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第三章 春の断層

作者: 当前章节:15370 字 更新时间:2026-6-23 00:12

 朝からの経営会議が午後二時に終った。柚木克彦は七階の役員会議室をまっさきに出た。下りのエレベーターに乗った。彼が責任者をしている事業部は三階にある。

 柚木は神経がたかぶっていた。けわしい顔になっているのがわかる。エレベーターのなかで、おだやかな表情をとりもどすつもりだった。うまくいかないまま三階に着いた。

 会議の終了まぎわ、経理担当の常務と柚木は激論をかわした。柚木の事業部内の一つの課が、いま新しい工業薬品の開発に取組んでいる。その薬品は発売後一年を経たのに、まだ黒字を出していない。撤退すべきだと常務がいいだしたのだ。柚木は反論した。あと半年でモノにできなければ責任をとる。見得《みえ》を切って開発継続をみとめさせた。

 柚木は自分の席にもどった。女子社員に茶をいれてもらって、一息ついた。トレーから書類をとりだしたが、読む気になれない。目が疲れている。指で瞼《まぶた》をマッサージした。最近、目が疲れやすくなった。老眼鏡が必要なのだろうが、かける気にはならない。老の字のつくものをうけいれると、たちまち全身がおいぼれてしまいそうな気がする。

 一人の女子社員がデスクのまえを通りかかった。美しい女の子である。気がつくと、柚木はその女の子の下半身にじっと視線を注いでいた。いそいで目をそらせた。疲れると、性的な刺戟に敏感になる。身近な女子社員が急になまめかしくみえたりする。生命力がまださかんであることを体が示そうとするのか。それとも、セックスのあとの快《こころよ》い眠りをもとめているのだろうか。

 あらためて柚木は書類に目を通そうとした。デスクのうえの電話のベルが鳴った。柚木は受話器をとった。ゆるやかな絃楽合奏のひびきを彼は感じた。南部律子の声がきこえたのだ。

「早いな。あれからもう一週間か。一週間が一日の感じですぎていきますね」

 柚木は苦笑して話しかけた。

 きょうは金曜日だ。先週の土曜日、柚木は東京で律子に会った。昼食をともにしただけで、別れて大阪へかえってきた。

「あした予定どおり浜松へいきます。柚木さん、ご都合はいかがかしら。ホテルはもうとっておきましたけど」

「わかりました。一時ごろに着くように行きます。泊るわけにはいかないけど」

「私もそのほうがいいの。夜はパーティに出なくてはならないから。でも、よかったわ柚木さんの予定がとれて。心配で、電話するのが恐いくらいだったのよ」

 体から力のぬける気配が伝わってきた。柚木はほほえんだ。

「どうして心配なんか。かならずいくといっておいたのに」

「でも、柚木さんはお忙しいから。土曜でもお仕事のあることが多いんでしょう」

「どんなに忙しくてもいきますよ。律子さんを抱きたいんだ。いまは欲望の鬼です。先週、プラトニックだったおかげで——」

「欲望の鬼だなんて。あまり期待させないでください。そういう鬼って私、好きなの」

 律子は笑った。目のまわりが仄《ほの》かに紅くなっているのがわかる。

 先週の金曜日、柚木は東京へ出張した。会議と接待で、その夜は律子と会う時間がとれなかった。土曜日の午後一時、都心のホテルで律子と待ちあわせた。食事のあと、いっしょに部屋へ入るつもりだった。

 三時まえに食事が終った。柚木はフロントデスクへ部屋をとりにいった。予約はしていなかった。昼間から満室になることはあるまいと思っていた。

 ところが部屋はぜんぶふさがっていた。ロビーの光景を見て、理由がわかった。着飾った若い女のグループが、あちらでもこちらでも談笑している。女子学生たちの謝恩会であるらしい。ついでにホテルへ宿泊する娘も多いのだろう。

 家族づれの客が何組もロビーをぶらついている。子供たちが駈けまわっていた。若い男女が腕を組みあってボーイに案内されてゆく。主婦らしい女たちのグループもいる。おまけに外国人の観光客の団体がチェックインの順番を待っていた。土曜日のホテルは市民公園のようなものだ。中年の男女が人目をしのんで会うための場所ではなくなっている。

 柚木は公衆電話のコーナーへ足を向けた。主立《おもだ》ったホテルへかたっぱしから電話をいれてみた。どこも満室だった。会社の名前を出せばなんとかなるホテルもある。だが、情事を社用にするわけにはいかない。舌打ちして柚木はレストランへもどった。律子に事情を話した。品《ひん》のわるいホテルを利用する勇気があるかどうか訊いてみた。

