスで、南川ヒロシが片手をあげて言った。
「じゃあたのんだよ」
そこはインテリア・デザイナーのオフィスで、三十そこそこの男が、今までひろげていた書棚と仕事机の図面を丸い筒にしながら、
「こんなの作って、あとで使いにくいと言って文句言ったって知らないからね」
と笑った。
「余計な心配しないで早くやってくれよ」
南川ヒロシは笑いながらドアをあけ、軽い足どりで階段を降りて行った。そこは三階で、足早に降りて行くと果物屋の店の横についた狭いドアから外の歩道へ出る。
「よう」
「あら……」
南川と敏子は出会いがしらに顔を合わせて、意味もなく笑った。
「仕事……」
「お嬢さまは」
「いやねえ。陰ではあの出戻りだなんて悪口言ってるくせに」
「聞えたかい」
南川はもう一度笑い、
「お茶でも飲むか」
と、自分に言うように言った。
「いいわよ、付き合ってあげる」
「光栄です、お嬢さま」
「うるさい、漫画屋」
「畜生、浜田君の真似だな。彼はおかしいなあ。時々説明するんだけど、どうしても俺を漫画家だと思っている。劇画と漫画とイラストレーションの区別がつかないなんて、今どき珍しいんじゃないか」
二人は狭い歩道を縦に並んで歩きながら、その先の角を左に曲った。近くに洒落た喫茶店がある。
「あの人は自分の世界をきっちりきめてしまって、よそ見をしないのよ」
「へえ……」
「そういう意味では、あなたの言うように今どき珍しい人よ」
「肩を持つんだね」
「じゃあ聞くけど、あなたはその三つをちゃんと定義づけて区別できるの」
「やだな」
南川は肩をすくめて見せ、喫茶店のドアをあけた。店の中へ入って見まわし、隅のあいた席へ行って坐る。
「のっけから堅い話になりそうだ。敏子さんとそんな話をしようとは思わないな」
「女はみんな馬鹿だから、語るに足りないってわけね」
「そうとんがるなよ。なんでこんなになっちゃったのかな」
そう言って笑い、ウェイトレスに冷たい飲物をふたつ注文した。
「先生は相かわらずご活躍だね」
「変なことはじめちゃって……」
「おかげでこっちは千人力さ」
「悪い人。立派な学者をゲテモノの世界へ引きずり込んじゃって」
「俺じゃないよ。先生が自分からしたことだ。冗談じゃなくて、そろそろ超能力だの円盤だのということを、正規の学者が真面目にとりあげてもいい頃だ。ゲテモノ扱いにしてるけど、事実存在するんだから仕方ないじゃないか」
「本当にあるのかしらねえ」
飲物が来ると、敏子はハンドバッグからシガレット・ケースをだした。
「あるんだよ」
南川は自分のライターを差しだして火をつける。
「円盤を見たという報告は、まず疑ってかかるのが正しい。それはたしかだ。でも、調べるとその報告の何パーセントかは否定できなくなる。その何パーセントかが、UFOなんだ。未確認飛行物体なんだな」
敏子は煙を細く吐いて、じっと南川をみつめた。
「また何かいちゃもんをつけようというのかい」
南川は先まわりして言った。
「違う」
「変だな」
「どうして」
「いつもと調子が違うからさ」
「そうかしら」
「そろそろ白状しなよ」
「何を白状するの」
「何かあるんだろう。誰かいるんだ。だから飛びだして来ちゃったんだ」
敏子は肩をすくめた。
「そうだったわね。あなたは円盤だの念力だの、変な歴史だのの専門家だったわね」
「それがどうしたんだい」
「これよ」
敏子はテーブルの下に置いた紙袋を示した。
「なんだい、これは」
「男物よ。今買って来たの」
「かなわねえな、まったく」
南川は頭を掻いた。
「君って人は頭がどうなってるんだい」
「狂ってる……」
「いや、そうじゃない。その反対さ。クルクル、クルクルよく動くんで、ついていけない感じだ」
「誰のだと思う」
「さあねえ。君の番をしてるわけじゃないからな」
「うちに、とってもハンサムな運転手が一人いるの」
「えっ」
南川はギョッとしたように敏子をみつめた。
「君、それは可哀そうだよ」
真顔になって体をのりだした。
