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第四章 熱い夜の祝祭

作者: 当前章节:15387 字 更新时间:2026-6-23 00:12

 陽光がまぶしくて、目に痛いほどだった。ひろびろとした水面の揺れる気配が、赤ん坊の寝息のようにおだやかに伝わってくる。浜辺の波はところどころ白く砕けるだけである。ほとんどの水が透明なまま寄せては返していた。数隻のクルーザーが騒々しく沖を走っている。見わたすかぎり、それらの航跡だけが湖面の白波だった。かすかな汐の香があった。

「湖《うみ》の家」の上りかまちで柚木克彦は海水パンツ一つになった。律子の出してくれたゴム草履《ぞうり》をはいた。家のなかは家族づれや若い男女で混みあっている。中年の二人づれは柚木と律子だけだった。

 律子はサングラスをしている。まだ服のままだった。バッグから化粧品やタオルを出している。支度《したく》にしばらく時間がかかりそうだ。柚木は波打際《なみうちぎわ》に向かって歩きだした。

 二百人ばかりの男女が浜で陽光をあびたり歩きまわったりしている。バドミントンやバレーボールをたのしんでいる者も多い。ほとんどが若者と子供である。中年の男女はみんな子供づれだった。さわやかな風をうけながら、柚木は窮屈な感じにとらわれていた。

 海辺の砂浜とちがって小石が多い。水際で柚木は丁寧にストレッチをやった。草履をぬいで水に入り、すこしずつ体に水をかける。若いころとちがって万事に慎重である。

 沖に向かってすこし歩いた。小石で足裏が痛かった。腹まで水につかったところで「湖の家」をふりかえった。すわったまま律子がこちらを見ている。小さく手をふった。柚木は水に体を投げだした。平泳ぎでゆっくりと沖の赤旗の列のほうへ向かう。

 全身に涼味がしみわたった。ひげそりあとの小さな傷を汐がかすかに刺戟する。浜名湖は南部で海とつながっているのだ。浜から見れば湖面は平らかだが、水のうえでは体がもちあげられたり下降したりした。全身が活気づいてくる。アスレチッククラブのプールで泳ぎつけているので、体は軽かった。血液の循環が良くなり、しかも涼しい。

 浅い区域では若者や子供たちがにぎやかに水あそびをしていた。すこし沖へ出ると、まわりに人がいなくなった。たまに浮かんでいる者は中年の男だけである。浅い場所にいる妻子へ手をふったりしている。十メートル間隔で横一列にならぶ赤旗に近づくと、浜の監視所からアナウンスがきこえた。旗の向うへ出ないでくださいといっている。お節介《せつかい》されながら泳ぐ時代になった。

 急に波がおしよせてきた。沖を横断するクルーザーが湖面を攪乱《かくらん》している。左手のほうからも爆音がきこえた。ジェットスキーを若者たちが乗りまわしている。

 立泳ぎして柚木は浜をながめた。律子が水辺へ歩いてくる。ブルーのワンピースの水着をきて、ストローハットをかぶり、サングラスをつけている。白い買物袋をさげていた。均整のとれた体つきである。遠目にはとても五十近い女にみえない。駈けまわっている若い女たちに遜色《そんしよく》がなかった。

 柚木のぬいだ草履のそばに律子は買物袋をおいた。サングラスをはずし、申しわけのようにストレッチをする。ストローハットをかぶったまま、水に入ってきた。柚木は手をあげて律子を招いた。毎日のようにプールへ通って、律子も泳ぎはうまいはずだ。

 ふとももが水につかりきらないうちに、律子は泳ぎはじめた。やはり小石で足が痛かったのだろう。顔をあげて、平泳ぎでやってくる。柚木は律子のほうへ泳ぎはじめた。律子は笑っている。ストローハットの赤いリボンが風でおどった。顔はよくみえるのだが、なかなか距離がちぢまらない。長年離れ離れになっていた恋人との再会の場面のように、柚木はもどかしい思いにかられた。

 ようやく近づいた。律子は華やいだ笑声をあげた。抱きついてくる。いっしょに沈んで泡のなかを浮きあがった。

「ああ息が切れる。もうだめ」

 笑いながら律子は両手で顔を拭い、ストローハットのあごひもをなおした。

 律子の手首が金色に光った。高価そうな腕時計である。防水式なのだろうか。

「泳いでから気がついたのよ。まあいいわと思って」

 柚木の肩につかまって律子は立泳ぎしている。二人の脚がふれあった。冷えたせいで律子の脚は硬く感じられた。性的な刺戟をうけた、と柚木は思う。だが、他人事のように体は清冽《せいれつ》な状態にあった。

