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 第三章.2

作者: 当前章节:15365 字 更新时间:2026-6-23 00:08

 浜田は目を丸くしてその姿を眺めていた。黒いビキニであった。

「それ、この間買った奴か」

「そうよ」

 敏子はニヤリとして見せた。

「黒いから地味でしょう」

 とんでもない話だった。その上下にわかれたちっぽけな布きれは、黒いからよけいにエロチックであった。

「おい、行くぞ」

 ムスタングの四人も、もう水着姿であった。

「先行ってるわよ」

 敏子はその四人とひとかたまりになって海岸のほうへ歩きだした。浜田には、家を出るときから水着をつけて来るという考えが泛ばなかったようだ。ぼんやりとみんなのうしろ姿を見送っている。

 やがて浜田は車の中へ入って、もぞもぞと体をくねらせて海水パンツにはきかえ、はだしになって外へ出た。駐車場は粗い砂利で足のうらが痛く、砂の上へ出ると熱かった。

 それでも、波うちぎわへ近づいて行くと、幼い日に感じた、あの突き抜けたような解放感が戻って来た。彼には子供のころ、広い無人の浜辺でひと夏中母親の帰りを待ちくらした記憶があって、その酸っぱいような哀しみが、解放感の上にうっすらと重なってよみがえっていたようだ。

 どうやら浜田は砂浜を斜めに横切ってしまったらしい。南川や敏子の姿が見当たらず、彼は歩きやすい渚の濡れた砂の上を、駐車場の正面のほうへ歩いて行った。

 南川たちは砂浜のずっと北側に陣どっていた。敏子が海に向いて横坐りになっていて、そのまわりを四人の男女が思い思いの姿勢でかこんでいる。

 浜田が近づいて行くと、南川の車で来た若い二人の女が驚いたように言った。

「わあ、かっこいい」

「だめ……」

 敏子は、はしゃいでいた。

「さわらせてあげないわよ」

 すると女たちは黄色い叫び声をあげて敏子に砂をぶつけた。小野だけが、つまらなそうな顔でそれを見ている。

 浜田はそのかたまりから少し離れたところへ腰をおろした。

「ほんとにいいからだをしてるね」

 南川が声をかけた。

「大したことないです」

 浜田は一座のはしゃいだ雰囲気に馴染めない感じで、口ごもりながら答えた。すぐ海のほうへ顔を向ける。

「それが嘆き鳥かい」

 南川は背中を向けた浜田に言った。すると小野が素っ頓狂な声をたて、

「あっ、いけねえ、カメラを忘れちゃった」

 と砂を蹴って立ちあがった。

「何やってるんだ」

 南川がとがめるように言うのを聞き流して、小野は駐車場のほうへ駆け戻って行く。

 背中の痣のことだな、と感じた浜田は、急に立つと、

「誰かここにいる人は」

 と四人に尋ねた。

「なあに」

 敏子が甘えたように問い返す。

「車のキーをあずけたいんだ。俺、泳いで来る」

 敏子が坐ったまま黙って手をさしのべ、浜田はその手へキーを抛った。

 久しぶりの海の水だった。浜田は膝くらいのところまで歩いて行き、一度とまって胸と後頭部に水をかけた。昔から、海へ入るときはそうするのが浜田のきまりであった。波はかなり大きく、すぐ彼の胸のあたりへ当たりはじめた。やがて足が底の砂を離れ、体が浮いた。

 浜田の胸に自信が漲って来た。海の中で、彼は自分の力で悠々と動きまわっていた。実際に、浜田はいくらでも泳いでいられるのであった。自分がどのくらい遠くまで泳いで行けるのか、彼自身にもよく判っていないほどであった。

 なぜ俺はおどおどと生きているのか……。泳ぎながら、ふと自分がふしぎになった。いつでも他人に気おされていて、自分のことははじめからあきらめてしまっている。だが、こうして泳ぐように、自分の力でどこまでも生きて行くだけではないか。南川ヒロシや高村英太郎とどう違うのだ……。浜田はしだいに自信が大きくなるにつれ、腹立たしいものを感じて泳ぎの速度を加えた。安定した平泳ぎで、ひとかき、ひと蹴り、力をこめて行った。すぐ右前方にボートが見えるだけで、視界は空と水と雲だけになった。……敏子と一緒にどこまでも行ってやる。まっすぐにだ。貧乏しようと一生運転手のままだろうと、敏子は俺の女なのだ。文句はあるまい。俺は男だ。俺は男だ……。