「だったら、きょうはお食事だけでお別れしましょう。そのぶん、このつぎのデートがたのしみになるわ」

 翳《かげ》のない笑顔で律子はいった。

 物足りなかったが、柚木は同意せざるを得なかった。律子の夫が、いま日本へかえってきている。夕刻には律子は帰宅しなければならない。いまからラブホテルをさがしたりしていると、ゆっくり情事をたのしむ時間がなくなってしまう。

「むかしは、都市ホテルを使うと多少エリート意識をもったものだったけど、時代は変りましたね。デートの場所を確保するために、マンションでも借りようか」

「ほんとうね。その方面にくわしいお友達に相談してみようかしら」

 そんな話のあとで、来週浜松で会おうと律子がいいだしたのだ。

 律子は若い演奏家で編成された室内管絃楽団を後援している。演奏会を計画したり、切符をひきうけたり、有望な楽員を留学させたり、仲間とともに活動していた。そのオーケストラがつぎの日曜日、浜松で演奏会をひらく予定だった。律子は前日、現地に出向く。よければ落合おうというわけである。

 一も二もなく柚木は承諾した。東京、大阪の中間地点で会えるのなら、手間の点で恨みっこなしである。一週間後に会える目処《めど》が立って、気分よく帰阪《きはん》することができた。

 確認の電話を律子はかけてきたのだ。あの日食事だけで別れたのが、柚木と同様心残りだったらしい。あすへの期待で胸をはずませている。そんな気配をかくさない人徳のようなものが律子にはそなわっている。

 あまり長話もできない。待ちあわせの時間と場所をきめて柚木は電話を切った。意欲をもってデスクワークにとりかかった。すぐに夕刻になった。

 六時まえ、小林あゆみから電話が入った。

「おねがいやねん。きょう私と同伴して。店の子らに恰好《かつこう》つけんならんさかい」

 あゆみの声は、妙になまなましくきこえた。すぐ近くにいるような気がする。

「きょうは勘弁してくれ。まだ仕事がある。それに、あした出張なんだ。早く帰って英気をやしないたい」

「ちょっと店へ顔出してくれるだけでいいの。ねえ、つきあって。助けると思うて」

 鼻を鳴らしてあゆみは事情を説明した。

 彼女の店にはいま手伝いの女の子が三人いる。求人雑誌の広告であつめた娘たちだった。彼女らにはまるで職業意識がない。平気で遅刻や欠勤をくりかえす。客をつれてくる努力はしない。きのうあゆみは、いまのままでは店を辞《や》めてもらうと彼女らに宣告した。

 ところがきょう、あゆみは午後二時まで寝すごしてしまった。おまけに友達があそびにきた。おしゃべりして、別れたところである。これから美容院へゆく。定刻の午後七時までに店へ入れそうもない。説教の翌日に遅刻では、いかにもしめしがつかない。

 だが、同伴出勤なら午後八時に入店してもよいきまりである。柚木をつれてゆけば、あゆみは威張って八時に出勤できる。

「ママになるのも大変だな。でも、そんな役目なら例のスポンサーが適任だろう」

「あの人いま福岡へいってるの。たとえあの人がいても、私、なるべく同伴しとうないわ。あんなダサイおじいちゃんはカナン」

 美容院は七時すぎに出られる予定である。

 それまで柚木が残業するのなら、会社のまえまで迎えにゆく。いっしょに店へ入ってほしい。あゆみは露骨に自分の都合をおしつけてきた。最近、たくましくなった。

 柚木は承諾した。残りの書類を処理するのに、七時すぎまでかかりそうだった。あゆみの店で一杯やって十時ごろ帰宅する。週末の道草としては手ごろである。

 柚木はビルの駐車場に連絡して、送迎用の社用車の運転手に帰宅してもらった。あとはデスクワークに没頭した。七時すぎにあゆみから電話があった。ビルのまえにきているという。柚木は帰り支度《じたく》をした。

