「愛してるやん。けど、おどろいたわ。柚木さんが焼餅やいてくれるなんて。柚木さん、私のことそんなに好きやない思うてた」
あゆみはビールを飲みほした。これ以上ひきとめる気は、柚木にもなかった。
いっしょに腰をあげた。ホテルを出て、四ツ橋筋のほうへ歩いた。洋酒店主の待っているすし屋は本通りの西寄りにある。
右折すると、小さな神社のまえへ出た。両側のビルの影のなかに、提灯《ちようちん》に飾られた鳥居がぼんやりうかんでいる。柚木はあゆみの腕をとって境内《けいだい》へひっぱりこんだ。まっ暗である。影のなかに二人の姿は溶けた。
柚木はあゆみを抱き寄せた。くちづけにいった。あゆみは応じてきた。柚木の首に両手をまわし、反《そ》ってぶらさがるようにする。
右手を柚木はあゆみのコートのなかへすべりこませた。スカートのうえからさぐった。あゆみの体のやわらかな磁石に引き寄せられて、柚木の掌はそこへ重なった。ゆっくりと柚木は掌を上下に動かした。あゆみはため息をついた。腹をおしつけてくる。
柚木の体に快感が湧いた。あゆみが右手をのばしてきている。指がうごめいた。柚木は左手でファスナーをひきおろした。あゆみの手がなかへ入ってきて、とらえた。
掌の動きを柚木はつづけた。あゆみの手はからみついたまま動かない。そろそろと力をこめてくる。しばらくそうしていた。あゆみはため息をついた。体をくねらせる。
「もういくわ。これ以上はだめ——」
あゆみはささやいた。柚木のものをとらえていた右手をひっこめた。
あゆみは体をひいた。愛撫の手を、柚木はあゆみの肩のうえにおいた。
二人は歩きだした。境内を出てから二人は手をつないだ。柚木の右手の指を束《たば》ねるようにしてあゆみは掌におさめている。
「お土産《みやげ》、もらったわ」
横合から、あゆみは柚木を見あげた。
通りかかったタクシーを柚木はひろった。すぐに発進した。手をふるあゆみの姿をふりかえるひまもなかった。
北新地は一方通行の通りが多い。タクシーはコの字の経路で走り、あゆみと別れたすこし南側を通りかかった。いそぎ足で歩くあゆみのうしろ姿が目に入った。本通りのすし屋の方角ではない。さっき出たばかりのホテルのほうへあゆみは歩いていた。車が彼女を追い越す瞬間、柚木は目をつぶった。
家へ帰って、柚木はすぐに眠りこんだ。あけがた近く、めずらしく夢を見た。
均整のとれた、若々しい女の裸身が床にあおむけになっている。薄明のなかに首から上が溶けていて、顔立ちはよくわからない。
まだ充分に成熟していない女体だった。体の線に脆《もろ》い感じがある。乳房も尻もそれほど大きくはない。だが、ふるいつきたくなるほど形がととのっている。脚は優雅にのびきっていた。身長と脚の長さの割合は、柚木の世代の女のものではなかった。体の中央部には淡い影ができている。肌はかすかに褐色がかって、光沢《こうたく》にあふれていた。
眠っているようだが、女は目ざめている。ときおり手を動かしたり、片ひざを小さく屈伸させたりする。呼吸につれて、胸がゆっくりと上下に動いた。動きのたびに、肌の香りとぬくもりが周囲にひろがる。
柚木は女の足もとにひざまずいて見惚《みと》れていた。裸身の美しさ、若々しさに打たれた。どの部分をみつめても、柚木の胸には澄んだあこがれの感情がわいてくる。この女を崇拝し、讃美し、力のかぎり奉仕したいという気持になる。命じられれば、どんなことでもよろこんでするつもりである。だが、女はなにもいわない。柚木を意識しているのかどうかもわからない。薄明に顔をかくして、ただなまめかしく横たわっている。
あこがれの感情を柚木はおさえきれなくなった。女の脚にさわった。ゆっくりとなでさすった。なめらかな肌の感触に、柚木のほうが陶酔する。愛撫される側よりも愛撫する柚木のほうが濃い快感を味わっている。
もっと女を大切にしたい衝動に柚木はかられた。女の足にくちづけにいった。指を吸い、足裏の窪《くぼ》みを吸った。女の忍び笑う声がきこえた。足蹴《あしげ》にしてくる。女が反応してきたことで柚木はよろこびにふるえる。冷たい足裏の窪みにまた吸いついていった。
