一同をつれて柚木は会社の近くのラウンジバーへ入った。ビールで慰労会をやった。終って帰途についた。風呂へ入って眠りたい。それだけが頭にあった。
家へ着くと、午前一時すぎだった。大学三年生の長女も、高校二年生の長男ももう眠っていた。妻の菊枝が居間でブランデーを飲んでいる。迎えには出てこない。
「まだ起きていたのか。寝ていればよかったのに」
服をぬぎながら柚木は声をかけた。
「寝たくても寝られないわ。変な電話がかかってきて。何度もよ。どういうことなの」
電話機を菊枝はあごで指した。目がすわっている。座敷机に肘《ひじ》をついて体をささえていた。どういうことなのよう。やや声を高くして、菊枝はくりかえした。
午後十一時ごろ、女の声で電話が入った。菊枝が名前を訊くと、ご主人の仕事関係の者ですと相手は答えた。柚木に急用だという。まだ帰宅していないときいて、相手は疑わしそうな声を出した。以後、三十分おきにベルが鳴った。午前一時にもかかってきた。非常識を菊枝は叱りつけたところだった。
「仕事関係の者。なんだそれは——」
柚木は顔をしかめ、舌打ちした。
そんなバカな返事をするのはあゆみにきまっている。どうせ旅行代理店からまだ連絡がないという程度の用件だろう。泥酔して、分別をなくしているのだ。
「もう私うんざり。あなたに女がいるのはわかっていたわ。みっともないところを子供に見せられないと思って我慢してきたのよ。もうだめ。これ以上耐えられない」
「なにをいうんだ。疲れてかえったのに、つまらん話をするな」
「浮気するにしても、もっと相手をえらんだらどう。なによあの女。教養のかけらもない話しかた。こっちが情なくなるわ」
「どこかのバーの女が酔っぱらって電話してきたんだろう。考えすぎだよ。相手にしなくていい。電話機を布団でくるんでおけ」
柚木は浴室へいった。泥沼のなかへひきずりこまれた気分だった。
湯につかった。律子のことを考えようとしてみる。ふしぎにイメージが湧かない。少年のような恋心もこみあげてこない。家庭にいると、人格が変ってしまうようだ。
柚木は居間へもどった。電話機はそのままだった。ため息をついて、柚木はビールを飲みはじめた。明るみに出たのがあゆみのほうだったことで、わずかに救われていた。より大切なほうはまだ闇に隠れている。
「重役になったとたんに浮かれるんだから。あなたって軽い人なのよね。課長になったときも、よろこんで女をつくって」
「もう寝ろ。そんな話はききたくもない」
「電話がかかってきたら寝るわ。あなたがどんな顔でお話しするか、見せてもらいます。仕事関係の女とね」
耐える以外、柚木には道がなかった。夕刊に目を通しながら飲んだ。
電話のベルが鳴った。柚木は受話器をとった。あゆみの声がきこえた。何度も呼びだしたことの詫びをいった。
いま店にいるのか。柚木は訊いた。菊枝にきかせるための質問だった。
「店は休みにしたの。いま家にいる」
「休みにした。どうして」
「サトルのやつが、サトルのやつが逃げよってん。店のお酒ぜんぶ売って。集金したお金ももって——」
「なんだって。サトルが逃げた」
サトルはあゆみの店のバーテンダーである。三十歳前後のギャンブル好きの男だ。
きょう七時にあゆみは店へ入った。一足さきに出勤した手伝いの女の子が茫然としていた。仕入れておいた洋酒が、客のボトルをふくめてぜんぶ消えていた。今月ぶんの仕入れをすませた直後である。調べてわかったことだが、今月サトルは高級な酒を大量に仕入れていた。叩き売っても五、六十万にはなる。
あゆみは足がふるえた。この種の事故の話を他人からきいたおぼえがある。同じ北新地にある、ふだん取引のない酒店へつぎつぎに問いあわせてみた。三店から二十万円ずつ、サトルはきょう仕入れをしていた。この二、三日、内緒でツケを回収してもいたらしい。被害はどれだけになるか見当もつかない。あゆみは休業せざるを得なくなった。
「関口のおやじに相談すればいいじゃないか。酒を入れてくれるだろう」
「あかんねん。店をしめるっていわれてしもた。先月、先々月と赤字やったし。仕入れのお金もたまってたから」
