第一章 昔馴染み第二章 性 夢第三章 春の断層第四章 熱い夜の祝祭 第一章 昔馴染《むかしなじ》み
1
南禅寺の近くにある古いホテルの玄関で、柚木克彦《ゆきかつひこ》は車をおりた。運転手に帰宅の許可をあたえて、ロビーへ入った。
午後七時だった。ロビーは混みあっている。家族づれが多い。外人観光客の団体も二組いた。浴衣《ゆかた》がけの男女が何組か、まんなかで立ち話している。女はともかく、浴衣の男はホテルでは間のぬけた顔にみえた。
カウンターで柚木は南部律子《なんぶりつこ》の部屋番号を教わった。館内電話で部屋を呼びだしてみる。すぐに律子の声がきこえた。
「とうとうきてしまったわ。大文字、一度見たいと思っていたから」
律子はふくみ笑いをした。いたずらの共犯者へ向けるような笑いだった。
「二階のバーで待っています。見物をさき、食事はあとということにしましょう」
周囲を見まわして柚木はいった。
木材の味わいを生かしたシックな造りのロビーである。照明は黄昏《たそがれ》のあかるさだった。年輪、格式、品位が身上のホテルだった。もう若くない男女が落合うには、ちょうどよい場所である。そう思って柚木は、今夜ここに部屋をとった。
だが、思ったより人が多い。照明も明るすぎるような気がする。とまどって柚木は二階の酒場を指定したのだ。新聞や雑誌の読めない、うす暗い店だった。
柚木は酒場へ入った。ここも混みあっている。大文字見物のまえに一杯やっている者が多いようだ。このホテルは洛北の山々の送り火を見物するのには好い場所だが、肝心の大文字が見えない。火がともれば、みんな鴨川あたりへ出てゆくはずである。
南部律子が酒場へ入ってきた。律子はいまの姓は大森である。だが、柚木は大森姓で彼女を呼ぶ気になれない。
律子は白っぽい和服をきていた。出入口に立って店内を見まわした。柚木は手をあげてみせる。ゆっくりと律子は近づいてきた。
会釈《えしやく》してから律子は向いあわせに腰をおろした。正面からほほえみかける。柚木は安堵《あんど》の息をついた。卵型の律子の顔は、薄闇に染まって細部がぼやけている。四十代後半の女にはみえなかった。
「ご苦労さま。何時に着きましたか」
「二時東京発のひかりに乗りました。ここへ着いたのは六時まえだったかな。スーツできたんだけど、着替えをしました」
「あなたは着物も似合うんですね。しとやかで色っぽい。見惚《みと》れてしまう」
「ありがとう。でも、とても京都の女性のようにいかないわ。緊張してしまいます」
二人はブランデーを飲んだ。
律子の着物の袖が揺れて、仄《ほの》かな化粧品の香りがただよう。グラスを口へもってゆく腕が白い。磨きぬかれた感じの腕である。
律子の夫は洋酒の輸入商である。年の三分の一は海外に出ている。東京の自由が丘に律子の家はあった。夫以外に家族は、大手商社へ勤務する息子がいるだけである。律子が旅行に出るのにあまり支障はなかった。
柚木と南部律子は東北のある高校の同窓生である。柚木のほうが一級上だった。
柚木はサッカー部員だった。律子はピアノを弾《ひ》いていた。
最近まで、おたがいの消息も知らずにすごしてきた。
この六月、柚木は高校の同窓会の東京支部から招待状をもらった。柚木は大学を出て以来、ずっと大阪で暮してきた。東京の同窓会に出たことはない。招待状がきたのは、柚木がこの春勤務先の化学会社で取締役にえらばれたためらしい。新聞の企業人事欄にそのことが紹介されたのである。
柚木は出席してみた。そこで南部律子とおよそ三十年ぶりに顔を合わせた。会が終ってから、ホテルの酒場で二人きりで話しこんだ。以来、会うのはこれで四度目である。
「京都で柚木さんと会っているなんて、同級生が知ったらなんというかしら。律子は堕落したっていわれるだろうな」
「ぼくはみんなに恨まれるな。あなたはマドンナだったから。あなたに近づく男が仲間うちから出るなんて、とんでもないことだ」
柚木はじっと律子をみつめた。期待どおりの変化が生じはじめていた。
若くはみえても、律子の顔にはやはり張りがなかった。頬に腫《は》れぼったい感じがある。指で圧《お》すと、ほんの一瞬だが、そこに窪《くぼ》みができそうだ。化粧をとれば、目じりにしわも刻まれているのだろう。
