1
日曜日の午後五時。柚木克彦はホテルに着いた。ロビーは混みあっている。ベンチにもフロアにも南部律子の姿はなかった。
柚木はフロントテーブルでチェックインの手つづきをした。ダブルベッドの部屋が予約してある。ベルボーイに案内されてエレベーターに乗った。期待で胸がはずんでいる。
部屋は二十階にあった。ボーイが去ってから、柚木は窓に近づいた。新宿の高層ビル街が見わたされる。窓を大きくとった部屋だった。硝子《ガラス》の縦のサイズが柚木の頭上からひざの位置まである。ホテルのまえの道路を、ほとんど垂直に見おろすことができた。歩道の人影が豆粒のようだった。
柚木は身がすくんだ。目まいがして、いそいで窓を離れた。背中から尻にかけて、刷毛《はけ》でなでられたように神経がざわついている。
少年時代から柚木は高所恐怖症の傾向があった。成人してますますひどくなった。原因はわからない。といっても、飛行機のなかや高層ビルの最上階にいても、窓から下界を見おろさないかぎり冷汗《ひやあせ》をかくことはない。高い部屋でも、情事に不都合はなかった。
すぐに柚木は部屋を出た。一階へおりてロビーを見わたした。まだ律子の姿はない。人待ち顔の人々がならぶベンチのそばをぶらついた。新幹線で大阪から上京したばかりである。足腰がこわばっていた。
淡いベージュの着物をきた女がベンチから腰をあげた。こちらへやってくる。南部律子だった。柚木は虚をつかれた。再三そのベンチを見たのに、律子に気づかなかったのだ。
ほほえんで律子は柚木のまえに立った。ひどく顔色がわるい。艶《つや》がなく、かすかに紫がかってみえた。目の下がくぼみ、頬も削《そ》げている。どこにでもいるおばさんの顔だった。柚木は目をふせた。
短い挨拶を二人はかわした。律子の顔が目に入らぬよう、柚木はいそいで肩をならべた。エレベーターのほうへ歩いた。横目でみると、いっそう律子は老《ふ》けてみえた。
「風邪をひいてしまったの。もう熱はないんだけど」
エレベーターのなかで律子はかるく咳《せ》きこんだ。声がざらざらしている。
「相当ひどいようだね。顔がやつれている。体はだるくないですか」
「すこしだるい。でも、せっかくのチャンスを逃すわけにいかないでしょ。ビタミンCをたくさん嚥《の》んで出てきたのよ」
柚木は二週間ぶりの上京だった。
律子は柚木に寄りそった。エレベーターにはほかにだれもいない。かるいくちづけを律子は望んでいた。風邪の感染が恐くて、柚木はそしらぬふりをした。いまから年末にかけて業務が多忙になる。風邪で寝こんだりしては、とりかえしがつかない。
最上階のレストランへ二人は入った。窓ぎわの席へ案内された。ここも窓が大きくとってある。下界がほぼ垂直に見おろされる。窓のほうへ顔を向けられない。街は夕闇に染まりはじめていた。暗くなってしまえば、恐怖はなくなるだろう。
ハイドンのセレナードが店内に流れていた。四人の若い女性がステージで演奏している。二つのヴァイオリンとヴィオラ、チェロの編成だった。柚木は心がなごんだ。あまりに古く、あまりに可憐《かれん》な音楽なのだが、柚木の感性には合うのだ。
兎のテリーヌ、コンソメ、サラダ、鶏のワイン煮のメニューにした。ワインの選択は律子にまかせた。律子は洋酒の輸入商の妻である。柚木の知識では太刀打《たちう》ちできない。
「すみません。すこし贅沢《ぜいたく》をさせてね」
アロース・コルトンを律子はえらんだ。
ブルゴーニュのやわらかな赤である。年代も律子は指定した。
「正直いって、あまり食欲はないの。でも、お酒だったら大丈夫です」
とりあえずキールから飲みはじめた。
ときおり律子はハンカチを顔にあてて咳《せき》をした。苦しげな咳ではない。いくぶん健康を回復したようにみえた。
近況を語りあったあと、いつものように同窓生のだれかれの噂話になった。柚木よりも一級上のHという男の消息を律子は教えてくれた。Hは一番の秀才だった。生徒会長をつとめ、達者な弁舌で総会を圧倒していた。東大受験に何度も失敗して、二流の大学へ入った。在学中から作家志望だった。卒業後は公務員になり、家では創作にはげんだ。作家になると公言していた。芽の出ないまま五十歳になろうとしている。役所でもうだつがあがらないらしい。酒におぼれて、最近はアル中になったという。
