雷 鳴
高村英太郎を乗せた車が、急に暗くなった道を世田谷へ向かっている。空は低くどす黒くたれこめ、まだ午後の四時半だというのに、ライトをつけた車さえいる。
「もうどこかで降りだしているはずだな」
高村は窓から空を見あげて言った。その暗い空のどこかが、ときどきピカリと光る。
「雷か。一気にどっと降って雷が鳴れば、それでこの梅雨もあける。夏が来るな」
高村はむしろ降り出すのを待っているような言い方をした。道路は渋滞していて、とりわけ世田谷通りへ入るとぎっしりとつまっていた。
「先生」
「なんだ」
高村は珍しく浜田のほうから声をかけて来たので、かすかに微笑を泛べた。
「あの……ちょっと聞いていいですか」
「どういうことだ」
「空飛ぶ円盤というのは、本当にいるんですか」
高村は声をあげて笑った。
「どうしてまた急にそんなことを言いだすんだ」
「このあいだ南川さんがくれた雑誌に、先生が空飛ぶ円盤のことを書いていらっしゃいましたので……。テレビでもよくそういうことをお話しになるんだそうですね」
「ゆうべも放送があったろう」
「あんまりテレビは見ないものですから」
高村はまた笑う。
「なんだ、儂をあちこちのテレビ局へ連れて行っているくせに」
「すみません」
「君はそういうことには余り関心がないらしいな」
「能なしですから」
「南川のくれた雑誌というと、どんな雑誌だ」
「漫画がたくさん載っている奴です」
高村は舌打ちをした。
「どうせ儂の書いたものを研究するのなら、もっとちゃんとした本から入ったらいい」
「研究だなんて……」
浜田は失笑したようである。
「そんな大それたこと、できっこありません。でも、本当にいるんですか」
「円盤か」
「ええ」
「なぜ急にそんなことを尋ねる」
「雷が光りましたから。円盤というのは、こういうお天気でも飛べるんですか」
高村は前へのりだし気味だった姿勢をうしろへ倒し、シートにもたれこんでまた空を見た。
「そういうことか」
失望したようにつぶやいた。
「どうやって飛ぶんです」
「判らんよ。しかし、磁気を利用しているというのは、多分間違いだろう。もしそういうものがあるとすれば、この地球専用に考え出した小型のもので、母船から低空用に放出されていると考えたほうが正しそうだな」
「磁気って、マグネットのような力を使うんですか」
「そう考えていい。しかし、まだ想像上の問題にすぎん」
「でも、あっちこっちへずいぶんたくさん現われているのだそうですね。読んでびっくりしました」
高村は閉口したように顔をしかめた。
「やれやれ、ここにも一人円盤気違いが生まれそうだな」
「違うんですか」
「見たというたいていの報告は、みな嘘か間違いだ」
「でも、先生のようなちゃんとした学者のかたが研究していらっしゃるんだから……」
「円盤は実在する。しかし、本物は世間で言われているものの何パーセントかにすぎん」
「そうなんですか。でも、何パーセントかにしても、やっぱり本当にいるんですね」
浜田はたのしそうに言った。
「まったく君はこのごろ少しおかしいな」
「は……どうしてです」
「以前はもっと落着いていたぞ。なんだか知らんが、このごろ月並みな男になって来た」
「そうでしょうか」
「さっきも、高速道路で花屋のトラックに意地の悪い運転をしていたろう」
「ああ、あれですか。向うが変な運転ばかりしていたからですよ」
「それにしても、以前は決してあんなことはしなかった」
「すみません。気をつけます」
「君の運転は信用しているよ。まあ若いから時には仕方ないが、情緒不安定というのはいかん。特に運転者はな」
「はい」
「君がいつもうしろに乗せて動いているのは、日本の宝なんだぞ」
「は……」
「儂のことだ」
「なんだ」
「こいつ、なんだと言うことはなかろう」
高村は笑いだした。