その律子の顔がしだいにぼやけてきた。入れ代って、高校時代の律子の顔が浮かび出てきた。みるみるそれは鮮明になった。青い林檎《りんご》のようにひきしまった、艶《つや》やかな顔である。目に光があった。鼻すじが通り、くちびるの両端が上向いている。律子が笑った。柚木は野山にかこまれた郷里の町の風景が律子のうしろにひろがるのを感じた。セーラー服の律子と柚木は向いあっていた。当時と同じように心が浮き立っている。
むかしの記憶があるので、柚木は中年の律子と話しながら、当時の律子の顔を思いうかべ、当時の律子と話している気分にひたった。幼馴染みでない中年女性と会っても、こうはならない。想像をめぐらせて若い顔を再生するわけにいかないからだ。
午後七時半になった。酒場を出てゆく者が目についた。柚木は律子をうながして席を立った。送り火を見物しやすい場所へ出向かねばならない。若い律子といっしょにいる華やいだ気分は持続していた。
ホテルの玄関で二人はタクシーに乗った。
北大路橋。柚木は運転手に告げた。律子は十何年ぶりかの京都だという。雨の心配をせずに済んだのをよろこんでいた。
夜の京都をタクシーは北へ走った。御所のあたりから車が渋滞しはじめた。大文字に火がともるのは午後八時である。家々から人が出てきて、渋滞を尻目にのんびりと賀茂川のほうへ歩いてゆく。よそゆきの柚木らとちがって、人々は浴衣やふだん着のままだった。柚木は大阪に住み、京都を身近に感じているのだが、きょうは旅行者だった。
北大路橋へ着いた。川面《かわも》を除いて、暗闇の底を群衆が埋めつくしている。柚木は運転手と交渉して、一時間後に糺《ただす》の森《もり》のそばへきてもらう約束をした。二人は車をおりた。賀茂川に沿って南のほうへ歩きだした。
堤防沿いの道路は暗くて人の顔が識別できなかった。車の交通は禁止である。おびただしい人々がゆききしている。堤防の斜面も河川敷も人でいっぱいだった。人々の頭のあいだから川風が吹き寄せてくる。
右手にならんだ屋台のあかりで、柚木は律子の横顔をながめた。律子はほほえんでいる。横顔の輪郭が彫像のようにあざやかだった。どう見ても三十代の女である。
堤防の人々がどよめいた。大文字に火がともった。東南およそ十キロの山影の頂上近くが明るく変った。白煙がゆっくり湧き立った。オレンジがかった赤い大の字が、追いかけるように浮かびあがった。
大文字は最初輪郭があいまいだった。しだいにはっきりしてきた。筆で一気に描かれた大の字ではない。赤いインクにひたした筆の穂先で点々と画面をたたいて描かれた大の字だった。穂形の赤い点々で文字が形成されている。徐々にそれは赤味を増した。やさしい感じになった。
堤防や河川敷から嘆声が立ちのぼった。道路の人々は足をとめた。柚木は律子の手をひいて堤防のうえへ出ていった。
二人とも見惚れて、立ちつくした。大文字はあかあかとして、なにか悲しかった。
「長い歴史のせいかな。ただ明るいだけでなくて、抒情的ですね」
「こんなに明るくて大きいとは思わなかったわ。そのくせさびしい感じがする。テレビや映画では絶対わからない美しさね」
柚木はあらためて律子の手をとった。
手をあずけたまま律子は立っていた。やがて柚木を見て笑った。指に力がこもる。
二人は河川敷へおりた。おびただしい人影のあいだを縫って南へ歩きだした。京都で会って大文字を見物する——柚木の企《たくら》みは成功したらしい。やがて五十歳になろうという現実が、はるか向うに追いやられた。夢のなかに二人は立っていた。
人々がまたどよめいた。北部の山に妙法の火文字がともった。地上すれすれにそれは浮かんだ。そばにいた若い父親が、幼児を抱きあげて肩車に乗せる。
しばらく歩くと、北部の山にこんどは船形《ふながた》の送り火があらわれた。さらに左大文字、鳥居形が北から西にかけて浮かびあがる。そのつど人々はどよめき、柚木と律子は立ちどまった。堤防沿いの並木や建物の陰を避けて、すべての送り火を見わたした。東南から北、西にかけて京都は赤い文字と絵で遠巻きにされている。街ぜんたいが幻想のなかにあった。暗闇の底に、律子の顔だけがかすかに明るく静止していた。送り火のあかりを映しているようだ。