あゆみの経営能力に関口は愛想をつかせたらしい。あゆみの体に倦《あ》きもしたのだろう。
リース会社と契約を解除する。保証金五百万円のうち、四百万円程度を関口は回収できるはずである。被害をうけた金と仕入れ代金の未払いぶんは、あゆみが工面して清算しなければならない。サトルは知人の紹介であゆみがやとった男だった。すべての責任はあゆみがかぶることになる。
「関口のおやじが助けてくれるだろう。なんといってもきみの旦那なんだからな」
「私、どないしよう。店がなくなってしもた。柚木さん、たすけて。私、柚木さんしか頼れる人がないの」
「事情はわかった。日をあらためて相談しよう。きょうはおそいから、切るぞ」
柚木は受話機をおいた。あゆみを気の毒に思うよりも、事務的な会話に終始したことにほっとしていた。これなら菊枝の追及をかわせるかもしれない。
「おききのとおりさ。バーの女が身の上相談をしてきただけだよ」
菊枝に柚木は話しかけた。心もち菊枝の表情がやわらかになっている。
「ロマンチックなことですわね。真夜中の身の上相談だなんて」
ゆっくりと菊枝は立ちあがった。よろめきながら寝室へ入っていった。
3
五日たってもあゆみから連絡はなかった。マンションへ電話しても応答がない。
金策に田舎へかえったのだろうか。債権者から逃れて、身を隠したのかもしれない。清算の当てはあるのだろうか。
何度も苦い思いをさせられた女だった。だが、奈落の底へ彼女が突き落されたいまは、哀れと思わぬわけにいかなかった。なんといっても二年あまり体の関係がつづいたのだ。あゆみを抱いたときの感触が、わすれがたく柚木の記憶に残っている。あゆみの肌の細胞の一部が溶けて、柚木の皮膚の細胞の隙間へ流れこんだ感じがあった。
できるだけのことはしてやりたい。そのための経済的な用意もひそかにととのえた。あゆみから電話があれば、明るい声でこたえてやるつもりだった。
柚木は夜、あゆみの店をたずねてみた。「いるか」とはちがう標識が出ていた。開店祝いの花束がおいてある。扉をあけると、見知らぬ女たちが胡散《うさん》くさそうに柚木を見た。きょう開店したばかりだという。おそろしく手ぎわよくあゆみの生甲斐は消え去っていた。
あゆみよりもさきに律子から電話がきた。律子の声がピアノの音にきこえた。ことばの一つ一つが、ピアノの一音一音のようになつかしく柚木の胸にひびいた。それだけあゆみの事件をもてあましていたのだ。
「クルーザーの免許をとったの。三級だけど。最近、横浜の練習場に日参してたのよ」
実行力をまた律子は発揮したのだ。
こんどの土曜日、浜松でお会いしましょう。ご都合はいかがかしら。律子は気を逸《はや》らせていた。息づかいが伝わってくる。
「土曜日ですか。ちょっと待って」
柚木は日程をしらべるふりで間《ま》をとった。
菊枝が毎日酒にひたっている。以前から柚木の帰宅がおそい夜は飲んでいたらしいが、あゆみの電話になやまされて以後は、昼間から飲むようになった。朝、柚木の着る物を用意したり、夜食をつくったりしなくなった。ほとんど口をきかない。柚木がおそくかえると、酒くさい息を吐いて寝ている。子供たちは父母双方に冷たい目を向けはじめた。こんな時期に家をあけてよいものかどうか思案せざるを得なかったのだ。
逢わずにはいられなかった。律子のもとへ逃げだす、という気持である。
「わかりました。都合をつけます。でも、舟はあるの?」
「とりあえずレンタルで。なんだったら、買ってしまおうかしら。マリーナはメーカーが世話してくれるようだから」
「待ちなさい。衝動買いには高価すぎる買物だよ。年に幾度も乗るチャンスがあるわけではないんだから」
いそいで柚木は制止した。クルーザーは一千万円ぐらいするはずである。
前回と同様、土曜日の正午に浜松で落ちあうことにきめた。金曜の午後、柚木は名古屋へ出張する予定を立てた。電話のあと、柚木は現金に仕事がはかどった。
追いかけるように、銀行の支店長をしている友人から電話が入った。学生時代から親しくしている男である。
「このまえ、例の“いるか”へいったぞ。おまえの顔を立てようと思ってな」
歪《ゆが》んだ笑い声を支店長は立てた。
