「心配……」
敏子はすぐもたれかかり、ちかぢかと顔を寄せて、からかうような表情でみつめた。
「俺のこと、バレたんじゃなかろうな」
「大丈夫よ。あたしがそんなヘマをするわけがないじゃない」
浜田は敏子の唇から煙草をとりあげ、灰皿で軽く灰を落してから、自分が吸った。
「しょうがないのよ。出戻りですもの」
敏子は左手を窓の下の壁と浜田の腰の間にいれ、甘えるようにもたれかかり直した。
「先生にうしろめたいんじゃないのかな」
「それならあなただって同じよ」
敏子はどうでもいいことのように軽く言った。
「判らないなあ」
「何が」
「どうして六ヶ月くらいで別れちゃうんだろう。それならはじめから結婚しなければいいのに」
「籍まで入れちゃったんですものね。馬鹿みたい……。でも、あなたまで言うことないじゃないの。うんざりだわ。みんなで同じことばかり言うんですもの」
浜田は敏子の短い髪を、煙草をはさんだ左手でそっと撫でた。
「ごめん……」
「また言って来たのよ。向うの親たちや仲人がね」
「うるさいだろうが、仕方ないな」
「つめたいのね」
「だってそうだろう。大したわけもないのに出て来てしまったんだ。たった半年《はんとし》じゃ、説得すれば元のさやに納まると思うだろうし、それじゃもういいですと言えば事が荒立ってしまう」
「言ったって判ってもらえないわ」
「君の気持か」
「ええ。あたしの我儘だ……でおわりにされちゃうわ。でも、彼だってあたしのこと、あんまり好きじゃないはずなんだけどなあ」
「ご主人がもういいと言えば、それでけりがつくな。でも、いまだにそれを言わないところを見ると……」
「まわりよ」
「まわり……」
「そう。兄さんやご両親や、結婚式に呼んだ人たちや……。そういうものを気にしてるの。出て行かれてはみっともないと思っているのよ」
「ご主人にして見ればもっともかも知れないぜ」
「まあいいわ。このお天気みたいなものよ。梅雨は雷が鳴るまではアガらないのよ」
「君は頭がいい。手近なものでうまくたとえる」
「でも、おやじも立場が悪いわね。あたしが出戻りで住みついてるんじゃ」
「そりゃそうさ。先方さんにも返事のしようがないだろう」
浜田は思い出し笑いのように笑った。
「なによ」
敏子が首を動かして浜田を見た。
「えらい先生も君にあってはかたなしだな。頑固で強情っ張りのあの先生が……。いつかも車の中でこぼしてたよ」
「なんだって」
「家のことを言ってた。あちらは君を迎えるんで家まで買ったのに、って」
「建売りよ。それもローンで。家賃払ってるほうが余程気がきいてるわ。あたしたちが入ってすぐ、もう台所でも何でもガタガタ」
「みんな、そのガタガタのマイホームが欲しくてあくせく働いているんだ」
浜田は、吸っている内に湿気で白い巻紙が黄色く変色しはじめた煙草を、灰皿で揉み消した。敏子は浜田の胸に向けて体を倒し、投げ出している脚を枕にする形で、あおむけになった。
「あたし、帰ったほうがいいの」
下から見あげて言う。浜田は黙ってその薄い唇の形を指でなぞった。敏子が急に口を開いてその指先を噛む。浜田が浅く咥えられた指をそのままにしていると、敏子は左手でその手を掴み、指を口から放して男の掌に唇を押しあてた。
「よくねえんだよなあ、こういうのは……」
浜田はつぶやくように言った。
「家出しちゃおうか」
敏子は男の子のような言い方をする。浜田の左手がその首筋のあたりへ這った。
「ご主人の娘さんだからなあ」
敏子は自分の陰気な気分を浜田に感染させてしまったと悟って、機嫌をとりはじめたようであった。
「二人でどこかへ行っちゃおうか」
「そりゃ、運転手なんて、どこへ行ったってわりと簡単に仕事は見つかるさ。二種の免許も持ってるし。でも……」
浜田の指は脇腹から盛りあがった胸へ這い登る。