出雲《いずも》路橋《じばし》のそばへきた。河川敷にテント張りのステージが設けられている。市の交響楽団がウインナ・ワルツを演奏していた。
左手に大文字がいまは一気に描いた筆蹟となって燃えている。ステージでは何十もの楽器の絃が動いていた。柚木は律子を前に立たせて音楽を聴いた。高校のコーラス部がよくウインナ・ワルツを歌っていたものだ。
十五分ばかりそうしていた。演奏に一区切りがついた。二人は堤防沿いの道路へ出た。いまの曲を柚木は胸のうちで口ずさんだ。
アイスクリーム、お好み焼、とうもろこしなどの屋台が並んでいる。アイスクリームの店の行列に二人は加わった。
「向うの店に絵葉書があるわ。ちょっと見てきます」
すぐに律子は行列を離れた。
まもなく順番がきた。律子はまだかえってこない。代りに柚木は屋台の女の子からクリームをうけとろうとした。
女の子は怒った顔で手をひっこめた。柚木が同伴者だとは知らなかったらしい。
「ここにいたおばちゃん、どこいったんやろ。もうクリーム要《い》らんのやろか」
おばちゃん、の語に柚木は虚をつかれた。狼狽《ろうばい》して立ちつくした。
律子がもどってきた。女の子は勢いよく律子にクリームをさしだした。
「列を離れんときよしな、おばちゃん。うしろの人にさき取られてしまうエ」
二人は苦笑してそこを離れた。
交通整理にきたパトカーのライトがこちらを照らした。律子の顔がうかびあがった。年齢なりに美しい横顔だった。挑むように律子は柚木の顔をみつめる。柚木は律子の肩を抱いて、暗い橋のうえへ出た。
クリームを舐《な》めて歩いた。律子はすぐにそれを河へ捨てた。ほろ酔いの舌に冷気が快《こころよ》かったので、柚木は手離さなかった。
大文字が急に近くみえてきた。火の勢いが弱まったのか、大の字がやわらかな感じになった。送り火は午後九時に消えるはずだ。その準備に入ったのかもしれない。二人は足をとめて大文字に見入った。オーケストラの演奏が遠くなると、赤い大の字は上空の静寂を吸いこんだようにさびしく映った。
若いころ柚木が見た大文字は、ただ美しかった。七、八年まえ、社の幹部たちとともに鴨川沿いの料亭からながめた大文字は、酔った芸妓の寝姿のようになまめかしかった。
今夜のはまったくちがう大文字だ。三年まえに亡くした父親を柚木は思いだした。
「大の字って、人が寝ている形なんですね。一人ぼっちで、ふてくされて寝ている姿なんだわ。いまはじめてわかった」
「もともと死者の霊を送る火ですからね。悲しい感じがあるのは当然ですよ。死んだ肉親のことを思い出さされてしまう」
「そうね。なんだか私、せき立てられるような気がする。残り時間がすくないのに、なにをぼやぼやしているのかって。なにをすればよいのか、わからないけど」
「過去をふりかえると、やり残したことがあまりに多い。一つ一つ仕上げてゆきたい。とくに律子さんとのことを——」
「柚木さんは欲しいものをみんな手にいれたんだと思っていました。やり残したことが多いなんて、信じられない」
「とんでもない。大事なものはなに一つ手にいれていませんよ。同窓会であなたに会って、つくづくそう思った。高校、大学のころは、あらゆる意味で貧困だった」
律子の腕をとって柚木は歩きだした。
酒店の自動販売機で缶ビールを二つ買った。いっしょに飲みながら歩いた。商店のあかりのなかに律子の姿がうかびあがった。昂然《こうぜん》と律子は顔をあげていた。
糺の森のそばでタクシーが待っていた。河原町三条方面へ二人は向かった。大文字が消えると、交通渋滞がおこる。その寸前なので、順調に走ることができた。
木屋町《きやまち》の料亭へ柚木は律子を案内した。鴨川に面した座敷で食事をとった。
座敷は明るかった。それでも二人きりで向かいあうと、現実の律子の顔のなかに高校時代の律子の顔がうかび出た。律子はにこにこ笑った。電灯に柚木は向かいあっている心地になる。くつろいで酒を飲んだ。律子の顔にも赤みがさしてくる。彼女はひざをくずした。二人のあいだの座敷机が邪魔だったが、わきへ寄せるきっかけを柚木はつかめなかった。