柚木はその男を二度あゆみの店へつれていった。あゆみとの仲は伏せておいた。
「いるか」は、つぶれたぞ。もう一週間以上になる。柚木は教えてやった。支店長はおどろいて声をあげた。
「つぶれた——。じゃ、この請求書は何なんだ。取立屋がよこしたのか」
七月の下旬に支店長は部下一人をつれてあゆみの店へいった。きょうその請求書が送られてきた。金額は十万を越えていた。高価なボトルをとったわけではない。あの店の格からいって、べらぼうな金額である。
計算ミスかと思って、請求書にある番号へ電話してみた。男が電話をうけて、それが相場だと横柄にこたえた。
「取立屋かもしれないな。申しわけないことになった。すぐに交渉してみるよ。支払いはしないでくれ」
「水商売に公定価格はないからな。払わざるを得ないだろう。しかし不愉快だ。いちおうおまえの耳にいれておこうと思ってな」
律子と話した倖《しあわ》せな気持が吹っとんだ。詫びをいって柚木は受話器をおいた。
部下の課長の一人を柚木は呼んだ。何度かいっしょに「いるか」へいったことのある男である。自分たちだけであの店を使ったことがあるか。柚木は訊いてみた。先月二度いったという。法外な請求書がきているらしい。遠慮して彼はいいそびれていたのだ。
請求書をもってこさせた。二十万近い金額だった。ほかに二人の課長が同じような目に遭っていた。課長たちから柚木は請求書をあずかる羽目になった。柚木自身は、あゆみの店にはいつも現金かカードで支払っている。あゆみの資金繰りを案じてしたことが、小さな儲《もう》け物《もの》になった。
取引先の男も七、八名「いるか」に紹介している。一人ずつ電話で様子を訊いた。四人から苦情をいわれた。まだ被害者は出てくるだろう。柚木は肩を落した。復讐された、という気持になる。中年男が若い女とつきあうのは、根本的に罪悪なのかもしれない。
取立屋へ柚木は電話をいれた。出資者である関口から「いるか」の債権を買いとった。未収金を完全に回収しないとこっちが赤字になるといういい草だった。値引を交渉したが、埒《らち》があかない。取立屋は凄みをきかせた。法廷で結着をつけよう。柚木は申し出た。相手はおとなしくなった。
「近いうち会社へうかがいます。ゆっくり話をさしてもらいますワ」
相手は電話を切った。よけいな仕事が増えた。柚木は苦り切った。
金曜日の朝十時ごろ取立屋の二人の男がやってきた。名古屋への出張をひかえて、目のまわる多忙な時刻だった。役員応接室で柚木は男たちに会った。その部屋はどんなに大声を出しても、社員たちの耳にはとどかない場所にある。気が立っていたので、柚木は最初から喧嘩腰で男たちに対した。
結果的にはそれが功を奏した。柚木が紹介した客への請求額を半額にすることで話がついた。念書を書いてサインさせる。とりあえず三十万円の小切手を書いてわたした。人相のわるい男に会社へこられても、上司に気をつかわずに済むポストにいることがしみじみありがたかった。取立屋にとっては、それが当《あ》て外《はず》れだったらしい。
予定どおり午後、柚木は名古屋へ発《た》った。夜おそくまで働いた。ホテルの部屋のテレビで見た天気予報は雨だった。運勢が下り坂なのかもしれない。予報が外れることを祈りながら眠りについた。
午前九時に柚木は目をさました。すぐに窓のカーテンをひらいて外を見た。黒っぽく濡れた鋪道《ほどう》に雨足がはじけている。かなり強く降っていた。木々の繁《しげ》みがうなだれ、ゆききする車のタイヤの音が伝わってくる。
柚木は舌打ちした。雨の場合はどうするかを律子と打合せていなかった。約束したとき、晴れた日の湖の風景しか二人の念頭になかった。正午の待ちあわせだから、律子はもう家を出ているだろう。電話で相談するわけにもいかない。
柚木はまたベッドにもどった。十時半にホテルを出れば、約束の時間に充分間にあう。もう一眠りするつもりだった。うまくいかなかった。仕事のことや家のことを考えてしまう。ビールを飲めば眠れるのだが、どうせきょうは深酒になる。朝から肝臓に負担をかけたくなかった。