「彼は純情な男だ。俺だってあいつは好きだ。清潔で控え目で、世の中の邪魔にならないように生きてる感じだ。ああいう生き方を見てると、人をおしのけかきわけして生きている自分が嫌になる時がある。優雅な生き方だよ。しかし……」
「あたしの相手じゃないって言うのね」
「結論を言えばそうだ」
「でも、可愛いわよ」
「そりゃそうだろう。たしか、ひとつ下だったかな。でも、君から見れば少年みたいなはずだな」
「あたしは年増」
敏子はふざけたように言う。
「よしなよ。あいつが君を愛したらどうなると思う。気を悪くしたらあやまるが、君という女を持つことで、あいつはこの世のたたかいのどまん中へ抛り出されるんだよ」
「大げさねえ」
「大げさじゃない。いったい、君を欲しがる男がどれくらいいると思っているんだ。今にもしかすると、あいつはその全部を向うにまわしてたたかわなければならなくなるんだぞ。静かにひっそりと暮している者を、そっとしといてやるのが本当の……」
「愛情だって言うのね」
「そうだ」
「じゃ、あたしには、ああいう男を愛する権利も資格もないと言うの。もしあたしが、ああいう風にひっそりと暮したがっているとしたら……」
「本当かなあ」
南川は疑わしそうに言った。
「どうして出戻ったか知ってる」
「知るわけがない」
「いいうちの次男坊。勤め先も上の中くらい。結婚するについて、親から小さいながら庭つき一戸建ての建売りを買ってもらって、家つき、カーつき、ばばあ抜きってわけ……」
「結構じゃないか」
「そこへ入って、次男坊氏をわが夫と仰ぎ見てごらんなさいよ」
「…………」
「あなたが今、浜田君について言った言葉をそっくりお返しするわ。あたしは平和な家庭の主婦に納まるわけじゃないのよ。その建売りの家のまわりを落着いてゆっくり見まわすと、もっと立派な、大きな家がたくさんあるじゃないの。亭主の地位だって、どんどんあげてやりたいでしょう。子供が生まれれば、勉強してみんなよりえらくなれ、みんなより強くなれって……」
「なるほどねえ」
南川は感じ入ったように腕組みをした。
「静かに暮していた女が、そうやって突然戦争にぶちこまれるのよ。たしかに、とついだのはあたしの責任。でも、その大きなたたかいに気付いたとき、あたしはさっさと逃げだしたわ。とてもやって行く気になれなかったの。一緒にたたかうほど愛してもいなかったし、そう思えるほどの相手でもなかったのよ」
「相手を傷つけない内に早く別れようとしたんだね」
「相手ばかりじゃないわ。あのままいたら、いやいや二人で戦争をはじめたはずよ。中途半端にね。あたしは妥協を続けながら、だんだん無気力なおばさんになって……」
敏子は男がよくそうするように、両手を目のわきへ立てて見せた。
「これもんで、子供のことだけに没入して。結局ママゴンよ。ありふれた現代の怪獣よ」
「でも、それじゃ彼ならいいというのかい」
「少くとも、たたかう気は起るわ。攻撃じゃなくて守備よ。侵略じゃなくて自衛のたたかいね」
「守ってやるのか」
「あの綺麗な心をよ。もうはたから何を言ってもだめ。あの人、童貞だったのよ」
うへっ、という感じで南川は腕組みを解いた。
「へえ……そうかね」
気をとり直して南川は言った。
「しかし、おかしな話になったな。君はなぜこの僕にいきなりそんな秘密をぶつけるんだ」
「あなたがそのほうの専門家だからよ」
「童貞のかい」
「ばかね」
さすがに敏子は少し顔をあからめたようであった。
「実は、ちょっと聞いてもらいたいことがあるの。それを聞くには、彼のことをバラしてしまわないとおかしいのよ」
「ほう。どういうことだね」
「あの人、ここのところに変な痣があるのよ」
南川は笑いだした。
「なる程ね。聞いて見れば筋が通ってる。そいつを逆の順序で聞かされたら、僕みたいな下司野郎はすぐ勘ぐるよ」
「いいの。時間あるの」
敏子は腕時計を見た。
「たとえ何があっても、その話は聞くよ。で、どんな痣なんだい」