二人は酔って料亭を出た。午後十一時だった。先斗町《ぽんとちよう》はまだ人通りが多い。さまざまな電飾が空間にうかんでいるのに、暗くて人とぶつかりそうになる。しぜんに肩を寄せあった。四条通りへ出るまで、大勢の人々に追い越された。
タクシーで二人はホテルへかえった。ロビーに人影はほとんどない。酔いのせいで柚木は建物が揺れるように感じた。
部屋のキーは律子のバッグに入っている。柚木は律子を待たせて、自分のチェックインの手つづきをした。
二人はエレベーターへ向かった。扉のまえで律子は足をとめ、柚木を見あげた。
「柚木さんもここへお泊りになるのね。部屋は何号なんですか」
柚木はすぐに意味が呑みこめなかった。
何秒かたって、建物の揺れが停止した。柚木は茫然《ぼうぜん》となった。ほかの感情にとらわれる余裕はなかった。
「あなたのいる部屋はぼくの名前でとったんですよ。そこへ泊りたい。いけませんか」
「そんな。私、そんなつもりでは——」
うつむいて律子は動かなくなった。全身が石に変った。
「いけないんですか。おどろいたな。では、あなたは大文字だけのためにわざわざ東京から——。そうなんですか」
「柚木さん、お宅が近いんだからすぐお帰りになれるはずよ。それにあなたは、大文字を見にこいとおっしゃったのよ。私といっしょに見たいって」
「ひどいな。子供みたいなことをいって。高校時代にもどろうとはいったけど——」
柚木は全身の力がぬけた。
気をとりなおして律子の腕をとった。いっしょにエレベーターへ乗ろうとする。
「冒険しましょう。せっかくここまできてくれたんじゃないか」
「いや。それだったら私、べつに部屋をとってきます」
律子は肩を揺すった。はねとばされたように柚木は感じた。
私、自分を大事にしたいんです。うつむいて律子はいった。柚木は苦笑いする。
二階の酒場へ行くことにした。顔をこわばらせて律子はついてきた。
カウンター席でビールを飲んだ。話ははずまない。柚木はしきりに苦笑いした。時間のむだをした。働きざかりの男に時間がどれだけ大切か、女には絶対にわからない。
「男と女の考えることは全然ちがうんだな。勉強になりました。苦い水を飲んだ」
「ここまでだって女には大変なことなのよ。とくに私はそう。とても若い人のようにはいかないわ。ああいうのって好きじゃないの」
律子はとくとくとしていた。柚木を傷つけたことには思いおよんでいない。
柚木は席を立った。レジへいって受話器をとった。大阪|北新地《きたしんち》の酒場へ電話をいれる。あゆみを呼びだしてもらった。
「ああ柚木さん。いまどこ。東京?」
あゆみのはずんだ声がきこえた。家にも彼女にも東京へ出張だといってある。
「予定が変ったんだ。いま京都にいる。これからあゆみのマンションへいくぞ。午前一時ごろになるだろうが、かまわないか」
「わかった。待ってるわ。今夜泊ってもいいんでしょう。おすし買ってきてね」
あゆみは二十二歳である。柚木と親密になってから一年近くたっている。
カウンターにもどって柚木は律子に別れの挨拶をした。しだいに気持が晴れてきた。
2
同窓会は東京駅の近くにある中華レストランのホールで行なわれた。
定刻の午後二時、柚木は会場へ入った。出席者は約二百名。四十歳以上の会員にたいしてのみ招待状が送られたらしい。
同期生は男女あわせて三十名ばかりが出席していた。ほとんどの者とは卒業後の同期会で何度か顔をあわせている。同期生以外の出席者とは卒業後最初の出会いか、初対面かのどちらかだった。パーティ形式で会は進行した。柚木はスピーチをさせられた。
たくさんの出席者と柚木は旧交をあたためた。何人かの男に敬愛の念を抱いた。それ以上に、女たちに関心をそそられた。同期生もかつての上級生、下級生もすでに孫がいそうな年齢である。程度の差はあるが、みんな老《ふ》けていた。女としての魅力が感じられるはずのない相手ばかりだった。
それでも柚木は彼女らと話していると上気してきた。若い肌の香りを感じた。衣服を透して立ちのぼる活気を感じた。年齢なりの美しさを保っている女がとくにそうだった。昔馴染みの女には、得体《えたい》の知れない魅力がある。はじめて柚木はそれを知った。