「土曜日、池袋サンシャイン劇場のコンサートを聴きにいったんです。駅のそばでHさんに会ったわ。べろべろに酔ってガード下の壁にもたれているの。まだ五時半ごろよ。ああ噂のとおりなんだと思いました」
律子は自家用のベンツに乗っていた。Hを見つけて、運転手に停車を命じた。だが、声をかけそびれてそのまま立ち去った。
「あのHさんがアル中——。信じられないな。針路の選択をあやまったんだ」
「早く転向すればよかったのにね。いまからではもうおそいでしょうし」
「きみは音楽の道をまっすぐ歩いて、うまくいっている。倖《しあわ》せな人だ。このあいだのショパンはすばらしかった。心臓がふるえた」
「私なんか素人《しろうと》芸《げい》だもの。自慢になりません。でも、柚木さんに聴いていただいてよかった。私にも一人ファンがつきました」
律子は笑顔になった。高校時代を思い出させる表情だった。
ほほえみが律子の防護マスクになった。目じりのしわ、面《おも》やつれ、肌の荒れなどが微笑の裏へすこしずつかくれてゆく。高校時代の律子がゆっくり復活しはじめる。柚木と律子はタイムマシンに乗って、過去へ向かって動きだしていた。ワインのおかげで律子は健康な顔色をとりもどした。柚木も生き生きした気分になった。
絃楽四重奏の女性奏者がステージから去った。代って若い女性ピアニストが出てきて、演奏をはじめた。ドビュッシーの小曲だった。さすが東京である。クラシック音楽を聴かせるレストランは、関西にはすくない。
「あ、ミスタッチ」
律子は笑ってステージをふり向いた。
「あ、また」
しばらくして律子は首をすくめた。ピアノに関しては容赦《ようしや》がなくなるらしい。
「すごいな。おれなんか、どこがミスタッチなのか全然わからない」
「すこし本格的に習えばすぐにわかるわ。柚木さんもおやりになればいいのに。ピアノが面倒なら、声楽のほうでも」
「シューベルトを歌えるようになりたいね。おれの声では漬物がくさるけど」
「ご謙遜ですね。いいバリトンでしたよ。私、柚木さんのソロを聴いたことがあるの」
妙なことを律子はおぼえていた。
郷里の町に愛好者による合唱団があった。律子は伴奏者だった。高校二年のとき、団員だった同級生がクリスマス公演に出てほしいと柚木にいってきた。ヘンデルの「ハレルヤ」をやるのに、バスの人数が足りなくて困っているらしい。楽譜をろくに読めないので、柚木はためらった。結局は承諾した。律子と親しくなれるかもしれない。
練習に彼は出かけていった。その日はとくに男子の団員の出席率がわるかった。女子は三十名もいるのに、男子はテノールが五名、バスは柚木が一人きりである。
いびつな編成のまま、四部合唱がはじまった。どうにか柚木はついていった。やがてバスのパートのみがうたう箇所になった。否《いや》も応もなく柚木は一人で声を張りあげた。
ときわに変りあらじ
たったそれだけのフレーズだった。すぐに他のパートの合唱が追いかけてきた。案外うまくいった。柚木は自信を抱いた。「ハレルヤ」は何度もくりかえされたので、柚木は何度も短い独唱をすることになった。
その後、四、五回練習に出た。クリスマス公演にも参加した。だが、バスが柚木一人だったのは、初回の練習だけだった。
「あの一声をおぼえていてくれたのか。まいったな。光栄なようだが、不倖せだ」
「あれきり合唱団においでにならなかったでしょ。私、期待していたのに」
「サッカーの練習があったからね。三年の冬は受験で必死だったし」
現実の律子の顔は消えた。高校時代の律子の笑顔がいま柚木の目のまえにあった。
柚木は浮き立っていた。全身が火照《ほて》って、しかもこわばっている。律子の顔に陽光がさし、背後に郷里の野山がひろがった。タイムマシンが目的地に到着したのだ。早く二人きりになりたい、と柚木は思った。
ワインのボトルがからになった。柚木は料理をたべ終った。律子のほうはサラダに手をつけただけだが、表情は明るい。酔って風邪をわすれてしまったようだ。