 六時すぎると、ビルの正面のシャッターがおりてしまう。横合の通用門から柚木は外へ出た。ビルの玄関へまわってみる。人影はなかった。車が一台停まっている。

 あゆみは車をもっていないはずだった。念のため柚木は車に近づいてみた。車内灯がともった。運転席であゆみが笑いかけてくる。柚木は扉をあけて助手席に腰をおろした。

「いい車だな。買ったのか」

 柚木は車のなかを見まわした。ソアラの新車だった。

「なんとかね。長いことペーパードライバーしてたのが、やっと終った」

 あゆみは車を発進させた。運転の手つきはまだぎこちない。

「偉いな。経営順調というわけか」

「そうでもないの。開店直後はみんなきてくれるけど、これからが大変。けど、お店のママとしての体面があるでしょ。なんぼちんぴらママでも、車ぐらいもってないとね」

 きのうあゆみのマンションへ車が届いた。うれしくてあゆみは深夜から明け方まで乗りまわして、きょう寝すごしてしまったのだ。

 話しながら、北新地へ向かった。肥後《ひご》橋から渡辺橋にかけての混雑のなかで、何度か近くの車に接触しそうになった。おれが運転しよう。柚木は申しいれた。あゆみは耳を貸さず、ハンドルを握りしめていた。

 北新地からやや離れたビルの駐車場へあゆみは車をいれた。そのビルの社長はあゆみの店の客である。夜間だけ車をおかせてもらうよう、交渉済みであるらしい。

「柚木さん、今夜ホテルで待っててね。店が終ったらいくわ。久しぶりで——」

 車を停めてから、あゆみは柚木へ体をあずけてきた。切なそうに、ため息をついた。

 もう夜である。周囲のビルの窓あかりはほとんど消えている。駐車場へ人は入ってこない。車は安全な密室だった。

「きょうはだめなんだ。あした朝から出張なので、夜更《よふ》かしはできない」

 柚木はあゆみを抱き寄せた。かるくくちづけした。すぐにあゆみは顔を離した。

「あかんのオ。私、たのしみにしてたのに。出張って、どこへいくの」

「浜松。支店に用事があるんだ」

「ほんまかしら。信じられへんわ。柚木さん、デートとちがうの。そうでしょ。どうも最近、変な気配がするわ」

「なにをいってるんだ。あゆみとはちがうよ。おれはあゆみ一人だけなんだから」

「なにが一人よ。最初から奥さんがいてはるのに。私、やっと柚木さんと五分五分《ごぶごぶ》の関係になったとこよ」

 あゆみは柚木の首に両手をまわした。

 くちづけにきた。あゆみのしなやかな体に一種の気迫がこもっている。欲望にかられているのがわかった。

 店を出すにあたって、あゆみは出資者である洋酒店の社長と体の関係をもった。そのことで柚木にさほどうしろめたい様子をみせなかった。いま理由がわかった。体の関係のある相手の数を彼女は誠意の基準にしている。

「きょう私、ほしいねん。生理まえやから」

 抱きついたまま、あゆみはささやいた。柚木の耳に息を吐きかけてくる。

「生理まえか——。だとしても、もっとほかにいいまわしはないのかね」

 柚木は苦笑した。腕のなかのあゆみの体がしだいに大きく感じられてくる。

 あゆみの手がさぐりにきた、柚木もさぐりにいった。柚木は焦燥《しようそう》にかられた。あゆみは固い下着を身につけている。

「ホテルの部屋をとろうか。一時間ぐらい遅刻してもいいだろう」

「ねえ。部屋で待ってて。終ったらすぐにいくわ。私、八時には店に入らんと」

「あした早いんだ。店が終ってからデートすると、帰りが二時三時になる。無理だよ」

「いじわる。そしたらここで——」

 柚木のズボンのファスナーをあゆみはひきおろした。

 手をいれて、動かしはじめた。柚木の体が急速に若々しくなった。柚木はじっとしていた。あす浜松で、南部律子に会わなければならない。若いころとはちがう。いまあゆみとあそんだら、律子を抱く能力が残るかどうか心配である。

 あゆみはやがて手を離した。靴をぬぎ、下着類を脚からぬきとった。窮屈そうに這って柚木のひざのうえに移動してくる。うしろ向きに、馬乗りになった。

「自分の車のなかでしてみたかってん。柚木さんに第一号をあげるのよ」

 柚木の手をとって、あゆみはスカートのなかへ誘導した。充分にうるおっている。

 あすのことはわすれよう。柚木は決めた。シートの背を倒した。慎重にあゆみは体を沈めてくる。柚木はあゆみのなかへ入った。

 あゆみは動きだした。最初はゆっくりと、すぐにあわただしくなった。あゆみは両手を柚木のひざについて、体を浮かせかげんにしている。柚木は右手をあゆみのまえにまわして、指で刺戟をあたえた。自分をかり立てるように、あゆみは声をあげつづける。