 静かだった。平和だった。ゆるくうねる海と、確実に水をわけて進む自分だけになっていた。……そうだ、俺は一人で立派に生きているのだ。世間がなんだ。世界がなんだ。こんなものは、俺が死んでしまえばなくなってしまうのではないか。俺は俺の中心だ。世界の中心は俺なんだ。俺が生きているから世界はあるんだ。

 浜田は大声で叫びたくなっていた。もうどんな大声をだしても、誰にも聞えないくらい沖へ出ていた。浜田は体の動きをとめ、くるりと体を空に向けて胸をふくらませた。青い空が動いていた。浜田はうねりのままに漂い、そして急に足を底に向けると、烈しくたち泳ぎをして上体をせりあがらせ、両手を口にあてがって叫んだ。

「かあさあん……」

 長く力いっぱいに叫び、叫びおえたとき体が沈んで水の中へもぐった。青黒い水が見えていた。久しぶりに思い切り大声を出して、じいんと痺れるような充実感があった。体が浮き、顔が水面に出た。砂浜が見え、人間たちが小さく動いていた。安全水域の境界を示す赤い浮標が、ずっと向うに浮き沈みしていた。浜田は水を蹴り、顔を水に埋めた。クロールで二呼吸ほどすると、うまくうねりに乗った。浜田はその波に乗りながら、ゆったりと楽に岸へ向かった。赤い浮標をすぎ、ボートが増え、泳ぐ人々の中へ戻った。

 砂に足をつけたとき、真正面に敏子たちがいた。左手で顔のしずくを撫で、頭を振って髪の水をとばした。

「駄目よ、あんな遠くへ行っちゃ……」

 敏子が真顔で叱った。

「泳ぎ、うまいんだね」

 南川が感心していた。

「俺にできるのは体を使うことだけだ」

 つぶやくように言ったが、それはいつものように卑下しているのではなかった。自信があったのだ。

「ねえ、その嘆き鳥を写真に撮りたいんですって」

 敏子は多分浜田が泳いでいる内に、南川たちからそう言うように頼まれたのであろう。全員を代表するような感じで言った。

「いいよ。はいどうぞ」

 浜田は敏子との関係を隠す気もなくなって、ぞんざいな言い方でくるりと背を見せて砂の上に坐った。うしろで小野がカメラのピントを合わせている。

「向うを向いてくれないか」

 南川は海岸の北の端にある岩場を指さして言った。その間にも浜田のうしろで小野がシャッターを切る音が続いていた。

「ほんとに鳥が飛んでるみたいね」

 南川のオフィスのミー子が言った。鮮やかなブルーの、バックレスの水着を着ていた。

「なんの鳥かしらねえ」

 ミー子がもう一人の女に言うと、南川は得意そうな表情で、

「鳳凰だよ」

 と言った。

「鳳凰って、伝説の鳥でしょう。本当はいないのよ」

「でもそこにいる」

 南川はふざけて言った。

「おめでたい鳥なんでしょう」

「うん。瑞鳥と言ってね、中国では随分古くから言われていた伝説上の鳥なんだ。麒麟《きりん》、亀、竜、そして鳳凰の四つが四霊と言って生き物の中で最高にたっとばれたそうだ」