何分かのち、柚木は投げだされた女の両脚のあいだへせりあがっていた。女のふとももの内側に沿って、下から上へくちびると舌を這わせる。時間をかけて、何度もくりかえした。女の美しさ、若さが舌にしみこんでくる。弱々しい声がきこえた。女は柚木の髪をひっぱったり、ふとももで柚木の首をしめたりする。柚木が得ているのと同じぐらいの快感を女も味わいはじめたようだった。
最後の段階に柚木は近づいていた。貴重な女体へ押し入ってゆくなど、考えられないことだった。ひらかせて、彼はくちづけにいった。舌を使いはじめる。いちばん深い箇所に到達した安堵に柚木はかられた。もう思い残すことはない。もしこれ以上を望めるなら、溶けて女体に吸収されたい。女体の一部になってしまいたかった。
舌の愛撫を柚木はつづけた。やがて、下半身に快楽をおぼえた。柚木は自分の体に目をやった。裸の女が一人、あおむけになって横合から柚木の下へ這いこんできている。柚木の男をくちびるでうけとめていた。女の乳房は年老いている。下肢はふっくらして、曲っていた。腹にしわがある。薄明がにじんで、顔はぼやけている。
柚木は目をそらせた。不審の念と不満がこみあげてくる。
「律子さんだな。いつきたんだ」
柚木は声をかけた。なにしにきた、と訊くのは遠慮した。
「会いたかったわ。毎日想っていた」
上のほうで律子の声がきこえた。
柚木はおどろいた。さっきから柚木が奉仕している若々しい裸身が律子だったのだ。
「ごめんね。私、きょうホテルへいかれんようになってしもた」
腹の下にいる女はあゆみだった。
黄金色の陽光が室内にあふれた。
3
朝食をとっている柚木のもとへ、長女の裕子《ひろこ》が一通の書類をもってきた。二年上の女子学生の履歴書だった。
裕子は私立大学の英文科の二年生である。ESSに所属していた。履歴書の女子学生は経済学部に在籍し、やはりESSのメンバーである。その先輩を柚木の会社へ入れてやってほしいというのだ。
先輩の女子学生はマスコミ志望だったが、試験に失敗した。小さな旅行代理店に就職をきめた。だが、どうせ社会へ出るなら大きな組織に所属したいと考えるようになった。裕子の父が大企業の取締役だとだれかにきいて履歴書をとどけにきたのだ。世話になった先輩なので、裕子は断われなかった。
「無理だよ。うちは縁故採用はしない。新卒の採用はとうに終ったことでもあるし」
履歴書の写真を一瞥《いちべつ》して柚木はかぶりをふった。美しい女子学生ではなかった。
「そこをお父さんの顔でなんとかしてよ。その先輩、すごくいい人なのよ。頭はいいし、実行力はあるし。絶対有能な社員になる」
「もう男子でも難しいのに、女子は絶望的だな。高卒や短大卒ならともかく、大卒となると、役員会の承認が要《い》るんだ」
「お父さん、重役なんでしょう。おねがい、なんとかして。恩にきるわ。もし彼女が入社できたら、ESSにおける私のステイタスはすごいもんになるんやから」
履歴書をおしつけて裕子は逃げていった。
仕方なく柚木は履歴書を鞄におさめた。娘の頼みは拒《こば》みにくい。無理を承知で人事部へ補欠採用を申し入れなければならない。
長男の進《すすむ》が小遣いをねだりにきた。DCブランドのスーツを欲しがっている。あれを着ないと肩身のせまい場面があるという。当然のような顔で五万円奪っていった。
「今晩は早う帰ってくださいね。おじさんのお酒のお相手、私一人ではどうにもならないから。私も飲めればいいんだけど」
出がけに玄関口で妻にいわれた。
郷里の福島から叔父が出てくる。神戸に商用があるらしい。暮のこんな時期なのに、二、三日厄介になりたいといってきた。柚木の郷里の人間は都市に住む親戚の家を旅館代りに利用するくせがぬけていない。
みんな頼りにしてくれる。複雑な思いで柚木は迎えの車に乗った。家族に弱い顔は見せられない。男は家庭の頑丈な大黒柱でなければならない。柚木はそうだったつもりである。疲れたとも思っていない。だが、本人に自覚がないだけかもしれない。