「あたし、我儘かも知れないけど、そう贅沢な女じゃないのよ。いまいちばんあたしが贅沢してるのは男よ」
「男……」
「あ、な、た」
「俺が贅沢かよ」
「そう。あたしはいま凄く贅沢してるの。あなたみたいな男をひとり占めしてるんですものね」
「二人でどこかへ行ってしまってもいいけど、先生に何と言ったらいいか」
「おやじなんて平気よ」
浜田は掌を大きくひろげ、左の乳房をそっと掴んだ。
「あなたはあたしよりずっと自由だと思うわ」
「自由。どうして」
「あなたがうちのおやじに義理だてすることなんてないのよ。何よ、人使いばかり荒くて。まるで思いやりなんてないんですものね」
「そうでもないさ」
「ねえ、この間家族づれの遠距離トラックを見たわ。若い奥さんと三つぐらいの坊やが一緒なの。いいもんだなあって思っちゃった。ねえ、ああいうのやらない」
「流れ者みたいな暮しだぜ。連中は連中で、一ヶ所に落着きたいと思ってるんだ」
浜田の右手が動いて、デニムのスカートから薄い丸首シャツの裾をたくしあげ、じかに肌へもぐり込んだ。
「短い間でもいいわ。一度やって見たい。あなたの横に坐って、大きなトラックで国道をすっとばすの。ヘッドライトが暗い道を照らすのをじっとみつめてると、反対側の車がブンブンすれ違って行く……。ロマンチックだなあ。人生をあなたに完全にあずけちゃったわけよね。あなたが行こうとしてるところへあたしも行くの。降りられも逃げだしもできない……。そして暗い海岸に停めちゃって、波の音を聞きながらファックしてもらう」
「馬鹿だなあ」
敏子の胴がむきだしになった。シャツは脇の下までめくりあげられ、白いブラジャーにしめつけられて盛りあがったバストの谷間が、浅黒く好色な感じに見えている。浜田の指がブラジャーのカップをずらせ、左の乳首を引っぱりだす。淡い茶色の乳首は、エロチックに歪んで上を向いている。
「倦きたら大阪か東京でタクシーでもなんでもやればいいじゃない。あたしだって働いてもいいのよ」
「働くって……」
「ホステスよ」
「君にできるのかい」
浜田は三本の指で、そっと淡い茶色の突起をつまんでいる。
「あんなの、誰にだってできるわ」
敏子は太い息をついて言い、左膝を立てた。浜田が投げ出していた脚をあぐらに組むと、敏子は高くなった浜田の脚に合わせて体をずりあげた。浜田はうつむいて、そのしこった突起に唇をあてる。いつの間にか敏子は自分で背中のフックを外し、肩紐のないブラジャーは、やんわりと肌から浮きあがった。浜田の手がそれをとり除く。あおむけになっていても、そのバストは平たく崩れなかった。
「運転手なんて、しがないもんさ」
低い声で浜田は言い、今度は唇を吸った。ブラジャーのフックを外した敏子の左手は、そのまま自分の腰のあたりへまわり、あぐらをかいている浜田の股間へ伸びている。浜田はそれに対抗するように、デニムのスカートのフックを外しはじめる。
「もっと自由に生きたいわ」
敏子は唇を離して言った。また電車が通り、窓がこまかく震えた。
「脱げよ」
浜田は体を起し、両手で敏子の薄いシャツを引っぱりあげた。敏子は両腕を伸ばして脱がされる。つるりとした感じで上半身があらわになった。腋窩に薄い毛が見えた。あらためて浜田が膝の上へ倒そうとすると、敏子は掴まれた腕を軽くふりほどき、
「お蒲団敷くわね」
と立ちあがった。立つとデニムのスカートがすっぽり脱げ落ちて、小さな白いパンティーだけになる。敏子はスポーツ選手のような思い切りのいい態度で、裸のまま押入れをあけ、蒲団を敷きはじめた。シーツを伸ばすとき、浜田の目に、うつむいた敏子のバストがひどくエロチックに映った。浜田はさっと立ちあがり、シャツとズボンを脱いだ。敏子はテレビの上からティッシュ・ペーパーの箱をとって枕もとへ置くと、ブリーフひとつになった浜田に体を押しつけて、腰に両手をまわした。