 南川はにこやかにそこまで言い、カメラを手に話に加わろうと砂の上へ坐りかけた小野を見ると、急に厳しい声になった。

「車へ戻してこい。カメラがいたむぞ」

 小野はハイと言って舌をだし、あわててまた駐車場へ走って行った。浜田は体の向きをかえて海に背を向けると、砂の上に腹這いになって南川を見あげた。

「敏子さんには言ってあるんだが、浜さんの背中にある嘆き鳥の痣は、どうもただの言い伝えではないような気がするんだ」

 浜田は黙って南川をみつめる。

「平家の宝物というのはさて置いても、嘆き鳥の形がよく絵に描かれる鳳凰に似ているという点がまずひっかかるのさ」

「へえ、それが平家の宝物に関係あるの」

 アルバイトの娘が目を丸くした。

「嘘よ。南川さんたち、いつもそんな夢みたいなことばかり言ってうれしがってるの。歴史マニアね。今にきっと古事記だとかなんだとかってはじまるわよ」

 ミー子はてんで相手にしていない様子だ。南川は苦笑して続ける。

「中国のものだから、当然日本にも早くに伝わって来ている。たとえば、日本書紀の中で……」

「ほらはじまった」

 ミー子は立ちあがり、もう一人の娘の手をとって、

「つまんないわよ。泳いで来ましょう。せっかく来たんだから、海へ入らないと損しちゃう」

 と言った。二人の女は逃げ出すように海へ駆け込んで行く。

「七世紀の中ごろ、白い雉が発見されて天皇に献上され、白雉《はくち》という年号がつけられた事実があるんだが、そのときの 詔《みことのり》 にこんなのがある。……鳳凰や麒麟、白い雉《きじ》、白い烏《からす》など、珍しい生き物や草や木などは、天地がよいことのあるしるしとしてこの世に送ったものである」

 南川は敏子を見た。

「これを君はどう思う」

「どうって……」

「現代風の解釈だよ」

「判んないわ、そんなこと」

「つまり、鳳凰というのはたしかに架空の鳥だが、その鳳凰というイメージの中には、白い雉とか白い烏なども含まれるらしいということさ」

「考えようによってはそうなるでしょうね」

「十世紀ごろの本には、鳳凰というのは、鳳が雄で凰が雌だなんて書いてある。雄を鳳と言い雌を凰と言う、これ羽虫の長なり、だとさ。ところが、延喜式の第二十一巻には、もっとずっとくわしく書いてあって、形は鶴のようで、頭は蛇に似てとさかがあり、全体が五色にいろどられていると記されている」

「似た鳥はいるの」

「いないさ。極楽鳥なんて言うのがずっとあとで西洋人に見つかっているが、あれは全然別物だろうな。それより問題は、ここにひとつの偶然のような重なり合いがあるということなんだ」

「なんですか、偶然って」

 浜田は面白そうに尋ねた。もともと自分の体にある痣のことだから興味はあったが、今のひと泳ぎで南川に対する遠慮のようなものがとれているのも事実であった。いつもなら、いくら好奇心が湧いても、南川と自分の教養の差のようなことを意識して、黙って傍観者でいるはずだった。

「偶然のような……僕は今そう言った。一見偶然のようだが、偶然とは言い切れないんで困ってるのさ」

 南川はわざと困ったような顔をして見せたが、それは聞き手たちに対する説得技術のようなものらしかった。

「浜さんは能登の生まれだ」

「ごく子供のころちょっといただけです」

「でも本籍地というか、生まれたのは奥能登なんだろう」

「ええ。鳳至《ふげし》郡ですけど」

 南川はパチンと指を鳴らして見せた。

「それさ。平時忠の子孫である時国家はどこにある」

「輪島市ですよ」

「違うね。輪島市は明治二十二年に町になり、町村合併で昭和二十九年に市になったんだ。今の面積になったのは三十一年に近くの町野町を編入してからさ」

 そのとき小野が駆け戻って来て、ペタンと砂の上へ坐った。

「昔は鳳至郡輪島町……」

 近寄って来たとき南川と浜田のやりとりが耳に入ったらしい。

「あれ、女の子たちは」

 敏子が黙って海を指さす。

「そう、問題は鳳至郡さ」

 南川は砂を手で平らにならし、指で字を書いた。

「ふ、げし」

「あら、そうだったの。それじゃ、鳳凰が至ると書くんじゃない」

「平家伝説にまつわる浜さんの嘆き鳥が、鳳凰の至る土地から現われている」

 南川は得意そうに言う。

「嘆き鳥の正体は何かと考えて行ったら、鳳至郡という地名に行き当たった。つまり、嘆き鳥は、鳳凰そのものか、鳳凰だと言われていた鳥か、或いはその架空の鳥を描いた絵に似た鳥か、さもなくば鳳凰というイメージの中に含まれてしまうような種類の鳥かだ。そして、至《いた》る、という字が用いられていることや、能登の地理的なことを考えると、どうしてもそいつは渡り鳥ということになる」

「鳳凰が至る……そうね」

 敏子は同意した。

「そうなるとだな、時忠が嘆き鳥を宝のかくし場所を示すものとして使った意味が俄然はっきりして来るとは思わないか。時忠の時代に、その珍しい渡り鳥が渡って来た場所を示すと考えたら……」

