第一章 昔馴染み第二章 性 夢第三章 春の断層第四章 熱い夜の祝祭 第一章 昔馴染《むかしなじ》み.2
「ねえ、このあいだ話、したでしょう。毛皮のコート、注文してもいい」
ワンピースをかぶったエビのような恰好であった。
柚木は苦笑いした。まっすぐのびたあゆみの脚から視線をあげた。
「いいよ。ただし、条件はまもるんだぞ。サラリーマンには荷が重いんだから」
百万円以内。五回以上の分割払い。柚木は先日そう申しわたしておいた。
ほっとしたようにあゆみの青いワンピースが動きだした。かたちのよい裸身が下からあらわになってゆく。日焼けした肌だった。
「しかし、まだ九月だぞ。毛皮の心配は早すぎるんじゃないのか」
「いまから注文するほうが、いいものを安く買えるのよ。男の人は知らんやろけど」
あゆみはワンピースをぬいだ。
ブラジャーをはずして、ちらとこちらをみた。すこし笑った。どこもかくさない。きびすをかえして、ゆっくりと浴室のなかへ消えた。
まったく物要《ものい》りなことだ。柚木は苦笑いした。プロとはいえないが、あゆみも酒場街の女だ。経済の面でかなりの負担になる。
あゆみは店で目立つほうではない。気のきいた会話もできない。ときおり物陰でママに叱られている。真剣に客の話をきくのが取得《とりえ》だった。笑顔が愛らしい。
柚木はあゆみの翳《かげ》りのある様子に魅《ひ》かれた。複雑な人生をたどってきた娘のように思われた。力になってやりたかった。可愛がるうち、男と女の関係になった。あゆみを目あてにその店へ通ってくる客はすくない。柚木を見る彼女の目に感謝の色があった。
仲良くなってみると、あゆみはとくに翳のある娘でもなかった。カラオケ酒場で、中森明菜の歌をよくうたった。明菜が乗り移ったような身ぶりをいれた。英会話学校の文化祭でアイドル賞をもらったといっていた。
あゆみは待ちあわせの時間によくおくれた。今夜のようにホテルで待たせるのはいつものことである。すっぽかしたことも一度あった。芸能人のこと以外なにも知らない。会っても話題がなかった。ときおり英会話の練習台に使える以外、柚木には得るところのない娘である。いつでも別れられる相手。そうした安心感があった。
バスルームからあゆみが出てきた。こんどはいそぎ足だった。柚木のとなりへ倒れこんでくる。二人はくちづけをかわした。
あゆみの肌は小麦色である。色白の女の多い地方で育った柚木には、その肌色が刺戟的だった。甘苦い香りを肌に感じる。
あゆみの顔や首が上気して赤くなった。その耳や首へ柚木はキスを這わせてゆく。あゆみはいつも受身である。目をとじて動かない。呼吸だけ、はずませている。柚木はあゆみの肩や腋から、乳房へ移ってゆく。乳首の色の濃いことだけが気にいらない。あとはすべての点であゆみの体に満足している。
特徴のない、ほどよくまとまった裸身だった。ほどよくふくらみ、ひきしまっている。どの部分の線にも歪《ゆが》みがなかった。肌には光沢がある。吸いつくと緊張し、離すとゴムのようにもとへもどった。筋肉も骨もしなやかである。毛は濃いほうだった。女の部分の色合は奇蹟のように明るい。
柚木はあゆみの体をすみずみまでくちびると舌で味わった。ときおり顔をあげて見惚《みと》れた。指で肉を圧《お》したり、つまんだりすることもあった。一分の隙もなく均整のとれた裸身なだけ、どこか一角をくずしてみたい気持におそわれるらしい。くずしたあとへくちづけにゆく。修復するつもりである。
あゆみの体に柚木はあこがれの感情をおぼえる。しだいにそれがたかまってくる。柚木は女の部分へくちづけにゆく。崇拝する気持で舌をおどらせる。そうしていると、柚木は心がやすらいだ。いつまでもこの状態を持続したい気持にかられる。
あゆみはせいいっぱい体をひらいていた。高い声で泣いていた。とめどなく熱いものをにじみ出させる。体を揺すりはじめる。指をもとめる合図だった。くちびるに加えて、柚木は指を使いはじめる。あゆみはさらに揺れて、快楽の頂上へ近づいたことを告げた。反りかえって、呻《うめ》き声をしぼりだした。
そんなことを三度くりかえした。あゆみはぐったりとなった。愛撫をやめて柚木は添い寝をする。あゆみの手をとって、自分の下腹部へ誘導しようとする。
