マットに横たわって柚木はあゆみの奉仕をうけた。すみずみまであゆみはさらけだした。柚木は体に力がみなぎってこない。あゆみの体を尊いものに感じなくなった。律子のときとちがって焦燥はなかった。反対に満足していた。未練がなくなった。
「柚木さん、疲れてるのやわ。働きすぎとちがうの。こんな人ほかにおれへんよ」
あゆみはさじを投げた。うなずいて柚木は起きあがった。
別れぎわ柚木は三十万円の小切手にサインしてあゆみに手わたした。
「高額所得者にははした金だろうけど、これで精一杯なんだ。おれの気持だよ」
あゆみは無表情に小切手をみつめた。
すみません。いろいろごめいわくかけて。蚊の鳴くような声でつぶやいた。
翌日、律子から電話が入った。柚木は交換手にたのんで応接室に電話をまわしてもらった。しずかな部屋で話したかった。
つぎの土曜日——。いいかける律子を制止して柚木は転勤のことを告げた。連絡がおくれたわけも説明した。
しばらく律子はだまっていた。柚木は受話器を耳におしあてて沈黙に耐えた。
「そうなの。いってしまうの。男の人の愛はつねにビジネスの敵ではないのね」
律子の声はかすれていた。目まいがしてきたわ。彼女はつけ加えた。
来週の土曜日に発つ予定だ。東京に寄って成田で飛行機に乗る。万障くりあわせて会ってほしい。柚木は申しいれた。また律子はだまりこんだ。
「一時にOホテルで会おう。飛行機は夜十時発なんだ。二人で送別パーティをやろう」
「私、いかないわ。さびしすぎるもの。どうにもならなくなる。あなたを殺したくなる」
「そういうなよ。逢わずには出発できないよ。たのむ。笑って送りだしてくれ」
「いやです。私、もうお会いしません。耐えられないもの。頭が変になる」
律子は電話を切った。しばらく柚木は腰をあげる気にならなかった。
気をとりなおして柚木は席にもどった。まさかこのままではあるまい。律子は一時の感情に走っただけだ。自分にいいきかせた。書類をひらいて、強引に目を通した。
電話が鳴った。つねになく柚木は心臓がふるえた。受話器をとると、律子だった。
「さっきはごめんなさい。取乱してしまって。来週の土曜日、Oホテルで一時ですね。なにがあってもうかがいます」
律子の声は明るかった。
殺さないでほしい。柚木は軽口を叩いた。
「お別れの原因が転勤で良かった、と気がついたの。仕方のないことですものね。倦《あ》きられたのだったら、私、耐えられない」
「倦きるわけがないよ。きみの伴奏でモーツァルトを吹けるようになる気なのに」
「でも、このあいだ浜松で家にかえりたがっていたでしょう。わかっていたのよ。ショパンを弾《ひ》いていじわるしてやったんだ」
「あれはちがうよ。家庭がちょっと危機的な状況にあって——」
「いいの。私も当分家庭的になるわ。浮気亭主がかえってくるの。半年は日本にいるといっている。女と別れたらしいわ」
「それはよかった。ほっとしたよ。浮気亭主をやさしく迎えてあげなさい」
挨拶をかわして電話を終えた。律子の弾くピアノの音が消えたような気がする。浮気亭主云々の話が律子の贈り物であることは察していた。
出発の日になった。午前十一時の飛行機で柚木は大阪を発った。菊枝と子供たちが空港へ見送りにきた。裕子が柚木の頬にお別れのキスをした。進のほうは目を赤くして、裕子にからかわれていた。
羽田からタクシーで柚木はOホテルへ向かった。不安にかられていた。ホテルを予約するのをわすれていたのだ。飛行機が離陸してからそのことに気づいた。極度に多忙になると、個人的な用件を気にしながらわすれるという状態に柚木はおちいる。
Oホテルのロビーに律子が立っていた。淡いブルーの着物姿だった。思ったとおり、土曜日のホテルは混みあっている。フロントテーブルに訊いたが、空室はなかった。
とりあえずレストランへ入った。食事を注文したあと、柚木は電話をかけに立った。ほうぼうのホテルへ当ってみる。どこも満室である。顔をしかめて席にもどった。
「ひどいドジをやってしまった。若者用のホテルへいくより仕方がないな」
「私はどこでもいいのよ。むかしは若者の一人だったんだから」
食事のあいだ柚木は欲望にかられていた。律子の体が意識されて仕方なかった。
情事のまえは食事が上の空になるのがふつうである。たべながら性を意識できたのは、何十年もむかしのことだった。別れのせいなのだろう。せっぱつまっている。日本へかえったらまた逢うつもりだが、何年さきになるか見当もつかない。おたがいの気持が変らない保証もなかった。