オーボエの練習をする気になった。おととい律子から電話で、楽器を持参するよういわれている。合奏したいという。度胸をきめて楽器をもってきた。いそがしくて土曜日曜しかまともに練習できずにいる。それでも童謡ぐらいなら鳴らせるようになった。
楽器の用意をした。吹いてみると、身をちぢめたくなるほど大きな音が出た。ホテルから苦情をいわれるかもしれない。制止されるまでつづけることにした。律子と合奏するまでに、すこしでもうまくなっておきたい。きちんと練習しているかどうかで、律子に誠意を測られそうな気がする。
教則本をひらいて練習をはじめた。思いきり息を吸っては吹いた。たどたどしく曲が流れはじめた。注意力を音符に集中しなければならないから、すぐに夢中になる。懸命に息を吸い、指をつかった。音の汚れ、リズムの乱れなど気にしていられない。自分の手の楽器から曲りなりにも音が出るよろこびで、頭がしびれてくる。かんたんな練習曲をくりかえした。となり近所が空室だったらしい。ホテルからの苦情はなかった。
一時間近く練習した。全身が汗まみれだった。シャワーをあび、身支度をした。演奏のおかげで内臓が活気づき、生き生きした気分になっている。厄介事だらけの現実からようやく逃げだした、と柚木は思った。
正午に柚木は浜松へ着いた。雨は降りつづけている。改札口のまえに律子が立っていた。ビニールの重い買物袋を、柚木は彼女の手から奪いとった。
「あ、楽器もってきたのね。いいわ。湖がだめでも、これでいくらでもあそべる」
柚木の手から楽器ケースを律子が奪った。腕を組んで二人は歩きだした。
東京を発つとき雨は降っていなかったという。浜松で律子が買った傘に、いっしょに入った。駅の近くのレストランでかるく食事をとる。雨でタクシーがすくないので、レンタカーで湖畔の隠れ家へ向かった。
湖には靄《もや》がおりていた。ふだんのはんぶんも眺望がきかない。波は高かった。水際が遠くまで白波で縁どられている。モーターボートもヨットも目につかなかった。海苔《のり》舟《ぶね》が岸近くに十隻ばかり浮かんでいる。防水服をきた男が一人ずつ舟に立って、雨に打たれながら作業をつづけていた。
「雨もわるくないな。風情《ふぜい》がある。きみといっしょのせいかもしれないけど」
ハンドルを柚木は握っていた。道路と湖を交互に見た。
「雨のほうが私たちには似合うみたいね。お天気がいいと、浜はまぶしすぎる。若い人たちでいっぱいで」
「この雨ではクルーザーは無理だな。せっかく乗せてもらおうと思ったのに」
「夕方には雨はやむって天気予報がいってたわ。わるくても明日は晴れよ。午前中、思いきり乗ってから、ひきあげましょう」
柚木はあいまいにうなずいた。
きょう中に家へかえりたいのが本心である。二日つづけて家を空けると、菊枝がまた苛立《いらだ》つだろう。しかもきょうは土曜である。仕事だという口実が通用しにくい。
隠れ家へ着いた。部屋へおちついた。管理人にたのんでおいたので、掃除はできている。用意のふだん着に二人は着替えた。
缶ビールを一本ずつ飲んだ。あとはすることがなかった。この雨ではドライブに出ても仕方がない。絨毯《じゆうたん》に二人は寝そべった。
「いい休養になるじゃないの。柚木さん、一眠りなさいよ。私、本を読むから」
律子はキスしにきた。二人は抱きあった。そのままじっとしていた。
二人とも欲望をおさえた。いま発散してしまうと、あとの空白を埋めるのがむずかしくなる。暗黙のうちに合意ができていた。
柚木はうとうとした。三十分もたたないうちに目がさめた。肌さむかった。体がこわばっている。あくびをして起きあがった。
座布団にオーボエがおいてあった。ケースから出して一本につないである。テーブルのうえのグラスの水のなかに、すぐ使えるよう竹製のリードが浸《ひた》してあった。
「起きたの。ではレッスンしましょう。おとなりはお留守みたい。遠慮しないで、思いきり音が出せるわ」
ノートを律子はさしだした。
楽譜だった。鉛筆で音符が書いてある。最初の曲は「きらきら星よ」だった。「ゾウさん」「鳩ポッポ」「お馬の親子」「玩具のマーチ」などが列《なら》んでいる。柚木のために律子が書き写してくれた。最後は「サイレントナイト」になっている。クリスマスに合奏しようと約束した曲だった。