「万が一、いま世界のどこかへ……特にこの日本へ、地球以外の知性体からコンタクトして来たら、それにきちんと応じられる力のある人間は、今のところ儂ぐらいなものだ。ほかの学者連中は、円盤実在を心の底では否定し切れぬくせに、見て見ぬふりだ。勇気がない者ばかりだよ」
「ほかの先生がたは、円盤なんか嘘だと言うんですか」
「そうだ。しかし、一概にそれが悪いということはない。南川たちはむきになってそういう学者に食ってかかるが、それは科学というものを知らんからだ。たとえば超能力の問題にしても……」
「スプーンを曲げる奴ですね」
「もう少し勉強しなさい」
高村は大学で学生を叱るように言った。
「スプーン曲げと超能力か……俗だな。まったくどうしようもない」
「でも、本当に曲がるんだそうですよ」
「儂はその研究家だ」
高村は自尊心を傷つけられたらしかった。
「たしかに、かすかだがその徴候がある。しかし、あんなサーカスの奇術みたいなものではいけない。もしも本当にその人間にスプーンを曲げられる超能力があるなら、なにもテレビのディレクターのところへ駆け込まんでもよかろう。テレビというのは、そもそもが視聴率を相手にしている。大衆におもねる。百発百中に曲がらねば、なあんだということになる。そうだろう。五分の放送時間のあいだ、何度やっても曲がらなければ、それで失敗ということにされてしまう。六分目に曲がっても、彼ら放送関係者にとっては何の価値もないのだ。だが、本当の超能力というのは、一万回ためして一回か二回成功するだけでも、大変な価値のあるものだ。人類全体の大問題だ。科学だ文明だという以前の、生き物としての大問題だ。それはショーなどではなく、もっと厳粛なものなのだぞ。曲がる曲がらないは、一人の人間の名誉の問題ではなく、人類全体の可能性の問題としてとらえなければならない。一人が手を使わずにスプーンを曲げたということは、全人類が精神の力で物を動かしたり作ったりできるという可能性をさし示すのだ」
「そうなったら凄いですね」
「そうだ。いま君は、ごく平凡な答をだした。しかし、それは決して無知とか単純な好奇心ではない。人類はかつて水中で生活していた時代を持っている。そのとき、最初の一匹が陸へあがって見せた。水の外でも自由にくらせる。水の中でみんながそう思い、もしそれが本当なら、すばらしいことだと考えたに違いない。それと同じことだ。だが、はじめからそんなことはできっこないときめてかかり、水の外にいるのは何かのトリックを使っているのだと考えるのも、必然な知性のひとつだ。そうやって疑い、トリックをバラしている内に、ひとつの確固たる事実がうかびあがって来れば、それもまた、最初から水の外で暮せるのだと主張する者たちと、同じ結論へ到達するわけだ。今の段階では、円盤にせよ超能力にせよ、本気で否定し、ひとつひとつ嘘のデータを踏みにじって行くことのほうが、より科学的な姿勢であるとさえ言えよう。しかし儂は、そうやって行くと、必ず現代科学では否定し切れない何かが残されるということを知っているのだ。その残されたものに、科学者はみな本気でとりくまねばならんと言っているのだよ。だから儂は、円盤が現われたと言えば、それを徹底的に究明する。超能力があると言う者が現われれば、どこまでもその嘘をあばきたてる。しかしそれは、本物を探すためだ。現代科学が否定し切れないものが残ることを信じているためだ。わかるかね」
「はい」
浜田の返事は頼りなかった。
「ごく最近、儂は円盤についてひとつの面白い考えかたに気がついた」
「どんなことです」
「地球以外の知性体が、地球の知性に対してコンタクトしようとすると、彼らはいったい、どこへ連絡したらいいだろう。地球上にはたくさんの人間がいる。円盤を所有するもの……判りやすく宇宙人と言ってもいいが、その宇宙人から見て、どの地域の人間が最も進んでおり、どれが地球全体を代表する者かをきめるのは、なかなかむずかしい問題ではないだろうか」