「漠然としてますね。それだけじゃわからないでしょう。だって相手は鳥だし、しょっ中動きまわっているんですよ」

「もう少し考えてみてくれ。いま能登にそういう鳥は来ていない。ということは、何かの理由で昔は土地の名になるほど来ていたものが、だんだん数が減って、今では記録にも残っていなくなってしまったと考えていいんじゃないかね。つまり、時忠の時代にすでに絶滅しかかっていた渡り鳥さ。だから当時でも数はごく僅かで、その最後の一群が或る特定の場所へやって来るわけだ。渡り鳥が毎年一定の沼や池へ来ることはよく知られている。その、数がすっかり減って、滅びる日を待っているような美しい鳥を見て、人々が嘆き鳥という綽名をつけたのかも知れない。或いはその綽名は土地の人々がつけたのではなく、流されて来た平家の人々がつけたのかも知れない。滅んだ平家と滅びゆく鳥……いかにも都風のイメージじゃないか」

「すると、この人の痣は宝の地図ではなくて、毎年一定の場所へ来る渡り鳥のマークというわけね」

「そうだ。それで宝をかくした場所がだいたい判る仕かけだ」

「どこかしら」

 敏子は浜田を見て微笑した。

「時国家の伝説は、能登の観光案内書などにもこう記されている。流された十六人の時忠主従が最初に着いたのは大谷という所で、その地名は今も残っている。もっとくわしく言うと、大谷の江の澗《ま》というところだそうだ。地図で見ると、そのあたりに烏《からす》川という小さな川があるようだから、多分その川の川口を言うんだろうな。伝説では、時忠はそのとき一羽の烏《からす》が飛ぶのを見て、これは平家に伝わる名刀|烏《からす》丸の導きであると言って、そのあとを追いかけて川をさかのぼり、最初のすまいを定めたということになっている」

「烏《からす》……それ、白い烏《からす》じゃないかしら。だって、そうならおめでたい鳥で鳳凰のイメージにも入るでしょう」

「そうなんだ」

 南川はわが意を得たりとばかり勢いこんだ。

「白い烏《からす》じゃなくてもいいんだが、とにかく中央の教養人のイメージにある瑞鳥と同じような鳥を見てよろこんだということじゃないかな。土地の人は見なれていても、都会人には珍しいし、なんと言っても落目の連中だ。そういうのを見たらうれしがるよ」

「それはそうね」

 敏子が言うと、小野がニヤリとした。

「敏子さんも探しに行くんですか」

「え、何を」

「宝ですよ。南川さんは行く気ですよ。時忠の宝を探しにね」

「ほんとなの」

 敏子は呆れたように南川をみつめた。

「行くよ。俺は本気さ」

 南川は照れたように言い、小野を睨んだ。

「よかったら、浜さんも一緒にどうだい」

 すると浜田はウフフ……と含み笑いをした。肯定とも否定ともつかなかったが、とにかくたのしそうな笑い方であった。

能登の狼煙

 浜田は何度も海へ入った。敏子はあまり泳ぎに自信がないらしく、ミー子たちと浅瀬でバシャバシャやったり、背の立つところで岸と平行に泳いだりしていた。

「教えてやろうか。そのくらい泳げるならすぐうまくなるぜ」

 浜田がそばへ行って言うと、

「長く泳げなくてもいいのよ」

 と敏子は笑った。

「あたしが泳ぐ時はたいていプールですもの。短い距離でも恰好よく泳げればそれでいいの」

「おやおや」

 浜田は少し失望した。

「恰好なんかどうでもいい。できるだけ長い時間浮いていられればいいんだ。恰好ばかり気にしてると、いざというとき困るぞ」

「平気よ。そんなことになりっこないもの。あたしは一生ホテルかどこかのプールで泳ぐだけよ」

 浜田は水に潜り、砂底に立っている敏子の両脚をすくった。敏子はひとたまりもなく頭を沈め、本当に溺れかけたように必死でもがいて姿勢をたて直した。

「こいつ。水の中だと思って」

 敏子は、今度は自分から沈むつもりで浜田にとびついて来た。よく慣れている肌を、よく慣れている抱き方で抱いた浜田は、そのまま水の中へ引き込んで唇を押しつけた。敏子はすぐ苦しがって水の上へ顔をあげた。