「幼稚園だな、これでは」
「当然よ。まだ習いはじめて半年なんだから。でも、伴奏つきで吹いてみると、案外うまくきこえるものよ」
跳ねるように律子はピアノのまえへ腰をおろした。かるく指馴らしをする。
柚木はオーボエにリードを装着した。手にもってリードを咥《くわ》えた。音を出してみる。聴衆のまえに立ったように緊張していた。他人に伴奏してもらうのは初めてである。
スコア・スタンドがないので、テーブルのうえに楽譜のノートをおいた。「きらきら星よ」を吹いてみた。二、三度つっかえたが、吹き終った。必要以上に力んだ。汗がにじみ出てくる。
「いけるいける。お上手よ。いそがしいのによく練習してくれましたね」
律子はピアノに向きなおった。
前奏を弾きはじめた。心臓がふるえるような、澄んだ音がひびきわたった。
柚木は吹きはじめた。全身の神経を張りつめて指をつかい、楽器に息を吹きこんだ。にごった音が流れはじめる。楽器のなかから黒煙がまっすぐ噴《ふ》きだしたような気がした。
「そう。いいですよ。そう」
律子が力づけてくれる。柚木は羞恥とためらいをわすれた。
ピアノの音の一つ一つが、金色の花びらのように舞いあがった。キラキラとそれらは舞って、黒煙の流れにまとわりついた。黒煙が澄んできた。花びらの舞いにかざり立てられて、まぎれもなくそれはオーボエの音に昇格した。キラキラする花びらは、部屋中にひろがった。オーボエの旋律にまとわりついたあと、それは宙に散ってゆくのだった。懸命に演奏をつづけながら、柚木は陶然となった。自分の体にも何十枚かの花びらが付着して、金色にかがやきはじめたのがわかる。
「はい。二番いきます。その調子で」
律子は間奏に入った。
息をととのえたあと、柚木は二番に入った。金色の花びらの乱舞のなかで、体が浮きあがるのを感じた。音楽がガスのかたまりのように体を浮きあがらせる。夢のなかのようだ。遠い星へのあこがれをこめて柚木は吹きつづけた。幼児になっていた。一度のミスもなく柚木は吹き終った。
ピアノ音が止った。金色の花びらは消えていった。律子が拍手してくれる。よろこびにあふれた笑顔である。柚木は茫然としていた。伴奏によってこれだけ音楽は変るものか。茫然としたまま汗をふいた。
「ありがとう。あまりに心地良くて、気が遠くなりそうだった。感激しました。生まれてはじめて音楽に参加できた」
「そう。参加したのよ。柚木さんは音楽の世界に足をふみいれたの。うたうのと聴くのはだれにでもできる。楽器をやることで、川を跳んで、こちらの世界へわたれるわけ」
「童貞をやぶったわけだな、おれは。セックスの初体験のときと感じが似ている」
「その発想は女にはないなあ。最初からそんなに恍惚《こうこつ》とできないもの」
笑って律子はオレンジジュースを飲んだ。
すぐにピアノへ向かいあった。「ゾウさん」の前奏が流れはじめる。緊張して柚木はオーボエをかまえた。
それから一時間あまり、金色の花びらの飛びかう世界に柚木はあった。酩酊《めいてい》し、揺れ、舞いあがった。バッハやモーツァルトの難曲を演奏している気持だった。技術の巧拙をぬきにして、柚木は律子と一つになった。つまり、こういう状態にあこがれていたのだと柚木は思った。高校時代の律子にたいするあこがれは、性のうえでも、感情のうえでも、こうして一体になりたい願望だったらしい。
くちびるが疲れて音が出にくくなった。休みましょう。律子が声をかけてきた。最後の「サイレントナイト」までは、ついに到達できなかった。
柚木は汗でシャツがずぶ濡れだった。シャワーをあびて着替えをした。雨は降りつづけている。夕刻に晴れるという期待は空しくなった。ビールを飲むことにした。
「いいわ。クルーザーなんかより、合奏するほうがずっと楽しい。私たち、このほうが似合うのよ。無理することはないんだ」
「生まれてはじめて尊敬できる先生に出会ったよ。美しい先生だ。この人のいうことなら、なんでもきけそうだよ」
律子を抱きしめてくちづけにいった。