「息切れは最初のうちだけさ。すぐに調子が出るよ」

「ここから見ると、砂浜はすぐ近くね。ずいぶん泳いだつもりだったのに」

「努力の成果はつねに期待以下さ。流されるのはあっという間だけどね」

 律子の横顔に柚木は見惚《みと》れた。

 化粧を落した肌はやはりくすんでみえる。目じりのしわも濃い。だが、横顔の輪郭は変りなく鮮やかである。高校時代の面影を充分に見出すことができる。かるく口をあけて、少女のように律子はほほえんでいた。

 柚木はあおむけになった。小さく揺れながら水にうかんだ。午後三時の陽光が顔に突き刺さってくる。いくつかの白雲のあいだを飛行機がいそいで通ってゆく。眠くはないが、柚木は頭がぼんやりしてきた。広大な水面に、律子と二人きりでいるような気がする。わずらわしい現実社会から逃れ出て、安息の地へたどり着いた思いである。

 きのう柚木は名古屋へ出張した。きょうは土曜日である。律子と連絡をとり、正午に浜松で待ちあわせた。律子の夫はヨーロッパへ出張している。なんの支障もなく律子は朝、東京を発《た》ってきた。

 かんたんな食事のあと、湖畔にあるマンションの五階の部屋へやってきた。月に二、三度ずつ二人はその隠《かく》れ家《が》を利用してきた。

「高校のころ、学校のプールでときどき泳いだわ。水泳部の人たちにいやがられながら」

「おれもそうだった。サッカーの練習のあと、シャワー代りにプールへとびこんだ。端のコースで遠慮しながら泳いだものだった」

「柚木さんが泳いでいるのを、私、何度も見たわ。カッコ良かった。水泳部の人よりうまいって噂《うわさ》してたのよ」

「きみの水着姿がまぶしかった。きみたち女の子は、一時間ぐらい平気で水につかっていたな。よく寒くないもんだと思った。皮下脂肪が男とはちがうんだろうな」

 高校のプールの情景が柚木は目にうかんだ。律子は愛らしいお尻をしていた。赤い水着がくっきりとそこへ貼りついていた。

 また波が押し寄せてきた。クルーザーが近くを通ったのだ。柚木は顔に波をかぶった。舌打ちして平泳ぎの姿勢にもどった。

 そろそろいこうか。うながして柚木は砂浜と平行の向きに泳ぎはじめた。あらためて赤旗のほうへ泳ぐと、息が保《も》たなくなりそうだ。かといって陸へもどるのも沽券《こけん》にかかわる。若いころは二千メートルや三千メートル、苦もなく泳ぎ切ったものだ。

 ならんで律子は泳いだ。柚木よりもせわしく両腕で水を掻きわけた。三十メートルもゆくと、悲鳴をあげた。もう陸へもどろうという。返事を待たずに砂浜のほうへ向きを変えた。柚木もあとを追うことにした。水中で青白く屈伸する律子の脚をながめながら、ゆっくりと泳ぎつづけた。

 目ざしてみると、砂浜は遠かった。いくら泳いでも、陸の風景は近づいてこなかった。寄せる波より返す波のほうが強いような気がする。体が空《むな》しく波に乗りあげたり下ったりした。すこし不安になる。律子の判断にしたがって良かったと思う。息が切れてきた。律子も懸命に泳いでいるらしい。

 とつぜん柚木は右足が硬直した。爪さきをのばしたままの形で、ふくらはぎの筋肉が石になった。激痛がおそってくる。柚木はエビのように体を折り、右足の親指をつかんでひっぱった。水中で足が痙攣《けいれん》したのははじめてである。なかなかなおらない。全身が水に没した。痛みがつづく。苦しくなって柚木はもがいた。死ぬのかと思った。

 鞠《まり》のように柚木は水中で回転していた。左手が湖底にふれた。浅い場所にきていたのだ。左足で湖底を蹴って水面へ顔を出した。空気がどっと肺へ流れこんでくる。のどを鳴らして柚木はあえいだ。呪縛《じゆばく》が解けたように硬直はおさまっている。立ってみると、水は胸までしかなかった。全身が冷えきっている。

 律子はなにも知らずに泳いでいる。十メートル以上、二人の距離は空《あ》いていた。柚木は心臓の鼓動が不規則になっていた。あわただしく動いて、二、三秒停止する。またあわただしく動きはじめる。すこし息が苦しい。立ったまま休息せざるを得なかった。