「そうですかね。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、日本……科学が発達した先進国は、上から見てもすぐ判るんじゃありませんか」
「いや、そうとは言い切れんぞ。果して、我々の考える先進国が、彼らの考えに一致しているかどうかだ。ノストラダムスの予言ではないが、ここは進化の方向を誤り、行きどまりの社会を作ってしまっていると考えるかも知れんじゃないか。人類の次の主役は、まったく別なところにいるかも知れない。また、我々が宇宙人とコンタクトできるまでに、充分成熟しているとも言い切れん。彼らにして見れば、まだまだ子供の社会をときどき観察しているだけかも知れん。そうだろう、我々は、まだこの星の単一の政治機構すら持っていない。各部族ごとに、地方地方でまとまっているだけの、星としてはごく未開な状態とも言えるじゃないか。これは面白い。面白い考えかただろうが」
高村は自分で言って自分で何度も頷き、もう話相手に浜田を必要としないようであった。
ポツリ、と浜田の目の前のフロント・グラスに小さな雨の跡がついた。車は世田谷通りから右折してそれたところであった。
「降って来ます」
浜田が言う。
「そうか」
高村が何気ない様子でそう答えたとき、ピカリと烈しく光が裂け、ほとんど間を置かずに、バリバリッという雷鳴が響いた。
「来おったな」
続いてもうひとつパッと光り、今度の音は二人の頭の真上から、尾を引いてどこか遠くまで続いて行った。
ポツン、と大粒の雨がフロント・グラスに当たり、すぐ車の屋根でバラバラという音がはじまった。
「これはただの雨か……」
高村が窓の外をみつめて言った。屋根の音はそれほど強かった。
「雹《ひよう》か何かまざっているのですかね」
浜田が答えたとき、ワイパーが動きだした。雨はすぐどしゃ降りになり、浜田はあわててライトをつけた。
「これで梅雨もあがる」
降る雨の圧倒的な勢いに対して、高村はまけ惜しみのように言った。稲妻がたてつづけにうす暗い雨の道に光り、雷鳴が頭上から落ちた。
「停電したようですね」
浜田は声を高くして言う。どの商店からも光が洩れていなかった。
「帰って仕事があるというのに……。夜までになおればいいが」
雨のしぶきがあがる道を、浜田は注意深く車を進めた。ビニールの風呂敷のようなものを頭上にかざした若い女が、けもののように車の行手を左から右へ、さっと横切って消える。
「結局のところ、人間はまだ天候さえコントロールしとりゃせん」
一度右折し、住宅街の一方通行の道へ入って次に左折すると、高村家の門が見えて来た。浜田は前かがみの姿勢になって、ライトを高い位置に向けた対向車を見た。
「なんだってあんな……」
珍しく浜田がその車に対して文句を言いかけた。この暗さとこの雨の中では、近づいて行く車の視界を奪うに等しかった。
浜田がその非常識な車に腹をたてかけたとき、その光が突然左側へそれた。浜田はブレーキを踏み、徐行していた車をとめて相手の動きを見た。
あまり見なれぬ車であった。ツー・ドアで全体としてはフェアレディZに似ているが、国産車ではなさそうだった。
その車が高村家の門の中へ鼻先きを突っ込んでとまっている。道を塞ぐ恰好だ。浜田は右の掌でクラクションを短く三度鳴らした。すると相手はいきなり門の中へ入って行ってしまった。
「お客さんのようです」
浜田は車をとめてうしろの座席にいる高村をふり返って見た。高村の表情は不機嫌になっている。
「あれは南川の車か」
「いいえ、南川さんのはムスタングです」
「かまわん。入れなさい」