南部律子とことばをかわして、柚木は昔馴染みの魅力のわけを知った。五十近い律子と話しながら、柚木は高校生の律子と向いあっていた。昔の顔が眼前にうかんでいる。ひきしまった、利口そうな目鼻立ちだった。笑うと、透明感のある歯が口もとから覗《のぞ》いた。とたんに人なつこい印象になる。声は当時と変っていない。つりこまれて柚木も、高校時代の気分になった。
まず記憶がある。それを足場に想像力が昔の顔を描きあげる。現実の顔が消えてしまう。昔馴染みの女たちの魅力の正体がこれだった。彼女らは、同じころ同じ校舎へ通った男たちにだけ見えるセーラー服をきて会に出てくる。なかでも律子は一番鮮明に当時の面影を残している。
「二人だけでこっそり二次会をやりませんか。××ホテルのバーで」
柚木はささやいた。日曜日なので、知っている酒場はみんなしまっている。
律子はうなずいた。先約があるけど、口実をつけてキャンセルします。首をすくめて笑った。愛らしい仕草《しぐさ》だった。
パーティが終った。出席者が三々五々会場の外へ出ていった。柚木も同期の男たちと談笑しながら、ホールからロビーへ出た。
南部律子が小走りに柚木たちを追いぬいて階段をおりていった。真剣な表情だった。律子は会の幹事の一人である。さきに会場を出たべつの幹事に急用ができたらしい。
わきから律子を見て柚木は胸をつかれた。律子は現実の律子にもどっていた。顔が腫《は》れぼったい。酒のせいか、かすかに紫がかった、荒れた肌をしていた。その日律子はブルーのスーツを着ていた。不恰好《ぶかつこう》というほどではないが、日本の中年女らしい体型が露呈している。柚木は顔をそむけた。二人だけの二次会の約束を後悔していた。
だが、ホテルのバーは適度に暗かった。向いあって腰をおろすと、すぐに高校時代の律子が復活した。低い山なみのなかの盆地の風景が律子のうしろにひらけた。若い肌と樹葉の香りを感じて柚木はうっとりした。関西へあそびにいらっしゃい。熱心にさそった。十代の終りのころをやり直してみたかった。
盆地の中央の町に高校があった。その地方では唯一の普通高校だった。生徒数は男女あわせて約五百名。柚木はその町で育ち、高校へ入った。父親は製材工場の経営者だった。
盆地の西側に鉱山があった。江戸時代までは金銀を、明治以降は銅を産出してきた。大手の鉱業会社がそこを経営していた。従業員の息子や娘が百名近く、そこから高校へかよっていた。バスで十五分の通学だった。
鉱山町の一劃《いつかく》に上級社員用の住宅地があった。しゃれた白い住宅が三十戸ばかりあつまっていた。なかの道を通ると、ピアノの音がきこえた。柚木はいつも、東京の住宅街へ迷いこんだ気分になった。人口二万の盆地の町では、ピアノのある家は旅館、造り酒屋、医院の各一軒ずつぐらいのものだった。社宅の町では六、七軒にピアノがあった。
南部律子は社宅の一軒の娘だった。同級生といっしょに柚木は社宅の町を通りかかり、あれが律子の家だと教えられた。門のなかにヒマワリが咲き、犬小屋に白い小犬がつながれていた。ピアノの音がきこえた。柚木の知らない曲だった。
律子は中学生のころ、父親の転勤で東京から鉱山町へ引越してきたということだった。みんなと同じセーラー服を着ているのだが、一人だけ贅沢な服を着ているようにみえた。一分の隙もない、磨きぬかれた感じが全身にあった。澄んだ声で、歯切れよく話した。柚木は律子と町で会うと、彼女のうしろからピアノの音がきこえるような気がした。
まとまった演奏ができるのは、学校中で律子ひとりだった。文化祭のおりはコーラス部の伴奏をしたり、独奏したりする。ピアノを弾《ひ》くとき、律子はすこし眉根《まゆね》を寄せて神経質な顔になった。首をかしげて自分の音にききいることもあった。終って拍手にこたえるときは、泣き笑いのような表情になった。
柚木は講堂のうしろから、文化祭のステージの律子をみつめつづけた。息をつめてみつめた。ペダルをふむ白いズック靴にときおり視線がいった。奇妙に胸苦しくなる。ショパンの曲と、律子にたいする自分の気持がぴったり一致していると思った。演奏が終ると、柚木は拍手もせずに講堂から姿を消した。あこがれの念をだれにも知られたくなかった。
