第一章 昔馴染み第二章 性 夢第三章 春の断層第四章 熱い夜の祝祭 第一章 昔馴染《むかしなじ》み.3
律子はさけんでいた。体が千切れそうなほど悶《もだ》える。こぶしでベッドをたたいたり、体をねじってシーツを噛んだりする。暗くてもその様子がよくわかった。
三十年の恋が成就した実感に柚木はひたった。体のなかが、よろこびで黄金色にかがやいた。奉仕に彼は陶酔した。年齢とってようやく知った陶酔である。柚木は目のまえに新しい、広い空間がひらけたのを感じた。それを意識するのが、二重のよろこびだった。
柚木はやがて、若い律子と体をかさねあわせた。結合して激しく動いた。
「ああ、あなた、あなた——」
律子は口走った。両手と両脚で柚木に抱きついて離さなかった。
脳裡に夫を抱いていたのか。夫に抱かれている気でいたのか。柚木は首をかしげた。夫を愛しているのに、柚木と恋をしたのだろうか。
やがて柚木は完了した。目のくらむような瞬間を通った。みちたりていた。
高名な女流ピアニストの一門の発表会は、午後一時の開演だった。
東京都下K市の市民会館が会場だった。開演十分まえに柚木はそこへ着いた。
招待状を受付に出した。大森達夫殿。律子の夫の名前が宛名になっている。
「あ、大森のおばさまの——」
受付の若い女が声をあげた。
じっと柚木をみつめる。大森達夫とまだ顔を合わせたことがないらしい。
若い女は、受付の横にいた男に声をかけてテーブルの外へ出てきた。二人はていねいに挨拶する。律子の夫だと信じこんでいる。二人とも律子が後援しているオーケストラのバイオリン奏者だった。
柚木は誤解を訂正するチャンスを失った。めんどうでもあった。案内されるまま、客席へ入った。貴賓席というべき正面の席が柚木に用意されていた。
客席はおよそ五百だった。満員である。良家の夫人や令嬢が多いようだ。男も百人以上はきている。柚木のまわりには、出演者の家族らしい人々が腰をおろしていた。柚木と同年輩の男が数名いた。
すぐに開演のベルが鳴った。司会者の挨拶につづき、まず師匠の女流ピアニストがドビュッシーを演奏した。
冴《さ》えたピアノの音をきいて、柚木は頭のなかが晴れわたった思いだった。コンサートなど十年ぶりである。若いころはよく足を向けた。久しぶりに良い演奏をきいて、学生時代にもどったような気がした。
つづいて弟子たちの演奏になった。持時間は、上級者が一人二十分程度らしい。最初、若い男性が出てきて、モーツァルトのソナタを弾《ひ》いた。二番目に出てきた女性はフォーレを聴かせてくれた。柚木の耳には、どちらの演奏も相当のレベルにきこえた。感動して、熱心に手をたたいた。
律子は三番目に出てきた。白いドレスを着ている。緊張で顔が青白かった。きちんと背をのばしてピアノのまえに腰をおろした。
演奏がはじまった。ショパンだった。律子は眉根を寄せて、神経質な顔になっていた。ときおり首をかしげて自分の音にききいった。澄んだ音がつづけて柚木ののどへ流れこんでくる。
胸のなかが柚木はふるえた。皮膚もふるえはじめた。高校時代と比較にならないほど律子は上手になっている。一門のランクでも上位にいるようだ。メリハリのきいた、スケールの大きな演奏だった。
柚木は深い感動にかられた。あの山の中の学校から出てきて、よくもこんな舞台をふめるようになったものだ。おたがいにがんばった。二人は戦友であった。
息をつめて、柚木は律子をみつめた。ゆうべホテルの部屋で体をむさぼりあった相手だとは思えなくなった。律子が遠い存在に感じられた。彼女をとらえたカメラが大きくうしろにひいたように、はるかに手のとどかない女となって映りはじめる。律子は文化祭のステージでショパンを弾いたときの律子だった。
あこがれの念で柚木は胸がいっぱいになった。律子とまたホテルの部屋で会いたくてたまらない。ドレスをぬがせたい。まっ暗な部屋で思いきり奉仕してやりたい。
「奥さまからおあずかりしました。演奏が終ったら舞台でわたしてほしいそうです」
係員が花束をとどけにきた。
さきに演奏した二人はそれぞれ家族から花束をうけとった。律子は柚木に夫の代りをさせるつもりなのだ。
昨夜ベッドで律子が口走ったことを柚木は思いだしていた。