浜田はすぐ車を道の右側へまわし、いつものように大きく左へハンドルを切って門の中へ持って行った。入りかけたとき、赤いテールランプが見えていたが、入ったとたんその半分が消えた。浜田は相手が後退する気なのを知って、あわてて長くクラクションを鳴らした。
玄関の前の車がまたブレーキのライトをつけ、しばらくして甲高いホーンを鳴らし返して来た。短く三度、長く一度。
「なんだ、あいつは」
高村が腹立たしげに言う。浜田はゆっくりと門の外へ車を戻す。するとツー・ドアの外車はあらあらしい勢いでさがって来て、どしゃ降りの雨の中を、門の前で派手にハンドルを切り、泥水をはねあげながら走り去った。
高村はむっつりと黙り込んでいる。浜田はいつものように優しく車を玄関の前へ着けた。
「いい……」
ふだんは浜田がおりてドアをあけるまでじっと待っている高村が、この雨ではさすがにそれをさせず、自分でドアをあけて玄関の中へとびこんだ。それでも一応浜田は車をおり、雨に叩かれながら自分も玄関の庇の下へ行った。
「なんだ、お前だったのか」
高村はまだ家の中へあがらず、濡れた髪や服をハンカチで拭いている敏子を睨みつけていた。
「送ってもらったのよ。この雨ですもの」
「誰なんだ、あの失敬な奴は」
「久松さんと言って、あたしのお友達」
敏子はやり返すように言う。
「男か」
「そうよ」
「馬鹿者っ」
高村は靴を脱いで家の中へあがり、
「どんな立場だと思っている。少しは考えろっ」
と振り返って言い、奥へ消えた。
「乱暴だよ、あの運転は。あんなことをすれば誰だっておこる」
「勝手におこらせときなさいよ」
敏子がふてくされたように言い、浜田は淋しそうな顔になった。
「俺だってムカッと来た」
力のない言い方であった。敏子は靴をぬぎかけてやめ、その顔をみつめた。
「あら」
笑いだした。
「そうだったわね。ごめんなさい」
敏子は屈託のない笑いかたで、靴をぬぎはじめた。
「あなたもおこるってこと、ころっと忘れてたわ。あたしって変ねえ」
「見かけない車だけど、あれはなんという車なんだい」
「ジネッタよ。イギリスの車ですって」
敏子も家の中へ消えた。浜田は庇の下でしばらく誰もいない玄関の中を眺めていたが、やがてそっと戸をしめた。
「ジネッタか……」
稲妻が光り、雷鳴がとどろく。浜田は車へ戻り、いつものように静かに車庫の中へいれた。
「ジネッタか……」
エンジンを切り、ハンドルに胸をもたれかけて外の雨を見る。もう今日は仕事はないはずであった。この雨があがったら帰ろうと思った。しばらくそのまま雨をみつめていた浜田は、やがて煙草をとりだして火をつけた。どこか虚しい顔をしていた。
「世の中なんて、おかしなもんだ……」
かすかに唇を動かしていた。
「運転手の俺が知らない車を、運転できない彼女が知っている」
自嘲のように頬が動いた。彼はそのとき、ジネッタという車を一度運転してみたいと思っていた。そして、その欲求は急速にふくれあがり、ひとつの夢になった。ジネッタを自分の車にしたかった。しかし、それは浜田にとって、遠い遠い夢であった。
夏 雲
次の日曜日は快晴だった。高村が言ったとおり綺麗さっぱりと梅雨があがったようであった。しかし、なんと言っても長梅雨のあとで、おまけに風がないからひどく蒸し暑い。
「暑いな」
浜田はハンカチを出して首筋をぬぐった。地下道から階段をあがって、表通りへ出るところだった。
「デパートへ入れば涼しいわ」
敏子は浜田の手を引っぱって足早に階段を登って行く。まだ歩行者天国の時間ではなく、人通りは思っていたより多くなかった。
二人はデパートへ入った。
「本当はデパートじゃないほうがいいんだけど、暑いから外を歩きまわるのはいやだし」
敏子が残念そうに言う。
「なあ」
「なに……」
「あの、水着を買うんだろう」