 律子が泳ぎをやめた。立ってふりかえった。笑っている。浅い区域で懸命に泳いでいたのが、おかしかったらしい。砂浜へ律子は歩いていった。水着の尻の下に、左右一本ずつ深い横じわが刻まれている。

 まもなく不整脈がおさまった。息をついて柚木は砂浜にのぼった。命拾いしたと思う。深いところで痙攣がおこっていたら、おぼれていたにちがいない。

 買物袋から白いコートのようなものを出して律子は着ていた。フードがついている。日焼け防止の服のようだ。同じ恰好《かつこう》の女がほかにも二、三いた。中年の女ばかりだった。

「びっくりしたよ。足がつってしまった」

 柚木は律子のそばに腰をおろした。砂のうえに大きなタオルが敷いてある。

「痙攣したの。冷えすぎたんだわ」

 律子は柚木の右脚をかるく揉《も》んだ。

 すぐにやめた。日焼け止めのオイルの小瓶を出して柚木の背中に塗りはじめる。

「いいよ。人まえでは照れる」

「平気よ。あっちでもこっちでもオイルの塗りっこしてるじゃないの」

 砂に伏せてオイルを塗りあっている恋人たちが何組か目についた。若い男女ばかりだ。日焼け防止服の女はいない。苦笑して柚木は律子のするがままになった。

「そんなもの着たら暑いだろう。せっかく海辺にきた意味がなくならないか」

「でも、直射日光でしみができたら困るもの。しみは恐いのよ。お婆さんマーク。烙印《らくいん》をおされたようなものなんだから」

 柚木は律子から目をそらした。妙な服をきているほうが年寄りじみてみえる。自然の陽光を恐れるような気持のもちかたが、むしろ老化を進行させるのではないのか。

 買物袋から律子はオレンジとナイフをとりだした。輪切りにしてさしだした。柚木はそれをかじった。気分がおちついてくる。

「若い人たちって泳がないのね。浅いところであそんでいる。泳ぐのはダイエットが必要な層だけなのかしら」

「向上心がないんだよ。おれたちは泳ぐときは一メートルでも多く泳げるようになりたかった。なんでもいい、能力を伸ばしたかった。いまはちがう。連中はただあそびたいだけさ」

 五、六年まえ、子供たちをつれて天の橋立へ海水浴へいったことがある。沖まで泳いで柚木は得意だった。浜へもどると、ダサイといって子供たちに軽蔑された。子供たちはサーフボードであそんでいた。

 三人づれの若い女が、柚木らのまえを走って通りすぎた。セパレーツの水着やハイレグの水着をきている。まっくろに日焼けした肌をオイルで光らせていた。ひきしまった腰、まっすぐな脚。フードをかぶった律子は寒さでふるえているようにみえた。

「湖の家」へもどろう。柚木は提案して立ちあがった。あそこには屋根がある。みじめな服を律子は着なくとも済むだろう。

 荷物をまとめて二人は屋根の下へもどった。律子は服をぬいだ。胸もとのふくらみが白くなまめかしい。水着のおかげで、尻の下以外にはしわがみえない。手首には金の上品な時計がかがやいている。

 相変らずそこは混んでいた。子供たちが焼きイカやとうもろこしをかじり、父母がおでんを突っついている。ビールを飲む者もいる。若い男女のグループが奇声をあげたり、じゃれあったりする。孫のお守《も》りらしい老人が柚木らのそばで昼寝していた。

 売店で柚木は缶ビールを二本買ってきた。律子に一本手わたした。ビールを飲んでしまうと、もう泳げなくなる。それでも良かった。痙攣が恐くて水に入る気になれない。

 キャビアの缶詰を律子があけた。パンにのせてたべた。若い男女の二人づれが入ってきて、柚木のとなりに脚をのばした。日に焼けた、つるつるした脚だった。柚木の毛脛《けずね》にくらべて、いかにも新品である。男のつるつるした腕をいとしそうに女がさすっていた。

「やっぱりクルーザーの運転を習おうかなあ。三日もあればマスターできるんだから」

 沖へ律子は目をやっていた。

 一時間ばかりで柚木と律子は「湖の家」を出た。まだ陽は高い。疲れた様子もなく人々は水や砂や陽光とたわむれている。駐車場へ向かって砂浜を歩くあいだ、柚木は華やかな世界から脱落する気分だった。敗北感を噛みしめていた。若い男女のやりかたで恋愛を謳歌《おうか》しようとしたのが失敗だった。中年の不倫の恋は太陽や海にはなじまない。もっと暗く、ひそやかで、金のかかる営みでなければならない。若い時代とは異った方策によらないと、若い時代はとりもどせないもののようだ。