以前の柚木は年に幾度か若い女の体に接するだけで、じゅうぶん気晴しになった。いまはちがう。欲深くなった。律子やあゆみとの係《かか》わりあいにそれが出ているような気がする。二人の女の体を自由にできて、ずいぶんめぐまれているはずなのだが、満たされた思いはふしぎになかった。苛立《いらだ》ったり、傷ついたりする場面が以前よりも多くなった。女を抱くことでは癒《いや》されない深い疲労を、柚木はかかえこんでいるのかもしれない。
会社へ出勤すると、経営会議が待っていた。柚木の担当する部門の業績は、わずかながら目標を下回っている。原因と対策をめぐって工場・管理部門の責任者たちと柚木は激しい議論をかわした。毎日、セールスや開発に駆けまわっている約三百名の部下たちの不満や要望を代弁しなければならなかった。
昼すぎからは部内の会議だった。二十名の管理職とおよそ三時間、話しあった。報告をきき、指示をあたえた。ときおりきびしいことばを吐いた。感情を部下にぶっつけたあと、自己嫌悪にかられる。社員をひっぱる側よりも、ひっぱられる側に自分は向いていると思われてくる。末席で参加する役員会や経営会議よりも、自分の主催する営業部門の会議のほうが柚木には負担が大きかった。
会議を終えて柚木は席にもどった。午後四時すぎだった。トレーに未決の書類がたまっている。柚木はデスクワークをはじめた。
あゆみから電話が入った。彼女の声をきいて、柚木は忘れ物を思いだした気分だった。先夜の同伴出勤から五日たっている。職場にいると、先夜のことがテレビドラマの場面のように他人事に感じられた。
「このあいだはごめんなさいね。あくる日、すぐ電話したんやけど、柚木さんは会議中いうことやったから」
あゆみの声はしおらしかった。
ビジネスで殺気立っているとき、柚木は私用電話にしばしば無愛想な応待をする。妻の菊枝はだから、めったに会社へ電話してこない。あゆみも柚木が電話に出ると、いつも何秒か様子をうかがうらしい。
洋酒店主との話しあいはどうなったか。柚木は訊いてみた。順調です。あゆみはこたえた。柚木はかすかに胸のうちがひきつった。
「ねえ、きょう同伴してくれへん。年内にもう三回ほどがんばると、私、トップクラスになれるの。柚木さんが私の切り札やねん」
あゆみは甘えた口調になった。
みんな頼りにしてくれる。光栄なことだ。柚木は笑った。気乗りしなかった。
「切り札はおれじゃないだろう。あの酒屋のおじいさんがいるじゃないか」
「またそんな。あの人はただの資本家なんやから。私、柚木さん以外の男性とは一人もおつきあいしてないのよ。信じてほしいわ」
「このあいだ酒屋が待っていた店、本通りの××ずしだったな。朝までやってるのか」
「四時ごろまでやってるわ。私らは二時まえに出たけど」
「嘘をいうな。あゆみはおれと別れてからZホテルへもどったじゃないか。部屋で酒屋が待っていたんだろう。わかっているよ」
タクシーがコの字形に迂回《うかい》したいきさつを柚木は話した。あゆみがZホテルへ入るのを見た、と嘘をいった。
「ちがうよ、ちがうよ。あれは——」
あゆみの声がかすれた。息のつまる気配が伝わってくる。
「弁解しなくてもいいよ。あゆみの気持はわかる。チャンスはつかんだほうがいい。酒屋とつきあってやれよ」
「————」
「きみさえよければ、われわれの仲は従来どおり継続しよう。おれはそれでもいい。愉快ではないが、辛抱するよ」
あゆみはしばらく沈黙していた。しばらくして、ため息をついた。
「ほんまに、そんなんでいいんですか」
あゆみは訊いた。安堵《あんど》の気配がなまぬるい風のように柚木の耳へおしよせる。
「かまわない。いい年齢《とし》をして焼餅でもないからな。大人のつきあいをしよう」
「よかった。私、柚木さんにわるくてわるくて。すごくなやんだんよ。あの晩も家へ帰って朝まで泣いたの」
あゆみの声は大きくなった。
すぐに事務的な口調に変った。ねえ、きょう同伴してよ。会いたいわ。時間とってくれへん。あらためてさそってくる。
多忙を理由に柚木は断わった。夜おそく店へいくかもしれない。つけ加えた。
柚木は受話器をおいた。苦い液が胸のうちにあふれている。くだらない小娘めが。彼は顔をしかめた。つばを吐きたかった。