「タオルやビーチウェアーなんかをひとそろいよ。向うのうちへ置いて来ちゃったのよ。まさか要るとは思わなかったし、さすがのあたしもそこまで頭がまわらなかったって言うわけ」
敏子は軽く笑い、浜田と並んでエスカレーターに乗った。
「水着って、体に合わせるんだろ」
「ええそうよ。あたしは本当に泳ぐんだから、少しきつめのを探すの。水着は水の中へ入るとゆるむのよ」
「そうかねえ」
浜田は眩しそうな顔をする。
「男物だってそうでしょ。伸びちゃうでしょう」
「どうだったか、忘れた」
「あらやだ、まさか泳げないんじゃないでしょうね」
「泳げるさ」
浜田は少しむきになって言う。敏子はその少年のような表情を見て、彼の腕を強くかかえた。
「でも、本当に俺も行っていいのかい」
「あんたが行かなくちゃ意味ないじゃない」
「悪いんじゃないかと思ってさ。南川さんのところの社員旅行だろ」
敏子は馬鹿にしたように笑う。
「会社じゃないわよ、あんなの。稼ぐのは南川さんだけで、あとは女の子が二人と小野ちゃん。みんなお手つだいよ」
「筆一本でそれだけ養えるんだなあ」
「そりゃ、かなりかせいでるみたいだけど」
「海水浴と言ったって一泊するんだし」
「何を遠慮してるの。おやじだって夏休みをくれたし、問題ないじゃないの」
「なんとなく気が重いのさ。ホテルへ泊まるんだって言うし、悪いよ」
「そのかわり、あなたにもう一台のほうを運転してもらうんですもの」
「ガソリン代くらい俺も出さなければ……」
「いいのよ、そんな心配しなくったって」
敏子はじれったそうに言い、三階の売場へ出た。
「あたしの水着、一緒に見てくれるでしょう」
「みっともないよ、男が」
「かまわないじゃないの」
「ちょっと聞きたいんだけどな」
「何よ」
「水着を体に合わせるって、あのカーテンの中へ入って、着てみちゃうのかい」
敏子がジロリと浜田を見ると、浜田はたじろいだように目をそらせた。敏子は笑い出し、
「いいわ、自分のを探してらっしゃい」
と、突き放すように肩を押した。
敏子の買物は案外早くて、浜田がぶらぶらと婦人服売場を歩きまわって帰って来ると、紙袋をぶらさげて店員から釣銭を受取っているところであった。
「どんなのを買った」
浜田は敏子に近づき、心配そうに尋ねた。
「黒よ」
敏子は何気なく答える。
「地味なのを選んだね」
浜田は安心したようにほほえんだ。
「へへ……」
敏子は悪戯っぽく笑う。
「さあ、こんどはあなたの海水パンツよ」
「海水浴か。久しぶりだなあ」
浜田はたのしそうに言った。
「ホテルをとるのが大変だったらしいのよ」
二人はまたエスカレーターに乗る。
「俺が運転するのって、どんな車だい」
「カルマン・ギアだって」
「へえ、いい車だな。レンタカーかい」
「お友達のらしいわ」
「俺、一度ジネッタを運転してみたいんだ」
敏子は上を向いていた。
「あんな車があるなんて知らなかったよ」
「タオルはあなたの分もあたしが持ってってあげる」
敏子はせっかちにエスカレーターの上を歩きはじめた。
「伊豆のどこへ行くんだい」
「下田よ」
ふうん、と浜田は感心したように言った。
「お昼はあたしが奢るわ」
「いいよ」
「いやっ。あたしの好きなものを食べるの」
敏子は甘えるというより、ひどく我儘な言いかたをした。そのあと敏子は一方的にデパートの中を歩きまわり、浜田は次々に増えて行く買物包みをかかえてそのあとについてまわった。そして、買物をおえると敏子はさっさとデパートを出て、裏通りにある和風の店の凝った格子戸をあけた。
「いらっしゃいませ」
中年の痩せた和服の女が、静かに二人を迎え、敏子の顔を見るとにっこりした。
「おやまあ、お珍しい」
「こんにちは。奥、あいてる」
「どうぞどうぞ。ごらんのとおり日曜日はひまですから」
「休んでるかと思ったわ」