反抗の声をあゆみはあげた。手をひっこめてしまう。いつものことだった。あらゆる奉仕をあゆみはうけいれる。どんなポーズにも応じる。だが、いっさい奉仕をしない。男性にさわるのをいやがる。
「まだ馴れないのか。やっぱり年寄りがきらいなんだろう。心の底できらっている」
「ちがうって。きらいやないけど、ようしないの。私の友達にも何人かいるよ。そういうことだけはようせんいう子」
「好きな男ができたときのためにとってあるなら話はわかる。そうじゃないのか」
「べつに意味はないわ。ようしないだけ。まだしたことがないんやから」
あゆみの体を尊いものに感じるので、柚木は彼女のわがままに反撥がなかった。逆にひそかな快感があった。
柚木は女の部分へ手をのばした。奉仕をうけるのをあきらめたしるしである。あゆみはうつぶせになり、後方から迎えいれる姿勢をとる。柚木は入ってゆく。丹念に快楽を掘りおこして、やがて完了にいたる。
横たわって柚木はあゆみを抱き寄せる。髪や背中をなでさすった。寝るまでつづけるつもりだ。あゆみの体を尊く思う気持を持続させながら眠りに落ちてゆきたい。
あゆみが起きあがった。貼りついていた二人の肌をひき剥《は》がされたように柚木は感じた。あゆみはベッドをおりて、裸のままバスルームへ消えた。水音がきこえる。柚木は目をつぶった。疲労が全身ににじんだ。
あゆみがもどってくる足音がした。
「ああ、目がさめてしもた。深夜番組を見るからね」
テレビのスイッチが入った。
あゆみの体が柚木のそばに投げだされる。テレビの音声が流れはじめた。
「毛皮の契約書にサインしてね、あした」
遠くでそんな声がきこえた。
翌朝八時まえに柚木は目をさました。バスルームへ入り、シャワーを使った。
バスルームの壁の電話のベルが断続して鳴った。あゆみがベッドの枕もとの電話でどこかを呼びだしている。二つの電話は連動しているのだ。めずらしくあゆみは早く起きた。
あゆみが話をはじめた。壁の受話器をとって柚木は耳にあてた。あゆみの声が伝わってくる。盗聴されているとは知らない。
「住所氏名さえ書いてもろたらいいのやろ。金額は記入せんとく。そうかて、予算が百万やていうてはるから——」
相手は同僚のホステスのようだ。毛皮商と親しくしている女らしい。
百五十万円の毛皮をあゆみは買う気でいた。だが、柚木の条件と合わない。とりあえず契約書にサインさせて、金額はあとで自分が書きこむ考えをおこした。住所氏名と金額が異った筆蹟で記入されても効力があるのか訊いているのだ。
「べつにかめへん思うよ。けど、そんなことしていいの。柚木さん怒らへん」
「大丈夫。怒っても最後はいうこときいてくれるわ。やさしい人やから——」
柚木は苦笑して盗聴をやめた。
あゆみの関心は芸能界と経済の領域を出ることがない。若い体への崇拝の念に水をかけてばかりいる。のめりこんでしまえば、百万がたとえ五百万でもなんとかする性分なのだが、あゆみのほうが柚木にそれをさせない。そんな点、おそろしく鈍感な娘である。
柚木はバスルームを出た。身支度をはじめる。あゆみが契約書にサインをせがんだ。
「こういうものにはかんたんに記入できないよ。条項をよく検討しなくては」
契約書を彼は上衣のポケットにしまった。
口をとがらせるあゆみを無視した。いずれサインすることになるのはわかっている。すこしは気をもたせてやりたい。
九時十五分まえに会社へ入った。席について、トレーのなかをしらべた。稟議書《りんぎしよ》や伝言メモがたまっている。一日出張すると、トレーは書類でいっぱいになる。
南部律子から電話が入っていた。とくに伝言はない。また電話しますの一言だけだ。
大文字の日以来、律子はむしろ頻繁に電話をよこすようになった。上京の予定はないか訊いたり、同窓生の消息を伝えたりする。郷里の町のニュースを報告することもあった。会議のまえだろうと、決算事務の最中だろうと、こちらの様子には頓着しない。
柚木はわずらわしくなる。だが、話すうちに高校時代の律子の面影がうかんでくる。郷里の空や野山のイメージがひろがる。いつかひきずられて相槌《あいづち》を打っていた。