 ものの五、六分であゆみは坂をのぼりつめた。呻《うめ》いて、背を丸くした。動かなくなった。さらに柚木は指をつかってみる。痙攣《けいれん》してあゆみは柚木の右手をおさえた。

 体力を残したまま、行為が終わるのではないか。ひそかに柚木は期待した。が、あゆみは一息いれて、また体を揺すりはじめた。右手を下からのばして、男性の下のものをさぐりにくる。柚木さん、絶対にいかせるからね。あゆみの指がささやいていた。

 まもなく柚木は耐えきれなくなった。あゆみにしがみついて、終った。おどろくほど深い快感があった。しばらく身動きできないくらいだった。

 やがてあゆみは運転席へもどった。出勤のための身づくろいをはじめる。車内灯をともして、手鏡に見入った。

「最高やったわ。自分の車のなかって、新鮮で、すごく刺戟があるわね」

 あゆみが話しかけてきた。

 柚木はだまっていた。快楽が深かったぶん、疲れも重かった。

「柚木さん、車のローンすこし助けてね。毎月やなくてもいいから。おねがいしまーす」

 独《ひと》り言《ごと》のようにあゆみはいった。顔をななめに向けて手鏡を覗《のぞ》いている。

 柚木は苦笑した。あゆみを可愛いと思う気持が急速にしぼんでいった。

 二人はあゆみの店へ午後八時に入った。女の子たちに範を示して、あゆみは胸を張っていた。店にはまだ一人も客がいない。開店直後の義理や物珍らしさによる繁昌が、一段落したところのようだ。

 カウンターで柚木はビールを飲んだ。となりにあゆみが腰をおろした。三十分ばかり、とりとめない話をした。

 三人づれの客が入ってきた。あゆみはそちらへとんでいった。さらに二人づれの客がやってきた。カラオケがはじまる。あゆみは二組の客への応待でいっぱいになった。

 柚木は立って店を出た。タクシーに乗ると、明日律子と会えるよろこびがしずかに湧いてきた。あゆみを抱いたおかげで、体がすきとおったような状態にある。律子とのセックスがうまくゆくかどうか、不安がきざした。なんとかなるさ。柚木はつぶやいた。

 午後一時に柚木克彦は浜松へ着いた。

 タクシーで約束のホテルへ向かった。市内でも一、二の大きなホテルである。

 柚木は玄関からなかへ入った。東京や大阪のホテルに負けない、広いロビーがそこにひらけた。地方へきた、と柚木は感じた。ロビーの人影がすくない。謝恩会に出た女子大生も、子供づれの夫婦も、外人の団体客もここには見当らない。待ちあわせらしい何人かの男女と、披露宴への出席者らしいグループが一つ目につくだけだった。

 白いスーツを着た南部律子が、中央のベンチから腰をあげた。ほほえんで手を振った。こちらへ歩いてくる。姿勢の良い歩きかただった。長い髪が肩で揺れている。

「お昼ごはん、もう済みました」

 会釈して、律子は訊いた。上気して、ふっと目をそらせた。

 柚木は十時ごろブランチを済ませて家を出てきた。腹は空《す》いていない。律子も同様だという。さきに観光に出ることにした。

 二人はホテルを出た。駐車場にある白いソアラのほうへ律子は歩いた。駅の近くでレンタカーを用意してきたのだ。三十分まえに着いて、部屋に荷物をおいてあった。

「富豪の奥さまに運転ができるのかな。ぼくがやりましょうか」

「いいえ、私にさせて。たまにハンドルを握らないと、反射神経がにぶくなるわ」

 柚木は取締役に昇進してから、社の車で送り迎えされるようになった。休日にはタクシーを利用する。ここ一年のあいだに、二、三回しか運転をしていない。

 律子の運転で出発した。土曜なのに、道路は車で混雑していた。人口のわりに、ひろい道路がすくないようだ。

 律子はバッグからカセットテープを出してデッキにいれた。のどかな管楽器のテーマにつづいて、オーケストラの流麗な演奏がはじまる。無数の金箔のようなピアノの音がそのうえに噴《ふ》きこぼれた。華やかな音が、車のなかにひろがった。息を吸いこんで、柚木は律子の顔をみつめた。