律子とは学年もちがう。所属のクラブもちがう。近づくチャンスがなかった。生徒会の委員会などで、たまに口をきくだけだった。二人きりになることもなかった。
夜、柚木は律子の顔を見たくてたまらなくなることがあった。家をぬけだして、歩いて鉱山町へ向かった。星空をあおいで坂道をのぼってゆくと、まるで律子が自分を待っていてくれるように感じた。
社宅の町へ入った。律子の家のそばを通る。二階のすみの窓が律子の部屋の窓だと柚木は勝手にきめていた。窓にはいつもあかりがついていた。立ちどまって窓あかりをみつめる。夜気を吸いこむ。律子の肌の香りが夜気にこもっていた。彼女の姿が窓にあらわれたことはない。それでも気が済んだ。遠い坂道を歩いて帰った。稔《みの》りのない恋をしているという意識によろこびがあった。
夏の午後、柚木たちはいつものように校庭でボールを蹴りあっていた。音楽室から女声コーラスが流れてきていた。
仲間の一人の蹴ったボールが、窓|硝子《ガラス》をやぶって音楽教室へとびこんだ。コーラスが止んだ。近くにいた柚木は頭をかきながら、窓の下へ走っていった。
教室では女生徒たちが箒《ほうき》と塵取《ちりと》りをもちだしていた。律子がボールをもって窓辺にやってきた。両手で、バケツの水をかけるような姿勢でほうってよこした。頬ぺたをふくらませて、力をこめていた。
柚木はボールをうけとった。腕でひたいを拭って律子に笑いかけた。
「硝子、なかへ飛んだんだろう。だれか怪我をしなかったか」
「大丈夫です。硝子はすぐ片づけます」
律子は右手で髪をなおした。
半袖の白いセーラー服を律子は着ていた。右手をあげた瞬間、腋毛が見えた。柚木はわけのわからない衝撃をうけた。あこがれの感情が汚されたように感じた。
「がんばってくださいね」
律子が声をかけてきた。
うなずいて柚木はそこを離れた。仲間のほうへボールを蹴った。柚木は頭をふって、腋毛のイメージを追い払おうとつとめた。
三年の夏休みが終った。受験勉強で柚木はいそがしくなった。律子の部屋のあかりを見に鉱山町へ行くこともなくなった。
大学の入試が近づいた。ある夕刻、柚木は思いきって学校帰りの律子を待ちぶせした。律子は音楽部でコーラスの伴奏をする。終るのはいつも午後五時だった。
鉱山町まで律子は仲間といっしょにバスで帰る。おりると社宅まで一人になる。停留所のそばに柚木は立っていた。まだ野山を覆《おお》っている雪に夕闇がにじみはじめていた。紺の外套《がいとう》をきた律子がやってきた。近づいて柚木は声をかけた。いっしょに百メートルばかり歩いた。公民館の裏で立ち話をした。
柚木は東京の大学へすすむ。五月ごろ律子は修学旅行で東京へゆく。向こうで落合おう。約束をかわした。自由行動の時間、二人でほうぼう歩きまわる予定を立てた。
はじめてゆっくり話をした。律子のほうも柚木と友達になりたかったらしい。柚木は元気づいた。二人とも大学へ入って東京で交際する。かがやかしい学生生活になる。
柚木が受験に出発する列車の時刻を律子は訊いた。駅まで送りにいくという。長靴を雪道に弾《はず》ませて柚木は帰途についた。
出発の日になった。夕刻の列車だった。駅に律子はあらわれなかった。列車に乗りこんでからも、柚木は窓から外をながめていた。列車が動きだした。あきらめて柚木は参考書をひらいた。
受験は失敗だった。第二志望の大学にも入れなかった。柚木は東京に下宿して予備校へ通うようになった。五月に律子は修学旅行で上京してきた。大学へ入った同級生たちが得意顔で宿へあつまるはずである。彼らに会うのがいやで、柚木は顔を出さなかった。
翌年、柚木は入試に合格した。郷里の町へかえってすぐ律子の家へ電話をいれた。律子の一家は引越したあとだった。つい一ヵ月まえ、父親が北海道の鉱山へ転勤したのだ。一級下の女生徒から律子の消息をきいた。札幌の大学へ入ったということだった。
それきり柚木は律子に連絡しなかった。合格して気持がたかぶっていた。彼女にこだわらなくても、新しい女友達がいくらでもできそうな気がしていた。柚木は大学へ入った。女友達はできなかったが、東京に住んでみると、札幌は外国のように遠かった。