「こんな風にしてると電車から見えるんじゃないの」
「見えないんだ。庇《ひさし》にかくれて」
「見られてもいいわ。あたし、一度人に見られながらしてみたい」
敏子は腰を落し、引きずり込むように浜田と一緒に蒲団へ倒れ込んだ。
「ねえ」
「なんだい」
「ちょっとあっち向いて」
浜田は敏子に押されてうつぶせになる。
「本当に感じないの」
敏子は嘆き鳥に唇をつけて言った。
「まだ言ってる」
浜田はくるりとあおむけになった。今度は浜田の乳首がいたずらのように吸われる。
「先生に言われたんだよ」
浜田は目をとじて言った。
「え……。何を」
「ご主人のところへ帰るように言ってくれってさ」
敏子は蒲団の上へ、ぺたんと裸で坐り、浜田の下腹部を平手で軽く叩いた。
「こういうときにそんな話をどうして持ちだすのよ」
子供をたしなめる母親のようであった。
「それで、いつ言われたの」
「だいぶ前だ」
「気になるの」
「うん。先生を裏切っているんだからな」
「これが裏切りになるのかしら」
「なるさ」
「困った人ね。そんな風じゃ生きて行けないわよ。だったらやめてしまいなさい。そうすれば五分と五分でしょう」
「五分にはなれないさ。恩義があるもの」
「ねえ……」
敏子は浜田をもてあそびながら言った。
「あなた、いつの時代から来た人なの。タイムマシンでやって来たのね」
「からかうなよ」
敏子はため息をついた。横になり、浜田の体の下へもぐりこもうとするように、しがみついた。
「そこがいいんだわ。生意気なこと言ってごめんなさい」
「君はこのごろよく俺にあやまるね」
敏子はギョッとしたように顔をあげ、浜田をまじまじと見た。
「そう言えばそうだわ」
「俺に合わせてくれているようだぜ」
敏子は下唇を噛み、
「あたし、悪い女ね。あなたを駄目にしちゃうかも知れない。……でも、好きよ」
浜田が敏子をまさぐりはじめた。沈黙が続き、二人とも残りの布切れを蹴り脱いでからみ合った。
「あなたって、凄く上手」
敏子がかすれ声で言った。
「それに、とても逞しいの。立派よ。セックスって生まれつきなのね。あの人、とても下手だったわ。体はそう貧弱じゃないんだけど」
半分は本当らしいが、半分は浜田を刺戟するための言葉だったらしい。浜田は敏子の期待どおり反応し、彼女を組みしいた。
「全然よくないの。いつも自分ばかりよ」
浜田が敏子を押し潰すように動いた。
「あたし、あなたに合うの」
細い声で言った。悲鳴を言葉に変えているようであった。
「あなたに合わせているんじゃないわ。合うのよ。合うの……」
浜田は激しく動きだした。その肩のうしろで、嘆き鳥が大きくはばたいている。
やがて敏子は体中の力を抜いて、ぐったりと浜田の横に裸身をさらした。浜田はすぐ起きあがり、衣服をまとって、珍しくきびしい声で言った。
「もう俺にあやまるのはよせ」
敏子は目をとじたまま、頼りない声をだした。
「はい」
「ほかの男のセックスのことを言うのもだ」
すると敏子は目をあけ、ゆっくり上体を起した。
「はい、ご主人さま」
そう言ってから、四つん這いになって蒲団のすそのほうにあったパンティーをとり、はきはじめた。
「ひどい目に会ったわ」
浜田がそれを見おろしながら、心配そうな顔になった。
「どうかしたかい」
敏子は頭を振った。
「すてきだったけど、こてこてにやられたってかんじ……。女って、駄目ね」
「どうしてだい」
浜田は窓際にあった敏子の服を、彼女のほうへ抛ってやった。
「あなたに教えたのが嘘みたい」
敏子は立ちあがってまずデニムのスカートをはき、上半身裸のまま、ふらりとよろけるように浜田にとりすがって畳に膝を突いた。
「知ってる。女って、こういうとき、男を憎たらしいと思うものなのよ」