「サン・サーンスよ。コンチェルトの一番。ご存知でしょう」

「ききおぼえはあります。このピアノ、あなたですか」

「まさか。からかわないでください。アルド・チッコリーニ。粋《いき》な演奏をする人よ」

 しばらくして市内を通りぬけた。浜名湖へ向かう自動車道路へ入った。

 くもり空だが、行楽の車が多い。ほとんどの車の窓から子供の顔がみえる。犬をつれている家族もあった。若い男女の乗る車が、何度も柚木たちを追い越してゆく。柚木は自分たちが若い恋人たちの一員であるような気がしてきた。運転する律子の横顔に見入った。冷たい感じのするほど、ととのった横顔である。だが、肌に健康な紅みがさしていた。髪にもくちびるにも、濡れたような光沢《こうたく》がある。柚木は、律子の横顔に顔を寄せた。おだやかな化粧品の香りを吸いこんだ。

 周辺の家々がまばらになった。木々や畑地の緑があざやかである。蜜柑《みかん》の木が多い。桜の季節は終ったところで、木々の枝に点々と赤い芽が付着したようになっている。ところどころ菜の花畑が目についた。レンタカーのソアラは、埃《ほこり》っぽい街を離脱して、遠い外国へ向けて疾走しているようだった。

 途中、酒店を見つけた。柚木は車を停めてもらって、酒店へ入った。缶ビールの大きなやつを三本買って車にもどった。飲みながらのドライブになった。律子にすすめたが、彼女は頭を横にふった。

 やがて、左手に湖がひらけた。平らかなようだが、湖面はわずかに揺れている。水は思ったほど澄んでいない。琵琶湖と似たようなものだ。海苔《のり》の養殖の棚が、浅瀬に枯木の林のように突き立っている。ところどころ小舟が浮かんでいた。小舟には黒い服の男が一人ずつ乗って働いている。モーターボートの航跡が沖に繃帯《ほうたい》のように浮かんでいた。

 眺望はひろびろとしていた。冷たいビールが柚木ののどにしみこんだ。かるい目まいとともに酔いがおそってくる。柚木は窓硝子《ガラス》をおろして、風を呼びこんだ。掌《てのひら》をかざして風をうける。酔ってタクシーで帰るとき、いつもそうする。酔いがかるくなるのだ。

 大きな橋をわたった。カーブにさしかかった。はずみに律子の腕が柚木の腕に密着した。しばらく離れない。律子の体の重みが伝わってきた。

 律子の脚に柚木は目をやった。白いスカートのなかから、やさしい感じの脚線がのびている。ひざは心もち尖っていた。白透明のストッキングを律子ははいている。

 柚木は胸をつかれた。律子の脚を見ると、いつも柚木はおちつかない気持になる。脚からなにか性的なエネルギーが放射されて、柚木の欲望を呼びおこすかのようだった。きょうはそれがない。律子の脚はマネキン人形の脚のように無表情である。脚が死んでいる——そんなふうに柚木は感じた。

 律子の脚が死んでいるわけではない。柚木の欲望が死んでいるのだ。そういえば柚木は律子の体をほとんど意識せずに、湖の風景に気をとられていた。ふつうなら、ありえないことだった。律子と二人だけで車に乗っているのだ。雌とともに密室にとじこめられた雄さながら、柚木は律子の体の気配を吸収するはずである。

 やはりあれか。ゆうべあゆみを抱いたのがわるかった。柚木はのどの奥が鉛を呑みこんだように重くなった。年齢をとったのだ。数年まえまでは、こんなことはなかった。女が変れば、欲望が湧いた。女が変り、日が変って、それでも欲望が死んでいるようなことは絶対になかった。いつのまにか事情が変った。仙人のようにおだやかな気持で、律子のそばで風景をながめている。

 一時間近く車は走った。湖北の温泉町に着いた。湖畔のレストランと道ひとつへだてた駐車場へ律子は車を乗りいれた。ケヤキの林が三方から駐車場を囲んでいる。

 車が停まったとき、柚木は律子のひざに手をおいた。欲望にかられたのではなく、欲望をかき立てるためだった。ふとももをつかんで、内側をさぐった。

 律子はほほえんで柚木をみつめた。

「ビール、みんな飲んでしまったのね」

 律子は柚木の右手をおさえた。

 ふいにひきつった表情になった。抱きついてくちづけにくる。

 律子の背中を抱いて柚木は応じた。腕に力をこめた。舌で舌をさぐった。律子の体は熱くなっている。呼吸がみだれはじめる。つりこまれて柚木は、体のなかで欲望のかすかな焔が《ほのお》ゆらめくのを感じた。柚木は安心した。律子と二人きりで部屋に入れば、欲望がよみがえるにちがいなかった。