十時ごろ、受付の女の子が白い花の鉢植えを柚木にとどけにきた。鉢をかかえて近づいてくる女の子の胸のあたりで、白い蝶の群れが舞っているようにみえた。胡蝶蘭《こちようらん》だった。フラワーショップからとどいたという。
付されたカードを柚木は手にとった。律子からだった。誕生日の祝いである。そういえば大文字の晩、誕生日はいつかと律子に訊かれたおぼえがあった。
柚木は律子の家へ電話をいれた。お手伝いに取次がれて律子が出てきた。大文字以来、柚木から電話したのははじめてである。
花の礼を柚木はのべた。お返しをしなければならない。律子の誕生日が十二月の二十一日であることをたしかめた。
「でも、お花なんかいただいたら困ります。大森がそのころは家にいますから」
柚木はまた刃物に手をふれたような感覚を味わった。
律子の夫は例年、十二月と一月は家ですごす習慣である。そうでない年は海外へ律子を呼び寄せる。パリ、ニューヨークはもちろんリスボンやカサブランカの正月も、律子は体験していた。
十月にピアノの一門の発表会がある。律子も出演してショパンを弾《ひ》く予定である。毎日練習している。後援しているオーケストラの演奏会も成功させなければならない。生き生きと律子は近況を語った。
「発表会、かならず聴きにいきます。そのまえに東京へ行く用事をつくります。あなたの誕生パーティの先取りをしよう」
柚木は受話器をおいた。
デスクのうえで数羽の白い蝶が舞っている。課員の一人が目をとめて近づいてきた。追従《ついしよう》をこめて羨《うらや》んでみせる。
「たまにはこんなこともあるさ。ことわっておくが、贈り主は酒場の女じゃないぞ」
上衣のポケットにある毛皮の契約書を、柚木は苦々しく思いだした。
志《こころざし》とちがって、なかなか東京に用事をつくれなかった。九月の下旬、やっと柚木は上京した。
午後六時すぎ、柚木は東京支社を出た。まっすぐホテルへ向かった。七時ごろ、ロビーで律子と待ちあわせる約束だった。
七時に柚木はロビーへ出た。ボーイが柚木の名を呼んでいる。電話が入っていた。いやな予感にかられて彼は受話器をとった。
律子の声をきいたとたん、予感が的中したのを知った。律子の夫が急にフランスから帰ってくることになった。午後八時、成田に着く。家を空《あ》けるわけにはいかない。疲れた声で律子は詫びをいった。
「ひどいなあ。たのしみにしてきたのに。今夜どうすればいいのかな、おれは」
柚木は心臓がひきつった。そんなに夫が大事なのか。胸のうちでつぶやいた。
「八時に成田なら、家に着くのは早くて十時でしょう。まだ大丈夫だ。出ていらっしゃいよ。一目でいいから会いたい」
「そんなわけにはいかないわ。子供もいるし、出かける口実がないんです」
「ご主人の海外出張はめずらしくないんでしょう。たまに家を空けてもいいじゃないですか。ぼくのために不義理してください」
「ごめんなさい。どうにもならないの。こんど、かならず埋めあわせをするわ。どんなことをしてでも。私、約束します」
どんなことをしてでも——。そのことばが柚木ののどの奥にひびいた。
セーラー服の短い袖口から覗いた腋毛を彼は思いだした。とっさに声が出なかった。無理をいって律子を困らせたい執念が消えてしまった。
電話は終った。部屋に柚木はもどった。夕食をとりよせる。味気なくたべた。終ってベッドに横たわった。腋毛のイメージがよみがえった。
律子を抱きたい。三十年来の夢が叶《かな》う。だが、それが心の底からの望みなのかどうか、自分でもよくわからない。律子の体はおとろえているにきまっている。服をぬがせたあと、柚木がたじろがないという保証はない。そうなるのが恐かった。抱きたいと思う半面、一日のばしにしたかった。
現在の律子と向かいあって話すとき、柚木はむかしの律子の顔を思いうかべる。イメージで現実を覆いかくす。だが、律子の現在の裸身をまえにしてそんな操作ができる自信はなかった。柚木はむかしの律子の裸身を知らない。若い裸身を再生する手掛りがない。
大文字の夜はあれでよかったのかもしれない。知らず知らず破綻《はたん》を回避したとも考えられる。幼馴染みとの恋は、成就と破綻がとなりあわせなのだろう。律子とは寝ないほうがいいのかもしれない。だが、それではなんのために逢《お》う瀬《せ》をかさねるのか。