コーヒーを飲んだあと、柚木は律子をうながして席を立った。建物がゆっくりと揺れるような心地だった。社用で酒を飲むときとちがって、酔いかたが早い。なかでも良質なワインに柚木は抵抗力がなかった。
支払いをすませて外へ出た。律子は廊下の窓のそばで夜景を見ている。急に咳きこみはじめた。うつむいてハンカチを口にあてる。
「大丈夫ですか。つらそうだな」
近づいて柚木は覗《のぞ》きこんだ。
すぐに咳はとまった。律子は目をとじて、壁にひたいをおしあてた。
「すみません、息切れがするの。体調がわるいのに、飲みすぎてしまった」
「部屋で横になりなさい。暖房を強くして寝れば、風邪もなおりますよ」
「私、きょうはこのまま帰ろうかしら。熱が出たら困るもの。柚木さんに風邪をうつしてしまうかもしれないし」
「ご心配なく。抵抗力は強いほうなんです。万一うつっても悔《く》いはないですよ。うつるようなことをあなたとするんだから」
柚木は律子の着物の袖下へ手をいれた。
律子は顔をあげた。笑ってかるく柚木の胸を叩いた。笑顔が華やいでいる。
二十階の部屋へ二人は入った。さきに柚木がシャワーをあびた。
柚木がバスルームから出ると、律子は肌じゅばん姿になっていた。さむそうに肩をすぼめてバスルームへ向かう。柚木とすれちがうとき、会釈《えしやく》をした。柚木は裸にバスタオルを巻きつけた恰好《かつこう》である。窓辺に立って、地上を見おろした。
外はもう暗い。街灯やホテルのあかりが、街路樹や歩道をやわらかく照らしている。光線の工合で樹々《きぎ》はところどころ新鮮な緑色をしていた。豆粒のように人々が歩道をゆききしている。人々は暗がりからホテルのあかりのなかへあらわれ、短い脚をせっせと運んで、また暗がりへ消えていった。車がひっきりなしにホテルのまえを走り去る。灯をともしたゴキブリのようにみえる。人の動きも車の動きも、上から見るといじらしかった。
「みんな大変なんだなあ」
優越感をもって柚木はつぶやいた。
われにかえった。高所恐怖症が消えてなくなっている。はるか足下にある地表を平気で見おろしていた。酔っているせいだ。感心して柚木は頭をふった。酒は人を変える。身にしみてわかった。
風邪がうつるかもしれない。不安が柚木の頭をかすめた。もうなるようにしかならない。柚木はベッドのそばへいった。サイドボードのFM放送のスイッチを押した。ヴァイオリン・ソナタが流れた。フォーレのようだ。柚木は体のタオルを剥《は》ぎとって、ベッドに横たわった。
音楽にききいった。むかし律子にたいして抱いたあこがれの感情を呼びおこそうとしていた。ステージでピアノを演奏する律子の姿を思いうかべた。彼女は、高度な文化やゆたかな生活の申し子のように映った。苦しいほど柚木はあこがれた。律子自身にだけではなく、彼女をつくりだした環境もひっくるめてあこがれの対象にしていた。
二十分ばかりたった。律子がバスルームから出てきた。浴衣《ゆかた》に着替えている。相変らずさむそうに肩をすぼめていた。律子は部屋のあかりを消した。壁ぎわのスタンドの豆電球が一つついているだけになった。
律子は柚木のとなりに横たわった。
「会いたかったわ。毎日想っていた」
激しく抱きついてきた。むさぼるようにくちづけにくる。
柚木は律子の舌を吸いながら、浴衣をぬがせにかかった。毛布のなかで律子は全裸になった。くちづけをつづける。律子はふるえていた。ものもいえないほどたかぶっている。
律子の顔から柚木は離れた。白い首すじや肩にくちびるを這わせた。いつもより肌に張りがない。風邪のせいだろう。胸はくちづけせずに通りすぎた。
しだいに目が馴れてきた。柚木は毛布をひき剥がした。闇の底に仄白《ほのじろ》く律子の裸身があらわれる。しばらく柚木は見惚《みと》れた。フォーレの曲に耳をすました。裸身がとても貴重なものに思われてくる。若いころの律子の体がやがて目にうかんでくるはずだった。
律子といるとき、柚木はいつも高校時代の律子の面影《おもかげ》を脳裡に停《と》めている。おかげで当時の律子と会っている気持になれる。だが、あのころの律子の裸身は見たことがない。ベッドで思いうかべて当時の律子をとりもどそうにも、手がかりがないのだ。
