「そうでしょうね。でも、平家が滅亡してからっていうと、随分長いはなしですね」
「宝というのは、えてしてそういうものさ。あとになればなるほど、貧乏人の夢が加わって大きくなり、いっそう人間の欲望を刺激する……。まあ、どちらにしても、問題は時国家から離れてしまったわけだな。そして人々は去ったその家来の行方を探しつづけ、追いまわしたのさ」
「先祖代々同じ形の痣か……。すると、浜さんはその痣の持主だから、その家来の子孫というわけじゃないですか。みんなで散々探しまわったのに、それじゃ求める相手はお膝もとにいたわけですね」
「どうか判らない。だって、浜さんのお袋さんは、能登の人じゃないんだろう。だから、嫁に来て、ご亭主に死なれたかどうかして、あっちこっちを流れ歩いたわけさ」
「そうか。でも、その家来の子孫である浜さんのお袋さんが、ずっとあとになってまた能登へ嫁に来るなんて、世の中は妙な風につながってるんですねえ」
「そうだな。……とにかく、そうして嘆き鳥はえんえんと、しかもひそかに探しつづけられた。宝さがしに凝りかたまって、何代も探しまわった一家もあったことだろう。そしてとうとう、世の中に風呂屋などというものがたくさん出来る時代になった。みんながそこへ来て裸になる。これこそ絶好の探し場所じゃないか」
「ああ、それでまず、関西の風呂屋へどっと能登の人間が流れ込んだわけですね。向うは六割くらいが石川県の出なんでしょう」
「そうだ。そしていまも、浜さんの背中の痣を見て、それは嘆き鳥というんだよと教えてくれるような能登|出《で》の風呂屋のおやじが残っている……と、こういうわけなのさ」
「浜さんは知らなかったんですか」
「彼のアパートの近くの風呂屋で、そこのおやじに言われるまではな」
「そのおやじは、浜さんの嘆き鳥を見てどうしたんです」
「どうもしやしないさ。かすかに東京の古い風呂屋に残る言い伝えで、信じていやしないだろう」
「探しに行こうかな。浜さんを連れて」
「いずれ俺が行くよ」
南川は笑った。
「その宝を探すんですか」
小野はなかば本気であった。
「君は俺が歴史好きなのを知っている。ずいぶん前から、三種の神器などのことをコツコツ調べていただろう」
「ええ」
「六本木で敏子さんに偶然会ってその話を聞いたとき、俺は本当に宝物がころがり込んで来たと思ったよ」
「三種の神器と……」
「関係ありそうなんだ」
「さあ、また判らなくなったぞ」
「三種の神器って、何と何だか知っているかい」
「剣と鏡と玉《たま》」
「剣は草《くさ》 薙《なぎの》 剣《つるぎ》 、別に天《あまの》 叢《むら》 雲《くもの》 剣《つるぎ》とも言う。鏡は八咫鏡《やたのかがみ》、玉は八尺瓊勾玉《やさかにのまがたま》と言い、これは一個のかなり大きな勾玉《まがたま》を指した言葉らしい。いろいろ調べてみると、どうも大昔はネックレスのようなもので、管玉《くだたま》、丸玉《まるたま》、切子玉《きりこだま》、棗玉《なつめだま》などという、いろいろな種類の玉をつなげて、全体を|八尺瓊勾玉之五百津之美須麻流之珠《やさかにのまがたまのいおつのみすまるのたま》と呼んでいたようだ。でも、玉はとにかく、それをつないだ紐は、時代がたつと切れてしまうし、そのネックレスの中で特に大きな勾玉だけが、神器としていつまでも残ったのではないだろうか。どちらにせよ、いまそのうちの鏡は伊勢神宮に、剣《つるぎ》は熱田神宮に、それぞれご神体としてまつられている。そして、天皇のそばには、それを摸造した剣と鏡と、それから玉の三つが置いてあるわけだ」
「あれ、すると壇の浦でなくなっちゃったんじゃないんですか」