半面、あゆみのしなやかな裸身が脳裡にうかんでいた。職場でこれだけあざやかにあゆみの体を思いうかべたのははじめてである。柚木は欲望にかられた。あゆみにうんざりしながら、今夜店へいくかもしれないと伝えたのは、そのためだった。嫉妬のおかげで、柚木はあゆみに新しい魅力を見出していた。先夜の経験でそれを思い知った。
午後五時半ごろ、柚木のデスクの電話が鳴った。受話器をとると、南部律子だった。
「あなただったのか。めずらしいな、こんな時間に」
柚木は両肩がかるくなった。
前回の逢《お》う瀬《せ》から十日あまりたっている。律子の風邪はなおっていた。澄んだ、さわやかな声にもどっている。三日に一度ぐらいのわりで律子は電話してきた。昼まえか午後三時ごろのことが多かった。
十二月二十一日は律子の誕生日である。その日にあわせて上京すると柚木は約束していた。確認の電話だった。
そのことで柚木は困惑していた。二十一日の午後、経営会議の予定が入った。上京する日を変えなければならない。
「すみません。誕生日に間にあわなくて」
「いいんです。誕生日なんて、いまや悲劇の日でしかないんだから。でも、二十三日までにお会いしたいわ。できるかしら」
「二十三日ですか。待ってください」
スケジュールを柚木は調べた。
二十二日は部の忘年会がある。二十三日は午前中、工場との打合せ会議があった。夕刻以降はとくに予定はない。
「二十三日の夜なら上京できます。あとは年末ぎりぎりにならないと無理だな」
「二十三日の昼にお会いしたいの。夜は私、成田へいかなければ——」
律子の夫は一年の三分の一は外国に滞在している。
正月を日本で迎える年もあり、外国ですごす年もある。後者の場合は、律子を呼びよせる習慣である。ことし律子の夫はマドリッドでクリスマスと新年をすごす予定を立てた。二十四日にマドリッドへ入れと律子に電話してきた。時差の余裕を見込んでも、律子は二十三日の夜日本を出ないと、現地のクリスマスイブに間にあわない計算になる。
「無理をいってごめんなさい。向うへいくまでにどうしてもお会いしたくて」
二十一日以前に時間がとれるなら、私が大阪へいってもいい。律子はいってくれた。
あらためて柚木は手帖を見た。夜のスケジュールはぜんぶ埋まっている。取引先との懇親会が多い。パーティもある。忘年会もいくつかあった。ほかの日は残業、土曜日曜は研修会とゴルフである。十二月の中旬以降は、自分の体が自分のものではなくなるのだ。
「まいったな。二十三日の夜しかチャンスがないみたいです。どうしようか」
「やっぱりだめ。がっかりだなあ」
律子はしばらくだまりこんだ。
マドリッド行きをやめようかな。彼女はつぶやいた。すぐに元気な声になった。
「私、向うへいくの止すわ。年末からお正月、京都へいく。柚木さんに会いに——」
「いや、それは無茶だよ。ご主人を心配させてはいけない。マドリッドへいきなさい」
いそいで柚木は制止した。年末から正月にかけて、情事の時間がとれる見込みはない。
「でも私、主人と十日暮すよりも、柚木さんと一日いっしょにいたいんですもの。ね、お正月に京都で会いましょうよ」
「最低の枠組は外さないほうがいい。スマートにやりましょう。わかりました。二十三日の昼の飛行機でそちらへいきます。なんとか都合をつけますから」
しばらく律子はためらったが、結局申し出をうけいれた。
銀座のホテルを律子が予約してくれることになった。電話が終った。律子の激情的な側面にふれて、柚木はうれしかった。半面、とまどいもあった。無分別な女にあこがれつづけるのはむずかしい。律子があまり積極的になると、すなおな憧憬の念がうすらいでしまうだろう。律子にはもっと優雅であってほしい。それでいて淫《みだ》らでもあってほしい。いつのまにか柚木は袋小路に入っていた。出口は見えない。薄明のなかを、手さぐりですすむより仕方がなかった。
その夜、柚木はあゆみの働いている店へ顔を出すのはやめた。律子との会話の余韻にひたって、自宅へ車を走らせた。福島の叔父がきていることを、自宅近くで思いだした。
二十三日は金曜日だった。朝からの会議が十一時で終った。余裕をもって柚木は空港へ車を走らせた。正午発の便に間にあった。体調不良で早退と秘書に伝えてある。