「嘆き鳥……」
「え。なんだって」
「嘆き鳥という名前がついているんですって」
「粋な名だね。誰がつけたの」
「お風呂屋さん」
ヒヒヒヒ……と、南川は妙な笑い方をした。
「またついて行けなくなった」
「その痣は、平時忠《たいらのときただ》の宝に関係があるらしいの」
「平《たいら》……。平家かい」
南川は目を剥いた。敏子は委細かまわず話を進めた。
「ふうん……」
途中から南川は真剣な表情になり、敏子があらすじを語りおえるとため息をついた。
「その風呂屋の伝説だがね」
何か考えをまとめるように眉を寄せて言う。
「平家の宝物というのは、たしかに判り易くていい。いかにも平時忠は大金持だったはずさ。奢る平家が奢っている最中、この一門にあらぬ者は男も女も尼法師も人非人、などと酷いことを言った男だからな」
「清盛の兄さんに当たるわけでしょう」
「うん。清盛の奥さんが時子で、時子は時忠の妹だ。おまけに、もう一人、滋子という妹がいて、それは後白河上皇の女御《にようご》の建春門院になっている。だから平家全盛のころは関白なみの威勢を振ったが、そうかと言って、余り上等な人物ではなかった節もある。たしか二度ほど流されているな」
「後白河院と清盛の対立のまん中にいて、どちらかと言えば後白河寄りだったんじゃなかったかしら。よく憶えていないけど、一度は後白河の子供を立太子させようとして解任されたはずよ。そのあと、天皇を呪詛したとかなんとかで出雲へ流されて……」
「あとでよく調べて見るよ」
南川はじれったそうに言った。
「どうしたのよ。いらいらしてるみたい」
「君はとんでもないことを持ちだしてくれたよ」
南川は苦笑して見せ、一気に喋りだした。
「時忠という人物については以前から関心を持っていた。一般には平家の貴族的な面を、それも悪いほうの面を代表する人物のように言われている。清盛の娘の徳子など……」
「建礼門院ね」
「うん。徳子などは安徳天皇をだいて壇の浦で身投げしてしまったというのに、時忠はなんとか生きのびようと悪あがきしている。一般には義経につかまって京へ送られたことになっているようだが、本当は自分のほうから命乞いに行っている。どうも、最初からかなり高度な条件を持ち出して取引きしたようだ。君は例の三種の神器の内のひとつが壇の浦で海の中へ沈んでなくなってしまったのを知っているだろう」
「剣《つるぎ》でしょう」
「うん。清盛の娘の徳子が、幼い安徳帝といっしょに、ドボンとやっちゃったわけだ。だが時忠は死ななかった。もうひとつの神器である鏡を差しだして、交換条件として助かったらしい」
「そのどこがおかしいの」
「どうも、重大な使命のようなものを持っていた人物じゃないかと思うんだよ。つまり、鎌倉にいた頼朝が、いちばん望んでいたのは、安徳天皇と三種の神器を確保するということらしいんだ。平家と入れ替わって天下を治める場合、まず問題となるのは、京の貴族たちとの関係だ。神器や天皇を海に沈めてしまったら、あとが厄介でしょうがない。ところが義経は勇ましい八艘とびなんかやって、いくさしか頭になかった。おかげで天皇と剣《つるぎ》はドボンさ。義経びいきが多いけれど、見ようによってはひどく幼稚な大将だったと言えなくもない。その点、良い悪いは別にして、時忠は老獪だし、政治の裏を知り抜いている。義経のルートではないところから、ひそかに神器を確保する手が打たれていたかも知れないじゃないか。結局神鏡は知盛が仕たてた御座船にあって無事。神璽である八尺瓊勾玉《やさかにのまがたま》は、二位尼がそれを持って入水したあと、箱ごと浮いて来て無事……」
「それに時忠がからんでいたの」
「推測さ、想像だよ。でも、よく考えて見ると、おかしいのさ。戦争は源氏の一方的な勝利だった。いくら時忠がおとなしく神鏡をさしだしたからと言って、簡単に罪を免じられる情勢ではない。何しろ、平家にあらざれば人にあらずと言った奴だからね。鏡と一緒に京へ送られたとしても、そこで鏡をとりあげられて、首をチョンということだってあり得るし、むしろそのほうが可能性が濃い」