「君が言うのは剣のことだろう。壇の浦で、剣は徳子が安徳天皇と一緒に抱いて、海の中へとび込んでしまった。もちろんそれは宮中にあった摸造の剣で、それから二十年くらいは代用の剣を使っていたらしいが、あとでまた熱田の本物をコピーして元に戻したらしい。江戸時代になって、熱田の神官たちが、ひそかにご神体をあけて見たと言う記録が、玉籤集《ぎよくせんしゆう》という書物に残っているそうだ。何重にもなった木や石の箱に入っていたというから、熱田の剣は今も残っているのだろう」
「鏡と玉は……」
「玉は二位尼というのが、やはりそれを持って海へ飛び込んだんだが、木の箱に入っていて、箱ごとうかんだところを拾いあげられたそうだ。で、鏡だが、鏡は平知盛《たいらのとももり》が仕立てた御座船に飾られていて、それを時忠が源氏側へ無瑕《むきず》で差しだして降伏し、命乞いをしたのさ」
「それで嘆き鳥とつながって来るんですか」
「うん。だって、壇の浦のときのことは、筋が通っているようで、どこかおかしいだろう」
「時忠のことですか」
「そうだよ。なるほど神鏡を差し出して命乞いをしたのなら、能登へ流されたくらいで助かったのも当然というような感じもする。しかし、あとで義経や範頼までが頼朝の手にかかって死んでいることを思うと、どうもおかしな気もするだろう。頼朝は単に源氏を再興しようとしただけではないんだ。武家政権をなんとかして確立しようとした男だし、その為に義経なども殺さねばならなかったはずだ。平家にあらざれば人にあらずなどと、不遜なことばを吐き、武家というよりは朝廷貴族の一員だったような奢れる時忠を、その程度のことでどうして許したんだろうか。差しだした鏡をとりあげて首をチョンでも、あとで困ることはなんにもないんだぜ」
「どうしてだろう」
小野は首をかしげた。
「これは記録があってはっきりしているんだそうだが、鎌倉にいた頼朝が、壇の浦というか、西日本における平家殲滅戦で一番心配していたのが、安徳天皇と三種神器の行方だ。それがないと、あとの政権確立がむずかしくなると思っていたんだな。実際には、あそこがひとつの時代の転換点で、そういうことはどうでも、結局鎌倉幕府は成立してしまうんだが、当時の頼朝にとっては、ひょっとすると、天皇と神器さえ奪い返せば、あんなパーフェクト・ゲームじゃなくてもいいと考えていたかも知れない。ところが、義経なんてのは、喧嘩に勝つことばかり考えていて、あとのことにはちっとも頭がまわらない。建礼門院の徳子なんかをたすけて、君の好きな本によると、イチャイチャしたりするけれど、彼女がだいて沈んだ肝心の剣や天皇はとうとうたすけそこなったわけだ。何が八艘とびだ、って言うんで、義経に対する世間の評判なんか、ばかばかしくて仕方なかったかも知れない」
「なるほどなあ」
「まあ、そういったわけだから、仮りに時忠が鏡を差しだしたほかに、何か条件をつけたとすれば、ああいう風な助かりかたをする理由も、もう少しはっきりするんだ。つまり、頼朝の構想実現のたしになることとか……」
「たしか、徳子で思い出したけど、清盛は天皇の叔父さんか何かじゃなかったですか」
「うん。彼の奥さんの妹は、滋子と言って後白河の後宮に入った人だ。その滋子が生んだ子が高倉天皇で、娘の徳子がまたそのお后になって安徳天皇を生む……」
「その辺のツテで、後白河あたりと何か」
「俺はどうも違うように思う。嘆き鳥の話を聞いたとき、いきなりピンと来たのがそれさ。時忠は源氏にゴマをすったんじゃなくて、おどしたんだ。おどして助かったんだ」
「へえ……」
「いいか、頼朝は天皇や神器のことで頭がいっぱいになってる。剣と天皇を失なわせてしまって困りはててると思いなよ」
「はい」
「そこへもし、もうひとつ難題を吹っかけたらどうなる」
「さあ……」
「ここでちょっと気になるのは、時忠が差しだして無事だったという神鏡のことだが、これが少し怪しいと言えば怪しいんだ」
「へえ……違うんですか」
「義経が京都へ持って帰れたのは、勾玉だけだったという説が流布されている」