考えが柚木は停滞した。まだ眠る時間ではない。起きて身支度をした。タクシーで柚木は銀座の酒場街へ出かけた。働いているあゆみの姿がふっと目にうかんだ。
十一時すぎまで柚木は酒場にいた。酔って、にぎやかな気分になった。だが、外へ出ると、ひやりとする夜気がのどの奥へしみこんできた。夜気は細い竜巻になって、のどから胸のうちをかきまわした。律子の笑顔が脳裡《のうり》にうかんで消えなかった。
自由が丘。タクシーの運転手に柚木は告げた。所番地をたよりに律子の家を見にゆくのだ。高校のころと同じことをやろうとしていた。
目的の所番地の近くでタクシーをおりた。街灯の淡いあかりの下に邸宅がならんでいる。ゆたかな樹木がところどころ街灯や門灯に照らされて、あざやかな緑色をしていた。
人通りはすくない。ときおり車が通った。しずかな街のすみずみまで、走行音の波及するのがわかる。邸宅の標札をたしかめながら柚木は歩いた。ときおり犬が吠える。自分の足音がわずらわしいほど耳についた。
「大森」の標札を柚木は見つけた。所番地からいって、まちがいなく律子の家だった。予想よりも一まわり大きな邸宅である。白い塀をめぐらせ、門柱のあいだに高い鉄扉があった。塀ごしに庭木の黒い影がならんでいる。門灯は明るいが、玄関の軒灯は暗かった。玄関の横の窓にあかりがついている。二階の窓にも、淡いあかりがともっていた。
建物の大部分は白い塀にかくれている。外からみえるのはほんの一部だった。内部の様子はまったくわからない。二階建ての邸宅のどっしりした量感だけが伝わってくる。柚木は思わず土地と建物の時価を見積ろうとした。途中で思いとどまった。
門のまえに立って柚木は空を見あげた。地上よりもやや青みがかった夜空に、塵のような星が散っている。星のあいだから、かすかなピアノの音が降ってきた。
こっそり社宅の灯をながめたときの悲哀がよみがえった。律子の肌の香りが闇ににじんでいる。ピアノの音がなまなましくなった。団欒《だんらん》のざわめきも耳に入る。律子は家族にまもられている。堅固な城のなかにいた。近づくすべはない。そう思うと、奇妙に心がおちついてきた。片想いもわるくない。なかなかいい気分のものではないか。柚木はつぶやいた。
車がやってきた。塀ぎわに身を寄せた柚木をライトで照らして走り去った。表通りのほうへ柚木は歩きだした。ピアノの音はもう消えている。首すじに柚木は秋を感じた。東京にも虫の声があった。
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午後からの会議が四時に終った。
ある化成品の開発をめぐる会議だった。柚木はその事業の責任者である。
開発ははかどっていなかった。会議では出席者の弁解があいついだ。終盤、柚木は強硬な発言をする羽目になった。結論を出し、方針をみんなに示した。けわしい顔つきのまま自分の席にもどった。
デスクのうえに白い蝶が五羽舞っている。律子から贈られた胡蝶蘭は、陽光と水を過不足なくあたえているのでまだ花が落ちない。だが、花びらがやわらかくなり、緑も黄ばんできた。あと二、三日の生命だろう。
律子からの伝言メモがトレーにあった。また電話します。例によってそれだけだった。東京出張から柚木はきのう帰った。先日の違約の詫びを律子はいいたいのだろう。
デスクワークに柚木は手をつけた。電話が鳴った。受話器をとると、律子からだった。いつもより声が切迫している。息を切らせた感じで、律子はまず詫びをいった。
「ご主人、お元気でしたか。たっぷりお土産《みやげ》があったんでしょう」
口調に皮肉が出てしまった。いそいで柚木はつぎのことばをさがした。
「大森はいま関西なんです。きのうから」
律子はいいにくそうだった。なにか事情がありそうだ。
「間《ま》がわるかったんだな。きょうあたりから東京へ出張すればよかった」
「じつは私、いま大阪なんです。Rホテルにいるの。大森とは別に——」
「なんですって。Rホテル——。ご主人と別々に。どういうことなんですか」