 砂浜のすみのほうに夫婦らしい中年の男女の姿があった。男が腹這いになって寝ている。女がのしかかって、男の腰を指圧していた。男は顔をしかめている。汚いことば使いで女に注文をつけた。

「仲がいいのね、あの夫婦は」

 律子は笑って柚木に腕をからませてきた。ストローハットが柚木の頬にふれた。

「腰が痛いらしいな。馴れないことをすると報《むく》いがくるんだ」

 レンタカーのBMWの運転席に柚木は腰をおろした。車内は猛暑だった。

 車を発進させた。柚木はやっと安息の場へたどりついたように感じた。

 隠れ家のマンションで二人は一眠りした。目がさめると、午後七時だった。日が暮れかかっている。柚木は頭のなかが澄みわたり、手足にみずみずしい力があふれていた。

 きょうの疲れだけではない。蓄積された疲労が一気に消えたようだ。最近にかぎったことではないが、多忙な日がつづいた。担当事業部の開発した新製品がまだ完全に軌道に乗っていない。各支店を駈けまわって担当者を督励したり、ユーザーをたずねて情報をあつめたり、息をつくひまもない状態である。毎晩、おそくまで酒席のつきあいもあった。

 睡眠だけは、あまり不足しないよう心がけてきた。それでも眠りに飢えていたらしい。疲れをしぼりだすようにぐっすり眠った。陽気になっている。水泳場での屈折した気分は疲労のせいでもあったのだろう。

 律子はキッチンで働いていた。明るい紫のシャツと白いショーツを身につけている。脚は細いとはいえないが、脚の線は優雅に流れている。律子は裸足だった。

 ベッドをおりて柚木はキッチンへ入った。食卓に料理がならんでいた。海産物のオードブル、ステーキ、サラダである。ワインが冷やしてあった。律子はきょう早目に浜松へ着いて買物を済ませていた。

 律子はカセットデッキのスイッチをいれた。モーツァルトのディベルトメントが流れた。ニ長調のおなじみの曲だ。テーブルを二人ではさんでワインを飲んだ。昨夜も柚木は深酒をした。きょうは控えたいのが本音《ほんね》である。だが、ブルゴーニュ産の赤のグランクリュを見てはあとにひけない。

 ゆたかな夕食だった。思い出話や他人の噂をしながら、くつろいですごした。厚いステーキを柚木はたいらげた。律子のぶんにまで手をのばした。カロリー制限の必要なのはわかっている。酔うと自制心がきかない。

「思いきって翔《と》んでみるものよね。柚木さんとこんなふうにして食事できるなんて、一年まえには思ってもみなかったわ」

 律子はうっとりした顔になった。

 中年の顔のなかから、高校時代の律子の顔が浮かびでた。しだいにそれは鮮明になった。肌にミルクのような光沢がある。目が澄んで口もとがひきしまっている。

「むかしね、柚木さんの気持を知りながら、私、もう一つ積極的になれなかったでしょ。コンプレックスがあったのよ」

「コンプレックス。信じられないな。高嶺《たかね》の花だったきみがどうして」

「柚木さん、頭が良かったもの。いろんなことを知っていたし。この人とおつきあいしたら、私、ずいぶん背のびしなくてはいけないと思った。自分のバカがばれそうで」

「そんなこと思っていたのか。ピアノを弾《ひ》くきみは貴族の娘みたいだったのに。遠い世界の人としかみえなかった」

「そんなふうに思われていること、うすうす感じていたみたい。だから、かえって恐かったのね。バカがばれて幻滅されたらいやだと思った。だって私、音楽以外なにも知らなかったんだもの。秀才でもないし」

「学校の成績は良かったんだろう。しかし、おどろいたな。そんなことなら、もっと積極的に出るべきだった」

「でも、あれで正解だったのよ。私たち、もし結婚していたら、こうして会うこともなかったんだし。幻滅されて私、追い出されていたかもしれない。これでよかったのよ」

 立っていって律子は何枚目かのCDを入れ換えた。ショパンのノクターンだった。

 まえかがみになって律子はキスをもとめてきた。椅子にかけたまま柚木は応じた。

 柚木は律子の腰やふとももをさぐった。不安が胸をかすめた。飲みすぎたかもしれない。酔いをさます必要がある。

「このまま寝るのは惜しいよ。湖畔へ出てみよう。タクシーを呼ぼう」

 柚木は提案した。うなずいて律子は柚木から離れた。

 タクシーで湖畔を走った。湖はまっ黒なひろがりにすぎなかった。船のあかりがいくつか湖上に浮かんでいる。湖畔の道路に街灯はまばらで、あかりも薄弱だった。夜の湖は、観光に適していないようだ。