「そうだわね」
「そうなのさ。そういうことをずっと考えて来たら、そこへ君がひょいと嘆き鳥を飛ばして寄越したんだ。ピンと来たね。その厳重すぎるほど厳重にかくした宝物というのは、ひょっとすると神鏡なのかも知れないんだ」
「だって……」
「源氏がとり戻したって言いたいんだろう。しかし、もともと宮中にある三種の神器というのは、摸造品なのさ。勾玉《まがたま》だけは本物らしいが、剣《つるぎ》は熱田神宮、鏡は伊勢神宮のご神体になっていて、両方とも、はじめは天皇と同じ屋根の下に置いたのだが、崇神天皇のとき大和の笠縫邑《かさぬいのむら》 に移されて、それ以来宮中のは摸造品になってしまった」
「ずいぶん古いことだわね」
「だからさ。ひょっとすると、時忠は頼朝の弱味を知り抜いていて、伊勢の神鏡を……つまり本物をかくしていたんじゃないだろうか。そうでないと、摸造の鏡を取りあげられたあとも、命があったのが割り切れなくなる」
「剣じゃいけないの」
「熱田の剣ではないよ。あれは江戸時代にあけて見た記録があるし、壇の浦のあとすぐに新しく摸造の剣が造られているもの。本物はちゃんとあったはずだ」
「なるほどねえ。すると、嘆き鳥はその神鏡のかくし場所を秘めた地図というわけね」
「彼の痣がそうかどうか知らないが、かくしすぎるほどかくさねばならないとすれば、鏡という答が出て来る。それは時忠一門にとって、命を守る鍵なんだからね。それを持っている限り、生命は保証される。表向きは宮中にあった鏡で納まっているが、もし伊勢の神鏡がないということになったら、まだ基礎のやわらかい鎌倉幕府は、根底から揺れ動くことになる。いや、少くとも頼朝たちはそれをおそれた。後になって見れば、そんなことに関係なく、鎌倉は次の世を継いだわけだけれど、当時の頼朝たちにしてみれば、はれものにさわるような思いだったろうさ」
「そうね」
「時忠はそれで能登へ流されるだけで済んだ、鏡のおかげでね。彼らを殺したら永久に鏡は失なわれる」
「能登へとじこめて、そっと生かしたわけね」
「そうだよ。今度、彼氏を口説いてくれないか。是非ともその嘆き鳥を拝見しなくてはな。写真に撮って研究したいんだ」
「うんと言うかしら」
「君が言わせてくれ。そのかわり、君らの味方になろう」
南川は本気で言ったようだった。
雨
梅雨に入ったらしく、もう何日も雨が降り続いている。敏子は窓辺に倚りかかって横坐りになり、ガラス戸を細目にあけて外を見ていた。
「まだ降ってるな」
浜田が言った。入口の横に一畳分の板の間があって、その流し台のわきのガス・コンロに、使い古した薬缶をかけているところであった。窓のすぐ外にある土手の上を国電が通り、流しの上の棚にのせた、歯ブラシをいれたコップが、となりの鍋に触れて、チリチリとこまかく鳴っている。
敏子は窓をしめ、ハイライトの袋をとりあげて一本抜きだすと、薄べったいぺーパーマッチをひらいて火をつける。
「湿っぽいわね、ここは」
煙を吐きだして言う。
「上着のポケットにある奴を吸えばいい。それはここに置きっぱなしにしておいた奴だから」
女はフィルターのところをつまんで、吸っていた煙草を一回転させて見る。
「本当だわ。シケちゃってる」
浜田は壁に吊した上着のポケットを探ろうとする。
「いいわよ、これで」
敏子はものうげに首を振った。
「敏子、嫌になっちゃった」
今日は焦茶色の丸首シャツを着て、スカートはデニムのミディである。薄いが恰好のいい唇に煙草を咥え、特徴のある少し離れ気味の大きな目で浜田を見た。
「どうしてだい」
「またおやじと喧嘩しちゃった」
「先生とか。あまり派手にやるなよ」
「下らないことばかり言うんだもの」
敏子は甘えるように言った。浜田が灰皿を中に、向き合って坐ろうとすると、左手で自分の横の畳をトントンと軽く突いて見せた。浜田は中腰でそこへ移る。