「私、柚木さんにお会いしないで帰るつもりだったの。でも、やっぱり無理。せめてお茶でもごいっしょしたいと思って」
「わかりました。そちらへいきます。Rホテルの何号室ですか」
律子は部屋をとっていなかった。ロビーの奥のラウンジにいるという。
律子の身になにか起ったらしい。会わないわけにはいかない。私用外出だと秘書に告げて柚木はオフィスを出た。社の車でRホテルへ乗りつけた。
約束のラウンジに律子の姿があった。ロビーを見わたせる場所だった。律子は紫色のスーツをきている。
律子のほうへ歩きながら、柚木は不安にかられた。まだ夜ではない。年齢《とし》とった律子とまともに対面することになるのではないか。若い律子のイメージで現実を補いきれなくなるのではないか。わるくすると、律子へのあこがれを持続できなくなるだろう。
ほんの数秒で不安は消えた。一流ホテルのロビーやラウンジの光景に、律子はすこしも無理なくおさまっている。よほど美しい女でも、一流ホテルで会うと豪華な内装に位負《くらいま》けして貧弱にみえるものだが、律子はちがっていた。建物に負けないだけの優雅な雰囲気があった。柚木の贔負目《ひいきめ》もあるのだろう。
柚木は律子と向いあわせに腰をおろした。バーはどうかとさそってみる。ほほえんで律子はかぶりをふった。
「大森はね、女づれなんですよ。日本観光をさせる目的で帰ってきたわけね。もちろん本人はビジネスだといっていますけど」
しずかに律子は打ちあけた。
柚木が上京した日、律子の夫は成田へ着いた。フランスの女をつれていた。女をホテルへ送ったあと、夫は家へ帰ってきた。律子はそんな予感がしていた。自宅の車の運転手を追及して事実をつきとめた。
「何度もあったことなんです。海外で所在不明になるの。クレジットカードの明細がまわってくるので、様子がわかるんです。お恥ずかしい話なんですけど」
律子は目をふせた。涙をこらえている。
夫を責めたことはない。騒ぐ値打もない事柄だと考えていた。だが、こんどは冷静でいられなくなった。夫が女をつれて帰ったのははじめてなのだ。一日東京にいただけで、夫はきのう関西へ発《た》った。きょう、気がつくと、律子は「ひかり」の車中にいた。夫を追跡するのだけが目的ではない、柚木に会いたいためでもある。沿線の風景をながめて、自分にいいきかせた。
「大阪では大森はいつもこのホテルなの。きょう二時にチェックインしているわ。昨夜は京都だったんでしょうね」
フロントオフィスで律子は夫とフランス女の滞在をたしかめていた。
二人は外出中である。やがて帰ってくるかもしれない。ロビーのみえる場所を、律子は離れたくないようだ。
「女の気持ってふしぎですよ。自分にうしろ暗い点があると、かえって夫をゆるせなくなるのね。こんなこと私、はじめて。いままで干渉なんかしなかったのに」
「うしろ暗い点とは、どういうこと」
「柚木さんのことです。わかっているくせに。ほんとうに私、身勝手なの。自分だけ恋をしたいの。夫にはさせたくない。私が恋をしているあいだは、夫に苦しんでほしい」
「そういうものかもしれないな。でも、いまは冷静なんでしょう」
「事実をつきとめたら、おちつきました。なにしに大阪へきたのか、わからなくなった。やっぱり柚木さんに会いにきたのね」
律子はほほえんだ。高校時代の笑顔がゆっくり浮かび出て、正面に静止する。
律子はとりみださなかった。それが柚木には大きなよろこびだった。あこがれる気持が損《そこな》われていない。かえって濃くなっている。
「気が済んだから、これから東京へ帰ります。息子も家にいることだし」
「あわただしいんだな。大阪であそびませんか。ぼくがエスコートします」
「きょうは遠慮します。浮気亭主を追ってくるなんて、私、最低の状態だったんだから。柚木さんに合わせる顔がありません。こんど東京で、最良の状態のときに」
せめて食事を。柚木はさそった。ホテル内の日本料理の店へ二人は入った。
二人のあいだで、はじめて律子の夫のことが話題になった。
夫の父親が洋酒の輸入を手がけて産をなした。夫は二代目である。初代は引退して、逗子《ずし》で余生を送っている。