銀座のホテルのロビーの中央に律子は立っていた。笑顔で近づいてきた。淡いベージュの着物に小豆《あずき》色のコートを着ている。いつもより顔の彫《ほ》りが深くみえた。短い挨拶ののち、律子は電話をかけにいった。
すぐに律子はもどってきた。柚木の腕をとって玄関のほうへ歩きだした。午後二時である。いまから食事にゆく気なのか。
「わるいけど、つきあってね。車のなかで説明しますから」
白いベンツが玄関のまえに停まった。
運転手がおり立って扉をあける。律子がさきに乗った。柚木が座席に腰をおろすと、花の香りがした。色とりどりの蘭の大きな花束が助手席にある。
「Hさんが倒れたんですって。二、三日まえに同窓会の幹事のかたから知らされたの。病院は向島《むこうじま》らしいわ」
アル中になった作家志望の公務員の名を律子は告げた。
見舞いに律子はいきそびれていた。日本を発《た》つまえに義理をはたしておきたい。向島まで足をのばそうというわけだ。
「つきあうのはいいよ。しかし、二人そろって顔を出すのは悪趣味だな。おれは車のなかで待っている」
Hとは高校を卒業以来になる。柚木が見舞うのは、いかにも唐突だった。
「いいわ。待っててください。柚木さんといっしょでもおかしくないと思うけど」
柚木のしていた手袋を律子はぬきとった。
両手で柚木の右手をつつんだ。ため息をついた。もたれかかってくるようなことはしない。運転手の手前があるからだろう。
律子の横顔を柚木はみつめた。律子は上気している。目じりのしわは化粧でほとんどかくれている。高校時代の面影が、現実の横顔にかさなりはじめた。やっと律子に会えた、と柚木は思う。飛行機と車を乗りついだ疲労が、きょうは甘く感じられた。
病院に着いた。下町の表通りにある、古い三階建ての病院だった。駐車場にベンツは停まった。花束を手に律子は病院へ入った。
運転手に柚木は話しかけてみた。六十歳前後の品《ひん》のよい人物である。運転手のほうは、ことばをかわしたくない様子だった。柚木は目をとじて、体をシートにあずけた。
何分かたった。人の声をきいて柚木は目をあけた。車の扉があいている。律子と一組の男女がそばに立っていた。男はHだった。トレーナーを着ている。黄ばんだどすぐろい顔だった。女はHの妻なのだろう。
柚木は車から出ようとした。両手を突きだして、Hは制止した。
「わざわざどうも。遠慮しないで部屋にきてくれればよかったのに。なあに、すぐになおりますよ。一ヵ月もすれば社会復帰します」
Hは泣き笑いしていた。素人が見ても、絶望的な症状とわかる顔つきだった。
H夫婦に律子は挨拶した。予想したよりも元気そうで安心した、などといっている。律子は車に乗りこんだ。すぐに発進した。Hは小腰をかがめて見送っていた。
「わるいものを見てしまった。おれがきていることをいわないでほしかったのに」
「どうしても玄関まで送るというの。柚木さんのこと話さないわけにいかなかった」
律子は虚脱した表情だった。
急に両手で柚木の右手を握りしめた。甲に頬ずりする。呼吸がみだれていた。
「私が高校へ入ったとき、あの人、生徒会長だったわ。予算会議で音楽部の予算を削ったのよ。すごく削ったの。横暴だったわ」
どんな理由でだったか、予算会議でHは音楽部にきびしく当った。彼の弁舌にはどの委員も対抗できなかった。音楽部は合唱コンクールへの出場がとりやめになった。部の三年生たちが泣いて口惜しがった。律子はHに裏切られたような気がした。彼にあこがれる気持があったのだ。
「そんなこと、わすれていたのよ。あの人の顔を見て思いだしたの。わけがわからない。私、復讐したのかしら」
「そうさ。その一件を心の底でおぼえていた」
「いやな女ね私。執念深くて、陰湿で。こんなだとは思わなかったわ」
「すばらしいよ。そういうところがきみの魅力なんだ」
「どういうことなの。からかわれているみたい。私、いやな女じゃない?」
「いやじゃないね。自己批判できるところもすばらしい。またあこがれてしまった」