「来週から、日曜日だけお休みになるんです」
「そうね。もう夏休みでみんなどこかへ行っちゃうから」
その店は柱もテーブルも素木ずくめの天婦羅屋であった。二人は靴を脱いで突き当たりの廊下へあがり、四畳半の部屋へ通された。冷房がききすぎるほどきいていた。
「ビール飲むでしょう」
「昼間っからかい」
「いいじゃないの」
敏子が言い、女もすすめた。
「お暑いのですし、一本くらいはねえ」
「じゃ、おビールを二本と、それから天婦羅でごはん」
「はい、かしこまりました」
女は廊下へ去った。客が来たらしく、店でまた声がしている。
「いろんなところを知っているんだな」
浜田はじろじろと眺めまわして言う。
「大して高くないのよ。今の人がここのおかあさんで、息子さんが板前さん」
「いいなあ、二人でやってるのか」
「ほかにも何人か使ってるけど、母子《おやこ》ですものね。それにここも自分たちの持物らしいし」
「凄いもんだ。それじゃ、大変な財産家だ」
敏子はうらむような瞳になった。
「あなたって、このごろすぐそういう言い方をするのね」
「だってそうじゃないか。俺なんか一生働いたってこんな銀座なんかに店は持てないよ。それどころか、自分の家だってさ……」
「変ねえ。どうしてあなたって焦るの」
「俺が焦ってるかい」
「前はそんなじゃなかったわ」
「そうかなあ。俺だって、世の中の競争に嫌でも応でも加わっているんだぜ。うまくやっている人を見ればうらやましいさ」
敏子は悲しげに首を振った。
「あなたはそんな風に思っちゃだめ。お願いだから、もっと涼しい顔しててよ」
「涼しい顔……」
「そう。ゆったりと、のんびりと……」
浜田は居ずまいを正し、何か言いかけた。その時襖があいてさっきの女が、ビールとおしぼりを運んで来た。
「どうぞ」
そう言ってまっ白いおしぼりを浜田の前に置く。
「はい……」
浜田は頭を軽くさげ、おしぼりをひろげた。グラスが置かれ、女はビールの栓を抜いた。
「どうぞ」
「いいわ、あたしがするから」
敏子は女からビール瓶をうけとった。
「じゃ、お願いします」
女は外へ出て襖をしめた。
「はい、どうぞ……」
敏子はビール瓶を浜田のほうへ差しのべた。浜田がグラスを出して受ける。交代に今度は浜田が注いでやる。二人はなんとなく視線を合わせ、黙ってグラスに唇をつけた。
「なあに……」
しばらくして敏子が言った。
「なんだい」
「何か言おうとしたじゃないの」
「ああ、もういいんだ」
「よくないわ。言ってよ」
「君が無理なことを言うからさ。ゆったりしろだののんびりしろだのって」
「別にあなたに無理をさせようと思ってやしないわ。その反対よ」
「反対が無理なんだよ。じっと今までどおりにしてろって言うほうが無理さ。だってそうだろう。俺は君を……」
浜田は言い澱んだ。
「あたしを……」
敏子は優しく寛大な微笑を泛べていた。
「本気で愛してる。嘘じゃない」
「嘘だなんて言いはしないわ」
「判ってるだろ」
「ええ。あたしのほうも判って欲しいのよ。あたしも本気よ」
二人はじっとみつめ合った。
「だったらなおさら、俺は今までどおりじゃいられないんだ。君をしあわせにしなければならない」
「たとえばそれは、あなたが自分の家を持ったり、自分の車を持ったりすることかしら」
「車……」
「ジネッタみたいな、よ」
浜田は答えずビールを飲んだ。
「雷の日に見たジネッタでしょう。久松さんのことが気になってるのね」
「そんな奴、会ったこともない」
「やっぱり気にしてるの。おばかさんねえ。降られたから送ってもらっただけよ」
「あんな運転をする奴は嫌いだ。他人のことなんかどうでもいい奴だ」
「そうかも知れないわね」
「あんな運転をする奴は君をしあわせにはしない」
浜田は断言した。
「多分そうでしょうね。でも、あたしとは関係ないわ」