律子が札幌の大学の二年生のとき、同級生の紹介で大森と知りあった。大森はその同級生の親戚だった。夏休み、札幌へあそびにきていたのだ。大森は東京の大学の四年生だった。経済学部で首席を争っていた。
「金持の息子で、秀才だったんだな。一目惚れしたんですね」
「ちがうの。ルックスの良くない人なんです。フランス語でいえばプチグロ。小柄で、ふとっているという意味」
執拗《しつよう》に乞われて律子は大森に嫁《とつ》いだ。
大森は事業を大きくした。律子や子供にもやさしい。不満な点は、音楽に理解がないことぐらいだった。だが、八年まえ社長になってから、海外での行動がいかがわしくなった。律子は見て見ぬふりをしてきた。
「亭主というのは、大なり小なりそんなものですよ。さわぎ立てなくてよかった。あなたの分別がご主人の支えになっている」
「下心があって追及しなかったんです。いつか私も恋をする。いま正義をふりかざすと、そのとき困るという意識があったの。最近それがわかってきました」
ゆっくり食事を終えた。六時まえだった。
二人は料理店を出た。ロビーを通って玄関へ向かった。柚木は新大阪までタクシーで律子を送ってゆく気だった。
玄関のそばで声をかけられた。あゆみが立っている。柚木は約束を思いだした。六時にあゆみとここで落合い、食事のあと同伴出勤する予定になっていたのだ。
あゆみを待たせて、律子についてタクシー乗り場へいった。適当に事情を話して別れを告げた。二週間後に律子のピアノの発表会がある。なにを措《お》いても聴きにゆくつもりだ。
律子を見送ってから柚木はロビーへもどった。館内のイタリア料理店へあゆみをつれていった。あゆみが食事するあいだ、柚木はワインを飲むことにした。
四、五日まえ、柚木は毛皮のコートの売買契約書にサインしてあゆみにわたした。総額百五十万円。十回払いである。そのせいかあゆみはうるんだ目を柚木に向けてくる。店が終ったあと待ちあわせるつもりらしい。
「さっきの女性、例の同級生の人でしょう。大阪へきてはったの」
あゆみは玄関のほうへ目をやった。律子の姿を追うような動作だった。
「用があったんだ。やさしくて教養ゆたかな人だよ。あゆみもわがままばかりいっていると、このおじさんを彼女に奪《と》られるぞ」
「まさか、あんなお婆ちゃんに。なんぼなんでもありえないことやわ」
スパゲティをあゆみはうまくフォークに巻きつけた。首をかしげて口に運んだ。
あゆみの体はしなやかで無駄がなかった。肌もみずみずしい。向いあっているだけで、抱きごこちがよみがえる。
だが、それだけのものでしかなかった。柚木はあゆみの顔を遠く感じた。
中庭の楓《かえで》に色がつきはじめている。ことしは冬が早いようだ。毛皮のコートは、別れの記念品になるはずである。
5
律子は白地に蝶と小鳥の絵がすりの着物をきてきた。帯は濃紺のつむぎである。同じつむぎの白いバッグをもっていた。
柚木がレジで料金を払うあいだ、外の廊下に律子は立っていた。
廊下は夕暮れどきの明るさである。律子の表情はひきしまっていた。目もとだけがやさしい。かすかに上気していた。ワインを二人で一本空けたあとだった。
東京の古いホテルの二階にあるレストランだった。午後九時をすぎた。入ったときはほぼ満員だったのに、柚木たちを除くと客は一組だけになった。五人づれの男たちである。酔って威勢よく談笑している。
対照的に廊下はしずかだった。律子の姿がひどく孤独に映った。心を決めた女の姿は孤独にみえるものらしい。しばらくのあいだ、他人を寄せつけない印象になる。
柚木は廊下に出た。かるく律子の腕をとって歩きだした。正面のホールへ出た。体の関係をもつことを一日のばしにしたい気持は消えていた。律子の愛をたしかめるために、彼女を抱きたかった。律子はあゆみとはちがう。セックスは愛のあかしである。
エレベーターで十階へのぼった。すこし歩いてスイートルームへ入った。広い居間と寝室がならんでいる。ソファに柚木のスーツケースがおいてあった。柚木は部屋のあかりを夕暮れどきの水準に調節した。
窓辺に律子は立って夜景を見おろした。白い着物を透して、体の影がうかびあがった。柚木は近づいて、うしろから律子の両肩をおさえた。抱き寄せると、律子は体をあずけてきた。目をつぶって、柚木の肩を枕にする。