「——浪人されたとき、どうして連絡をくれなかったんですか。私、待っていたのに」
「合わせる顔がなかった。不信感もありました。あなたが駅へきてくれなかったから」
「いいえ、私、行ったんです。柚木さんの姿がなかった。私のほうこそ傷つきました」
「ほんとうですか。きてくれたんですか。変だな。ぼくは予定どおり発《た》ったのに」
二人は顔を見あわせた。律子は怯《おび》えた表情になった。
あらためて当日のことを話しあった。行き違いの原因がわかった。盆地の町は太平洋、日本海の双方からほぼ等距離にある。上京するには支線で東へ行き東北本線に乗りかえるのと、西へ行って奥羽本線へ乗りかえるのとの二コースがあった。町の駅からは前者は上り、後者は下りになる。下りはやや遠回りだが、東京までの所要時間に大差はない。
五時台だったか六時台だったか、ともかく柚木は下り列車に乗った。律子はそれが出たあと、上り列車を送りに駅へ入った。
「いやだ。東京へ行くのに下りに乗るなんて、私、夢にも思わなかったわ。東京からあの町へ越したとき、東北線だったし」
「そうだったんですか。あなたはきてくれたのか。よかった。長年の不信の念が消えましたよ。すばらしい話をきいた」
柚木は急に酔いがまわってきた。律子は雪の上で立ち話したときの顔をしている。
「私のききちがいだったのかしら。柚木さんは上りとおっしゃったはずなんだけど」
「そうかもしれません。でも、どちらのミスでもいいじゃないですか。二人とも約束をまもったんだから」
「そうね。柚木さんは下りのつもりだったのね。知らなかったわ。夢にも思わなかった。考えてみると恐い話ですね」
「あのとき見送ってもらっていたら、引込み思案になることもなかった。そしたら——」
柚木はことばを呑みこんだ。
笑って二人はうなずきあった。すぐに視線をそらせた。
「縁がなかったんですね、私たち。父が転勤になったのも、縁がなかった証拠だわ」
律子は鼻にしわを寄せてみせた。深刻になるまいとしている。
酒場は混みあっていた。人々の談笑の声で薄明が揺れている。ステージで女のピアニストがショパンを弾きはじめた。音が柚木の耳よりも、のどの奥にひびいた。
「縁がなかったで済ませたくないですね。失ったものをとりもどしたい。そうする権利があるような気がしますよ。当然手にするべきものを失ったんだから」
柚木は、律子をみつめた。
音楽が胸に流れこんだ。信じられないほど柚木はすなおな気持になっていた。
「とりもどせたら——。私もそうしたい。でも、いまさらどうにもならないわ」
「そんなことはない。われわれ二人だけのあいだでなら、とりもどせます。なんでもできる。あのころにだって帰れる」
律子は目をふせてだまっていた。柚木のことばをどうきいたのか、よくわからない。
瞬間、柚木は女好きの中年男の目で律子をうかがっていた。つけこむ隙はないか、どう押せばよいのか、測っていた。
柚木はわれにかえった。いつもの情事ではないのだ。自分にいいきかせた。ステージでピアノを弾く律子を遠くからながめたときのすなおな感情が胸にあった。それに気づいて、うれしかった。涸《か》れていた自宅の庭の泉がよみがえった思いである。
女好きの中年男の目は、そうした感情のふくらみのさまたげになる。律子にそんな目を向けるのを柚木は自分に禁じることにした。セックスをいそぐ気持は強くなかった。みずみずしい感情におぼれることで、若い日々をもう一度経験するつもりである。
二時間ばかりそうして話しあった。午後九時に二人は腰をあげた。柚木がレジで支払をするあいだ、律子はどこかへ電話をかけた。
カウンター席にいる若い女が、こちらを見て手をふった。北新地の酒場で働いている愛人のあゆみだった。きのうから東京へあそびにきている。柚木の予定にあわせて上京したのだ。夜、ホテルへくるよう伝えてあった。あした、いっしょに大阪へ帰る約束である。
あゆみに合図しておいて、柚木は律子を送りに出た。ホテルの玄関で律子はタクシーに乗らなかった。迎えがくるという。