「俺が憎いのかい」
敏子はため息をついた。
「そう。憎ったらしくて、可愛くって、泣きたくなっちゃう」
「複雑なんだな」
「ほかの人のこと言うと、嫉《や》ける……」
「失礼だよ」
「あなたに……」
「その人にだ。俺だって言われるのは嫌だ」
敏子はシャツを取り、ひろげて頭をくぐらせた。ブラジャーは省略してしまう気らしい。
「おやじに似てるわ」
「俺がかい」
「そう。おやじは両手を前へ出して、来る人を突っ張り返すの。あなたは腕組みして受け流す人。……それだけの違いみたい。頑固で古臭くて」
「新しいことは苦手だ。でも、新しいものがみんないいとは限らない」
「お風呂へ行かない」
「へえ、銭湯へ行くかい」
浜田はうれしそうに言った。
「一緒に入れないのが残念だけど、早く出たら外で待ってるのよ」
「いいとも」
浜田は嬉々として風呂の仕度をはじめた。
やがて二人は相合傘で暗い国電の土手の下の道を通り、一緒にあの風呂屋へ行った。浜田は満足であった。敏子を妻にして、毎日このように過したいと思った。彼が考えている家庭とは、夫婦が連れ立って銭湯へ行くようなことであった。
先に出た浜田を風呂屋の前に十五分も待たせて、敏子が湯あがりの艶めいた姿で現われたとき、浜田は傘をさしかけてやりながら、低い声で言った。
「ほら、あそこに立っている奴」
「どれ……」
「一人いるだろう、男が」
「ええ」
「女湯から出て来るのを待っているんだぜ」
「あたしたちみたいね」
敏子は微笑した。
「ついさっき一緒に帰っちゃったのもいたよ。いいもんだろ」
「そうかしら」
二人は並んで歩きだした。
「うちにお風呂があれば、あんな風にすることもないじゃない」
「判らないのか」
浜田は失望したように敏子を見た。
こまかい雨が降っていて、暗い道のあちこちに水たまりができていた。突きあたりの国電の土手の上を、電車が通りすぎた。
浜田はふと世田谷の高村家を想った。そこには同じ雨が降っているだろうにと感じた。
仕事場
南川ヒロシが自分の仕事机に向ってもう四時間あまりたつ。机の上には、三、四十本ものペンをいれた大きなペン立てに、絵筆をいれた筆立て、ポスター・カラー、定規類、使い古した製図用のディバイダーや烏口《からすぐち》、墨汁の壺、黒インクの瓶、セットになった十何色かのカラーインク、それに鉛筆や消しゴムや鳥の羽根……右に置いた袖机の上には、小さなドライヤーが、机の裏にあるコンセントへコードをだらりと伸ばしている。
左となりのデスクに、アシスタントの小野がいて、似たような姿勢で何かケント紙に描いている。
小野のうしろ側の壁にそって、スチール製の本棚が三つ並べてあり、南川の絵の資料になる雑多な種類の本が、ぎっしりとつまっているが、本棚は入口のドアの脇にもうひとつあって、そのほうには漫画雑誌や映画雑誌、それにファッション関係の外国雑誌が、棚ごとに積みあげてある。
その雑誌を積んだ本棚の横に、どっしりとしたサイドボードがあって、ガラス戸の中には洋酒の瓶がずらりと並び、上にステレオのアンプやテープデッキ、レコード・プレイヤーなどが置いてあった。スピーカーは小型で、仕事をしている南川の背中を頂点とした三角形を作るように、ドアのある側の壁の上のほうにとりつけてある。そのスピーカーからは、もう二時間もバッハが流れ続けていた。
南川や小野の机にくらべると、いやに物の少ない感じでよく整頓された机がもうひとつある。いまその椅子は無人で、となりの応接セットを置いた和室に二人の女が低い声で喋りながら、うず高く積んだ雑誌を切り抜いて、スクラップ・ブックに貼りつけている。
「ああ、腹が減ったな」
南川が突然顔をあげて大声で言い、ペンを置くと椅子の上に反って背伸びをした。
「そばを食おうか」
となりの小野に言う。