 湖の見えるレストランで食事をとった。ブルゴーニュ産の良質なワインがあった。料理には感心できなかったが、ワインで救われた。風景と会話をたのしんだ。高校時代の思い出話や、同窓会の人たちの噂話が多かった。

 やわらかなトランペットの音がきこえた。なまの音である。だれかがつっかえながら、「アニー・ローリー」を演奏している。二人は顔を見あわせた。高校の音楽の教科書に出ていた歌だった。レストランの建物の右手から音は流れてくる。窓のない側だった。

 律子は立って、湖に面したベランダへ出ていった。音のほうを見ている。こちらを向いて手招きした。柚木もベランダへ出た。

 五十メートルばかり右手にマリーナがあった。堤防のうえで中学生らしい少年がトランペットを吹いている。姿勢よく沖に向かって立ち、頬をふくらませていた。力が入ると、顔が赤くなる。音がときおり苦しげにふるえた。少年は大きく息を吸った。

「かわいいじゃない。きっと学校のブラスバンドに入っているのよ」

 律子は柚木をふりかえった。

「おれは嫉妬を感じるね。中学高校のころは楽器どころじゃなかったから。音楽が好きなやつは軟派だといわれた」

「そうね。田舎だったものねえ。楽器もなかったし、先生もいなかった。私もあの子がうらやましいわ」

「きみはピアノをやっていたじゃないか。めぐまれた環境にいたんだ」

「先生がいなかったわ。高校時代、いい先生についていたら、私だって芸大へいけたと思うの。考えると口惜しくなる。父があの時期、田舎に転勤さえしなければ」

 四歳で律子はピアノをはじめた。

 東京に住んでいた。小学校を経て中学二年までは優秀な先生に習った。将来毎日コンクールに挑戦するつもりだった。

 中学二年の秋、採鉱技師だった父親が東北の鉱山町へ転勤になった。律子も父母について鉱山町の社宅へ移ってきた。いいピアノ教師がいないのはわかっていた。寄宿させてもらえる親戚が東京になかったのだ。

 月に一、二度、仙台へレッスンをうけにいった。自分なりに練習もした。だが、高校を卒《お》えるころになっても、芸大合格にはほど遠い水準にしか達しなかった。

「知らなかったな。律子さんにそんな無念の思いがあったなんて」

 柚木は律子をみつめた。律子にたいする理解が一気に深くなったと思う。

「楽器を習いたいっていう柚木さんの気持が、私にはよくわかるの。だから、フランスでオーボエを買ってきたのよ。ちゃんと練習していますか。あの子みたいに」

 トランペットの少年を律子は指した。

「原則として毎朝一時間。実状は週に五日がせいぜいです」

 柚木は頭をかいた。

 プロの奏者から月に二度レッスンをうけている。毎朝、出勤まえに練習する。つい寝すごす日がときどきある。腕前はまだ少年のトランペットに遠くおよばない。

「欠けた日があったら、そのぶんを土、日にカバーしてください。がんばってね。ことしのクリスマスに成果をきかせてもらいます」

 柚木の背中を律子はたたいた。

 湖をわたる風が冷たかった。「アニー・ローリー」に送られて二人はレストランへもどった。ワインのボトルを柚木はほとんど一人で空《あ》けてしまった。もう一本とりよせて、律子にすすめる。律子はためらった。帰りのドライブを心配している。

「酔ったら、そのへんのホテルで休んでいきましょう。すぐにさめますよ」

 柚木にいわれて律子はグラスをとった。話しかたがなめらかになった。

 二本目のワインを半分空けて、二人は店を出た。律子の制止をふりきって、柚木は運転席に腰をおろした。律子を助手席に乗せる。

「ほんとうに大丈夫なの。柚木さん、相当息切れしているわよ」

 律子が訊いた。面白がっている表情で、柚木の顔を覗きこんだ。

 しばらく走ってモーテルを見つけた。空いているガレージへ柚木は車をいれた。階段をのぼって部屋へ入る。せまい部屋にダブルベッド、応接セット、テレビ、冷蔵庫などが詰めこまれている。若者向きのちゃちな部屋だが、酔っているので柚木はさほど違和感をおぼえなかった。