若々しい律子を抱きたければ、いまの律子の体をもとにイメージをふくらませなければならない。部屋を暗くする。闇のなかに横たわる律子のぼんやりした姿を手がかりに、むかしの律子の裸身を思い描くのである。上向きの乳房、くびれた腰、のびやかな下肢を目裏《まなうら》に描きだす。すると、柚木の体に若さがみなぎってくる。これまでの二度の逢《お》う瀬《せ》がそうだった。いまの律子の姿をありのままに見て、同じように燃えあがれる自信はない。
柚木は律子のふとももへくちびるを這わせていた。イメージの操作は成功しかけている。闇の底の中年女の脚が、長い、ひきしまった女子高校生の脚に変りつつあった。
律子の声がきこえた。陶酔した声だった。洟《はな》をすする音がつぎにきこえた。しばらくして、またきこえた。柚木のくちづけしている脚は、弾力のとぼしい中年女の脚にもどった。ひそかに柚木は舌打ちした。想像をかき立て、あらためてくちづけに移る。
律子は咳きこんだ。ついで、かすかな物音がした。ティッシュペーパーをとって始末したらしい。若々しい脚は消え去った。気をとりなおして柚木は作業を再開する。なかばまできて、また洟をすする音がきこえた。柚木はため息をついた。もう風邪はうつっただろうか。考えざるを得なかった。
柚木は律子の秘密の部分へ顔をふせていった。投げやりな気分になっていた。奉仕することで、逆に若々しい裸身のイメージを呼びおこせるかもしれない。舌と指で、律子の体内の快楽を掘りかえした。律子は激しく反応した。柚木のほうはさらに冷静になった。成熟した女の反応を見せられて、若い律子のイメージはかえって遠くなった。
二度、律子はのぼりつめた。もういいだろう。柚木は律子にのしかかった。打てばひびくように律子は体をひらく。
洟をすする音がきこえた。柚木の顔からその音は三十センチも離れていない。柚木の体が若さをうしなった。あわてて回復をはかる。咳がきこえた。努力は実らなかった。
律子がくちづけにくる。彼女のくちびるがなめくじのように柚木には感じられた。
「さむいわ。さむい——」
柚木の腕のなかで律子はふるえた。
最初から彼女はときおりふるえていた。昂《たかぶ》っていたせいだけではなかったようだ。
「まずいな。熱が出たのかもしれない。しばらく休みなさい」
柚木は律子とならんで横たわった。二人の体を毛布で覆った。
年齢《とし》をとって気むずかしくなった。五、六年まえまでは女が風邪だろうと腹痛だろうと、体はいつも若々しかったのに。暗い天井をながめて柚木は思った。FM放送の音楽はドビュッシーに変っている。
毛布のなかで律子が動きはじめた。頭を上に向けたまま足のほうへずり下がってゆく。柚木の腹のあたりで律子は丸くなった。柚木の体へ快楽をおくりこんでくる。
「じっとしてなさい。熱がひどくなるよ」
毛布をもちあげて柚木は声をかけた。
「いや。私だけ済ませたなんて。わるいわ。柚木さんも——」
それきり律子は物がいえなくなった。奉仕のお返しにとりかかったからだ。
まもなく柚木の体は若さをとりもどした。あおむけになったまま、柚木は結合をもとめた。疲れたといって律子は応じない。そのまま奉仕をつづけた。
飲ませて。やがて律子は声をかけてきた。甘えた気分で、柚木は全身を投げだした。
2
午前零時すぎ、柚木の家の電話が鳴った。
電話機は階下にある。二階の寝室のなかで柚木はその音をきいた。
ベッドで柚木は読書していた。となりのベッドで眠っていた妻の菊枝《きくえ》がねむそうに顔をあげる。白い仔犬が彼女の腕のなかにいた。
「いいよ。おれが出るから」
柚木は起きて寝室を出た。
不安だった。子供たちへの電話にしては時刻がおそすぎる。高血圧でなやんでいる郷里の母が倒れたのではないか。高血圧患者には、冬はいちばん危険だときいている。
「もしもしィ、あ、柚木さん。夜おそう電話してごめんなさいね。いま話してもいい?」
酔ったあゆみの声がきこえた。
彼女はまぎれもなく柚木の愛人だった。だが、柚木の頭のなかで、その語はあゆみとうまく結びつかない。愛人というには年齢的にも精神的にも若すぎるし、柚木に拘束されている様子がなかった。