「ええ」
小野も手を休めて答えた。
「ミー子、そばをたのんでくれ。俺はざるを二枚」
「俺も」
二十四、五の、脚が長く胸の平べったい女が和室の青いソファーから腰をあげ、
「あたしはスパゲッチ」
と、ふざけたように言った。
「またスパゲッティかよ」
小野が人ごとながらうんざりしたように言う。
「ミー子、あたしも」
襖のかげでもう一人の女の声がした。南川は煙草に火をつけて椅子をまわし、机を背中にした。ミー子は自分の机へ行って電話をかけはじめる。
「なあ小野」
「え……」
「高村先生のとこの浜さんだけどさ」
南川はそこまで言って煙草を吸い、黙りこんだ。
「浜さんがどうかしましたか」
「いや、別に。……どう思う、彼を」
「どうって、ちょっと頼りないみたいだけど、おとなしくていい人だな」
「うん……。なあ、敏子さんとどうだろう」
「どうって」
「一緒に並べたらさ」
「また変なことを考えてる」
小野は笑った。
「変なことじゃないさ」
「変なことじゃないって……それじゃ、あの二人に何かあるというんですか」
「うん」
「嘘だ」
小野はまた笑った。
「そんな……あるわけないですよ」
「お前、敏子さんに惚れてたっけな」
南川はニヤリと小野を見た。
「手おくれだよ。あきらめな」
「本当ですか。まさか……」
「この間、彼女と六本木で会った。自分で言ってた」
「嘘ですよ、きっと」
「さんざん惚気られたよ」
「ちえっ」
ミー子が小野の前へ立って指を折りはじめた。
「あれでしょ、あれでしょ……」
そのたびに指を折り、片手で足りなくて両手をだした。
「大変ねえ、失恋ばっかりで」
「うるせえ」
「やだ、おこってる」
ミー子は笑いながら和室へ行った。
「でも、本当ですか」
「本当さ。それはいいんだけれど、浜さんについて妙なことを聞いた」
「どうして浜さんなんかとデキちゃうんだろう。いやだなあ、女って……」
「浜さんは君よりずっといい男だよ」
「そうですかねえ」
小野は疑わしげに南川を見た。南川が冗談で言ったのではないと知ると、肩をすくめて椅子をまわし、南川のほうを向くと左膝に右足をのせて机に片肱をついた。
「小野は石川県の生まれだったな」
「ええ」
「どこだっけ」
「穴水の少し先です」
「能登か」
「中居というところですよ」
「浜さんも能登だそうだな」
「ええ。でも、子供の頃にいただけだそうですよ。だいぶ苦労したそうで、お袋さんと二人であっちこっち流れ歩いたって言ってました」
「うん。それにしては、どこかおっとりしたところがある人だなあ」
「のんびりした性分なんでしょう。苦労が足の裏からみんな抜けて行ってしまって、ちっとも体に溜らない……」
「聞いた風なことを言うなよ。君より年上じゃないか」
「それはまあそうですけれど」
小野はどことなく、浜田に対して優越感を持っているようであった。
「どの辺《へん》の生まれだか知っているか」
「浜さんですか」
「うん。外浦《そとうら》じゃないかと思うんだが」
「多分そうでしょう。でも、能登はやはり内側がいいですよ。富山湾側のほうがね」
「お国自慢はどうでもいいけど、時国家というのがあるだろう」
「ああ、あれは輪島のほうです。だいぶ前から能登も観光客が行くようになって、時国家も見学料をとっていますよ。たしか二百円だったかな」
「俺はまだ行ったことがないんだが、どうなんだい。いいところかね」
「さあ、好きずきですよ。僕はやっぱり内側のほうが」
「君は能登生まれだ。別だよ」
南川はうるさそうに言った。
「輪島の朝市《あさいち》ってよく言いますけど、大したことないですよ。でも、外浦の曾々木《そそぎ》や真浦《まうら》のあたりは、やはりいいことはいいです」
「宿なんかはどうだい」