 柚木はベッドに体を投げだした。息切れを指摘されて、不安にかられていた。まったく自覚していなかったのだ。しばらく動かずに呼吸をととのえるつもりだった。

「モーテルって、こんなふうになっているの。なにもかもかわいいわね」

 律子は目を大きくして室内を見まわしていた。

 従業員が料金をうけとりにきた。まごつきながら律子は支払った。うきうきしている様子なので、柚木は支払いを彼女にまかせた。

 律子はバスルームへ入った。湯の支度をする。かわいいお風呂ねえ。嘆声をあげて出てきた。冷蔵庫からコーラを出して、ベッドへやってきた。一本ずつ二人は飲んだ。

 窓のカーテンを律子はあけた。湖が見える。それがこのモーテルの取得《とりえ》のようだ。

「このへんにマンション借りましょうか。週末に落ちあうのにちょうどいいわ。夏がすばらしいはずよ。私、クルーザーの運転を習おうかしら。以前から運転したかったの」

「おくれてきた太陽族か。それもいいかもしれないな。なにごとも経験だ」

「テナント募集の広告をどこかで見たような気がするの。ほんとうに私、計画してみるわ。このへんに隠《かく》れ家《が》があれば最高だもの」

 いいながら律子は立ってバスルームへ入った。湯の降り落ちる音がとまった。

 律子がもどってきた。風呂をすすめる。ゆずりあったのち、柚木はベッドをおりた。脱衣場がない。ベッドのそばで服をぬいだ。

 柚木は風呂につかった。手足をちぢめないと入れない、小さなバスタブだった。さっさと体を洗って外へ出た。タオルを腰に巻いてベッドに横たわった。代りに律子がバスルームへ入る。しばらくして、わずかに扉があいた。たたんだ律子の衣類が、扉の隙間《すきま》から外へ押し出された。

 一風呂あびて、息切れはなくなった。だが、酔いは柚木の全身にしみわたっている。手足に力がなく、しかも重い。欲望はほとんどなかった。男性のかすかな緊張感だけが、いまの柚木のよりどころである。

 律子はなかなかバスルームから出てこなかった。柚木はうとうとした。暖く重いものに圧《お》されてわれに返った。目をあけたとき、口を律子のくちびるでふさがれた。あたたかいナメクジがうごめいた。頭を小さく左右にふって、律子はくちびるをおしつけてくる。湯あがりの湿った肌の感触が、ようやく柚木の体に伝わってきた。

 二人の顔が離れた。律子は柚木と体をかさねている。やや頭をひいて、柚木の顔を見おろそうとした。体に巻きつけていたタオルから、右の乳房がこぼれた。張りをなくした、乳首のくろずんだ乳房である。ゆっくりと律子はそれをタオルの内へもどした。最初のころならもっとあわててかくしたはずである。

「ああ、会いたかった。うれしい。こんな気持になったの、生れてはじめてよ」

 ささやいて律子は頬ずりしにくる。

 苛立《いらだ》たしく体を揺すった。情熱をもてあましている。柚木の肩や胸にくちびるを這わせた。律子の横顔を柚木はみつめた。頬にむくんだ感じがある。目じりのしわが赤褐色をしていた。首すじにもしわがあった。

 明るい部屋は不都合だった。窓のカーテンは布がうすい。ひいても部屋は暗くならないはずだった。柚木は目をとじて、高校時代の律子の顔を脳裡に描きだした。手さぐりで律子の体からタオルを剥《は》ぎとる。腰とヒップを掌でさぐった。欲望をかき立てる。柚木の体のタオルはすでにとり去られていた。

 しばらく二人はたがいに背中や腰やふとももをさぐりあった。双方ともなにか苛立っている。なにかをさがしている。律子の体が柚木の脚のほうへ移動をはじめた。ふとももに彼女は馬乗りになった。上体を倒してきて、男性を口にふくんだ。しばらくして、手でもてあそびはじめた。柚木は上体を起して、律子をひきよせる。男性が律子の望んでいるような状態にならない。

 まだ希望はすてていなかった。律子の体を愛撫するうち、欲望は回復するはずである。律子を押し倒した。ひらかせて、その中央へ顔を伏せていった。舌を泳がせ、指も動かした。最初は目をあけて、すぐにとじた。

 同時に柚木は瞼《まぶた》までが暗くなった。律子が毛布で柚木の頭ごと自分の腹を覆《おお》ったのだ。柚木は気がらくになった。あらためて高校時代の律子の顔を思い描いた。