柚木は律子をこちらに向かせた。衣ずれの音にたかぶった。律子の後頭部を掌でささえてくちづけにゆく。舌をからませあった。律子の舌は小さくて薄い。とらえるのに手間どった。たちまち律子の呼吸がみだれる。苦しげな声がもれた。柚木は律子の唾液にかすかな青林檎《りんご》の香りを感じとった。
長いくちづけを終えた。律子は柚木の胸に顔を埋めて立っていた。柚木は抱きしめて陶酔する。あゆみの体よりもすこし重い。抱いた感触はやわらかだった。
柚木は律子のあごを指でささえて、あおむかせる。恥ずかしそうに律子は笑った。むかしと同じ笑顔である。イメージに頼る必要はなかった。柚木は感動していた。
「あのころぼくがキスしにいったら、あなたはどうしただろう。必死で抵抗したかな」
「私、うれしかったと思う。柚木さん、キスしてくれればよかったのに」
「まだキスの味を知らなかった。あんなことをしてなにがいいのかと外国映画を見るたびに思ったよ」
「キスってまだ一般的じゃなかったものね。日本映画にキスシーンが出はじめて、みんなまねするようになった。ああいうことって、あっというまに普及するのね」
会話のおかげで、緊張がほぐれた。
二人は離れた。柚木は冷蔵庫の扉をあけて清涼飲料をとりだした。二人でのどをうるおした。ついで柚木はバスルームへ入って、風呂の支度をした。
順番をゆずりあったあと、柚木がさきに入浴した。湯を入れ替え、バスタオルを体に巻いて外へ出た。部屋は暗くなっていた。寝室の電気スタンドが一つついているだけだ。窓辺の椅子のうえに、律子の姿が幻想めいて仄白《ほのじろ》くうかんでいた。
だまって柚木は寝室へ入った。ベッドに横たわった。汗ばんでいる。タオルをとって、全身を部屋の空気にさらした。高まった体温が快く薄闇に吸いとられていった。
居間で律子の立ちあがる気配があった。柚木の全身が鋭敏になった。律子の足音、息づかい、立ちどまった気配、足袋《たび》をぬぐ音、帯をとく音、すべて皮膚に伝わってくる。
律子はバスルームに入った。柚木はほっと息をついた。スタンドのあかりで自分の体を見まわした。腹がたるんでいる。肩や胸の筋肉もおとろえてしまった。だが、年齢にしてはそんなに不恰好《ぶかつこう》ではないと思う。背も高いほうだ。百七十五センチある。
プチグロ。冷酷なことばで律子は夫を呼んでいた。それよりはましなのだろう。飲みすぎた失敗もないはずだ。うまくやろうという緊張をむしろ警戒しなければならない。
ついにここまできたという安堵《あんど》はなかった。つぎの場面だけが頭にある。ひたすら待機している。息のつまる時間だった。人なみに情事の経験をつんだにしては余裕がなさすぎる。幼馴染みとの恋が叶《かな》う瞬間は、三十年がかりのドラマのクライマックスだからだろう。
バスルームの扉があいた。足音がきこえる。胸まで毛布をかぶって、柚木は茫然と出入口をみつめていた。体がうごかない。恐怖の対象を待ってでもいるようだ。
律子が寝室へ入ってきた。そなえつけの浴衣をきている。電気スタンドのオレンジ色のあかりに、やや伏目の顔がうかんだ。柚木は緊張がやわらいだ。薄暗に細部が溶かされて、律子は充分に若く美しかった。
ベッドのそばを律子は通りすぎた。スタンドの灯を消した。まっ暗になる。息づかいとともに律子がベッドへ倒れこんできた。毛布のなかへ迎えいれてやる。浴衣をきた女体があえぎながら抱きついてきた。
くちづけをかわした。はげしいキスになった。舌をからませあったまま、柚木は律子の帯をとく。浴衣をぬがせる。腰を抱きしめる。脚をからませあった。湿った二人のふとももが、あわただしく密着しあった。
「あなたが見たい。スタンドをつけましょう。豆電球だけでいいんだ」
「おねがいだからやめて。柚木さんをがっかりさせたくないの。ああ、三十年まえにこうなりたかった。若かったころに」
「がっかりなんかしませんよ。あなたは変っていない。あのころのままです。おれにとっては、あなたはビーナスなんだ」
「あかりをつけないで。私、恐いの。光をあびたら、なにもかも終ってしまうわ」
ことばをかわしながら、二人はたがいの体を手でさぐりあっていた。