白いベンツがやってきた。運転手が扉をあけて律子を乗せた。すぐにベンツは走り去った。柚木は酒場へもどった。
「品のいい人やねえ。服装のセンスも抜群やった。あの人も柚木さんの同級生なの。東北地方って、案外レベル高いんやねえ」
あゆみは感心していた。
ブランデーを柚木は注文しようとした。あゆみに制止された。ビールにしておきなさい。ささやいてあゆみは体を寄せてきた。
八月までに柚木は三度上京した。そのつど律子を呼びだして会った。いつも夜だった。レストランや酒場で柚木は若いころの律子に再会できた。三十年まえの日々を、すこしずつやりなおした。
律子の内面は成熟していた。話していて、柚木は倦《あ》きなかった。音楽や文学の素養の点では、柚木は足もとにもおよばない。律子は若い音楽家たちで編成されたある交響楽団の有力な後援者になっていた。コンサートの世話をしたり、若い演奏者に経済的な援助をしたりするらしい。骨を折って海外公演を実現させ、ヨーロッパへ同行したこともある。
律子自身もまだピアノをつづけている。高名な演奏家に弟子入りしていた。
「音楽大学を出たわけでもないし、趣味でやっているだけ。素人芸ですよ。チャンスがあったら、聴いていただきますけど」
律子は手をみせてくれた。
しっかりした感じの手だった。大きく指が反《そ》った。律子はテーブルのうえで、鍵盤をたたく指づかいをした。あどけない笑顔になる。柚木は律子を抱きたい衝動にかられた。
八月に入ってすぐ柚木は上京した。律子の家へ電話をいれた。食事にさそったが、ことわられてしまった。夫がいま日本に帰っている。夜の外出はできないという。
「ご主人がおられるのなら仕方ないな。つぎの機会ということにしましょうか」
柚木は刃物に手をふれた思いだった。律子の夫をはじめて強く意識した。
「中旬にはまた自由になるんですけど。大森がフランスにいく予定だから」
洋酒の輸入商にとっては多忙な季節なのだという。八月中旬から二ヵ月ばかり、律子の夫はフランスに滞在するらしい。
「では十六日に京都へきませんか。大文字なんです。いっしょに見ましょう」
思いついて柚木は申しいれた。
律子は返事をしぶった。動揺しているのが声でわかった。
3
チャイムの音で柚木は目をさました。
サイドボードの時計を見た。午前一時すぎだった。ベッドに横になってテレビを見ているうち、眠ってしまったらしい。
起きていって柚木は部屋の扉をあけた。あゆみが立っていた。ぼんやりした顔で入ってくる。バッグをテーブルにおいて、くずれるように椅子へ腰をおろした。
「やっと終ったわ。お尻の長いお客がいて、まいった」
おそくなった詫《わ》びをいったつもりらしい。これでも店が終ってすぐやってきたのだ。
電話ではあゆみは陽気で愛らしいうけこたえをする。顔をあわせると無愛想になった。照れてしまうのだ。母親の視線に四六時中つきまとわれて育った娘なのだろう。
九月のはじめである。柚木は朝から広島へ出張し、夜九時に大阪へ帰ってきた。あゆみの働いているラウンジバーへ顔を出した。そのあと酒場街のそばにあるホテルの部屋へ入った。店が終ってから、あゆみが会いにくることになっていた。自宅にはきょうは広島泊りだと告げてある。
あゆみは一昨年、短大を卒業した。英会話の学校に通いながら、夜、ラウンジバーで働いている。家は京都にあった。両親が離婚し、弟とともに母親に育てられたらしい。
あゆみは家を出て、一人で暮したがっていた。あゆみと体の関係をもってから、柚木はそのことを知った。東三国《ひがしみくに》にマンションを借りる資金を出してやった。以後、家賃のほか小遣い程度の金をあゆみにわたしている。ベッドをともにするのは月に二、三度だった。たまにあゆみの部屋へ泊ることはあるが、暮しぶりに特別の関心はなかった。
柚木も椅子に腰をおろした。浴衣《ゆかた》がけである。ビールを飲みながらあゆみと他愛のない話をした。やがて、あゆみはクロゼットのまえで服をぬぎはじめた。柚木はベッドに横たわった。そこからあゆみの姿がみえる。
あゆみは靴をぬぎ、ストッキングと下着類を足からぬきとった。裸足《はだし》のまま、上体を折ってワンピースをぬぎにかかる。途中であゆみは動きを停《と》めた。