銀座のホテルへ着いた。いまから食事をする。家に帰って荷物を積み、七時に迎えにきてほしい。律子は運転手に命じた。
午後四時にすこし間があった。成田発午後十時半の飛行機に律子は乗る予定である。部屋でスーツに着替えてから、彼女は出発する。年末で空港が混むとしても、七時にホテルを出ればじゅうぶん間にあうはずだった。
二人は部屋へ入った。まだ陽が高い。柚木は窓のカーテンをあけようとした。律子がとんできて制止する。あかりがついて、室内は夜の光景になった。
柚木は律子を抱きよせた。あおむいて律子はくちびるをとがらせた。むかしの面影が色濃くあらわれる。長いくちづけになった。律子の呼吸がみだれてくる。
「ヨーロッパへいく日なのに、ちっとも浮き浮きしない。こんなことってあるのね」
苦しそうに律子はいった。着物のうえから柚木はふとももにさわった。
柚木はたかぶった。酒を飲まずに律子を抱くのははじめてである。律子と体がぶつかりあうたび、その部分が甘いひびきを立てた。着物のすそを割ってふとももにさわる。かわいた肌の感触がふるえるほど新鮮だった。
さきに柚木はシャワーをあびた。終ると、入れ替りに律子がバスルームへ入った。
柚木は腰にタオルを巻いていた。窓に近づいてカーテンをあけた。
六階の部屋だった。それでも下を見ると、高所恐怖症の発作がおこる。目まいがし、背中がざわざわと波立った。きょうは酔っていない。彼は納得した。いそいで窓を離れ、ベッドに横たわる。カーテンをあけたままだった。陽光が室内へ入ってくる。
陽光のなかで律子の裸身を眺めてみたい欲求にかられた。昼間なのに、律子の目じりのしわは目立たなかった。年齢によるおとろえを過大に考えていた可能性がある。律子の裸身は案外若々しいかもしれないのだ。
バスルームの扉があいた。律子が出てきた。裸身にバスタオルを巻いている。ふとももがなかば露呈していた。脚はやや曲っている。不恰好《ぶかつこう》なほどではなかった。
「いやあ。カーテンをひいて」
若々しい悲鳴を律子はあげた。
窓のほうへ律子は歩きだした。陽光に風圧がふくまれているかのように、途中で停まった。片手を突きだして陽光をさえぎる。顔をそむけ、体の向きを変えた。小走りにベッドへ近づき、毛布のなかへすべりこんでくる。
「やめて。明るすぎる」
肩まで毛布をひきあげようとする。
柚木は律子におおいかぶさった。くちづけにいった。毛布のなかで、律子の体からタオルを剥ぎとる。くちづけを終えて律子をみつめる。律子は目をとじて毛布のなかへもぐりこもうとしていた。化粧を落している。目じりにしわが刻まれていた。頬の線にも若い女のような張りがない。
だが、そんなにひどい顔ではなかった。風邪のときにくらべると、見ちがえるほど美しかった。血色がよい。肌に艶《つや》がある。目の下の窪《くぼ》みもない。みつめつづければ、高校時代の面影で律子は化粧するだろう。柚木は安心した。勢いに乗って毛布を剥がした。
律子は悲鳴をあげた。右手で乳房をかくした。陽光に白い体がさらけだされる。両ひざを折った律子の全身を柚木は一瞥《いちべつ》した。気力のぬけ落ちるのを意識した。
律子の肌は青白かった。太ってはいないが、体の線がゆるんでいる。肩も腕も尻も、どんよりと鈍い形態だった。乳房はひしゃげ、濃い小豆《あずき》色の乳首が指のあいだから覗いている。腹にしわがある。青白い脚から柚木は顔をそむけた。何本か灰色の脛毛《すねげ》があった。
ふいに柚木は怒りにかられた。両手で律子をかかえあげ、裏返した。獣の姿勢をとらせてみる。それでは物足りない。もっとみじめな恰好にしてやりたくなる。柚木は律子を横臥させた。自分の右脚を律子の左右のふともものあいだへこじいれる。律子の右脚をかかえて大きくもちあげた。彼女の股関節が、妙に明るい音を立てる。
「やさしくして。おねがい柚木さん、こんなのあなたらしくないわ」
顔をしかめて律子は哀願した。
たかぶっていたものが柚木は萎《な》えた。律子の体に欲望のしるしがなかった。
「カーテンをひいて。私、目がつぶれる。はやく暗くして」
渡りに舟だった。暗くする必要を、柚木のほうも感じていたのだ。