「じゃあ、ふたあつドボンですか」
「いや、鏡は誰か平家の者が持ち去ったというのさ。たとえば、壇の浦から部将の一人が鏡を持って落ちのび、美作《みまさか》の山奥へかくしたという説がある」
「美作というと岡山県ですね」
「いつだったか、地元の郷土史家で熱心な人が、その部将の系図を研究して本当に鏡を掘りあててしまったんだ」
「出て来たんですか」
「うん。それが問題の神鏡かどうかはいろいろ議論が出てはっきりしないが、とにかくうんと古い時代の鏡であることはたしかだったそうだ。その鏡は今でも赤間神宮にあるはずだよ」
「それが本物だって判ると面白いですね」
「ところでどうだい。平家でもトップクラスの時忠が、本物の神鏡をかくしてしまったとしたら」
「だって、差し出したんでしょう」
「言ったろう。宮中の剣や鏡は摸造品だって」
「あ、本物をですか」
「そうさ。伊勢のご神体だ」
「まさか」
「仮りにそうしたとしたら、能登流しくらいで助かって、お城のような家をおったててのうのうとしていたわけがわかるじゃないか」
「誘拐とかハイジャックとおんなじですね。乗っ取ってかくしちゃって、俺を殺したら永久にわかんなくなるぞ……」
ふざけ半分にそう言ったあと、小野はアッと叫んだ。
「そうか。嘆き鳥かあ」
「時忠の秘宝は伊勢の本物の鏡……」
「財宝じゃないんですか」
「財宝も一緒かも知れない。でも、かくしすぎるほどかくさなければならなかったのは、それが自分たちの命の綱だったからだよ」
南川はニヤリとして言った。
「いつも宮中に置かれていて、まだ子供の安徳天皇といっしょに壇の浦まで持ちだされて行ったのが摸造の鏡や剣で、それさえももしなくなればあとが厄介なことになると、頼朝は気をもんでいたわけですね」
「そうだよ」
「だったら、熱田の剣や伊勢の鏡がひそかに持ち出されていた場合、それどころではなくなってしまいますね」
「あくまでも仮定のことだが、どうも時忠という人物は、そのくらいの細工をやってもおかしくないような気がしている。ただしこれは俺の感じだけだけれど」
「僕は鏡なんかどうでもいい」
小野は欠伸をするように背筋をのばし、両腕をあげて言った。
「金銀財宝がいいな。だったら今すぐにでも探しに行きますよ。何しろ地元なんだから」
「まあ、そういうわけで俺は壇の浦のときの三種神器の行方について、以前から気にしていたのさ。時忠のことなんかも、自分なりに調べている内、だんだん怪しく思えて来たんだ。そこへ、敏子さんが風呂屋につたわる嘆き鳥の話を持ちこんだというわけさ」
「パッと火がついた……」
「そうなんだ」
「宝さがしか。いいなあ」
「そりゃ、平家は大した金持さ。たとえば、平家一門が住んでいた六波羅あたりは、屋敷の数が百七十、一族の郎党眷属のすまいが五千以上と言うんだからな」
「奢る平家か。でも、今の京都の六波羅あたりは大したことありませんね」
「そりゃ八百年もたってる。でも、平家全盛時の勢いというのは、たしかに時忠が平家にあらざれば人にあらずと言ったのも当然だと思えるくらい、大したものだったらしい。何しろ、日本の半分くらいを握ってしまったんだからな。六十余州と言うだろう。その内三十ばかりを自分たちの知行国にしてしまったんだ。たしか、荘園の数が五百以上、かな。当時中国は宋の時代で、その宋との貿易でも大儲けをしたらしいし」
「そんな大財閥のトップじゃ、さんざんいい思いをしてるし、いまさら戦争なんかで死にたくはないですよねえ。まして後白河さんの奥さんの兄さんじゃ、まだまだ未練があるでしょうしね。そこでいろんな手を使って、金銀財宝をざくざく持って能登へ行ったわけでしょう」
「勘違いしちゃ困る。能登へ着いたときは、さすがの時忠も主従あわせて十六人さ」
「へえ。じゃ、あとでとり寄せたんだ……」