 しばらく走って、昼間きた水泳場へ着いた。浜は闇に塗りこめられ、しずまり返っている。砂のうえを歩いてみることにした。一時間後に迎えにきてもらうことにして、二人はタクシーをおりた。

 駐車場には一台の車もなかった。そこを横切って浜へ出た。月あかりで、不自由なく歩くことができた。波の音がきこえる。道路をときおり車が通るだけで、人影は一つも見当らない。淡い灯を一つずつともして、五、六軒の民家が道路の向うに固まっている。

 手をつないで二人は歩いた。「たゆたう小舟」を律子は口ずさんだ。高校のコーラス部がよく練習していた歌だった。律子は柚木と手をつないだまま、やや前かがみになり、体をスイングさせて歩いた。

 砂浜の向う端にボートが積みあげられてあった。その向うは岩場である。両者のあいだへ二人は入った。洞窟のなかのように周囲が暗くなる。空だけが仄《ほの》かに明るかった。

 柚木は律子を抱きよせた。まっすぐ律子は柚木を見あげる。柚木は息をのんだ。月あかりのもとに高校時代の律子がいた。澄んだ目で、おどろいたように柚木をみつめる。おびえているようにもみえる。一点の瑕《きず》もなく張りつめた顔だった。

 律子の髪を柚木はなでてみる。かわいた、こまやかな感触だった。柚木は抱きしめた。律子の体にはゴムのような弾力があった。くちづけする。舌をからませあいながら、律子の背中やふとももをさぐった。どの部分からも、はずむような応答があった。おれはいま夢のなかにいる。柚木は思った。うまく入りこめた。夢は向うからは訪れてこない。工夫して描きだすものなのだ。可能かどうかの不安はなかった。柚木の体は猛《たけ》っていた。

 二人は砂のうえに腰をおろした。律子のシャツを柚木はぬがせにかかる。

「こういう魂胆だったのね。やっぱり柚木さん、頭がいい」

 律子はもどかしげにシャツをぬいだ。

 手をとめなかった。すぐに全裸になった。シャツを敷いて横になった。

「ひんやりとしていい気持。昼間の砂は熱かったけど、夜は涼しいわ」

 柚木も服をぬぎすてた。のしかかって、くちびるをあわせた。

 あらためて律子の体をさぐった。律子の尻やふとももの裏側が砂でざらざらしている。はずむような感触が持続している。火のように熱い部分を柚木はさぐりあてた。しばらく指をつかった。律子は声をあげる。彼女も手を動かしている。猛ったものをたしかめて、安心したようだった。

 柚木は律子の熱い部分へくちづけにいこうとした。律子は抗《あらが》った。このまま柚木を受けいれたい、という。柚木の体が若々しくある瞬間を逃したくないのだ。

 柚木は入っていった。深々と入りこんで、しばらく静止していた。律子の尻からふとももの裏をさぐった。砂の付着した肌の感触を味わううち、一つの歌がよみがえった。

夏の陽を浴びて

潮風に揺れる 花々よ

草陰に結び

熟《う》れてゆく 赤い実よ

 石原裕次郎の主演した映画「狂った果実」の主題歌だった。たしか柚木が大学へ入ったころの映画である。裕次郎と北原三枝が海辺で抱きあう場面があった。湘南の海、ヨット、海辺の酒場。バーボン。田舎育ちの柚木には、遠い外国の物語に思われた。

 柚木の首にまわした律子の腕に力がこもった。両脚で彼女は柚木の体をはさみつける。

「最近の星は塵《ちり》みたいね。むかしの星は大きかったのに」

 律子のほうから動きだした。柚木は動きをあわせた。

 小林あゆみの店「いるか」に、柚木は週一度のわりで顔を出していた。

 四月ごろまで店は繁昌していた。安いカラオケ酒場が北新地にあればサラリーマンはあつまってくる。あゆみの見込みどおりだった。毎晩、二時すぎまで歌声が絶えなかった。

 気をよくしてあゆみはソアラを買った。二年のローンだという。だが、それと時期をあわせたように客足が落ちてきた。開店直後の義理や物珍らしさで足を運んでいた客が、一人二人と落ちこぼれていった。白いソアラは集金や金策に使われるのが主になった。