「行くんですか。そうですねえ、だいたい木造かモルタルの二階だてかな。いや、鉄筋モルタルっていうのもあるか」
南川は軽く笑った。小野は少しむきになって言う。
「輪島には鉄筋七階のホテルだってありますよ。でも、あんまり大きいのはないな。大きくて、せいぜい五十室どまりぐらいかな」
「高洲山《こうしゆうざん》なんて山があるね」
「自衛隊のレーダー基地です。上へ登ると能登の内浦、外浦の両方が見わたせますけど、車じゃ行けません」
「舳倉島《へくらじま》まではどのくらいかかる」
「輪島から船で二時間ちょっと。……行く気なんですね」
「うん、いずれな」
「案内しますよ」
「そのつもりさ」
「久しぶりに帰れるな。いつ行くんです」
南川は窓の外を見た。まだ梅雨空で、いつ降りだしてもおかしくない空模様であった。
「まだきめていない。仕事のスケジュールしだいだが」
「取材があるんですか。そんな仕事、ありましたっけ」
「ないよ」
南川はニヤリとした。
「浜さんに関係してるんだ。おかしな話だぜ」
「なんです。教えてくださいよ」
すると南川は机の上の灰皿で煙草を消し、のっそりと立ちあがって、資料のつまった本棚から、すっと一冊抜き取って椅子へ戻った。
「そばはまだかな」
ミー子が答える。
「時間がかかりますって」
南川が持って来た本のページをめくろうとすると、とたんに入口のドアがあいて、
「お待ちどうさまッ」
と男が入って来た。
「ちえっ。スパゲッティが先かい」
小野が見て言う。ミー子が出て来て皿をうけとり、
「だからよ。おそばじゃのびちゃうわ」
と笑う。
「そばがのびる前にこっちがのびちゃう」
小野はニコリともせずに言って、南川がひろげたページをのぞいた。
「こいつだ」
「鳳凰でしょう」
そこには中国の古い鳳凰の絵が、原色版で印刷してあった。
「君は能登で嘆き鳥というのを聞いたことがあるかい」
「嘆き鳥……知りませんねえ」
「そうだろうな、内浦では」
南川はからかい気味に言ったが、小野にはその皮肉が通じないようであった。
「なんです、その嘆き鳥というのは」
「浜さんの右の肩のうしろのところに、多分こういう形だと思うんだが、大きな痣があるそうなんだ」
「え……」
小野はギョッとしたように南川を見た。
「それ、敏子さんから……」
「そうだよ」
南川はニヤニヤした。
「やだなあ。もうそういうことになってるんですか」
南川は笑いだした。
「本当に失恋しやがったな」
「畜生……浜さんてのはのそのそしてるくせに」
「違う。敏子さんのほうから惚れたらしい」
「やなこと聞かせないでくださいよ。残酷だなあ」
「滑稽だよ、小野なんか」
「まあいいです。それで、嘆き鳥ってどういう鳥のことです」
「浜さんの痣さ」
「痣……」
小野はキョトンとした。
「そう。鳳凰が飛んでいる形をした痣のことを、能登では嘆き鳥というんだ」
「聞いたことないな」
「君は風呂屋じゃないもの」
「ああ、いやになった」
小野は立ちあがって両手を腰にあてた。
「どうしたんです、今日は」
「なぜ」
「おかしいですよ。話が次から次へとんじゃって、ついて行けないや」
南川は含み笑いをする。
「俺もこの話を最初に聞いたときはそうだった。バラバラで、突拍子もなくて……でも、よく考えると筋が通ってる」
「通ってやしませんよ」
「まあすわれ。こいつは、銭湯の経営者なんかの一部に伝わってる、かくされた伝説なんだ」
「銭湯か……」
小野は椅子に戻った。
「俺は敏子さんからこの話を教わって、自分で少し調べて見た」
「嘆き鳥のことをですか」
「いや。風呂屋のことだ」
「ちえっ」
小野は失笑して首を振った。
「いいから聞け。東京都内に風呂屋はどのくらいの数があると思う」
「さあ」
「当ててみろ」
「そうですねえ。五百か……いや、もっと多いな」
小野は天井を向いて考えた。暗算をしているらしい。