 音楽教室からピアノの音がきこえた。校舎の廊下を柚木は通りかかった。サッカーのユニホームを着ていた。泥だらけである。右ひざに巻きつけた手拭いに血がにじんでいた。雨でゆるんだグラウンドでころんだ拍子に、石へこすりつけてしまったのだ。練習を早あがりして、一人で部室へ帰るところだった。

 音楽教室の扉を柚木は細目にあけた。すぐ前にグランドピアノがある。扉に横顔を向けて南部律子が練習曲を弾《ひ》いていた。ほかにはだれもいない。柚木は息苦しくなった。律子と二人きりで部屋にいる心地である。

 演奏など耳に入らない。律子をみつめた。律子は目を大きくして楽譜を追いながら弾いている。明るく緊張した面持《おももち》である。髪が肩に垂れていた。ときおり上体をかたむけたり、天井を見あげたりして弾きつづけた。

 セーラー服の胸がやわらかそうにふくらんでいる。かすかな甘い香りと、律子の体温が外へ洩《も》れてきた。鍵盤のうえで手指がおどる。神わざのような動きなので、女の子の手という感じがしなかった。ペダルをふむ律子の脚を柚木はみつめた。白いソックスに白いズック靴を律子ははいている。わずかに脚がみえる。そこを見ていると、セーラー服に覆われた体のかたちがぼんやりうかんでくる気持になる。

 性を意識するようになって以来、女の裸というものを柚木はまだ見たことがなかった。イメージを形成する手掛りがなかった。セーラー服の中身は、得体《えたい》の知れない、白くてやわらかな物体にすぎなかった。その物体は強い磁力をもっていた。近くに立っているだけで、柚木は律子に吸い寄せられそうになる。磁力に皮膚をくすぐられてたかぶってくる。律子の脚に柚木は見入った。ふくらはぎに噛みつきたい衝動にかられる。

 とつぜん扉が内側からひらいた。おどろいて柚木はあとじさった。

 音楽の女教師が顔を出した。律子ひとりだと思ったのに、女教師がなかにいたのだ。扉の隙間からは視界に入らない場所にすわって演奏をきいていたらしい。

「どうしたのよ柚木さん。聴きたかったらなかへ入ればよいのに」

 邪心のない笑顔で女教師は話しかけた。

 律子は演奏をやめた。こちらを見てほほえんだ。柚木は悪事の現場を見られた思いである。泥だらけの自分の恰好を意識した。目がくらむほど律子の顔がまぶしかった。ふしぎな昂奮で体がふるえた。

 なにか弁解して柚木はそこをはなれた。痛めた右脚をひきずって走った。サッカー部の部室へ逃げこんだ。殺風景な汗くさい部屋のベンチに腰かけて、息をついた。ピアノの音がきこえてくる。扉の隙間から洩れてきた律子の香りと体温がよみがえった。柚木は自慰をはじめた。

 くちびると舌の奉仕をつづけながら、柚木は片手で律子の脚をさぐった。とくべつすばらしい感触ではなかった。中年女の平凡な脚だった。扉の隙間から苦しいほどあこがれてみつめた脚の実体がこれだった。べつに落胆はしない。人生なんて、こんなものだ。

 律子の呻《うめ》き声がきこえた。柚木を迎えいれたいという意味のことを訴えている。耳ざわりだった。柚木は奉仕に精魂をかたむけた。律子の体が波打ちはじめる。呻き声が高くなり、断続して消えた。律子は両脚を堅くとじて動かなくなった。

 毛布のなかから柚木は這いだした。律子とならんであおむけに寝た。曲りなりにも律子を頂上へおしあげて、一安心である。どっと酔いがまわってきた。眠くなった。

「あんなに飲まなければよかったのに。それに、柚木さん疲れているわ。私たちの年齢になれば、だれだってそうでしょうけど」

 柚木の腹に律子は毛布をかぶせた。

 掌で柚木の胸をなでさすった。柚木は汗ばんでいる。律子は汗をかいていない。

「ふだんは意識しないけど、体は正直だな。律子さんには済まないことをしました」

「そんなこと。私はあれで充分よ。あんなにやさしくしてくれて、うれしい」

 律子は寄りそってきた。

 すこし眠りなさい。律子はささやいた。うなずいて柚木は目をつぶった。

 そのまま柚木は眠った。ワインに誘発された、深い眠りをむさぼった。

 やがて柚木は物音で目をさました。律子がベッドをおりてバスルームへ入っていった。午後四時半である。六時からのパーティに律子は顔を出す予定だった。交通渋滞を考えると、五時には出発するほうが無難である。

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