「いいよ。どうしたんだ急に」
不機嫌に柚木はこたえた。不幸の報《しら》せでないと知った安堵《あんど》は、瞬間に消えていた。
大学二年の長女と高校一年の長男が一階のそれぞれの部屋で寝ている。浮気の相手と話をするのは、気がとがめた。
「大事な相談があるの。待ってたけど、柚木さん、最近全然店へきてくれへんでしょ。連絡もないし。私、困ってしもた」
勤務を終えて公衆電話で話しているらしい。夜の盛り場の物音が伝わってくる。
「私ね、お店をやろうと思うの」
あゆみの息づかいが伝わってきた。思いつめた口ぶりだった。
「店って、なんの店だ。バーか」
「そうなの。資本を出してやるいう人がいるの。小さいお店やったら出せるわ」
「資本をねえ。まじめな話なのか。バーの経営はたいへんなんだぞ」
きみにはまだ早いといいたいのが本音である。かろうじて抑制した。
「そやから柚木さんに相談したかったんやないの。ねえ、あしたお食事ごちそうして。ゆっくり話をしたいの。いいでしょ」
「わかった。あすの午後、会社へ電話しなさい。打合せをしよう」
柚木は話を打切った。最初感じたのとは質のちがう腹立たしさがこみあげている。
柚木は寝室へもどった。ベッドに横たわってあかりを消した。闇のなかから菊枝の視線がからみついてくる。
「××からだったよ。いま北新地で飲んでいるらしい。べつに用はないんだが、久しぶりで声がききたかったんだそうだ」
学生時代の友人の名を柚木はあげた。
だまって菊枝は寝返りを打った。こちらへ背を向けて寝息を立てはじめる。こうした場合、夫を追及すると自分も傷つくことになるのを菊枝は知っていた。むかしから柚木は、善良な夫ではなかった。
木曜から金曜へ日が変ったところである。東京からは月曜の最終の飛行機で帰った。さいわい風邪の症状は出ていない。あゆみには二週間近くごぶさたしていた。そのことを気にもとめていなかった。
なぜあゆみをほうっておいたのか。目をとじて柚木は考えた。愛情がさめてきたというわけではない。もともと愛といえるような感情は抱いていなかった。南部律子と体の関係ができてから、急にあゆみに冷淡になった。考えてみると、あゆみに会いたくなるのは彼女の体が必要になったときだけだった。先日柚木は律子を抱いたばかりである。だから、あゆみが必要でなかったのだ。
資本を出してくれる人がいる。あゆみのことばが耳に残っていた。だれか金持の男がそんな条件であゆみを口説《くど》いているのだろう。あゆみは乗り気になっている。相談とは、別れ話のことなのだろうか。
渡りに舟、といえなくもなかった。あゆみとの仲はおよそ一年になる。彼女の体にもすっかり馴れた。律子と今後逢《お》う瀬《せ》をかさねてゆけば、あゆみを必要とする度合は小さくなる一方だろう。年齢に柚木は規制されはじめた。二人の愛人をもつのは重荷である。
あゆみに倦《あ》きたわけではなかった。手離すとなると、惜しい気がする。柚木なりに金もつかった。マンションを借りてやり、家賃も払っている。百五十万円の毛皮のコートも買ってやった。償却がまだ済んでいないという気がする。済んだと感じるのは、完全にあゆみに倦きたときなのだろう。
柚木は寝返りを打ち、足をのばした。考えが経済の方面にかたむいたことで、自己嫌悪にかられていた。寝言めかして、罵声をあげた。菊枝の布団のなかにいるプードルの仔犬が唸《うな》りはじめた。柚木になついていないのだ。菊枝が小声で仔犬をあやした。
あくる日の夕刻六時、北区の都市ホテルのロビーで柚木はあゆみと落ちあった。
ホテル内のステーキ店へ入った。カウンター席で食事をとった。店は混んでいて、大事な話をするのにはかえって好都合だった。
スナックバーをあゆみは出す気でいた。男女一人ずつ従業員をおく程度の店である。
「カラオケをおいて、お勘定は一人八千円ぐらいにするの。北新地の安い店はサラリーマンで一杯なのよ。最初の六、七人でモトがとれる。それ以上入ったぶんは丸儲けなの」
あゆみは幸福そうに計画を話した。