「憶えてらっしゃい、べッドの上じゃ敗けないから」

 大胆な声で言った。短い髪がつるりとした感じで頭の形なりにへばりついているのが、浜田にはうれしくなるほど可愛らしかった。

「ねえ、さっきの話どう思う……」

 浜田の肩に両手をかけ、水の中でピョンピョンとはねあがるようにしながら言った。

「どう思うって」

「宝よ。宝物よ。欲しくないの」

「そりゃ、あれば欲しいさ。本当にあればね」

「仮りに、本当にあったとしたら、多分あなたにも幾らか権利があるはずよ」

「痣があるからかい」

「そう。他人にとられちゃつまらないわ」

 浜田はじっと敏子の顔を見た。みつめられて、敏子は急に舌をだして岸へ逃げだした。

「からかうな、馬鹿」

 浜田はその背中へ大声で呶鳴り、逆に沖へ向かって泳ぎはじめた。追って来ると思い込んでいたらしい敏子が、泳ぎ去る浜田に向かって呼びかける声が聞えたようであった。

 浜田は力いっぱいに水を掻いた。何か腹立たしかった。やがて赤い浮標が見えたのでそれにつかまり、ぼんやりと空をみあげた。陽が落ちはじめているのが、空の感じで判った。

 敏子は一生ホテルかどこかのプールで泳ぐ……。浜田の頭の中に泛んでいるのは、そのことだけであった。たしかにそんな感じがぴたりと敏子のイメージにはあてはまっていた。しかし、問題はその敏子のそばにいる男の姿であった。夏ごとに、そうして俺は敏子の得意なホテルのプールにつき合えるだろうか。……そう思うと、今日の午後生じた自信が、ひとときの思いあがりでしかないような気がして来た。浜田は頭をめぐらせて浜辺を見た。色とりどりの水着が動いていた。年ごとの流行の水着さえ、買ってやれるかどうか疑問であった。そして、大勢の海水浴客と一緒に暑い電車で汚れた海岸へ行き、板ばりの更衣室で古い水着に着換える敏子を想像すると、自分の腹立たしさの源泉が何であったかすぐに気づくのであった。

「そんなこと、させられるもんか」

 浜田は吐きすてるように言った。敏子のような女を、その程度の生活に押しこめ、いたずらに老いさせてしまうような男は、自分自身であっても許せないと思った。

 浜田は急に敏子のそばにいたくなった。海の水を冷たいと感じ、一分でもこの貴重な休日の時間を、敏子の傍から離れるべきでないと感じた。

 敏子……敏子……。

 浜田は全速力で岸へ泳ぎ戻りながらその名を呪文のように念じていた。力が欲しい。人並み以上の力が欲しい。せめてこの海の中を動きまわれる程度に、南川や小野たちに優越する力が欲しい……。

 浜田は岸へ戻った。水をしたたらせて砂の上を歩いて行くと、敏子が大きなタオルを両手にひろげて近寄って来た。

「ホテルへ行くのよ。さあ、頭をだしなさい」

 浜田は頭をさげ、敏子がタオルで拭いてくれるままにしていた。

「ほら、うしろを向いて」

 敏子は優しく、母親のようであった。

「ちぇっ、南川さん見てよ」

 小野がくやしそうに叫んだ。

「あきらめろ、あきらめろ」

 南川は笑っていた。

「このままホテルへ行っちゃっていいのかい」

「平気よ」

 敏子はビーチウェアを羽織っていた。

「着いたらすぐプールへとび込んじゃうから。塩を落してからお部屋へ入ってお風呂に入ればいいのよ」

「荷物は」

「ホテルの人がお部屋へ運んでおいてくれるわ」

「俺、なんにも知らねえからなあ」

 浜田はぼやくように言いながら歩きだした。

「あたしはここでシャワーを浴びて着換えるわ」

 タオルをかかえた敏子が、浜田と並んで駐車場のほうへむかいながら言った。

「どうして。ホテルまでこのままでいいと言ったじゃないか」

「女は別。塩水で髪を濡らしちゃったでしょう。早く洗ってかわかさなければ……。少し要領を呑み込みなさいよ。海へ来たら女は一時間ぐらい先に引きあげさせないと、食事の時間にうまくタイミングが合わなくなっちゃうのよ」