 場所も良くなかった。北新地といっても「いるか」は中心部から離れたところにある。周辺のネオンは地味で、人通りもすくない。中心部で気勢をあげた男たちは、「いるか」へたどりつくまでによそのカラオケ酒場へ吸いこまれてしまう。ツケがたまって近寄らなくなった者も多いらしい。

 あゆみは最近二十三になったばかりである。酒場づとめの経験も三年たらずだった。店をやってゆくには幼なすぎる。年輩の客の相手ができない。酔うと、客といっしょになってたのしんでしまう。べろべろに酔って、マイクを一人じめしてうたったりする。

 従業員にも舐《な》められているようだ。小声であゆみの悪口を客にいう女の子がいた。あゆみが用事で外出しているとき、バーテンダーが客とトランプ賭博をはじめたのを、柚木は見たことがあった。

 あゆみは客の名前をおぼえるのが苦手だった。はじめての客を、常連の客ととりちがえてしまう。何度か顔をみせた客に、そのつど名前を訊いていやな顔をされていた。歌の上手な客よりも、下手な客のほうが印象に残ると本人がいっている。カラオケ酒場のママとしては、致命的な欠陥だった。

「そんなトロいことでどないするねん。客の勤務先、地位、年収、家族状況、趣味。ぜんぶ把握《はあく》しておかんことには、店なんかやっていけるもんやないで。なんべんいうてきかせたらわかるんや」

 スポンサーの洋酒店主が店の奥であゆみに訓戒をたれるのを柚木はきいたことがある。

 小さいが、するどい声だった。泣きそうな顔であゆみはうなずいていた。

 浜名湖畔の隠れ家で南部律子と会った数日後、柚木は「いるか」へ顔を出した。アスレチッククラブで汗をかいたあとである。ビールを一杯やって帰宅するつもりだった。

 午後八時半だった。そろそろかきいれどきなのに、先客は一人もいなかった。二人いた手伝いの女の子が一人になっている。それも以前いた女の子とは別人だった。人気の出る顔立ちの子ではない。

 カウンター席の端のほうに柚木は腰をおろした。あゆみがとなりにすわった。

「どうした。女の子を替えたのか」

 訊かれてあゆみはうなずいた。人件費の節約だという。

「まずいな。バーは女の子しだいなんだぞ。まえの女の子は可愛かったのに。自分の給料を削ってでも引き止めるべきだった」

「けど、本人がやめるいうんやもん。ヤル気のない者をおいといても仕様ないやんか」

 あゆみは口をとがらせた。

 経営についての柚木のアドバイスをすなおにきいたためしがない。柚木はしょせん客、自分は専門家だと思っているようだ。

「最近は入りがわるいようだな。世の中、景気はいいはずなのに」

「開店して半年目ぐらいが一番しんどいの。これを乗り切ったら軌道に乗るらしいわ。乗り切れるかどうかが問題やけど」

 仕入れ、家賃、人件費など出費がかさんで困る。あゆみは愚痴をいった。

 小さな店だが、リースだけに家賃は高い。月々四十五万だという。人件費は自分のぶんをふくめて、先月まで百六十万かかった。節約したくなるのも無理はなかった。

「でも、仕入れの支払いは融通がきくんだろう。スポンサーが酒屋の社長なんだから」

「そうでもないの。わりときびしいのよ。公私混同はしない、とかいうてるわ。先月の支払いも、ほうぼうでカキあつめて、大変やった。ああいう男って、女とあそんでも絶対損しないんやから」

 ねえ、デートしよう。私、柚木さんのそばにいると、一番気が休まるわ。

 ささやいてあゆみは体を寄せてきた。土曜の昼、待ちあわせることにした。前回あゆみとホテルへいってから、二週間近くたっている。あゆみの姿が新鮮に映ってきた。二年近くつきあった女とは思えない。