「金銀財宝をか。どこまでも金にこだわる奴だな」
「そりゃそうですよ」
小野は当然だと言うように笑った。自分の故郷のあの山かこの谷に、ひょっとしたら時忠の宝が眠っているのではないかという夢に酔ってしまったらしい。
「大谷というところを知っているか」
「聞いた憶えがありますね。そうか、たしか時国家に関係がありましたね」
「曾々木海岸からだいぶ半島の先のほうへ行ったあたりの海辺だ。時忠の一行はその大谷へ舟で着いたんだよ。場所は江《え》の澗《ま》と言うそうだ。要するに、小さな川の川口だろうな。壇の浦の合戦が文治元年の三月で、時忠たちの流刑が行なわれたのは、平家物語によると同じ年の九月二十三日だ。ところが、玉葉という本には五月二十一日となっている。また、吾妻鏡では五月二十日のこととしてある」
「ずいぶんこまかいこと言いますね。どうだっていいじゃありませんか、八百年も昔のことを」
「いや、これは時忠の刑の執行が遅れた証拠なんだ。何かの事情で能登へ流すことがきまってからも、なかなか行かなかったということなんだ。そして結局、九月二十三日に出発したらしい。山槐記という本には、時忠たちが能登へ向ったから、多分今日は東坂本泊りだろうと言うことが書いてある。これがいちばんたしかな記録だろう」
「何をしてたんです、その間は」
「さあ、よく判らない。ただ、例の徳子がそのころ吉田にいて……」
「建礼門院ですね」
「うん。その建礼門院のところへ行ったりしていたらしい。わりと自由にしていたような感じだな。子供の時家にも会ったりして、別れを惜しんでいるよ」
南川はそう言って、時忠の歌を暗誦した。
「帰りこん、事は堅田《かただ》に引く網の、目にもたまらぬわが涙かな……」
「あれ、時家ですか。時国じゃないの」
「時忠の子供は、時実《ときざね》が長男で、これはもう讃岐《さぬきの》中将になっていて、上総《かずさ》へ流されている。時家は次男で十四歳の少年だ。その下にまだ時宗、時定といて、時忠は次男の時家に近江のあたりまで送られたらしい」
「じゃ、時国は……」
「あれは能登へ行ってからの子供だよ」
「あれ、時忠ってのは老人でしょう」
「能登へ行って文治五年に六十歳で死んだそうだから、当時五十五歳ということだな」
「それでまだ子供を作ったんですか」
「時国と時康という二人の子を能登で作っているよ」
「元気なもんだ。その前の子たちとは生き別れになったんですね」
「うん。でも、子供たちについてはよく判らないことだらけだ。さっき言った時宗や時定は、時家の子供だという風になっている本もあるし、ほかに娘が一人いて、これが義経の恋人だったと言われているんだ」
「知らないなあ」
「大谷から、もう少し先へ行ったところに、馬緤《まつなぎ》という所があるんだが……」
「ああ、馬緤追分《まつなぎおいわけ》という唄の本場ですよ。砂取節なんていうのもありましたっけ」
「その馬緤という地名は、奥州へ逃げる義経がそこで馬をつないだからだと言うんだが、何しに奥能登くんだりまで来たかと言うと、時忠の娘の蕨《わらび》姫に会うためなんだな」
「そうそう。地元にはそういう言い伝えがよくあるんです。たとえば、もっと南の能登|金剛《こんごう》のあたりには、弁慶が餅を作るときそこの水を使ったという滝があったり、義経たちがかくれていたという洞窟があったり……」
「吾妻鏡には、文治五年の二月二十四日に時忠が能登で死んだと書いてある。三月五日に頼朝のところへその報告が届いて、いろいろ話題になったとき、時忠の年齢がよく判らなくて、あれは今年幾つだったかと尋ねたら、六十二だろうと答えた者がいたそうだ。ひょっとすると、異説のある時宗と時定、それに蕨姫の三人は連れて行ったのではないかな」
「まあとにかく、それが時国家のはじまりなんでしょう」
小野は大ざっぱに結論を出した。