「君は慣れているからな」

 浜田は憤ったように言った。

「でも俺は知らない。泳いであがったら水をかぶって体を拭いて、お茶漬け食って寝るだけさ」

 敏子はケタケタと笑い出した。

「それでいいのよ、男の人は」

「ちっともよくはない」

 浜田は憮然としてつぶやいた。

 車に戻り、有料の更衣所へ行った敏子を待つ間も、浜田は憮然としていた。ムスタングのほうの娘たちも同じように体を洗って着換えたが、南川も小野も当然のような顔をしていた。

 ささいなことであった。とるにたらないことであった。しかし、浜田はもどかしかった。腹が立ち、くやしく、そしてなんとなく侘びしかった。それは異国へ入った旅人の侘びしさに少し似ていた。浜田にとって、行楽地でのそういう知恵は、異国の言葉を聞くような感じであった。たしかに合理的で、それが生活の知恵というものであるのだろう。しかし、そういう知恵を生みだす生活そのものが、浜田にとっては異境であったのだ。

 敏子が逃げて行くような気がした。笑顔は彼の目の前にあり、手をのばせば柔かい乳房も掴めるが、その両足は、ずっと遠くの見知らぬ場所に立っている……。

 ムスタングが動きだし、そのあとについて道を更に南へとりながら、浜田は自分が不機嫌になるのをじっとおさえつづけていた。

「どうしたの。くたびれた……」

 敏子が優しく言ってくれた。体を寄せて来て、濡れた頭を彼の肩にあてた。

「あなたって……」

 敏子は含み笑いをした。

「なんだい」

「すてきよ。海へ来て裸になったとたん、南川さんなんて、まるでかすんじゃったもの。均整がとれてて、たくましくって。ホテルへ着いたらみんなに見せびらかしてやるわ」

「みんなって……」

「みんなよ」

「あの連中かい」

「ホテルに泊まってる人たちよ。これはあたしの男ですって、札をぶらさげてあげたい気持ち」

「裸なら運転手だなんて判らないからな」

「何言ってるの。ばかね」

 敏子は悪気のない笑い方をした。

「南川さんて、どうしてあんなことをたくさん知ってるんだい」

「嘆き鳥のこと……」

「昔のことさ。鳳凰だとか平家のことだとか」

「趣味なのよ。道楽でやってるんだわ」

「でも、よく勉強してるなあ」

「勉強じゃないのよ、ああいうのは。遊びでやってるだけ」

 浜田はふんと鼻を鳴らした。

「ぞっとするよ」

「あら、どうして」

「遊びであんな勉強をする人がいる。俺なんかとてもだめだな」

「あんなこと、いくら知ってたってなんにもならないわよ」

 敏子は励ますように言う。

「そうでもないさ。人間はいろんなことを知っていたほうがいい。現に君だって面白がっていたじゃないか。俺も君にああいう目の色をさせるような話ができるようになりたいよ」

「南川さんは南川さんよ。どうしてあなたは近頃そう人のことばかり気にするようになっちゃったの」

 浜田は大きく息を吸った。お前という女のせいだ……そう言いかけてやめたのだ。

「自分のできることだけをして、そのほかはじっと他人をみつめてるのがあなたのいいところなのよ。そういうあなたって、とってもすてきなのよ。あたしたちを相手に、南川さんは得意になって喋ってたけど、考えようによってはみっともないことだわ」

「どうして」

「ああいうことについて、もっとよく知っている人はいくらでもいるわ。南川さんの本職は絵でしょ。絵のことならいくら喋ったっておかしくないけど、専門外のああいうなまはんかな知識をふりまわしてるところを、ちゃんとした人が見たらとってもみっともないと思うでしょうね。もっとも、そばにそういう人がいたら、南川さんだってあなたのように黙って聞き手にまわるでしょうけどね」