 つぎの客があらわれないので、柚木は店を出にくくなった。ウイスキーの水割りを飲みはじめた。何分かたって、やっと人が入ってきた。客ではなく、洋酒店主の関口だった。

「今晩は。いつもお世話になっています」

 関口は柚木に挨拶して奥に腰をおろした。

 柚木のことをどう思っているのか。顔をあわせると、いつも挨拶にくる。

 あゆみは関口のそばへいった。新しい女の子が柚木のまえへきた。入店五日目だという。器量もよくないし、会話もつまらない女の子だ。柚木は退散する気になった。

 二人づれの客が入ってきた。どちらも三十代のサラリーマンのようだった。女の子が呼んだ客らしい。親しげにことばをかわした。彼らは柚木のとなりに腰をおろした。

「あのおっさん、このまえもきとったな。なんやあれは。ママの旦那か」

 しばらくして客の一人が声をひそめて女の子にきいた。

「そうなんやて。お酒屋さんらしいわ。ごっついお金持やいう話よ」

 小声で女の子はこたえた。

 入店五日目の女の子が、ママの後援者を知っている。しかも、客にそれを教えている。やめた女の子たちも同様だったのだろう。客の減った最大の理由はたぶんこれだった。

 柚木は席を立った。支払いをして外へ出た。あゆみが送りにくる。いま見聞した事柄を柚木はあゆみに教えてやった。

「あの子、そんなこというてるの。よし、きょうかぎりクビや」

 あゆみは山猫のような顔になった。美しい山猫である。一瞬、柚木は見惚《みと》れた。

 クビにするというのを柚木は制止した。それよりも、噂を立てないようにするのが先決だといいきかせた。関口はそんなにたびたび店へくるのか。ついでに訊いてみた。めったにこない。さっきの客とはたまたま二度顔をあわせただけなのに。口をとがらせてあゆみは説明した。噂を立てられていたのが、かなりの打撃だったようだ。

「柚木さんがスポンサーやったらなあ。あんなおじいちゃん、もうカナンわ」

「おれにはスポンサーは無理だよ。ほかの金持をさがしたらどうだ。土地成金とかお医者とか、金持はいろいろいるはずだぞ」

「うちにはそんなお客さん来ェへんもん。柚木さん、がんばって大金持になって」

「せっかく乗り出した舟なんだ。くじけずにがんばりなさい。それしかない」

「ねえ、会社の人つれてきてよ。××さんも××さんも最近は全然よ。柚木さんの会社、私すごく当てにしてたのに」

「わかったよ。こんどつれてくるから」

 かえろうとする柚木の腕をあゆみはつかんだ。のびあがってキスしにくる。

「おじいちゃんがきたからいうて、急に冷たくせんでもいいやないの。妬《や》いてるの」

「バカ。そんなんじゃないよ。早くかえって休みたいだけだ」

 あゆみは離れなかった。周囲を見まわしてから、柚木はキスに応じた。やってきた客に見られたらどうする気かと思う。あゆみは腹をこすりつけてきた。二人のふとももが甘くこすれあった。

 ホテルに部屋をとって待つぞ。以前の柚木なら口走ったところである。いまはそうはいかない。午前二時すぎまであゆみは店をあけていることが多いからだ。

 柚木はタクシーに乗った。ほっと息をついた。キスの余韻が残っている。半面、口のなかに苦々《にがにが》しい思いがあふれていた。たしかに柚木は嫉妬していた。関口とあゆみが仲よく話しているのを見て、いたたまれなくなったのだ。考えてみると、関口があゆみの後援者になってから、以前よりも柚木はあゆみの体に執着するようになっていた。くだらない女だと思いながら、週に一度は顔を見ずにいられなかった。しかも、それをあゆみに見ぬかれていた。関口はどうなのだろう。やはり見ぬいているのだろうか。柚木のことを二人で笑いものにしているのかもしれない。考えると、柚木は口の苦みが倍になった。

 街の灯に柚木は目をやった。律子のことを想った。きょうも律子は電話をくれた。今夜、後援している室内楽オーケストラの演奏会へいくのだといっていた。柚木さんといっしょだったらなあ。子供みたいに愚痴《ぐち》っていた。律子の笑顔が脳裡にうかんだ。ゆっくりと胸のうちが澄んでくる。高校時代そのままの恋心がこみあげてきた。律子がいるのに、あゆみのような小娘といつまでも手を切れずにいる。自分で考えていたよりも、柚木はずっとだらしのない男のようだった。

「いいかげんにしろよな。いいかげんに」

 柚木はつぶやいた。

 運転手がふりむいて、なにをいったのかと訊いた。柚木は手を横にふってみせた。

 金曜日の夜、柚木はめずらしく夕刻に帰宅した。妻や子供たちといっしょに食事をとった。教則本を見ながら、たどたどしくオーボエを吹き鳴らした。終って、居間に横たわってテレビを見た。心身ともに平穏にひたった。すると、明日のあゆみとの待ちあわせの約束が億劫《おつくう》でたまらなくなった。休日の安息のほうがずっと貴重に思われた。