「千じゃきかないでしょう。千二百」
南川は首を横に振った。
「じゃあ、千五百」
「約二千五百軒さ」
「うへ……そんなに」
「うん。その中で、半分の千二、三百ほどが新潟県の出身者だ」
「へえ、そうですか」
「富山、石川が約三割で、七、八百軒」
「ふうん……」
「ほかの府県の出身者は二割程度しかいないそうだ。こいつは東京都の公衆浴場組合へ電話をして直接たしかめたんだから、まず確実な数字さ」
「能登、加賀、越中、越後……北陸ばっかりですね」
「そうなんだが、これが大阪へ行くと、約六割が石川県の出身者になってしまう。もっとも、この出身地別の数字というのは、過去何代かにわたってのもので、近頃持主がかわったりしたのがあるから、今日現在では違う答が出てしまうだろうけど、とにかく昔の風呂屋というのは北陸の出身者たちが独占していたと言っていいだろうな」
「そうですねえ。なぜだろう」
「なぜだか知らない。でも、ひょっとすると嘆き鳥のせいかも知れないぜ」
「どうして」
「嘆き鳥というのは、実は宝の地図なんだ」
小野はふきだした。
「やれやれ、ひっかかっちゃった」
「俺は真面目だよ」
南川は小野を睨んだ。
「いいか、まず、能登の外浦、輪島のあたりにその嘆き鳥の噂の発生地があるとしよう」
南川は蛇の頭のような能登の地図を、机の上に敷いた大きなケント紙の端に鉛筆で描いた。右に鎌首を持ちあげた蛇の、ちょうど目に当たる部分が輪島になる。
「むかしむかし、時国家の先祖がこのあたりへ来て、どこかへ宝物をかくした」
「あ、時国家ですか。あれは、平家の落人《おちうど》ですよ。すると、それは平家の宝物なんですか」
小野は真面目な顔になって言った。
「そうさ。これは隠れた平家伝説さ。いろいろな本を当たって見たが、各地の平家伝説を書いたものの中にも、この話だけはのっていない。平家伝説は、ずいぶんいろんなところにある。落人村として有名なところでは、西から言うと、熊本の五箇庄《ごかのしよう》、宮崎の椎葉村と米良荘《めらのしよう》、四国では徳島の祖谷谷《いやだに》、飛騨《ひだ》へ来て白川郷、長野と新潟の県境で秋山《あきやま》郷、福島では只見《ただみ》川の谷、それに石川県では白山の麓とこの時国家だ。そのほか薩南諸島に安徳天皇の子孫だという長浜天皇があり、対馬藩主の宗《そう》氏も安徳天皇と関係があると言われているらしい」
「安徳天皇って……」
「第八十一代の天皇で、お父さんはその前の高倉天皇、お母さんはそのお妃で、清盛の娘の徳子だ。建礼門院という」
「あ、昔のポルノ・スターだ」
「変なことばかり知ってやがる」
南川は笑った。
「でも、それなら話が早いな。徳子はまだ幼い安徳天皇をだいて、壇の浦で海へ身を投げたことくらいは判っているだろうからな」
「そこからはじまるんですよ、あれは」
南川は閉口したように、
「とにかく、平家の伝説は数が多いんだ」
と話を進めた。
「その平家伝説をいろいろ調べたが、嘆き鳥だけはどの本にも全然出て来ない」
「どうしてでしょうね」
「俺は当然だと思う。だって、宝のかくし場所にまつわることなんだぜ。その話がもしでたらめだったりすれば、もっと有名になっているはずだ。いくらかでも本物なら、そうペラペラと人に言いはしないさ」
「で、お風呂屋との関係は」
「これから説明するよ」
南川の指先がまたケント紙の上の、能登半島の略図へ移った。
「時国家の先祖が壇の浦で敗けて、ここへ流されて来て、宝をどこかへかくした。かくし場所は地図に書いて残すのがふつうだが、この場合はその地図が人間の肌へ写された」
「いれずみ……」
「いや、違うようだ。伝説では、殿様が家来の一人の肌へその地図を書き、その家来一代だけではなく、代々子孫にまで残るようにしたという」