「それにしても、俺よりずっとよく知っている」

「知ってることだけを喋ってるのよ」

 敏子は叱るように言い、煙草をだして火をつけた。

「さあ、そろそろホテルだわ」

 車は下田の町に入り、駅前を通り抜けてトンネルをくぐった。

「下田ははじめてなの」

「遊び場のホテルなんて、どこへ行ったってはじめてさ」

 敏子はひくりと肩をすくめた。車は狭い道へ入り、やがて急な坂を登った。

「さあついたわ。あたしたちの部屋はダブルベッドよ」

 浜田はギョッとしたように敏子を見る。

「いいのかい、みんなに」

「平気よ。かくすことなんか、もうないじゃないの」

 南川は勝手知った様子でホテルの前の駐車スペースにムスタングを突っ込んだ。浜田も真似てそのとなりにとめる。敏子はドアをあけ、降りがけに念を押すように言った。

「あたしはあなたを自慢してるのよ。判った……」

 エンジンを切った浜田は、なんということなしに頷いた。敏子は荷物をひとまとめにし、

「さあ、そのタオルを持って南川さんたちとまっすぐプールへ行ってて」

 と言い残すと、二人の娘たちを連れてさっさとホテルの自動ドアの中へ消えた。

「浜さん、こっちだよ」

 南川が建物のはずれへむかいながら手をあげた。ついて行くと、その道はホテルの海側の芝生の庭へ続いていて、南川はその庭から崖の下へ通じる石段をおりはじめた。崖の途中が平らになっていて、そこにプールがありプールのむこうに海が見えた。石段の途中から小野が駆けだし、プールサイドにタオルを抛りだすと、そのまま一気にとびこんだ。

 小さなプールだったが、さっきの砂浜とは感じがまるで違って、浜田にはとりつきにくい雰囲気であった。

「浅いんですね」

 浜田は南川に言った。心細くて救いを求めるような気分であった。

「家族づれが多いからね」

 そう言えば、若い男女の姿は多くなく、子供づれの夫婦が目立った。小野はクロールで一気に向う側へ着いた。

「とにかくここで塩を落しちゃおう」

 南川は無雑作にボトンと水の中へ落ちて両手で水をすくい、顔へかけた。

「女連中の髪がかわくまでに一時間はかかるさ」

 のんびりした声で言い、小野のほうへ泳いで行った。浜田はタオルをプールサイドの狭い芝生の上に置き、あたりを観察した。女たちの中に、敏子ほどの美人はいないようであった。だが、男たちはみなゆったりと落着いて自信のある顔つきに見えた。

 敏子は一生こういう場所で夏を過すのだろうか、そのかたわらに自分がいられるのだろうか……浜田はまたそんなことを考えていた。夏ばかりではない。冬にはスキー場へ行くかも知れない。春には静かな庭の茶会に加わるかも知れない。

 やらねばならないと思った。敏子をそれ以下の女にしたくなかった。浜田は自信をとり戻したくて、大股でプールに近寄った。ちょうど人々がプールからあがって、水の中は無人になっていた。

「行くぞ……」

 向う側にいる南川たちに大声で言い、競泳のときのようにスタートを切った。ひょっとすると、ことしそのプールへ来た客の中で、浜田の泳ぎが一番速く、堂々としていたかも知れなかった。

「ねえ南川さん」

 浜田は向う側へ着くと水から顔をあげてそう声をかけた。

「なんだい」

「いったい能登ってどういうところなんですか」

 とびあがってプールのへりに南川と並んで腰をおろした浜田が尋ねると、南川はうれしそうな笑顔になった。

「歴史的には面白いところだよ」

 浜田は誘いかけて南川に話をさせたくなったのである。知識に気おされてばかりいてはどうにもならないように思ったのだ。浜田は練習のつもりでそういう話題に自分からたちむかっている。

「でも、今だって能登は田舎ですからね。昔はもっとひどかったんでしょう。罪人を流すくらいだから」

「ところがそうじゃないから面白いのさ」

「というと、昔は今よりひらけていたんですか。おかしいな」

 浜田はそういう話に立ち向って行く自分を幾分うしろめたいように感じながら、それでも喋りつづけた。

「よく言うんですが、能登なんて、さざえのけつみたいなとこですよ」

「それがね、君……」

 南川は真剣な表情になった。

「陸路で考えると判らないんだが、その昔は海の道のほうがずっと移動しやすかったらしいんだ」

「船だって昔の船は貧弱でしょう。考えられないな」

 小野は人がかわったように積極的に喋る浜田を、驚いたようにみつめている。

「たしかに船は今のほうがずっと立派だが、そのかわり個人レベルでの航海技術はずっと低下しているとは思わないかね。今は誰でも船をあやつれるわけじゃない。しかし、その昔の海の民というか、沿岸民は一人一人がちゃんとした船頭だった」