柚木はベッドをおり、窓のカーテンをひいた。その間に律子が室内灯を消した。スタンドの豆電灯を残して部屋は暗くなった。
ベッドに柚木はもどった。あおむけに寝ている律子とかさなりあった。右手をのばしてラジオやBGMのスイッチをさぐる。FM放送をさがしあてた。ゆるやかな絃楽器の合奏が流れる。だれの曲かよくわからない。柚木はおだやかな気分になった。
「変化をつけてみたんだが、うまくいかなかった。あなたはやっぱりマドンナなんだ。大事にされるほうが似合うんだよ」
律子の首すじから肩へキスを這わせる。
息づかいが律子は平常にもどった。両手を柚木の首にまわしてくる。
「会いたかったわ。せめて二十年まえに。太陽のもとでこんなふうにしたかった」
「おれはいつも会っているよ。三十年まえのあなたに。こうしていると会える。バージンを抱いているような気がする」
目が馴れてきた。闇の底に横たわる律子の裸身がぼんやりと形をととのえてきた。タイムマシンが出発した。青い林檎《りんご》の香りが律子の全身からただよいはじめる。
柚木は起きて律子の足もとへひざまずいた。裸身が仄白《ほのじろ》く固まってくる。胸が盛りあがり、腰はひきしまり、脚が優雅な線を描いた。若い律子の顔が闇のなかにあらわれる。ほほえんでじっと柚木をみつめた。
柚木は澄んだ感情をとりもどした。崇拝し、賛美し、奉仕したい衝動にかられる。脚をひらかせ、顔をふせていった。舌をおどらせる。律子の欲望のしるしが湧いてきた。深いため息を律子はついた。
律子は声をあげはじめた。ほっとして柚木は奉仕をつづける。律子の手がおりてきて柚木の手をさぐる。二つの手が握りあった。
「Hさん、きっと亡くなるわね」
握りしめながら、律子はいった。
4
年内いっぱいであゆみはそれまで働いていた店をやめた。暮から正月にかけて、自分の店を出す準備をするということだった。
柚木は暮のうちにあゆみと会うチャンスをつくれなかった。三十日にあゆみのマンションへ電話をいれた。
留守番電話がメッセージを告げた。開店の準備のため田舎へ帰る。新しい店の営業は一月二十日ごろになるだろう。どうぞよいお年を、という内容だった。
店をやるにあたって金の無心にでもいったのだろうか。あんな小娘がほんとうに酒場を経営するとは、まだ柚木は信じきれなかった。
家族とともに柚木は正月をすごした。初出勤すると、律子からエアメールがとどいていた。クリスマスから正月までマドリッドですごした。フラメンコが案外つまらなかった。これからリヨン経由でパリへ向かう。帰国は一月中旬の予定、と書いてあった。
夫と肩をならべて外国の街を歩く律子の姿を柚木は思い描いた。ふしぎに嫉妬は感じなかった。祝福したい気持だけがあった。夫の所有権を無条件で容認している。柚木自身が菊枝という女の夫だから、そうなるのだろうか。夫婦のつながりが性的な嫉妬の対象になるようなものでないのを、よく知っているせいもある。
上旬はまたたくまにすぎた。業務に追われる日々がもどってきた。しばらくして、会社気付で柚木に開店の案内状がとどいた。店の名は「いるか」。代表者は小林あゆみとなっている。案内状には店のありかを示す地図が印刷してあった。キタの酒場街の中心から、かなり離れた場所だった。
柚木はあゆみの住居へ電話をいれた。生き生きした声がきこえた。二、三日まえに和歌山から帰ったところだという。
柚木は祝いのことばをのべた。店の場所についての意見は口に出さなかった。こんなに早く計画の実現したことには、お世辞でなく敬意をあらわした。
「そうやねん。関口さんはこんなことに馴れてはるからね。手ぎわがいいの」
小売店主の名が関口であることを、柚木ははじめて知った。
不安定な気分になった。小売店主は酒屋さんから関口さんに昇格している。
「食事しようか。久しぶりで」
柚木は声がかすれた。臆病になった。
打てばひびくようにあゆみは応じた。柚木はほっとしたが、考えてみると、きょうから三日つづけて夜間の予定が埋まっている。四日目の土曜日の午後、会うことにした。場所と時間を二人は打ちあわせた。