柚木は律子の服をぬがせようとした。体を一つにしたい衝動にかられている。笑って律子は柚木の手から逃れた。バスルームへ彼女は消えた。服をぬいで柚木はベッドに横たわった。窓から湖畔の夕景色をながめる。家々に灯がともった。夕食のテーブルにつく妻子の姿が脳裡にうかんできそうになる。いそいで柚木はそれを頭の外へ追いやった。
律子がバスルームから出てきた。バスタオルを体に巻きつけている。うす暗くて楽譜が見えにくいので、部屋にはあかりがついていた。うしろ向きになって、律子は天井の蛍光灯のひもを引いた。
タオルの合せ目がひらいて律子の尻がみえた。ふくらみの下方に横じわがくっきり刻まれている。ふくらんだ部分もぜんたいにしぼんで、こまかなしわが寄っていた。ふとももの裏側もたるんでいる。弾力のない体であることが、見ただけで、わかった。
律子はベッドへやってきた。あかりは消えたが、夕闇はまだ濃くなかった。律子の肌に張りのないのがよくわかる。柚木は天井へ目を向けていた。
ベッドに律子は両ひざをつき、背すじをのばした。体からタオルを剥いだ。うすっぺらな乳房と、大きな乳首が柚木の目に入った。下腹の草むらが濃く映った。無理することはない——。さっきいったとおりの気分に律子はいるようだった。
柚木は律子を抱き寄せた。律子の姿が目に入るのを防ぎたかった。律子の体をさすってやる。すこしも弾《はず》まない。掌をとめると、律子の体に手形の窪《くぼ》みができそうな気がする。ダイエットなど止せばいいのに、と思う。口に出すわけにはいかない。
くちづけにいった。脚をからませあう。律子のふとももは厚みが足りなかった。両手で柚木は律子の体をなでつづける。律子の息づかいが苦しげになった。体を揺すりはじめる。柚木の肩へ歯を立ててきた。
柚木は律子の女をさぐりにいった。そこは若々しかった。律子は声をあげはじめる。しだいに反《そ》りかえった。指をつかううち、律子は呻《うめ》いて体をふるわせた。柚木の手首をつかんで、そっとひき離した。
律子の手がさぐりにくる。柚木のそこには力がなかった。欲望はあるのに、反応が起らない。柚木は起きて、律子とたがいちがいに体をかさねた。女の部分へ顔をふせてゆく。律子も口でうけとめた。いくぶん力が回復するのを柚木は意識した。
どちらが大量の快楽をあたえあうかの競争になった。技巧ははるかに柚木がすぐれている。まもなく律子は愛撫を中断して呻きはじめた。大きな声をあげる。二度つづけて律子はあばれた。虫の息になった。
つりこまれて柚木は力をとりもどした。体の向きを変えて律子に入っていこうとする。律子の乳房の下に、かすかに肋骨《ろつこつ》の浮いているのがみえたような気がした。律子の草むらは濃すぎる。彼は目をつぶった。
力が消えてしまった。柚木はならんで横になり、息をととのえた。
「合奏できみと一つになれたと思ったら、体が反乱を起した。うまくいかないもんだな」
律子の髪を柚木はなでた。
律子は起きあがった。柚木の両脚のあいだへうずくまった。奉仕をはじめる。しばらくして若さがもどってきた。律子は馬乗りになって受けいれにかかる。すこし手間どった。柚木はあせってきた。ようやく律子のなかへ入る。あっけなく柚木は終った。
「よかった。終ってくれたものね。安心したわ。私の一人相撲じゃなかった」
倒れこんできて律子はささやいた。
一休みしたあと、律子は台所に立った。たくさん料理をつくった。
良質のワインを味わった。快い虚脱感のなかで、酔いに身をまかせた。楽器の上達の心得をいくつか律子は話してくれた。思い出話や噂話もつきなかった。
柚木はみちたりた気分になりきれなかった。ときおり笑みが消えた。新幹線の大阪ゆき最終列車は二十時五十分浜松発である。東京ゆきはその一時間後のはずだった。
浜松駅までここから一時間かかる。家へかえるには、レンタカーを返す手間などを見て、七時半には出発しなければならない。もう七時すぎだった。かえろう、と切りだす勇気が柚木にはなかった。
夕食のまえに律子は化粧をした。幸福そうな笑顔が、柚木にはしだいに大きくみえてきた。七時半が近づくにつれて、笑顔は柚木の視界をふさいでしまうまでになった。柚木は伏目がちになった。腕時計に目がいきそうになるのを懸命にこらえた。