「できませんよ、そんなこと」
「まるでおとぎばなしだな。そこで発想を少し変えてみると、能登へついて来た家来の一人に、そういう遺伝性の痣がはじめからあったとしたらどうだい」
「そんな、地図そっくりにですか。都合よすぎますね」
「発想を変えるというのはそこさ。その痣の形が、地図ではなくて、ある独特の形をしていて、その形が宝をかくした場所のヒントになるような、つまりキーワードになっていたとしたらどうだい。その家来の家に代々そういう痣が伝わることが判っていて」
「嘆き鳥の形ですね」
「うん。そして、その嘆き鳥が宝のかくし場所のキーワードになるんだ」
「まあ、それならあり得ますね」
「だが、これは俺の推理だ。その話を洩れ聞いた者は、地図だと思い込んでいたらしいね。ところが、時国の先祖で能登へ流されて来た殿様が死ぬと」
「その殿様の名前は時忠《ときただ》っていうんでしょう。平時忠《たいらのときただ》……」
「うん」
「そのくらいは知ってるんです。時国家のアレでね」
「時忠が死んだあと、その家来はトラブルがあってどこかへ行ってしまった」
「宝の地図の持ちにげだな」
「そういうわけさ。で、みんなで探しはじめた。何代もたって、とうとう見つからず、時国家はそれでも栄えて、嘆き鳥を追いかけることなどしなくなった」
「平時忠なのに、どうして時国っていうんです。時国って、苗字ですよ」
「敗けた平家だから、世間をはばかって、二代目の平時国のときに、名前を姓にしてしまい、平という姓を棄てたのさ」
「なんだ、そうか」
「その時国家は、奥能登の名家として、今日まで二十四代続いている。時忠がはじめ住んでいた所は別な場所で、時国の代になってから、町野川という川ぞいにある、その当時は大力《だいりき》、晦目《ひずめ》、と言っていた二つの村のあたりをよく整備して、新しい家を建てたのさ」
「それが今の時国家ですね」
「いや、もう少し川上だったらしい。その頃の時国家というのは、家というよりも、やはり平家の一門にふさわしい、城か館といった豪壮なものだったらしいね。建坪だけで二百四十坪もあったそうだから」
「じゃあ落人といったって、そう遠慮してちぢこまってたわけじゃないんですね」
「そうらしいな。それで、今の建物は江戸のおわりごろ、少し川下に昔の家をこわして建て直したものだそうだ。それでも、建ててからもう百五十年たっている。多分古い家の柱などを移したのだろう。移しおえるまでに、二十八年もかかったそうだよ」
「今だって、でかいですよ」
「百八十九坪……。茅葺きで、棟の高さなんか、九間半もあるそうだ」
「県の重要文化財になっていますよ。でも、お風呂屋はまだですか」
小野がからかうように言ったとき、そば屋の出前持ちがドアをあけた。
平《たいらの》 時忠《ときただ》
そばを食べおわって、ミー子がいれてくれたお茶を飲みながら、南川は和室にある応接セットのソファでまた喋りはじめた。ミー子は自分のデスクへ戻ってスクラップの整理を続け、アルバイトの娘は出版社へ使いに出て行った。
「その嘆き鳥伝説は、どうやら当の時国家ではとうに消えてしまっているらしい」
「じゃ、誰が伝えているんですか」
「風呂屋さ」
「え……やっと出て来ましたか。でも、風呂屋っていうのは少し飛躍してますね」
「してないよ」
「どうして」
「その嘆き鳥は人間の肌に残るんだぜ」
「あ、そうか」
小野は頭に手をあてた。
「すると、ずっと探しつづけた連中がいたんですね。時国家があきらめてしまったあとも」
「そうなんだな。一攫千金の夢って奴だ。時国家の周辺に、いつとはなく嘆き鳥のことが洩れて、その宝の地図を手に入れようと探しまわる連中があらわれたということだろう。もちろん、その中には事情をよく知っている、時忠について来た人々の子孫もいたろうよ」