食事が終った。二人はタクシーに乗った。御徒町《おかちまち》と柚木は運転手に告げた。学生時代、柚木は池之端《いけのはた》に下宿したことがある。付近に品のわるいホテルが何軒かあった。
車のなかで律子はそっとノートを手わたした。楽譜だった。「サイレントナイト」につづいて三十曲が書きだしてある。最後の曲は「嘆きのセレナーデ」だった。
不忍《しのばずの》池《いけ》のそばでその種のホテルが目についた。近くで車をおりた。身を寄せあってホテルへたどりついた。満室だった。
歩いてつぎのホテルをさがした。残暑がきびしかった。和服の律子は歩きにくそうだ。何度もハンカチで汗をふいた。池の水が、学生時代そのままに匂った。
「済まないな。こんな思いをさせて」
「いいえ。若いころを思いだすわ。安ホテルをさがしてうろついたことがある」
「ききずてならないな。どこの男と」
「主人と、といっても白々しいだけね。柚木さん。焼餅をやいてください」
ようやくつぎのホテルにめぐり会った。
部屋があった。柚木は律子の背中に腕をまわして、赤絨毯《じゆうたん》の廊下を歩いた。二階の部屋へ入って料金を支払った。
貧弱な部屋である。ベッドと合成樹脂貼りのテーブル、テレビがひしめいて、ろくに身動きできないほどだった。粗末な鏡台と箪笥《たんす》がある。性具のパンフレットと石臼のような灰皿がテーブルにおいてあった。まっさきに柚木はカーテンをひいて陽光をしめ出した。
もどかしく二人は抱きあった。くちびるをあわせ、手でさぐりあった。心と体の双方を律子はたかぶらせている。恥ずかしがっている余裕はなかった。キスをやめると、あえぎながら帯をときはじめる。
柚木は手伝って律子の帯をといた。律子が下着姿になってから、浴室へ入った。シャワーはない。浴槽は古びて小さかった。湯の蛇口をひねって柚木は浴槽のなかにすわった。たちまち湯は柚木の腰をひたしはじめる。
律子を柚木は呼んだ。これまで二人で入浴したことがなかった。たがいに相手の視線を恐れていたのが嘘のようだ。ぜひとも律子の体を正視したい。欲望のおとろえない自信はある。すでに柚木は勃起《ぼつき》していた。
律子が浴室へ入ってきた。タオルをもっていない。すなおに全身をさらしていた。向かいあって湯につかった。柚木は律子を抱きしめて頬ずりする。中身のない袋のような乳房も、くろずんだ乳首も、かすかに肋骨《ろつこつ》の浮きでたわき腹も、目じりのしわもみんないとしく思われた。おとろえているからこそ、いとしかった。貧弱なホテルに似合っていた。これまでがおろかだった。自分を偽《いつわ》り、老いから逃げようとして躍起だった。もうこれが最後だと思うと、そんなことをしているひまもない。
「見てくれよ、この腹。ほとんど三段腹だろう。すわるとよくわかる。体操をしてもひっこまないんだ」
「私もこのおっぱい。笑いたくなるわ。それにダイエットしたら体じゅうしわだらけ」
「おたがい、年齢をとったなあ。よくがんばってきたというべきだろうな」
「柚木さん、きれいよ。素敵なんだから。私が太鼓判おしてあげる。信じて頂戴」
「きみはもっときれいだよ。直径一メートルの太鼓判をおそう。ドーンとおしてやる」
二人はたかぶってきた。あらためて力いっぱい抱きあった。何年かさきにモーツァルトを合奏しよう。約束をかわした。
二人は浴室から出てベッドに横たわった。天井と横の壁が鏡張りになっている。いやでも自分たちの姿を見なければならない。
「みっともないなあ。おれたちはみっともないよ。でも、おれは惚れているぞ」
「ねえ、見て。もう私、恥ずかしくないわ。脚のほうから思いきり見て。きたないでしょう私。これが私なのよ」
体がふるえてきた。律子の脚のほうから柚木は覗きこんだ。たしかに美しいとはいえない。だからいとしかった。その柚木を天井の鏡で律子はみつめている。律子の手が柚木の視線のさきにのびてきた。ゆっくりと指が動きはじめる。
柚木は獣になった。あえぎながら律子のふとももに抱きついた。しわに頬ずりする。自分も硬いものをさぐりはじめた。
冷房がきいていない。二人は汗まみれになった。部屋は深夜のようにしずかである。あえぎと呻《うめ》きが交錯する。律子と合奏したときのように、柚木は自分の体が浮きあがるのを感じた。あらゆるものから解き放たれた。
本作品は一九八九年一二月、小社より単行本として刊行され、一九九二年一二月、講談社文庫に収録されました。