料金の高い酒場が北新地にはひしめいている。サラリーマンには足をふみいれにくい一帯である。安くて雰囲気のよい店があれば、彼らはあつまってくる。成功しているカラオケの店をあゆみは何軒も見ているようだ。
「リースのお店なら、五百万で営業できるらしいわ。家賃は割高やけど、計算してみたら、なんとかやっていけそう」
スナックバーをやるには、五千万や六千万は必要である。だが、リースシステムなら五百万で立ちあがれる。才覚のある女なら、資金はなくとも成功できる世の中になった。
話をきいて柚木は感慨にひたった。
知りあったころ、あゆみは目立たないホステスだった。とくに美しいわけでもなく、気のきいた会話もできなかった。あいまいな笑《え》みをうかべて客の話をきいているだけだった。もっと明るくしなさい。店のすみでときおりママに叱られていた。素朴なのが取得《とりえ》だった。あゆみを目当てに店へくる客は、ほとんどいなかった。
そのあゆみが店を出すといっている。信じられないほどの変化である。柚木に責任がないとはいえない。柚木と関係ができてから、あゆみは自信をつけたらしい。人見知りしなくなった。きわどい話にも乗るようになった。陽気に談笑しはじめた。英会話学院をやめ、午後まで寝る習慣をつけた。
あゆみは夜の仕事の垢《あか》のようなものを感じさせる女に変った。色っぽくなったと客には映ったらしい。人気が出てきた。五百万円出そうという男まであらわれたのである。
「その五百万については問題ないんだろう。おれにはどんな相談があるんだ。これを機会に別れようといいたいのか」
「そんな——。私、応援をたのみたかったの。会社の人をたくさんつれてきて。私、絶対に大事にするわ。値段も安くする」
「しかし、おれが応援したら、五百万の旦那におれたちのことがばれてしまうぞ。向うは怒って金をひきあげるだろう」
「大丈夫。小さいことにこだわる人やないもん。その人、酒屋さんなの。お酒の売上げあげるために、女の子に店を出させるの」
「売上げだけのはずはないな。色と欲の二人づれだ。当然要求してくるだろう」
柚木はあゆみの顔をみつめた。
のどから食道にかけて苦い汁が流れた。あゆみはもうその洋酒店主と寝たにちがいない。結果、洋酒店主は出資の約束をした。あゆみの体は合格だったわけだ。
「そんなことないわ。向うは商売でいうてるだけよ。私、口説かれてないもん」
「信じられないね。ほんとうのことをいえよ。もう寝たんだろう。なんの関係もない女に男が大金を出すわけがない」
「それが出すのよ。向うはお金持やから五百万ぐらいなんとも思うてないわ。ほんまよ。世の中にはそういう人もいるの」
柚木は苦笑いした。若い女のいうことは神経にこたえる。
あゆみが別れ話をもちだしたら、つべこべいわずに応じてやろう。さっきまではそう思っていた。みっともないまねはできない。いまが潮時だという判断もある。あゆみと切れても、柚木には南部律子がいる。さびしい思いはせずに済むはずだった。
だが、じっさいにあゆみの話をきいて、柚木は苛立《いらだ》った。あゆみと別れたくない。彼女につきまとう男の影がはっきりしたぶん、未練も色濃くなった。いつでも別れられる女のはずだったのに、当てがはずれた。
「要するに、もう決心してしまったんだな。おれが反対しても店は出すんだろう」
「柚木さん、反対なの。なんで。私、新地でいちばん若いママになるのよ。よろこんでくれる思うてたのに」
「どう見てもまだ早いよ。最低五、六年はキャリアをつまないと、手持の客が不足する」
「そやから応援をたのんでるんやないの。ほんまにお客さんつれてきてね。私、なにがあっても二年はがんばる。バーいうもんは、二年|保《も》てば安定するそうやから」
それ以上柚木はことばがなかった。
あゆみのいうとおり、まだ彼女は洋酒店主と寝ていないのかもしれない。だとしても店を出せば確実に関係ができるだろう。だから柚木はあゆみの計画に賛成できないのだ。それを自覚しているから、あまり強く反対意見をのべるわけにもいかない。
午後八時まえに食事が終った。二人はホテルを出た。タクシーで北新地へ向かった。
「きょうは休んでしまえ。どこかへあそびにいこう」