土曜日、午後二時に柚木は約束のホテルへ着いた。休日出勤だと家にはいってある。チェックインをすませて酒場へいってみると、カウンター席にあゆみが腰をおろしていた。髪をアップにして、黒のスーツを着ている。三つ四つ年上にみえた。笑顔になると、たちまち幼い印象になった。
ビールで乾盃した。手短かに近況を語りあった。店の従業員の採用、改装、宣伝などの苦心をあゆみは語った。
「お客さん、きてくれるやろか」
正面を見てあゆみはふっと途方にくれた表情になった。
たぶん繁昌するさ。柚木は力づけた。上《うわ》の空であゆみはうなずいた。
一杯飲んだだけで二人は酒場を出た。ミンクのコートをあゆみは腕にかかえている。いっしょにエレベーターに乗った。
「ミンク買《こ》うてもろて、ほんまによかったわ。お店を出そうかいう女が安物着てたら、それだけでお客さん、いやになるやろから」
あゆみは腕を組みにきた。
十五階の部屋に入った。あゆみはすぐに窓のカーテンをあけはなした。街の風景を眺めている。柚木は窓辺を敬遠してベッドに腰をおろした。昼のあかりが室内にあふれる。ベッドのシーツが純白にかがやいた。
「さきに入りなさい」
バスルームを柚木はあごで指した。
あゆみはだまってクロゼットのまえに立った。服をぬぎはじめる。みるみる肌があらわになった。すべてをぬぎすてた。気取った表情で壁の鏡に向かいあう。柚木に目もくれず、バスルームの扉のなかへ消えた。
あゆみの肌を見るのは一ヵ月ぶりだった。じっとしていられない。柚木は服をぬぎすててバスルームへ入った。あゆみといっしょにシャワーをあびる。おたがいの体に石鹸を塗って、掌や体でこすりあった。あゆみは弱々しい声をあげた。うっとりと目をとじている。すこしも変っていない。
「酒屋の社長ともこんなことをするのか」
あゆみのわき腹から腰をなでさすって、柚木は訊いてみた。
あゆみは細く目をあけた。なにもいわない。質問の意味がわからない顔をしている。柚木はそれ以上訊く気をなくした。プライベート、ということばが頭をかすめた。
二人はバスルームを出た。ならんでベッドに横たわった。しなやかな裸身をあゆみはあますところなく陽光にさらしている。柚木はシャワーのあとのさわやかな全身を、思いきり上下にのばした。深呼吸をしてみる。
こまかな気づかいや演出が必要な律子との逢《お》う瀬《せ》にくらべて、なんと気がらくなことだろう。工夫もいらない。不能になるおそれもない。好きなように眺められる。やはり若い女の体がいちばんだと思われてくる。
柚木は上体を起した。くちづけにいった。目をとじたまま、あゆみは応じる。受け身のままうっとりしている。柚木はあゆみの耳へ息を吹きかける。あゆみの顔に笑みがうかんだ。柚木のくちびるが首すじへ移ると、身をすくめて笑い声を立てた。
どの部分も若くて美しかった。くちびるを移動させるたびに柚木は讃嘆させられた。乳房や腰や背中を舌で味わって陶酔する。あゆみの体があたたかい島のようにみえてくる。身をひそめる場所を彼はさがしていた。
ふとももに柚木はくちづけした。赤紫の小さな痣《あざ》に気づいた。胴とふともものつなぎ目にそれはついている。左側にだけ、三つならんでいた。
「どうしたんだこの痣は」
いわれてあゆみはわれにかえった。
痣をかくそうとするように両ひざを折った。が、すぐに足を投げだした。
「関口のおじさんにつけられたの。あの人、変なくせがあるねん。つねるの、そこを」
体を結合させて感きわまると、関口はあゆみのふともものつけねに爪を立てる。
強くつねる。どんな姿勢のときもそうする。苦痛であゆみは顔をしかめる。じっと関口はみつめて、顔を赤くしている。
「そういう趣味がある男なのか。よく我慢しているな、あゆみは」
「その程度は仕様ないと思うの。お金出してもろたんやから。けど、最初のときは大喧嘩したわ。噛みついたろか、思うた」
はじめてベッドをともにしたとき、関口は口による奉仕をあゆみに要求した。
あゆみは拒絶した。関口はあゆみの髪をつかんで自分の体へおしつけようとする。懸命にあゆみは抵抗した。関口の胸を引掻いた。ふとももに噛みつこうとした。あきらめて関口は二度と要求しなくなった。