小さな翅虫《はむし》がワイングラスへ飛びこんだ。赤い液のなかでもがきはじめる。柚木は決心がついて顔をあげた。きょうはこれでおひらきにしよう。のどまで声が出かかった。
「ああいい気持。雨が降っても最高の夜だわ。ショパンを弾《ひ》きましょうか」
律子が立って窓をしめた。
ピアノのまえにすわって譜面をひらいた。そのうしろ姿に柚木はほとんど憎悪を感じた。翅虫が浮かんだままのワインを飲んだ。
律子が演奏をはじめた。美しい音で、たちまち柚木の内臓がふるえてくる。ため息をついて柚木は椅子に背中をあずけた。
4
「柚木さんの声をきくと泣いてしまうので手紙を書きます。いまQという店で働いています。恥ずかしい仕事ですが、借金を返すために三ヵ月がんばります。もし気が向いたらあそびにきてください」
小林あゆみの手紙が、会社へ舞いこんできた。八月末になっていた。
しばらく柚木はぼんやりしていた。あゆみの住所は滋賀県下のある温泉町になっていた。特殊浴場がそこにはあつまっている。
店を清算して、取立屋に借金ができたのだろう。関口洋酒店への仕入れ代金の未払分などもなかにふくまれたにちがいない。夜の世界の酷薄な仕組みをはじめて柚木は知らされた。
近いうち訪ねてみる気になった。だが、すぐには時間の工面がつかない。あゆみに会っても、経済的な援助ができるわけもなかった。めいわくをかけた人々の肩替りをして、五十万円ばかり柚木は取立屋に払っている。駈けつけてやれないことのいいわけは、十二分にあった。あゆみも取立屋の件を知っているから、助けを求められないのだろう。
怒りにまかせて、柚木は関口洋酒店へ電話をいれた。あゆみの境遇を知っているだろう、助けてやらないのか。詰問した。
「あゆみでっかいな。もうわし関係おまへんねん。あの子に店やらせたばっかりに、ごっつい損しましてな。あんさんにもなんかごめいわくがかかったんとちがいますか」
のれんに腕押しというやつだった。
柚木とはまったくちがう感性の男である。話合いにもなにもならない。
秋の決算に備えなければならない時期にきていた。残業がつづいた。オーボエの練習時間がなかなかとれない。菊枝の深酒はつづいている。最近は外出することが多いようだ。あゆみのことでときおり柚木にあてこすりをいった。帰宅がおそいのは仕事のせいだけではないときめこんでいる。黙殺する以外、柚木には対処の方法がなかった。
ある朝、出勤してすぐ柚木は社長室に呼びだされた。新製品の現状について説明をもとめられるのだろう。さいわい関係者一同の涙ぐましい努力が実りはじめていた。自信をもって柚木は社長室の扉をたたいた。
営業担当の専務が社長と向かいあって応接用のソファに腰かけていた。二人とも機嫌よく柚木に椅子をすすめた。新製品の成功について、こもごもに労をねぎらってくれる。
社長があらたまった口調になった。
「知ってのとおり、ニューヨークの伊沢くんが倒れた。心臓をやられている。どうやら再起不能らしいんだ」
柚木は緊張した。数日まえ、ニューヨーク支店長の伊沢常務が倒れたことはきいている。戦死だと同僚たちは噂していた。
「後任人事の話なんだ。きみ、いく気はないか。取締役になってまだ日が浅いから、いまのランクのまま横すべりになるが」
「それはご命令でしょうか。私のほうにも選択の余地のあるお話ですか」
柚木は声をおさえるのに苦労した。
家庭のこと、律子のこと、あゆみのことが頭のなかを駈けめぐった。
「命令ではないのや。あくまできみの意志を尊重すると社長はいうておられる。ことわってもきみのマイナスにはならんぞ」
「専務がきみを放したがらんのだよ。本社の営業にきみが必要な男であることはわかる。しかし、アメリカの拠点も大事だ。向うとの関係がむずかしい時期だけにな」
専務と社長がこもごもに説明した。
柚木は意欲が体にあふれてきた。ニューヨーク支店長はこの会社では格別に栄光あるポストではない。だが、実績をあげれば、一気に頂上へ近づくことができる。
「家族とも相談してみます。あしたご返事申しあげたいと思いますが——」