車のなかで柚木はさそった。あゆみの体に新鮮な欲望を感じていた。
「きょうは無理やわ。この時期に無断欠勤したらママに怒られてしまう」
あゆみは柚木の耳に顔を寄せてきた。
店が終ってからデートしよう。あゆみはささやいた。いつものように、北新地の近くのホテルの部屋で待つことにきめた。
あゆみの働いている店はラウンジバーである。馬蹄型のカウンターのほか、テーブル席が四組あった。白と黒を基調にしたメタリックな内装の店である。モダンジャズのピアノの音が、天井や内壁に快《こころよ》くはじける。
比較的若い医師、弁護士や、若い経営者などがあつまってくる店だった。財界人とか、金力がたのみの中小企業主は寄りつかない。柚木は最初、友人の弁護士につれられてこの店へきた。垢《あか》ぬけた雰囲気が気に入って、しばしば顔を出すようになった。
柚木とあゆみが入ったとき、店はまだ空《す》いていた。テーブル席を柚木は占領した。あゆみら三人の女の子を相手に飲んだ。八時半から九時にかけて店は混んできた。
九時すぎ、柚木はそろそろ腰をあげる気になった。三人づれの客が入ってきた。あゆみが立って迎えにいった。すぐに彼女はもどって、柚木に向かって両掌をあわせた。カウンター席へ移ってほしいという。テーブル席はぜんぶふさがっているし、カウンター席にも一人ぶんしか席がなかった。
済まなそうなあゆみの顔で、柚木は察しがついた。三人づれの一人が例の洋酒店主なのだろう。柚木は店を出るのをやめてカウンター席へ移った。三人づれを観察する。
六十歳ぐらいの男がいままで柚木のいた席に腰をおろした。灰色の髪をした、小柄でやせた男だった。あとの二人は洋酒メーカーの社員かなにかだろう、下座に控えている。あゆみは灰色の髪の男のそばにすわった。
あの男は何者なのか。柚木はバーテンダーに訊いてみた。予想どおり洋酒店主だった。案外貧弱な男なので、柚木は拍子ぬけした。体の関係がないというあゆみのことばを、信じられる気分になった。
柚木は出口へ向かった。あゆみがママといっしょに送りに出てきた。
「あの三人づれの男、例の酒屋だろう」
声をひそめて柚木は訊いた。
「ごめんなさい。私、ホテルへいかれへんようになってしもた」
怯《おび》えた顔であゆみがささやいた。
店が終ったら食事にいこうと洋酒店主がいっている。あゆみに任せる店について打合せしたいらしい。断わるわけにはいかない。逢う瀬は後日にしてほしい。早口であゆみはささやいた。
「わかったよ。おれを振って酒屋へなびくんだな。金持優先というわけだ」
「そんなんやないよ。わかってください。こんなチャンス、絶対逃されへんもん」
「話が終ったらおいで。おそくなってもいい。例によって部屋をとって待つから」
「けど、予定がはっきりしないもん。ホテルのバーで待っててください。電話するわ」
柚木につきあう気は、あゆみにはなかった。部屋をとって待たれると、電話したとき断わりにくい。だからバーで待てというのだ。
ママがそばにいる。ゆっくり話しあう余裕はなかった。柚木はそこを離れた。つぎの角《かど》まで歩いた。角でふりかえると、ママとあゆみはもう見送っていなかった。
タクシー乗り場に長い行列ができていた。後尾に柚木は立った。家へ帰る気になった。これでよい、うまく結着がついた。柚木はつぶやいた。二人の女をあやつるなんて、もともと物理的に無理だったのだ。自然なところへおちついた。これからは律子だけを大事にすればよい。恋愛、と呼べるような感情をもって対せるのは、最初から律子のほうだったのだから。
一方で柚木はいまにも足もとがくずれそうな感覚を味わっていた。けっして結着がついたわけではない。あゆみの出かたによって、事態はどう変るかわからない。自分自身がどう変るか、見当もつかない。洋酒店主があらわれたとたんに、柚木は強くあゆみに魅《ひ》かれはじめた。予想外の変化だった。似たようなことがいまから何度も起りそうな気がする。
タクシーはたまにしかこなかった。行列の順番が二、三くりあがっただけで、柚木は酔いがさめてきた。彼は行列を離れた。もう一軒のなじみの酒場へ向かった。そのあと自分がどうするか、おぼろげにわかっている。