「関係あってたまるか」
敏子はふきだした。
「やだわ、やきもちをやいてるの」
すると浜田はもどかしそうに言った。
「俺は人の邪魔をしたくない。人の邪魔になりたくない。だから車に乗っていても、決して急がないようにしている。もちろん、人の邪魔になるほど遅くも走らない。みんなと一緒に流れてればいいと思っていた。駐車するときも、決して人の迷惑にならないところへとめるように心がけて来た。でも、このごろ焦るんだ。焦るのが俺の柄じゃないことはよく知っている。あのジネッタの奴みたいに、とめたいときとまり、人をどかしたいときどかすような真似をすれば、俺ならきっと人と喧嘩になってしまう。文句を言われて引きさがってしまうだろうよ。それなんだよ、俺が困っているのは。そんなことで、君をしあわせにできっこないじゃないか。このまんまじゃ、木造アパートを、あっちへ二年、こっちへ四年と、一生うつり住みつづけておしまいだ。君は庭のあるうちからとびだして来た。そして俺と……。俺はそういう運命に感謝してる。有難いと思ってるんだ。だからなおさら、君のとびだし甲斐のあった……」
「やめて」
敏子は両手で耳をふさいだ。浜田はびっくりしてそれをみつめていた。
「ごめんね」
敏子は羞じたように笑った。両手を耳から離し、頬をおさえた。
「気持は判るわ。とってもうれしい。でもあたし、あなたをそんな風に変えてしまうのが辛いのよ」
「変えるって、君が俺をかい」
「ええ」
「そんなことはない。ただ俺は、自分で自分をもどかしがってるだけだ。今までのほほんと、たくさんの男が、いや、全部の男がやっている競争に加わらなかったことが、くやまれてならない。そりゃ、俺はお袋と二人であちこち転々として、時には食うや食わずでいたこともあるくらいだから、学校もろくに行っていない。でも、競争に加わる気があれば、自分で勉強できたんだ。俺はそれをしなかった。授からないものは欲しがらない。それが俺の生き方だった。君は俺にとって最初の女だけど、それは何も君のような女が現われるのを待っていたからじゃない。いい顔をしてくれる女がいなかったから、自分からは手をださなかっただけなんだ。授からないものを欲しがっちゃいけないと思ってな」
敏子は気を呑まれたように黙っていた。
「でも、君が現われて、俺は自分の考え方や生き方が間違っていたと判った」
「ほらごらんなさい。やっぱりあたしのせいじゃないの」
「違う」
浜田は叱りつけるように言った。
「俺はやる気をだしたんだ。自分一人なら一生運転手でもかまわないが、君がいたのでは話がまるで違って来るのさ。俺は頑張らなくてはいけない。君を長屋のおかみさんにしてしまうわけにはいかない。愛すれば愛するほどそう思う。これはどうにもとめようがないことだ。男とはそういうものさ。女を愛したら、愛する女ができたら、みんなこうなるのさ」
浜田は確信のある言い方をした。
「でも……」
敏子は打ちのめされたような表情になっていた。
「あたしはあなたの中に平和を見てたのよ」
「うん。俺も君をそうさせてやりたいと思う。君をしあわせに、平和に……」
浜田は瞳をうるませていた。
「そうじゃないのよ」
「違うのか」
「あなたと同じように生きたいと思ったのよ。いままでのあなたと同じようにね」
襖があいた。
「おまちどおさまでした」
天婦羅や茶碗などを盆にのせて、女がテーブルのそばへ膝をついた。
「いいわ、この話はもうよしましょう。それより、ここの息子さんは腕がいいのよ。おいしいんだから」
敏子がそう言うと、女はうれしそうに笑い、
「お茶はあとでお持ちします」
と戻って行く。
「どう、おいしいでしょう」
敏子はさっそく食べだした浜田を見た。
「うん」
浜田はニコリとした。
「あたしも少し習おうかしら。あなたにおいしいものを食べさせられるように」