柚木は社長をみつめた。即答するのは安っぽい。ひそかに計算した。
社長は了承してくれた。柚木は社長室を出た。律子ともう会えなくなる。はじめて悲哀がこみあげてきた。どんなに律子はがっかりするだろうか。
柚木は自宅へ電話をいれた。大事な話がある。家族そろって夕食をとる用意をしておくように。菊枝にいいわたした。
「いわれなくても、みんな夕食にはかえってきます。こないのはあなただけですよ」
菊枝はこたえた。まだ酔っていなかった。
夕刻、柚木は自宅へ帰った。食事しながらニューヨークゆきの話をした。
「お母さんと二人で赴任したい。裕子と進には協力して家をまもってほしいんだ。これがおれの希望だが、みんなの意見をききたい」
「私もいくの。いやあ。ニューヨークって恐いところなんでしょう。心細いわ」
いちおう菊枝は苦情をいった。
顔に赤みがさしている。もう菊枝は深酒をしなくて済むはずである。
「進のめんどうを私が見るの。まいったなあ。何年いってるの、二年ぐらい」
「夏休みにあそびにいってもいいのやろ。おれ、賛成。塾にはきちんといくから、お母さん、心配しなくていいよ」
話がまとまった。暗い家庭から解放されるのを子供たちは歓迎していた。
前任者の休職が急だっただけ、赴任もいそがなければならなかった。二週間後に柚木はとりあえず単身で出発することにきめた。これまでにも増して毎日があわただしくなる。一時間刻みで柚木は動きまわった。
律子に事情を話さなければならない。だが、電話するのが苦痛だった。向うから電話が入るのを待つことにした。以前ほど頻繁ではなくなったが、週に一度か二度は彼女から電話してくる習慣である。
京都の得意先へ挨拶まわりにいった。夕刻にすべての予定を済ませた。柚木は同行した社員と車を大阪へかえした。タクシーであゆみの働いている温泉町へ出かけていった。
Qという特殊浴場はすぐに見つかった。駐車場のすみに白いソアラが停まっていた。予感がして、柚木はナンバープレートを見にいった。あゆみの車だった。車を手離すほどは困窮していないようだ。拍子ぬけをおぼえながら、柚木は特殊浴場へ入った。
めぐみという名であゆみは働いていた。待合室にいるあいだ、柚木は胸がときめいた。まさか訪ねてくるとは思っていないだろう。あゆみのおどろく顔が見たかった。
受付番号を呼ばれて、柚木は浴場の出入口のほうへいった。あゆみが迎えに出ていた。水着をきて、肩をタオルで覆っている。柚木を見て、笑って頭をさげた。「いるか」で柚木を迎えた態度と変りはなかった。
「元気そうだな。陣中見舞にきたぞ」
廊下を歩きながら柚木は話しかけた。
「ありがとう。柚木さんはきてくれると思うてたわ。カンが当った」
ふりむいてあゆみはこたえた。さっきより明るい笑いをみせた。
二人は個室へ入った。柚木の服をぬがせてから、あゆみは裸になった。日に何度も入浴して脂がぬけるせいか、肌に艶がなくなっている。体の線も少しゆるんだようだ。美しい体であることに変りはなかった。
柚木は湯につかった。あゆみに近況を訊いた。月に二百万円近い収入になる。三ヵ月で借金を返済できるはずだと彼女はいった。
「身軽になってからはどうするんだ。北新地へ復帰するのか」
「田舎へかえるわ。もう大阪はこりごり。田舎で猫をかぶってお嫁にいくねん。そのほうが固いと思うわ」
柚木は気がらくになった。あゆみの境遇について、やはり責任を感じていた。
柚木は浴槽から出た。あゆみに体を洗ってもらう。あゆみはうしろにまわった。
「けど、ここで二年ほどがんばってみよかとも思うねん。一財産できるやろ。田舎で商売ができる。いま迷ってるとこなの」
「すぐかえるほうがいいよ。あゆみは案外いいお嫁さんになるかもしれない」
「もし、がんばるようになったら応援してね。月二回ぐらいでいいし」
「それができないんだ。転勤でね。アメリカへいくことになった」
柚木は事情を話した。
「なんや。いってしまうの。そうやろね。サラリーマンはみんな転勤するわ」
柚木の体にあゆみは湯をかけた。
投げやりな手つきだった。さほど傷ついた様子はない。にぶい感じの女になった。この商売ではそうならざるを得ないのだろう。