その酒場も混みあっていた。のどの奥までの冷えこみが癒《いや》される状態ではなかった。柚木はカウンター席でバーテンダーと雑談しながら、湯割りのブランデーを飲んだ。
午後十一時半になった。柚木は酒場を出て近くにある都市ホテルへ向かった。あゆみに指定しておいたホテルである。
あゆみがこないのはわかっている。電話があるはずだ。彼女はことわりをいうだろう。どう答えるべきか、腹案はなかった。だが、ことばをかわせばなにか変化が起りそうな気がする。すぐに柚木は苦笑いした。とりつくろいすぎている。あゆみの声がききたい一心で、ホテルへ向かっているのだ。
ホテルの地階のバーへ入った。カウンター席でビールを注文した。テーブル席で何組かの客が談笑している。彼らの酔いと疲れがにじんで、空気は暖く湿っていた。
女性ピアニストが演奏していた。新しいクリスマス・キャロルだった。すなおな、優しいメロディが柚木の体にしみこんでくる。全身の血液が澄んでゆく感覚があった。律子の顔が柚木の脳裡にうかんだ。高校時代ではなく、現在の顔である。きちんと化粧すると、律子は十歳も若くみえる。
入り組んだ色と欲の世界から、やっと脱けだしたような気持だった。律子と会ったり、律子のことを考えたりすると、世の中の騒音が遠くへいってしまう。われにかえり、心の底からくつろぐことができる。反対にあゆみと会ったり、あゆみのことを考えたりするとき、柚木はさまざまな欲望の渦中に吸いこまれる。ネオンの色で頭のなかを染められてしまう。さっきまでがそうだった。ネオンの色のように、つぎつぎに気が変った。
律子と話したくなった。電話してみたい誘惑にかられる。律子の夫はヨーロッパに滞在中である。金髪のフランス女と熱い仲だというから、当分帰国しないだろう。電話してもトラブルにはならないはずだった。
だが、万一ということがある。夫が帰っているかもしれない、留守だとしても深夜の電話は人を不安にする。昨夜のあゆみの例でよくわかった。やはり慎しむべきだろう。
柚木は目をつぶった。クリスマス・キャロルをききながら律子のイメージを追いもとめた。あゆみを待ちながら律子を想う。その不自然さには気がつかなかった。
バーテンダーに呼ばれて柚木は目をあけた。電話が入っている。零時五分だった。あゆみは店の電話を使っているようだ。
「やっぱり駄目やねん。酒屋さんにおすし屋へ呼ばれてるの。もう一時間近う待ってるんやて。わるいけど、今夜は——」
「わかった。でも、おれだってかなり待ったんだ。ここへ寄ってビールを一杯だけ飲んでいけよ。それでおれも気分よく帰れる」
「ビール一杯だけ。ほんまにそれでいいの。ほな、いまからいくわ」
受話器をおいて柚木は席にもどった。
醜態だぞ。自分にいいきかせた。子供のような駄々をこねたと思う。半面、快感があった。醜態をさらすのはいい気持だ。五十近い男が日常の暮しのなかで醜態をさらせるチャンスは、あまりにすくなかった。
あゆみがバーへ入ってきた。ミンクのコートがぴたりと身について、隙のない、洗錬された印象をあたえる。芸能人のゴシップ以外に話題のない小娘にはみえなかった。夕刻待ちあわせたときは、柚木はあゆみのコートを気にもとめなかった。いまはちがう。そのコートのローンがまだかなり残っていることをどうしても意識してしまう。
あゆみはコートをぬいだ。黒のスーツを着ている。胸のふくらみをみせつけて、柚木のとなりに腰をおろした。ビールを注文した。グラスに口をつけて飲みながら、柚木の顔をじっとみつめた。無表情な目だった。
「済まなかったな。手間をとらせて。よく寄ってくれた。あゆみの顔を見て安心した」
柚木はご機嫌とりの口調になっていた。いままでなかったことだ。
「柚木さん、きょうはおかしいわ。いつもとちがう。人が変ったみたい」
「いらいらしているんだ。あゆみが酒屋の女になるかもしれないからな。酒屋はぱっとしない男だ。しかし金持だ」
「やめてよ。あんなおじいちゃんと私がどうかなると思うの。考えただけで気持わるいわ。あり得ないことです」
「おれを愛しているか、あゆみ」