律子の背中や腰を柚木はなでさすった。律子の特徴をつかもうとしていた。ヒップやふとももにも手をのばした。想像したよりも律子は肉づきがよい。骨組みもしっかりしている。肉はやわらかい。ヒップは大きく、脂肪の粒でざらついていた。全身にほどよく脂《あぶら》が乗っている。それらが特徴だった。
乳房を柚木は愛撫しにいった。いそいで律子は柚木の手首をおさえる。強くは抵抗しない。さぐられるにまかせた。空虚な感触が掌に伝わってくる。柚木は胸をつかれた。否応《いやおう》のない老いがそこにあらわれている。
「ね、わかった。もうお婆さんなのよ。さらけだささないで。みじめになる」
律子の乳首は若い感触を保っている。
指でそれを揉んだ。律子は声をあげる。柚木はそれを口にふくんだ。ふくらみの空虚さが気にならなくなった。かたちはおとろえてても感性は生きている。
柚木はしばらく乳房を吸った。二人の体から毛布を剥ぎとった。闇に目が慣れて、律子の体が仄白く判別できるようになった。雪山を夜、上空から見おろしている心地である。ふれてみると、あたたかい雪山だった。キスの移動につれてそれは微妙にふるえた。
柚木のなかで欲望はたぎっていた。若々しく体が反応している。律子の体が少しばかり老《ふ》けていようと問題ではなかった。律子が律子であるかぎり柚木は彼女が欲しくなる。活力が体いっぱいになる。
だが、物足りない思いが一方にあった。柚木にとって律子はあこがれの女でなければならない。崇拝の対象であってほしい。少年のようにすなおな気持で奉仕したい。そうすることで最大のよろこびを味わえそうな気がする。そうしたくてたまらない。女を尊く思う感情は、柚木にとって、性のよろこびを盛りあげるために湧いて出るもののようだった。
柚木は律子の顔を見たくなった。耐えがたい衝動だった。いま愛撫を加えている相手が律子であることをたしかめたい。それなしには、あこがれの気持が湧いてこない。
柚木は律子の首へくちづけにいった。手をのばして電気スタンドをつけた。律子の全身がうかびあがった。目じりにしわの刻まれた顔と、萎《な》えた乳房があらわになった。
律子は悲鳴をあげた。うつぶせになってスタンドを消した。動かなくなった。
「ひどいわ。どうしていじめるの」
律子はしゃくりあげた。仄白い肩や背中が闇の底でふるえている。
柚木は律子をあおむけにした。のしかかって、闇の底の顔を見つめた。
「すみません。でも、ほっとしました。まちがいなくぼくは南部律子を抱いているんだ」
律子の目に柚木はくちづけした。
熱いものをそっと吸いとった。まちがいない。きみは律子だ。彼はつぶやいた。
まっ暗ななかで、最初、律子の全身は仄白い野山のようにみえた。だが、いまはすっかり目が馴れて、白い野山が人間の輪郭をもちはじめた。ぼんやりと、それは女の形をとった。おかげで変化が生じはじめた。
若い律子の裸身を柚木は見たことがない。記憶を手がかりに昔をよみがえらせるすべがなかった。だが、闇の底の仄白い裸身が、記憶の裸身の代りをした。全裸になった若い律子のイメージが形成されてきたのだ。
ぼんやりと律子の顔がうかんできた。しだいに鮮明になった。むかしの律子の顔である。利口そうにひきしまっている。肌に艶があった。律子が笑った。口もとから、透明感のある歯が覗いた。あこがれの感情で柚木はのどの奥が痛いくらいだった。
若い裸身も闇の底からうかんできた。かたちのよい双《ふた》つの乳房。乳首の色が明るい。ひきしまった腰と腹。わずかな草むら。双つの脚が優雅な線を描いて投げだされている。足指が、なぜかぜんぶ反りかえっている。
「わかったよ。暗いほうがいいんです。そのほうがはっきりあなたがみえる。あなたを抱くときは、照明は無用なんだ」
律子がいまは全身を陽光にかがやかせて横たわっていた。
均整のとれた、すばらしい裸身だった。あゆみの裸身よりものびやかで、色が白く、若々しかった。律子は笑って片脚をあげる。柚木はその足へとびついていった。
足指を一本ずつ口にふくんだ。足裏にくちづけする。くちびると舌で下肢をさかのぼった。時間をかけて反復する。やがて、大きくひらかせた。女の部分から湧きでる暖い泉を柚木は飲みにいった。かわいた獣のように舌を鳴らして飲んだ。