「まあ、それはそうですね」

 浜田はいい気分になって来た。引っ込んでばかりいず、やればやれそうだと言う気がしていた。

「たとえば、うんと古い話をすると、能登半島の縄文や弥生の遺跡分布は、日本海岸、つまり外浦のほうがずっと多いくらいなのさ」

「富山湾側が少いんですか。海は外浦のほうがずっと危険でしょうにね」

「そうなんだ。これはつまり、日本列島というか日本海と言うか、その西のほうから海の道を通ってやって来た文化の波があると考えてもいいんじゃないかね。その証拠になるかどうか僕も判らないけれど、日本の歴史の中で能登と加賀をくらべると、能登のほうが先進国だと言えなくもないのさ」

「まさか」

「本当だよ。能登がひとつの国として認められたのは養老二年、つまり八世紀のはじめで、加賀という国が認められる一世紀も前のことになる。八世紀ごろの能登というのは、大陸との交渉で重要な拠点になっているんだ。高句麗とか、満州のあたりに興った渤海の使節が、しょっ中能登へ着いていた時期があるのさ。言って見れば、日本海は横に広い海だろう。そこに強い海流が流れている。それを直線的に突っ切る技術というのは、だいぶあとになってからだとも考えられるじゃないか。たとえば朝鮮半島のどこかから出発したとして、古い時代にはかなり鈍い角度で日本海を渡らねばならなかったはずだぜ。その鈍角の時代が能登だと考えてもいい。そうすると、やがて若狭、出雲、北九州と、しだいに直線コースに近くなって行ったことだって考えられるじゃないか。能登は銅鐸の北限とされているが、逆にそこから南へ行ったと考えることだってできる」

「まさか……」

 浜田は知ったかぶりをした。銅鐸も何も見当はつかなかったが、そういう合の手をいれるタイミングであることだけは判った。

「そう、まさかさ」

 南川は頭を掻いた。

「俺は素人だからね。勝手なことを言ってよろこんでるだけだよ」

 浜田は強く息を吸った。満足したのである。

「でも、素人なりに考えても、日露戦争のとき、例の日本海々戦の直後、ロシア兵をのせた鉄舟が富山湾へ漂着したという記録がある。だから、満更でたらめでもないんじゃないかな。どっちにしても、継体天皇が越前から加賀あたりをバックにしていたのは有名だし、天智天皇も北加賀に関係がある。その天智天皇につらなって、桓武朝の平安京がはじまるんだぜ。また、片山津には大和朝廷形成期に活動していたらしい玉造遺跡がある。邪馬台国は能登だなんて言いはしないが、能登の羽咋《はくい》にある気多大社などは、古代では相当大きな勢力の拠点だったようだ。北陸では越前の気比《けひ》神宮、越後の弥彦《やひこ》神社とならんで、ずばぬけて高い地位に置かれている。初期の大和朝廷が重要視しなければならなかったことに間違いはない。少くとも、ある時期には伊勢や宗像《むなかた》や筥崎《はこざき》と同じような地位にあったのだろう。気多の今の祭神が大《おお》己貴《なむち》であることは問題外さ。そういう祭神はすぐ前のものと交代するからね。それより、後白河院の勢力を背景にした加賀守を追い払ってしまった白山衆徒や、戦国時代に一種の自治体を作りあげた門徒衆などを、北陸一帯に根ざす一種の伝統的な傾向として見ることのほうが重要だ。中央の権力に対して一歩も引かない気概というのは、その歴史的な背景の中に何かが秘められているからだと思うよ」

「天皇はもともと自分たちの土地から出た人なんだ、とか言う誇りのようなものですか」

「そうさ。ことに平安京というのは桓武天皇を経由して天智天皇につながっている。しかも桓武と言えば平家のはじまりだ。時忠は自分の勢力圏内へ流されたということにもなる。僕が時忠の能登流刑に疑問を持ったのは、そのあたりにまず第一の原因があるのさ。それに、君は能登半島のとっさきにある、狼煙《のろし》という場所を知っているだろう」

「ええ」

 浜田が頷くと小野が口をはさんだ。

「禄剛岬《ろつこうさき》のことですよ。僕らのとこでも、あそこを狼煙《のろし》と言ってすぐ通じます」

「あれは大和朝廷の監視哨なんだぜ。能登半島を縦断する官道が作られたのは、奈良に都ができてすぐのことさ。早いだろう。今の一級国道に相当するんだぜ。あそこへそういう強力な監視哨を作らねばならぬほど、能登は重要な土地だったんだ」

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