「見ろ、自分だって俺と同じじゃないか。相手によくしてやりたいという欲が出るんだよ。愛するとな……」
「しょってるわ」
敏子も快活に言い返した。
「見てらっしゃい。そんなこと言うと、毎日魚の干物かコロッケよ。知らないから」
「それでもいいよ」
浜田はそう答えてから、ふと箸を休め、
「そうか。いずれあそこも引っ越さなきゃいけないんだなあ」
と夢見るような目になった。
「いいじゃないの、あそこだって」
「電車が来るたびうるさいしな」
「そのほうが好都合」
「どうして」
「思いきりできるわ。電車のせいにして」
「馬鹿だなあ」
浜田は閉口したように天婦羅をつまんだ。
「なんだこれは。紫蘇の葉っぱだけじゃないか」
「そうよ。あら、はじめてなの」
「うん。洒落たつもりかねえ」
「おいしいでしょ」
「かわってるだけだ。腹のたしにならない」
敏子は首をすくめる。
「これからどうしようか」
浜田は敏子がそういう男っぽい言い方をすると、ひどくよろこぶようであった。
「うちへ帰ろう」
「暑いわ、あそこは」
「二人っきりでいたいんだよ」
「ほら、人のことばかり言って、あなただって好きじゃない」
「そういう意味じゃない」
「あら、どういう意味……」
「もっと、その……」
プラトニックな、と言いたかったのを、敏子はよく承知しているようであったが、
「なによ、言ってごらんなさい」
と、からかった。
「天婦羅を食いな」
浜田は話をそらせる。
「海水浴のことだけど」
「うん」
「裸になったら嘆き鳥が出ちゃうわよ」
「嫌かい」
「ぜんぜん。でも、みんなに見られるわね」
「平気さ。なれてるもの」
「ああよかった」
「どうして」
「実は、彼らがあれを見たいんですってさ」
「俺の背中の痣なんか見てどうするんだい」
「平家の宝物だからよ」
「何だ、喋っちゃったのか」
「ええ、何気なくね。そしたら、是非見たいんですって」
「それで俺を呼んだのか」
「半分はそうよ」
「なあんだ。話がおかしいと思った」
「おこった……」
「いや。痣を見たくて俺を海水浴へ連れて行くのなら、別に遠慮することもなかった」
「そうよ。だから遠慮なんかする必要はないって言ったじゃないの」
二人は微笑し合った。
鳳 凰
次の木曜日の昼ごろ、南川の運転するムスタングと、浜田の運転するカルマン・ギアが二台並んで伊豆の海岸を走っていた。
「今のが今井浜ね」
ムスタングには南川のオフィスの四人が乗り、カルマン・ギアには浜田と敏子の二人だけであった。
「まったくいい天気だな。この間までの雨はどこへ行ったかって感じだ」
「よかったわ、雨でも降ったら台なしだったわね」
「うん」
「白浜というと、この先だな」
「もうすぐのはずよ。ウィークデーだから、そんなに道も混んでいないし。きっと海岸もすいているわね」
まったく快適なドライブであった。伊豆へ入ってから、二台はよく整備された道を気持よくとばしてここまで来た。白浜で車をとめて、夕方までのんびりと遊ぶ予定である。
やがて、左手に白い砂浜がひらけたところへ来ると、前を行くムスタングが減速し、有料の駐車場へゆっくりと乗り入れて行った。カルマン・ギアもあとに続く。
「おじさん、着換えをするとこはどこ……」
車がとまるかとまらない内に、敏子はタオルなどをつめこんだビニールの袋を持って、さっとドアをあけ、駐車場にいるむぎわら帽子の男に尋ねた。
「ほら」
男はそう言って面倒臭そうに指をさす。
「有難う」
浜田がエンジンを切り、敏子は水着に着換えにそこへ行くものとばかり思って、ドアのロックをしようとすると、
「だめよ、まだ……」
と言ってドアをあけ放しにさせ、あっという間にブラウスとスカートを脱いで抛り込んだ。もうとっくにゴムのビーチ・サンダルにはきかえていた。