 妻が入浴している隙に、柚木は「いるか」へ電話をいれた。約束のキャンセルをあゆみに告げた。どうしても外《はず》せない用事が家にできたといいわけした。

「あ、そうですか。はい、わかりました」

 気取った、あっさりした返事だった。

 それだけで電話を切った。あしらわれたようで、柚木は苦笑いした。わずかながら会心の思いもあった。

 八月に入った。ひどく多忙だったので、柚木はしばらく、アスレチッククラブへ顔を出さずにいた。汗を流したあと、あゆみの店で休みたくなるのを警戒する意味もあった。接待などでたびたび北新地へは出ている。あゆみの店へは寄らないようにした。一人相撲で意地を張っていた。妬いている、といわれたことにこだわりがあった。

 しびれを切らせたように、あゆみから会社へ電話が入った。話したいことがある。すぐ近くへきているから、お茶をつきあってほしいという。ちょうどティータイムだった。近くのビルの地下にある喫茶店を柚木は指定した。あゆみのほうから連絡してきたことに、子供っぽい満足感があった。

 すこし間《ま》をもたせて、柚木は喫茶店へ入った。あゆみと向かいあって腰をおろした。あゆみは胸を大きくVの字にひらいたノースリーブの服をきている。日焼けした肩や腕、胸もとがこれ見よがしにむきだしである。柚木はまぶしげな目になったようだ。

「焼けたでしょ。ゴルフ焼けやねん」

 あゆみは自分の腕を見おろした。文字盤に漫画の入った腕時計をしている。

 店の様子を柚木は訊いた。まあまあの成績だという。その話には乗り気でないようだ。

「私、お盆に一週間ほど店しめて、パリへいってこよう思うねん」

 あゆみは切り出した。以前つとめていた店の女の子と二人で出かける予定だという。

 団体旅行は拘束が多くてつまらない。個人でいきたい。ついてはどこか親切な旅行代理店を紹介してほしい。正面から申し込んでも親身になって世話をしてくれないだろう。柚木に顔をきかせてもらうつもりであゆみはやってきたのだ。

「それは、会社に出入りしている代理店はあるが——。でも、いいのか。呑気《のんき》に旅行なんかしている場合なのか」

「お盆ってどうせ夏枯れやもん。きょうびパリぐらい知らんことには、お客さんと話もできないから。この機会にいってくるわ」

「パリははじめてなんだろう。団体でいけばよいのに。費用もそのほうが安い」

「団体はハワイへいって懲《こ》りたの。食事も好きなものたべられへんし、時間の拘束は多いし。海外旅行は自由やないとアカンわ」

「ことばは大丈夫なのか。かたことの英語ではどうにもならないぞ」

「困ったらガイドをやとうわ。日航ホテルのそばに留学生くずれみたいなのがたくさんいるらしいの。大丈夫。私かてもう西も東もわからん女の子とちがうんやから」

 あゆみは小鼻をふくらませた。止めさせなければならない理由は柚木にはなかった。

 洋酒店主の関口になぜたのまないのか、柚木は訊いてみた。あゆみは顔をしかめた。関口は反対するにきまっている。出発直前までなにも話さずにおくつもりだという。

 代理店の紹介を柚木はひきうけた。それで話は終った。二人は立って喫茶店を出た。裏通りに白いソアラが停めてある。

「今晩店へきて。久しぶりやないの」

「そうだな。早く店をしめるならいってもいい。ホテルを予約していくよ」

 柚木はいわずにいられなかった。あゆみの肌が陽にかがやいている。

「あかんねん。いま生理。きのうはじまったばっかりやねん」

 あゆみは車に乗った。さそったのを後悔して、柚木は会社へもどった。

 三日後の金曜日。午後からはじまった会議が夜の十時までつづいた。問題になっている新製品についての、工場との連絡会議だった。約二十名が出席した。

 柚木の担当する事業部の新製品の開発がいま一歩はかどらない。営業は製造に、製造は営業に成績不振の責任をおしつけあって会議は紛糾《ふんきゆう》した。開発が壁にぶつかると、関係者は逃げ腰になり、問題の解決よりも保身に知恵をしぼるようになる。柚木は出席者を叱りつけて、一つ一つの問題点を基本から再検討していった。すべて片づいたときは、出席者はあぶらの浮いた、むくんだ顔になっていた。

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